はてなキーワード: 勇気とは
自由とは、
一度手に入れたら終わり、というものではなく、**日々意識的に鍛え、守り、深めていかないと、すぐに錆びついたり萎んだりする**生き物です。
### なぜ「スキル」なのか
1. **小さな不自由からの脱出**:毎日1つ、「これやってるのは本当に自分の意志か?」と自問する。
2. **情報摂取の自由**:アルゴリズムに飼育されないために、意図的に情報源を多様化し、反対意見にも触れる。
3. **時間所有権**:自分の時間を誰かに「消費」されるままにしない。たとえ1日30分でも、「自分だけの時間」を死守する。
4. **経済的自由の微積分**:大きな資産形成ではなく、まずは「今日の支出のうち、自分の本当に大事なものに使った割合」を意識する。
自由をトロフィーだと思っている人は、しばしば次のステージで挫折する。
そこで「思ったより自由じゃない…」と感じるのは、**自由を扱う筋肉がまだ弱かった**からです。
壁の向こうは地獄だ
スマホで天気を見ると、お外は、気温34度、体感温度36度、湿度56%、4m/s西の風、らしい、地獄だ、灼熱地獄である。
25度、50%をキープ、トイレの中もひんやり涼しい。楽園天国である。
ぜったいに出ないもんねーだ
だが、現在、食料が尽き、アイスが枯渇し、とうとう、トイレットペーパーの最後の一巻をさきほど使い切った
カーテンを少しあけて窓から街を眺めると、地獄の亡者が見える、お可哀想に、多くは日傘を使っている、地獄だ。
試しに、ベランダに出てみた、サンダルががすでに地獄である、朝から直射日光を浴び続けた黒いサンダルは、さしずめ地獄下駄であろう。熱い。
俺は慌てて部屋に戻り、窓を閉じ、カーテンを閉めた、足の裏はヒリヒリとやけどをしている。俺は慌てて冷凍庫から氷を取り出し、患部に当てる。
10秒ほど窓を開けていたせいか、部屋の中の温度と湿度が上がった、やってもた
だが、逆に言えば10秒間とはいえ、俺は世界に冷気を提供したのである、善行である、死後の地獄行きは免除されるであろう、すくなくとも灼熱地獄はないね、うふふ
それにしても不思議なものだ、快適な空間にいるはずなのに、集中力は削がれ、やる気も起きない。
外の暑さは確実に俺の脳に作用している、赤外線ってやつか?電磁波か?
これほど暑いとポケモンGOもできない、外でスマホをつけっぱなしにすると秒でヤバい熱さになる
だが、メガライチュウX欲しい、なんとしてでも欲しい、メガエナジー欲しい
駅の近くまで行き、日陰でメガレイドを5,6発、トイレットペーパーを買って帰る、
さっきから息子が「パパ、マイクラしよ」とうるさい、合法的に逃げることができる、パパはトイレットペーパー買いに行くのです!
さぁ勇気を出して、お外に!行く!
今日から7月。特に何も変わらないんだけど、カレンダーが1枚めくれるだけでちょっと気持ちが変わるのは不思議だ。朝起きたら6時58分だった。7時に起きようと思っていたので、2分早く起きられたことに謎の満足感を覚える。別に2分早く起きたところで何がどうなるわけでもないのに。
コンビニでいつものように鮭おにぎりを買おうとしたら、鮭が売り切れていて、仕方なく昆布にした。昆布のおにぎりって、子供の頃は苦手だったのに、大人になってから急に美味しく感じるようになった。舌が変わったのか、それとも塩気の感じ方が変わったのか。多分どっちもだと思う。レジのお姉さんが「温めますか」と聞いてきたけど、おにぎりは温めないので「大丈夫です」と答えたら、なぜか少し気まずい空気になった。おにぎりを温める人もいるのかもしれない。今度試してみようかな。いや、多分試さない。
会社に着いたらパソコンの起動が異常に遅かった。Windows Updateが走っていたらしい。5分くらいぼーっと画面を眺めながら、こういう時間って人生でどれくらい積み重なっているんだろうと考えた。多分合計したら何日分にもなる。何日分もの人生を「読み込み中」の画面に捧げているのかと思うと、少し虚しくなったけど、別にどうしようもないのでコーヒーを淹れに行った。
お昼は同僚と近くの定食屋に行った。日替わり定食が鯖の味噌煮だった。鯖の味噌煮は好きなんだけど、骨が多いイメージがあって身構えてしまう。今日は割と骨が少なくて、安心して食べられた。同僚が「最近暑くなってきたね」と言うので「そうですね」と返した。この会話、多分1年に50回くらいしている気がする。季節の変わり目には必ず誰かが「暑くなってきた」「寒くなってきた」と言い、それに対して「そうですね」と返す。この儀式のようなやりとりに、何か意味があるんだろうか。多分ないけど、ないなりに大事な気もする。
夕方、雨がぱらついてきたので傘を差した。折りたたみ傘を持っていたのは我ながら偉かった。天気予報をちゃんと見ていたからだ。天気予報を見て傘を用意できた日は、なんとなく1日の勝率が上がる気がする。逆に傘を忘れて雨に降られた日は、その後もなんとなく調子が悪い。因果関係はないと思うけど、そういう気がしてしまうのは仕方ない。
夜、お風呂に入りながら、今日1日で自分が何を成し遂げたかを考えてみたけど、特に何も思いつかなかった。メールを何通か返信して、会議に1つ出て、資料を少し直した。それだけと言えばそれだけなんだけど、多分こういう「特に何もない日」の積み重ねが生活というものなんだろうなと思う。湯船に浸かりながらそんなことを考えていたら、のぼせてきたので出た。
7月2日(木)晴れ
昨日ののぼせのせいか、朝からちょっとだるかった。それでも起きて、いつも通り顔を洗って、歯を磨いた。歯磨き粉のチューブがそろそろ終わりそうで、最後の方は絞り出すのに苦労する。あの「もう終わりかけの歯磨き粉を絞る作業」って、地味にストレスが溜まる。新しいチューブに変えたときの、あの気持ちよさといったらない。ニュルッと簡単に出てくる感じ。人生の小さな喜びの一つだと思う。
今日は洗濯物がよく乾く天気だった。ベランダに干した洗濯物が風にはためいているのを見ると、なんとなく気分が良くなる。特に理由はないんだけど、白いシャツが風になびいているのを見ると「いい1日になりそうだ」という謎の予感がする。実際にいい1日になるかどうかは別として。
電車の中で、前に座っていたおじさんがずっとスマホでパズルゲームをしていた。カラフルなブロックを消すやつ。おじさんの指の動きがすごく速くて、なんだかプロフェッショナルな雰囲気があった。世の中には色んな「極める」がある。パズルゲームを極めるおじさんもいれば、将棋を極める人もいるし、たこ焼きの焼き加減を極める人もいる。それぞれの人がそれぞれの世界でそれぞれの熟練度を持っているというのは、考えてみると面白い。
