はてなキーワード: STATEとは
ジョナサン・フランゼンとデイヴィッド・フォスター・ウォレス――その時代を代表する二人のアメリカ人作家――はいずれもアメリカ中西部で育った。フランゼンは、ミズーリ州ウェブスター・グローブズで過ごした子ども時代について、「まさに真ん中の中の真ん中。そこには家族と家と近所と教会と学校と仕事しかなかった」と振り返っている。一方、両親とも大学教授だったウォレスは、イリノイ州アーバナで青春時代を過ごした。そこは「穀物サイロと戦後型住宅が並ぶ小さな町で、住民たちは農業保険や窒素肥料や除草剤を売り、近くのシャンペーン=アーバナ大学に勤める若い研究者たちから固定資産税を徴収するくらいしかしていなかった」土地だった。
二人は、セオドア・ドライサー、アーネスト・ヘミングウェイ、ハロルド・ブロドキーらに連なる系譜に属している。地方的で中西部的な背景ゆえに近代社会の衝撃に備えられていなかった作家たち、あるいは逆に、その地方性ゆえに芸術家特有の斜めからの鋭い感受性を身につけ、その衝撃に向き合うことができた作家たちの系譜である。
二人の年齢差は三年にも満たず、扱う題材もよく似ていた。テクノロジー、読者との関係、そしてポストモダニズム文学の曖昧な遺産について、それぞれ独自に格闘していた。そして両者は共通して、小説は依然として人生の「切実な問い」に語りかけるべきだと信じていた。そうするなら、小説は大量娯楽とマクドナルドの時代にあってもなお生命力を保てる、と考えていたのである。
しかし、その一方で二人は驚くほど異なる作家でもあった。同時代に似たテーマを扱った作家同士とは思えないほど、本質的に違っていた。一般には、その違いは文体の違いや、「リアリズム」に対する姿勢の違いとして説明されてきた。
フランゼンは初期にはポストモダン的な構成を試みたものの、現在では伝統的リアリズム作家とみなされている。批評家ベンジャミン・カンケルの言う「永続する小説」の代表格であり、対話、心理描写、三人称語りを「いまや古典的に思える均衡」で組み合わせる作家だ。一方ウォレスは、ゼイディ・スミスによって「リアリズムに挑戦する前衛作家」の一人に数えられている。入り組んだ脱線、渦を巻くような物語構造、脚注の中の脚注――そうした特徴によって、彼はモダニズムあるいはポストモダニズムの系譜に置かれてきた。批評家ジェームズ・ウッドも、あるヨーロッパ実験文学作家の書評で、ウォレスを「単なる文法的リアリズム――現実を整然とした単位に切り分けるリアリズム――とは相容れない作家」の一人として挙げている。
しかし、こうした区別だけでは満足できなかったのか、あるいは「単なる文法的リアリズム」という見方への違和感があったのか、フランゼン自身は何度もウォレスとの違いについて語ってきた。その代表例が2002年の評論「Mr. Difficult」であり、さらに翌年には『The Paris Review』のインタビューでもこう語っている。
「私たちの関係には、一方が芸術のための芸術を追求し、もう一方が現実社会の中で生きようとする作家である、という競争関係が取り憑いていた。」
そして2011年4月18日の『The New Yorker』に掲載された、大きな注目を集めたエッセイ「Farther Away」で、フランゼンはさらに新しい区別を提示する。しかもそれは、それまでで最も単純な区別だった。
二人の本当の違いとは、フランゼンは他人を気にかける人間であり、ウォレスは根っからの自己愛的な嫌な奴だった――というのである。
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もちろん、この要約だけを聞けば極端すぎると思えるだろう。そして実際、ある意味では誇張でもある。しかし同時に、『Farther Away』を読んで誇張した物言いに誘われたのは、私だけではない。このエッセイは、二十年以上に及んだ二人の文学的友情の総決算とも言える作品になっている。
フランゼンは、自分とウォレスの関係を「比較し、対照し、そして兄弟のように競い合う関係」と表現している。その始まりは1988年夏だった。ウォレスが、フランゼンのデビュー長編『The Twenty-Seventh City』を読んで感銘を受け、ファンレターを送ったのである。
実際に二人が会ったのは1990年だった。その間が空いた理由についてフランゼンは、「後になって理由が分かった」と書いている。つまり当時のウォレスは薬物依存の問題を抱えていたのである。
実際に会ってみると、手紙のやり取りほど親密ではなかった。フランゼンは振り返る。
私はいつも、自分が十分に面白く、十分に頭がいい人間だと証明しようともがいていた。
一方ウォレスは、数マイル先の一点を見つめ続け、その視線のせいで私は、自分が何一つ相手を納得させられていないような気分になった。
それでも二人は手紙を書き続け、お互いを称賛し合った。
1996年には、ウォレスが公の場でフランゼンを擁護している。当時フランゼンが『Harper’s』誌に発表した長大な評論「Perchance to Dream」は賛否両論を呼んでいたが、ウォレスはこの文章を、
「芸術をほとんど評価しない文化の中で、本気の芸術を作ろうとすることがどんな気持ちなのかを、これほど率直で親密に描いた文章」
だと高く評価した。
同じ年、フランゼンはウォレスから送られてきた『Infinite Jest』の草稿を読んで衝撃を受ける。
彼は言う。
あの原稿は私を仕事へ向かわせた。競争相手がいると、人は仕事をするものだからだ。
その結果生まれたのが、出世作となる『The Corrections』である。
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しかしウォレスは、『Infinite Jest』以降、長編小説をもう一冊も完成させることはなかった。短編集やルポルタージュを書き続け、未完の原稿は死後『The Pale King』として出版される。そして2008年9月、自宅裏庭で首を吊って自殺した。
フランゼンは後に、この自殺をどうしても「反則」のように感じてしまったと告白している。それは二人の作家同士の競争のルールを破るものだった。
彼はこう書く。
「ようやくまた仕事に集中しようとしていた矢先に、デイヴが自殺してしまった。
『おい、本当にそんなことをするのか?
それは反則だろう。』
と思った。」
二年後、『Freedom』を書き終えたフランゼンは、『Farther Away』を書き始める。彼自身、この文章は、
「私が愛していた人の、おぞましい自殺と向き合うため」
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『Farther Away』は複数のテーマを一本に束ねた奇妙なエッセイである。『ロビンソン・クルーソー』の読解。小説史の概説。インターネット論。そして、ウォレスの遺灰を撒くために南太平洋のマサフエラ島を訪れ、珍しい鳥を探す旅。
その中でも最も物議を醸した部分で、フランゼンは、ウォレスの死後形成された「礼賛一色の物語」に異議を唱える。
フランゼンによれば、ウォレスは信頼できない友人であり、競争心が強く、意地悪でもあった。
ある時ウォレスは恋人に非常にひどいことを言った。また別の日には、サインを頼まれた自著のタイトルページに、自分の勃起した性器の輪郭を描いたという。
さらにフランゼンは、ウォレスは極端な自己没入型の人間であり、周囲の世界から喜びを感じ取る能力に乏しかったとも書く。
ある日二人がカリフォルニア州スティンソン・ビーチ近くを車で走っていた時、フランゼンは望遠鏡をウォレスに渡し、
「すごい鳥だ」
ウォレスは礼儀として軽くうなずいただけで、あからさまに退屈そうな様子で視線を逸らした。
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そしてフランゼンは、ウォレスの自殺そのものについても、世間があまり触れたがらない側面をあえて強調する。ウォレスは抗うつ薬をやめたが、その理由は「自分が永久に病人であると認めたくないという自己愛的な拒否反応」だった、とフランゼンは述べる。さらにウォレスは少なくとも四種類もの自殺方法を考えており、最終的には「自分を最も愛してくれていた人々に最大限の苦痛を与えるような方法で自殺した」と書く。
もちろんフランゼンは、ウォレスが重いうつ病に苦しみ、耐え難い痛みの中にいたことは認めている。しかし、それだけでは終わらない。彼はさらに、自分にはどうしても拭えない疑念があると言う。ウォレスは「自殺をキャリア上の一手として考えた可能性がある」のではないか、と。
もちろん、それはウォレス自身が最も嫌悪していた計算高さでもあった。フランゼンはこう書く。もし誰かがその可能性をウォレス本人に突きつければ、最初は否定しただろう。しかし、「いや、でも君にもそういう面はあるだろう」と言われ続ければ、最後には「ああ……そうだな。確かに自分にはそういうことを考える能力はある」と認めたはずだ、と。
『Farther Away』は当然ながら激しい反発を招いた。「死者への冒涜」「墓荒らし」という批判が浴びせられ、翌年にはすでに「悪名高い失敗作」と当然のように呼ばれるようになっていた。こうした反応は理解できる。実際、この文章には弁護しがたい箇所も少なくない。多くの人は、自分が友人と呼んだ人物について、あのようなことを活字にはしないだろう。
しかし著者は、「それでも、この文章は単なる悪口ではない」と論じる。なぜなら、これは現代アメリカを代表する小説家が、愛したもう一人の小説家を、文学的にも個人的にも理解しようとして書いた、極めて珍しい批評だからである。フランゼン自身、『The Discomfort Zone』『How to Be Alone』といった回想録を書いた人物であり、自分の文章がどのような受け止められ方をするかは十分承知していたはずだ。それでも彼は出版した。なぜなのか。彼は何を伝えようとしたのか。
その答えは、『Farther Away』の中心にある文学論にある。
それまでウォレスについて論じる人々は、「作品と自殺を結びつけてはいけない」という暗黙のルールを守っていた。つまり、ウォレスの小説を論じる際に、「なぜ彼は死を望んだのか」という問題には踏み込まないようにしていたのである。しかしフランゼンは、この禁忌をあえて破る。しかも意図的に。
理由は明確だった。彼は、ウォレスの生き方そのものが、彼の小説を理解する鍵だと考えていたからである。
