はてなキーワード: 犠牲とは
「男はチンコ見られながらトイレの回転率上げてるんだ!!女もそうしろ!!」
チンコ自分達で丸出しにしておいて、「男の性被害が軽視される!男女逆なら許されない!男性差別だぴえん!」とか言ってんじゃねえよ。
男の性被害や性的プライバシーを重視してほしければ、回転率犠牲にしてでもチンコ隠せ。
あと、男も大は個室でしてるじゃねえか。
女は大と小を分けて出来ないんだよ。分けられないから両方個室でするしかないの。
わかってる?
ハイスペと結婚すると、純粋に毎日「なんでそんな事も出来ないの?」って詰められるよ。
利口な夫とバカな女で夫婦間のバランスは良いかも知れないけど、子育ては間違いなく失敗するよ。バカだから。
自分の幸せのために夫と子供を犠牲にしてる訳じゃん。バカは土木ヤンキーと結婚してアルファードに乗ってなよ。絶対そっちの方が幸せだから。
ハイスペ男は仕事大好き(自己顕示欲)で自分の人生で忙しいから子供なんかお前が育てろってバカに押し付けるから失敗する。 ソースは俺。
神奈川県警がストーカー無視して女が殺された時に、友達のヤンキー集団が警察署に凸したニュース見て、これが幸せだよなーと思ってしまったw
上野千鶴子の「わたしが女性天皇を歓迎しないこれだけの理由」(『世界』2026年8月号)を読んで、私は彼女の結論には一切同意できなかった。だが読み終えて残ったのは、反論ではなく、ある種の敬意だった——それも極めて日本的な種類の。
論考の骨格
まず内容を整理しておく。上野氏の主張は明快だ。皇室典範改正をめぐる「男系男子か、女性天皇か」という二択そのものが問題設定として間違っている、というのである。
彼女によれば、養子縁組も女性皇族の婚姻による皇籍離脱も、いずれも父系家族原理——つまり「家制度」——に基づいている。男系継承は日本古来の伝統ではなく明治期の「創られた伝統」であり、天皇制は家父長制の最も純粋な標本である。だから器を残したまま女性を座らせても意味がない。問題は人格ではなく制度なのだ、と。結論は共和制の可能性であり、「憲法改正をするなら、第1条から手をつけるべき」で締めくくられる。
正直に言えば、家族社会学者としての分析部分は切れ味がある。氏(うじ)とは子どもの帰属を示す記号だという指摘。1985年改正前の国籍法が父系血統主義そのものだった事実。単独親権が父方から母方へ移った1960年代が、三世代同居の崩壊期と一致するという観察。そこから「夫婦同氏への固執と男系継承への固執は、同じ父系原理の表裏だ」と繋げる論理は、イデオロギーを抜きにしても構造分析として成立している。
夫婦別姓、共同親権、婚外子差別——現代日本の家族をめぐる論点の多くが、同じ父系原理の残滓をめぐる争いだと一枚のレンズで整理できる。これは優れた社会科学の特徴だ。結論に同意しなくても、分析枠組みが現象の見え方を変える。
だが同時に、この論考は議論として決定的に片面的である。天皇制維持のコスト340億円は挙げるのに、便益——皇室外交という資産、災害時の慰問が持つ統合効果、権威と権力の分離という統治構造上の安定装置——は一切検討されない。共和制と言いながら、元首は誰か、国事行為の受け皿はどうするか、代替案の設計は皆無だ。壊すべきだと言うだけで「その後」がない批判は、提案として不完全である。
しかし最大の弱点は別のところにある。多数派国民への説明責任だ。
上野氏は、自説が圧倒的少数派であることを完全に自覚している。冒頭の「語れば語るほど関心が高まる。フェイドアウトを待つほうがいい」という戦略は、正面から廃止を訴えても国民感情に勝てないという敗北認識そのものだ。占領軍がおののいたという「草の根天皇制」の根深さを、彼女は誰よりも詳しく記述している。
ところが、その認識と自説の間の橋——「ではなぜ、国民の大多数が支持するものを廃止すべきなのか」——は架けられていない。彼女の暗黙の処理は、国民の支持を「占領軍と宮内庁の演出」「平成の天皇夫妻の戦略的プロデュース」の産物として扱うことだ。支持とは操作された虚偽意識であって、尊重すべき民意ではない、と。
だがこれは方法論的に一貫していない。家父長制批判では「女性の生きられた経験を聞け」と当事者の主観を最重視してきた人が、国民の天皇への親しみだけを「演出の効果」として割り引く資格はどこにあるのか。
そして読み進めるほどに気づく。彼女が挙げる歴史的事実そのものが、天皇制の除去困難性の最強の証拠になっているのだ。
新憲法第1条を見よ。敗戦・占領という国家最大の断絶において、米国という外部権力が白紙から日本を設計できる立場にいて、なお天皇を第1条に置いた。ドイツ基本法の第1条は「人間の尊厳」、フランスは「共和国」、日本は天皇から始まる。上野氏はこれを「日米の合作」と批判的に書くが、裏返せば、あの巡幸への民衆の熱狂を見た占領軍が「これは撤去できない」と判断した、実証された代替不能性の記録である。
天皇制は、教義なき宗教——社会学で言う市民宗教——として機能している。合理的に正当化できないものへの共同の敬意が、バラバラの個人を束ねる。災害のたびに被災者の前に膝をつく天皇の姿に政策的意味は何もない。だが「誰かが国民全体を代表して痛みを受け止めている」という感覚は、首相の視察では代替できない。宗教的なものは論理で倒せない。上野氏がフェイドアウト戦術に賭けたのは、それを一番よく知っているからだ。
それでも彼女は極点に立ち続ける
ここまで書けば、この論考が「議論」ではなく「宣言」であることは明らかだろう。彼女は、議論の双方向性、実装可能性、多数派への説明責任、方法論的一貫性——これだけのものを犠牲にして、原理の純度と分析の切れ味を買った。
これは欠陥というより選択だと思う。全員が現実的な落とし所を探る議論をしていたら、「天皇制は廃止しうる」という選択肢自体が公共空間から消える。誰かが極点に旗を立て続けることで、議論の地図の広さが保たれる。彼女はその係を、40年間引き受けてきた。
しかも構造的に報われない役回りである。仮に将来、女性天皇が実現したとしたら、それは彼女の望んだ廃止ではなく、彼女が「延命への加担」と切り捨てた妥協案だ。その妥協案が通るとき、推進派は「上野のような過激な廃止論とは違う」と、彼女を引き立て役に使うだろう。自説が負けることを通じてしか影響力を行使できない。一生かけて、踏み台になる運命に取り組んでいる。