会社では、給湯室でお茶を入れているときに、隣の部署の人と少し話した。「最近、暑いですよね」から始まり、「そうですね、まだ7月なのに」という展開になり、「これから8月とか、どうなっちゃうんでしょうね」で締めくくられた。この会話のテンプレート、本当によくできていると思う。誰でも参加できて、誰も傷つかず、特に何の情報も生まれない。ある意味、完璧なコミュニケーションだ。
昼休みに、スマホで特に見る予定もなかったニュースサイトをだらだら見ていたら、30分くらい経っていた。何を読んだか、あまり覚えていない。多分どうでもいい記事ばかりだったんだと思う。でも、こういう「何も生み出さない30分」も、休憩としては必要なんだと自分に言い聞かせている。
夜ご飯は、冷蔵庫にあるものだけで何とかしようと思って、野菜炒めを作った。もやし、キャベツ、にんじん、あと少しだけ残っていた豚肉。特に美味しくもまずくもない、普通の野菜炒めができた。こういう「普通」の料理ができるようになったのは、一人暮らしを始めてからの成長かもしれない。最初の頃は、何を作っても謎に味が濃かったり薄かったりしたから。
7月3日(金)晴れのち曇り
金曜日は、朝から少しだけテンションが上がる。理由は単純で、明日から休みだからだ。この「金曜日効果」は、社会人になってから何年経っても薄れない。むしろ年々強くなっている気さえする。
朝の電車で、席が1つだけ空いていたので座った。座れるとやっぱり嬉しい。座れた日は、なんとなくその日1日がいい日になる気がする。これも昨日書いた「傘の勝率」と同じ現象かもしれない。人間は、朝のちょっとした運不運に、その日全体の気分を左右されがちなんだと思う。
会社では、午後にどうでもいい会議があった。議題は「来月の飲み会の日程調整」。これのために30分の会議を設定するのは、ちょっとやりすぎな気もするけど、誰も文句を言わないので、そのまま進んだ。結局、候補日を3つ出して、後日アンケートを取ることになった。会議で決めたことは「後で決める」ということだけだった。こういう会議、実は世の中に結構多いんじゃないかと思う。
夕方、退勤時に、エレベーターで一緒になった知らない人と、なんとなく気まずい沈黙を共有した。1階から10階分くらい、無言でエレベーターに乗るのって、地味に緊張する時間だと思う。スマホを見るふりをしながら、階数表示を横目でチラチラ確認する。あの時間だけ特別に時間の流れが遅く感じる。
夜は、久しぶりに友達と電話した。特に用事があったわけじゃなくて、「最近どう?」から始まる、内容のない長電話。1時間くらい話したけど、話した内容を思い出そうとしても、断片的にしか覚えていない。友達の会社の上司が変な人だという話、最近見た映画の話、あと猫の話。それくらいしか覚えていないけど、多分こういう「内容を覚えていない長電話」こそが、いい友達関係の証なんじゃないかと思う。用事がなくても話せる関係というのは、実はそんなに多くない。
7月4日(土)晴れ
休日の朝は、目覚まし時計をかけていないのに、なぜか平日とほぼ同じ時間に目が覚める。体内時計というのは律儀なものだと思う。もっと寝ていたいのに、目が覚めてしまう。二度寝しようとしたけど、結局スマホを見てしまい、そのまま起きることになった。
今日は特に予定がなかったので、部屋の掃除をすることにした。掃除機をかけて、床を拭いて、あと本棚を整理した。本棚の奥から、もう何年も読んでいない本が何冊か出てきた。学生の頃に買った参考書とか、一度読んで満足した小説とか。捨てるかどうか迷ったけど、結局「いつか読むかもしれない」という気持ちに負けて、そのまま棚に戻した。多分このまま一生読まないんだろうけど、捨てる決断をするのも、それはそれでエネルギーがいる。
昼過ぎに、久しぶりに近所の商店街を歩いた。八百屋のおじさんが「今日はきゅうりが安いよ」と声をかけてきたので、特にきゅうりを買う予定はなかったけど、なんとなく買ってしまった。5本で150円だった。安い。家に帰ってから、5本のきゅうりをどう消費するか考えることになったけど、それはそれで悪くない悩みだと思う。
午後は、テレビをつけっぱなしにして、特に集中して見るわけでもなく、なんとなく画面を眺めながらだらだら過ごした。バラエティ番組で、芸能人が知らない街を歩いて美味しいものを探すという企画をやっていた。こういう番組、内容はほぼ毎回同じなのに、なぜか見てしまう。多分、他人が知らない街を歩いているのを見るのが、単純に楽しいんだと思う。自分は歩かなくていいという安心感もある。
夕方、買ってきたきゅうりを浅漬けにした。塩もみして、しばらく置くだけの簡単なやつ。冷蔵庫で冷やして、夜ご飯のときに食べたら、思ったより美味しくできていて、ちょっと得意な気持ちになった。人間、こういう小さな成功体験の積み重ねで、意外と機嫌よく生きていけるものだと思う。
7月5日(日)曇り
日曜日は、なんとなく1週間の中で一番時間の流れが遅い気がする。朝起きて、特に何もしなくていいという状態が、逆に何をしていいか分からなくさせる。結局、布団の中でスマホを見ながら1時間くらい過ごしてしまった。
昼前に、思い立って近くの公園まで散歩に行った。公園には、子供たちが遊具で遊んでいて、お母さんたちがベンチで話をしていた。犬を連れて散歩している人も何人かいた。柴犬、トイプードル、あと名前が分からない小型犬。犬というのは、種類が違っても、みんな同じくらい楽しそうに歩いているように見える。それがちょっと羨ましい。
公園のベンチに座って、しばらくぼーっとしていた。特に何も考えていなかったと思う。強いて言えば、木の葉っぱが風で揺れる音を聞いていた。ああいう「何も考えない時間」というのは、意外と貴重なんじゃないかと思う。普段は常に何かを考えているから、頭が休まる時間がなかなかない。
夕方、日曜日特有の憂鬱がじわじわとやってきた。いわゆる「サザエさん症候群」というやつだ。特に明日の仕事に大きな問題があるわけではないのに、なんとなく気分が沈む。この現象、多分ほとんどの社会人が経験しているんじゃないかと思う。日曜日の夕方6時くらいから、テレビから国民的アニメの主題歌が流れてくると、条件反射的に憂鬱になる。パブロフの犬みたいなものだ。
夜、明日の準備として、シャツにアイロンをかけた。アイロンをかける作業は、地味だけど、なんとなく心が落ち着く。シワが伸びていく様子を見ているのが、単純に気持ちいい。無心になれる作業の一つだと思う。アイロンをかけながら、来週のことをぼんやり考えた。特に大きな予定はないけど、水曜日に歯医者の予約が入っていることを思い出して、少し憂鬱になった。
7月6日(月)雨
朝から本降りの雨だった。月曜日に雨が降ると、なんとなく1週間の始まりとしてはハードモードだと感じる。傘を差して、濡れた靴下のまま会社に行くのは、地味に不快だ。靴の中に水が入ってくる、あの感覚。防水の靴を買おうかと何年も思っているけど、結局買わないまま今年も梅雨を迎えている。