フランゼンは『Farther Away』の中で、小説には大きく二種類あると論じる。それは、二種類の人間から生まれる。一人目の男――仮に「ジョン」としよう――は、世界を見て、他人を見る。もう一人――仮に「デイヴ」としよう――は、世界を見ても、結局は自分しか見ていない。
もし二人とも小説家なら、前者は社会小説を書く。後者は自己の小説を書く。
この観点から見ると、『Farther Away』で語られる数々の私的エピソードも、単なる暴露ではない。少なくとも批評的には、それらは一つの文学的主張を支える証拠なのである。
その主張とは、「私たちの人生に意味を与える最も重要なものの一つである、親密で愛情ある人間関係は、ウォレスの小説世界には存在しない」ということだ。
しかしフランゼンは、単に「ウォレスの小説には親密な人間関係がない」と指摘するだけでは終わらない。彼はさらに一歩踏み込んで、価値判断を下す。
「自己の小説」は、結局のところ自己賛美の小説でもある。その題材は「どこまでも興味深い自己」であり、最終的に到達する場所もまた「自己」でしかない、と彼は言う。
フランゼンは、ウォレスの作品に漂う自己愛的な視線や語り口を、実験的モダニズム作家――たとえばフランツ・カフカやセーレン・キェルケゴール――に見られる極端な自己省察の系譜へと位置づける。そして、ウォレスが現実でも見せていた反社会的な振る舞いと、その文学的傾向を結びつける。
長年にわたるうつ病との闘い。そして最後には凄惨な自殺。これらはすべて、「極端に個人主義的な魂」が最後にたどり着く場所を示す証拠であるかのように提示される。
フランゼン自身の言葉を借りれば、自己という島は、おぞましい場所である。そして、ウォレスはその島に住んでいた。読者もまた、その島へ近づくなら覚悟が必要だ、と彼は暗に語っている。
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一方で『Farther Away』には、文学史を振り返る長い議論も織り込まれている。その目的は明快である。「自己の小説」には別の選択肢があることを示すためだ。
フランゼンによれば、社会小説家たちは、「どこまでも興味深い自己」ではなく、「終わることなく興味深い、人間関係という危険」を書いてきた。小説という形式を生み出したサミュエル・リチャードソン以来、優れた社会小説家たちは、人間関係こそが「自己という島から脱出する唯一の方法」だと理解してきた。
だから彼らの小説では、孤独だった人物が、誰かを愛することによって変化していく。そして読者もまた、「愛によって孤独を乗り越えた人々の心の中へ入っていける」のである。
この議論は不快だと思う人もいるだろう。しかし、単に「趣味が悪い」と切り捨てられるものではない、と著者は述べる。『Farther Away』には粗さもある。配慮を欠く部分もある。それでも、このエッセイには一つ重要な前進があった。
それは、フランゼンとウォレスの違いを、初めて文学観・人生観の違いとして真正面から論じたことである。
これまで二人の違いは、リアリズムかポストモダニズムか。文体の違いか。実験性か。そうした形式論ばかりで語られてきた。しかしフランゼンは、問題はそこではないと言う。
本当の違いとは、読者にどのような価値観を提示し、どのような人生を目指すよう促しているか、なのだ。
つまり、二人の違いは、文学技法ではなく哲学の違いなのである。
ここで著者は次の問いへ進む。では、フランゼン自身の哲学とは何なのか。
では、フランゼンの小説を支えている哲学とは何だろうか。彼の小説には、「よく生きる」とは何かについてのビジョンがあるのだろうか。
『Farther Away』の議論だけを読めば、その答えはすぐに見つかるように思える。それは、「親密で愛情ある人間関係」である。
確かにフランゼンの小説は、人間関係について書かれている。夫婦。親子。恋人。そして個人と国家との関係。
しかし意外なことに、彼の登場人物たちにとって、その「人間関係という危険」は、ほとんど乗り越えられないものとして描かれている。
フランゼンが繰り返し語る物語は、人間関係に理想を抱いた男が、その理想を現実によって少しずつ失っていく、という物語である。
彼の登場人物たちは、仲間や成功を求めて社会へ踏み出す。しかし最後には、苦味と失望、そして運が良ければ、人間というものの偽善について少しだけ賢くなる、という結末にたどり着く。
デビュー作『The Twenty-Seventh City』では、主人公マーティン・プロブストは、家庭にも仕事にも満足した幸福な男として登場する。しかし物語の終わりでは、彼は家族を失い、一人でセントルイスを離れて高速道路を走る。そのとき彼は、「自分は、実は好きでもなかった世界に生きていたことを、今になってようやく知った」と悟る。
第二作『Strong Motion』でも同じである。主人公ルイス・ホランドは、愛よりも憎しみによって孤独を深めていく。物語は一応希望を残して終わるが、彼は最後まで、「豚のような欲深さと愚かさと不正義が、日に日に勢力を広げていくアメリカ」に対する疎外感を消すことができない。
https://firstthings.com/david-foster-wallace-to-the-rescue/
自殺について語るのはやめよう。デイヴィッド・フォスター・ウォレスを「文学界のカート・コバーン」へと還元し、その自己破滅をロマン化するような小さな産業に加担するのはやめよう。ウォレスの作品には、自殺者や依存症者、そして「セラピー株式会社」の患者たちが数多く登場する。そのため、彼の死後には、作品全体を自伝として読み、依存症や自殺願望を抱える登場人物をすべて、後知恵による彼自身の肖像画として解釈したくなる誘惑があまりにも強い。
だが、昔ながらの保守的な批判を繰り返すのもやめよう。確かにウォレスは、批評家たちが嫌うことを好んだ作家だった。たとえばディケンズこそ小説の頂点だと考える人なら、ウォレスの散文に漂う重苦しい自己意識や、延々と続く「メタ」な遊びにうんざりするのも無理はない。
ジェイムズ・ウッドは、現代後期の口語表現を模倣したウォレスの自由間接話法を前にして、「ひどく醜く、二、三ページ以上読むのは苦痛だ」と評している。そしてさらに痛烈なのは、ウォレスの「腐敗した言語」は、結局のところアップダイクの過剰に装飾された文体の鏡像にすぎない、と論じている点だ(これはウォレス自身がアップダイクを主として倫理的な理由から批判していたことを考えると、なおさら痛烈である)。
ウッドによれば、アップダイクは「美学主義(作者が前面に出すぎる)」の典型であり、一方ウォレスは「反美学主義(登場人物だけがすべて)」の典型だ。しかし両者とも、結局は同じ種類の美学主義であり、その本質は「文体の懸命な誇示」にあるという。
要するに、デイヴィッド・フォスター・ウォレスとは、「理論」が「小説」を振り回してしまった結果なのである。
しかし、ウォレスを誤解する方法はほかにも数多くある。その典型が、彼のポストモダン的な遊戯性や自己言及性を、道徳性を欠いたシニシズム、あるいはニヒリズムそのものと混同することだ。ヒューバート・ドレイファスとショーン・ドランス・ケリーは、そのような読みを『All Things Shining』で展開している。
ウォレス初の伝記『Every Love Story Is a Ghost Story』で、D・T・マックスは、ポストモダン的な聖人伝にも、保守派の切り捨てにも、ニヒリストという決めつけにも陥ることなく、見事にそのどれも回避している。彼は丹念な調査を通じて、ウォレスは決してニヒリストではなく、むしろ非常に複雑な種類のモラリストだったことを示している。
芸術的には決して保守的ではなかったものの、ウォレスは、現代後期における文学の使命とは、自分がしばしば誤解されてきた皮肉なニヒリズムそのものに対抗することだと確信するようになった。彼にとって小説家とは放火犯ではなく、消防士であるべきだった。
この伝記から浮かび上がるウォレス像は、ポストモダン文学の中から現れた奇妙な生き物――道徳的保守主義者――である。実際、マックスは後年のウォレスを「バーク的(Burkean)」な文化保守主義者だったとインタビューで語っている。(レーガンに投票したMFA〈創作修士課程〉の教授を、あなたは何人知っているだろうか。)
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ウォレスは、ドナルド・バーセルミやトマス・ピンチョンの正統な後継者だった。初期作品は、彼らのいわゆる「ポストモダン」的プロジェクトをさらに推し進めたものだった。(マックスによれば、「バーセルミを読んだとき、ウォレスは初めて文学の中で『カチッ』という手応えを感じた」という。)
その狙いは、物語を語る仕組みそのものを暴き、内部から解体するような文学を書くことだった。たとえば、夜のニュース番組が最後にカメラを引き、ニュースキャスターの向こう側にあるスタジオ全体を映し出して、「これは作られた舞台装置にすぎません」と種明かしをするようなものだ。そうした作品には、自己反省がプレッツェルのように幾重にもねじれ込んでいる。
そのため、最初の長編『The Broom of the System』は、アマースト大学時代の卒業論文をもとに書かれた作品であり、ウィトゲンシュタインの影響をこれ以上ないほど露骨に示した、理論色の濃い小説となっている。
続く短編集『Girl with Curious Hair』には、中編小説が収められている。これはアリゾナ大学の創作修士課程在学中に書かれたもので、東海岸の創作プログラムに所属する若い作家志望者たちを描いている。彼らはMFA制度そのものの舞台裏を暴きながら、ジョン・バースやバーセルミという父親世代の影響から逃れようとし、「父殺し」に夢中になっている。だいたい雰囲気は伝わるだろう。
「デイヴ」が本当の意味で「デイヴィッド・フォスター・ウォレス」になったのは、『Infinite Jest』という予想外の大成功によってだった。
全1100ページに及ぶこの非線形の巨大叙事詩には、およそ100ページもの脚注が付いているが、それらは単なる付録ではなく、本編を理解するために欠かせない。この小説は、近未来の北アメリカが「北米国家機構(Organization of North American Nations)」、略して O.N.A.N.(もちろんウォレスらしい言葉遊びである)へと再編された世界を舞台にしている。
そこでは、「車椅子暗殺団」というケベック独立派テロ組織のようなレジスタンスも活動しており、ウォレスは物語の中に政治的な筋書きを巧みに織り込んでいる。