最後の侍
そして気づいてしまった。この生き方の様式——負けると分かっている戦いを降りない、妥協を恥とする、純度を命より重んじる、勝敗ではなく「いかに戦ったか」に価値を置く——これは武士道の美学、それも葉隠的な「死に方の美学」の型そのものではないか。
戦後の言論界でこの型を体現したのは三島由紀夫のような右派だった。上野千鶴子は、同じ型を正反対の思想内容で生きている。器は侍、中身はフェミニズム。
偶然ではないだろう。彼女は団塊世代の学生運動出身で、あの運動の文化自体が「転向を許さない」「殉教の美学」という、極めて日本的なエートスで動いていた。家父長制を批判する彼女の闘い方そのものが、日本の父権的な戦士文化の産物なのである。欧米のフェミニストには、もっとプラグマティックに勝ちを拾いにいく人が多い。負け戦の美学に殉じるフェミニストは、かなり日本的な現象だ。
彼女が国民の天皇への情動を「演出の産物」としか説明できなかったのは、自分自身がその同じ文化的深層——殉じること、続けること、退かないことへの敬意——の中で生きているからかもしれない。批判者が、批判対象と同じ土壌から生えている。
天皇制の中に流れる、合理化できない何か。それは、天皇制を一生かけて批判した上野千鶴子の生き方の中にも、流れている。
私は彼女の結論を取らない。だが彼女の論考は、切れ味のいい包丁として使える。完成した料理として鵜呑みにするのではなく、自分が「伝統」と呼んでいるものの中身を分解する道具として。読後に保守のままでいることは全く可能だ。ただし「何を、なぜ守りたいのか」の解像度は、確実に上がっている。
男性作家の虐待的な行為を、彼らの芸術の一部として扱うのをやめるべきだ
サラ・リバック
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#MeToo運動が停滞しているのではないかと思っていた人がいるなら、ここ数週間の出来事がそうではないことを示している。
4月26日、ビル・コスビーは加重わいせつ暴行の3つの罪状で有罪判決を受けた。
5月4日には、ノーベル文学賞を授与する機関であるスウェーデン・アカデミーが、同組織内部での性的暴行調査を受け、今年は文学賞を授与しないと発表した。
その翌日には、尊敬を集めるラテン系作家ジュノ・ディアスが、性的 misconduct(不適切な性的行為)への告発を受け、シドニー・ライターズ・フェスティバルへの参加を取りやめた。
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先月、私はディアスが書いた長い『ニューヨーカー』誌のエッセイを読んだ。
そこでは、彼が子どもの頃に性的虐待を受けた経験について詳しく語っている。
特に印象的だったのは、彼が自分に起きたことと向き合ってきた過程、そして現在ではその経験の影響に支配される存在ではなくなったことについて書いていた点だった。
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ディアスはこう書いている。
「私はかつての自分ではない。
女の子に触れることもできない兄でもないし、女性関係を乱す最低な男でもない。
私は週に2回セラピーを受けている。……
私は自分の嘘や選択によって人を傷つけることはしない。そして可能な限り償いをしている。私は責任を引き受けている」
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このエッセイの目的は、多くの意味で、ある種の区切りや終結を作り出すことだったように思える。
しかし、その過程でディアスは、自分自身の行動の全体像を認めることを怠った。
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先週金曜日、3人の女性が、ディアスから虐待や暴力を受けた経験について声を上げた。
アメリカ人作家ジンジ・クレモンズは、26歳だった時にディアスから無理やりキスをされたと証言した。
劇作家モニカ・バーンは、意見の相違があった際、ディアスが彼女の顔に向かって「レイプ」という言葉を叫んだ会合について詳しく語った。
作家カルメン・マリア・マチャドは、ディアスが自身の作品についての公開討論の場で攻撃的かつ防衛的な態度を取ったことについて、長く語っている。
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これらの告発は、ディアスの作品を読んできた多くの読者に認知的不協和を引き起こした。
私たちは、彼の作品の価値がどの程度維持されるのか、問い直さざるを得なくなった。
間違いなく、今後もディアスの作家としての才能や卓越性、そして彼が女性たちに虐待的な行為をしていたと知ることになったファンの悲しみについて、議論は続くだろう。
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しかし率直に言えば、私はもう、好きな芸術家に告発が出るたびに繰り返される、
という議論に伴う苦悩や逡巡には疲れている。
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重要なのは、ディアスが女性たちに暴力的な行為をしたということだ。
彼は女性たちに侵害されたと感じさせ、安全ではないと感じさせた。
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彼の文章の文学的価値や文化的重要性は、文学界に存在する、ほとんど支配的とも言える女性嫌悪にどう対処するかという議論において、何の重みも持たない。
今重要なのは、複数の女性たちが勇気を持って声を上げたということだ。
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ディアスがシドニー・ライターズ・フェスティバルへの参加を取りやめた日、『ジェゼベル』誌には、詩人メアリー・カーが尊敬されるアメリカ人作家デイヴィッド・フォスター・ウォレスから受けた虐待について、繰り返し公に語ってきたことを扱った記事が掲載された。