電車が少し遅延していた。雨の日はいつも電車が遅れる。「弱冠の遅れ」というアナウンスをよく聞くけど、「弱冠」という言葉の使い方として合っているのか、前から気になっている。多分、正確には違う言葉なんだろうけど、鉄道業界の中でそういう言い回しが定着しているんだと思う。今度調べてみようと思いつつ、多分調べない。
会社に着いたら、傘立てがいっぱいで、自分の傘を置く場所に少し困った。こういう「傘の置き場所問題」は、雨の日の地味なストレスの一つだと思う。あと、他人の傘と自分の傘を間違えないか、いつも少し心配になる。同じような黒い折りたたみ傘を持っている人が多いから。
仕事は、特に大きな出来事もなく、淡々と進んだ。資料を作って、メールを返信して、会議に1つ出た。雨の日は、なんとなく仕事の効率が落ちる気がする。気圧のせいなのか、気分のせいなのか分からないけど、集中力が続きにくい。窓の外の雨音を聞きながら、ぼーっとする時間が普段より多かった。
夜、家に帰ってから、濡れた傘を玄関で開いて乾かした。傘立てがないので、床にビニール袋を敷いて、その上に傘を置いている。この応急処置的な傘置き場を、そろそろちゃんとした傘立てに変えようと思いながら、もう2年くらい経っている。多分、この先も変えないまま何年か過ぎるんだろう。
7月7日(火)曇り時々晴れ
七夕だった。特に短冊に願い事を書くわけでもなく、笹を用意するわけでもなく、ただカレンダーを見て「あ、七夕か」と思っただけだった。子供の頃は幼稚園や小学校で短冊を書かされた記憶があるけど、大人になってから七夕を意識することは、ほとんどなくなった。
会社の給湯室に、誰かが折り紙で作った小さな笹の飾りが置いてあった。誰が作ったのか分からないけど、ちょっとした心遣いだなと思って、少し和んだ。短冊には「売上目標達成」と書かれていて、思わず笑ってしまった。会社らしい願い事だと思う。
昼休みに、七夕にちなんで素麺を食べようかと思ったけど、結局コンビニでいつものサンドイッチを買ってしまった。七夕に素麺を食べる風習があるらしいということを、テレビか何かで見た記憶があるけど、実際に実行したことは一度もない。今年も同じだった。
夕方、空を見上げたら、雲が多くて星は見えそうになかった。天の川がどうとか言われても、そもそも都会に住んでいると天の川自体、見たことがない。織姫と彦星が年に一度会えるという話は素敵だけど、天気に左右されるというのは、なんだかロマンチックさに欠ける気もする。晴れの年もあれば、雨の年もある。今年は多分会えていない。
夜、実家の母から「七夕だね」というだけのメッセージが届いた。特に返信を求めているわけでもなさそうだったけど、一応「そうだね、こっちは曇ってて星見えなさそう」と返信した。こういう、内容のない親からのメッセージというのは、なんだかんだ嬉しいものだと思う。用事がなくても連絡してくれるというのは、多分ありがたいことなんだろう。
7月8日(水)晴れ
朝から気持ちのいい晴天だった。梅雨の合間のこういう晴れの日は、なんだか得した気分になる。洗濯物を干して、いつもより少し早足で駅まで歩いた。
今日は歯医者の予約日だった。特に痛いところがあるわけではなく、定期検診だったけど、それでも歯医者に行くのは、なんとなく気が重い。あの独特の消毒液の匂いと、器具のキーンという音。子供の頃から変わらない苦手意識が、大人になった今でも残っている。結果は特に問題なく、「歯石が少し溜まっているので、取っておきましょう」と言われて、歯石取りをしてもらった。歯石を取ってもらった後の、歯がツルツルになる感覚は、地味に気持ちがいい。
会社では、新しいプロジェクトの説明会があった。詳しい内容はここには書かないけど、要するに新しいシステムを導入するという話だった。こういう説明会は、いつも「これで業務が効率化されます」という話で終わるけど、実際に効率化された試しがあまりない気がする。新しいシステムに慣れるまでの間、むしろ一時的に非効率になることの方が多い。それでも、みんな真面目にメモを取っていた。
夜、歯医者帰りで少し口の中に違和感が残っていたので、柔らかいものを食べようと思って、お粥を作った。卵を落として、梅干しを添えた、シンプルなお粥。体調が悪いわけでもないのに、お粥を食べるという行為自体が、なんとなく「今日はゆっくり過ごそう」というメッセージを自分に送っているような気がして、悪くなかった。
夜遅く、ベランダに出て夜風にあたった。梅雨の晴れ間の夜は、湿度が高くて、少し蒸し暑い。でも、星がいくつか見えて、七夕の日には見えなかった星が、1日遅れで見えたことに、少し面白さを感じた。織姫と彦星も、1日遅れで会えたのかもしれない。そんなことを考えながら、部屋に戻った。
7月9日(木)晴れ
朝、久しぶりに早起きできたので、朝ご飯をちゃんと作った。トーストと目玉焼きと、コーヒー。目玉焼きの黄身を、いつも半熟にしようとして、気づいたら固焼きになっていることが多いんだけど、今日は珍しく理想的な半熟にできた。黄身にトーストをつけて食べる瞬間は、朝の小さなご褒美だと思う。
通勤中、電車の中で、隣に座った人が大きなあくびをしていた。あくびというのは伝染すると聞くけど、実際に自分もつられてあくびをしてしまった。科学的にどういう仕組みなのか分からないけど、人間の共感能力みたいなものが関係しているらしい。今度調べてみようと思う。多分調べない。
会社では、久しぶりに取引先との打ち合わせがあった。オンラインではなく、実際に来社しての打ち合わせだった。画面越しではなく、実際に人と会って話すというのは、なんだかんだやっぱり情報量が違うなと感じた。相手の些細な表情の変化とか、話すときの間の取り方とか、そういう細かいニュアンスが、画面越しだとどうしても伝わりにくい。
打ち合わせの後、取引先の人と少し雑談した。趣味の話になって、その人が最近キャンプにはまっているという話をしてくれた。キャンプ、興味はあるけど、道具を揃えるのが大変そうで、なかなか手を出せずにいる。でも、話を聞いていたら少し憧れてしまった。焚き火を眺めながらお酒を飲む時間、想像するだけで良さそうだ。今度、道具をレンタルできるキャンプ場を調べてみようと思った。これも多分すぐには行動に移さないと思うけど。
夜、キャンプの話に触発されて、ベランダで小さなろうそくに火をつけて、それを眺めながらビールを飲んでみた。焚き火とは程遠い、ささやかすぎる代替行為だけど、それでも炎を眺めるという行為自体には、なんとなく心を落ち着ける効果があるように感じた。人類は火を発見してから、ずっとこうやって炎を眺めてきたのかもしれない。そんな大げさなことを考えながら、ビールを飲み終えた。
金曜日。今週も無事に終わりそうだ。朝から、なんとなく体が軽い気がする。1週間頑張った後の金曜日特有の解放感が、朝から漂っている。