しかし、マーガレット・アトウッドの『オリクスとクレイク』や『洪水の年』にも通じるように、この世界では国家そのものが巨大企業に圧倒されてしまっている。
「ワッパーの年」
この意味で、ウォレスはモダニズムの問題意識をさらに徹底させた作家だった。消費社会が人間に与える影響を、具体的な商品名まで使って執拗に描き出している。これは、「時代を超越した普遍性」を目指した古典文学ではむしろ禁じ手だったやり方である。
消費主義の影響は、この世界全体を覆う「気晴らし(distraction)」という生き方の一部でもある。
その象徴が、『Infinite Jest』という小説の中に登場する映画『Infinite Jest』だ。
この映画はあまりにも面白いため、一度見た人間はその娯楽から離れられなくなり、人間として普通に生活する意欲さえ失ってしまう。「エンターテインメント」に完全に飲み込まれてしまうのである。(だからこそ車椅子暗殺団は、この映画をテロ兵器として手に入れようとする。)
この映画を制作したのはジェームズ・インカンデンザ。その妻エイヴリルと、息子ハル、オリン、マリオから成る一家が、小説の三つの主要な舞台を結びつけている。
一つはツーソン周辺(ウォレス自身がMFA時代を過ごした土地)。
そして三つ目が、ボストン郊外にあるエンフィールド・テニス・アカデミーである。ここは、ウォレス自身が哲学博士課程に進学したハーバード大学とも重なる土地であり、その後リハビリ施設へ入所することになる人生とも響き合っている。
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『Infinite Jest』は、読みながら終始にやりとさせられるような小説である。
その巧妙さは、人によっては魅力的に映り、人によっては鼻につくかもしれない。(ちなみに合衆国最高裁判事だったアントニン・スカリアもこの小説の愛読者だったという。世の中わからないものである。)
現代の「わかっている」感覚、つまりアイロニカルで、何事にもウインクしながら距離を取るようなヒップスター文化は、この種の作品を好む傾向がある。
その意味では、『Infinite Jest』はトム・ウルフのような「文化人類学としての小説」とも共通する部分を持っている。
つまり、この作品はポストモダン社会の民族誌(エスノグラフィー)なのである。
時間も空間も商業主義によって組み替えられた社会を精密に描き出す一方で、パスカル的な意味において、人間を気晴らしや娯楽が支配し、本当に重要なものが押し流されてしまう危険も見抜いている。
マックスが正しく指摘しているように、『Infinite Jest』はインターネットが社会を支配する以前、1996年に出版された。しかし、その先見性は後になってはじめて明らかになった。
「文化が逸話と短い断片(サウンドバイト)へと崩壊していく中で、その変化を予見し、さらには読者をその変化へ備えさせた数少ない本の一つが『Infinite Jest』だった。」
「逆説的だが、ウェブの登場によって『Infinite Jest』は以前より読みやすい本になった。」
『Infinite Jest』は、一つの世代の感覚をあまりにも正確に言い当てたことで、多くの読者の心をつかんだ。
とりわけ私の世代――1990年代半ばに大学へ進学し、子ども時代にMTVが誕生し、大学時代にインターネットが急速に広がるのを目撃した世代――には強く響いた。
語り手は、自己意識の牢獄や、無限の可能性ゆえの倦怠感に閉じ込められている私たちに深く共感しているように思える。そして、その向こう側から、不器用ながらも別の生き方へ手招きしているようにも感じられる。
ウォレスは、私たちが囚われていることを描くだけでは終わらない。その外へ出る道も、ほのめかさずにはいられなかった。
薬物依存と絶望に満ちた『Infinite Jest』の世界でありながら、読者はなお、そこに「愛」のようなものを感じ取るのである。
この見方は私だけではない。
ウォレスの親友の一人だったジョナサン・フランゼンも、2011年に『ニューヨーカー』へ寄せた追悼エッセイ「Farther Away」で、ほぼ同じことを書いている。
フランゼンはまず、ウォレス作品において「愛」が驚くほど欠けていることを指摘する。
「私たちの多くにとって人生の意味の土台となっている親密で愛情ある関係は、ウォレスの小説世界ではほとんど存在しない。」
しかし、その一方で彼はこう続ける。
「にもかかわらず、ウォレス作品について奇妙なのは、熱心な読者ほど、読んでいるあいだ『自分は理解されている』『慰められている』『愛されている』と感じることだ。」
私は、このことこそ『Infinite Jest』がこれほど強く受け入れられた理由の一つだと思う。
読者がウォレスの率直さや脆さに触れて愛されていると感じるだけではない。
ウォレス自身もまた、依存症や欠点にまみれた登場人物たちを愛していたのではないだろうか。
そして、この点こそが、ウォレスとフランゼンを決定的に分ける違いなのだと私は考えている。
二人はしばしば同じ「ポストモダン作家」として並べて語られる。
極端な自己意識、メタフィクション、アイロニカルな距離感――そうした特徴は共通しているように見える。
フランゼンは最終的に、比較的まっすぐなリアリズムの語りへ落ち着いた。
私がそのことを最初に強く感じたのは、『Freedom』を読んだときだった。
あれは見事な小説ではある。しかし読者は登場人物たちに心から共感することが難しい。
なぜなら、フランゼン自身もまた、彼らをそれほど愛していないように思えるからだ。
それに対してウォレスは、ポストモダン的な形式主義者であり続け、さまざまな技巧や仕掛けを惜しみなく使った。
しかし、その技巧の奥から立ち上がってくるものはシニシズムではない。
むしろ、壊れてしまった人々の世界への深い理解と繊細な共感――ひょっとすると、それは「愛」と呼ぶべきものなのである。
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しかし、そのことは、伝統主義への回帰や、昔ながらの文体への逆戻りを意味してはいなかった。ポストモダニズムの「遊び」は障害ではなく入口であり、「メタ」的な自己言及性は障壁ではなく、新しい誠実さへ通じる通路だったのである。
それは現代の絶望から目を背け、砂に頭を突っ込むような態度ではない。むしろ、ポール・リクールのいう「第二の素朴さ(second naïveté)」に近いものだった。
もちろん、それは文体の後退を意味しなかった。だからこそマックスは、ウォレスの苦境をこう要約している。
「革新的な文体を用いて、保守的な小説の目的を果たすにはどうすればよいか。」
『ニューヨーク・タイムズ』の批評家A・O・スコットが指摘したように、ウォレスは両方を同時に望んでいた。つまり、「機知に富んだ文章を書くことで、機知ばかりがもてはやされる世界に対して誠実さの優位を主張する」という、いささか危うい戦略を採っていたのである。
しかしマックスは、ウォレスが「小説とは何のためにあるのか」という理解そのものにおいて経験した、一種の回心を丁寧に記録している。
「ウォレスは昔から曖昧さより確実さを、漸進主義より情熱を好んでいた。そして今や彼は、完全に『誠実さ』の使徒となった。」
彼は、かつての自分自身のような人間を決して許さなかった。また、自分が昔そうだったと感じる作家にも容赦しなかった。
作家スティーブ・ムーアが、自分の新作小説を「皮肉に満ちた90年代にぴったりの、シニカルな世界観を持つ作品」と紹介してウォレスへ送ったとき、ウォレスはこう返事を書いた。
「それは『燃え盛る家にぴったりの灯油入り消火器です』と言っているようなものだ。」
先ほども述べたように、ウォレスにとって小説家とは放火犯ではなく消防士であるべきだった。
そのため、彼の文章を特徴づける言語的な花火のような技巧と並行して、新しい責任感と真剣さが現れる。
これは決して矛盾ではない。
つまり、「ウォレスは小説の道徳的理想を掲げながらも、その文体だけは依然としてニヒリズムのままだった」という話ではない。
私たちは、「型破りな文体=非道徳的」という思い込みそのものを退けなければならない。
むしろウォレスの独特な文章は、その誠実さと矛盾しないどころか、それを実現するために意図的に選ばれたものだったのだと思う。
アップダイクの美文主義では、文体そのものが読者の注意を引きつける。
しかしウォレスが探していたのは、現代の私たちの頭の中で鳴り響いている、あのポストモダン的な「内なる声」に限りなく近い形式だった。
だからこそ彼は、その声を通して、私たちに真正面から、誠実に、そして道徳的なビジョンを語りかけることができたのである。
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だからこそ、ウォレスがフョードル・ドストエフスキーの人生と作品に、自分との共通点を見いだしていたことは驚くにあたらない。
ジョゼフ・フランクによる全五巻のドストエフスキー伝を『Voice Literary Supplement』で書評した際、ウォレスは次のように述べている。
「もっとも重要なのは、ドストエフスキーが死の淵を体験したことによって、もともとは虚栄心が強く流行を追う若い作家――確かに非常に才能はあったが、結局は自分の文学的栄光しか考えていなかった人物――から、
オルカン持ってても実際に自分が株持ってるわけじゃないから僕には各企業の議決権無いんだよなあ…と思って、そう考えるとオルカンのファンドマネージャーってみんなの議決権全部持っててズルくね?ってChatGPTに聞いたら別にオルカン単体が持ってる株の各企業の議決権の割合は微々たるものでどうでもいいが、運用会社が運用してる全部のファンドの株を束ねたらヤバイらしい。
BlackRock、Vanguard、State Streetの大手三大運用企業(ビッグスリー)が集まると20%くらいの議決権を持ってがちらしい。こいつら自分では1円も払ってなくてみんなから金集めて運用代行してるだけのくせに経済に対してとんでもないパワー持ってやがる。しかもフツーに勝手に議決権行使しまくってるらしい。
オイオイ、本来は我々の議決権なんだから株主総会行く前に我々の意見とか訊けや。こいつら世界を支配する黒幕になりつつあるんじゃね?このまま我々が脳死でインデックスファンド全振りし続けてビッグスリーの議決権が50%超えたらどうなる?
