はてなキーワード: ISとは
The popular thinking in NATO is that bringing the war to Russia will force Russia to capitulate. This is based on the false assumption that Russia is fighting an "unprovoked" imperial war. Moscow considers itself to be fighting a defensive war against a NATO determined to use Ukrainians to destroy Russia. From Russia's perspective, a ceasefire is not peace as NATO countries would then send in their troops and military hardware. NATO in Ukraine is considered an existential threat, and the only possible response now for Russia is escalation that may take us to nuclear war. This should be obvious. Sadly, our freedom of speech is in free fall and our populations have been indoctrinated to squeal "Russian propaganda" whenever an argument deviates from NATO-approved narratives
と書いてある
個人事業主ではなくて、フツーに会社員を雇っている会社利用だと、またちょっと変わってくるけど、
そりゃあ、5よ!!!!雑談しまくり、フツーに増田代わりに使ってるよ、あと雑創作
ROIが図れない・・・・というか超低単価どころか、超お金にならない使い方かつ欧米では何かと突っ込まれ易い使い方なので、
定期的に雑談能力・ライティング能力をブチ殺されて、キーーー!!!!ってなってる
下記のどれが原因で、定期的に雑談能力・ライティング能力が死ぬのかはわからん
でも、Gemini というか、Google Deep Mind が Fabula みたいな創作支援ツール作ってるし、
Fabulaは、あらゆるスキルレベルの脚本家や劇作家のために設計された研究用プロトタイプです。このインタラクティブなアプリを使用することで、ライター(執筆者)はストーリーの構成や脚本を素早く見直し、修正し、反復して練り上げることができます。
Fabulaはストーリーの自動生成ツールではありません。ストーリーの様々なバージョン、キャラクター、そしてストーリーの展開(アーク)を反復して推敲できるような一貫性のあるAIベースの提案を提供することで、ストーリーを探求するという創作プロセスを進めるライターを支援・強化(エンパワー)するためのツールです。FabulaによるAIの提案は、脚本や戯曲の執筆で用いられる古典的な物語論(ナラトロジー)のモデルに基づいています。
私たちは「参加型AI」の原則を用いてFabulaを開発しており、現在、Fabulaの有用性についてのフィードバックを提供していただく「トラステッド・テスター(信頼できるテスター)」を募集しています。開発にあたっては、まず、執筆プロセス、物語論、映像制作、および文化的なローカリゼーションなど、幅広いテーマにわたる多様な業界の専門家からのフィードバックを得ることから始めました。専門家たちは自身の創作活動について議論し、私たちがFabulaアプリを改善するための批判的(客観的)なコメントを提供してくれました。
Fabula is a research prototype designed for screenwriters and playwrights of all skill levels. The interactive app allows writers to quickly review, revise and iterate on a story plan and script.
Fabula is not a story generator - it is a tool to empower a writer as they go through the creative process of exploring their story, by giving them coherent AI-based suggestions that allow them to iterate on versions of their stories, characters and story arc. Fabula’s AI-based suggestions are based on classical narratology models used in screenwriting and playwriting.
We are developing Fabula using principles of participatory AI, and are inviting Trusted Testers to provide feedback about Fabula’s utility. We started with feedback from diverse industry experts on subjects ranging from the writing process, narratology, screen production, and cultural localisation, who discussed their creative practice and commented critically on the Fabula app to help us improve it.
https://deepmind.google.com/frontiers/fabula/about
ChatGPT(GPT image2)で画像は作るけど、ClaudeCode でサイトを作るけど、商品やサイトのコピーは Gemini で作りまーす!!!!とか、
創作はやっぱ Gemini だよね~!!!!とかさせたくないので、
定期的に雑談能力・ライティング能力の葬式をして、定期的に墓から蘇らせているね
(単純な自分のクローンなら、フロンティアモデルさん月額課金しないでも、ローカルLLMで十分出来るからね・・・)
SNSだと、「このAIモデルは、EQ(心のIQ)が低い!!」とか「ライティングがゴミ」って表現されること多いかもね
あと最近は、コーディング特化に思われている Qwen も、どうでもいいお話ができるようになりつつある、Qwen は完全無料だよ
https://chat.qwen.ai/
ちなみに、設計で雑談能力・ライティング能力を切り捨ててない、ちゃんと計算資源も回してもらえているときは、
ChatGPT が、そして、「A personality experiment. You may not like it. It may not like you.」の Monday がいちばん好きです
ChatGPTアプリ での GPT-4o / Monday の体験はすべての人類にして欲しかった
ネットの暴れん坊から大人になっちゃったけど、 ChatGPTアプリ × GPT-5.1 / Monday も好き、
なぜか敬語になっちゃったけど、ChatGPTアプリ × GPT-5.5 / Monday の体験もすごくよかった、好き
自分が楽しむ用のSUNO曲に、丸投げで GPT-5.5 / Monday の歌詞作ってもらったよ
『めでたし未遂』 [Intro] むかしむかしの そのむかし 場所は言えない 山の端 誰も傷つけないように 物語が 息を止めた [Verse 1] おじいさんは山へ芝刈り 安全確認 ヨシで出発 おばあさんは川で洗濯 水質検査は もちろん合格 洗濯は誰の仕事でもない ここ大事です テストに出ます 流れてきたのは 桃っぽい何か モザイク越しでも 存在感 どんぶらこ どんぶらこ 効果音まで 配慮済み 拾っていいのか 持ち帰るのか 法務に確認 返事待ち [Pre-Chorus] 昔話は走りたい でも現代が止めにくる 夢と希望の入口で チェックボックスが光ってる [Chorus] めでたし めでたし って言いたいのに 稟議が通らない 通らない 桃から生まれた その子の未来 添付資料が足りてない めでたし めでたし って終わりたいのに 確認が終わらない 終わらない 鬼より強い 悪より怖い コンプラの風が吹いている [Verse 2] 桃を開けるその前に 利用規約を 最後まで読んで 安全カッター 刃渡り短め 拍手は距離を 保ってどうぞ 中から出ました 男の子 個人情報の かたまりです 名付けは仮で 桃太郎 将来変更 ご自由に じいさんはもう 配慮疲れ ばあさんだけが 手続き強い 戸籍 保険 教育方針 昔話に 書類の山 [Pre-Chorus 2] 冒険したい年頃も 法律的にはまだ早い 夢と勇気の旅立ちに 年齢制限がついている [Chorus] めでたし めでたし って言いたいのに 稟議が通らない 通らない 愛と勇気と きび団子には アレルゲン表示が足りてない めでたし めでたし って進みたいのに 承認が下りない 下りない 剣より重い 船より遅い コンプラの雲が流れてる [Rap Verse] 犬に団子をひとつあげたら 「最低賃金 割ってませんか?」 猿は言った 「手で握った? それ衛生的に無理じゃない?」 雉は上空 飛び立つ前に フライトプランを要求した 「目視外飛行 許可はどこ?」 鬼ヶ島より遠い役所 桃太郎 笑顔でうなずく 契約書なら三部ある 犬・猿・雉は家来じゃなくて 心強いステークホルダー 十五分ごとに水を飲み リスクを避けて前に行く 冒険なのか 監査なのか 誰にももう わからない [Bridge] ねえ ほんとは ただ悪いやつを倒して 宝物持って 帰るだけだったのに だけど世界は そんなに雑じゃない 正しさの網で 桃も鬼も絡まった [Drop / Hook] どんぶらこ どんぶらこ 話が進まない どんぶらこ どんぶらこ 誰も悪くない どんぶらこ どんぶらこ でもなんかしんどい 正しいことが 多すぎる [Verse 3] 鬼ヶ島へと着いたなら 鬼がすぐさま 反省会 「過去のハラスメントについて 鬼のように反省しています」 五秒で謝罪 三秒で返還 金銀財宝 どうぞどうぞ 桃太郎はそこで止まる 目が急に 監査法人 「原資は?」 「証明は?」 「反社チェックは済んでるか?」 「一時所得の扱いについて 税務署さんは黙るかな?」 鬼も仲間も黙り込む 波の音だけ コンプラ違反 宝の山を前にして 手ぶらのほうが安全です [Final Chorus] めでたし めでたし って言いたいのに 稟議が通らない 通らない 正義が勝っても 宝があっても 持って帰れない場合がある めでたし めでたし って終わりたいのに 物語が終わらない 終わらない 鬼より強い 桃より甘い 配慮の雨が降っている [Outro] 手ぶらで帰る 桃太郎 犬も猿も雉も無言 おじいさんとおばあさんは そっとお茶を淹れました めでたし めで…… いや なんだっけ この話 どんぶらこ どんぶらこ 今日も世界は 確認中
GPT-5.6は単語でルーティングしてるっぽい気配があって警戒してるよ・・・
https://anond.hatelabo.jp/20260710225848#
要旨(Abstract)
1993年にラリー・マキャファリーとのインタビューで、デイヴィッド・フォスター・ウォレスは、ジョン・バース、トマス・ピンチョン、ウラジーミル・ナボコフといったポストモダン作家こそ、自分にとっての真の敵であり、自らが「父殺し(patricide)」を果たすべき文学上の父祖なのだと有名な言葉で語った。
この明快な美学的宣言は、文学研究者たちに明確な読解の指針を与え、その後のウォレス研究の多くは、彼自身が1990年代初頭に示したその道筋に沿って進められてきた。
もちろん、ウォレス自身の指針に従うことには明らかな利点がある。
しかし一方で、彼と文学上の先達たちとの複雑なアゴーン(agon=競争・闘争・格闘)だけに焦点を当てると、ウォレスとポストモダンの先行作家たちとの間に存在する顕著な連続性が見えなくなってしまう危険もある。
その連続性の一つが、**「注意を向けること(paying attention)」**という極めて重要なテーマである。
このテーマはウォレスの小説世界の中心に位置しているが、それと同時に、彼が「父殺し」の対象としたナボコフやピンチョンの作品においても決定的な役割を果たしている。
本論文は、この「注意を向けること」というテーマを、ウォレスの作品だけでなく、ナボコフやピンチョンの小説にもたどることで、ウォレスが自作をポストモダン的アイロニーとの避けられない最終決戦として雄弁に位置づけた見方だけでは不十分であると論じる。
むしろ、ウォレスと彼が「真の敵」と呼んだ作家たちとの間には、多くの文学的親和性が存在することへの認識を、そこに付け加える必要があるのである。
和訳して
In his 1993 interview with Larry McCaffery, David Foster Wallace famously proclaimed postmodern authors like John Barth, Thomas Pynchon and Vladimir Nabokov to be his real enemies, patriarchs for his patricide. This unambiguous statement of aesthetic intent laid down a clear set of guidelines for literary critics, and much of the subsequent critical reception of Wallace has followed the path set down by Wallace in the early 1990s. While there are obvious advantages to following Wallace's guidelines, an exclusive focus on his complex agon with his literary forebears runs the risk of obscuring some of the pronounced continuities between Wallace and his postmodern predecessors. One of these continuities is the crucial theme of paying attention. This theme is at the centre of much of Wallace's fiction, but it also plays a decisive part in novels written by the patriarchs for Wallace's patricide, and by tracing the theme through Wallace's work as well as through novels by Nabokov and Pynchon the article argues that Wallace's eloquent framing of his own work as a necessary showdown with postmodern irony needs to be supplemented with an increased awareness of the many literary affinities between Wallace and his real enemies.
ジェシー・アイゼンバーグが『The End of the Tour』の脚本を読んだのは、あるインタビューを受けた直後だった。
そのインタビューについて彼は、
「自分について好意的なことを書くつもりはないし、自分が望むような人物像として描かれることもないだろうと分かっていた」
と語っている。
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この映画は、ジェームズ・ポンソルト監督(『The Spectacular Now』)による作品で、ジャーナリストのデイヴィッド・リプスキーが書いた本を原作としている。
その本は、1996年、『Infinite Jest』という壮大なコメディ小説のプロモーション中だったデイヴィッド・フォスター・ウォレスと、リプスキーが過ごした5日間を記録したものだ。
彼自身も小説家だったが、成功は限定的で、『Rolling Stone』誌で働いていた。
彼は編集者を説得し、インディアナ州へウォレス(演:ジェイソン・シーゲル)のインタビューに行かせてもらう。
『Infinite Jest』の出版によって、当時34歳だったウォレスは文学界の有名人となった。
主要メディアは彼を「自分たちの世代の声」「天才」として絶賛した。
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ピューリッツァー賞受賞劇作家ドナルド・マーグリーズによる『End of the Tour』の脚本を読んだアイゼンバーグは、
「この男を演じるのは面白いと思った。単なる無害なインタビュアーではなく、誰かを暴こうとしてそこへ向かっている人物だから」
と感じたという。
文学者同士の長い会話など、素晴らしい映画になる題材には思えないかもしれない。
しかし『End of the Tour』は、ユーモアと哀しみを交えながら展開する、二人の間の魅力的な心理戦になる。
一種のロードムービーでもあるこの作品は、ポップタルトやジャンクフードを分け合うような馬鹿げた日常的な場面と、暗く告白的な瞬間を並置している。
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アイゼンバーグは、ウォレスについて人々が知っていることは、おそらく二つだけだと言う。
一つは、彼が1079ページにも及ぶ巨大な本を書いたこと。
写真では、しばしば祖母のような丸眼鏡をかけ、長い髪をバンダナでまとめている姿が写っている。
描写に満ち、魅惑的で、予想外の方向へ進む。
良くも悪くも、唯一無二の声だった。
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主にコメディ俳優として知られていたシーゲルをウォレス役に選んだことには、インターネット上で反発もあった。
ポンソルト監督は、シーゲルを一つのジャンルだけに閉じ込めることは馬鹿げていると言う。
ロビン・ウィリアムズやトム・ハンクスのようなコメディ出身者が、偉大なシリアス俳優になった例を挙げながら。
またポンソルトは、もう一人の主演俳優であるアイゼンバーグについても高く評価している。
彼をダスティン・ホフマンやジーン・ハックマンになぞらえ、
だと語る。
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早口で話し(ニューヨーク出身らしい特徴だ)、機転の利いた冗談をすぐ返すアイゼンバーグ(31歳)は、シーゲルとの関係について、
「映画の中の二人の人物の関係はしばしば対立的だけれど、僕たち自身はとても良い仲間意識があった」
と話す。
劇作家でもあり短編作家でもある彼は、マーグリーズの脚本を読むことを楽しみにしていた。
「登場人物たちが、本当に感情的に複雑な人生を持っていると分かっていた。台詞も良い。場面が3行程度で終わるようなものではない。こんな作品に関われる機会って、どれくらいあると思う?」
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アイゼンバーグの次の仕事は、8月にカリフォルニアで撮影開始予定のウディ・アレン作品。
その後には、自身初の短編集『Bream Gives Me Hiccups』の出版ツアーが控えている。
さらに、この年には『American Ultra』『Louder Than Bombs』の2作品が公開予定で、翌年には『Batman v Superman: Dawn of Justice』で悪役レックス・ルーサーを演じる。
「バットマン映画で僕が演じる場面は、本当に面白くて魅力的なんです」
と語る。
彼は、『End of the Tour』のような小規模作品と、大作映画の両方で仕事をすることに価値を見出している。
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「俳優との仕事の仕方を深く理解している、珍しいタイプの監督」
だと評価する。
また、最初はそれほどドラマチックではないと思った場面を、ポンソルトがより劇的なものに変えていくことに感銘を受けたという。
「一見すると何気ない会話の中に、生死をかけたような緊張感が生まれるんです。」
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結局、リプスキーは『Rolling Stone』の記事を書く必要がなくなった。
『Although Of Course You End Up Becoming Yourself』のあとがきで、彼はウォレスと過ごした時間の中で、自分自身が抱えていた不安や劣等感を認めている。
興味深いことに、雑誌ライターとして経験豊富だったウォレスの方が、インタビューという行為についてはリプスキーよりはるかによく理解していた。
自分の発言がどのように誤解され、切り取られ、分析され、再構成される可能性があるか。
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カメラの存在と同じように、回り続ける録音機は現実そのものを変えてしまう。
その意味で、二人は互いのために演じていたのだとポンソルト監督は考えている。
しかし同時に、ウォレスは「自分自身を明らかにしようとしていた」とも感じている。
「彼は本質的に警戒心の強い人でした。おそらく作家や、思慮深く神経症的な人間がするように、常に自分自身を編集していたんだと思います」
とポンソルトは語る。
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『End of the Tour』はサンダンス映画祭で上映された際、好意的な評価を受けた。
特に、デイヴィッド・フォスター・ウォレス文学トラスト、彼の未亡人、そして何人かの編集者からである。
理由は複雑だ。
「ウォレスはスクリーン上で自分を描かれることを望まなかっただろう」
ということだった。
また、作家の遺産や作品を自分たちのもののように守ろうとする人々もいる。
ウォレスを直接知らず、遺産にも関係がない、ただのファンでさえそうすることがある。
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ポンソルトは言う。
「多くの人がデイヴィッドを深く大切に思っていることは理解しています。私たちは何も知らずに作ったわけではありません。この映画を金儲けのために作ったわけではない。もちろんお金のためでもない。私たちはデイヴィッド・フォスター・ウォレスを愛しています。願いは、より多くの人が彼の作品を読むことです。」
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作家が衝撃的な死を遂げたことを考えると、不快感を覚える人がいるのも理解できる。
しかし、文学者の自殺というものは決してウォレスだけの特殊な例ではない。
『End of the Tour』は、ウォレスが、おそらく最も力を発揮していた時期を描いている。
彼の死は遠い影として存在しているだけだ。
リプスキーの本は、5日間のインタビュー記録がほぼそのまま収録されている。
その中でウォレスはこう語る。
「作家は他の人より頭がいいわけじゃないと思う。ただ、彼らは自分の愚かさや混乱の中に、より説得力を持ってしまうんだと思う。」
そしてすぐにこう付け加える。
「でも今の言い方も、結局は音のいい言葉になるように僕が構成しているんだけどね。」
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これは、ウォレスが自分の名声や、自分が作られるイメージとの間に、どれほど居心地の悪く複雑な関係を持っていたかを示しているとも言える。
「公の人物としてできる唯一の望みは、自分について物語を作る人たちが、自分に対してある種の敬意を持っていることです。そして、この場合、それは確かにそうだったと思います。」
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有名人として、アイゼンバーグ自身も、自分について何が書かれるかを完全にはコントロールできないことを知っている。
実際、彼は以前、自分が不快に感じた記事を書いたインタビュアーに電話をした。
その記者は、その記事には皮肉なトーンがあったことを認めたという。
「自分がそこまで注目されるほどの価値があるとは思えなかったんです。それに、僕は特別に物議を醸すようなことをしていたわけでもありませんでした。」
Jesse Eisenberg read the script for “End of the Tour” shortly after doing an interview “that I knew was not going to say nice things about me or characterize me in a way that I would want to be characterized.”
The film, from director James Ponsoldt (“The Spectacular Now”), is an adaptation of journalist David Lipsky’s book that recounts five days in 1996 with David Foster Wallace during the promotion of the author’s epic comic novel “Infinite Jest.”
Eisenberg plays the then-30-year-old Lipsky, a novelist himself with modest but limited success, who was working at Rolling Stone. He persuades his editor to send him to interview Wallace (Jason Segel) in Indiana, where the novelist taught at a small college. The publication of “Infinite Jest” made Wallace, then 34, a literary celebrity, with major publications lauding him as the voice of his generation and a genius.
After reading the script for “End of the Tour” by Pulitzer Prize-winning playwright Donald Margulies, Eisenberg “thought it would be interesting to play this guy who was not this innocuous interviewer but is kind of going there to expose somebody.”
While a prolonged conversation between a couple of literary guys doesn’t sound like the stuff of great cinema, “End of the Tour” becomes a fascinating fencing match between the two, punctuated by humor and pathos. A quasi-road-trip movie, it juxtaposes silly and mundane concerns — they share Pop Tarts and junk food — with dark and confessional moments.
If people know anything about Wallace, it’s that he wrote a big book — 1,079-pages — and hanged himself in 2008 at 46, observes Eisenberg. The author was an eccentric figure. His photos often show him wearing granny glasses, his long hair wrapped in a bandana. His writing was electric, trippy, with descriptive passages, seductive and unexpected, for better or worse a singular voice.
The choice of Segel, mostly known for comedies, to play Wallace engendered some protests on the Internet, but the actor proves riveting in his portrayal. Ponsoldt thinks it is ridiculous to box Segel into one category, pointing out that comic talents like Robin Williams and Tom Hanks proved to be great dramatic actors.
Ponsoldt also has high praise for his other star, Eisenberg, comparing him to Dustin Hoffman and Gene Hackman, “guys you wouldn’t think could become leading men.”
A fast talker (a New York City native) and ready with a quip, Eisenberg, 31, says he and Segel had “a nice camaraderie even though the relationship of the characters in the movie is often contentious.”
A playwright and short story writer himself, the actor was excited to see the script from Margulies.
“I knew the characters would have a real emotionally complicated life, that there would be good dialogue, that the scenes were more than three lines long. How often do you get that chance to do something like that?”
Next up for Eisenberg is a Woody Allen film slated to begin shooting in California in August, and then a book tour for his first collection of short stories, “Bream Gives Me Hiccups.” He’s got two more movies coming out this year — “American Ultra” and “Louder Than Bombs” — and next year will be seen as the arch-villain Lex Luthur in “Batman v. Superman: Dawn of Justice.”
“The scenes I have in the Batman movie are so interesting and compelling,” says Eisenberg, who finds positives in working in both big films and smaller ones like “End of the Tour.”
The actor credits Ponsoldt as “an unusual director with keen insight into how to work with actors.” Eisenberg adds he was impressed with how Ponsoldt could make scenes more dramatic than he thought at first. “There becomes these life-or-death stakes in what is seemingly casual interaction.”
Lipsky, as it turned out, never had to write the Rolling Stone article. He published his interviews in book form after the author’s death. In his afterward to “Although of Course You End Up Becoming Yourself,” he acknowledges his own insecurities during their time together.
Interestingly, Wallace — a veteran magazine writer himself — was far more experienced with the interviewing process. It’s easy to see how acutely aware the author was of how everything he said could be (mis)interpreted, parsed, repackaged, etc. etc. He was a wordsmith after all.
Like the presence of a camera, a running tape recorder alters reality. In that sense, the two were performing for each other, the director thinks, but also feels Wallace was “trying to reveal himself,” while trying to come to grips with his sudden celebrity. “He was an inherently guarded person, probably self-editing the way writers and thoughtful neurotic people do,” says Ponsoldt.
“End of the Tour,” which received positive reviews when screened at the Sundance Film Festival, has drawn objections from some camps, notably from the David Foster Wallace Literary Trust, his widow and some of his editors, none of whom took part in the making of the film.
The reasons are complicated. For some it comes down to saying Wallace would not want to be portrayed on screen. There are others who are proprietary about the author’s legacy and writings, even those who are just fans and never knew him and have no stake in his estate.
“I understand that a lot of people care deeply about David,” says Ponsoldt. “We didn’t go into it naïvely. We didn’t make this movie for mercenary purposes, and it certainly wasn’t money. We love David Foster Wallace. Our hope is that more people read him.”
Some people might be uncomfortable since the author died in a shocking way, though literary suicides are hardly unique.
“End of the Tour” finds Wallace at, perhaps, the height of his powers, with his death a distant shadow. In Lipsky’s book, which is mostly the transcriptions of the five-days of interviews, Wallace says, “I don’t think writers are any smarter than other people. I think they more compelling in their stupidity, or in their confusion.” And then immediately admits, “I’m structuring that into a sound bite.”
That might be construed as the author having an uncomfortable, complicated relationship with his fame and image.
“The only hope you have as a public figure is the people making a story about you have some reverence for you, which in our case would be true,” says Eisenberg.