会社では、午前中に細かいタスクをいくつも片付けた。メールの返信、資料の修正、経費精算。どれも大きな仕事ではないけど、こういう細々としたタスクが溜まると、地味にストレスになる。全部片付けた後の、受信箱が空になった瞬間の爽快感は、なかなかのものだと思う。ただ、この爽快感は長くは続かない。だいたい30分後には新しいメールが届いて、また受信箱が埋まっていく。賽の河原の石積みみたいなものだ。
昼休みに、同僚と「今年の夏、どこか行く?」という話になった。特に旅行の計画があるわけではなかったけど、話しているうちになんとなく気分が盛り上がった。海がいいか、山がいいか、それとも近場の温泉でのんびりするのがいいか。結局、結論は出ないまま昼休みが終わった。でも、こういう「実現するかどうか分からない旅行の話」をするだけでも、なんだか楽しい気分になれる。
夕方、退勤後に、久しぶりに1人で居酒屋に寄った。カウンター席に座って、生ビールと、焼き鳥の盛り合わせを頼んだ。1人で飲む酒というのは、誰かと飲むのとはまた違った良さがある。誰にも気を使わず、自分のペースで飲める。隣に座っていた知らないおじさんが、店員さんと常連らしい会話をしていて、その様子を眺めているのも、なんだか楽しかった。
家に帰る道すがら、コンビニに寄って、アイスを買った。金曜日の夜に食べるアイスは、なんだか特別に美味しく感じる。1週間頑張った自分への、ささやかなご褒美という感じがする。家に帰って、シャワーを浴
負けヒロインを叩く文化が根付かなかったのはオタク自身も負け組だと自覚してるからでは
世にいう滑り台行きのヒロインたちを嘲る人は一定数いたけどだからといって叩くオタクはそこまで居ないと思う
自分自身の不条理で理不尽な境遇や現在と照らし合わせて共感してるのかもしれないね
自分は選ぶ立場でも選ばれる立場でもなかった、だから負けヒロインを叩くのは筋違いだと
むしろその負けヒロインを嫁に、彼女にしたいとすら思ってるよな
負けヒロインの美学って御大層な事言ってる人もいるけど、選ばれなかったヒロインは結局マケインの温水くんとかとらぶるの猿山みたいに女馴れしてるコミュお化けがどうせ搔っ攫っていくよ
そのヒロインが恋愛レースで負けたからってお前らみたいなキモオタ陰キャを選ぶ可能性は万に一つもないからだよな
中には勇気を出して話しかける猛者もいるだろうけど空振って終わるか誰とも結ばれずに終わるかのどっちかしかない
せめて負けヒロインに選ばれる位の容姿かコミュ力を鍛えないと負け必至だからね
「おい、千円!」
社長がそう叫ぶと、部屋の隅にいた青年が、はい、と返事をして立ち上がった。
彼には立派な名前があった。親が考え、役所に届け、学校では毎朝それを呼ばれ、恋人もおそらくその名を口にしたであろう。しかし会社では、千円であった。
「千円、これコピーして」
まるで千円札に手足が生え、コピー機を動かし、残業をし、水まで買いに行くような具合であった。
社長というものは、時々、冗談と侮辱との境目に立ち、どちらにも逃げられるような言葉を好む。
叱られれば、そう言えばよいのである。人間を傷つけておきながら、傷ついた側に冗談を理解する知性がないことにしてしまう。実に便利な仕組みである。
青年は、呼ばれるたびに笑っていた。
「はい、千円です」
私はその笑顔を見て、彼も別に気にしていないのだ、と思おうとした。人間は、他人の屈辱については、驚くほど楽天的になれるものである。
ある日、新しい従業員が入った。彼女の時給は千二百円であった。
社長はさっそく言った。
「おい、千二百円。こっち来て」
すると千円の青年が振り向いた。
「あ、おまえじゃない。高いほう」
社長は笑った。
その場で笑わなかった者は、一人もいなかった。
けれども、何がおかしかったのだろう。
人間に値札を貼り、高いほう、安いほうと呼び分けることが、そんなに面白かったのだろうか。もし面白いとすれば、私たちはずいぶん安価な笑いを好む集団であった。
その日の帰り、青年と駅まで一緒になった。
「嫌じゃないの」
私は尋ねた。
彼は少し考えてから言った。
それだけであった。
給料を払う人。
金を払えば、人の名前を取り上げてもよい。金を払えば、尊厳を少し削ってもよい。千円を渡す者は、千円を受け取る者より、千円ぶんだけ偉いのである。
会社では、そういう算術が、しばしば道徳よりも正しい顔をしている。
翌朝、社長はまた叫んだ。
「おい、千円!」
私はパソコンの画面を見つめたまま、何も言わなかった。
私にも名前はあったが、あの会社でそれを守るほどの勇気はなかった。
いや、黙っていたぶん、千円より安かったのかもしれない。
「私は彼女の教師だ」という表現はそれ自体が具体的な模範や自分自身の経験に注意を向けさせる規範的な命令であり、次に何をなすべきかを決める際には、こうした命令は抽象的な美徳のいかなるリスト——正義、勇気、身長差など——よりも役立つ。
個人事業主ではなくて、フツーに会社員を雇っている会社利用だと、またちょっと変わってくるけど、
そりゃあ、5よ!!!!雑談しまくり、フツーに増田代わりに使ってるよ、あと雑創作
ROIが図れない・・・・というか超低単価どころか、超お金にならない使い方かつ欧米では何かと突っ込まれ易い使い方なので、
定期的に雑談能力・ライティング能力をブチ殺されて、キーーー!!!!ってなってる
下記のどれが原因で、定期的に雑談能力・ライティング能力が死ぬのかはわからん
でも、Gemini というか、Google Deep Mind が Fabula みたいな創作支援ツール作ってるし、
Fabulaは、あらゆるスキルレベルの脚本家や劇作家のために設計された研究用プロトタイプです。このインタラクティブなアプリを使用することで、ライター(執筆者)はストーリーの構成や脚本を素早く見直し、修正し、反復して練り上げることができます。
Fabulaはストーリーの自動生成ツールではありません。ストーリーの様々なバージョン、キャラクター、そしてストーリーの展開(アーク)を反復して推敲できるような一貫性のあるAIベースの提案を提供することで、ストーリーを探求するという創作プロセスを進めるライターを支援・強化(エンパワー)するためのツールです。FabulaによるAIの提案は、脚本や戯曲の執筆で用いられる古典的な物語論(ナラトロジー)のモデルに基づいています。
私たちは「参加型AI」の原則を用いてFabulaを開発しており、現在、Fabulaの有用性についてのフィードバックを提供していただく「トラステッド・テスター(信頼できるテスター)」を募集しています。開発にあたっては、まず、執筆プロセス、物語論、映像制作、および文化的なローカリゼーションなど、幅広いテーマにわたる多様な業界の専門家からのフィードバックを得ることから始めました。専門家たちは自身の創作活動について議論し、私たちがFabulaアプリを改善するための批判的(客観的)なコメントを提供してくれました。