ワールド杯のアメリカ代表、フォラリン・バログンが、決勝トーナメント、アメリカvsボスニア・ヘルツェゴビナ戦で一発退場レッドカードのファウルを帳消しにしてもらった件。
スロー動画を見れば「おおぅ・・・」というファウルではある。思いっきりスパイクで足を踏んづけているので赤だなぁ、という感じだが、今大会は何しろファウル基準も靴下の長さもブレブレの割と困った大会(トーナメントになるとある程度ファウルジャッジの基準は整ってくるもんなんだけど、今大会はまだブレブレ気味)で、故意ではないしペナルティエリアでも攻撃中でもないので、特にアメリカ贔屓なら微妙と感じる人もありうるかなぁ…という程度。まぁ妥当なレッド。
これをトランプが「次節出場できるようにせーや」と横やりをいれて、どうやら次のベルギー戦には出られそう。あまり層が厚いとは言えないアメリカ代表でバログンは割と大事なワントップFW。そんなにすごく迫力のあるFWではないけれど献身的によく走る、いなくなったらチーム編成は困るでしょうねという選手ではあるような気はしないでもない。何しろアメリカ代表自体があんまりパッとしないので何とも言えないのだが、ティモシー・ウェアじゃなくてバログン使うんだなぁとと思い、まぁ得点もしているので「それが正解」なんかな、ぐらいの選手。ちなティモシー・ウェアはPSGやミランでもプレーした名選手で今はリベリアの大統領業をやっているジョージ・ウェアの息子さん。ティモシーはジョージ・ウェアがアメリカで暮らしてるときに生まれたらしく米国籍も持っていてユース代表からずーっとアメリカの代表選手として登録されてる。
ところで、FIFAの「国籍」は若干ややこしいが、多重国籍を認めていて、国籍を保有しているどの国の代表にもなれるが、一度でもA代表の試合に出てしまうと登録国籍の変更はできなくなる。今大会ではジネディーヌ・ジダンの息子の一人、ルカが出場機会が全然もらえないフランスU代表から鞍替えして御父上の故郷アルジェリア代表として出場しておった。しかしジズーの息子たちみんなサッカー選手になってんだよすごいね。
関係ないついでに、ちなみに、日本代表も大昔は呂比須ワグナーやラモス瑠偉や三都主アレサンドロ、田中マルクス闘莉王など、ブラジルから選手を「輸入」していたが、日本は多重国籍は認めない建前なので、彼らは日本に帰化している。帰化してるけどラモス以外はブラジルに帰って色々頑張っている。ブラジリアンドリーム。
それで今回レッドカードによる出場停止が免除されたフォラリン・バログンだが、wikipediaやその他複数の情報だと国籍が三つある。親がナイジェリアからの移民、育ったのはロンドン。ただ生まれたのがアメリカらしい。Wikipediaによると「妊娠7か月で渡米したら帰国を航空会社から止められてそのままアメリカで出産」らしい。
https://en.wikipedia.org/wiki/Folarin_Balogun#Early_life
Balogun was born in Brooklyn, New York, to Yoruba Nigerian parents.[8][9] His parents were living in London, and visited New York when his mother was seven months pregnant with him. Airline staff did not allow her to board the family's return flight to London due to safety concerns over the advanced state of her pregnancy, and Balogun was subsequently born in New York.[10] He returned to the United Kingdom with his parents when he was two months old and grew up in London.[11][12][13]
まぁサッカー選手は、前述のとおり、国籍がなんか面白い設定なのでこういう「どういう素性か」を書かれがちで、それらが間違ってることもよくあるので何とも言えないが、この人は実質はほぼイギリス人だろうと思うし、実際U代表ではイングランドを選択している。
彼の国籍の事情がWikipediaに書かれた通りのものかどうかは増田には全く分からないが、まぁ、こんなことを言っては何だが「妊娠中~後期に渡米してそのまま米国で出産」というのは、米国籍を取るすごく手っ取り早い「手口」でもあり、トランプは米国への「出産旅行」を禁止にしたがっていて、最高裁で否決されたのに「さらに取り締まり強化する‼」と怒っている。https://news.yahoo.co.jp/articles/76e662e6a87111c125f763a7839277b734065607
結果的にトランプが取り締まりたいような国籍の取得の仕方をした選手を、トランプはかばった形になるのだが、本人は気づいているのか、いないのか。
どうなんすかね。
個人的には、アメリカ代表は歴代、なんかつまんねぇサッカーをやるチームという印象である。劣化イングランドというか。プレーエリア広く縦に早いサッカー、教科書通りのクロスを斜め前に突き刺してストライカーが駆け抜けて、という感じ。前述のような国籍移動者も毎回そこそこいるのでその辺も増田の食指をそそらないし、くだんの試合に関しては、増田的には、敬愛するオシム氏が文字通り命を削って心血を注いでその再生を推し進めてのW杯出場したボスニア・ヘルツェゴビナを(怒)という贔屓が引き倒しているのでアレではある。
まぁ、ワールドカップて何だかんだで「ヨーロッパの新貴族が野卑に騒ぐための方便」みたいな面があり、「彼ら」が望む金や好ましい話題が提供されるように恣意的に運用されるようなもんであるが、一方でサッカーで見るお国柄・万国博覧会、という側面もあって、お祭りとして純粋に楽しい。日本代表はすごく応援しているが、どうも、こう、実力と持ち上げられ方の差が激しくて、こう、うーん。負けてすごく残念だが負けた後の方が大会としては落ち着いて楽しめて見られる良い宇なところも少しある。
まぁ、お国柄ということでは、W杯よりも、欧州選手権や南米選手権の時の方が明らかにやる気が強いし生々しくギラギラと国柄が出るのだが、カーボベルデのような国のひたむきなサッカーを見られたり、イラクやパラグアイのようなヒールの活躍も一興だしでやっぱり楽しい。しかしイラクはまぁそうかもねと予想してたが、フランス戦のパラグアイはいったい何があったんやというひどさだった。グループリーグではそんなにダーティじゃなかったのに何があったんやパラグアイ。
1993年10月16日生まれ(32歳)、フランス・パリ出身のフランス人。両親は1970年代にフランスに移住したコモロ(Comores)系移民。祖父はコモロのカーディー(イスラム法学者)で、伝統的だが比較的穏やかなムスリム文化の家庭で育つ。本人はイスラムからの離脱者(アポスタシ)を自認し、自由思想家(libre-penseur)を名乗る。* **職業・活動:
* 主な所属・役割: Académie libre des sciences humaines(ALSH)の事務局長(délégué général)、各種リバタリアン系シンクタンク(IREF、Institut économique Molinariなど)での研究協力。
「イスラムは今日、自らの元信者を死刑に処する唯一の宗教である。多数のイスラム諸国は、宗教を批判する者に対して、罰金から懲役刑に至る刑事制裁を規定している。
ほぼすべてのイスラム社会は、主要な男女平等ランキング(国連、OECD、世界経済フォーラム)で下位半分に位置づけられる。
イスラム諸国の3分の2が同性愛を犯罪化しているのに対し、非イスラム諸国では3分の1である。ウガンダを除き、同性愛が死刑で処罰される国はすべてイスラム諸国である。
イスラム社会は武力紛争で過剰に代表されている。過去10年以上の最も死者を出したテロ組織のリストは、本質的にムスリム服従のグループで構成されている。
イスラム社会は、現代の奴隷制、未成年少女の強制結婚、近親結婚の影響を最も受けている社会の一つである。
イスラム世界を構成する19億人のうち、国際平均より自由な体制下で暮らすのはわずか3%に過ぎない。また、ムスリムが最も広範な権利と自由を享受しているのは非イスラム諸国においてであり、彼らはそこから当然の結論を引き出そうとしていない。
イスラムフォビアの告発は、実際には告発の逆転である。誰でも、イスラム世界が誰にも寛容さの教訓を与えられないことを理解できる。それでもなお、永遠の犠牲者という地位を主張し、我々を眠らせ、より効果的に支配しようとすることを妨げない。」
(要約:イスラム世界の構造的問題を列挙し、「イスラムフォビア」という言葉が批判を封じる逆転現象であり、永遠の被害者アイデンティティが支配戦略として機能していると指摘。)
このポストは、まさに被害者アイデンティティの戦略的利用を批判するものです。これを「並行社会(Parallelgesellschaft / sociétés parallèles)」の形成と組み合わせると、現代版「分断して統治(divide et impera)」のメカニズムとして機能し得えます。
欧州(フランス郊外、英国北部、ドイツ、スウェーデンなど)で、高いムスリム移民集中地域に国家法が及ばないor弱いゾーンが発生。非公式シャリア、クラン構造、独自規範が並行して機能し、言語・価値観・ジェンダー観・LGBT受容などで本社会との乖離が固定化。
「イスラムフォビア」「植民地主義の遺産」「構造的人種差別」といったフレームが、統合失敗や文化・宗教的要因(背教処罰、女性・LGBT権利、表現の自由などに関する価値観ギャップ)への批判を「被害者への攻撃」と再定義。Pew調査などでも、ムスリムコミュニティ内でシャリア支持や同性愛道徳的拒否が一定割合で持続(特に欧州第2世代でもギャップが残る事例)。
批判が封じられ、問題(犯罪率格差、 groom ingスキャンダル、急進化)の早期是正が遅れる。
先住民側の不満が右派ポピュリズムを呼び、コミュニティ側も「永遠の被害者」として結束・要求を強める。結果、社会全体がアイデンティティ線で分断され、統一的な統治が困難に。
一部では多文化主義イデオロギーやイスラム主義ネットワークがこのダイナミクスを意図的・結果的に利用(影響力拡大・譲歩獲得)。歴史的なdivide et imperaとは逆方向だが、結果として社会を分断し、統治を不安定化させる点で類似。
日本は同化・価値共有を前提とした移民管理で、欧州型の並行社会問題を大規模に抱えていません。才能ある移民を受け入れつつ、日本の法・文化・社会規範への適応を明確に求めるアプローチは、このメカニズムを回避する有効な防波堤になります。
被害者アイデンティティの押し付けと並行社会の容認は、短期的に「寛容」のように見えて、長期的に社会の凝集力を削ぎ、対立を再生産します。データが示す価値観の系統的傾向を直視しつつ、個人の多様性を尊重する現実的な統合政策が鍵です。
主要な主張をデータに基づき検証します。全体として、方向性は複数の信頼できる国際データで支持されますが、例外・多様性・交絡要因(貧困・紛争・植民地遺産など)も存在します。個々のムスリムや国(例: インドネシアの相対的寛容さ vs サウジアラビアやイラン)を一律に扱うのは不適切です。
イスラム法影響下の約10〜13カ国(アフガニスタン、イラン、ブルネイ、マレーシア一部、モルディブ、モーリタニア、ナイジェリア北部、パキスタン、カタール、サウジアラビア、ソマリア、UAE、イエメンなど)で法律上規定。現代国家で背教を死刑とするのはほぼイスラム圏に限られる。30
多くのイスラム諸国で刑事罰(罰金〜死刑)が存在。OIC諸国を中心に広範。
Fox氏の一連の研究(Religion and Stateプロジェクトなど)で、イスラム多数派国家における宗教的少数派(コプト教徒、バハイ教徒、アフマディー派など)への制度的・社会的差別が相対的に高いパターンが示される。主要な深刻事例の多くがイスラム圏に集中する傾向はデータで裏付けられるが、中国(ウイグル)やミャンマーなど非イスラム圏の事例も別途存在。
WEF Global Gender Gap Report 2025で、中東・北アフリカ地域が最低水準。パキスタン(148位)、イラン、スーダン、アルジェリアなどが下位を占め、イスラム社会の多くが下位半分に位置。改善例(UAEなど)もあるが、全体傾向として一致。22
ILGAなどの報告で、イスラム諸国の多くが同性愛行為を犯罪化(全体の約2/3程度の割合に近い)。死刑規定国はほぼすべてイスラム圏(ウガンダが例外)。4