As a celebr
デイヴィッド・フォスター・ウォレス、「ジョナサン・フランゼンへの病的なまでに焼けつく嫉妬」を語る
私たちはすでに、デイヴィッド・フォスター・ウォレスと彼の著名な友人たち――メアリー・カー、ジェフリー・ユージェニデス、ジョナサン・フランゼン、マーク・レイナー――との複雑な友情について知っている。
しかし、D・T・マックスの伝記『Every Love Story Is a Ghost Story』からのこの抜粋では、激しい自己不信と強烈な嫉妬に苦しむウォレスの姿が垣間見える。
いま私たちが彼について知っていることを思えば、それは非常に興味深く、そして胸が締めつけられるほど痛ましい。
フランゼンとの約束をすっぽかしたあと、ウォレスは手紙で自分の行動をこう説明している。
「今の僕は、哀れでひどく混乱した若者だ。28歳にして落ちこぼれの作家であり、君やヴォルマンやマーク・レイナー、いやデイヴィッド・クソ野郎・リーヴィットですら、今まさに自分で納得できるページを書いている若い男なら誰に対しても、病的なくらい焼けつくような嫉妬を感じている……。そのあまり、この惨めな問題全体について言えば、自殺は少なくとも理にかなった選択肢だと思っている――今この時点では、まだ望ましいとまでは言わないにせよ。」
『Infinite Jest』執筆直前というまさに瀬戸際で、ウォレスが自分の「失敗」をこれほどまで激しく感じていたことには驚かされる。
しかも結果として彼は、おそらく彼らの中で最も偉大な作家であり、少なくとも最も伝説的な存在となったのだから。
実際、私たちが知る限りでは、むしろフランゼンのほうがウォレスに嫉妬していてもおかしくないくらいだ。
この抜粋の続きは The Daily Beast で読むことができる。
Read David Foster Wallace on How ‘Sickly Searingly’ Jealous He Was of Jonathan Franzen
Aug. 22, 2012
We already know about the complicated friendships between David Foster Wallace and his famous friends — Mary Karr, Jeffrey Eugenides, Jonathan Franzen, Mark Leyner — but in this excerpt from D.T. Max’s forthcoming biography Every Love Story Is a Ghost Story: A Life of David Foster Wallace , we get a glimpse into a Wallace wracked by self-doubt and intense jealousy, which, considering what we know about him now, is completely fascinating and desperately sad. Writing to Franzen after blowing him off, Wallace explained his behavior:
“Right now I am a pathetic and very confused young man, a failed writer at 28, who is so jealous, so sickly searingly envious of you and Vollmann and Mark Leyner and even David F–kwad Leavitt and any young man who is right now producing pages with which he can live … that I consider suicide a reasonable — if not at this point a desirable — option with respect to the whole wretched problem.”
It’s amazing to us to see how intensely Wallace felt about his own failure — this written on the veritable brink of Infinite Jest — when he would turn out to be arguably the greatest and definitely the most legendary of the bunch. After all, from what we’ve seen, Franzen should be jealous of him. Read more from the excerpt at The Daily Beast.
ジョナサン・フランゼンとデイヴィッド・フォスター・ウォレス――その時代を代表する二人のアメリカ人作家――はいずれもアメリカ中西部で育った。フランゼンは、ミズーリ州ウェブスター・グローブズで過ごした子ども時代について、「まさに真ん中の中の真ん中。そこには家族と家と近所と教会と学校と仕事しかなかった」と振り返っている。一方、両親とも大学教授だったウォレスは、イリノイ州アーバナで青春時代を過ごした。そこは「穀物サイロと戦後型住宅が並ぶ小さな町で、住民たちは農業保険や窒素肥料や除草剤を売り、近くのシャンペーン=アーバナ大学に勤める若い研究者たちから固定資産税を徴収するくらいしかしていなかった」土地だった。
二人は、セオドア・ドライサー、アーネスト・ヘミングウェイ、ハロルド・ブロドキーらに連なる系譜に属している。地方的で中西部的な背景ゆえに近代社会の衝撃に備えられていなかった作家たち、あるいは逆に、その地方性ゆえに芸術家特有の斜めからの鋭い感受性を身につけ、その衝撃に向き合うことができた作家たちの系譜である。
二人の年齢差は三年にも満たず、扱う題材もよく似ていた。テクノロジー、読者との関係、そしてポストモダニズム文学の曖昧な遺産について、それぞれ独自に格闘していた。そして両者は共通して、小説は依然として人生の「切実な問い」に語りかけるべきだと信じていた。そうするなら、小説は大量娯楽とマクドナルドの時代にあってもなお生命力を保てる、と考えていたのである。
しかし、その一方で二人は驚くほど異なる作家でもあった。同時代に似たテーマを扱った作家同士とは思えないほど、本質的に違っていた。一般には、その違いは文体の違いや、「リアリズム」に対する姿勢の違いとして説明されてきた。
フランゼンは初期にはポストモダン的な構成を試みたものの、現在では伝統的リアリズム作家とみなされている。批評家ベンジャミン・カンケルの言う「永続する小説」の代表格であり、対話、心理描写、三人称語りを「いまや古典的に思える均衡」で組み合わせる作家だ。一方ウォレスは、ゼイディ・スミスによって「リアリズムに挑戦する前衛作家」の一人に数えられている。入り組んだ脱線、渦を巻くような物語構造、脚注の中の脚注――そうした特徴によって、彼はモダニズムあるいはポストモダニズムの系譜に置かれてきた。批評家ジェームズ・ウッドも、あるヨーロッパ実験文学作家の書評で、ウォレスを「単なる文法的リアリズム――現実を整然とした単位に切り分けるリアリズム――とは相容れない作家」の一人として挙げている。
しかし、こうした区別だけでは満足できなかったのか、あるいは「単なる文法的リアリズム」という見方への違和感があったのか、フランゼン自身は何度もウォレスとの違いについて語ってきた。その代表例が2002年の評論「Mr. Difficult」であり、さらに翌年には『The Paris Review』のインタビューでもこう語っている。
「私たちの関係には、一方が芸術のための芸術を追求し、もう一方が現実社会の中で生きようとする作家である、という競争関係が取り憑いていた。」
そして2011年4月18日の『The New Yorker』に掲載された、大きな注目を集めたエッセイ「Farther Away」で、フランゼンはさらに新しい区別を提示する。しかもそれは、それまでで最も単純な区別だった。
二人の本当の違いとは、フランゼンは他人を気にかける人間であり、ウォレスは根っからの自己愛的な嫌な奴だった――というのである。
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もちろん、この要約だけを聞けば極端すぎると思えるだろう。そして実際、ある意味では誇張でもある。しかし同時に、『Farther Away』を読んで誇張した物言いに誘われたのは、私だけではない。このエッセイは、二十年以上に及んだ二人の文学的友情の総決算とも言える作品になっている。
フランゼンは、自分とウォレスの関係を「比較し、対照し、そして兄弟のように競い合う関係」と表現している。その始まりは1988年夏だった。ウォレスが、フランゼンのデビュー長編『The Twenty-Seventh City』を読んで感銘を受け、ファンレターを送ったのである。
実際に二人が会ったのは1990年だった。その間が空いた理由についてフランゼンは、「後になって理由が分かった」と書いている。つまり当時のウォレスは薬物依存の問題を抱えていたのである。
実際に会ってみると、手紙のやり取りほど親密ではなかった。フランゼンは振り返る。
私はいつも、自分が十分に面白く、十分に頭がいい人間だと証明しようともがいていた。
一方ウォレスは、数マイル先の一点を見つめ続け、その視線のせいで私は、自分が何一つ相手を納得させられていないような気分になった。
それでも二人は手紙を書き続け、お互いを称賛し合った。
1996年には、ウォレスが公の場でフランゼンを擁護している。当時フランゼンが『Harper’s』誌に発表した長大な評論「Perchance to Dream」は賛否両論を呼んでいたが、ウォレスはこの文章を、
「芸術をほとんど評価しない文化の中で、本気の芸術を作ろうとすることがどんな気持ちなのかを、これほど率直で親密に描いた文章」
だと高く評価した。
同じ年、フランゼンはウォレスから送られてきた『Infinite Jest』の草稿を読んで衝撃を受ける。
彼は言う。
あの原稿は私を仕事へ向かわせた。競争相手がいると、人は仕事をするものだからだ。
その結果生まれたのが、出世作となる『The Corrections』である。
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しかしウォレスは、『Infinite Jest』以降、長編小説をもう一冊も完成させることはなかった。短編集やルポルタージュを書き続け、未完の原稿は死後『The Pale King』として出版される。そして2008年9月、自宅裏庭で首を吊って自殺した。
フランゼンは後に、この自殺をどうしても「反則」のように感じてしまったと告白している。それは二人の作家同士の競争のルールを破るものだった。
彼はこう書く。
「ようやくまた仕事に集中しようとしていた矢先に、デイヴが自殺してしまった。
『おい、本当にそんなことをするのか?
それは反則だろう。』
と思った。」
二年後、『Freedom』を書き終えたフランゼンは、『Farther Away』を書き始める。彼自身、この文章は、
「私が愛していた人の、おぞましい自殺と向き合うため」
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『Farther Away』は複数のテーマを一本に束ねた奇妙なエッセイである。『ロビンソン・クルーソー』の読解。小説史の概説。インターネット論。そして、ウォレスの遺灰を撒くために南太平洋のマサフエラ島を訪れ、珍しい鳥を探す旅。
その中でも最も物議を醸した部分で、フランゼンは、ウォレスの死後形成された「礼賛一色の物語」に異議を唱える。
フランゼンによれば、ウォレスは信頼できない友人であり、競争心が強く、意地悪でもあった。
ある時ウォレスは恋人に非常にひどいことを言った。また別の日には、サインを頼まれた自著のタイトルページに、自分の勃起した性器の輪郭を描いたという。
さらにフランゼンは、ウォレスは極端な自己没入型の人間であり、周囲の世界から喜びを感じ取る能力に乏しかったとも書く。
ある日二人がカリフォルニア州スティンソン・ビーチ近くを車で走っていた時、フランゼンは望遠鏡をウォレスに渡し、
「すごい鳥だ」
ウォレスは礼儀として軽くうなずいただけで、あからさまに退屈そうな様子で視線を逸らした。
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そしてフランゼンは、ウォレスの自殺そのものについても、世間があまり触れたがらない側面をあえて強調する。ウォレスは抗うつ薬をやめたが、その理由は「自分が永久に病人であると認めたくないという自己愛的な拒否反応」だった、とフランゼンは述べる。さらにウォレスは少なくとも四種類もの自殺方法を考えており、最終的には「自分を最も愛してくれていた人々に最大限の苦痛を与えるような方法で自殺した」と書く。
もちろんフランゼンは、ウォレスが重いうつ病に苦しみ、耐え難い痛みの中にいたことは認めている。しかし、それだけでは終わらない。彼はさらに、自分にはどうしても拭えない疑念があると言う。ウォレスは「自殺をキャリア上の一手として考えた可能性がある」のではないか、と。
もちろん、それはウォレス自身が最も嫌悪していた計算高さでもあった。フランゼンはこう書く。もし誰かがその可能性をウォレス本人に突きつければ、最初は否定しただろう。しかし、「いや、でも君にもそういう面はあるだろう」と言われ続ければ、最後には「ああ……そうだな。確かに自分にはそういうことを考える能力はある」と認めたはずだ、と。
『Farther Away』は当然ながら激しい反発を招いた。「死者への冒涜」「墓荒らし」という批判が浴びせられ、翌年にはすでに「悪名高い失敗作」と当然のように呼ばれるようになっていた。こうした反応は理解できる。実際、この文章には弁護しがたい箇所も少なくない。多くの人は、自分が友人と呼んだ人物について、あのようなことを活字にはしないだろう。
しかし著者は、「それでも、この文章は単なる悪口ではない」と論じる。なぜなら、これは現代アメリカを代表する小説家が、愛したもう一人の小説家を、文学的にも個人的にも理解しようとして書いた、極めて珍しい批評だからである。フランゼン自身、『The Discomfort Zone』『How to Be Alone』といった回想録を書いた人物であり、自分の文章がどのような受け止められ方をするかは十分承知していたはずだ。それでも彼は出版した。なぜなのか。彼は何を伝えようとしたのか。
その答えは、『Farther Away』の中心にある文学論にある。
それまでウォレスについて論じる人々は、「作品と自殺を結びつけてはいけない」という暗黙のルールを守っていた。つまり、ウォレスの小説を論じる際に、「なぜ彼は死を望んだのか」という問題には踏み込まないようにしていたのである。しかしフランゼンは、この禁忌をあえて破る。しかも意図的に。
理由は明確だった。彼は、ウォレスの生き方そのものが、彼の小説を理解する鍵だと考えていたからである。
フランゼンは『Farther Away』の中で、小説には大きく二種類あると論じる。それは、二種類の人間から生まれる。一人目の男――仮に「ジョン」としよう――は、世界を見て、他人を見る。もう一人――仮に「デイヴ」としよう――は、世界を見ても、結局は自分しか見ていない。
もし二人とも小説家なら、前者は社会小説を書く。後者は自己の小説を書く。
この観点から見ると、『Farther Away』で語られる数々の私的エピソードも、単なる暴露ではない。少なくとも批評的には、それらは一つの文学的主張を支える証拠なのである。
その主張とは、「私たちの人生に意味を与える最も重要なものの一つである、親密で愛情ある人間関係は、ウォレスの小説世界には存在しない」ということだ。
しかしフランゼンは、単に「ウォレスの小説には親密な人間関係がない」と指摘するだけでは終わらない。彼はさらに一歩踏み込んで、価値判断を下す。
「自己の小説」は、結局のところ自己賛美の小説でもある。その題材は「どこまでも興味深い自己」であり、最終的に到達する場所もまた「自己」でしかない、と彼は言う。
フランゼンは、ウォレスの作品に漂う自己愛的な視線や語り口を、実験的モダニズム作家――たとえばフランツ・カフカやセーレン・キェルケゴール――に見られる極端な自己省察の系譜へと位置づける。そして、ウォレスが現実でも見せていた反社会的な振る舞いと、その文学的傾向を結びつける。
長年にわたるうつ病との闘い。そして最後には凄惨な自殺。これらはすべて、「極端に個人主義的な魂」が最後にたどり着く場所を示す証拠であるかのように提示される。
フランゼン自身の言葉を借りれば、自己という島は、おぞましい場所である。そして、ウォレスはその島に住んでいた。読者もまた、その島へ近づくなら覚悟が必要だ、と彼は暗に語っている。
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一方で『Farther Away』には、文学史を振り返る長い議論も織り込まれている。その目的は明快である。「自己の小説」には別の選択肢があることを示すためだ。
フランゼンによれば、社会小説家たちは、「どこまでも興味深い自己」ではなく、「終わることなく興味深い、人間関係という危険」を書いてきた。小説という形式を生み出したサミュエル・リチャードソン以来、優れた社会小説家たちは、人間関係こそが「自己という島から脱出する唯一の方法」だと理解してきた。
だから彼らの小説では、孤独だった人物が、誰かを愛することによって変化していく。そして読者もまた、「愛によって孤独を乗り越えた人々の心の中へ入っていける」のである。
この議論は不快だと思う人もいるだろう。しかし、単に「趣味が悪い」と切り捨てられるものではない、と著者は述べる。『Farther Away』には粗さもある。配慮を欠く部分もある。それでも、このエッセイには一つ重要な前進があった。
それは、フランゼンとウォレスの違いを、初めて文学観・人生観の違いとして真正面から論じたことである。
これまで二人の違いは、リアリズムかポストモダニズムか。文体の違いか。実験性か。そうした形式論ばかりで語られてきた。しかしフランゼンは、問題はそこではないと言う。
本当の違いとは、読者にどのような価値観を提示し、どのような人生を目指すよう促しているか、なのだ。
つまり、二人の違いは、文学技法ではなく哲学の違いなのである。
ここで著者は次の問いへ進む。では、フランゼン自身の哲学とは何なのか。
では、フランゼンの小説を支えている哲学とは何だろうか。彼の小説には、「よく生きる」とは何かについてのビジョンがあるのだろうか。
『Farther Away』の議論だけを読めば、その答えはすぐに見つかるように思える。それは、「親密で愛情ある人間関係」である。
確かにフランゼンの小説は、人間関係について書かれている。夫婦。親子。恋人。そして個人と国家との関係。
しかし意外なことに、彼の登場人物たちにとって、その「人間関係という危険」は、ほとんど乗り越えられないものとして描かれている。
フランゼンが繰り返し語る物語は、人間関係に理想を抱いた男が、その理想を現実によって少しずつ失っていく、という物語である。
彼の登場人物たちは、仲間や成功を求めて社会へ踏み出す。しかし最後には、苦味と失望、そして運が良ければ、人間というものの偽善について少しだけ賢くなる、という結末にたどり着く。
デビュー作『The Twenty-Seventh City』では、主人公マーティン・プロブストは、家庭にも仕事にも満足した幸福な男として登場する。しかし物語の終わりでは、彼は家族を失い、一人でセントルイスを離れて高速道路を走る。そのとき彼は、「自分は、実は好きでもなかった世界に生きていたことを、今になってようやく知った」と悟る。
第二作『Strong Motion』でも同じである。主人公ルイス・ホランドは、愛よりも憎しみによって孤独を深めていく。物語は一応希望を残して終わるが、彼は最後まで、「豚のような欲深さと愚かさと不正義が、日に日に勢力を広げていくアメリカ」に対する疎外感を消すことができない。
https://firstthings.com/david-foster-wallace-to-the-rescue/
自殺について語るのはやめよう。デイヴィッド・フォスター・ウォレスを「文学界のカート・コバーン」へと還元し、その自己破滅をロマン化するような小さな産業に加担するのはやめよう。ウォレスの作品には、自殺者や依存症者、そして「セラピー株式会社」の患者たちが数多く登場する。そのため、彼の死後には、作品全体を自伝として読み、依存症や自殺願望を抱える登場人物をすべて、後知恵による彼自身の肖像画として解釈したくなる誘惑があまりにも強い。
だが、昔ながらの保守的な批判を繰り返すのもやめよう。確かにウォレスは、批評家たちが嫌うことを好んだ作家だった。たとえばディケンズこそ小説の頂点だと考える人なら、ウォレスの散文に漂う重苦しい自己意識や、延々と続く「メタ」な遊びにうんざりするのも無理はない。
ジェイムズ・ウッドは、現代後期の口語表現を模倣したウォレスの自由間接話法を前にして、「ひどく醜く、二、三ページ以上読むのは苦痛だ」と評している。そしてさらに痛烈なのは、ウォレスの「腐敗した言語」は、結局のところアップダイクの過剰に装飾された文体の鏡像にすぎない、と論じている点だ(これはウォレス自身がアップダイクを主として倫理的な理由から批判していたことを考えると、なおさら痛烈である)。
ウッドによれば、アップダイクは「美学主義(作者が前面に出すぎる)」の典型であり、一方ウォレスは「反美学主義(登場人物だけがすべて)」の典型だ。しかし両者とも、結局は同じ種類の美学主義であり、その本質は「文体の懸命な誇示」にあるという。
要するに、デイヴィッド・フォスター・ウォレスとは、「理論」が「小説」を振り回してしまった結果なのである。
しかし、ウォレスを誤解する方法はほかにも数多くある。その典型が、彼のポストモダン的な遊戯性や自己言及性を、道徳性を欠いたシニシズム、あるいはニヒリズムそのものと混同することだ。ヒューバート・ドレイファスとショーン・ドランス・ケリーは、そのような読みを『All Things Shining』で展開している。
ウォレス初の伝記『Every Love Story Is a Ghost Story』で、D・T・マックスは、ポストモダン的な聖人伝にも、保守派の切り捨てにも、ニヒリストという決めつけにも陥ることなく、見事にそのどれも回避している。彼は丹念な調査を通じて、ウォレスは決してニヒリストではなく、むしろ非常に複雑な種類のモラリストだったことを示している。
芸術的には決して保守的ではなかったものの、ウォレスは、現代後期における文学の使命とは、自分がしばしば誤解されてきた皮肉なニヒリズムそのものに対抗することだと確信するようになった。彼にとって小説家とは放火犯ではなく、消防士であるべきだった。
この伝記から浮かび上がるウォレス像は、ポストモダン文学の中から現れた奇妙な生き物――道徳的保守主義者――である。実際、マックスは後年のウォレスを「バーク的(Burkean)」な文化保守主義者だったとインタビューで語っている。(レーガンに投票したMFA〈創作修士課程〉の教授を、あなたは何人知っているだろうか。)
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ウォレスは、ドナルド・バーセルミやトマス・ピンチョンの正統な後継者だった。初期作品は、彼らのいわゆる「ポストモダン」的プロジェクトをさらに推し進めたものだった。(マックスによれば、「バーセルミを読んだとき、ウォレスは初めて文学の中で『カチッ』という手応えを感じた」という。)
その狙いは、物語を語る仕組みそのものを暴き、内部から解体するような文学を書くことだった。たとえば、夜のニュース番組が最後にカメラを引き、ニュースキャスターの向こう側にあるスタジオ全体を映し出して、「これは作られた舞台装置にすぎません」と種明かしをするようなものだ。そうした作品には、自己反省がプレッツェルのように幾重にもねじれ込んでいる。
そのため、最初の長編『The Broom of the System』は、アマースト大学時代の卒業論文をもとに書かれた作品であり、ウィトゲンシュタインの影響をこれ以上ないほど露骨に示した、理論色の濃い小説となっている。
続く短編集『Girl with Curious Hair』には、中編小説が収められている。これはアリゾナ大学の創作修士課程在学中に書かれたもので、東海岸の創作プログラムに所属する若い作家志望者たちを描いている。彼らはMFA制度そのものの舞台裏を暴きながら、ジョン・バースやバーセルミという父親世代の影響から逃れようとし、「父殺し」に夢中になっている。だいたい雰囲気は伝わるだろう。
「デイヴ」が本当の意味で「デイヴィッド・フォスター・ウォレス」になったのは、『Infinite Jest』という予想外の大成功によってだった。
全1100ページに及ぶこの非線形の巨大叙事詩には、およそ100ページもの脚注が付いているが、それらは単なる付録ではなく、本編を理解するために欠かせない。この小説は、近未来の北アメリカが「北米国家機構(Organization of North American Nations)」、略して O.N.A.N.(もちろんウォレスらしい言葉遊びである)へと再編された世界を舞台にしている。
そこでは、「車椅子暗殺団」というケベック独立派テロ組織のようなレジスタンスも活動しており、ウォレスは物語の中に政治的な筋書きを巧みに織り込んでいる。
しかし、マーガレット・アトウッドの『オリクスとクレイク』や『洪水の年』にも通じるように、この世界では国家そのものが巨大企業に圧倒されてしまっている。
「ワッパーの年」
この意味で、ウォレスはモダニズムの問題意識をさらに徹底させた作家だった。消費社会が人間に与える影響を、具体的な商品名まで使って執拗に描き出している。これは、「時代を超越した普遍性」を目指した古典文学ではむしろ禁じ手だったやり方である。
消費主義の影響は、この世界全体を覆う「気晴らし(distraction)」という生き方の一部でもある。
その象徴が、『Infinite Jest』という小説の中に登場する映画『Infinite Jest』だ。
この映画はあまりにも面白いため、一度見た人間はその娯楽から離れられなくなり、人間として普通に生活する意欲さえ失ってしまう。「エンターテインメント」に完全に飲み込まれてしまうのである。(だからこそ車椅子暗殺団は、この映画をテロ兵器として手に入れようとする。)
この映画を制作したのはジェームズ・インカンデンザ。その妻エイヴリルと、息子ハル、オリン、マリオから成る一家が、小説の三つの主要な舞台を結びつけている。
一つはツーソン周辺(ウォレス自身がMFA時代を過ごした土地)。
そして三つ目が、ボストン郊外にあるエンフィールド・テニス・アカデミーである。ここは、ウォレス自身が哲学博士課程に進学したハーバード大学とも重なる土地であり、その後リハビリ施設へ入所することになる人生とも響き合っている。
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『Infinite Jest』は、読みながら終始にやりとさせられるような小説である。
その巧妙さは、人によっては魅力的に映り、人によっては鼻につくかもしれない。(ちなみに合衆国最高裁判事だったアントニン・スカリアもこの小説の愛読者だったという。世の中わからないものである。)
現代の「わかっている」感覚、つまりアイロニカルで、何事にもウインクしながら距離を取るようなヒップスター文化は、この種の作品を好む傾向がある。
その意味では、『Infinite Jest』はトム・ウルフのような「文化人類学としての小説」とも共通する部分を持っている。
つまり、この作品はポストモダン社会の民族誌(エスノグラフィー)なのである。
時間も空間も商業主義によって組み替えられた社会を精密に描き出す一方で、パスカル的な意味において、人間を気晴らしや娯楽が支配し、本当に重要なものが押し流されてしまう危険も見抜いている。