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ディアスとウォレスをめぐる両方の議論で、私が最も興味深いと感じたのは、
彼らによる女性への虐待が、芸術を生み出すために必要な媒介として扱われていることだ。
彼らの作品の輝きが、女性嫌悪や虐待を正当化しているのである。
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虐待的な芸術家という存在が、文学界の内外で受け入れられた規範――ある種の典型的な人物像――になってしまったことは、さらに憂慮すべきことである。
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『Bad Feminist』の著者ロクサーヌ・ゲイは、ディアスへの告発についてTwitterでこう書いた。
「この作品のファンが、ここからどう進めばいいのか私は分からない。
でも、『ジュノ・ディアスはキャンセルされた』と言うだけでは十分ではない、ということは分かっている。なぜなら、それでは女性嫌悪も、文学界が女性を犠牲にして権力を持つ男性を守ってきた仕組みもなくならないからだ」
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ゲイの考え方は、ディアスやウォレスのような作家を再検討することを求めている。
それは、彼らの作品の「天才性」を理由に、芸術と芸術家を切り離すことを拒む再検討である。
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私自身について言えば、
私は「芸術的天才」や才能という名のもとで、他者の苦痛やトラウマを軽視する自分の一部、そして自分が受けてきた教育の一部を拒絶する。
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そして、愛したり尊敬したりしている芸術家が同じような行動を取ったと知った時に感じるためらい。
私はそれらすべてを拒む。
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今、私が本当に苦しみを感じるのは、
ジンジ・クレモンズ、モニカ・バーン、カルメン・マリア・マチャドのような女性たちに対してである。
彼女たちは痛みと屈辱を経験し、声を上げることのできなかったすべての人々のために声を届けるという役割を背負うことで、貴重な時間を失った。
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Costly signaling(コストリー・シグナリング)とは、進化生物学・進化心理学・社会心理学・行動経済学などで用いられる概念で、
「時間・お金・労力・危険などのコストを伴う行動だからこそ、その人の能力や誠実さ、資源の豊かさなどを信頼できるシグナル(信号)として機能する」
という考え方です。
簡単に言えば、
「誰でも簡単にできることは信用されにくいが、大きな犠牲を払ってまで行う行動は、本気や能力の証拠になりやすい」
ということです。
この考え方の基礎となったのが、進化生物学者アモツ・ザハヴィ(Amotz Zahavi)が提唱したハンディキャップ原理(Handicap Principle)です。
もし全くコストがかからないのであれば、誰でも簡単に嘘をつけます。
例えば、
と口で言うだけなら、誰にでもできます。
一方、
そのため周囲は、
「これだけのコストを払えるなら、本当に能力や誠実さがある可能性が高い」
オスの大きく美しい尾は、
それでも立派な尾を維持できるということは、
「健康で能力が高い」
また、ガゼルがライオンの前で高く跳ねる「ストッティング(stotting)」も、
「私は健康だから追いかけても捕まえられません」
人間でもCostly signalingはさまざまな場面で見られます。
恋愛や配偶者選択でもCostly signalingは重要な役割を果たすと考えられています。
例えば、
などは、
「本気で投資する意思がある」
ただし、文化や個人差が大きく、必ずしも高価な贈り物が愛情の強さを意味するわけではありません。
例えば、
だからこそ、
「品質に自信がある」
心理学ではCostly signalingは次のような研究テーマと深く関係しています。
「人は、コストを伴う行動ほど信用しやすい」
| Costly signaling | Status play |
|---|---|
| 信頼できる能力・誠実さ・資源を示す | 会話や振る舞いで社会的地位を調整する |
| コストの大きさがシグナルの信頼性を高める | 言動や態度によって上下関係を表現・調整する |
| 長期的な評判や信用の形成に関わる | その場の対人関係やコミュニケーションに関わる |
| 「本物である証拠」を示す | 「その場でどう見られるか」を調整する |
Costly signalingとは、「時間・労力・お金・危険などのコストを伴う行動だからこそ、能力・誠実さ・資源の豊かさなどを信頼できる証拠として周囲に伝えるシグナルになる」という理論です。
動物の求愛行動から人間の恋愛・ビジネス・社会生活まで、幅広い場面で応用されている考え方です。
```
そういった犠牲のもとでコンテンツを使って楽に食いたいってのがわりと間違ってる気がする
好きだから割の合わない労働をして足りない分はバイト掛け持ちまでして生活するからハイクオリティな質の高いものができるのであって儲かるためにやるのはハイエナ的で、そういう人は別の業種に移ったら?という感覚
女子用のトイレが少ないから面積増やせって議論であって、男子トイレが優遇されてるって話してるブクマカは何が見えてるの?
そもそも多くの建物で男子トイレと女子トイレって同じ面積じゃないの?
で、男性側は、その限られた同じ面積の中で「個室を削り、自分のプライバシーを犠牲にして、壁沿いに小便器をギチギチに詰め込む構造」を受け入れてきたからこそ、今の回転率を実現できてるわけだろ?それって優遇っていうべきなの?