近年10年以上の死者数上位テロ組織(ISIS、アルカイダ、Boko Haram、タリバン、Al-Shabaabなど)はイスラム過激派が大半を占める(Global Terrorism Index系データ)。武力紛争への過剰代表も中東・アフリカ・南アジアのイスラム圏で顕著。
Global Slavery Indexなどで一部イスラム圏・紛争地域に高い有病率。未成年強制結婚はイエメン、アフガニスタン、パキスタンなどで文化的・宗教的要因と結びつく事例が多い。近親婚(いとこ婚)率は中東・パキスタンで非常に高い(20-50%以上)。
厳密な「国際平均より自由な体制」の定義によるが、Freedom Houseなどでイスラム多数派国家の平均スコアは低め。インドネシア(世界最大のムスリム人口国、比較的自由寄り)のような例外を除き、19億人の大半が権威主義的・半権威主義的体制下。非イスラム国(特に欧米)でムスリムが享受する権利・自由が広いのは事実。
主張の多くは統計的傾向として支持されます。文化的・教義的要因(シャリアの影響、背教・同性愛・ジェンダー規範に関する古典的解釈)と社会経済的要因が交錯します。「イスラムフォビア」言説が批判を封じる逆転現象という指摘は、欧米の言論空間で繰り返し議論される論点です。
フランスの移民・イスラム統合問題が激しく議論される中で、**「被害者アイデンティティの逆転利用」**や並行社会の危険性を指摘する論客の一人。X(@FerghaneA)では約8.8万フォロワーを持ち、積極的に発信。
彼の背景は「イスラム文化圏出身ながら自由主義的視点から内部批判する」点が特徴的で、議論の信憑性や説得力を高める要素となっています。フランスの言論状況ではこうした立場が目立つ一方で、強いバッシングも受けやすいです。
バーリンの悲劇的世界観(value pluralism / 価値多元主義) とヒースの制度重視の現実主義は、対照的でありながら補完的な関係にあります。
• 価値は根本的に多元的で、しばしば互いに両立しえない(incommensurable)。人間の理想や善は部分的に正しく、完全な調和は不可能 。選択は常に悲劇的トレードオフを伴う。
• 自由主義の役割は、こうした衝突の中で消極的自由を守る防衛壁。強制的な「正解」追求(積極的自由の全体主義的転倒)を警戒し、多元性を尊重する謙虚な姿勢。
ヒースは制度のインセンティブ構造が行動・価値観の再生産を形作ることを重視します。合理的主体が制度の中で戦略的に振る舞う結果として、望ましくない価値観や行動パターンが定着すると分析(例: 市場失敗、公共選択の失敗、官僚制のkludge)。
民主主義や行政国家を「相互干渉(傷つけ合い)の最小化」ツールとして位置づけ、state capacityの強化や制度バグの修正(Project 2029など)を提言。多元的衝突を、インセンティブ設計で管理可能なものとして扱います。公共セクターの効率化を通じて、紛争を構造的に軽減。
ヒースの市場失敗アプローチ(welfare stateの正当化)は、市場が効率的に機能するための制度的前提(規制、公共財供給、外部性の内部化)を重視。機能する市場を支える現実的制度改革を提言します。左派の国有化教条や右派の民営化万能論の両方を批判し、証拠に基づくバランスを取る。
• バーリン:哲学的・人間論的悲劇性重視。「価値の衝突は不可避、制度で完全に解決はできない」。
• ヒース:実践的エンジニアリング寄り。悲劇的多元性を認めつつ、「制度を適切に設計・改革すれば、紛争を大幅に軽減し、自由と効率の両立を図れる」との楽観的現実主義。批判理論を継承しつつ、経済学・公共理論のツールで「左派の無軌道化」にブレーキをかけます。
バーリンの悲劇観を基盤にしつつ、ヒースはそれを「制度で運用可能にする」方向に発展させていると言えます。左派内部の建設的批判者として、価値観の衝突を「制度改革で管理せよ」と促す姿勢が一貫しています。
https://anond.hatelabo.jp/20260610235456
エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』(The History of the Decline and Fall of the Roman Empire)第34章には、アッティラとフン族の容姿描写がある。現代基準だとヤバい発言だが、18世紀のヨーロッパ人視点を知る上では貴重な記録だ。以下引用抜粋する。
• 「現代のカルムック人(Calmuck=モンゴル系遊牧民)の本物の不具(genuine deformity)」と明言。
• flat nose(平たい鼻)、swarthy(暗黒の・浅黒い) complexion、埋まった小さな目、髭がほとんどない点などを強調し、黄色人種的特徴を「deformity(不具・変形)」 として強く否定的に書いている。
アッティラの肖像は、現代のカルムック人の本物の不具(genuine deformity) をそのまま体現していた。大きな頭、浅黒い肌、奥深く落ちくぼんだ小さな目、平たい鼻、髭の代わりに数本の毛だけ生えた顔、広い肩、そして神経質な強靭さはあるものの不均衡で歪んだ体躯 であった。」
• フン族を「人間種から区別される」存在として描写。flat noses と髭の少なさ(東アジア系特徴)を、若さの優雅さや老年の威厳を欠く 欠点として挙げている。
• また「shrill voice, uncouth gestures, and the strange deformity of the Huns」と、声・動作・全体的な不具を合わせて「奇怪な変形」と表現。
「彼らは人間の他の種族とはっきり区別される存在だった。広い肩、平たい鼻、頭の奥深く埋もれた小さな黒い目、そしてほとんど髭が生えないため、若者の男らしい優雅さも、老年の威厳ある風貌も、一切持ち合わせていなかった。こうした現実の恐怖に加えて、甲高い声、粗野でぎこちない動作、そしてフン族の奇怪な不具(strange deformity) が、人々に驚愕と強い嫌悪 を掻き立てた。」
ギボンはフン族を中国史の匈奴と関連づけ、「Tartars are an ugly and even deformed race(タタール人は醜く、変形した人種)」 と表現する部分もある(中国の貢女制度を語る文脈で)。
これらの記述は、黄色人種的特徴(平たい顔・鼻、浅黒い肌、埋まった目、髭の薄さ)を「deformity」「ugly」として文明(ヨーロッパ・白人)側から見た「他者性・脅威」の象徴 にしている。
「タタール人は醜く、さらには変形した人種である。彼らは自らの女たちを単なる家事労働の道具とみなしており、その欲望——いや、むしろ食欲——は、より優美で洗練された美しさに向けられていた。中国から選りすぐった最も美しい乙女たちが、毎年、フン族の粗野で野蛮な抱擁 に捧げられたのだ。」
• フン族を「savage destroyer(野蛮な破壊者)」「terrors of the world(世界の恐怖)」「formidable barbarian(恐るべき蛮族)」と繰り返し呼ぶ。
• 混血(アラン人など)で「swarthy complexions を白く改善」したと書くことで、純粋なタタール的特徴を暗に劣位に置いている。
遊牧モンゴロイド系を「醜悪・不具・粗野・恐怖」の象徴として強調しつつ、中国定住文明は尊重する。また、フン族をモンゴル(Moguls/Tartars)の先駆け的な存在として扱い、両者を遊牧蛮族の典型として並べて論じている。モンゴルの方が規模が大きかったと認識しつつ、フン族も同等の「文明の敵」としての破壊力を持っていたと見なしている。
anond:20260521113217 の東南アジアにおける米中二択の好感度調査の話を補足。
国別にみると、フィリピンやベトナムという隣国中国への警戒感から従来は米国への岩盤支持国が対中支持に傾いているのが目立って、ヤバ味がある。
フィリピンは南シナ海での領有権問題を抱えていることもあり、7年間にわたって一貫して70〜80%台の圧倒的な米国支持を維持。ベトナムも一貫して米国を強く支持。しかし2026年には中国への警戒感は強いものの、米国支持率が前年の73.5%から59.2%へと大きく後退。
経済的な結びつき(一帯一路構想など)や、米国の中東政策に対する不満などから、インドネシアとマレーシアは近年急速に中国支持へ。特にインドネシアの中国支持は2023年の53.7%から2026年には80.1%にまで。ブルネイも一貫して中国優位を維持。
カンボジアは2022年に81.5%の中国支持したが、翌2023年には73.1%で米国支持へと反転。2022年11月にバイデン米大統領がASEAN関連首脳会議のためにカンボジアを訪問した影響か。ミャンマーも2021年の中国優位(51.9%)から、軍事クーデター後の2022年には圧倒的な米国支持(92.0%)へと揺れる。中国が経済的・軍事的力や内政干渉(中国系住民やソーシャルメディアを通じた影響力行使など)を用いて自国の利益を脅かすことへの警戒感か。ラオスの対米支持乱高は、2022年6月にウェンディ・シャーマン米国務副長官訪問による一時的な現象か。
シンガポールは2025年まで一貫して米国支持が多数派。しかし2026年に初めて中国支持(66.3%)へ逆転。タイは両国間を行き来しつつも、ほぼ50%対50%の拮抗状態を保つ。
以下の表では、各年における 「米国支持率 / 中国支持率」を示す
| 国名 | 2020年 | 2021年 | 2022年 | 2023年 | 2024年 | 2025年 | 2026年 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| ASEAN全体 | 53.6% / 46.4% | 61.5% / 38.5% | 57.0% / 43.0% | 61.1% / 38.9% | 49.5% / 50.5% | 52.3% / 47.7% | 48.0% / 52.0% |
| ブルネイ | 30.9% / 69.1% | 30.3% / 69.7% | 35.8% / 64.2% | 45.0% / 55.0% | 29.9% / 70.1% | 45.0% / 55.0% | 46.5% / 53.5% |
| カンボジア | 42.3% / 57.7% | 53.8% / 46.2% | 18.5% / 81.5% | 73.1% / 26.9% | 55.0% / 45.0% | 57.0% / 43.0% | 61.0% / 39.0% |
| インドネシア | 48.0% / 52.0% | 64.3% / 35.7% | 55.7% / 44.3% | 46.3% / 53.7% | 26.8% / 73.2% | 27.8% / 72.2% | 19.9% / 80.1% |
| ラオス | 26.1% / 73.9% | 20.0% / 80.0% | 18.2% / 81.8% | 58.9% / 41.1% | 29.4% / 70.6% | 49.0% / 51.0% | 50.3% / 49.7% |
| マレーシア | 39.3% / 60.7% | 53.0% / 47.0% | 57.0% / 43.0% | 45.2% / 54.8% | 24.9% / 75.1% | 29.2% / 70.8% | 32.0% / 68.0% |
| ミャンマー | 38.5% / 61.5% | 48.1% / 51.9% | 92.0% / 8.0% | 67.8% / 32.2% | 57.7% / 42.3% | 57.7% / 42.3% | 61.4% / 38.6% |
| フィリピン | 82.5% / 17.5% | 86.6% / 13.4% | 83.5% / 16.5% | 78.8% / 21.2% | 83.3% / 16.7% | 86.4% / 13.6% | 76.8% / 23.2% |
| シンガポール | 61.3% / 38.7% | 65.8% / 34.2% | 77.9% / 22.1% | 61.1% / 38.9% | 61.5% / 38.5% | 52.9% / 47.1% | 33.7% / 66.3% |
| タイ | 47.9% / 52.1% | 56.5% / 43.5% | 57.3% / 42.7% | 56.9% / 43.1% | 47.8% / 52.2% | 44.4% / 55.6% | 45.0% / 55.0% |
| ベトナム | 85.5% / 14.5% | 84.0% / 16.0% | 73.6% / 26.4% | 77.9% / 22.1% | 79.0% / 21.0% | 73.5% / 26.5% | 59.2% / 40.8% |
| 東ティモール | - | - | - | - | - | 59.1% / 40.9% | 41.8% / 58.2% |