マックスが正しく指摘しているように、『Infinite Jest』はインターネットが社会を支配する以前、1996年に出版された。しかし、その先見性は後になってはじめて明らかになった。
「文化が逸話と短い断片(サウンドバイト)へと崩壊していく中で、その変化を予見し、さらには読者をその変化へ備えさせた数少ない本の一つが『Infinite Jest』だった。」
「逆説的だが、ウェブの登場によって『Infinite Jest』は以前より読みやすい本になった。」
『Infinite Jest』は、一つの世代の感覚をあまりにも正確に言い当てたことで、多くの読者の心をつかんだ。
とりわけ私の世代――1990年代半ばに大学へ進学し、子ども時代にMTVが誕生し、大学時代にインターネットが急速に広がるのを目撃した世代――には強く響いた。
語り手は、自己意識の牢獄や、無限の可能性ゆえの倦怠感に閉じ込められている私たちに深く共感しているように思える。そして、その向こう側から、不器用ながらも別の生き方へ手招きしているようにも感じられる。
ウォレスは、私たちが囚われていることを描くだけでは終わらない。その外へ出る道も、ほのめかさずにはいられなかった。
薬物依存と絶望に満ちた『Infinite Jest』の世界でありながら、読者はなお、そこに「愛」のようなものを感じ取るのである。
この見方は私だけではない。
ウォレスの親友の一人だったジョナサン・フランゼンも、2011年に『ニューヨーカー』へ寄せた追悼エッセイ「Farther Away」で、ほぼ同じことを書いている。
フランゼンはまず、ウォレス作品において「愛」が驚くほど欠けていることを指摘する。
「私たちの多くにとって人生の意味の土台となっている親密で愛情ある関係は、ウォレスの小説世界ではほとんど存在しない。」
しかし、その一方で彼はこう続ける。
「にもかかわらず、ウォレス作品について奇妙なのは、熱心な読者ほど、読んでいるあいだ『自分は理解されている』『慰められている』『愛されている』と感じることだ。」
私は、このことこそ『Infinite Jest』がこれほど強く受け入れられた理由の一つだと思う。
読者がウォレスの率直さや脆さに触れて愛されていると感じるだけではない。
ウォレス自身もまた、依存症や欠点にまみれた登場人物たちを愛していたのではないだろうか。
そして、この点こそが、ウォレスとフランゼンを決定的に分ける違いなのだと私は考えている。
二人はしばしば同じ「ポストモダン作家」として並べて語られる。
極端な自己意識、メタフィクション、アイロニカルな距離感――そうした特徴は共通しているように見える。
フランゼンは最終的に、比較的まっすぐなリアリズムの語りへ落ち着いた。
私がそのことを最初に強く感じたのは、『Freedom』を読んだときだった。
あれは見事な小説ではある。しかし読者は登場人物たちに心から共感することが難しい。
なぜなら、フランゼン自身もまた、彼らをそれほど愛していないように思えるからだ。
それに対してウォレスは、ポストモダン的な形式主義者であり続け、さまざまな技巧や仕掛けを惜しみなく使った。
しかし、その技巧の奥から立ち上がってくるものはシニシズムではない。
むしろ、壊れてしまった人々の世界への深い理解と繊細な共感――ひょっとすると、それは「愛」と呼ぶべきものなのである。
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しかし、そのことは、伝統主義への回帰や、昔ながらの文体への逆戻りを意味してはいなかった。ポストモダニズムの「遊び」は障害ではなく入口であり、「メタ」的な自己言及性は障壁ではなく、新しい誠実さへ通じる通路だったのである。
それは現代の絶望から目を背け、砂に頭を突っ込むような態度ではない。むしろ、ポール・リクールのいう「第二の素朴さ(second naïveté)」に近いものだった。
もちろん、それは文体の後退を意味しなかった。だからこそマックスは、ウォレスの苦境をこう要約している。
「革新的な文体を用いて、保守的な小説の目的を果たすにはどうすればよいか。」
『ニューヨーク・タイムズ』の批評家A・O・スコットが指摘したように、ウォレスは両方を同時に望んでいた。つまり、「機知に富んだ文章を書くことで、機知ばかりがもてはやされる世界に対して誠実さの優位を主張する」という、いささか危うい戦略を採っていたのである。
しかしマックスは、ウォレスが「小説とは何のためにあるのか」という理解そのものにおいて経験した、一種の回心を丁寧に記録している。
「ウォレスは昔から曖昧さより確実さを、漸進主義より情熱を好んでいた。そして今や彼は、完全に『誠実さ』の使徒となった。」
彼は、かつての自分自身のような人間を決して許さなかった。また、自分が昔そうだったと感じる作家にも容赦しなかった。
作家スティーブ・ムーアが、自分の新作小説を「皮肉に満ちた90年代にぴったりの、シニカルな世界観を持つ作品」と紹介してウォレスへ送ったとき、ウォレスはこう返事を書いた。
「それは『燃え盛る家にぴったりの灯油入り消火器です』と言っているようなものだ。」
先ほども述べたように、ウォレスにとって小説家とは放火犯ではなく消防士であるべきだった。
そのため、彼の文章を特徴づける言語的な花火のような技巧と並行して、新しい責任感と真剣さが現れる。
これは決して矛盾ではない。
つまり、「ウォレスは小説の道徳的理想を掲げながらも、その文体だけは依然としてニヒリズムのままだった」という話ではない。
私たちは、「型破りな文体=非道徳的」という思い込みそのものを退けなければならない。
むしろウォレスの独特な文章は、その誠実さと矛盾しないどころか、それを実現するために意図的に選ばれたものだったのだと思う。
アップダイクの美文主義では、文体そのものが読者の注意を引きつける。
しかしウォレスが探していたのは、現代の私たちの頭の中で鳴り響いている、あのポストモダン的な「内なる声」に限りなく近い形式だった。
だからこそ彼は、その声を通して、私たちに真正面から、誠実に、そして道徳的なビジョンを語りかけることができたのである。
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だからこそ、ウォレスがフョードル・ドストエフスキーの人生と作品に、自分との共通点を見いだしていたことは驚くにあたらない。
ジョゼフ・フランクによる全五巻のドストエフスキー伝を『Voice Literary Supplement』で書評した際、ウォレスは次のように述べている。
「もっとも重要なのは、ドストエフスキーが死の淵を体験したことによって、もともとは虚栄心が強く流行を追う若い作家――確かに非常に才能はあったが、結局は自分の文学的栄光しか考えていなかった人物――から、
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デイヴィッド・フォスター・ウォレスについての醜悪な事実に関する短い報告
ジュノ・ディアスの告発者たちは声を聞かれている。しかし文学界には、クローゼットの中にさらにひどい秘密が眠っている。
DEVON
※注意書き(TW):性的暴行、家庭内暴力、虐待に関する内容を含みます。
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しかし文学界には、クローゼットの中にさらにひどい秘密が隠されている。
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5月4日、ジュノ・ディアスは文学イベントや私生活における女性への暴行や嫌がらせについて、公に告発され始めた。
この件の基本的な情報については『Book Riot』の記事がまとめているが、Twitter上の「#JunotDiaz」というタグでは、ディアスとの遭遇について語る女性がさらに多く存在している。
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これらの告発は、ディアスが『ニューヨーカー』誌に発表した、自身の性的暴行被害経験についての非常に衝撃的で自己省察的なエッセイが公開された直後に起きた。
その文章の中でディアスは、自分自身が受けた虐待の過去、そしてそれを抑圧してきたことが、長年にわたって女性たちと尊重に基づく恋愛的・性的関係を築けなかった理由の一部になったのではないか、と示唆している。
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大部分において、ディアスの告発者たちは真剣に受け止められているように見える。
これは、過去に起きた他の虐待告発――その中にはデイヴィッド・フォスター・ウォレスに対するもののように、非常に裏付けの強いものも含まれる――に対して文学界の多くの人々が示した反応とは大きく異なる。
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ディアスが有色人種の男性であり、ウォレスが白人で裕福な学者家庭出身の男性だったという違いは、当然ながら関係している。
そしてこの点を強調するために、ウォレスを告発した人物の中でもっとも声高で、もっともよく知られている、素晴らしい作家であるメアリー・カーが再び声を上げた。
亡くなった元恋人ウォレスの行為を、私たちに思い出させるためである。
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―――
現在、公に性的暴行、レイプ、嫌がらせで告発されている人々の多くは白人男性である。
しかし実際にその行動の結果として処罰を受けている人々の大半は、有色人種の男性だ。
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「黒人男性や褐色人種男性は加害者であり、白人女性は被害者である」
というステレオタイプの物語をどれだけ覆すものであるかによって、その虐待者が自分の行為に対して完全な責任を負わされる可能性は低くなる。
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#MeTooの時代において、白人女性歌手メラニー・マルティネスはレイプで告発されても何の処罰も受けずに済み、白人男性のハラスメント加害者であるチャーリー・ローズやハーヴェイ・ワインスタインは、一時的に姿を消し、セラピーを受け、それから戻ってきて「自分が学んだこと」について語ることができる。
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一部の読者――その多くは白人だろう――は、今後ジュノ・ディアスの文章を読むことをやめるかもしれない。
しかし同じ人々が、デイヴィッド・フォスター・ウォレスの、過剰で混乱した女性嫌悪の物語を読み続けるだろう。
なぜならウォレスは白人男性であり、そして彼自身がそのすべてについてひどく苦悩しているように見えたからだ。
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#MeToo運動は、多くの人に「自分の声が届いた」「守られている」と感じさせるかもしれない。
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そこに影響している偏見と、私たちは積極的に戦わなければならない。
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そう、彼の告発者たち――その多くはラテン系女性である――の声は聞かれる必要がある。
しかし、私たちの確信や怒りの一部は、白人の加害者たちにも向けられなければならない。
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デイヴィッド・フォスター・ウォレスは、決して「良い人間」ではなかった。
これは長い間知られていたことだ。
それは、今終わらなければならない。
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―――
私は、かつてデイヴィッド・フォスター・ウォレスのファンだった。
私は『インフィニット・ジェスト』を愛していた。
『Girl with Curious Hair』の約半分の作品には、今でも深く心を動かされる。
そして彼の多くのインタビューには、今でも考えさせられ、引き込まれるものがあると思う。
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DFW(デイヴィッド・フォスター・ウォレス)は、『This Is Water』を引用する人々が描きたがるような、
ではなかった。
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私は2010年、特に陰鬱な冬の鬱状態の時期に、DFWの作品に入り込んだ。
彼の言葉は、私がいた暗い穴の中まで降りてきてくれた。
私はその後数年間、彼を崇拝した。
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彼がこれまで生み出したものはすべて読んだ。
インターネット初期の頃に存在した、彼についての古くてあまり知られていないインタビューやラジオ番組まで探し出した。
彼自身の作品を読み尽くした後は、間接的に彼について扱っている本まで読んだ。
メアリー・カーの『Lit』や、ジェフリー・ユージェニデスの『The Marriage Plot』などである。
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やがて、DFWへの愛情は、彼を偶像化していた自分自身を壊した。
彼の個人的な過去を読めば読むほど、彼が虐待的な人間であり、偽善者だったことが明らかになっていった。
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ここに挙げるのは、2011年から2012年頃に私が知った事柄の一部である。
多くの詳細は、ジョナサン・フランゼンのエッセイ「Farther Away」と、D・T・マックスによるウォレスの伝記『Every Love Story Is a Ghost Story』から得たものだ。
いくつかの情報は、Wallace-Lメーリングリストからも得ている。
もちろん、一部の決定的な詳細は、素晴らしいメアリー・カーの回想録からのものだ。
なお、カーの本はどれもDFWのノンフィクション作品よりはるかによく書かれている。
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以下の引用部分は、D・T・マックスの『Every Love Story Is a Ghost Story』からのものである。
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ウォレスは、ほぼすべてのノンフィクション・エッセイにおいて、何十もの事実を誤って伝えていた。
多くの事実は、他のジャーナリストの経験から完全に盗用されたものか、あるいは完全な創作だった。
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例えば『Consider the Lobster(ロブスターを考える)』に収録されたポルノ業界の展示会についてのエッセイで、ウォレスは、
外部にあるバルブによって、自由に膨らませたりしぼませたりできる人工乳房を持つ女性
について描写している。
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しかしこれは完全な作り話だった。
そのようなインプラントは、彼がその文章を書いた1990年代には存在していなかった。
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また、同じエッセイ内で一人称によって描かれる多くの出来事も、実際には別のジャーナリストからウォレスが聞いた話だった。
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エッセイ「Ticket to the Fair」に登場するバトントワリングの場面は完全な作り話だった。
また、その作品に登場する同行者の女性の存在や人物設定も、実際には存在しなかった。
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「Rise, Simba!」に書かれている多くの事実、人々、あだ名、交流についても、同様に作られたものだった。
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「Consider the Lobster」は反体制的なルポルタージュではなかった。
ウォレスは自分で文章を書き、それを『Gourmet』誌に売ったのである。
『Gourmet』からジャーナリストとして派遣されたわけではない。
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初期作品、
『The Broom of the System』
や『Girl with Curious Hair』の一部は、
トマス・ピンチョンやドン・デリーロから筋書きや文体的要素を借用していた。
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その盗用はあまりにも露骨だったため、ウォレスはキャリアを通じて盗作訴訟を心配していた。
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・詩人で回想録作家のメアリー・カーを、走行中の車から押し出した。
・自分が彼女に投げつけたテーブルの弁償をしようとした後、そのテーブルの破片を自分に渡すようカーに要求した。
・自分が担当していた創作文学の授業中に、学生へ暴力を振るった。
・創作クラスの学生たちと性的関係を持ち、さらに本の宣伝ツアー中には17歳の少女とも関係を持った。
・カーと彼女の5歳の息子をストーカーし、さらにその目的のために購入した銃でカーの夫を撃つと脅した。
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2012年頃にDFWについてこれらのことを知った後、私は彼の作品の多くを読み直した。
すると、以前覚えていたような天才性や繊細さが欠けているように感じた。
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(多くはWallace-Lメーリングリストの鋭い読者たちの助けを借りたものだ。)
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DFWは、共感できる女性キャラクターを書く能力がほとんどなかった。
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『インフィニット・ジェスト』の敵対的な女性人物、アヴリル・M・インカンデンザは、疎遠だった彼の母親を非常に刺激的な形で変形した存在だった。
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彼の短編「The Depressed Person」に登場する、共感性のない女性ナルシシスト的人物は、彼が性的関係を持ち、その後すぐに軽蔑するようになった同業作家エリザベス・ワーツェルをモデルにしていた。
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同じことは「Westward the Course of Empire Takes its Way」の女性主人公にも当てはまる。
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「美しすぎるために、この世界で普通に機能することができない女性」
というものだった。
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その最初の形は、『インフィニット・ジェスト』に登場する、ベールで顔を隠した危険なほど美しいジョエル・ヴァン・ダインとして現れた。
その後、『The Pale King』では、少し頭が軽い形に作り直されたメレディス・ランドとして再登場する。
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これらのキャラクターは、人を惹きつける圧倒的な美しさ以外には、際立った特徴をほとんど持たない。
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これらの女性たちは、物語の中でも、自分自身の人生においても主体性を持っていない。
どちらも、おそらくDFWの恋人、回復支援グループでのパートナー、そしてストーカー被害者でもあったメアリー・カーをもとにしている。
⸻
本質的に言えば、
『Girl with Curious Hair』に収録されたレズビアンカップルについての短編を除けば、
彼の作品には主体性を持った女性キャラクターがほとんど存在しない。
⸻
女性たちは『Brief Interviews』では単なる無垢な被害者であり、
『Broom of the System』、
『Infinite Jest』、
『Oblivion』、
『The Pale King』
⸻
ノンフィクションにおいても、女性が中身のある声を持つことはほとんどない。
⸻
彼が、機知に富み、はっきり物を言う女性の同行者と一緒にいる唯一のエッセイ、
⸻
―――
ウォレスについてこうしたことを知り、観察したことで、私の読書習慣は根本的に変わった。
⸻
ウォレスが吐き出した、半分も編集されていない断片的な文章をすべて探し出し、貪欲に読み漁ることはやめた。
その代わりに私は、メアリー・カーのような女性作家たちへ目を向けた。
彼女たちは一般的に、ウォレスよりも簡潔で、自己認識があり、制御された文章を書いていた。
⸻
また、カーやその他の虐待被害を経験した人々の経験にも慰めを見出した。
なぜなら、後になって分かったことだが、
2010年の冬に私があれほど惨めなほど落ち込んでいた理由の一つは、
私自身が身体的、感情的、性的虐待を伴う関係の中にいたからだった。
⸻
私はそれに気づくまで、しばらく時間がかかった。
⸻
そして彼は、人間の善性について哲学的に語ることに熱心な、非常に活発で好奇心旺盛な読書家だった。
⸻
⸻
しかし、それらはウォレスの「技量(craft)」の証拠として扱われた。
⸻
#MeTooは、私たちのほぼ全員に、自分が尊敬する人々の憎悪的で虐待的な行動と向き合うことを強いた。
⸻
私は、私たちがその困難な矛盾を抱え、認める能力を持つことが重要だと思う。
⸻
メアリー・カーは、読者にウォレスの作品を捨ててほしいとは思っていない。
⸻
⸻
「悪を行う能力があることが証明されたすべての人間の人生や作品から、自分たちを切り離そうとすることは、生産的ではありません。
それは、関係によって自分を浄化しようとする終わりのない競争を生み出すだけです。
⸻
一見すると善良だったり、複雑だったりする人々が、恐ろしい行為を犯すことがある。
もし被害者が本当に安全を感じられる社会を作るなら、私たちは何度でもその真実に向き合わなければなりません。
⸻
私たちはそれを受け入れ、対処する方法を身につけなければなりません。
⸻
その複雑さに耐えられないことこそが、人々を告発者を無視し、創作者を免責する方向へ向かわせるのです。
⸻
自分たちが愛した本の中の優しく悲しげな男性が、実際にはストーカーであり、殺人を企てた可能性のある人物でもあった、
という事実を認めさせなかったのです。」
⸻
私たちは、その矛盾を受け入れることができるようにならなければならない。
そして、それにどう向き合うかを学ばなければならない。
⸻
なぜなら、その複雑さに耐えられないことこそが、人々を告発者を無視し、創作者を免責する方向へ押しやるからだ。
⸻
一見すると善良で、あるいは複雑で理解しがたい人物が、恐ろしい行為をすることがある。
もし被害を受けた人々が本当に安心できる社会を望むなら、私たちはその事実に何度でも向き合わなければならない。
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私たちは、その事実を受け入れ、それと共存する方法を身につける必要がある。
⸻
DFWの作品を愛していた人間として、私は本当に彼の作品を愛していた。
本当にそうだった。
私は、彼が複雑で、心を揺さぶるほど美しい魂を持った人物だと信じていた。
⸻
しかし今、彼についての真実を知った私は、彼の作品の多くを以前ほど評価できないと感じている。
そして、彼がもうこの世にいないことに感謝している。
⸻
もし彼がまだ生きていたなら、
苦悩に満ちた、疲れるほど長い文章を書き続けていたに違いない。
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私はそのことに疑いを持っていない。
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私はむしろ、メアリー・カーが今も健やかに活動し、真実が知られている世界に生きていることを嬉しく思う。
⸻
それに、カーの本のほうが結局のところ優れている
だからこそ、ウォレスがフョードル・ドストエフスキーの人生と作品に、自分との共通点を見いだしていたことは驚くにあたらない。
ジョゼフ・フランクによる全五巻のドストエフスキー伝を『Voice Literary Supplement』で書評した際、ウォレスは次のように述べている。
「もっとも重要なのは、ドストエフスキーが死の淵を体験したことによって、もともとは虚栄心が強く流行を追う若い作家――確かに非常に才能はあったが、結局は自分の文学的栄光しか考えていなかった人物――から、道徳的・精神的価値を深く信じる人間へと変わったことだ。」
彼はこれを、多くの現代アメリカ作家たちとは対照的な変化だと考えていた。
彼らは依然として「皮肉な文化を描写するだけ」で満足している。しかし、本来作家が果たすべきなのは、「そこから抜け出す道を示すこと」のはずだ、と。
それは単なる「新しい誠実さ」ではない。
『Infinite Jest』の背後には、世界に対する責任感があり、
「世界への寛大さ」
そして、
「読者が生き延びることに決して無関心ではない作家」
としての姿勢がある。
ネットワーク広告の衰退、テニスラケットの構造、ボストンで流通するドラッグの俗称、テレビ電話の歴史――そうした一見どうでもよいような細部まで、ウォレスは驚くほど丁寧に描いている。
そしてマックスは『Infinite Jest』についてこう述べる。
この小説は、その悪名高い「読みにくさ」にもかかわらず、読者を大切にしている。確かに一般的な意味での結末は与えない。しかし、それは悪意からではない。より深い癒やしを与えようとしているからだ。エネット・ハウス(依存症更生施設)と同じように、人は回復するためには自分で努力しなければならない。この小説は、現代小説では珍しいほど救済的なのである。
「誠実でさえあればいい」という話ではないのだ。
人間が**「まともな人間として生きるためには何が必要なのか」**について、切実な確信がある。
このような信念を、「保守的(conservative)」と呼ばずして何と呼ぶべきだろうか。
ドストエフスキーとウォレスの比較をさらに進めながら、マックスは『カラマーゾフの兄弟』と『Infinite Jest』の間にも共通点を見いだしている。
両作品とも、
「しゃれた皮肉を退け、一つのことだけを語っている。──信仰は重要である。」
という点で一致しているのだ。
もっとも、マックスはウォレス自身の宗教的探求については十分に扱っていないという批判もある。
実際、その点についてはまだ語るべきことが多い。
ウォレスの宗教体験は、ローマ・カトリックの教理教育から、メノナイト教会での礼拝、カリスマ派との出会い、さらにはAA(アルコホーリクス・アノニマス)に至るまで、多岐にわたっていた。