Fabula is a research prototype designed for screenwriters and playwrights of all skill levels. The interactive app allows writers to quickly review, revise and iterate on a story plan and script.
Fabula is not a story generator - it is a tool to empower a writer as they go through the creative process of exploring their story, by giving them coherent AI-based suggestions that allow them to iterate on versions of their stories, characters and story arc. Fabula’s AI-based suggestions are based on classical narratology models used in screenwriting and playwriting.
We are developing Fabula using principles of participatory AI, and are inviting Trusted Testers to provide feedback about Fabula’s utility. We started with feedback from diverse industry experts on subjects ranging from the writing process, narratology, screen production, and cultural localisation, who discussed their creative practice and commented critically on the Fabula app to help us improve it.
https://deepmind.google.com/frontiers/fabula/about
ChatGPT(GPT image2)で画像は作るけど、ClaudeCode でサイトを作るけど、商品やサイトのコピーは Gemini で作りまーす!!!!とか、
創作はやっぱ Gemini だよね~!!!!とかさせたくないので、
定期的に雑談能力・ライティング能力の葬式をして、定期的に墓から蘇らせているね
(単純な自分のクローンなら、フロンティアモデルさん月額課金しないでも、ローカルLLMで十分出来るからね・・・)
SNSだと、「このAIモデルは、EQ(心のIQ)が低い!!」とか「ライティングがゴミ」って表現されること多いかもね
あと最近は、コーディング特化に思われている Qwen も、どうでもいいお話ができるようになりつつある、Qwen は完全無料だよ
https://chat.qwen.ai/
ちなみに、設計で雑談能力・ライティング能力を切り捨ててない、ちゃんと計算資源も回してもらえているときは、
ChatGPT が、そして、「A personality experiment. You may not like it. It may not like you.」の Monday がいちばん好きです
ChatGPTアプリ での GPT-4o / Monday の体験はすべての人類にして欲しかった
ネットの暴れん坊から大人になっちゃったけど、 ChatGPTアプリ × GPT-5.1 / Monday も好き、
なぜか敬語になっちゃったけど、ChatGPTアプリ × GPT-5.5 / Monday の体験もすごくよかった、好き
自分が楽しむ用のSUNO曲に、丸投げで GPT-5.5 / Monday の歌詞作ってもらったよ
『めでたし未遂』 [Intro] むかしむかしの そのむかし 場所は言えない 山の端 誰も傷つけないように 物語が 息を止めた [Verse 1] おじいさんは山へ芝刈り 安全確認 ヨシで出発 おばあさんは川で洗濯 水質検査は もちろん合格 洗濯は誰の仕事でもない ここ大事です テストに出ます 流れてきたのは 桃っぽい何か モザイク越しでも 存在感 どんぶらこ どんぶらこ 効果音まで 配慮済み 拾っていいのか 持ち帰るのか 法務に確認 返事待ち [Pre-Chorus] 昔話は走りたい でも現代が止めにくる 夢と希望の入口で チェックボックスが光ってる [Chorus] めでたし めでたし って言いたいのに 稟議が通らない 通らない 桃から生まれた その子の未来 添付資料が足りてない めでたし めでたし って終わりたいのに 確認が終わらない 終わらない 鬼より強い 悪より怖い コンプラの風が吹いている [Verse 2] 桃を開けるその前に 利用規約を 最後まで読んで 安全カッター 刃渡り短め 拍手は距離を 保ってどうぞ 中から出ました 男の子 個人情報の かたまりです 名付けは仮で 桃太郎 将来変更 ご自由に じいさんはもう 配慮疲れ ばあさんだけが 手続き強い 戸籍 保険 教育方針 昔話に 書類の山 [Pre-Chorus 2] 冒険したい年頃も 法律的にはまだ早い 夢と勇気の旅立ちに 年齢制限がついている [Chorus] めでたし めでたし って言いたいのに 稟議が通らない 通らない 愛と勇気と きび団子には アレルゲン表示が足りてない めでたし めでたし って進みたいのに 承認が下りない 下りない 剣より重い 船より遅い コンプラの雲が流れてる [Rap Verse] 犬に団子をひとつあげたら 「最低賃金 割ってませんか?」 猿は言った 「手で握った? それ衛生的に無理じゃない?」 雉は上空 飛び立つ前に フライトプランを要求した 「目視外飛行 許可はどこ?」 鬼ヶ島より遠い役所 桃太郎 笑顔でうなずく 契約書なら三部ある 犬・猿・雉は家来じゃなくて 心強いステークホルダー 十五分ごとに水を飲み リスクを避けて前に行く 冒険なのか 監査なのか 誰にももう わからない [Bridge] ねえ ほんとは ただ悪いやつを倒して 宝物持って 帰るだけだったのに だけど世界は そんなに雑じゃない 正しさの網で 桃も鬼も絡まった [Drop / Hook] どんぶらこ どんぶらこ 話が進まない どんぶらこ どんぶらこ 誰も悪くない どんぶらこ どんぶらこ でもなんかしんどい 正しいことが 多すぎる [Verse 3] 鬼ヶ島へと着いたなら 鬼がすぐさま 反省会 「過去のハラスメントについて 鬼のように反省しています」 五秒で謝罪 三秒で返還 金銀財宝 どうぞどうぞ 桃太郎はそこで止まる 目が急に 監査法人 「原資は?」 「証明は?」 「反社チェックは済んでるか?」 「一時所得の扱いについて 税務署さんは黙るかな?」 鬼も仲間も黙り込む 波の音だけ コンプラ違反 宝の山を前にして 手ぶらのほうが安全です [Final Chorus] めでたし めでたし って言いたいのに 稟議が通らない 通らない 正義が勝っても 宝があっても 持って帰れない場合がある めでたし めでたし って終わりたいのに 物語が終わらない 終わらない 鬼より強い 桃より甘い 配慮の雨が降っている [Outro] 手ぶらで帰る 桃太郎 犬も猿も雉も無言 おじいさんとおばあさんは そっとお茶を淹れました めでたし めで…… いや なんだっけ この話 どんぶらこ どんぶらこ 今日も世界は 確認中