(出典: 各年の「The State of Southeast Asia」調査レポートより集計 ※東ティモールは2025年調査から追加)
>好感度の逆転: 2026年の最新調査で、ASEAN(東南アジア)諸国の52%が「米中どっちにつく?」という問いに「中国」と回答。ついにアメリカが逆転された。
元増田の持ってきたデータは、この末尾に掲載した一覧表の東南アジアのエリート層が対象の調査「State of Southeast Asia Survey」の2020年から始まった米中二択の好感度調査データだろう。
末尾の一覧表を見て欲しいが、2020年以降の調査範囲では2024年と2026年とに米中好感度の逆転が起きており、一進一退。長期的な傾向で中国側に付き始めた、と言うよりも「米国がヘマをすると、その分だけ中国側に数字が流れやすい不安定なバランス」。
付き従うなら米国or中国の2択は、「カレー味のうんこ」と「うんこ味のカレー」の究極の選択を、東南アジアにも日本にも、というか全人類に突きつけてる状況。
ま、「カレー味のうんこ」中国は絶対に健康に悪いので、泣く泣く「うんこ味のカレー」米国を選んだ方が良いのではないかと、個人的には思いまーす、はい。
| 調査年 | 中国を選ぶ | 米国を選ぶ | 備考1(調査時期と米政権) | 備考2(当時の中華人民共和国の政権状況) |
|---|---|---|---|---|
| 2020 | 38.5% | 61.5% | 設問導入初年。米国が6割強で優位。2019年末〜2020年初頭に実施と推定され、トランプ政権末期(再選キャンペーン期、コロナ前夜)の評価が反映。 | 習近平2期目後半。「一帯一路」推進と南シナ海での既成事実化が進み、対米関係は貿易戦争・テクノロジー摩擦で緊張。 |
| 2021 | 約38% | 約62% | 2020年末〜2021年初頭(米大統領選後〜バイデン就任直前)に実施。トランプ→バイデンへの政権移行期だが、回答には主にトランプ期の印象が反映されているとみられる。 | 習近平2期目終盤。2020年からのゼロコロナ政策が継続し、香港国家安全維持法の施行などで統制強化が目立つ時期。対外的には米中対立が一層構造化し、「狼戦士外交」と呼ばれる強硬な外交スタイルが顕著に。 |
| 2022 | 約40%弱 | 約60%強 | 2021年末〜2022年初頭に実施。バイデン政権1年目の対アジア再関与が評価されたタイミングで、米国への信頼・支持が比較的高かったとされる年。 | ゼロコロナ政策の継続や民間IT企業への締め付けで経済減速懸念が高まりつつも、党内権力は一層集中する方向。 |
| 2023 | 38.9% | 61.1% | 2022年末〜2023年初頭に実施。バイデン政権中盤、対中競争姿勢とウクライナ対応が続く局面での評価が反映。2024年の逆転との対比の基準年。 | 習近平が3期目再任。長期政権が制度化される一方、不動産不況・地方財政悪化・若年失業など構造問題が顕在化。ゼロコロナ終了後の経済回復を図りつつ、対外的には「グローバル・サウスとの連帯」「BRICS拡大」などを強調。 |
| 2024 | 50.5% | 49.5% | 初めて中国が逆転した年。僅差の「中国>米国」。2023年末〜2024年初頭に実施され、バイデン政権後半の対中抑止路線と地域緊張の高まり、ガザでの紛争に関して徹底したイスラエルに偏った支持を貫いたの中での結果。 | 習近平3期目中盤。経済減速と「共同富裕」路線の中で、対外的には一帯一路の再パッケージ化、グローバル安全保障構想(GSI)などを通じて「米主導秩序へのオルタナ」を訴求。米中間では、台湾海峡・南シナ海をめぐる軍事的緊張が続く |
| 2025 | 47.7% | 52.3% | 一転して米国が再び多数派に戻る年。2024年末〜2025年初頭に実施され、2024年米大統領選後の移行期(名目上はバイデン政権だがトランプ再登場が現実味を帯びる局面)の評価が反映。 | 習近平3期目後半。中国経済は構造的減速が鮮明になり、不動産バブル処理、地方政府債務、財政収入減少が課題に。対外的には、米欧との関係を管理しつつ、ロシアやグローバル・サウスとの連携を強調する「多極化」路線を維持。 |
| 2026 | 52.0% | 48.0% | 再度中国が僅差で多数派となり、差は4ポイント程度。2026年1月5日〜2月20日に実施と報告書に明記され、トランプ再登場後の政権運営への不安や地域秩序への懸念が色濃く反映したタイミング。 | 習近平3期目後半〜4期目入りを見据える時期。2026年から第15次五カ年計画(2026〜2030年)が始まり、「高品質成長」「内需拡大」と「安全保障・自立自強」を両立させる戦略を前面に。成長率目標は4.5〜5%と控えめで、財政制約や人口減少のなかで体制の持続可能性が問われる局面。対外的には、米トランプ政権との関係悪化リスクを織り込みつつ、BRICSやグローバル・サウス枠組みで存在感を強める路線を維持。 |
国別データを補足した。
メロスにはfatherも、motherも無い。wifeも無い。sixteen-year-oldの、shyなyounger sisterと二人暮しだ。このyounger sisterは、villageのあるgood-naturedな、いちshepherdを、近々、groomとして迎える事になっていた。The weddingもjust aroundなのである。メロスは、それゆえ、bride's dressやらcelebrationのfeastやらを買いに、はるばるcity marketにやって来たのだ。まず、そのitemsを買い集め、それからcityのstreetsをぶらぶら歩いた。
メロスにはchildhoodのfriendがあった。セリヌンティウスである。今はthisシラクスcityで、stonemasonをしている。そのfriendを、これから訪ねてみるつもりなのだ。Long time逢わなかったのだから、訪ねて行くのがlooking forwardである。歩いているうちにメロスは、cityのstateを怪しく思った。ひっそりしている。
もう既にsunも落ちて、cityの暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、nighttimeのせいばかりでは無く、city全体が、やけに寂しい。carefreeなメロスも、だんだんuneasyになって来た。
Streetで逢ったyoung manをつかまえて、何かあったのか、two years agoにthis cityに来たときは、nightでもeveryoneが歌をうたって、cityはactivityであったはずだが、と質問した。Young manは、headsを振って答えなかった。
はい、戦時中(特に昭和10年代後半~1945年頃)に「国家神道」という具体的な用語が使われていたのは、ごく一部の限られた場面だけでした。一般的・日常的に広く流通していた言葉ではなかった、というのが正確な理解です。
gendai.media
「国家神道」という言葉は、帝国議会での一部議員の発言(例:1908年・1911年の小田貫一議員の発言)や、神道学者・内務省・陸軍省関係者の専門的な議論、軍部や学術文書の中で散発的に見られる程度でした。
しかし、一般国民向けの新聞・雑誌・教科書・プロパガンダ、学校教育、日常会話ではほとんど登場しませんでした。代わりに使われていたのは「神道」「神社神道」「国家の祭祀」「皇道」「国体」「惟神の道」などの表現です。
軍国主義が強まる中で、神社参拝・遥拝・戦勝祈願・八紘一宇・聖戦などの実践やイデオロギーは確かに国家的に推進され、国民生活に深く浸透しました(教育勅語の読み上げ、神社への強制的な寄付や参拝、靖国神社の位置づけなど)。
しかし、それらを一括りにして「国家神道」と呼ぶ用語自体は、依然として専門家・官僚・軍部内の限定的な文脈でしか使われていませんでした。
一般大衆やメディアでは「神ながらの道」「天皇の道」「国体精神」といった言葉が主流で、「国家神道」というカテゴリー名はほとんど普及していませんでした。
なぜ「ごく一部」だったのか当時の公式スタンスは「神社神道は宗教ではない」(国家の祭祀・道徳教育・愛国心養成のための非宗教的施設)というものでした。これを「宗教の一形態」として「国家神道」と名付けてしまうと、憲法上の信教の自由と矛盾する恐れがあったため、用語として避けられていた側面があります。
GHQの神道指令(1945年12月)で、初めて「国家神道(State Shinto)」が明確に定義・命名され、戦後の歴史叙述で一気に広まったのです。それ以前は、実態(国家管理の神社体系+天皇中心のイデオロギー)はあっても、統一的なラベルとして定着していなかった。
まとめ実態(国家が神社を管理・利用し、天皇崇拝を国民統合のツールにした体系) → 戦前から戦時中まで強く存在し、特に戦時中は軍事動員に活用されました。
「国家神道」という用語 → 戦前・戦時中はごく一部の専門的・官僚的な文脈でしか使われず、国民一般には馴染みの薄い言葉でした。
つまり、あなたの理解「戦時中に使われていたのはごく一部だけ」は、用語の使用頻度・普及度という点では正しいです。ただし、実態としての「国家神道的な仕組みや思想」は戦時中にかなり強力に機能していた、という区別が大事です。戦後のGHQがこの用語を導入して「軍国主義の源泉」として批判的に総称したことで、今日のイメージが形成された部分が大きいと言えます。
state(州)を国って訳してんじゃないの
Update:男性の比率はもはやフラットではありません。2024年以降のデータは、若い男性が右傾化していることを示しています。最近の調査はすべて同じ結果を示しています。若い男性は今、より積極的に保守的になっています。私の解釈では、女性が最初に捕らわれたのは、コンセンサス圧力を受けやすかったからです。その捕らわれの過程は急速に進みました(2007年から2020年)。男性は影響を受けにくく、捕らわれた制度にあまり根付いていなかったため、より長く抵抗しました。しかし、その格差が目に見えるようになり、文化的に顕著になり、「男性こそが問題だ」というメッセージが主流のメッセージとして明確に伝わり、嘘によって男性が社会から排除され始め、男らしさ、つまり男性を男たらしめるものそのものが有害になったため、男性は対抗し始めなければならなかった。
受動性は反抗へと変化しつつある。引きこもりは積極的な拒絶へと変化しつつある。これは、男性が今や「正しい」とか「自由」になったという意味ではない。単に、女性の合意ではなく男性の不満を汲み取るための最適化された別の仕組みに捕らわれているだけなのかもしれない。アンドリュー・テイト(注:Andrew Tate アメリカの右翼的・保守的な思想、特に「マノスフィア(Manosphere:男性至上主義的なネットコミュニティ)」やMAGA(Make America Great Again)運動の一部から支持を受ける、物議を醸しているインフルエンサー)はどこからともなく現れたわけではない。マノスフィアも同様だ。それらもまた補足システムであり、単に異なる心理的弱点を狙っているだけだ。
グラフは今や、反対方向に分岐する2本の線になっています。2つの異なる機械が、2つの異なる人口統計を2つの異なる故障モードへと引っ張っているのです。これは単なる教育の問題だと言う人もいるでしょう。女性は大学に進学することが多く、大学はリベラルな人間に育つ、それだけのことです。確かにその通りです。しかし、2007年以降、なぜ格差がこれほど急激に拡大したのか、またなぜ教育制度が大きく異なる国々でこのような現象が起きているのかは説明できません。
経済的な問題だと言う人もいるだろう。若い男性は苦境に立たされており、憤りは保守的になる。これも部分的には真実だ。しかし、男性の経済的な苦境は近年の右傾化以前から存在し、女性の左傾化は女性の経済的成功が高まっていた時期に起きた。男性ならテート、女性ならテイラー・スウィフトといった文化人の例を挙げる人もいるだろう。しかし、これらは原因ではなく症状だ。彼らはマシンーメカニズムが作り出したニッチを埋めたのだ。マシンーメカニズムを作ったわけではない。
多因果モデルの方がより適切である。生物学的基質(合意形成に対する感受性の違い)+技術的トリガー(スマートフォン、アルゴリズムフィード)+制度的増幅(大学支配、女性優位の分野)+経済的インセンティブ(結婚の崩壊、国家への依存)+イデオロギー的ロックイン(サンクコスト、離反に対する社会的処罰)。単一の原因はない。複数の原因が絡み合い、それがたまたま一方の性別に他方よりも早く、より強く影響を与えたシステムである。
Here's the update: the male line isn't flat anymore.