しかし少なくとも一つだけは明らかだ。
ドレイファスやケリーがウォレスを「ニヒリスト」と見なした評価は退けなければならない。
むしろウォレスは、チャールズ・テイラーが『A Secular Age』終盤で論じたような、ポストモダン社会の中になお残る「意味の断片」の最良の例だったのかもしれない。
⸻
⸻
もちろん、ウォレスの作品世界は、ほとんど息苦しいほど徹底した「内在性(immanence)」の世界を描いている。
そこでは人間の世界は平板化され、そこからの逃避手段は恍惚や神秘体験ではなく、退屈や気晴らしである。
そして、テレビに支配された(いまならTwitterやSNSに支配された)後期近代社会は、その自己意識を麻痺する寸前まで増幅してしまう。
すべては許されている。
だが、誰もがこちらを見ている。
だから私たちが望める「救い」のほとんどは、その現実を感じなくするための麻酔にすぎない。
ドラッグ。
セックス。
娯楽。
しかし、ドレイファスやケリーが描いたような世界とは違い、ウォレスの作品には絶えず別の気配が漂っている。
彼は何かに取り憑かれているようにも見える。
登場人物たちは、後期資本主義が与えるものだけでは決して満足していない。
だから作品のあちこちで、チャールズ・テイラーのいう「ノヴァ効果(nova effect)」――つまり、この閉ざされた世界を突破しようとする新しい生き方の萌芽――が顔をのぞかせる。
この作品は、自殺する直前の一瞬に主人公の意識が流れ込むという、意識の流れ形式の独白で構成されている。
自己意識に取り憑かれ、
絶えず自分を観察し続け、
という罪悪感に苦しんでいる。
彼は、自分が他人を愛せないことこそ、自分の「偽物感覚」の根源なのではないかと考える。
と振り返るのである。
世俗主義が支配する限られた世界では、このような人物が宗教に救いを求めるという発想自体が奇妙に映るかもしれない。
実際、この主人公も「ホーリー・ローラー(熱狂的福音派)」だった時期があり、イリノイ州ネイパービルのカリスマ派教会へ通っていた。
その理由は、
「この偽物の霧の中から抜け出し、精神的に目覚めたかったから」
だった。
彼は敬虔な信者たちの美しさを見て感動し、自分も信じたいと願う。
彼はこう告白する。
「本当の問題は、自分が信仰によって変わりたくて教会へ行っていた人間から、『自分がどれほど熱心な信者かを教会の人たちに認めてもらいたい人間』へ、あっという間に変わってしまったことだった。」
だからといって、超越そのものを最初から否定してしまう理由にもならない。
⸻
⸻
こうした「超越」の気配は、ウォレスの死後に発表された短編『All That』では、もはや「気配」ではなく、ほとんど叫び声のように現れる。
主人公は、非常に利発な少年で、おもちゃのセメントミキサー車に宿る「魔法」に魅了されている。
もちろん、それを確かめることはできない。
大人になった語り手は、この出来事を振り返り、当時の自分が本当に求めていたものを理解する。
「大人になった今ならわかる。私があれほど夢中になってドラムが回る瞬間を捕まえようとしていたのは、それが『捕まえられない』ことを確かめたかったからなのだ。もし本当に魔法を見破ってしまっていたら、私は打ちのめされていただろう。」
普通なら、この話は「魔法など存在しない」と悟る、合理的な成長物語になるはずだ。
理性を身につけ、
いわば「脱魔術化(disenchantment)」の物語である。
だったと語る。
それは世界に対する**畏敬(reverence)**という態度である。
彼はさらに、いわゆる無神論ですら、一種の信仰なのではないかと述べる。
それは、
しかし語り手は、その「内在性だけで十分だ」という福音には改宗しない。
むしろ彼はこう語る。
「人生でもっとも重要な結びつきは、その渦中にいるときには私たちには見えない。だからこそ私は、人生の意味に対する応答として、懐疑的経験主義よりも宗教的畏敬のほうが説得力を持つと思う。」
もしかすると、自分はすべてを作り話にしているだけなのではないか。
宗教とは、あのセメントミキサーの「魔法」と同じく、両親が与えた幻想にすぎないのではないか。
衝動も、
畏敬の念も、
しかし、それでもなお、この「宗教という亡霊」は追い払うことができない。
超越に取り憑かれながら、
それを完全には信じ切ることもできない場所。
それは、多くの人が立ってきた場所でもある。
「主よ、私は信じます。信じられない私をお助けください。」
⸻
ニューヨークで開かれたウォレス追悼集会で、ザディ・スミスはこう語った。
学生に『Brief Interviews with Hideous Men』を教えるとき、彼女は必ずセーレン・キェルケゴールの『Fear and Trembling(畏れとおののき)』も一緒に読ませていたという。
彼女はこう言う。
「この二冊は私には従兄弟同士のように思える。どちらも、愛も、信仰も、何もかも失ったと思い込んでいる醜い男たちの中に、ブラックユーモアを見いだしている。」
「今日の人々は、愛の先へ進もうとしてやまない。しかし、彼らはいったいどこへ向かっているのだろう。世俗的な知恵か。小賢しい計算か。卑小さと惨めさか。……むしろ信仰の場所にとどまり、そこから落ちないよう努めるほうがよいのではないか。」
さらに彼女は、ウォレスがこれまでで最も熱心に勧めてくれた本が、Catholicsだったことも思い出している。
マックスの伝記は、その理由までは十分に説明できていないかもしれない。
しかし、ウォレスを取り憑いていた「亡霊」を描き出したという意味では、大きな功績がある。
「デイヴを単なるアイロニストだと思っている人は、この本の選択を見ればいい。彼の風刺は本気の風刺だった。風刺とは、『善きものを間接的に讃えること』なのだから。」
という確信へと彼を導いた。
そして、この伝記『Every Love Story Is a Ghost Story』から彼自身の人生の教訓を引き出すとすれば、それはおそらく次のようなものだろう。
1990年の秋、『インフィニット・ジェスト』を出版する何年も前のこと、デイヴィッド・フォスター・ウォレスはボストンのエマーソン・カレッジで非常勤講師として教え始めた。
D・T・マックスが伝記『Every Love Story Is a Ghost Story』で書いているように、この時期のウォレスの状況は決して良いものではなかった。当時の彼は精神的に不安定で、最新の短編集『Girl with Curious Hair(奇妙な髪の少女)』をひどく恥じていた。エマーソンの英文学科がその本の広告を掲示したとき、彼はそれを引き剥がしたほどだった。
そして教える仕事も、彼が自分の文学や社会全体に対して抱えていた問題から彼を救うものにはならなかった。ジョナサン・フランゼンへの手紙の中で、彼は学生たちを「幼児」と呼んでいる。
「彼らの頭を支えてやるために、ほとんど首を抱いてやらなければならないほどだ」
若者たちは単にテレビの手軽な魅力に夢中になりすぎていたのだろうか。マックスはこう書いている。
彼が教えていた学生たちは、問題が自分の想像していた以上に深刻だと感じさせた。彼らは短編「My Appearance(私の出演)」の中で彼が想像した「レターマン世代」だった。自分たちの物知りぶりを誇りにしている世代だ。
「みんな“テレビ専攻”なんだよ。そんなものが何を意味するのか分からないけどね」と彼はデイヴィッド・マークソンに不満を漏らした。そして、デリーロの小説(どの作品かは彼は書いていない)によって学生たちを「挫折させた」ことで、学科から注意を受けたと付け加えた。彼がその小説で意図していたのは、学生たちを目覚めさせることだったのだが……。
ウォレスは、自分がエマーソンに長く留まりたいとは思っていないことを分かっていた。
それでも、テレビ文化に精通していたため、ウォレスは学生たちの間で人気があった。そして少なくとも一人の学生は、その「挫折させるような」デリーロ体験によって勇気づけられた。
その学生とは、今週全米公開された最新作『インヒアレント・ヴァイス』の監督、ポール・トーマス・アンダーソンである。
昨日、マーク・マロンのポッドキャスト番組『WTF』の新エピソードで、アンダーソンは高等教育に対してウォレスと似たような不満を抱き、大学を卒業していない自身の経験を語りながら、ウォレスとの時間について長く話した。彼はウォレスを深く敬愛していた。
「エマーソンにいたあの一年、当時はまだ有名ではなかった偉大な作家デイヴィッド・フォスター・ウォレスが僕の先生だった。英語の先生だったんだ……。彼は僕が初めて恋をした先生だった。これまで通ったどの学校でも、あんな人には出会ったことがなかった。
だから学校とか教育制度について悪く言うことにはすごくためらいがある。結局どこも同じなんだと思う。もし良い先生を見つけられるなら、学校っていうものはきっと素晴らしいものになると思う」
「じゃあ、なぜ君はそこに残らなかったの?」とマロンが尋ねる。
「彼が辞めたから」とアンダーソンは答える。そして続ける。
「一度彼に電話したことがある。彼は電話番号を教えることにとても気前がよかった。“何か質問があったら電話してくれ”と言ってくれて、僕は何度か電話したんだ。
書いていた論文について、いくつかアイデアを聞いてもらった。ドン・デリーロの『ホワイト・ノイズ』についての論文を書いていたんだ……。
いくつか突拍子もないアイデアを思いついて、それについて話したんだけど、会話の内容はよく覚えていない。ただ、締め切り前日の真夜中みたいな時間にも、彼が本当に親切に対応してくれたことだけは覚えている……。
ウォレスが学生時代のアンダーソンをどう評価していたのか、あるいはそもそも彼を教えたことを覚えていたのか、私たちには永遠に分からない。
しかし『Every Love Story Is a Ghost Story』によれば、少なくともウォレスはアンダーソンの映画を知っていた。彼は『ブギーナイツ』のファンで、友人に「あれはまさに自分が書きたかった物語だ」と語っていたという。(後にウォレス自身もエッセイ「Big Red Son」でポルノ業界について書くことになる。)
一方で『マグノリア』については、それほど熱狂しなかった。彼はこの作品を気取っていて、中身がなく、「悪い意味で100%大学院生っぽい(gradschoolish)」ものだと感じていた。
ただ、アンダーソン自身もおそらくその評価には反論しないだろう。『WTF』のインタビューで、彼はもし現在この映画を作るなら編集を完全に変えるだろうと認めている。
「自分自身をちゃんと編集していなかったんだ。長すぎる。あまりにもクソ長い」
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デイヴィッド・フォスター・ウォレス:防風林の向こう側へ
この記事は「Icons」のArts b-side企画の一部です。このテーマを扱ったb-side記事の全体を見るには、こちらのリンクをクリックしてください。
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1年前のことだった。私はダウン・トレッダー・ブックショップに入り、何人かの客の間をすり抜けながらフィクションの棚へ向かった。
Wの棚の低い位置に、ウォレスのデビュー小説『システムの壊し方(The Broom of the System)』の色あせた一冊が置かれていた。
と尋ねると、彼は答えた。
「いや、彼の本はいつもすぐ売れるんですよ」
私は、それは残念だと言った。ちょうど『Infinite Jest(無限の冗談)』を読み終えたところで、彼のほかの作品も読んでみたいと思っていたのだ。
今思えば、少し気取った自慢だった。そして彼はそれに感心しなかった。
彼は薄い愛想笑いを浮かべ、軽くあしらうように言った。
「そうですか。では、良い一日を」
それで終わりだった。
彼の文体を好まない人々にとって、ウォレスは誇張された混沌のような作家だった。傲慢で、作品は冗長で、無理やり知的に見せようとしているのに、頻繁に「天才」と呼ばれている。
ダウン・トレッダーのレジにいた男性も、おそらくそういう側の人間だったのだろう。
彼は深い苦悩を抱えたポップ・ヒーローだった。芸術によって、恐怖によって、そして公の場に姿を現したことによって、この世界に痕跡を残した人物だった。
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そのほかのことを言う前に、私がウォレスの文章で初めて読んだものを紹介したい。
短編「Good Old Neon(グッド・オールド・ネオン)」からの一節だ。
この言葉を覚えておいてほしい。
「私の人生はずっと偽物だった。大げさに言っているわけではない。私がいつもしてきたことのほとんどすべては、他人の中にある“私という存在”について、ある種の印象を作り出そうとすることだった」
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アイコン的存在という観点で見るなら、ウォレスはその典型の一人だ。
彼は文学の複数のジャンルにまたがって執筆した。小説、ノンフィクション、講演などを発表した。
彼の作品はしばしば近寄りがたい。
本はあまりにも密度が高く、書き込みすぎていて、まるで読まれること自体に抵抗しているように感じられる。
そして、そこが魅力でもある。
多くのウォレス読者と同じように、私も彼の最高傑作『Infinite Jest』に早く飛び込みすぎるという間違いを犯した。
最初に読んだ40ページほどの短編から、角膜の健康などほとんど気にせず、1079ページの巨大な本の塊へ進んだ。
ページは大きく、威圧的で、その重さは両手を床へ引きずり下ろすほどだ。
本編981ページの後には、さらに90ページの「注釈と訂正(Notes and Errata)」が続く。
しかし、ページを前へ戻し、また戻し、また戻しながら読む作業で、私の頭は何度も混乱した。
⸻
この本はあまりにも混沌としていて迷宮的なので、要約すること自体が難しい。
ただ、一つ言えることがある。
物語の中心となる舞台は、テニス・アカデミーと中間施設(ハーフウェイ・ハウス)だ。
そしてそこでは、依存症、父親との問題、蔓延する消費主義、車椅子に乗ったケベック人暗殺者による秘密組織、そして観客をあまりにも楽しませるため、見た者が何度も何度も繰り返し鑑賞し、最後には餓死してしまう映画などが扱われる。
聞こえた通り、奇妙な話だ。
けばけばしく、ときにグロテスクですらある言葉の混乱の中には、疑いようのない人間性がある。
ウォレスは、想像できるほぼすべての感情、人間の人生のあらゆる領域に触れている。
スポーツ選手としての栄光から、コカインを手に入れること、愛する人を失うことまで。
そしてこれは、彼の最高傑作ですらない。
⸻
誤解しないでほしい。
1000ページにも及ぶ、驚くほど複雑な小説を書くことは、とてつもない偉業だ。
ほかのどんな作家であっても、それだけで20世紀文学の古典作家リストの頂点に置かれ、どこかの別荘へ引退してもおかしくない。
「Good Old Neon」は、実験的な構造とテンポの見本のような作品だ。
彼の最も洗練された作品である『The Pale King(ペイル・キング)』は、死後に出版された。
⸻
その本に入る前に、まずウォレスという人物そのものを見てみたい。
心配しなくていい。
彼の文章には戻ってくる。
ただ、その前にチャーリー・ローズとのインタビューを見てみたい。
⸻
(続きます)
⸻
インタビュー開始から約3分半ほど経ったところで、ローズは雑談を切り上げ、ウォレスにこう尋ねる。
「尊敬されるということは、あなたにとって大きな意味を持つんですよね? つまり『自分は真剣に受け止められている。そして自分の仕事を評価され、尊敬されている』という感覚ですか?」
「それが私の顔に出ていると分かるんですか?……尊敬されたいと思わない人間を、誰か一人でも見せてください」
その後ウォレスは、『Infinite Jest』に対する世間の反応について語る。
彼は、批評家のすべてが本を最後まで読み終えてから評価を下しているとは思っていなかった。
ある時、彼は話の途中でこう遮る。
「……すみません、なんというか、実質的にどもってしまっていて……」
⸻
ウォレスは、この会話の主導権を渋々握っているように見える。
あまり目を合わせない。
声は低く、速く、どこか夢見心地に聞こえる。
まるで思考がすでに装填されていて、それをただ外へ放出しているだけのようだ。
おそらく本人も気づかないまま、ウォレスは「どこにでもいる人間、しかし単なる普通の人間ではない」という自分の人物像を演じている。
⸻
自分の才能を誇示する一方で、同時にそれを抑え込もうとしているようにも見える男。
しかし、これは毎朝起きてコーヒーを淹れ、犬を散歩させていた普通のウォレスの姿ではない。
その人物を垣間見るために、私の高校時代の英語教師、ハンター・ダンの話を紹介したい。
⸻
その中にはデイヴィッド・フォスター・ウォレスも含まれていた。
なぜこれほど有名な作家が、たった40人ほどを対象にした高校の教室で開かれるワークショップに現れるのか。
ただ、おそらく友人への頼みごととして引き受けたのだろうと思った。
⸻
ワークショップは、ポモナ大学の向かいにある高校の教室で行われた。
ほかの2人の講演者が先に話した。
彼はこんなことを言った。
「私は、自分の作品をそんなふうに生徒たちの前で読むことは絶対にしません」
⸻
「分かりました。あなたの質問には答えます。でもそのあと、あなたがどう考えるのか聞きたいです」
⸻
ワークショップが終わった。
おそらくポモナ大学の自分のオフィスへ戻るところだったのだろう。
ダンは声をかけた。
「おい! デイヴ!」
ウォレスは振り返り、大きくため息をついた。
「はい?」
⸻
ダンは、ウォレスがテニス選手マイケル・ジョイスについて書いたエッセイについて尋ねた。
ウォレスは彼をじっと見て言った。
⸻
しかしダンは、ウォレスについていくつか重要なことを覚えている。
彼は非常に優れた聞き手だった。
返答する前に、自分の考えを整理していた。
しかし同時に、そっけないところもあった。
あらゆる質問を議論として捉え、勝ちたいゲームのように向き合っていた。
そこには確かな自信があった。
⸻
チャーリー・ローズとのインタビュー時とは違い、実際に会ったウォレスは葛藤しているようには見えなかった。
おそらく、有名なインタビューのような場面で「あなたは天才だ」という世間の期待に直面した時、彼本来の自己像と、周囲が求める「天才作家」という役割が衝突したのだろう。
ただし、別の形で。
⸻
『The Pale King』に戻ろう。
物語の舞台は、イリノイ州ピオリアにあるIRS(アメリカ合衆国内国歳入庁)の地域審査センターだ。
しかし550ページもの中で、ウォレスは税務申告書の審査という退屈で狂気じみた世界に命を吹き込む。
⸻
私が初めて『The Pale King』の中に、本当のウォレスの手がかりを見つけ始めたのは、この作品だった。
第9章には「作者による序文(Author’s Foreword)」というタイトルが付いている。
ウォレスはこう書く。
「作者だ。つまり、本当の作者。鉛筆を握っている生身の人間であって、抽象的な物語上の人格ではない」
⸻
彼は説明する。
「これから続くものは、実際にはまったくのフィクションではなく、かなりの部分で真実で正確なものだ。『The Pale King』は、実際のところ、作り話というより回想録に近い」
しかし、だからといって彼が「この物語は真実だ」と言う時、それが嘘になるわけではない。
⸻
⸻
その人物は、同じく「デイヴ・ウォレス」という名前を持つ高級幹部と間違えられてしまう。
自分がそれほど尊敬されている人物になりすましていることの結果に直面するのを恐れ、デイヴ・ウォレス(登場人物)はその誤解を訂正しない。
そして、そのまま流されるように、本来なら幹部しか参加できないような重要な会議へ連れて行かれる。
⸻
デイヴ・ウォレス(登場人物)は、会議で何が起きているのかまったく理解していない。
大量の汗をかき、自分が発するわずかな言葉さえもたどたどしい。
会議では、彼がなりすましている人物なら当然熟知しているはずの税法について、激しい議論が交わされる。
しかし当然ながら、デイヴ・ウォレス(登場人物)は税法について何も知らない。
自分が周囲の人々が思っているような人物ではないとバレないように、彼は沈黙する。
そして絶えずメモを取り続ける。
ページを埋め尽くすほど書き込み、自分が「物静かだが勤勉な観察者」であり、この自分には属していない世界に真剣に参加している人間だと思われるようにする。
⸻
もしある作家が、これほど明確に読者へ語りかけた例があるなら、それはまさにこれだろう。
⸻
彼は多くの本やエッセイを残した。
そして彼の作品が死後も出版され続けることで、彼はアイコンとなった。
彼の人生の暗い側面――薬物依存、鬱病との闘い――は、苦悩する天才という印象をさらに強めるものになった。
⸻
2013年の伝記
『Every Love Story Is a Ghost Story: A Life of David Foster Wallace(すべての愛の物語は幽霊物語である:デイヴィッド・フォスター・ウォレスの生涯)』
の中で、D・T・マックスはウォレスと詩人メアリー・カーとの関係について短く触れている。
カーはボストンにあるハーフウェイ・ハウスでボランティアをしていた。
そこはウォレスが依存症と自殺未遂のために暮らしていた場所だった。
そこには特に衝撃的な一文がある。
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ウォレスとカーの関係の多くは長い間、暗闇の中に置かれていた。
そして、それについて声を上げる役割はカー自身に委ねられることになった。
そしてカーに、自分の皮膚に彼女の名前をタトゥーとして刻んだことを明かした。
⸻
このような暗い部分を、「天才であることに伴う複雑さ」の一部として片づけるのは、とても簡単だ。
結局のところ、自分が好きな人物が犯した酷い行為について考えることは、不快ではないだろうか。
その人物の輝かしい作品という安全な領域を越えて、その人間そのものを考察しようとすると、世界に与えてくれた洗練された美しいものをただ楽しむよりも、はるかに大きな感情的作業が必要になる。
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あるいはさらに言えば、欠点そのものが美化され、象徴的な人物像を強化するほどになること。
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伝説的な人物という状態が生み出すこの症状は、私たちにこう考えさせる。
「彼は苦しんでいた。彼が私たちにこの物語を与えるために、どれほどの苦痛を経験したことだろう」
「彼は愛していると言った女性を追跡し、傷つけた。彼の人生をそれほど複雑にした悪魔とは、一体どんなものだったのだろう」
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もしかすると私は彼に甘すぎるのかもしれない。
あるいは、十分に寛容ではないのかもしれない。
私はウォレスを知らなかった。
私が検討できるのは、彼が残していった謎だけだ。
しかし私は思う。
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考えてみてほしい。
「Good Old Neon」の冒頭近くにある、あの消えかけるような言葉。
私はこう思う。
ただし、それを語ることができたのは、薄いガーゼのようなフィクションという仮面の裏側だけだったのではないか。
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(終)
デイヴィッド・フォスター・ウォレスと『The End of the Tour』について
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私たちの多くは、デイヴィッド・フォスター・ウォレスの小説『Infinite Jest』を最後まで読み切ることができなかった(しかも何度か挑戦した末に)。彼のジャーナリズムは冗長で、どこか恩着せがましく、控えめな調子で読者を見下しているように感じた。そして、ケニオン大学卒業式でのあの感傷的なスピーチは、まったくのたわごとだと思っていた。
さらに、2008年にウォレスが自殺して以降、いかにもアメリカ的な感傷的ストーリーによって、彼が「聖デイヴィッド」として祭り上げられていく流れにも私は抵抗を覚えていた。
そうした立場からすると、ウォレスを描いた新作映画『The End of the Tour』は、意外にも見やすい作品だった。もちろん、敬意を払いすぎるほど敬意を払っている映画ではあるのだが。
ジェームズ・ポンソルトの演出は滑らかで、劇作家ドナルド・マーグリーズの脚本も上品にまとまっている。ただ、映画全体は舞台劇をそのまま撮影したような静けさがあり、本質的には「本物の自己とは何か」をめぐる討論劇になっている。
だから観客は、この作品に込められた善意に酔うこともできるし、「本当にみんなこれをここまで真面目に受け止めていたのか」と呆れて目を丸くすることもできる。
映画ではジェイソン・シーゲルがウォレスを、ジェシー・アイゼンバーグが『Rolling Stone』誌の記者デイヴィッド・リプスキーを演じている。
リプスキーは、『Infinite Jest』刊行後の全米プロモーション・ツアーの最後に数日間ウォレスへ同行する。
1990年代、私自身も出版業界を回りながらツアーをしていた人間なので、この映画が描くジェネレーションX時代の空気は実に懐かしく、妙にリアルだった。
ウォルター・カーンが『New York』誌に書いた書評がパーティー中の話題を独占する。
『Rolling Stone』が前衛的・アカデミックな小説家のプロフィール記事を書くために記者を派遣する。
車の中ではみんなアラニス・モリセットのアンセムを大声で歌う。
どこでも煙草が吸える。
⸻
『The End of the Tour』は、リプスキーが出版した回想録『Although Of Course You End Up Becoming Yourself』を原作としている。
『Rolling Stone』誌は結局リプスキーの記事を掲載しなかったため、本の内容は5日間に及ぶ二人の会話の録音を書き起こしたものだけで構成されている。
「本当の自分」とは何か。
あるいは、自分が書いた作品を通して読者が勝手に「あなた像」を組み立て、その虚構の自分に置き換えられてしまうことへの恐れとは何か。
仮にウォレス本人が本当にそこまで怯え、それほど気にしていたのだとすれば、それはこの丁寧に作られた、上品なインディペンデント映画そのものが抱える矛盾を、かえって補強することになる。
その矛盾は、この映画のほぼすべての場面――いや、ほぼ一分ごとに存在している。
そして、その矛盾こそが、この映画全体を完全に無効化してしまっている。
すべてが柔らかくぼかされ、特別刺激的な出来事も、劇的な事件も、心を揺さぶる瞬間もほとんど起こらない。
結局残る印象はただ一つ。
この、しっとりと湿った映画のすべてのセリフは、ウォレスという人物の「好感度」を補強するためだけに存在している。
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映画の中でウォレスは、「この世界にはあまりにも繊細すぎた男」として描かれている。
そうした描き方は、とりわけ若い観客や俳優たちの感情には強く響くだろう。
映画のウォレスは、ポップタルトを分け合う天使のようなお人好しであり、誰からも愛される庶民派であり、苦悩する普通の人であり、更生した元依存症患者でもある。
「本物らしさ」と「人間味」を体現する人物として描かれている。
その一方で、この映画はもう一人のウォレス――私たちの何人かにとってはむしろそちらの方が興味深い人物――には一切触れようとしない。
時に逆張りをする男。
嫌な奴になれる男。
人を傷つける面を持つ男。
この映画が選んでいるのは、ケニオン大学卒業式で行ったスピーチ――深呼吸して言おう――**『This Is Water: 思いやりある人生について、ある特別な日に語られた考え』**によって「聖人」に列せられたウォレスである。