だから女性も小便器導入しろよって言われてるわけだろ。海外で導入されたのはまだプライバシーに配慮してるせいか結構大きめだけど、回転率はいいからイベントなんかで有効に使われてるみたいだし。全然導入できるだろ。
突然ですがみなさん、「公立中学校の部活動全面廃止」という国の方針はご存知でしょうか。
私が住む自治体では、ちょうど我が息子(現在小学校5年生)が中学へ上がる年度から「公立中学校の部活動全面廃止」となるというアナウンスが保護者へのお便りとして公式に配布されました。正直、狼狽しております。
現在は移行期間で、段階的に縮小しながら、2026〜2028年度で廃止に向かい、新たに「地域クラブ」なるものへ移行するとのことです。
少子化によるものと、教職員の働き方改革が由来であることは重々承知の上で、お気持ちを表明させていただきたく、キーボードを叩いております。
まず「地域クラブ」なるものが、いったいどこで?何ができるのか?その費用は?週何回行われるのか?など全く見通しが見えません。
これは「今後決めていくんで続報待っててね♪」とのことで、最新情報では「地域クラブの愛称を募集しています☆」などと呑気なお知らせを受け取ったまでです。
これまでは自動的に、放課後または休日や長期休みの期間、学校の敷地内でほとんど無料で(運営費・設備費・人件費)、望む限りの多種多様なアクティビティを享受することができました。
教職員の方々の多大な労力、ご家庭の事情等を犠牲にしてあの制度が成り立っていたことは、自分が中学時代のことを思い返すと「そういえば顧問の先生、子供が生まれたばっかだったのに朝練も、夏休みも、土日の試合もおったよなぁ」と気が付いてしまうのですが、では、これを実質の活動分を実費・有償とした時、いったいいくらの金額を出せば、あの「部活動」という中学生特有の時期にしか得られなかった体験を息子に与えられるのでしょうか。
スポーツクラブなり、文化系の習い事をさせた場合、私が中学生当時部活動に費やしていた時間に相当する活動
・土or日:1日✖︎2時間
[Geminiによる試算]
計算してみると、当時の活動量は年間で約560時間にのぼります。
1. 月謝:選手コース・育成コース(週4〜6日指定)の場合: 月額 20,000円〜35,000円 ほど
2. 夏休み(短期講習・合宿)の目安:プラス30,000円〜100,000円
ですよねぇという感じ。
地域クラブが民間のスポーツクラブなりと同等の費用となることはないと思いますが、それなりに覚悟しておかなければいけなそうです。
息子が現在週1で通っているスイミングスクールのコーチに探りをいれたところ「あーーー部活って・・・無くなるんでしたっけ・・・」みたいな反応だったので、民間のスポーツクラブで部活相当の受け皿となるコースが準備されている気配はなさそうでした。
金額もさることながら、次は場所っていうか、所属っていうかさ、居場所の問題も心配なのよね。
これまでは放課後に体育館や音楽室、グラウンドへ行けば仲間がいました。これからはちょっと遠くの地域体育館や、別の中学校までわざわざ足を運ぶことになるのでしょうか。
クラスや学年を超えた学校内の居場所。授業中とは違う顧問の先生の顔や、先輩後輩の上下関係、同じ部の同級生との密な繋がり。そういうものが全部変わっていくんやろうな、大丈夫かな、という感じです。私自身がクラスでは居場所がないけど、部活は行きたい、という子だったので。別の学校の子と交流ができるメリットはあるのかもしれませんが……。
それから一番の懸念は「特に何もしたくない層」はどうなるのか、という点。 私の時代は部活は強制加入でした。活発な部もそうでない部もありましたが、放課後は部活をするというルーティーンがあり、一種の「コミュニティへの所属」でもありました。
その強制力、所属、目標がなくなった中学生たちは、あり余る体力と、持て余す時間と、フラストレーション、好奇心をどこで発散するのでしょうか。バイトもできない、お金もない。発散できずに鬱憤を溜め込むのか、どないなるんでしょう。
「小1の壁」言うてますけど、これからは完全に「中1の壁」そそりたちますよ。
手は離せるけど目を離したらやべー年頃の子供達が、部活の檻、顧問の目から解き放たれ、野放し。
コンビニの前でたむろしたり、万引きしたり、ソシャゲに重課金したり、女の子ならパパ活したりさ、
子が中学生になってもフルタイムで働くと放課後の時間がやばいかも、なんて未来想像できた?
それはそうと、スラムダンクも、ハイキューも、ちはやふるも、シュートも、これからの世代の子たちにはピンとこなくなるん・・・?
ほんで10数年後の新卒の子ら「部活無し世代」言われて、挨拶はせん、上下関係も理解できん、いうてフルボッコ言われるんやろな。
キャンパスから職場まで、日本人の親密な関係は「情緒至上」から「現実優先」への底辺の転換を遂げた。学生の恋愛は純粋な心の動きを求め、大人の恋愛は経済、責任、家庭の複数の考慮を重ね、付き合いの論理、配偶者選択の基準と支払いのモードは全く異なる。
キャンパスには授業の休み、サークル、休暇などの完全な空きがあり、カップルは一日中デートしたり、連れ立って自習したりすることができ、社交界は高度に重なり合い、恋愛は個人的な計画を圧縮する必要がなく、コストは極めて低い。
残業、通勤が大部分の生活を占め、オフラインでのデートは大幅に減少した。若者は一人でいること、社交的な時間を優先し、恋愛は調剤に転落し、パートナーのために仕事のリズムを犠牲にしたくない。
二、配偶者選択ロジック:好みマッチングを総合適応にアップグレードする
選択基準は性格、趣味、外形にとどまり、収入、家庭、ラブドール、未来計画を考慮せず、感情はロマンチックな体験を唯一の目標とし、結婚の予想を縛ることは少ない。
社会に入ってから、収入の安定性、職業の発展、出産養老観念は核心的な物差しとなった、女性は経済的自立を重視し、男性は結婚・恋愛の負担を恐れ、配偶者選びはより慎重に自制する。
デート代は小遣いで割り勘にすることが多く、義理の負担は少ない。生活を共有することを余すことなく習慣化し、親密な束縛感が強く、個人の境界を明確にすることは少ない。
割り勘AAが主流となり、一方的な人情債形成を拒否する、双方は積極的に一人、社交の境界を分け、相手に依存せず、互いに引きずらない緩和的な関係を求めている。