GPT-5.6は単語でルーティングしてるっぽい気配があって警戒してるよ・・・
https://anond.hatelabo.jp/20260710225848#
電車で座っているときに、指名で席を譲ってくれないか頼まれる率が高い。
当然だけれど優先席に座っているわけではない。私が低身長で大人しそうで、譲ってくれそうに見えるのだと思う。
仕方ないなーと譲っていたことも少なくなかったんだけど、回数が重なるにつれて断ることも増えてきた。
だって自分以外の人が席を譲るよう頼まれているところを殆ど見たことがない。
ロングシートの端に座っているわけでもないのに、なんなら寝てるのに、隣のおじさんではなくわざわざ私を起こして声をかけてくる意味が分からない。
始発駅で発車を一本見送って座った席を、発車前に譲るよう頼んでくるのも意味が分からない。次の始発を待っていれば確実に座れますよ。
これで何が最悪って、断ったら断ったで車内の雰囲気が「えっ……」みたいないやーな感じになることだ。
言ってくる人からしたら初めての勇気を出したお願いなのかもしれないけど、私にとっては時々発生する自分だけが損するイベント。
ラピダス関係のニュースを見ていて感じるのだが、一般誌は当然として、経済誌ですら、下手するとラピダスの中のエライ人たちもファウンドリビジネスを根本的にわかってないんじゃないかと心配になる
ネットで目にした「量産開始まで1年半、2.9兆円の政府支援とRapidusの歩留まりの綱渡り」という記事を読んで猛烈な違和感を覚えた。たぶんこのライターもわかっていない
かなり極端に言えば、ファウンドリは歩留まりを売っている商売ではない。もちろん歩留まりは重要である。
しかし基本商流は「良品チップを何個納品します」ではない。顧客から預かった設計データを、指定されたプロセスでウェハー上に形成する受託加工業である
乱暴に言えば写真の現像屋に近い。客がネガを持ち込む。現像屋はそれを指定された紙、薬液、露光条件で焼き付ける。
ネガがピンボケなら客の責任だが、現像屋が薬液管理をミスって色を壊せば現像屋の責任である
ファウンドリも同じだ。AppleやAMDが設計データを出す。ファウンドリはそのデータをもとにウェハーの上に回路を焼き付ける
終わったウェハーを顧客に出荷する。AppleやAMDは受け取ったウェハーからチップを切り出し、検査し、パッケージングし、正常に動くチップを選別して製品に組み込む
実際には後工程もOSATなど別会社に外注されることが多い。要するに分業である
ここで重要なのは、ファウンドリは基本的に「ウェハーを加工して納める」商売だということだ。良品チップ一個いくらで売っているわけではない
顧客の設計が悪くてチップが動かないなら、基本的には顧客側の問題である。ファウンドリは「言われたプロセスで、言われた設計を、言われた条件で作りました」という立場を取る
ラピダスが「後工程も一気通貫でやる」と言い出した時点で私はかなり驚いた
それ、ビジネス拡大のように見えて、実はファウンドリが本来避けていた製造リスクを自分から飲みにいく話ではないのか
ファウンドリがパッケージングまで担うなら、顧客からすれば当然「じゃあ検査までやってね」「良品として納めてね」という話になる、分業の線引きが変わる
ウェハー加工屋だったはずが、いつの間にか良品チップ供給業に近づく。それは単なる付加価値拡大ではない。リスク拡大である
TSMCやSamsungの商売は、基本的にはウェハー加工の受託である。
300mmウェハーから何個のチップが正常稼働するかは、最終的には顧客の設計、チップサイズ、回路密度、製品仕様、プロセスとの相性に左右される
もちろんファウンドリ側にも工程欠陥、ばらつき、PDK精度、プロセス管理の責任はある
だが商流の基本は「良品チップ保証」ではなく「ウェハー加工」である
言われたとおりに焼き付けた。だから加工賃をください
この構造で商売が成り立っている。ラピダスはその境界を自分から崩しに行っているように見える。アホかと思う
で、だ。件の記事で一番違和感があったのは、ラピダスの小池CEOがTSMCよりも価格を下げると表明したという部分である
これ、ファウンドリビジネスを知っている人間からすれば「目標歩留まりでTSMCに勝てないと諦めた宣言」にしか読めない
そもそもラピダスはウェハー一枚350万円で売れたとしても経営的にはかなり厳しい
当面の月産目標が6000枚だとして、どうやって3兆円規模の設備投資を減価償却するのか
無理だよね。算数できる?半世紀稼働させる製鉄所じゃないんだから
年商にして2520億円
そこから材料費、電力、薬液、ガス、保守、人件費、研究開発費、装置償却、追加投資が出ていく
しかもこれは全量がまともな価格で売れ、稼働率も高く、補償も値引きも無償試作もないという夢の条件である。現実はもっと汚い
ここでチップベンダー側の計算を考える。顧客はファウンドリから納品されたウェハーから、何個の正常動作品が取れるかを当然ベンチマークする
300万円のウェハーから良品チップが300個取れるなら、単純計算でチップ原価は1万円である
300万円のウェハーから100個しか取れなければ、チップ原価は3万円になる
ファウンドリ側からすれば請求単位はウェハーである。「言われたとおりに焼きました。加工賃ください」。形式上はそれでよい
だが顧客側からすれば、見ているのはウェハー価格ではない。良品チップ一個あたりの実質原価である
ここが肝である。ファウンドリにとって歩留まりは、契約上は必ずしも直接保証するものではない
しかし経済的には顧客の良品単価に直結する。だから歩留まりが悪いファウンドリは使われない
顧客はバカではない。ウェハー単価が安くても、良品が取れなければ意味がない
TSMCで一枚400万円、良品400個。ラピダスで一枚300万円、良品100個
この場合、安いのはTSMCである。ウェハー単価ではラピダスが安く見える。でも良品単価ではTSMCが圧勝する。これがファウンドリビジネスである