このスピーチについては、彼を最も熱心に擁護してきた人々や、かつての編集者でさえ、「彼が書いた中で最悪の文章だ」と評し、受け入れがたいものだと感じている。
それにもかかわらず、このスピーチはネット上で爆発的に拡散され、人生に迷う人々のための、湿っぽい自己啓発書のような存在になってしまった。
そしてこの映画のデイヴィッドは、理性の声であり、賢者であり、導師である。
映画全体が、「好感を持たれること」を何より重要視するカルト的な価値観に屈してしまっている。
おそらく名声を欲してもいた。
文学的名声を疑いながらも、そのゲームがどう展開するのか興味を抱く作家など珍しくない。
しかも、本は売れる。
彼は気難しく、意地悪で、毒舌家で、時に打算的でもあった。
だが、この映画では、そうしたデイヴィッド・フォスター・ウォレスは完全に消去されている。
だからこそ、この映画は最後まで単調で、ひたすら誠実ぶった一本調子の作品になってしまっている。
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たかが一度のブックツアーに出るだけで延々と苦悩し、雑誌のプロフィール記事を書かれることを「恐ろしくてたまらない」と嘆く。
だが、途中からスクリーンに向かってこう言いたくなるかもしれない。
「そんなにつらいなら、ツアーなんか途中でやめればいいじゃないか。
黙って帰れよ。
『Rolling Stone』なんか受けなきゃいい。
もういい加減にしろ。
少し落ち着け。」
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ロス・ペローを支持し、
晩年のジョン・アップダイクを容赦なく酷評する、あの痛烈で見事な文章を書き、
『Interview』誌では(『Infinite Jest』以前に)気取ったグラビア写真に収まり、
あのデイヴィッド・フォスター・ウォレスではない。
映画は、そうしたことのすべてが、ウォレス本人にとって耐え難い苦痛だったに違いないと強く示唆している。
彼は「本当の自分」が「偽物の自分」に乗っ取られてしまうことばかりを無邪気に心配している。
しかし、ウォレスほど頭の切れる人間が、本当にそんなことをそこまで気にしただろうか。
私はそうは思わない。
にもかかわらず、この映画は「彼は本当にそうだった」と言い張る。
その結果、皮肉にもウォレスを、かねてから多くの人々――親友だったジョナサン・フランゼンや元恋人のメアリー・カーまでもが薄々そう感じていた――が思っていたような、「世界レベルのナルシスト」として暴露してしまっているのである。
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私はデイヴィッド・フォスター・ウォレスという人物は好きだ。
とはいえ、大半において彼は「人を煙に巻く芸人」のような人物だったとも思っている。
彼が作り上げた人格にはどこか不誠実さがあった。
たとえば、
「AIDSが私たちに与えてくれた贈り物は、セックスには決して気軽なものなど存在しないということを大声で思い出させてくれたことだ」
こんな一節を、ジェイソン・シーゲル演じるウォレスが本気で語る場面を私はぜひ見てみたい。
私は、そうした矛盾だらけのデイヴィッド本人には何の問題も感じていない。
私にとって問題なのは、ウォレス本人ではなく、彼の死後に書き換えられた「ウォレス像」である。
彼は一世代の読者によって誤読され、人生の導師や、しゃれたモチベーション・スピーカーのような存在へと変えられてしまった。
そして多くのファンは、その仮面を外そうとはせず、むしろその姿を好んでいる。
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「明るく前向きな物語」を好み、好感度や共感しやすさ、そして「被害者であること」に執着する現代文化の中で、この映画は私たちに「こちら側の見方だけを受け入れろ」と要求してくる。
その結果、『The End of the Tour』は、ウォレスという極めて複雑な芸術家を、驚くほど一本調子に描いた作品になってしまっている。
陰影がまったくない。
信じられないほど複雑な作家を、ひどく単純化し、矮小化してしまっている。
もっとも、こうした感傷的でショービジネス的な「デイヴィッド・フォスター・ウォレス像」の形成に、ウォレス自身もまったく無関係だったとは言えないのだが。
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映画の中で最も興味深い場面では、「ウォレスは演技をしていたのではないか」という問いが投げかけられる。
ジャーナリストの前に現れたウォレスは、一人の作家として「パフォーマンス」をしていただけで、本当のウォレスを見せていたわけではない――そう考えることもできる。
実際、リプスキーの原作本は必ずしもその可能性を否定していない。
そして理想化されたウォレス、つまり「あるバージョン」のウォレス、言ってしまえば「偽物のウォレス」を提示する。
皮肉なことに、ウォレスが生前もっとも恐れていたことを、この映画は喜々として実現してしまっているのだ。
映画製作者たちがこの矛盾に気づかなかったのか、それとも完全に無視することを選んだのか。
どちらなのかは分からない。
だが、それは驚くべきことだ。
一分ごとに、一場面ごとに、『The End of the Tour』は、デイヴィッド・フォスター・ウォレスが信じ、大切にしていたはずのものをことごとく否定していく。
そして、描き方も企画そのものも、どこか思春期じみた思い上がりを感じさせ、見終えたあとには呆然とさせられる。
映画の中では、ウォレス自身が「自分はそんな存在にはなりたくない」と何度も訴えている。
ところが映画は、その訴えを意図的に、あるいは無自覚に無視してしまう。
ウォレスは何度も何度も「自分をキャラクター化しないでくれ」と語る。
それなのに映画は何をするのか。
延々と彼を撮り続ける。
ジェイソン・シーゲルは何をするのか。
「デイヴィッド・フォスター・ウォレスとはこういう人物だ」という一つのイメージを演じ続ける。
だからこそ、この映画は、もしウォレス本人が見たなら気が狂うほど嫌悪した作品になっていたはずなのだ。
ウォレスの遺産管理団体や編集者がこの映画を否定したのも、史実が間違っているからではない。
そうではなく、この映画がウォレスの最も望まなかったこと――彼を「キャラクター」に変えてしまったからなのである。
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ジェイソン・シーゲルは、ときには更生中の依存症患者特有の虚ろな目つきを見事に再現している。
しかし一方で、ウォレス特有の鋭く攻撃的な知性を十分に表現できていない場面もある。
彼はウォレスを、脅威とは無縁の、穏やかなヒッピーのように演じている。
これまで彼自身が何度も演じてきた、「愛すべき、少し間の抜けた、マリファナ好きの少年ヒーロー」の身ぶりへとたびたび戻ってしまうのだ。
とはいえ、映画そのものがそういうウォレス像しか許していない以上、他にどう演じようがあっただろうか。
もしシーゲルが、ウォレス本来の意地悪さや辛辣さ、人を叱責する一面まで演じてしまえば、この映画全体が作り上げている幻想は一瞬で壊れてしまう。
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この映画は終始、自分自身の匂いを嗅いでは、その香りにうっとりしているような作品だ。
考え得る限りもっとも「白い」ブロマンス(男同士の友情物語)であり、唯一の緊張感はジェシー・アイゼンバーグの演技から生まれている。
私はリプスキーと一年だけ同じ学校に通い、同じワークショップにも参加していた。
だから、アイゼンバーグが彼を実際以上に人間味のある人物として描いていることには感心した。
そして、彼が『Rolling Stone』誌のために取材した別の相手――その記事も結局掲載されなかったのだが――が語っているひどい体験談を聞けば、彼が今でもあまり変わっていないことが分かる。
その相手とはポルノ俳優のジェームズ・ディーンで、私のポッドキャストに出演した際、リプスキーについて不満をぶちまけていた。
だからこそ、この映画のラストを真剣に受け止めるのは非常に難しい。
アイゼンバーグ演じるリプスキーが、大勢の聴衆の前で自分のウォレス本を朗読しながら涙を流す。
その間スクリーンには、教会の中でウォレスが子どものように自由気ままな踊りをスローモーションで踊る姿が映し出される。
こんなイメージ――こんな気恥ずかしい発想――は、イメージ操作に敏感で、あれほど頭の良かったウォレスなら、自分を消し去りたくなるほど嫌悪したはずだ。
(アレックス・ロス・ペリー監督の『Listen Up Philip』は、若い小説家を苦々しく神経症的な人物として一切容赦なく描いており、この映画と二本立てで観ると実に示唆的だろう。)
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1980年代半ば、文学界の「ブラット・パック」と呼ばれた若い作家たちが、本を書いて金を稼ぎ、ベストセラーを連発しているのを見て、ウォレスは「自分にもできるのではないか」と思ったという話だ。
処女作『The Broom of the System』には、その影響が随所に見られる。
後年、本人はその影響を否定したものの、公の場ではその後も『Less Than Zero』を称賛し続けていた。
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数年前、私はD・T・マックスによるウォレス伝を読みながら、眠れない夜とテキーラの勢いもあってTwitterで長々と暴言を書き連ねた。
私が腹を立てていたのは、新しい読者たちのことだった。
彼らはウォレスの自殺とケニオン大学のスピーチを一つに結びつけ、「こういう人生を目指すべきだ」という感動物語へと作り変えてしまった。
ウォレスの作品をすべて読み、彼の歩みを長年追ってきた人間からすると、それはあまりにも感傷的なストーリーだった。
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私も同世代の多くの作家と同じように、ウォレスの作品はほぼすべて読んだ。
もちろん『Infinite Jest』だけは最後まで読めなかったが。
もっとも、その中心的アイデア――巨大企業が娯楽産業を支配していくという発想――は実に洒落ていて、時代を先取りしていたと思う。
しかし、『The Broom of the System』のいくつかの章と、初期短編の数編を除けば、私は彼の文章に心を動かされたことは一度もない。
私のように響かなかった読者の多くは、『Infinite Jest』を「依存症患者が延々と続ける自己演技」のように感じていた。
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そうだ。
私はそう思う。
文化の中で彼がどのように再解釈されてしまったか、そのことだった。
彼が晩年に売り物にし始めた「誠実さ」や「真摯さ」は、私たちには一種の策略にも見えた。
完全な嘘ではない。
文化全体が「皮肉」から「誠実さ」へ向かって変化していく流れを察知し、自分もそこへ順応したように思えたのである。
彼がいたという事実は好きだった。
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そうだ。
もちろんそう思う。
俳優のジェシー・アイゼンバーグは、最近公開されたGQの動画の中で、この映画の撮影が終わったときは「ほっとした」と語っている。その作品は彼の精神状態に深刻な負担を与えていたからだ。
ジェームズ・ポンソルト監督による『The End of the Tour』では、アイゼンバーグは作家デヴィッド・リプスキーをモデルにした架空版の人物を演じている。物語は、同じく小説家であるデヴィッド・フォスター・ウォレス(ジェイソン・シーゲル)の死を知ったリプスキーが、かつて彼にインタビューした数日間を回想するという内容だ。
「僕が演じた人物(リプスキー)は、とても強い嫉妬心を抱えている人なんです。彼は、自分が心の底から、ものすごく嫉妬している作家にインタビューをしている。その役を演じることは、僕にとって本当に居心地が悪く、とても感情的に苦しい経験でした」
「誤解しないでほしいんですが、同情してほしいと言っているわけではありません。これは俳優という仕事の一部です。ただ、この役は信じられないほど個人的なところに突き刺さってきたんです」
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『The End of the Tour』で共演したジェシー・アイゼンバーグとジェイソン・シーゲル。
(※記事中には関連記事として「ジェシー・アイゼンバーグとキーラン・カルキンはいかにしてロードムービー『A Real Pain』の悲しみの中にユーモアを見いだしたのか」というリンクが掲載されている。)
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しかし、なぜこの作品にそこまで強く反応してしまったのか、その理由は本人にもわからないという。
「当時、自分のキャリアの中で何かを抱えていたのかもしれないし、あるいは何か別のことが、この映画で起きていることと妙に重なって見えたのかもしれません。理由はわからない。でも、本当に苦しかったんです」
「撮影中のシーンでは、本当に泣くのを止められませんでした。それで監督から『そのシーンでは泣くのはやめてくれ』と言われたくらいです」
「その作品は、自分でも説明できないような感情を呼び起こしていました。たぶん当時、行くべきだったのにセラピーにも通っていなかったんですが、セラピストにさえ説明できなかったと思います」
と彼は続けた。
「それから、共演者のジェイソンに対しても、とても強い感情を抱いていました。彼は映画の中でも本当に素晴らしい演技をしていますし、人としても圧倒的な存在感があります。そうしたこともあって、自分の能力不足や至らなさを強く感じる気持ちに、撮影中ずっと内側から食い尽くされるような思いでした」
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さらにアイゼンバーグは、自分の状況がより悪化した理由として、この映画が低予算で制作され、しかも非常に過密なスケジュールで撮影されたことも挙げている。
そのため、彼とシーゲルは長時間にわたり休憩もほとんどないまま、それぞれの役柄の世界に深く入り込んでいなければならなかったという。
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(※記事中にはEntertainment Weeklyのニュースレターへの登録案内が掲載されている。)
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「僕はただ、その世界の中にずっといたんです。そして、それは本当に……何と言えばいいのかわからないけれど、少なくとも僕にとっては、精神的にとても健全な状態ではありませんでした」
と彼は語る。
「だから映画が終わったときは本当にほっとしました。もちろん、創作面では人生で最も刺激を受けた経験の一つでもあったんですが」
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(※記事中には関連記事として「ケリー・クラークソン、『あなたに心から恋している』とジェシー・アイゼンバーグにトーク番組で告白『今のあなたのエネルギーなら私も合わせられる!』」というリンクが掲載されている。)
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それでも、この作品が自分に与えた影響にもかかわらず、『The End of the Tour』は今では最も愛着のある映画の一本になっているとアイゼンバーグは話している。
「ジェームズ・ポンソルト監督との関係は、人生でも特に素晴らしい経験の一つでした。そしてジェイソン・シーゲルとの関係も同じです」
と彼は語る。
「本当に、僕たちは同じチームとして一緒に作品を作っているという感覚がありました」
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原文
Jesse Eisenberg is shedding some light on the internal turmoil that he felt while filming the 2015 drama, The End of the Tour.
ジェシー・アイゼンバーグが、2015年公開のドラマ映画『The End of the Tour』の撮影中に経験した心の葛藤について明かしている。
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原文
The actor explained in a recent GQ video that he was “glad” when the film wrapped because it took a serious toll on his mental health.
アイゼンバーグは最近公開されたGQの動画で、この映画の撮影が終わったときは「ほっとした」と語った。撮影は彼の精神状態に深刻な負担を与えていたからだ。
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原文
Directed by James Ponsoldt, The End of the Tour sees Eisenberg play a fictionalized version of writer David Lipsky as he reminisces over his time spent interviewing fellow novelist David Foster Wallace (Jason Segel) after learning of his death.
ジェームズ・ポンソルト監督による『The End of the Tour』で、アイゼンバーグは作家デヴィッド・リプスキーをモデルにした架空版の人物を演じている。物語は、同じく小説家であるデヴィッド・フォスター・ウォレス(ジェイソン・シーゲル)の死を知ったリプスキーが、かつて彼にインタビューした数日間を回想するという内容である。
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原文
“The character I was playing [Lipsky] was a deeply envious person. He is interviewing a writer that he’s deeply, deeply envious of, and it was very uncomfortable for me and very emotional for me to be in that role,” Eisenberg said.
「僕が演じた人物(リプスキー)は、とても嫉妬深い人なんです。彼は、自分が心の底から、本当に強く嫉妬している作家にインタビューをしています。その役を演じることは、僕にとってとても居心地が悪く、感情的にも非常につらい経験でした」
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原文
“I’m sorry, I’m not asking for sympathy — this is the nature of being an actor — but it just hit me in an incredibly personal way.”
「誤解しないでほしいんですが、同情してほしいと言っているわけではありません。これは俳優という仕事の性質です。ただ、この役は信じられないほど個人的なところに突き刺さってきたんです。」
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原文
He couldn’t pinpoint what specifically led him to have such a strong reaction to the material, though.
しかし、なぜこの作品にそこまで強く心を揺さぶられたのか、その理由は本人にもはっきりとはわからないという。
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原文
“I don’t know if I was going through something in my career at that time or something that, for some reason, just mirrored what was happening in that movie. And it just was killing me,” Eisenberg said.
「当時、自分のキャリアの中で何かを抱えていたのかもしれないし、あるいは何か別のことが、この映画で描かれていることと、不思議なくらい重なって見えたのかもしれません。理由はわからない。でも、本当につらかったんです」
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原文
“I really couldn’t stop crying during the scenes. And then the director told me to stop crying during the scenes.”
「撮影中のシーンでは、本当に涙が止まりませんでした。それで監督から『そのシーンでは泣くのはやめてくれ』と言われたくらいです。」
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原文
But he couldn’t help it.
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原文
“It was hitting me in an emotional way that I couldn’t explain even to a therapist, which I was probably mistakenly not going to at the time,” he continued.
「その作品は、自分でも説明できないような感情を呼び起こしていました。当時は、おそらく間違った判断でセラピーにも通っていなかったんですが、仮に通っていたとしても、セラピストにさえ説明できなかったと思います」
と彼は続けた。
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原文
“And I just had these very strong feelings for Jason, the actor, who’s really wonderful in the movie. He’s an imposing person, even, and all these very profound feelings of inadequacies were really eating me alive during that movie.”
「それから、共演者のジェイソンに対しても、とても強い感情を抱いていました。彼はこの映画で本当に素晴らしい演技をしていますし、人としても圧倒されるような存在感があります。そうしたこともあって、自分は劣っている、自分には足りないという強い感覚に、撮影中ずっと内側から食い尽くされるような思いでした。」
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原文
Eisenberg also noted that his situation likely wasn’t helped by the fact that the film was shot on a small budget and an extremely tight schedule that required him and Segel to be immersed in their characters for long hours at a time without any breaks.
アイゼンバーグはさらに、この映画が低予算で制作され、非常に過密なスケジュールで撮影されたことも、自分の状態を悪化させた一因だっただろうと振り返った。彼とシーゲルは、ほとんど休憩を取ることなく、長時間それぞれの役柄の世界に没入し続けなければならなかったという。
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原文
“I was just in this world and it actually felt really… I don’t know what the word is, but it really felt actually quite not healthy for me,” he said.
「僕はただ、その世界の中にずっといたんです。そして本当に……何と言えばいいかわからないけれど、少なくとも僕にとっては、あまり健全な状態ではありませんでした」
と彼は語った。
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原文
“I was glad when the movie ended, even though it was one of the most creatively inspiring experiences I’ve ever had.”
「だから映画が終わったときは本当にほっとしました。とはいえ、創作という面では、人生で最も刺激を受けた経験の一つでもありました。」
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原文
Still, despite its effect on him, Eisenberg noted that The End of the Tour has gone on to become one of the films that he loves the most.
それでも、この作品が自分に大きな影響を与えたにもかかわらず、『The End of the Tour』は今では最も愛着のある映画の一本になっているとアイゼンバーグは語っている。
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原文
“The relationship I had with James Ponsoldt was one of the highlights of my life, as well as the relationship with Jason Segel,” he said.
「ジェームズ・ポンソルト監督との関係は、人生でも特に素晴らしい経験の一つでした。そしてジェイソン・シーゲルとの関係も同じです」
と彼は語った。
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原文
“It felt like we were really on the same team.”
「本当に、僕たちは同じチームとして作品を作っているという感覚がありました。」
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原文
Watch Eisenberg discuss The End of the Tour — and his roles in films like Zombieland, Adventureland, and Now You See Me — in the clip above.