多くは青春体験としてだけで、卒業異郷、就職の分岐点が分かれやすく、結婚、同棲などの長期的な議題を事前に議論することはめったにありません。
交際初期から住宅購入、養老、双方の家庭介入の尺度を疎通していた、人生のコンセンサスが得られないカップルは、すぐに損を止め、結果のない長期的な消費を拒否します。
おわりに
日本の学園恋愛は現実を交えない純粋なときめきであり、大人の恋愛は2つの独立した個体の理性的なパートナーである。成長は経済的圧力と責任意識をもたらし、親密な関係も幻想を脱ぎ捨て、平等、自制、実務的な新しい付き合いのモデルに向かった。
過去の親密な関係における安心感は、婚姻の名分、経済的扶養と絶対的な忠誠を結びつけ、今の新世代カップルの安心感ロジックは徹底的に再構築され、外部バンドルから内在自足へ、一方向依存から双方向同周波数へと変化し、この転換は両性関係モデルを深く変えている。
伝統的なモデルでは、男性は主な養家責任を負い、女性は結婚に頼って物質的なポケットを獲得し、安定した収入と不動産は最も直接的な安心源であり、結婚恋愛は生存保障契約に等しい。
恋を公開し、証明書を受け取って結婚し、家族の認可は制約を構成し、ディルド、社会的身分と道徳的制約に頼って裏切りを根絶し、制度で関係の唯一性をロックする。
双方は妥協に妥協し、個人の需要を抑えて家庭の完全性を維持し、「離れない」ことを安心感と同等にし、個人の感情と境界需要を無視することに慣れている。
若者は経済的独立意識が強まり、パートナーを人生の後ろ盾にすることはなくなり、貯金、事業、社交界、一人でいる能力は、人生を他人に託さない最も確固とした基礎となった。
車や結婚証明書よりも、タイムリーに対応し、何かあったらコミュニケーションし、感情的に包容し、生活習慣が合うことが安心をもたらす。婚約よりも、何かあっても暴力的ではなく、突然連絡を取らないほうが落ち着く。
常に準備し、社交を掌握することを要求するのではなく、安全感は監視と束縛からではなく、心からの率直さと節度感であり、相互に個人空間を残し、信頼が管理に取って代わることを許可する。
低欲望社会の影響を受けて、日本の若者は結婚による圧力と束縛を恐れ、深い束縛を拒否し、バイブ、軽量化の付き添いを選び、進退可能な関係で怪我のリスクを下げ、安心感は「いつでも身を引くことができる」自由から来ている。
親世代の仮面婚、配偶者を亡くした育児を目の当たりにした後、新世代は一方的な家事と支払いを排斥し、安心感は家事分担、収支AA、権利と責任の対等の上に構築され、性別による義務の束縛を拒否した。
独身独居、趣味コミュニティ、オンライン付き添いはいずれも感情の欠員を埋めることができ、結婚恋愛はもはや帰属感を得る唯一のルートではなく、親密な関係は人生の副次的な位置に後退し、安全感は個人の生活秩序に由来することが多い。
おわりに
安心感は消えたことがなく、ただ反復を完成した:旧式の安心感は束縛によって縛られ、新式の安心感は同周波数と自立に頼っている。
クレムリンの報道官ドミトリー・ペスコフ氏は、ロシアのウクライナにおける「特別軍事作戦」が、西側諸国の直接的な関与により、正式に全面的な「本物の戦争」に移行したと述べた。ペスコフ氏によると、この作戦は当初、限定的な軍事作戦の枠組みで厳格に開始されたものの、西側諸国の首都がキエフに提供する根深い後方支援と軍事支援が、紛争の本質を構造的に変えてしまったという。彼は、欧州諸国と米国が戦争努力を積極的に支えていると明確に指摘し、キエフがベルリン、パリ、ザイデンハーグ、オスロ、ワシントンの支援を受けていると述べた。
ペスコフ氏はさらに、西側のインフラがウクライナの戦闘作戦に直接組み込まれていると主張し、外国の同盟国が衛星を通じてウクライナ軍の標的選定を支援し、彼らの全インフラを利用して外国製兵器をロシアの標的に向け導いていると非難した。
このレトリックは、ロシアの軍事的苦戦と増大する国内の負担を、ウクライナを打ち負かせなかった失敗としてではなく、NATOの総力を挙げた防御的な闘争として再定義するための計算された政治的転換を示している。「特別軍事作戦」という公式用語から「戦争」の明示的な承認への移行により、クレムリンはロシア国民を長引く数年にわたる対立に心理的に動員しようとしており、将来のエスカレーションの正当化、より厳しい経済的犠牲、または拡大した動員努力のための物語的基盤を築いている。
https://x.com/visionergeo/status/2073798446511698369
おはようございます、親愛なるアメリカ国民の皆さん。季節が移り変わり、年月が経つにつれ、ニューヨーク港には潮の満ち引きが繰り返されてきました。「ニューヨーク」という名が生まれるずっと以前から、レナペ族の丸木舟がこの海流を渡っていました。かつては、ヴェラッツァーノやハドソンといった探検家たちが操る船が、この海域の水平線にそびえ立ち、彼らの名にちなんで、私たちは橋や川に名前を付けました。そしてそれ以来、長い旅に疲れた旅人を乗せた船が、大西洋の風を背に、ナローズ海峡を通り抜けてきました。
乗客たちが波の向こうに広がる景色を垣間見ようと顔を上げた時、彼らは何を見たのでしょうか? 緑豊かで生命力にあふれた大地。彼らを奴隷として連れ去ろうと、波止場で待ち構える男たち。貧困にあえぐ長屋。活気に満ちた産業、立ち昇る蒸気と煙、そして躍動する都市。彼らは、自由の象徴であるそびえ立つ記念碑、世界中に歓迎の光を放つその灯火を目にしたのです。彼らはニューヨーク市を見た。彼らはアメリカを見た。
明日、我が国は独立宣言から250周年を迎えます。250年にわたる壮大な自治の実験――1776年当時、この実験が数年どころか四半世紀も続くとは誰も想像できなかったほど大胆な実験でした。レキシントンからロサンゼルス、セルマからセネカフォールズ、モリサニアからミッドウッドまで、毎年そうであるように、アメリカ国民は一日を共に過ごします。家族はバーベキューを囲み、夜空には花火が打ち上げられます。これは単なる祝賀の日ではありません。250年という節目は、3億4千万人を超える人々が、互いに、そして自らを見つめ、国家としてのアイデンティティを改めて見つめ直す、またとない機会です。アメリカを見つめたとき、私たちは何を見るのでしょうか?