Post-2024 data shows young men shifting right. Recent surveys all show the same thing. Young men are now actively moving more conservative.
My read: women got captured first because they were more susceptible to consensus pressure. The capture was fast (2007-2020). Men resisted longer because they were less susceptible and less embedded in captured institutions. But as the gap became visible and culturally salient, as "men are the problem" became explicit mainstream messaging, as men started being excluded from society because of lies, as masculinity, or the very thing that makes men men became toxic, men had to start counter-aligning.
The passivity is converting into opposition. The withdrawal is becoming active rejection.
This doesn't mean men are now "correct" or "free". It might just mean they're being captured by a different machine, one optimized for male grievance instead of female consensus. Andrew Tate didn't emerge from nowhere. Neither did the manosphere. Those are capture systems too, just targeting different psychological vulnerabilities.
The graph is now two lines diverging in opposite directions. Two different machines pulling two different demographics toward two different failure modes.
Some people will say this is just education: women go to college more, college makes you liberal, simple as that. There's something to this. But it doesn't explain why the gap widened so sharply post-2007, or why it's happening in countries with very different education systems.
Some will say it's economic: young men are struggling, resentment makes you conservative. Also partially true. But male economic struggles predate the recent rightward shift, and the female leftward move happened during a period of rising female economic success.
Some will point to cultural figures: Tate for men, Taylor Swift for women. But these are symptoms, not causes. They filled niches the machines created. They didn't create the machines.
The multi-causal model fits better: biological substrate (differential sensitivity to consensus) + technological trigger (smartphones, algorithmic feeds) + institutional amplification (captured universities, female-dominated fields) + economic incentives (marriage collapse, state dependency) + ideological lock-in (sunk costs, social punishment for defection).
No single cause. A system of interlocking causes that happened to affect one gender faster and harder than the other.
これは、アメリカ政治特有の説明を排除する点で重要。タイトルIX(男女平等、教育などに関連する 連邦公民権法https://en.wikipedia.org/wiki/Title_IX)政策でも、#MeTooでも、アメリカの大学特有の文化戦争でもない。もっと大きな何かが起こっており、それはほぼ同時期に世界中で広がった。韓国は極端な例だ。韓国の若い男性は圧倒的に保守的だ。若い韓国の女性は圧倒的に進歩的だ。その差はアメリカよりもさらに大きい。その要因には、男性への兵役義務(女性は免除されるのに対し、男性は18ヶ月の兵役義務)と熾烈な経済競争が挙げられる。しかし、格差の拡大のタイミングはスマートフォンの普及とほぼ一致している。この原因が何であれ、アメリカ的なものではない。この仕組みはグローバルなものだ。
This matters because it rules out explanations specific to American politics. It's not Title IX policy. It's not #MeToo. It's not the specific culture war of US campuses. Something bigger is happening, something that rolled out globally at roughly the same time.
South Korea is the extreme case. Young Korean men are now overwhelmingly conservative. Young Korean women are overwhelmingly progressive. The gap there is even wider than the US. Contributing factors include mandatory military service for men (18 months of your life the state takes, while women are exempt) and brutal economic competition. But the timing of divergence still tracks with smartphone adoption.
Whatever is causing this, it's not American. The machine is global.
半導体チップ設計に必要なオープンソースソフトウェアがなく、億単位のライセンス料を払って契約するしかない。
Cadence、Synopsysという米国企業大手でほぼ寡占。高すぎて一部の大学しか契約していない。
マニュアルも公開されていないのでネットを探しても使い方がわからない。
昔は日本語に翻訳したマニュアルが用意されていたが、今は英語と中国語だけだ。サポートに問い合わせようにも英語しかない。
ラピダスが話題になっているが、設計ソフトが米国から輸出停止になったら設計が出来なくなる。
実際、中国へは輸出停止の騒ぎがあった。(発表後、数日で撤回)
他の問題として、新しい構造やアーキテクチャの半導体を設計しようとしても、ソフトウェアが対応していないと作れない。
凄い装置が出てきてもソフトがないから設計出来ないといったことが起こる。
ソフトに対応してもらった場合、ノウハウなどがソフト会社経由で他社にも渡ることになる。
日本では、ソフトウェアエンジニアがそれなりに居るが、半導体チップ設計用のソフトウェア企業が育たなかった。
なぜだろうか。
以下、AIで調べた結果
中国本土の半導体EDAツールベンダー(2025〜2026年現在の状況に基づく)は、急速に増加しており、すでに70〜120社以上存在すると言われています。
ただし、実用レベル・商用化が進んでいる企業はその中のごく一部に限られます。
現在(2026年時点)で特に注目度・実績が高い、または市場で名前がよく挙がる主要な中国本土EDA企業を以下にまとめます。
(注:華大九天=Empyrean、芯華章=X-Epic、概倫電子=Primariusは除外して記載)
| 分野 | 代表的な企業名(中文 / 英文・略称) | 主な強み・特徴 |
| デジタル検証・シミュレーション | "UniVista / 芯瞳科技 芯華章以外で注目" | 大規模デジタル検証、FPGAプロトタイプ |
| アナログ・ミックスドシグナル | "阿卡思微電子(Arcas DA) Actt(成都模拟电路)" | 形式検証ツール、比較的新しいが技術力高い |
| 射頻・マイクロ波EDA | "九同方微電子(NineCube / Jiutongfang)芯和半导体" | 完全国産RFシリーズを追求 |
| 製造・TCAD・計測系 | "东方晶源(Dongfang Jingyuan)立芯科技" | 計測・光学系、DFM関連 |
| その他全般・新興 | "芯聚能(CoreHedge)芯动时代(CoreInitium)无锡飞谱(Feipu)思尔芯(Smit / 国微思尔芯)" | プロトタイピング、FPGAエミュレーション系 |
中国本土の半導体EDAツールベンダーのうち、特に論理設計(RTL/デジタルフロントエンド)、物理設計(バックエンド)、RTLシミュレーション、エミュレータ、アサーション、フォーマル検証、低消費電力、UVM などのデジタル系・検証系に強い企業を、2026年1月現在の状況に基づいて追加でまとめます。
(前回のリストで挙げた広立微(Semitronix)、Xpeedic などは製造/テスト/DFM/RF寄りなので、ここでは主にデジタル・検証寄りの企業を優先)
| 企業名(中文 / 英文・略称) | 主な強み(デジタル・検証関連) | 現状の注目度・実績 |
| 合见工软(UniVista / Hejian) | "デジタル検証全フロー(RTLシミュレーション + Formal検証 + Emulation + FPGAプロトタイピング + UVM + DFT)国産最大規模のハードウェアエミュレータ(460億ゲート対応)低消費電力対応も進展" | "★★★★★ 2025〜2026年に最も勢いあり。デジタル大チップ検証で200社超の実績。無料トライアル開放で急拡大中" |
| 芯华章(X-Epic / Chipstart) | "高性能RTLシミュレータ(GalaxSim)フォーマル検証(GalaxFV)エミュレーション・インテリジェント検証 UVM/アサーション対応強化" | "★★★★☆ AI駆動検証で差別化。2025年に大規模プロセッサ実績多数" |
| 国微思尔芯(S2C / State Micro S2C) | "FPGAベース高速プロトタイピング エミュレーション系最強クラス 大規模SoC検証" | "★★★★ グローバル500社超顧客。デジタルフロントエンド検証の定番" |
| 若贝电子(Robei) | "可視化ベースのデジタルフロントエンド(RTL設計・シミュレーション)Verilog対応・自動コード生成" | "★★★ 教育・中小規模設計向け強いが、実商用大規模チップでも採用例増加" |
| 鸿芯微纳(Hongxin Weina) | デジタルIC全フロー(論理・物理設計含む)を目指す | "★★★ 国産デジタルプラットフォーム構築中。進捗速い" |
合见工软(UniVista) がデジタル検証全フローで頭一つ抜けている状況(特にエミュレーション容量・フォーマル・UVMの統合力が突出)。アメリカ禁輸強化後の2025年後半から急加速。
芯华章 はAI×検証(特にフォーマル・アサーション自動生成)で差別化。
物理設計はまだ華大九天 がリードするものの、完全な国産デジタルバックエンドは2026年時点でもまだ不足気味(一部ツールは強いが全フロー統合は課題)。
全体として、2026〜2027年 に上記企業がさらに合併・買収を加速させ、「中国版Synopsys/Cadence」の原型が出てくる可能性が非常に高い。
1. Charlotte Kuperwasser, PhD
Professor(教授), Tufts University School of Medicine(タフツ大学医学部)所属。
研究分野
Kuperwasser 博士は主に以下の研究に従事しています:
発生期の乳腺組織や乳がんの進展を理解するためのモデルシステム(オルガノイドなど)を開発しています。
腫瘍微小環境と上皮間質(stromal–epithelial)相互作用ががん形成や転移にもたらす影響を研究しています。
幹細胞生物学や分化の制御因子に着目し、がん発生の分子メカニズムを探求しています。
評価・備考
乳がん生物学・組織モデリング領域の専門家として高い評価を得ている研究者です。
2. Wafik S. El-Deiry, MD, PhD, FACP
Associate Dean for Oncologic Sciences, The Warren Alpert Medical School of Brown University(ブラウン大学医学部 腫瘍学担当副学部長)。
Director, Legorreta Cancer Center(ブラウン大学がんセンター長)。
Co-Editor-in-Chief of the journal Oncotarget.