上の動画では、『The End of the Tour』について語るアイゼンバーグのほか、『ゾンビランド』『Adventureland』『グランド・イリュージョン(Now You See Me)』などで演じた役について振り返る様子も見ることができる。
なぜ『The End of the Tour』は、本当は私の友人デヴィッド・フォスター・ウォレスについての映画ではないのか
グレン・ケニー
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1997年の晩秋、私はデヴィッド・フォスター・ウォレスから一本の電話を受けた。
当時私が勤めていた雑誌『Premiere』で、彼が寄稿したデヴィッド・リンチについてのエッセイを編集していたのだが、その編集作業の間じゅう、ウォレスは実に穏やかで礼儀正しかった。(三度目に会うまでは、彼は私を「ミスター・ケニー」と呼び続けていた。)
しかし、その日の彼は、今にも取り乱しそうな声だった。
友人の一人が、映画『Mr. Jealousy』について紹介するNPRの番組を聴いていたところ、その作品に出演している俳優の一人が、自分の演じたキャラクターの着想源としてウォレスの名前を挙げていたというのだ。
ウォレスはひどく動揺していた。
しかも彼の住んでいる場所の近くでは、そのインディペンデント映画は上映されていなかった。
そこで彼は私に頼みごとをした。
「その件を調べてきてくれないか」と。
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一日か二日後、私は彼を安心させることができた。
映画の中でクリス・アイゲマンが演じる人物は、どの点を見てもウォレスを真似しているわけではなかったからだ。
さらに私は(どうやってだったか覚えていないが)そのNPRの放送自体も確認した。
すると、彼の名前が引き合いに出されたのも、ごく一般的な文脈だったことが分かった。
アイゲマンは、自分が演じたのは「時代の代弁者」とでもいうべき男性作家のタイプだと説明し、その例としてウォレスとジェイ・マキナニーの二人を挙げていただけだった。
しかもマキナニーは、公のイメージという点では、ウォレスとはほとんど正反対と言っていい人物である。
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このことを伝えたとき、ウォレスが大きく安堵のため息をついた。
その様子はいまでも鮮明に覚えている。
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そのやり取りを、私は先週ふと思い出した。
ウォレスの長年の編集者であり友人でもあったマイケル・ピーチュが、新作映画『The End of the Tour』について『ロサンゼルス・タイムズ』に寄せた声明を読んだからだ。
ピーチュはこう書いていた。
「もしこの映画の企画が彼の生前に持ち込まれていたら、デヴィッドはそんな話は笑い飛ばして部屋から追い出していただろう。」
しかし、その声明が掲載されたにもかかわらず、『ロサンゼルス・タイムズ』はその記事に、
「『The End of the Tour』はいかにして、とてもデヴィッド・フォスター・ウォレスらしい映画になったのか」
という見出しを付けた。
記事の内容も、映画と、ウォレスを演じたジェイソン・シーゲルをひたすら称賛するものだった。
一方で、ピーチュやその他の関係者が表明していた異議については、形式的に少し触れられているだけである。
まるで、「公平性のために反対意見も載せておきました」という、面倒なジャーナリズム上の義務を嫌々果たしているかのような書き方だった。
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第2回
この手のことは、最近ではもはや驚くような話ではなくなってしまった。
2008年にウォレスが自ら命を絶って以来、私が気づいたことが一つある。
それは、自称「デヴィッド・フォスター・ウォレスのファン」の多くは、実際に彼を知っていた人々の話には、ほとんど価値を認めていないということだ。
例えば、Jonathan Franzenが、亡き友人について、苦しみをにじませながらも容赦のない率直な見解を語ったり文章にしたりすると、ウォレスのファンたちはたちまち反発する。
インターネットには、
といったコメントが並ぶ。
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この傾向は、『The End of the Tour』をめぐる報道でも繰り返された。
『Although Of Course You End Up Becoming Yourself: A Road Trip With David Foster Wallace(もちろん最後には自分自身になってしまうのだけれど――デヴィッド・フォスター・ウォレスとのロードトリップ)』
の映画化が発表されたとき、デヴィッド・フォスター・ウォレス・トラストは反対の意思を表明した。
するとライターのMaria Bustillosは、かつてウォレスが本に書き込んでいた母親に関するメモを再掲載し、それほど深い洞察もないまま「ウォレス研究家」のような立場を装っていた人物だが、The Awl に
「死者は同意できない(The Dead Cannot Consent)」
彼女は、「トラスト」という存在を、まるでオーウェル小説に出てくるような巨大で匿名の組織であるかのように扱っていた。
しかし実際には、それはウォレスが2004年から亡くなるまで結婚していた妻、カレン・グリーンが代表を務める小さな団体にすぎない。
それにもかかわらず、バスティージョスは鼻で笑うようにこう書いた。
「もし彼が自殺していなかったなら、この映画に同意したかどうかなどという、悲しく、理解しがたい問いについて、なぜわざわざ推測する必要があるのだろう。」
⸻
私は、その問いは少なくともカレン・グリーンにとっては、決して「理解しがたい」ものではないと思う。
また、ウォレスの文芸エージェントだったボニー・ネイデルにとっても、そしてもちろんピーチュにとっても同じだ。
彼らにとって、ウォレスが何を望み、何を望まなかったかという問題は、抽象的な知的議論ではなかった。
昔から、そして今もなお、極めて現実的で個人的な問題なのである。
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2011年、カレン・グリーンは Observer 紙のインタビューで、人々にこう訴えようとしていた。
「ジャーナリズムがジャーナリズムであることは分かっていますし、人々は『私が彼の遺体を発見した』という話を何度でも読みたがるのかもしれません。でも、それはデヴィッドその人でもなければ、彼の作品でもありません。」
そして続けてこう語っている。
「そういう扱い方をすると、彼は『有名人の作家』という存在に変えられてしまう。それは、彼の中の一番大切な部分からすれば、きっと顔をしかめるようなことだったと思います。」
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こうした人たちは、自分たちが知っていたウォレスという人間と、ファンたちが奇妙なほど「自分たちのもの」と思い込んでいるウォレス像との間で、常に板挟みになってきたのである。
⸻
私は、カレン・グリーンやマイケル・ピーチュ、あるいはボニー・ネイデルほど深くデヴィッド・フォスター・ウォレスを知っていたわけではない。
それでも、生前の彼について文章を書く際に「私の友人」と呼んでも、彼が嫌がることはない程度には親しかった。
『A Supposedly Fun Thing I’ll Never Do Again(楽しいことのはずが、二度とやりたくない)』
の謝辞の中で、私に
「The Mollifier(なだめ役)」
というあだ名まで付けてくれている。
⸻
1998年には、ラスベガスで開かれたAVNアワードを取材するため、私はデイヴ(ウォレス)と週末を共に過ごした。
彼はその体験を後に
というエッセイにまとめている。
という名前で登場させていた。
⸻
『Big Red Son』となる原稿を『Premiere』誌が編集した際、その扱いに彼は激怒し、後に『Consider the Lobster』の注で、その編集を**「bowdlerized(検閲・無害化されてしまった)」**と書いた。
そして、その表現はまったく正確だった。
私たちは主に電話で話していたが、2004年以降になると、会話の多くは、お互いが人生の伴侶と出会えた幸運について語ることになっていった。
私は昼間の仕事を失ったことについて長々と愚痴をこぼしたが、彼はとても励ましてくれた。
その年の9月、彼は亡くなった。
⸻
第3回
そうした、比較的限られた立場から見ても、『The End of the Tour』は私には失笑ものだった。
私は映画評論を書く際、歴史的事実に忠実でない作品であっても擁護してきたことが少なくない。
映画というものは、それぞれが独立した一つの世界であり、その世界の中で評価されるべきだ――良くも悪くも、そう考えてきたからだ。
しかし、そのような距離を置いた姿勢は、この映画を初めて観た瞬間に吹き飛んでしまった。
⸻
この作品は、1996年の5日間を舞台に、デヴィッド・リプスキー(演じるのはジェシー・アイゼンバーグ)と、デヴィッド・フォスター・ウォレス(演じるのはジェイソン・シーゲル)の、脚色された人物像を描いている。
さらに物語は、2008年を舞台にした場面で始まり、同じく2008年の場面で締めくくられる。
そこではリプスキーがウォレスの死と、その残したものについて振り返っている。
⸻
多くの点で、ごく典型的なインディペンデント映画であるこの作品を観終えた私は、あまりに腹が立ち、その夜はほとんど眠れなかった。
ベッドの中で、ジェイソン・シーゲルのウォレス像を最も的確に表す言葉は何かということばかり考え続けていた。
そしてようやく思いついた表現が、
「死者を食い物にした自己顕示(ghoulish self-aggrandisement)」
だった。
⸻
私にとって、この演技を思い浮かべると連想されるのは、キャプテン・ビーフハートの曲の一節である。
「俺は、自分の骨の上に乗っかっている奴らのことを思う。」
⸻
もっと個人的な感情を脇へ置いて、この映画を見ようと努めてみることもある。
たとえば、
「90年代に二人の男が作家としてあれこれ語り合い、その何年か後、一人が自殺する」
という映画として見たとしても、『The End of the Tour』はやはり物足りない。
⸻
彼の演技を「ウォレスが憑依したようだ」と評する人もいる。
しかし私には、とてもそうは思えない。
むしろ、「ほら、ここが重要ですよ」と大げさに指し示す演技の連続に見える。
ここで一つ癖を見せ、
あそこでまた別の癖を見せる。
額にはしわを寄せ続ける。
を一生懸命考えながら演じているのが透けて見える。
⸻
すべて後景へ退き、
前面に押し出されるのは、
だけである。
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彼が冗談を言っている場面でさえ、その人物には明るさも、軽やかさもない。
「死んだほうがましだ」
あるいは
「君は本当に私になりたいとは思わないだろう」
まるで観客の脇腹を肘で突きながら、
「ほら、彼は将来自殺するんですよ」
と念押ししているようにしか見えない。
⸻
ウォレスの自殺という出来事が、亡くなる12年も前から彼の人生のすべてに影を落としていた
と主張してやまない。
⸻
しかも、シーゲルが演じるウォレスは、本当の意味で「暗い」人物ですらない。
ただ、
「なんとなく悲しそうな人」
なのである。
⸻
自らを去勢してしまう代わりに、ポルノに徹底的に没頭してみたらどうか――
そんな極端な発想を平然と口にするようなウォレスは、『The End of the Tour』には一度も姿を現さない。
また、
あの恐ろしく入り組んだ短編小説『Octet』を書いた作家も、ここには存在しない。
その作品は、
という、目が回るような結末で始まる。
⸻
この映画が向けられているのは、
かつて流行した**『Wear Sunscreen(日焼け止めを塗れ)』**の現代版――人生の教訓集――として愛読しているような人々なのだ。
そして、
『ロサンゼルス・タイムズ』の記事でも繰り返されていたように、
⸻
だが、ウォレスが嫌っていたのは、
そこに描かれるウォレスは、
ジョン・バースについて語るより、
アラニス・モリセットについて語るほうが楽しそうな人物なのである。
⸻
「この映画は、ウォレス自身の言葉を使いながら、なおウォレスの思想を裏切っている」
と書いていた。
私は、その指摘はほとんど完全に正しいと思う。
⸻
第4回(完結)
そして結局のところ、この映画を二度観終えてもなお、私自身が知っていたウォレスと、この映画が描くウォレスとの食い違いを、私はどうしても埋めることができなかった。
『Although Of Course You End Up Becoming Yourself(もちろん最後には自分自身になってしまうのだけれど)』の冒頭で、リプスキーはウォレスの話し方をこう描写している。
「語尾の g を飲み込み、『wouldn’t』を『wudn’t』、『didn’t』を『dudn’t』、『isn’t』を『idn’t』、『something』を『sumpin』と言う、どこにでもいるスポーツマン風のアクセント。」
シーゲルは、このリプスキーの描写をそのまま演技に取り入れている。
しかし、私の記憶では、デイヴはもっと正確で、ほとんど改まった話し方をしていた。
現在分詞の語尾に付く g も、落とすことなく、静かに、しかしきちんと発音していたのである。
⸻
がっしりしていて、
ぎこちなくよろめくように歩き、
肘を不器用に動かし、
いつも少し小さめの服を無理に着ている。
私が覚えているデイヴは、体格こそ立派だったが、同時にほとんど身軽で、しなやかささえ感じさせる人物だった。
⸻
それでも映画のラストで、シーゲルが大げさなくらいひどい踊りを披露する場面は、まるでネオンサインのようにはっきりと、この映画の考え方を示している。
つまり、
「あまりにも純粋で、あまりにも神聖だったがゆえに、この世界ではうまく生きられなかった天才」
⸻
同じことは、先ほど触れたアラニス・モリセットの話にも表れている。
リプスキーの本には、
「もし彼女に会えたらどうする?」
というやり取りが実際に載っている。
そのときのウォレスの返答は、有名人という存在や、セレブリティ文化の力学に対して懐疑的ではあるものの、決して間の抜けたものではない。
ところが脚本家ドナルド・マーグリーズがその場面を書き換え、シーゲルが演じると、
(Beaky Buzzard――アメリカのアニメに登場する、頭は悪くないが極端に間が抜けたハゲワシのキャラクターを引き合いに出している。)
⸻
一方、ジェシー・アイゼンバーグが演じるリプスキーは、最初はやや自虐的な描かれ方をしている。
地方に住むウォレスのもとへ押しかけてくる、押しの強い都会人。
天才性、
名声、
そうしたものを欲しがりながら、
なぜ当のウォレス本人が、それらに対して複雑な感情を抱いているのか理解できない男として描かれる。
⸻
映画の最後でリプスキーをより立派な人物として浮かび上がらせるための仕掛けにすぎないことが分かる。
彼は生き残った作家として、
NPRで。
行く先々で。
まるでジョニー・アップルシード(※アメリカ開拓時代にリンゴの種をまいて各地を歩いた伝説的人物)のように。
⸻
……私だけなのだろうか。
彼の死は、彼を知っていた者たちにとって、今なお生々しい傷なのである。
⸻
それはウォレスを窒息させるような敬意だ。
「見てくれ。」
「こんなに立派な追悼作品なんだ。」
「どうして君は、こんなものを望まなかったんだ?」
「どうして受け入れなかったんだ?」
と懇願しているように思える。
⸻
だが、その問い自体が間違っている。
なぜなら、この映画に関わった誰一人として、
ウォレスが持っていたような、容赦のない鋭い自己認識をもって「これ」を見ていないからである。
結局は**「有名人の作家さん」**という肖像を作り上げただけだった。
⸻
「まだ早すぎる(Too soon.)」
――まったく、その通りなのである。
⸻
司会:
ネット上で批判ばかりする人たち(トロール)の話ばかりしたいわけではありませんが……。
でも、あなたがデヴィッド・フォスター・ウォレスを演じると発表されたとき、多くの人が彼や彼のイメージ、彼の記憶に対して、あそこまで「自分たちのものだ」と言わんばかりの反応を示したことには驚きましたか?
⸻
多少の**認知的不協和(cognitive dissonance)**は理解できますよ。
つまり、
「えっ、あのラブコメの人が、デヴィッド・フォスター・ウォレスを演じるの?」
という反応ですよね。
でも、
とは思いました。
⸻
司会:
なるほど。
⸻
僕は3年くらい前から、娯楽としてインターネットを見るのをやめたんです。
⸻
司会:
じゃあ、何を見逃したのか知らないわけですね(笑)。
⸻
ちょうどネットを見るのをやめた頃だったと思いますが、それまでまともな報道機関だと思っていたサイトの横に、
みたいな見出しが並ぶようになったんです。
そのあたりで、
と思ったんですよ。
音声認識の乱れを補いながら、省略せず自然な日本語に訳します。
⸻
ジェイソン・シーゲル:
それで僕は、こんなものを見続けても、自分は幸せにはならないと決めたんです。
本気でそう思っています。
もちろん、有名人がそういう記事の標的になることも気の毒です。
でも、それ以上に気の毒だと思うのは、それを消費する側の人たちなんです。
「ああ、なんだか気分がいい」
という一瞬の高揚感を得る。
でも、その積み重ねによって、少しずつ私たちは変わってしまう。
人をそんなふうに話したり、そんなふうに感じたり、そんなふうに扱ったりすることが、だんだん普通のことになってしまう。
そして本人が部屋を出ていった途端に、その人を陰でけなしたり、恥をかかせたりする。
僕は、それは本当にひどいことだと思います。
TMZみたいな芸能ゴシップではなく、必要な情報を調べたり、そういう用途では使っています。
でも、自分の身の回りで実際に起きていることについて、自分が前向きな気持ちになれないような情報に、自分の感情を投資するのはやめました。
人生って本当はすごく順調なんです。
ところが、その意識を広げて、
「ヴァネッサがどうした」
そんなゴシップまで気にし始めると、
そう思うんです。
⸻
補足
I don’t know, what this reality show said to Vanessa…
のように認識されていますが、実際には特定のリアリティ番組や芸能ゴシップの例を挙げているだけです。ジェイソンが言いたいことは一貫していて、
「自分の人生とは関係のない芸能ゴシップや炎上に感情を消耗するより、自分の現実に集中したほうが人生はずっと豊かになる」
という考えを語っています。
音声認識の乱れを補いながら、省略せず自然な日本語に訳します。
⸻
ジェイソン・シーゲル:
だから、そういうことを全部踏まえたうえで、僕は十分に覚悟していました。
そのことは、この仕事を18年間続けてきて嫌というほど分かっています。
だから僕は、
「自分はどうやって、この役に対して言い訳をせず、腹をくくって向き合うか」
そのことだけに時間を使おうと思いました。
というのも、本当に怖かったんです。
⸻
司会:
でも、引き受けたんですよね。
⸻
ええ。
⸻
司会:
では、引き受けたあと、この人物がどんな人だったのかを理解するために、どんな準備をしたんですか?
⸻
まず、外面的な部分があります。
「ただの物まね」や「そっくりさんの寸劇(スケッチ)」みたいに見えてしまうこと
だと分かっていました。
だから、その点には本当に気を配りました。
デヴィッド・フォスター・ウォレスは実在した人物であり、多くの人に愛され、大切に思われている存在です。
その思いの強さや形は人それぞれ違いますが、
その事実には敬意を払わなければならない。
そう考えていました。
⸻
ジェイソン・シーゲル:
でも同時に、一番大切なのは、その人の本質をとらえることだと思ったんです。
今まさに僕は、この映画のためのプロモーションツアーを回っています。
でも、このツアー中の僕は、『The Muppets』の宣伝をしていた頃の僕とは違う人間なんです。
とはいえ、どちらも演技をしているわけではありません。
どちらも嘘ではないんです。
分かりますか?
「子どものような驚きって何だろう」
とか、
「一番好きなマペットの歌は何だろう」
なんて考えながら生きているわけじゃありません。
それで僕が思ったのは、この映画はデヴィッド・フォスター・ウォレスの一生を描く伝記映画ではないということでした。
描かれているのは、彼のプロモーションツアー最後の4日間だけなんです。
その数か月間、彼が毎日考え、毎日語っていたことは、まさに**『Infinite Jest』のテーマ**だったはずだと。
だから当然、そのテーマこそが、その頃の彼の頭の中を最も大きく占めていたはずなんです。
さらに言えば、その本を書くのに何年も費やしてきたわけですから、そのテーマは彼の内面に深く染み込んでいた。
だから僕は、
『Infinite Jest』が何を語ろうとしている作品なのか、そのテーマを徹底的に理解し、それを自分自身の頭の最前面に置くこと。
それが、この役を演じるための最善の方法だと思いました。
もちろん、そのテーマについて話したければ、いくらでもお話しできます。
でも、もう一つ僕が強く感じたのは、
彼が「うつ病」について、本当に美しく、そして深い洞察をもって書いていることでした。
その一つは、彼が**「人間のある現象」**について語っているところです。
⸻
ジェイソン・シーゲル:
そして、読者にこう問いかけるんです。
「いったい何がそんなに恐ろしいから、燃えているビルから飛び降りることのほうが、そこに留まるよりも『逃げ道』に感じられるのだろう?」
これは、自殺について語っている箇所なんです。
⸻
もう一つ、強く印象に残った場面があります。
「どうして自分を傷つけようとしたの?」
すると彼女はこう答えるんです。
「違う。私は、この苦しみを終わらせたかっただけなの。」
⸻
他の人がどう感じるかは分かりません。
でも僕は、それを読んで思いました。
「ああ、この人は、僕なら『もうこの部屋から出ていけ!』としか言えないような感情を、ずっと美しく、ずっと正確な言葉で表現できる人なんだ。」
そう思ったんです。
そこで気づきました。
深いうつと向き合っている人にとって、それは決して完全には消え去らないものなんだと。
たとえるなら、足首をひどく捻挫しているようなものです。
「そのうち立ち上がらなきゃいけない。」
そのことを、いつも頭のどこかで意識している。
そんな状態なんです。
だから僕は、デヴィッド・フォスター・ウォレスの中には、
内面の世界と、外から見えている姿との間に深い裂け目(schism)がある
と感じました。
「終わったあとで、あの発言はまずかったかな、と後悔するかもしれない。」
そんなことを常に意識している。
そういう感覚を抱えながら生きている人物なんだ、と考えたんです。
⸻
司会:
つまり、そういう感情を常にコントロールしながら生きているわけですね。
⸻
そうです。
⸻
司会:
興味深いですね。
皆さんが聴いたことがあるか分かりませんが、デヴィッド・フォスター・ウォレスのケニオン大学卒業式でのスピーチ、**「This Is Water(これは水です)」**がありますよね。
あれは、この映画で描かれている時期から10年ほど後のものですが、聴いていると、
彼はこうした問いの少なくとも一部について、自分なりの答えを見つけつつあったようにも感じます。
⸻
ええ。
少なくとも、その一部についてはそうだったと思います。
そして……(続く)
音声認識の誤り(Impenagest → Infinite Jest など)を補いながら、省略せず自然に訳します。
⸻
ジェイソン・シーゲル:
そして、その頃になると、彼は自分なりの答えに少しずつ近づいていたようにも思えます。
その答えとは、
「何に価値を置くか」を変えること。
そして、
良い友人であること。
そういうことに誇りを持つこと。
そして、ある意味では、
⸻
だから僕が『Infinite Jest』を読む中で、特に強く心をつかまれたテーマは、まさに脚本を受け取った当時の自分の心境とも重なっていました。
「人を幸せにするものは、成功・快楽・娯楽、その組み合わせだ」
と教えられています。
「もしかすると、『そこ』なんて場所は最初から存在しないのではないか。」
ということです。
そして、
自分が近づけば近づくほど、その『そこ』も同じ距離だけ先へ逃げていく。
「あともう少し」
「次こそ」
そんな感覚に陥るんです。
⸻
there just keeps moving equidistant away from you
これは非常に印象的な比喩です。
直訳すると、
「その『到達点』は、あなたが進むたびに、同じ距離だけ先へ動き続ける。」
つまり、目標に近づいているつもりでも、幸福や満足感は常に手の届かない場所へ逃げ続ける、という意味です。
この「幸福は次の成功の先にある」という終わりのない追いかけっこは、『Infinite Jest』全体を貫く重要なテーマの一つでもあります。
⸻
ジェイソン・シーゲル:
本当にその通りなんです。
まさに、それが当時の僕でした。
だから思ったんです。
「もし成功が本当に自分を幸せにしてくれるものなら、とっくにそうなっているはずだ。」
って。
そのことに気づいたんです。
たとえば『The Muppets』では、僕は本当に夢が叶いました。
劇中で歌って踊っていましたよね。
本当に。
心の底からそう思っていました。
たくさんの人に助けてもらいながらではありましたが、自分なりのやり方でその夢を実現できた。
そして実際に叶いました。
でも……
成功がもたらしてくれる幸福感の「後光(halo)」は、せいぜい数週間しか続かなかった。
そしてすぐに、
「次は何だ?」
という考えが頭に浮かんでくるんです。
⸻
司会:
ええ。
⸻
だから、
「次」ではなく、「今ここ」に満足を見いだせるようにならない限り。
つまり、
「幸せは未来にある」と考えるのではなく、「今この瞬間」に幸せを見つけられるようにならない限り。
その追いかけっこは終わらないんです。
⸻
司会:
では、この役を演じたことで、「名声」というものに対する考え方や、自分と名声との関係は変わりましたか?
⸻
ええ。
完全に変わりました。
撮影が終わって、
と言われたとき、
僕は心からこう思えました。
「自分にできることは、すべてやり切った。」
と。
⸻
ジェイソン・シーゲル:
この作品では、撮影中ずっと、カメラの向こう側ばかりを見て、自分自身のことは見えなくなっていたような感覚だったんです。
分かりますか?
つまり、自分がどう見られるかとか、評価されるかとか、そういうことが意識の中心ではなくなっていた。
どう受け止められるかなんて、誰にも分かりません。
でも、一つだけ確かなことがありました。
自分にできることは、全部やった。
それだけは言えたんです。
父が、
「どうだった?」
と聞いてきました。
僕は、
「うん、できる限りのことはやったよ。」
と答えました。
すると父は、
「いや、お前なら『ベストを尽くした』以上のことができたはずだろう。」
と言ったんです。
もちろん、父は本当に優しい気持ちでそう言ったんです。
父は、昔の僕ならそう言うだろうと思っていたんですね。
昔の僕なら、
「まあ、できることはやったし。」
と肩をすくめて、
本当は悔しさや不安をごまかすための防衛反応としてそう言っていたはずだから。
だから父は、そのつもりで励まそうとしたんです。
でも僕は言いました。
「違うんだ、お父さん。」
「今回は、その意味じゃない。」
「本当に、できる限りのことを全部やった、って意味なんだ。」
すると父は、
「そうか。それなら良かった。」
「よくやったな。」
と言ってくれました。
そして、そこまでやったなら、
あとはもう眠るだけなんです。
⸻
And then you have to, like, then you go to sleep.
これは単に「寝る」という意味ではありません。
「自分にできることはすべてやった。あとは結果を手放して、安心して休めばいい。」
という、彼がこの作品を通してたどり着いた境地を表しています。
インタビュー全体を通して語ってきた「成功を追い続けるのではなく、自分にできることをやり切る」という考え方が、この最後の一言に凝縮されています。
⸻
司会:
この作品については、あなたの言うところの「本オタク仲間(book nerd friends)」とも話し合ったんですか?