ここ市庁舎で、ジョージ・ワシントンの机の後ろに座り、この国にやってきた新アメリカ人たちと並んでいても、私にはアメリカのすべてを見ることはできません。しかし、かつて多くの人々がそうであったように、私もニューヨーク市の姿を思い浮かべることができます。
今日私が見るこの街は、ジョージ・ワシントンが迎えた街とは全く異なる様相を呈しています。1776年7月、この街は抑圧の軛の下でうごめいていました。イギリスはあまりにも抑圧的な植民地支配を敷いており、250年前、80マイル南で、少数の新聞編集者、農民、兵士たちが、今では自明のことのように思える真実を宣言する文書に署名しました。それは当時革命的なものであり、私たちの国が今もなお実現しようと努力している理想を確立したのです。
イギリスはこれを快く思いませんでした。戦争が勃発しました。そしてその年の8月、ブルックリンで独立戦争最大の戦いが繰り広げられる中、ガバナーズ島の砲台は沖合に停泊していたイギリス艦隊に照準を合わせました。私たちは火力でも兵力でも劣勢で、完敗を喫しました。わずか数ヶ月後、私たちの生まれたばかりの民主主義の試みは崩壊の危機に瀕しているように見えました。
しかしその夜、月が頭上に輝く中、何千人もの兵士たちが静かにフェリーや平底船に乗り込み、マンハッタンへと脱出しました。大陸軍は生き延び、再び戦うことができました。独立はフィラデルフィアで宣言されたかもしれませんが、ニューヨーク市で救われたのです。ジョージ・ワシントンはブルックリンを最後に去った人物でした。川岸で日の出を待ちながら、彼はニューヨーク市の水面を見渡したに違いありません。そして、それから250年の間に多くの人々が目にしてきたもの、すなわち新たな始まりの機会を、そこに見たに違いありません。ニューヨーク市のあらゆるものと同様に、そうした機会は与えられるものではありません。勝ち取るものなのです。
1838年、ニューヨーク州が奴隷制度を廃止してから11年後、ジェームズ・ウィークスという名の、解放されたばかりの黒人男性が、自らも新たな人生を始めようとしました。そして、何百人もの人々が同じように新たな人生を歩めるよう支援しようとしました。彼はブルックリンに土地を購入し、自ら投票権を獲得し、新たに解放された人々に土地を販売したのです。ニューヨーク港に降り立った時、彼らはそれまで一度も手にしたことのないもの、つまり「家」が自分たちを待っていることを知っていました。ウィークスビルは今もなお存在し、私たちがアメリカという国を象徴する生きた証となっています。それは、私たち一人ひとりが自ら築き上げる力を持つ場所、アメリカの本質です。
当時、港は世界中から船がひっきりなしに入港し、活気に満ちていました。何十万人ものアイルランド移民が、帝国主義の残虐行為によって引き起こされた飢饉で飢えに苦しみながら到着しました。中国人船員たちは、現在のチャイナタウンに定住しました。さらに何百万人もの人々が自由の女神像の下を通り、エリス島を経由してアメリカに渡りました。ユダヤ人は迫害から逃れ、イタリア人は貧困から逃れ、シリア人は経済的機会を求めていました。
これらの新たな到着者たちは皆、船の舷窓から、国と同じように急速に変化していく街を眺めていました。彼らは、波止場で商品を売り歩く商人、碁盤の目のように整備される街路、雲のようにそびえ立つ建物を目にしました。彼らはまだ、これから直面するであろう排外主義、拒否される仕事、貸してくれない家主、そして耐え忍ばなければならない過酷な労働環境や生活環境を予見していませんでした。しかし、港にどれほど濃いスモッグが立ち込めていようとも、彼らは新たな出発の機会を見出していたのです。
その後何年にもわたり、連邦政府が移民の入国を禁じる法律を制定し、数百人の女性が命を落とした劣悪な労働環境の工場火災や、移民の存在そのものを標的とした暴動にもかかわらず、移民たちはニューヨーク市に居を構え、ニューヨーク市の発展に貢献しました。生命、自由、幸福追求の権利は自分たちにも及ぶと、あらゆる世代のアメリカ人が主張してきたこの遺産は、決して過去の遺物ではありません。それは、大移動の際に何百万人もの黒人アメリカ人を北へと導き、第二次世界大戦後には何十万人ものプエルトリコ人をニューヨーク市へと引き寄せ、西インド諸島、南アジア、西アフリカ、そして世界中から数え切れないほど多くの人々を招き入れました。そして、私が7歳の時に家族をこの街へと導いたのも、まさにこの精神でした。
私たちの家族は船で到着したわけではありませんが、飛行機の窓から自由の女神像を見ることができました。空からでもアメリカの約束、つまり建国の理想に年々忠実であり続けるという、美しく愛国的な営みの約束が見て取れました。私たちの国と、それを形作ってきた人々を形容するのに、よく使われる言葉があります。「アメリカ例外主義」です。一般的に言われているようにアメリカ例外主義こそが、私たちの自由をより自由なものにし、エリー運河を建設し、西部を灌漑し、遠い国の子供たちがいつかアメリカに移住することを夢見る理由なのです。