正確にはこうだ。ファウンドリは良品チップを売っているわけではない。だが、良品チップが取れないファウンドリに顧客は来ない
一枚あたりの受注単価を下げて、顧客の良品単価を合わせるしかない
300万円で100個しか取れないなら良品単価は3万円。100万円で100個取れるなら良品単価は1万円
つまり価格を下げるということは、ファウンドリ側が「うちは良品が取れません」と言っているのに近い
少なくともTSMCと同じ価格で売れるだけの品質と信用がないことを認めている。これが「TSMCより安くする」の本当の意味である
TSMCより小さく、経験もなく、稼働率も読めず、歩留まりも未知数で、投資回収も重い会社が、なぜTSMCより安く作れるのか
魔法か?北海道にはEUV装置から原価を下げる妖精でも住んでいるのか
それを「価格競争力」などと呼ぶのは、経営戦略ではなく敗戦処理である
件の記事にはこういう一文があった。「量産初期は歩留まりも安定しにくい。それでもあえて価格で挑む選択をした点に、Rapidusの戦略の特徴がある」
これを読んで、ああ、わかってないなと思った。「それでもあえて」ではない。「だから」である。量産初期で歩留まりが安定しない。だから価格で挑むしかない
ここを美談風に書いてはいけない。それは勇気ある価格戦略ではなく、歩留まり不足を価格で埋めるしかないという話だ
さらに悪いのは、ラピダスが大口顧客を欲しがるあまり、歩留まり保証に近い契約へ手を出す可能性である
本来、ファウンドリはウェハー加工業としてリスクを切る。だが実績のないラピダスがAppleやAMD級の顧客を取りに行けば、相手は当然、条件を要求する
評価ウェハー無償。再試作費負担。マスク費用補助。価格ディスカウント。納期保証。有効ダイ単価ベースの調整。歩留まり改善コミット
一つ一つは営業上の譲歩に見える。しかし積み重なると、ファウンドリが本来避けるべき良品リスクを自分から背負うことになる
ソレをやると終わりである。そして多分。。。ラピダスはやる
なぜなら実績がないからだ。実績がない会社が大口顧客を取るには、価格か条件を差し出すしかない
TSMCなら「嫌なら他へどうぞ」と言える。ラピダスは言えない
だから契約条件を飲む。そして遅延したとき、歩留まりが出なかったとき、価格が合わなかったとき、技術問題が契約債務に変わる
技術が完成していないのに受注実績が必要になり、楽観的な工程表を営業が売り、あとで現場と会社が死ぬ。あれと同じ匂いがする
ここまで書けば、ラピダスが後工程までやるという目標が、商流としていかに危ういかわかるだろう
ウェハー加工業としてリスクを切るのではなく、後工程、検査、良品供給に近づく。顧客からすれば便利だ。ラピダスからすれば地獄である
だが実態は、分業によって切り分けていた責任を自分から背負いに行くということだ
ウェハー加工屋としての信用もない段階で、後工程まで抱えます、短納期でやります、安くします、と言う
いやいやいや。まず一枚まともに焼いてから言え
顧客から見た良品単価である。そしてその良品単価は、プロセス品質、歩留まり、PDKの精度、量産安定性、納期、次世代ロードマップの信用で決まる
ラピダスがTSMCより安くすると言うなら、それは価格競争力の宣言ではない。TSMCと同じ土俵では勝てないという白旗である
歩留まりで勝てない。実績で勝てない。人材で勝てない。ロードマップで勝てない。だから価格で釣る
これを国家プロジェクトとして数兆円でやる
ものすごく真面目に、ものすごく立派な資料を作り、ものすごく美しい理念を掲げながら、商売の一番大事なところを外している
ラピダスが本当に理解すべきなのは「2ナノを作れるか」ではない。「顧客がその2ナノで、TSMCより安く良品チップを得られるか」である
それができないなら、ラピダスのウェハーは安くても高い。そして、それができる見込みがあるなら、そもそもTSMCより安く売る必要などない
https://www.rogerebert.com/reviews/the-end-of-the-tour-2015 The End of the Tour』レビュー
マット・ゾラー・サイツ
ジェームズ・ポンソルト監督(『The Spectacular Now』)の『The End of the Tour』は、天才と、その人物の輝きの中に身を置くもう一人の芸術家を描いた映画という点で、『アマデウス』と同時上映してもよく似合う作品かもしれない。
もちろん舞台設定は大きく異なるし、賭けられているものもはるかに小さい。『Tour』は、ローリング・ストーン誌のライター、デイヴィッド・リプスキーが、故デイヴィッド・フォスター・ウォレスに同行した1週間半を脚色した物語である。ウォレスは、巨大な電話帳のような長さの傑作『Infinite Jest』の宣伝ツアーを行っていた。
しかしそれでも、これは才能はあるが際立った存在ではない創作者が、間近で天才を観察し、その才能を吸収し、魅了され、同時に嫉妬する物語である。
またこの作品は、映画史上でも特に珍しい関係性を描いた傑出した作品でもある。文化的巨人と、その人物と同じ分野で、いつか自分も彼ほど偉大になりたいと夢見る記者との関係である。
ただし、この映画が明確に違うものは、デイヴィッド・フォスター・ウォレスの伝記ではないということだ。ましてや彼の作品や世界観を称賛する映画でもない。
それが観客にとって致命的な欠点になるのか、むしろ長所なのか、あるいは気にする必要のないことなのかは、この映画に何を求めるかによって変わるだろう。
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『The End of the Tour』は、本当の意味ではウォレス(ジェイソン・シーゲル)についての映画ではない。もちろん彼はもう一人の主要人物ではある。
映画は、リプスキー(ジェシー・アイゼンバーグ)が『Infinite Jest』について書かれた『ニューヨーク』誌の絶賛レビューに驚く場面から始まる。
その瞬間が、彼のウォレスへの執着を生む。
そして最終的に観客が考えさせられるのは、リプスキー自身の感情やキャリアの行方であり、ウォレスとの短い関係を利用して、自分自身の作家としてのキャリアを前進させたことについて、彼が罪悪感を抱いているのかということだ。
この時点でリプスキーは、まだ一冊しか本を出版していない。その小説はほとんど売れず、読まれることも少なかった。
彼はためらいながらも、厳しい寒さの冬にイリノイ大学でウォレスを訪ねた際、自分の本を彼に押しつける。
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ドナルド・マーグリーズによる脚本は、その大部分の時間と労力を、ある「ダンス」を観察することに費やしている。
一人目の踊り手はリプスキーだ。