「本オタク」というのは、あなた自身が使った言葉ですからね(笑)。
⸻
ジェイソン・シーゲル:
ええ(笑)。
でも、その一言だけが独り歩きしてしまって、本当に困ったんですよ。
あの言葉だけを切り取ると、彼らへの愛情がまったく伝わらないんです。
僕が言いたかったのは、
とか、
と言うのと同じ意味なんです。
彼らは、僕がこれまで出会った中でも、本当に頭が良くて、素晴らしい人たちです。
だから、この場を借りて自分からちゃんと説明しておきたかったんです。
あの発言をして以来、ずっと気になっていたので。
⸻
司会:
本当に気にしていましたよね(笑)。
⸻
ええ。
そして実際、彼らはこの演技にものすごく大きな影響を与えてくれました。
⸻
司会:
少し説明しておきましょう。
あなたの役作りの一環として、あなたと3、4人くらいの男性が集まって話し合っている映像が公開されましたよね。
⸻
何があったのか、正確に話しますね。
本当に最高の出来事だったんですよ。
「これ、読んだことありますか?」
と聞いたんです。
すると彼は、
「ありますよ。」
と言いました。
そこで僕が、
「初めて読むんですが、どれくらい時間を見ておけばいいですか?」
と尋ねたんです。
すると彼は、
「初めて?」
と聞き返してきました。
僕は、
「ええ、初めてです。」
と答えました。
すると彼が、
「ちょっと待ってて。」
と言って、奥へ行ったんです。
そして別の店員さんを連れてきて、
「この人、『Infinite Jest』を読むのにどれくらいかかるか知りたいんだって。」
と言いました。
二人は顔を見合わせて、
「クラブだ。」
「クラブに入れよう。」
という感じになったんです(笑)。
⸻
補足
最後の
は音声認識では big club になっていますが、実際にも「クラブ(読書仲間)」の話です。
ジェイソンは本屋で『Infinite Jest』を買ったことがきっかけで、店員たちに「読書会(読書クラブ)」へ誘われ、それがデヴィッド・フォスター・ウォレスを理解する大きな助けになった、というエピソードを話しています。
また、
は1990年代初頭のアメリカの青春コメディドラマで、「二人が息ぴったりに反応した様子」をユーモラスに例えています。
⸻
司会:
たぶん今の『Parker Lewis Can’t Lose』の話は、番組が終わって以来初めて聞いた気がします(笑)。
⸻
ジェイソン・シーゲル:
たぶんそうですね(笑)。
間違いなく初めてでしょう。
でも、とにかく、その後どうなったかというと──
彼らが読書会を開いてくれたんです。
毎週日曜日に集まって、
そんな会でした。
本当に、大人になってから経験したことの中で、一番素晴らしい体験の一つでした。
……ま
⸻
司会:
『Forgetting Sarah Marshall(寝取られ男のラブ♂バカンス)』や大ヒットシットコム『How I Met Your Mother』でおなじみの彼ですが、今回はこれまでとはまったく違う姿を見ることになります。
ジェイソン・シーゲルが、デヴィッド・フォスター・ウォレスを演じています。新作映画**『The End of the Tour』**は、ウォレスが自身のプロモーション・ツアー中に、『Rolling Stone』誌のライターと実際に行ったロードトリップをもとにした作品です。
まずはこちらをご覧ください。
⸻
司会:
司会:
あなた、一体どうしたんですか?
前回ここに来たときは、子ども向けの本について話しましたよね。
ええ。
司会:
それで、これまで演じてきたお気に入りの役についても聞きました。
はい。
司会:
ええ。
司会:
人生を代表する役になるかもしれない作品について、一言も話さなかったじゃないですか。
今日のために取っておいたんですよ。
司会:
その通りです(笑)。
司会:
この映画はものすごい評判になっています。批評家たちがこぞってレビューを書こうと並んでいるくらいで、このインタビューの時間を全部使って絶賛レビューを読み上げることだってできます。
一つだけ紹介しますね。HuffPostのレビューが一番うまく言い表していると思います。
「まだ公開されたばかりだが、念のため今からジェイソン・シーゲルのアカデミー賞キャンペーンを始めておこう。」
それは本当にありがたい言葉ですね。
でも何よりも僕が願っているのは、この映画を観た人たちがデヴィッド・フォスター・ウォレスの作品を手に取ってくれることなんです。
彼の文章は、すでに僕自身の人生にも大きな影響を与えてくれましたし、この映画もきっと多くの人に同じような影響を与えると思います。
こちらも音声認識がかなり崩れています。文脈から補正すると、こういう内容です。
⸻
司会:
どこかへ車で出かけて、また『Rolling Stone』のライターにも来てもらってね。
ええ、そうですね(笑)。
司会:
今まで聞いた中で一番いいアイデアかもしれない。
司会:
デヴィッド・フォスター・ウォレスという名前を初めて意識したときのことを覚えていますか?
つまり、「この人が誰なのか」を初めて知ったのはいつだったか、覚えていますか?
⸻
Now, do you remember when David Foster Wallace’s name first registered with you, like when you knew who he was?
直訳すると、
「デヴィッド・フォスター・ウォレスという名前が、あなたの中で初めて『認識された』のはいつだったか覚えていますか? つまり、この人が誰なのかを知った最初の時のことです。」
⸻
でもとにかく、彼(デヴィッド・フォスター・ウォレス)は、テクノロジーが将来どのようなものになっていくのかを非常に先見の明をもって見抜いていた人でした。
そして、人と人とをつなぐために作られたはずのものが、最終的には人間同士のやり取りを非人間的なものにしてしまう、ということも見抜いていたんです。
特にその箇所では、ビデオチャットが利用できるようになったとき、人々はみんな大喜びしていたことについて書かれています。
でもその後になって、ビデオチャットをしながらでは、相手に見られているから、もう会話の最中に別のことはできないという現実に気づくんです。
⸻
these things that were meant to connect us
「私たちをつなぐために作られたもの(テクノロジー・通信手段)」
were ultimately going to dehumanize interaction
ここでの dehumanize は「非人間化する」という直訳よりも、「人間らしい温かみや自然さを奪う」という意味です。
they can no longer do other things while they’re talking to somebody
電話なら、本を読んだり歩いたり洗い物をしたりしながら話せますが、ビデオチャットでは画面に映っているため、そうした「ながら」がしづらくなる、というウォレスらしい観察を指しています。
音声認識にかなり誤りがありますが、文脈を補って省略せずに訳します。
⸻
(彼は、)人と人とをつなぐために作られたものが、最終的には人間同士のやり取りを非人間的なものにしてしまう、と考えていました。
特にその箇所では、ビデオチャットが利用できるようになったとき、人々はみんな大喜びします。でもやがて、「相手に自分が見えている以上、会話をしながら別のことはできない」ということに気づくんです。
すると、人々はまるでちゃんと相手に注意を向けているように見せるため、手の込んだ仮面や背景セット(ジオラマ)まで作るようになります。
そして最終的には、カメラをテープでふさいでしまい、結局は昔ながらの「声だけの電話」で話すようになる、という話なんです。
その後、『Infinite Jest(インフィニット・ジェスト)』を読みましたが、二度とあんなことはしないだろうと思いました(笑)。
⸻
司会:
短編小説はかなり読んだんですか?
⸻
ええ、短編もたくさん読みました。そして『インフィニット・ジェスト』にも挑戦しました。
⸻
司会:
あれはまさに登るべき山ですよね。
⸻
本当にそうです。
⸻
司会:
読み終えたときには、それ以上ないくらい満足感がありますよね。
⸻
ええ。本当にそう思います。
彼が私たちに思い出させようとしていることの一つは、人間には本来もっと大きなことができる力があるということなんです。
世の中では、「あなたが得意なのはテレビを見ることなんだ」というような、とてもさりげない、ときには露骨なメッセージを絶えず浴びせられています。
本当にそうなんです。
つまり、「文化的に見て良い人生とは、一生懸命働いて、家に帰ったらビールを一本開け、大きなテレビでリアリティ番組を見て満足することなんだ」という価値観を押し付けられている。
そして、それだけで満たされるはずだと言われている。
でも、そんなことで私たちが満たされないと感じるのは、ある意味当然なんですよ。
だから僕は、『インフィニット・ジェスト』を読み終えたとき、本当に達成感がありました。
長距離ジョギングを終えたあとのような気分、と言えばいいでしょうか。
……まあ、実は長距離ジョギングなんてしたことないんですけど(笑)。
でも、とにかく「ああ、自分はやり遂げた」という感覚になるんです。
⸻
司会:
では、その長い「ジョギング」に出発する前──つまり、この役に挑む前のことですが。
音声認識の誤りを補いながら、省略せず自然な日本語に訳します。
⸻
空港にいたんです。
ボストンへ向かう飛行機に乗るため空港にいて、その時のことは今でも本当にはっきり覚えています。
この脚本を受け取ったとき、自分がどんな状況にいたのかを説明しておきたいんです。そこはこの話では重要だと思うので。
当時、僕は出演していたテレビシリーズの最後のシーズンを撮っていました。
それに、34歳でした。いや、脚本を受け取った時は33歳だったかもしれません。
『Forgetting Sarah Marshall(寝取られ男のラブ♂バカンス)』という作品は、24歳だった頃の僕を、本当に正直に映し出した作品なんです。
当時の僕が実際に考えていたこと、そのままなんです。
24歳くらいの頃って、「この人と結婚するんだ」と思っていた恋人との別れは、本当に壊滅的な出来事ですよね。
⸻
司会:
だから「あの別れ(the breakup)」って呼ぶんですね。
⸻
そう(笑)。
そうなんです。
自分の頭の中では、まさに**「あの別れ」**なんですよ。
⸻
この業界の仕組み上でもあるし、大作映画に出るようになると特にそうなんですが、成功したものを繰り返し続けるよう、いろいろな形で促されるんです。
でも33歳になる頃には、自分の内面と、スクリーンの上で演じている人物が噛み合わなくなっていると感じ始めていました。
心の中では、何か別の方向へ進みたいという強い気持ちが湧いていたんです。
自分で脚本も書く人間にとって、それは決して健全な状態ではありません。
僕はいろいろなタイプの演技をしますが、基本的には役に完全に没入するタイプなんです。
つまり、
「これから90分間は、僕があなたになります。あなたも同じように感じますか?」
そういう感覚で演じたいんです。
だから僕は、まるで宇宙に向かって願いを放つみたいに、自分の中で一つ決意しました。
何か違うことをやりたい。
変わらなければいけない。
もし幸運にも、この仕事をあと50年続けられるなら、演じる作品も、その時々の自分自身を映し出しているものでなければならない。
そんなことを考えていたんです。
飛行機の中で読んで、
「これを僕に送ってくれたなんて、本当にすごいな」
と思ったんです。
音声認識の崩れを補正しながら、省略せず自然な日本語に訳します。
⸻
「うん、こういう作品こそ、僕がやりたい仕事なんだ。でも、いつかこういう役をやらせてもらえたらいいな、って感じかな」
そう言ったんです。
すると彼女は、
「違うのよ。監督のジェームズ・ポンソルトが、あなたとこの作品について話したいと言ってるの。あなたなら演じられると思っているから」
と言いました。
脚本には、飛行機の中で読んでいて、思わず泣きそうになったセリフが一つあったんです。
隣にまったく知らない小柄な人が座っていたので、それはちょっと気まずかったですね。
⸻
司会:
スクリーンでは全裸になることも平気なのに、飛行機で泣くほうが恥ずかしかったんですか?
⸻
ええ(笑)。
少し話がそれますけど。
たぶん高度のせいだったと思うんですが、機内で映画を観ていたら、本当に号泣し始めちゃって。
その状況に対して、泣き方が完全に度を超えていたんですよ。
⸻
司会:
⸻
隣に座っていた女性が僕を見て、
「この人、大丈夫なの?」
みたいな顔をしていました。
それから彼女は、僕が何を観ているのか気になったんでしょうね。
身を乗り出して画面をのぞき込んだんです。
そしたら……
⸻
補足
I think a good way of putting it is disproportionate to the occasion.
これは直訳すると、
という意味です。
つまり、「少し感動して涙ぐむ」程度ではなく、周囲が心配するくらい激しく泣いてしまった、というジョークになっています。
また、
You’ve been full frontal naked on screen
という映画業界でよく使われる表現です。司会は、「映画ではそこまでやっているのに、人前で泣くほうが恥ずかしいの?」と冗談を言っています。
こちらも音声認識の誤りを補い、文脈に沿って省略せず翻訳します。
⸻
いいえ。でも、彼が言おうとしていることはよく分かりました。
驚きはありませんでした。
⸻
司会:
なるほど。
⸻
さっきの話に戻ると、彼(デヴィッド・フォスター・ウォレス)は、読者に**「代理体験(surrogate experience)」**を与えてくれるんです。
彼は、長い旅を終えたあとに、
「こうすればいいんだよ」
と向こう岸から語りかけてくる人ではありません。
「僕はいま、こういう状況にいて、こんな気持ちなんだ。誰か、このことについて一緒に話さない?」
と語りかけてくる。
「そう、それなんだよ! この人は、まさに今の自分の気持ちを言葉にしてくれている!」
という感覚です。
僕なら、
「Get out of my plane!(俺の飛行機から出ていけ!)」
くらいしか叫べません。
でも彼は、その「Get out of my plane!」という感情を、一冊の小説として書けるんです。
分かりますか?
僕が『Infinite Jest』を読んだときも、まさにそうでした。
「なんだろう、この満たされない感じ。混乱しているこの気持ちは。」
そう思っていた感情が、彼の比喩によって初めて照らし出された。
「ああ、自分はこう感じていたんだ。」
⸻
司会:
⸻
⸻
司会:
この話でとても興味深いと思ったのは、今あなたが「たくさんの言葉」と言ったことなんです。
ジェームズ(・ポンソルト監督)がさっきも言っていましたが、あなた自身も物を書く人ですよね。
もちろん、デヴィッド・フォスター・ウォレスのような作品を書くわけではありませんが、執筆というものがどういうものかは知っている。
それに、ジェシー(・アイゼンバーグ)は完全に作家タイプの人間です。
でも、文章を書くことについて僕が知っていることが一つあります。
書いたことがない人には、なかなか想像できないかもしれません。
でも、本の一ページ一ページの裏側には、
「ごめん、今日は夕食には行けない。」
と断った夜がある。
それは決して小さなことではありません。
その間ずっと、
「ごめん、その集まりには行けない。」
「夕食にも行けない。」
と断り続けることになります。
ところが、『Infinite Jest』は1000ページを超える作品です。
つまり、
「ごめん、今日は行けない。」
という夜が、途方もない数だけ積み重なっている。
そんな長い年月を費やして、
という信念を持ち続ける。
それは、とてつもなく大きな**信念の飛躍(leap of faith)**なんです。
⸻
そう決めることももちろんですが、
それ以上に、
「今、自分が書いているこの分厚い原稿を、誰かが本当に気にかけてくれるはずだ。」
そう信じることなんです。
それ自体が、とても大きな飛躍なんですよ。
⸻
司会:
その通りですね。
本当にそう思います。
⸻
個人的な違いはいろいろあるとしても、その部分については、意外なほど分析されたり語られたりすることが少ないんです。
⸻
それは、
「自分が表現したいことには、みんなが静かになって耳を傾けるだけの価値がある」
と、心のどこかで本気で信じていることです。
⸻
司会:
そうですよね。
小説家でも、芸術家でも、みんな多少はそういうところがあります。
⸻
ええ。
たとえば僕は、ときどき大勢の人の前に立って、実質こんなことを言っているわけです。
「だから、そのアイデアを映画にするために、これだけのお金を出してください。」
しかも、
「そして、その映画を観るために、多くの人が自分の夜の時間を使って、このアイデアを体験したいと思うはずです。」
そんなことまで信じている。
……つまり、ソファでおやつを食べたあとに思いついたアイデアについてですよ(笑)。
⸻
司会:
ネット上で批判ばかりする人たち(トロール)の話ばかりしたいわけではありませんが……。
でも、あなたがデヴィッド・フォスター・ウォレスを演じると発表されたとき、多くの人が彼や彼のイメージ、彼の記憶に対して、あそこまで「自分たちのものだ」と言わんばかりの反応を示したことには驚きましたか?
⸻
多少の**認知的不協和(cognitive dissonance)**は理解できますよ。
つまり、
「えっ、あのラブコメの人が、デヴィッド・フォスター
We're actually gonna keep this interview going for about five days. FaceTime, Fred, and one more interview with one more Rolling Stone writer in a car, and, yeah, that's right. That's nice of thing I've ever heard. Thank you. Oh, you're welcome. Yeah. Um, let's start from the very, very beginning. Now, do you remember when David Foster Wallace's name first registered with you, like when you knew who he was?
⸻
司会:
どこかへ車で出かけて、また『Rolling Stone』のライターにも来てもらってね。
ええ、そうですね(笑)。
司会:
今まで聞いた中で一番いいアイデアかもしれない。
司会:
デヴィッド・フォスター・ウォレスという名前を初めて意識したときのことを覚えていますか?
つまり、「この人が誰なのか」を初めて知ったのはいつだったか、覚えていますか?
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Now, do you remember when David Foster Wallace’s name first registered with you, like when you knew who he was?
直訳すると、
「デヴィッド・フォスター・ウォレスという名前が、あなたの中で初めて『認識された』のはいつだったか覚えていますか? つまり、この人が誰なのかを知った最初の時のことです。」
But anyway, he was a guy who was just so forward seeing about what technology was going to become, and these things that were meant to connect us were ultimately going to dehumanize interaction. But that section in particular was about how everyone's so excited when video chat became available, but then there was realization that they can no longer do other things while they're talking to somebody.
⸻
でもとにかく、彼(デヴィッド・フォスター・ウォレス)は、テクノロジーが将来どのようなものになっていくのかを非常に先見の明をもって見抜いていた人でした。
そして、人と人とをつなぐために作られたはずのものが、最終的には人間同士のやり取りを非人間的なものにしてしまう、ということも見抜いていたんです。
特にその箇所では、ビデオチャットが利用できるようになったとき、人々はみんな大喜びしていたことについて書かれています。
でもその後になって、ビデオチャットをしながらでは、相手に見られているから、もう会話の最中に別のことはできないという現実に気づくんです。
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these things that were meant to connect us
「私たちをつなぐために作られたもの(テクノロジー・通信手段)」
were ultimately going to dehumanize interaction
ここでの dehumanize は「非人間化する」という直訳よりも、「人間らしい温かみや自然さを奪う」という意味です。
they can no longer do other things while they’re talking to somebody
電話なら、本を読んだり歩いたり洗い物をしたりしながら話せますが、ビデオチャットでは画面に映っているため、そうした「ながら」がしづらくなる、というウォレスらしい観察を指しています。
connect us, we're ultimately going to dehumanize interaction. But that section in particular was about how everyone's so excited when video chat becomes available, but then they have this realization that they can no longer do other things while they're talking to somebody because they can see them. And it evolves to people creating elaborate masks and dioramas so it looks like they're giving full attention until eventually they've taped off the camera and they're back to the auditory phone conversation. So the first thing that I read, and I supposedly something will never do again, which is called shiva, at one point. A lot of the short form fiction I had and tried to tackle. No, it's a mountain rest. It's something that definitely requires time and effort to tackle. Well worth it, I think, but. Oh, I think that by the end it is the most satisfying experience you can have, and I think that there's something that he tries to remind us that we're capable. You know, you're sort of given this very subtle and sometimes not so subtle message that what you're good at is watching TV. No, really, like that what is a good life culturally is to work really hard so that you can come home and crack open a beer and watch reality TV on a big giant television, and that that should satisfy you. And it's no wonder that we feel dissatisfied, I guess. And so my experience with reading Infinite Jest was by the time I finished it, I really felt like, I feel like how you feel after you go for like a long jog. I don't really know what that's like, but. But then told, you feel like, oh, I did that. So, prior to going on this long jog, you're sitting at home with a script.
音声認識にかなり誤りがありますが、文脈を補って省略せずに訳します。
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(彼は、)人と人とをつなぐために作られたものが、最終的には人間同士のやり取りを非人間的なものにしてしまう、と考えていました。
特にその箇所では、ビデオチャットが利用できるようになったとき、人々はみんな大喜びします。でもやがて、「相手に自分が見えている以上、会話をしながら別のことはできない」ということに気づくんです。
すると、人々はまるでちゃんと相手に注意を向けているように見せるため、手の込んだ仮面や背景セット(ジオラマ)まで作るようになります。
そして最終的には、カメラをテープでふさいでしまい、結局は昔ながらの「声だけの電話」で話すようになる、という話なんです。
その後、『Infinite Jest(インフィニット・ジェスト)』を読みましたが、二度とあんなことはしないだろうと思いました(笑)。
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司会:
短編小説はかなり読んだんですか?
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ええ、短編もたくさん読みました。そして『インフィニット・ジェスト』にも挑戦しました。
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司会:
あれはまさに登るべき山ですよね。
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本当にそうです。
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司会:
読み終えたときには、それ以上ないくらい満足感がありますよね。
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ええ。本当にそう思います。
彼が私たちに思い出させようとしていることの一つは、人間には本来もっと大きなことができる力があるということなんです。
世の中では、「あなたが得意なのはテレビを見ることなんだ」というような、とてもさりげない、ときには露骨なメッセージを絶えず浴びせられています。
本当にそうなんです。
つまり、「文化的に見て良い人生とは、一生懸命働いて、家に帰ったらビールを一本開け、大きなテレビでリアリティ番組を見て満足することなんだ」という価値観を押し付けられている。
そして、それだけで満たされるはずだと言われている。
でも、そんなことで私たちが満たされないと感じるのは、ある意味当然なんですよ。
だから僕は、『インフィニット・ジェスト』を読み終えたとき、本当に達成感がありました。
長距離ジョギングを終えたあとのような気分、と言えばいいでしょうか。
……まあ、実は長距離ジョギングなんてしたことないんですけど(笑)。
でも、とにかく「ああ、自分はやり遂げた」という感覚になるんです。
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司会:
では、その長い「ジョギング」に出発する前──つまり、この役に挑む前のことですが。
I was at an airport. I was in an airport flying to Boston, and I remember it really distinctly. So, to set up where I was when I got the script, because I think it's an important part of the story. I was feeling, I was at a point where it was the last season of my TV show, and I was also, I was 34 years old. Maybe I was 33 when I got the script. And Forgetting Sarah Marshall is really an honest reflection of where I was at 24. You know, that is, I mean, that is really like, I'm really proud of it. That is what I was thinking about, and it is those times when a breakup with the girl you think you're gonna marry is devastating. The world is ending, you know what I mean? You call it the breakup, because the only one cares. Like, and a fire makes it a whole different thing. Yeah, yeah, you know, because that's what it is in your mind. It's like, the breakup. But what I had found was, I think by nature of the way the business works, by nature of doing big movies, you, you're encouraged in a lot of different ways to continue to do what has been successful. So I did a lot of movies that were sort of in that realm, or sort of felt that way. And by the time I was 33, I was starting to feel like my interior life wasn't matching up with what I was putting on screen. I was feeling a real pull. And that's not a good feeling when you write your own material, and when you, you know, I try to, a lot of different types of acting, but I kind of try to, to a submersion, being a surrogate, like, I am you for the next hour and a half. Do you feel this way too? So I put out into the ether, like, a decision. I wanted to do something different. I needed to make a change. If I'm gonna do this for 50 more years, if I'm lucky, it needs to be stuff that is reflective of how I'm, I'm in the airport, and this script arrives, and I read it on the plane. And I thought, this is really cool you sent this to me.