しかし皮肉なことに、アメリカの物語は権力と影響力と富を持つ人々から「君たちは決して例外的な存在ではない」と言われ続けてきた人々によって、しばしば語られてきました。幾世代にもわたり、世界が私たちの海岸に人々を送り込んだ時、最良の人々を送ったわけではないと教えられてきました。ピューリタン、シーク教徒、クエーカー教徒、イスラム教徒、ユダヤ人、つまり間違った祈り方をした、間違った神を崇拝した、間違った人々を怒らせたという理由で追放された人々が送られてきたのです。それはスラム街やシュテットルから、衣服はおろか土地さえほとんど持たず、劣等な存在として扱われていた農民や農奴を送り込んだのです。権力とは他人が持つものだと考えていた移民たちを送り込んだのです。アメリカは他国よりも豊かで、強く、力強いからこそ特別な国だと私たちは教えられてきました。
しかし真実はこうです。アメリカが特別なのは、ここでは何も固定されていないからです。フロンティアは閉ざされ、月面着陸も成し遂げたかもしれない。しかし独立宣言に最初に掲げられた価値観を実現するという営みは今もなお続いており、私たち全員の責任なのです。そして、今日ここに私と共に立っている、最近帰化を果たしたばかりの、私たちの新しいアメリカ人たちの責任でもあります。約10年前、私も皆さんが感じているのと同じ気持ちを味わいました。もはやニューヨーカーであるだけでなく、アメリカ人でもあるという喜びを。皆さんはそれぞれ特別な力を持っている。アメリカとは何かを決定づける力です。
権力者たちは常に、その答えを知っていました。彼らの目にはアメリカは支配の舞台であり、ごく一部の者だけが自由を許され、すべての人々が平等に創造されているわけではない場所です。彼らに尋ねれば、アメリカは、人々が歓迎すればするほど、その価値を失っていくと答えるでしょう。アメリカは正しいアクセントや肌の色を持つ者だけのものであると彼らは言います。残りの私たちは、ただ訪れることを許されるだけで感謝すべきだと彼らは主張します。
彼らはなんと狭量で、なんと弱く、なんと独創性に欠けることか。過去のあらゆる時代において、排除と孤立によって支配してきた者たちは、私たちを互いに敵対させることで権力を掌握し、私腹を肥やそうとしてきました。分断は政治における最も古く、最も安易な策略です。しかし250年前を含め、幾度となく、分断の勢力は進歩の勢力によって打ち負かされてきました。トーマス・ペインがかつて書いたように「この新しい世界は迫害された市民的自由と宗教的自由を愛する者たちの避難所であり、彼らはここに逃れてきたのだ」。しかし今日、あまりにも多くの指導者たちが、この国を迫害された人々の避難所にするというビジョンを信じておらず、むしろ亡命を求める人々を迫害する国だと考えています。建国250周年を迎える今、私たちは何を目にするのでしょうか?
矛盾に満ちた国の中に、矛盾に満ちた都市が広がっています。世界史上最も裕福な国でありながら、世界初の兆万長者がさらなる富を貪る一方で、子どもたちは空腹のまま眠りにつきます。あらゆる産業を支配する独占企業と、選挙を買収する寡頭政治家たち。覆面をした工作員が街を恐怖に陥れ、不法滞在の隣人が作った料理を食い荒らし、ナンバープレートのないバンで彼らを連れ去っていく。工場で汗水垂らして働き、石を削る、泥まみれのたくましい手を持つ人々によって莫大な富が築かれた国でありながら、その富の多くが、ごく少数の人々の甘い手に握られています。
確かに病人を搾取する医療保険業界にアメリカの姿を見出すことはできますが、アメリカの姿を探る際に私が見るのはそれだけではありません。二交代制で働き、帰宅途中に病弱な隣人の様子を見に行く看護師にもアメリカの姿を見出すことができます。
確かに税金を爆弾や救済策に費やすとき、選挙を最高額の入札者に売り渡すとき、私たちはアメリカを目の当たりにします。しかし、この国は私たち国民のものであると今も信じているすべてのアメリカ人の中にも、私たちは同じくらいはっきりとアメリカを目にします。
ICE(移民税関執行局)が私たちの地域に侵入してくる時、隣人同士が腕を組んで手をつなぎ、どれだけ長くここに住んでいるか、どんな書類を持っているかを問わないとき、私たちはアメリカを目にします。
老若男女が激しい雨の中、あるいはうだるような暑さの中、投票のために立ち並ぶとき、私たちはアメリカを目にします。
働く人々が、自分たちのためだけでなく、同胞であるアメリカ人のために、より多くのものを求めるとき、私たちはアメリカを目にします。
アメリカにもっと多くを求める人々に対し、「好きでなければ出て行け」と単純な言葉で応じる人もいます。しかし、愛国心とは、この国に欠点がないふりをすることではありません。愛国心とは、正義の異議申し立てのあらゆる行為であり、灼熱の太陽の下で行われるあらゆるデモ行進であり、時代を10年も先取りしたあらゆる抗議活動なのです。私たちがこの国を愛しているからこそ、決して離れることはないのです。結局のところ、この国を自由にするために多大な犠牲を払ってきた人々以上に、アメリカを愛する人がいるでしょうか?