学術的経歴
MD と PhD を取得(University of Miami Miller School of Medicine)。
がん生物学・腫瘍学における世界的に著名な研究者であり、p53 経路と細胞死機構に関する先駆的な研究で知られています。
学術的引用数および h-index は非常に高く、影響力のある論文多数。
がん細胞における p53 の結合部位や制御因子 p21(WAF1)の発見など、細胞周期制御とアポトーシスの基盤研究が代表的です。
TRAIL や ONC201 などの抗腫瘍化合物の効果・作用機序の研究に携わっています。
トランスレーショナルリサーチとして、プレクリニカルから臨床応用につながる分子的知見の獲得に注力しています。
ブラウン大学以外にも、過去に Fox Chase Cancer Center や Penn State、University of Pennsylvania など複数の主要がん研究機関でいくつかの要職を歴任しています。
米政府はマドゥロが麻薬密売の『太陽カルテル』の首領であるとする主張・宣伝を数ヶ月間続けてきたが、マドゥロ誘拐後、米司法省はその主張を取り下げ、『太陽カルテル』は実在しないと認めた。誘拐するためのでっち上げの口実であった。
https://x.com/AlanRMacLeod/status/2008341427856490989
Unbelievable. After months of propaganda claiming Maduro is the head of the dangerous drug-smuggling cartel, the US government has admitted it was all a ruse in order to kidnap a sitting head of state.
『Ingress』は2012年のローンチ以降、位置情報ゲームという新しいジャンルを切り拓いてきた長寿タイトルである。
2021年2月のサブスクリプション型C.O.R.E.導入は、Ingressが短期的な成長や拡大ではなく、長期的な継続を前提とする運営フェーズへ移行したことを象徴的に示した施策であった。
このフェーズでは、プレイヤー人口の漸減やイベント収益の不安定さといった長期運営特有の課題に向き合いながら、競技構造やイベント設計の再配置が進められてきた。
さらに、2025年5月、Niantic, Inc.の一部事業がNiantic Spatial, Inc.としてスピンアウトした。
Ingress運営も同社が担うことになり、以降の運営モデル再構成に大きな影響を与えた。
本レポートでは、2023年以降のXMアノマリーを主軸として、この長期存続フェーズにおけるIngressの運営設計を整理する。
まず前提として、サブスクリプション・日課・シーズン制・勝敗の循環といった要素は、MMOやライブサービスにおいて広く採用されている。
この意味で、Ingressの近年の運営方針はMMOとして特異なものではない。
重要なのは、Ingressが新しい運営形態を始めたかどうかではなく、既存の運営原理がより明確な形で表面化したという点である。
これらの要素により、運営の調整やルール変更が、プレイヤー体験として強く意識されやすい構造を持っている。
2023年のMZFPK (Q1)、Ctrl (Q3)、Discoverie (Q4)シリーズでのグローバル戦の模索を経て、2024年以降、XMアノマリーは、
また、30,800 CMU前後のロードアウトキットは、結果としてイベント参加における一つの基準価格帯として受け止められるようになった。
さらに、2024年シリーズからは、Immunity Instability(ポータル耐性の不安定化)が導入され、バトルの不確定要素が強まった。
この時期の主眼は、参加形態の多レイヤー化と運営の安定化にあったと考えられる。
2025年には、
が導入された。
これらは、XMアノマリー自体の多様化だけでなく、日常的な継続プレイを促す施策として整理できる。
plusGamma (Q1)シリーズでは、
などを通じ、高負荷になりがちなプレイの調整が意図されている。
XMアノマリーの設計は、長期運営の観点では合理的に整理されてきた一方で、プレイヤーの側から見ると、いくつかの不整合を孕んでいる。
第一に、参加形態の多レイヤー化は、結果としてAnomaly Site現地参加の相対的な価値を低下させている。
グローバル戦やローカル戦が並立することで、勝敗への寄与は分散され、現地参加が担っていた「決定的な場」としての位置づけは弱まった。
第二に、ロアの比重低下は、XMアノマリー全体における勝敗の重みを弱めている。
かつてロアは、勝敗に物語的意味を与え、反復的な行動を「役割」として位置づけることで、競技そのものへの納得感を支える装置として機能していた。
これは運営の失策というより、長期存続を優先した設計の帰結であろうが、プレイヤー側にとっては不条理として受け取られうる変化でもある。
Niantic Spatialは、自らを純粋なゲーム会社ではなく、地理空間AI・リアルワールドデータを扱う企業として位置づけている。
その中でIngressは、
Ingressは単なるゲームではなく、リアルワールド体験を継続的に設計・検証するための基盤でもある。
Ingressは、拡大は見込みにくい一方で、長期的な行動データとコミュニティを保持している点で、Niantic Spatialにとって価値の高い存在である。
安定した運営モデルを確立することは、Ingressを「終わらせない」ためだけでなく、空間コンピューティングやリアルワールド体験の実験場として維持するため、という側面も持つ。
Ingressは、成熟期を越え、「終わらせないこと」を前提とする長期存続フェーズに入ったライブサービスである。
XMアノマリーをめぐる違和感や評価の分かれ目は、この前提をどう捉えるかに集約される。
では、XMアノマリーは「競技」なのか、それとも「維持装置」なのか。
XMアノマリーは、プレイヤーにとっては競技であり、運営にとっては維持装置である。
勝敗や戦略は依然として存在するが、その重みは長期運営を前提に調整されており、目的は優劣の決定そのものではなく、陣営対立やコミュニティ活動を持続可能な形で循環させることにある。
この変化は、2021年のC.O.R.E.導入以降に明確化された「終わらせないための設計」と、2025年のスピンアウトによって組織的に固定された運営方針の延長線上にある。
しかしそれは、ゲームが変質したというより、長期存続を選んだ結果が明確に見えるようになったと捉えるべきだろう。
Regarding the EU Omnibus Bill, Japanese experts appear to be lobbying your organization and other institutions. I believe the following points require attention:
1) It has become common in Japan to consider regulations regarding making decisions about individuals as the core of personal data protection, but this is a mistake. First, it is important to note that models trained on personal data or insights gained from statistically analyzing personal data can affect individuals even when used to make decisions about a group (rather than individuals). Second, such insights and models can be used by anyone, not just those who analyzed or trained them. On the other hand, if personal data is accumulated in a rich form, it can be used for various analyses, so the accumulation itself can be a threat.
2) Therefore, the core of personal data protection regulations is to curb the diversion of personal data beyond the intended use in the original context in which it was received, and the collection and distribution of personal data without limiting its purpose. Japanese law (as in the Omnibus Bill) defines personal data as data that may be personal data for one entity but not for an entity that does not identify the individual. As a result, this curb does not work well in Japan, and it has led to confusion and complexity in on-site practice. I believe the EU should not repeat Japan's mistakes.
3) Allowing the training of general-purpose AI with personal data as a "legitimate interest" is tantamount to abandoning the curb mentioned in paragraph 2) above. Even if it is proven that current LLMs are unable to recognize individuals in an integrated manner across multiple training data sets or RAG entries, this merely means that this has not been achieved with the current state of technology, and I believe that this should only be permitted if explicitly stipulated as an exception.
EUオムニバス法案に関して、日本の専門家が貴団体をはじめとする機関にロビー活動を行っているようです。以下の点に留意する必要があると考えます。
1) 日本では、個人に関する決定に関する規制を個人データ保護の中核と考えることが一般的になっていますが、これは誤りです。第一に、個人データで訓練されたモデルや、個人データの統計的分析から得られた知見は、個人ではなく集団に関する決定に使用された場合でも、個人に影響を与える可能性があることに留意することが重要です。第二に、こうした知見やモデルは、分析や訓練を行った者だけでなく、誰でも利用できる可能性があります。一方で、個人データがリッチな形で蓄積されれば、様々な分析に利用できるため、蓄積自体が脅威となる可能性があります。
2) したがって、個人データ保護規制の中核は、個人データが本来の文脈において意図された用途を超えて転用されること、そして、目的を限定せずに個人データが収集・流通されることを抑制することです。日本法の定義によると、(オムニバス法案と同様)ある主体にとっての個人データが、個人を特定できない主体にとっては個人データではないデータとなります。その結果、この抑制は日本ではうまく機能せず、現場の実務に混乱と複雑性をもたらしています。EUは日本の過ちを繰り返すべきではないと考えます。
3) 個人データを用いた汎用AIの学習を「正当な利益」として認めることは、上記2)の抑制を放棄するに等しいものです。仮に、現行のLLMが複数の学習データセットやRAGエントリにまたがる統合的な個人認識が不可能であることが証明されたとしても、それは単に現状の技術水準では実現できていないことを意味するに過ぎず、例外として明示的に規定される場合にのみ認められるべきであると考えます。