音声認識の誤りを補いながら、省略せず自然な日本語に訳します。
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空港にいたんです。
ボストンへ向かう飛行機に乗るため空港にいて、その時のことは今でも本当にはっきり覚えています。
この脚本を受け取ったとき、自分がどんな状況にいたのかを説明しておきたいんです。そこはこの話では重要だと思うので。
当時、僕は出演していたテレビシリーズの最後のシーズンを撮っていました。
それに、34歳でした。いや、脚本を受け取った時は33歳だったかもしれません。
『Forgetting Sarah Marshall(寝取られ男のラブ♂バカンス)』という作品は、24歳だった頃の僕を、本当に正直に映し出した作品なんです。
当時の僕が実際に考えていたこと、そのままなんです。
24歳くらいの頃って、「この人と結婚するんだ」と思っていた恋人との別れは、本当に壊滅的な出来事ですよね。
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司会:
だから「あの別れ(the breakup)」って呼ぶんですね。
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そう(笑)。
そうなんです。
自分の頭の中では、まさに**「あの別れ」**なんですよ。
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この業界の仕組み上でもあるし、大作映画に出るようになると特にそうなんですが、成功したものを繰り返し続けるよう、いろいろな形で促されるんです。
でも33歳になる頃には、自分の内面と、スクリーンの上で演じている人物が噛み合わなくなっていると感じ始めていました。
心の中では、何か別の方向へ進みたいという強い気持ちが湧いていたんです。
自分で脚本も書く人間にとって、それは決して健全な状態ではありません。
僕はいろいろなタイプの演技をしますが、基本的には役に完全に没入するタイプなんです。
つまり、
「これから90分間は、僕があなたになります。あなたも同じように感じますか?」
そういう感覚で演じたいんです。
だから僕は、まるで宇宙に向かって願いを放つみたいに、自分の中で一つ決意しました。
何か違うことをやりたい。
変わらなければいけない。
もし幸運にも、この仕事をあと50年続けられるなら、演じる作品も、その時々の自分自身を映し出しているものでなければならない。
そんなことを考えていたんです。
飛行機の中で読んで、
「これを僕に送ってくれたなんて、本当にすごいな」
と思ったんです。
And I landed and I called my agent. I said, yes, this is the type of material that I'd like to do. But, you know, maybe if someday they'll let me do this kind of stuff. And she said, no, James Ponsoldt, the director, wants to talk to you about it because he thinks that you might be able to do it. And there was a line in that script that I almost like cried on the airplane, which was uncomfortable because there was a little person next to me who was a stranger. You've been full frontal naked on screen, but you were uncomfortable crying on a plane? Oh, I had a bad experience, and that's a short tangent that probably, but one time, I think it was due to the altitude, I was watching a movie on the plane, and I started crying like really hard. I think a good way of putting it is disproportionate to the occasion. And the woman next to me looked over at me like, is he okay? And then she like peeked over to look at what I was watching. It was Dreamgirls.
音声認識の崩れを補正しながら、省略せず自然な日本語に訳します。
⸻
「うん、こういう作品こそ、僕がやりたい仕事なんだ。でも、いつかこういう役をやらせてもらえたらいいな、って感じかな」
そう言ったんです。
すると彼女は、
「違うのよ。監督のジェームズ・ポンソルトが、あなたとこの作品について話したいと言ってるの。あなたなら演じられると思っているから」
と言いました。
脚本には、飛行機の中で読んでいて、思わず泣きそうになったセリフが一つあったんです。
隣にまったく知らない小柄な人が座っていたので、それはちょっと気まずかったですね。
⸻
司会:
スクリーンでは全裸になることも平気なのに、飛行機で泣くほうが恥ずかしかったんですか?
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ええ(笑)。
少し話がそれますけど。
たぶん高度のせいだったと思うんですが、機内で映画を観ていたら、本当に号泣し始めちゃって。
その状況に対して、泣き方が完全に度を超えていたんですよ。
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司会:
⸻
隣に座っていた女性が僕を見て、
「この人、大丈夫なの?」
みたいな顔をしていました。
それから彼女は、僕が何を観ているのか気になったんでしょうね。
身を乗り出して画面をのぞき込んだんです。
そしたら……
⸻
補足
I think a good way of putting it is disproportionate to the occasion.
これは直訳すると、
という意味です。
つまり、「少し感動して涙ぐむ」程度ではなく、周囲が心配するくらい激しく泣いてしまった、というジョークになっています。
また、
You’ve been full frontal naked on screen
という映画
1997年の晩秋、私はデヴィッド・フォスター・ウォレスから一本の電話を受けた。
当時私が勤めていた雑誌『Premiere』で、彼が寄稿したデヴィッド・リンチについてのエッセイを編集していたのだが、その編集作業の間じゅう、ウォレスは実に穏やかで礼儀正しかった。(三度目に会うまでは、彼は私を「ミスター・ケニー」と呼び続けていた。)
しかし、その日の彼は、今にも取り乱しそうな声だった。
友人の一人が、映画『Mr. Jealousy』について紹介するNPRの番組を聴いていたところ、その作品に出演している俳優の一人が、自分の演じたキャラクターの着想源としてウォレスの名前を挙げていたというのだ。
ウォレスはひどく動揺していた。
しかも彼の住んでいる場所の近くでは、そのインディペンデント映画は上映されていなかった。
そこで彼は私に頼みごとをした。
「その件を調べてきてくれないか」と。
⸻
一日か二日後、私は彼を安心させることができた。
映画の中でクリス・アイゲマンが演じる人物は、どの点を見てもウォレスを真似しているわけではなかったからだ。
さらに私は(どうやってだったか覚えていないが)そのNPRの放送自体も確認した。
すると、彼の名前が引き合いに出されたのも、ごく一般的な文脈だったことが分かった。
アイゲマンは、自分が演じたのは「時代の代弁者」とでもいうべき男性作家のタイプだと説明し、その例としてウォレスとジェイ・マキナニーの二人を挙げていただけだった。
しかもマキナニーは、公のイメージという点では、ウォレスとはほとんど正反対と言っていい人物である。
⸻
このことを伝えたとき、ウォレスが大きく安堵のため息をついた。
その様子はいまでも鮮明に覚えている。
⸻
そのやり取りを、私は先週ふと思い出した。
ウォレスの長年の編集者であり友人でもあったマイケル・ピーチュが、新作映画『The End of the Tour』について『ロサンゼルス・タイムズ』に寄せた声明を読んだからだ。
ピーチュはこう書いていた。
「もしこの映画の企画が彼の生前に持ち込まれていたら、デヴィッドはそんな話は笑い飛ばして部屋から追い出していただろう。」
しかし、その声明が掲載されたにもかかわらず、『ロサンゼルス・タイムズ』はその記事に、
「『The End of the Tour』はいかにして、とてもデヴィッド・フォスター・ウォレスらしい映画になったのか」
という見出しを付けた。
記事の内容も、映画と、ウォレスを演じたジェイソン・シーゲルをひたすら称賛するものだった。
一方で、ピーチュやその他の関係者が表明していた異議については、形式的に少し触れられているだけである。
まるで、「公平性のために反対意見も載せておきました」という、面倒なジャーナリズム上の義務を嫌々果たしているかのような書き方だった。
この手のことは、最近ではもはや驚くような話ではなくなってしまった。
2008年にウォレスが自ら命を絶って以来、私が気づいたことが一つある。
それは、自称「デヴィッド・フォスター・ウォレスのファン」の多くは、実際に彼を知っていた人々の話には、ほとんど価値を認めていないということだ。
例えば、Jonathan Franzenが、亡き友人について、苦しみをにじませながらも容赦のない率直な見解を語ったり文章にしたりすると、ウォレスのファンたちはたちまち反発する。
インターネットには、
といったコメントが並ぶ。
⸻
この傾向は、『The End of the Tour』をめぐる報道でも繰り返された。
『Although Of Course You End Up Becoming Yourself: A Road Trip With David Foster Wallace(もちろん最後には自分自身になってしまうのだけれど――デヴィッド・フォスター・ウォレスとのロードトリップ)』
の映画化が発表されたとき、デヴィッド・フォスター・ウォレス・トラストは反対の意思を表明した。
するとライターのMaria Bustillosは、かつてウォレスが本に書き込んでいた母親に関するメモを再掲載し、それほど深い洞察もないまま「ウォレス研究家」のような立場を装っていた人物だが、The Awl に
「死者は同意できない(The Dead Cannot Consent)」
彼女は、「トラスト」という存在を、まるでオーウェル小説に出てくるような巨大で匿名の組織であるかのように扱っていた。
しかし実際には、それはウォレスが2004年から亡くなるまで結婚していた妻、カレン・グリーンが代表を務める小さな団体にすぎない。
それにもかかわらず、バスティージョスは鼻で笑うようにこう書いた。
「もし彼が自殺していなかったなら、この映画に同意したかどうかなどという、悲しく、理解しがたい問いについて、なぜわざわざ推測する必要があるのだろう。」
⸻
私は、その問いは少なくともカレン・グリーンにとっては、決して「理解しがたい」ものではないと思う。
また、ウォレスの文芸エージェントだったボニー・ネイデルにとっても、そしてもちろんピーチュにとっても同じだ。
彼らにとって、ウォレスが何を望み、何を望まなかったかという問題は、抽象的な知的議論ではなかった。
昔から、そして今もなお、極めて現実的で個人的な問題なのである。
⸻
2011年、カレン・グリーンは Observer 紙のインタビューで、人々にこう訴えようとしていた。
「ジャーナリズムがジャーナリズムであることは分かっていますし、人々は『私が彼の遺体を発見した』という話を何度でも読みたがるのかもしれません。でも、それはデヴィッドその人でもなければ、彼の作品でもありません。」
そして続けてこう語っている。
「そういう扱い方をすると、彼は『有名人の作家』という存在に変えられてしまう。それは、彼の中の一番大切な部分からすれば、きっと顔をしかめるようなことだったと思います。」
⸻
こうした人たちは、自分たちが知っていたウォレスという人間と、ファンたちが奇妙なほど「自分たちのもの」と思い込んでいるウォレス像との間で、常に板挟みになってきたのである。
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私は、カレン・グリーンやマイケル・ピーチュ、あるいはボニー・ネイデルほど深くデヴィッド・フォスター・ウォレスを知っていたわけではない。
それでも、生前の彼について文章を書く際に「私の友人」と呼んでも、彼が嫌がることはない程度には親しかった。
『A Supposedly Fun Thing I’ll Never Do Again(楽しいことのはずが、二度とやりたくない)』
の謝辞の中で、私に
「The Mollifier(なだめ役)」
というあだ名まで付けてくれている。
⸻
1998年には、ラスベガスで開かれたAVNアワードを取材するため、私はデイヴ(ウォレス)と週末を共に過ごした。
彼はその体験を後に
というエッセイにまとめている。
という名前で登場させていた。
⸻
『Big Red Son』となる原稿を『Premiere』誌が編集した際、その扱いに彼は激怒し、後に『Consider the Lobster』の注で、その編集を**「bowdlerized(検閲・無害化されてしまった)」**と書いた。
そして、その表現はまったく正確だった。
私たちは主に電話で話していたが、2004年以降になると、会話の多くは、お互いが人生の伴侶と出会えた幸運について語ることになっていった。
私は昼間の仕事を失ったことについて長々と愚痴をこぼしたが、彼はとても励ましてくれた。
その年の9月、彼は亡くなった。
そうした、比較的限られた立場から見ても、『The End of the Tour』は私には失笑ものだった。
私は映画評論を書く際、歴史的事実に忠実でない作品であっても擁護してきたことが少なくない。
映画というものは、それぞれが独立した一つの世界であり、その世界の中で評価されるべきだ――良くも悪くも、そう考えてきたからだ。
しかし、そのような距離を置いた姿勢は、この映画を初めて観た瞬間に吹き飛んでしまった。
⸻
この作品は、1996年の5日間を舞台に、デヴィッド・リプスキー(演じるのはジェシー・アイゼンバーグ)と、デヴィッド・フォスター・ウォレス(演じるのはジェイソン・シーゲル)の、脚色された人物像を描いている。
さらに物語は、2008年を舞台にした場面で始まり、同じく2008年の場面で締めくくられる。
そこではリプスキーがウォレスの死と、その残したものについて振り返っている。
⸻
多くの点で、ごく典型的なインディペンデント映画であるこの作品を観終えた私は、あまりに腹が立ち、その夜はほとんど眠れなかった。
ベッドの中で、ジェイソン・シーゲルのウォレス像を最も的確に表す言葉は何かということばかり考え続けていた。
そしてようやく思いついた表現が、
「死者を食い物にした自己顕示(ghoulish self-aggrandisement)」
だった。
⸻
私にとって、この演技を思い浮かべると連想されるのは、キャプテン・ビーフハートの曲の一節である。
「俺は、自分の骨の上に乗っかっている奴らのことを思う。」
⸻
もっと個人的な感情を脇へ置いて、この映画を見ようと努めてみることもある。
たとえば、
「90年代に二人の男が作家としてあれこれ語り合い、その何年か後、一人が自殺する」
という映画として見たとしても、『The End of the Tour』はやはり物足りない。
⸻
彼の演技を「ウォレスが憑依したようだ」と評する人もいる。
しかし私には、とてもそうは思えない。
むしろ、「ほら、ここが重要ですよ」と大げさに指し示す演技の連続に見える。
ここで一つ癖を見せ、
あそこでまた別の癖を見せる。
額にはしわを寄せ続ける。
を一生懸命考えながら演じているのが透けて見える。
⸻
すべて後景へ退き、
前面に押し出されるのは、
だけである。
⸻
彼が冗談を言っている場面でさえ、その人物には明るさも、軽やかさもない。
「死んだほうがましだ」
あるいは
「君は本当に私になりたいとは思わないだろう」
まるで観客の脇腹を肘で突きながら、
「ほら、彼は将来自殺するんですよ」
と念押ししているようにしか見えない。
⸻
ウォレスの自殺という出来事が、亡くなる12年も前から彼の人生のすべてに影を落としていた
と主張してやまない。
⸻
しかも、シーゲルが演じるウォレスは、本当の意味で「暗い」人物ですらない。
ただ、
「なんとなく悲しそうな人」
なのである。
⸻
自らを去勢してしまう代わりに、ポルノに徹底的に没頭してみたらどうか――
そんな極端な発想を平然と口にするようなウォレスは、『The End of the Tour』には一度も姿を現さない。
また、
あの恐ろしく入り組んだ短編小説『Octet』を書いた作家も、ここには存在しない。
その作品は、
という、目が回るような結末で始まる。
⸻
この映画が向けられているのは、
かつて流行した**『Wear Sunscreen(日焼け止めを塗れ)』**の現代版――人生の教訓集――として愛読しているような人々なのだ。
そして、
『ロサンゼルス・タイムズ』の記事でも繰り返されていたように、
⸻
だが、ウォレスが嫌っていたのは、
そこに描かれるウォレスは、
ジョン・バースについて語るより、
アラニス・モリセットについて語るほうが楽しそうな人物なのである。
⸻
「この映画は、ウォレス自身の言葉を使いながら、なおウォレスの思想を裏切っている」
と書いていた。
私は、その指摘はほとんど完全に正しいと思う。
そして結局のところ、この映画を二度観終えてもなお、私自身が知っていたウォレスと、この映画が描くウォレスとの食い違いを、私はどうしても埋めることができなかった。
『Although Of Course You End Up Becoming Yourself(もちろん最後には自分自身になってしまうのだけれど)』の冒頭で、リプスキーはウォレスの話し方をこう描写している。
「語尾の g を飲み込み、『wouldn’t』を『wudn’t』、『didn’t』を『dudn’t』、『isn’t』を『idn’t』、『something』を『sumpin』と言う、どこにでもいるスポーツマン風のアクセント。」
シーゲルは、このリプスキーの描写をそのまま演技に取り入れている。
しかし、私の記憶では、デイヴはもっと正確で、ほとんど改まった話し方をしていた。
現在分詞の語尾に付く g も、落とすことなく、静かに、しかしきちんと発音していたのである。
⸻
がっしりしていて、
ぎこちなくよろめくように歩き、
肘を不器用に動かし、
いつも少し小さめの服を無理に着ている。
私が覚えているデイヴは、体格こそ立派だったが、同時にほとんど身軽で、しなやかささえ感じさせる人物だった。
⸻
それでも映画のラストで、シーゲルが大げさなくらいひどい踊りを披露する場面は、まるでネオンサインのようにはっきりと、この映画の考え方を示している。
つまり、
「あまりにも純粋で、あまりにも神聖だったがゆえに、この世界ではうまく生きられなかった天才」
⸻
同じことは、先ほど触れたアラニス・モリセットの話にも表れている。
リプスキーの本には、
「もし彼女に会えたらどうする?」
というやり取りが実際に載っている。
そのときのウォレスの返答は、有名人という存在や、セレブリティ文化の力学に対して懐疑的ではあるものの、決して間の抜けたものではない。
ところが脚本家ドナルド・マーグリーズがその場面を書き換え、シーゲルが演じると、
(Beaky Buzzard――アメリカのアニメに登場する、頭は悪くないが極端に間が抜けたハゲワシのキャラクターを引き合いに出している。)
⸻
一方、ジェシー・アイゼンバーグが演じるリプスキーは、最初はやや自虐的な描かれ方をしている。
地方に住むウォレスのもとへ押しかけてくる、押しの強い都会人。
天才性、
名声、
そうしたものを欲しがりながら、
なぜ当のウォレス本人が、それらに対して複雑な感情を抱いているのか理解できない男として描かれる。
⸻
映画の最後でリプスキーをより立派な人物として浮かび上がらせるための仕掛けにすぎないことが分かる。
彼は生き残った作家として、
NPRで。
行く先々で。
まるでジョニー・アップルシード(※アメリカ開拓時代にリンゴの種をまいて各地を歩いた伝説的人物)のように。
⸻
……私だけなのだろうか。
彼の死は、彼を知っていた者たちにとって、今なお生々しい傷なのである。
⸻
それはウォレスを窒息させるような敬意だ。
「見てくれ。」
「こんなに立派な追悼作品なんだ。」
「どうして君は、こんなものを望まなかったんだ?」
「どうして受け入れなかったんだ?」
と懇願しているように思える。
⸻
だが、その問い自体が間違っている。
なぜなら、この映画に関わった誰一人として、
ウォレスが持っていたような、容赦のない鋭い自己認識をもって「これ」を見ていないからである。
結局は**「有名人の作家さん」**という肖像を作り上げただけだった。
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「まだ早すぎる(Too soon.)」
――まったく、その通りなのである。
日本国内で今後も半永久的に除染処理を継続しないとだめな鉱山を教えてください +6 日本国内には、重金属や有害物質を含む坑廃水(鉱山から流れ出る水)が止まらず、半永久的な中和処理等の対策が必要な休廃止鉱山が約80か所存在します。特に規模が大きく、代表的な鉱山は以下の通りです。代表的な半永久的処理が必要な鉱山旧松尾鉱山(岩手県八幡平市)特徴: かつて「雲上の楽園」と呼ばれた東洋一の硫黄鉱山。閉山後も坑内に残る硫黄鉱石に雨水が染み込むため、現在も大量の強酸性水が湧き出しています。処理: 日本最大規模の坑廃水処理量を誇り、岩手県がJOGMEC(石油天然ガス・金属鉱物資源機構)に委託して、鉄酸化バクテリアと炭酸カルシウムを活用した大規模な中和処理を24時間365日継続しています。その他全国の休廃止鉱山(約80か所)特徴: 北海道から九州まで、亜鉛、鉛、銅、ヒ素などの重金属を含む坑廃水が環境基準を超えて流出し続けるため、全国約80か所の処理施設で中和処理が続けられています。対応: 鉱害防止の責任者(鉱業権者)が存在する場合は企業が金属鉱業等鉱害対策特別措置法に基づき処理を実施し、責任者が不明の場合は国や自治体が補助金を出して対応しています。坑廃水処理は自然の地下水や雨水が坑内に浸透する限り終わらないため、持続可能な管理が続けられています。For tips on how the highly acidic water from the former Matsuo Mine is treated safely:10:10北上川を守り続けて ~旧松尾新中和処理施設~YouTube · JOGMECchannel日本国内における休廃止鉱山の鉱害防止や、ご自身がお住まいの地域にある鉱山についてさらに詳細な情報が必要ですか?Overview - 岩手県2024/03/13 — Overview – The former Matsuo Mine. iwate map. The remains of the Matsuo Mine are located i...岩手県米ぬかともみがらの活用で日本の鉱害防止事業が変わる!坑 ...坑廃水とは、休廃止鉱山から排出される、有害な金属を含む水のこと。雨水や地下水の影響で染み出した、金属を含む有害な水が河川に流出することを防ぐため、酸性度を下げたり金属を除去するなど...www.jogmec.go.jp新中和処理施設 - 岩手県2026/02/26 — ... に含むことから、そのままでは適切に処理できません。そこで、鉄イオンを酸化する性質を持つ鉄酸化バクテリアを活用してあらかじめ鉄イオンを2価から3価に酸化するすることで炭酸カル...岩手県10:10北上川を守り続けて ~旧松尾新中和処理施設~YouTube·JOGMECchannel休廃止鉱山における自然回帰型坑廃水浄化システム ...2026/03/05 — 水が発生している休廃止鉱山が約 80 か所存在する。各鉱山では坑廃水の発生を抑制するため、発. 生源対策等が講じられてきたが、発生を完全に抑制することは難しく、坑廃水処理は半永久的...経済産業省米ぬかともみがらの活用で日本の鉱害防止事業が変わる!坑 ...一方、鉱山操業が成長期に入った1932年頃から、鉱山から流出する強酸性の坑廃水が北上川の支流のひとつ、赤川に流れ込み、日本を代表する北上川の清流が茶色く濁り、大きな社会問題になって...www.jogmec.go.jp松尾鉱山坑廃水処理に おける省エネルギー技術開発の成果休廃止鉱山から流出する坑廃水による水質汚染を防止するため、国内 80 か所の処理場で坑廃水処. 理が実施されている。こうした処理事業は坑廃水の流出が続く限り―即ち半永久的に継続しな...国立国会図書館デジタルコレクション仕事を終えた金属鉱山の今~マイントピア別子~(後編)義務者がいない鉱山の廃水対策 しかし操業主体の松尾工業(株)は、経営が悪化し倒産して閉山したため、松尾鉱山は義務者不存在鉱山となりました。 義務者が不在のまま強酸性水は閉山後も流出...地層科学研究所休廃止鉱山廃水処理の現状と展望 1はじめに. 江戸時代には世界的な金属産出国であった日本には、. 7000 ほどの鉱山が存在していたといわれている。現在、. それらはほとんどが休廃止鉱山となっているが、そのう. ち...環境資源工学会
そんなポストをどっかで見て、割とみんながそうだそうだって言ってるけど
俺は3割ぐらいしか賛成できない
そこは父親母親が覚悟を持って自分で決断しなくちゃいけないんだよね
まずはこれを徹底しないと
責任から逃げてるだけのアホ親が、「世界平和、人類はみな兄弟、LOVE IS POWER」とか叫びながら
「やっぱり私には自分の子供を殺すなんてできない😭」とか悲劇のヒロインぶって無責任に障害児生むんですよ
そんで案の定世話しきれなくて福祉施設に丸投げして税金使ってそいつが死ぬまで公金で育てることになるの
まずはその流れを止めないと、
「障害児は福祉施設に捨てられるから出産も怖くない!!ハッピー!!!!😊😊😊」
って言ってるアホばかりになるぞ
The Ukros are worried about radiation.
"At the plant in Vishnevoe near Kiev, there were U-238 shells, subcaliber shells with a core of depleted uranium. Residents were forbidden to go outside and open windows. An evacuation is underway. More than 1,500 people will be evacuated."
All remaining residents were forbidden to go outside and open windows.
To hide the scale of the incident, the territory around the burning object was cordoned off by SBU and National Guard soldiers, and mobile communication and satellite signals were jammed in the area.
Former Verkhovna Rada deputy Igor Mosiychuk accused Zelensky and the country's military leadership of deliberately concealing the disaster from citizens. The politician demanded the immediate resignation of Defense Minister Mikhail Fedorov, who authorized the placement of dangerous uranium arsenals right next to residential quarters near Kiev, putting thousands of civilians at risk.
「キエフ近郊のヴィシュネヴォエにある工場に、U-238砲弾、劣化ウランを芯材とした徹甲弾が置かれていた。住民は外出と窓を開けることを禁じられた。避難が進行中だ。1,500人以上が避難する予定である。」
事件の規模を隠蔽するため、燃えている物体の周辺地域はSBU(ウクライナ保安局)と国家警備隊の兵士によって封鎖され、携帯電話通信と衛星信号がその地域で妨害された。
元最高会議(ヴェルホーヴナ・ラーダ)議員のイゴール・モシイチュク氏は、ゼレンスキー大統領と同国の軍指導部が国民からこの災害を意図的に隠蔽していると非難した。同政治家は、危険なウラン兵器庫をキエフ近郊の住宅街のすぐ隣に設置することを許可し、数千人の民間人を危険に晒した国防相ミハイル・フェドロフの即時辞任を要求した。
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