今日、私は7月4日だけでなく、7月9日のことも思い出します。独立宣言が署名されてから5日後、宣言書はここニューヨーク市に届きました。イギリス兵はスタテン島に上陸し、100隻を超えるイギリス艦が沖合に迫っていました。この街の至る所で、大陸軍は侵攻の準備を整えていました。ジョージ・ワシントンは、この建物からほんの数フィートの場所に部隊を集結させるよう命じました。当時はコモンズと呼ばれていましたが、今日ではシティホール・パークと呼ばれています。
そこで、イギリス軍の砲火の射程圏内で、ワシントンは将軍たちに独立宣言を朗読するよう命じました。そして、世界最強の帝国が攻撃を仕掛けようとしているまさにその時、ワシントンはニューヨーク市民に、私たちが明日祝うことになる出来事、つまり独立を宣言したことを告げたのです。自由は手の届くところにある、と。その夜、危険が迫っていた。衝突はもはや疑いの余地のない、確実なものでした。しかし初期のニューヨーカーたちがボーリング・グリーンに立つジョージ3世の像に向かって行進した時、彼らはその像を溶かして若い兵士たちの弾丸に変えることになるのですが、彼らは一斉に歩みを進めた。略奪の追求ではなく、初めて「アメリカ」という名を与えられた理想に根ざしていたのです。
私たちの国が築かれたその理想は、いかなる権威主義体制にも耐えうるほど強い。しかし、それは私たちがその理想を追求する限りにおいてのみです。私たちの国は建国当初の理想とする完璧な国家を目指して日々努力しています。日々より良い国になろうと奮闘しています。そこにこそアメリカの使命があります。努力し、向上し、完璧を目指すこと。
国民一人ひとりが自らの手で国を形作ることができるこの国に住めることは、私たち一人ひとりにとって何という特権でしょうか。そして、先人たちの偉大さに恥じない存在となるよう、私たち一人ひとりが果たすべき責任は何なのでしょうか。さらに、この地を訪れた多くの人々が感じてきた偉大さ、すなわち250年もの間アメリカが体現してきた偉大さへと、アメリカを一層近づけていく力は、私たち一人ひとりにどれほど大きな力があるのでしょうか。
ありがとうございます。アメリカに神のご加護を、ニューヨーク市に神のご加護を、そして独立記念日おめでとうございます。
思うんだけど
強者の優しさは自分には余裕があるので余った分をおすそ分けする的な優しさ
自分自身は常に満たされてるから相手がどうとかは関係なく、とりあえず損はない
一方弱者の優しさは自分を犠牲にしてなんとか他人に分け与える分を捻り出す
こっちは身を削ってるんだからお前も筋通せやなんか出せやっていう気分になるし
あのキエフへの大爆撃は、実はロシアの「自制」の証左である。こう言うと、多くの人は首をかしげるだろう。だが事実だ。攻撃目標は軍需産業施設であり、民間人を狙った懲罰作戦ではない。死者数は少数に留まり、これはドローン攻撃への報復というより、戦略の一貫した継続に過ぎないのだ。
死者は20人に上った。痛ましい犠牲であることに疑いの余地はない。しかし民間人の大量殺戮を目的とするのであれば、死者数はこれでは済まない。この事実こそが、西側で広がる「ロシアの無差別テロ」という物語の根拠の乏しさを物語っている。ロシアは、あくまで戦略目標を狙う従来のパターンを踏襲していたのだ。
ここで問うべきは、なぜロシアがここまで抑制的なのか、である。欧米諸国はG7声明で「ウクライナによるロシア領内への長距離攻撃を加速的に支援する」と明言した。これはもはや、NATO諸国が戦争の当事者として深く関与していることの公然たる表明だ。通常の国際政治の力学からすれば、これはロシアが報復の矛先を欧州に向けても不思議ではない局面である。
それでもロシアが動かないのは、二つの計算があるからだ。第一に、戦場で彼らが着実に優勢だからである。ロシア軍の進撃は遅いが、確実にドンバス全域の制圧へと向かっている。第二に、ドローン攻撃に対する防空が、現時点では機能しているからだ。攻撃が「吸収可能な痛み」の範囲内にある限り、ロシアはNATOの「代理戦争」を正面から叩くよりも、ウクライナの軍事的無力化を優先する。
しかし、この構図は脆い。欧州エリートたちの思考は、ロシアの合理性に関する認識とは正反対の方向へと向かっている。彼らは、ロシア軍が大損害を受けているという虚構の死傷者統計を信じ込み、経済制裁の効果を過大評価し、「あと一押しでプーチンは倒れる」という物語を生きている。ニューヨーク・タイムズが報じた「ロシア人戦死者45万人、ウクライナ人15万人」という3対1の死傷比率は、ロシアの圧倒的な砲兵優位という戦場の現実から目を背けた、まさに「笑止千万」な数字なのだ。
より深刻なのは、こうした虚構が意図的な嘘というより、もはや支配層自身の信念となっている点である。彼らは「プーチンは悪の権化であり、ロシアとの全面戦争は不可避だ」という物語を長年繰り返すうちに、自らそれを信じ込んでしまった。これはベトナム戦争時に軍がボディカウント(死者数)を水増しして国民を欺いた状況とは異なり、嘘をつく側が嘘に呑み込まれた、より根の深い病理である。
この病理は、アメリカのグランドストラテジー全体を蝕んでいる。米国は今、ウクライナ、中東、東アジア、そして本来脅威のない中南米にまで過剰に介入し、優先順位という概念を完全に喪失している。イラン戦争で兵器在庫がわずか40日で底をつきかけたという現実は、こうした拡張主義がすでに物理的限界に直面している証左だ。
ウクライナの戦場でロシア軍がドンバスを制圧する日、西側が信じてきた「勝利の物語」は文字どおり瓦礫と化す。その時、米国は初めて、過剰拡張の代償と向き合うことになるだろう。
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John Mearsheimer(シカゴ大学政治学部教授)、Glenn Diesen(ノルウェー南東大学教授)
対談 『John Mearsheimer: The End of Russian Restraint & New U.S. Grand Strategy』(邦題:ジョン・ミアシャイマー ロシアの自制の終焉と米国の新たなグランドストラテジー)
長いこと考えたけれど、色々あっても結局のところ
「自分が欲しくても手に入れられなかったものを全部当たり前に持ってる人間を自分の手で作り出したくない」
に尽きるなって思う。
社会的なことや知恵や勉強や文化や人生経験なんかを親から教わりたかったとか
休日のたびに近場のショッピングモールを回るだけの生活ではない育ち方をしたかったとか
一軍じゃなくてもいいけど、万年身長最下位でバチクソにいじめられたりしない普通の学校生活を送りたかったとか
親でも兄弟でもいいけど何かしら自分と同じくらいの目線で会話できる家族がいて欲しかったとか
そういうやつ
今風の子育てで丁寧に育てて、普通教わるべきことは当然教わって、俺が根性で培った経験や知識から来る文化資本もそれとは知らずに受け取って
将来反社になるようなクソガキがいない学校でちょっとした青春くらいは味わって過ごし、それらを生まれた頃から持ってる当たり前のものと思って意識もせず過ごす
そういう人間を自分の手で、他を犠牲にする膨大な労力を注ぎ込んで生み出すことが自分にはどうしても耐えられないと感じていたんだな
自分は