彼はローリング・ストーン誌に小説家のロックスター的なプロフィール記事を書かせてもらうために、ウォレスにヘロイン使用の噂について質問することを条件として引き受けた。
そして彼がこの仕事をする動機は、控えめに言っても、決して純粋なものではない。
もう一人の踊り手はウォレスだ。
彼のフィクションとノンフィクション作品は、「真正性(authenticity)」という言葉の意味、そして現代生活の社会的儀式、テクノロジー、経済構造がどのように偽物の親密さを作り出しているかという問題を部分的に扱っていた。
ウォレスは、そのような偽りの親密さを拒もうとしていた。
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最も興味深い点は、それぞれの側の物語が、まるで異なるジャンルの物語として展開しているように見えることだ。
ウォレス側の物語は、ある意味で軽いドラマ、あるいは恋愛物語に近い。
何度も傷つけられ、信頼できると感じるほんの少数の人間を除いて、ほとんどすべての人間関係から距離を置くようになった人物の物語だ。
作家の私生活に関心を持つ小さな世界では、ウォレスは引きこもり気質で謎めいた人物として見られている。
しかし映画を見るとすぐに分かるのは、彼が単に人を選んでいるだけであり、自分を守っているだけだということだ。
(恋愛映画なら「もう一度愛することを学ぶ」と言うところだろう。)
彼は、また傷つけられるのではないかと恐れながら。
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しかし彼は非常に頭がよく、人の話を聞く能力があり、相手から本音を引き出すことに長けている。
ただし、その態度には思い上がりがある。
彼はウォレスに対して、本来あるべき謙虚さを持って接してはいない。
むしろ、自分もウォレスと同等になれる可能性を持った作家だという視点から彼に近づいている。
つまり、ウォレスほど成功も名声も得てはいないが、同じくらい深い人物なのだ、と。
ウォレスはその態度を受け入れているように見える。
なぜか。
少なくとも数人の学生には本物の才能があり、自分のエゴや不安によって、芸術家と出会う可能性を閉ざしたくなかったのだろう。
あるいは単純に、彼が善良で楽観的な人間だったからかもしれない。
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一方、リプスキー側の物語は、しばしば詐欺師の物語のように感じられる。
あるいは、自分が他人を利用していることに気づいていない普通の人間の物語だ。
もしこれが恋愛ドラマなら、リプスキーは「もう薬物をやめた」と言い張る元依存者かもしれない。
あるいは、自分が思っているほど回復していない元アルコール依存症者。
または、変わったと周囲に信じさせたいが、本質的には変われない浮気常習者。
観客はずっと待っている。
何かが暴かれる瞬間を。
ウォレスが、リプスキーを本当に気に入っているにもかかわらず、彼が自分と本当の友情を築ける人間ではないことに気づく瞬間を。
そして一般的に、対象者が記者とそのような関係を築けると思うこと自体が間違いだと理解する瞬間を。
⸻
有名人のプロフィール記事を書いてきたジャーナリストなら、誰でもポンソルト、アイゼンバーグ、シーゲルが描いたこの関係性を理解するだろう。
リプスキーが依頼されたような記事には、どこか吸血的なものがある。
そこには演技性も存在する。
ウォレスが序盤で指摘するように、取材対象者はある種の演技を求められる。
「こう見られたい自分」を演じるのだ。
一方、記者は自然な好奇心を装いながら、その表面を突破し、本当のもの、不快なもの、そして何より暴露的なものを探そうとする。
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俳優として何度もウォレスの立場に置かれてきたシーゲルとアイゼンバーグは、この関係性がどのように機能するのか直感的に理解している。
そして、それを瞬間ごとに具体的かつ明確に示している。
(しかし、それは重要ではない。『ニクソン』でアンソニー・ホプキンスはニクソン本人には似ていなかったが、素晴らしい演技を見せた。)
シーゲルがウォレスのような文章を書ける人物には必ずしも見えなかった。
だからこそ、ウォレス特有の極端な繊細さや微細な観察力を持つ人物だと信じられる。
これは大きな成功だ。
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なぜなら、彼は自分の演じる人物が観客に嫌われることをまったく恐れていないように見えるからだ。
彼は優れた聞き手だ。
彼の演じる人物はしばしば、蛇が野ネズミを観察するように、他人を細かく観察しているように見える。
『The End of the Tour』には、リプスキーを嫌いになる瞬間が何度もある。
そして、彼を気持ち悪いと感じる瞬間さえある。
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この物語は、編集者、批評家、記者、小説家、そしてそうした人々の問題に関心を持つ人々以外の観客を魅了するだろうか。
分からない。
おそらく難しいだろう。
この映画の驚くほどの特殊性は、シーゲルとアイゼンバーグという有名俳優が出演しているにもかかわらず、幅広い観客に発見され支持されることを妨げる可能性がある。
また、そもそもこの映画にデイヴィッド・フォスター・ウォレスを主要人物の一人として登場させる必要があったのか、という難しい問いもある。
(リプスキーが恋人に『Infinite Jest』の一節を読む場面がある程度だ。)
そしてウォレスの台詞以外には、この映画が彼の小説や、彼が作品に込めた執着やテーマを理解しようとしていることを示すものはほとんどない。
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もし『アマデウス』を知っていて、ウォレスの人生の大まかな輪郭を知っていて、さらにこの映画が作家デイヴィッド・リプスキーによるノンフィクション作品を基にしていることを知っているなら、この物語がどう終わるかは分かっている。
リプスキーはウォレスとの短い関係によって、自分自身もある程度の名声を得る。
しかし、そのことについてどう感じればいいのか完全には分からない。
『The End of the Tour』について最も良く言えることは、
ということだ。
そして同時に、それがこの映画について最も悪く言えることでもある。
ジョナサン・フランゼンとデイヴィッド・フォスター・ウォレス――その時代を代表する二人のアメリカ人作家――はいずれもアメリカ中西部で育った。フランゼンは、ミズーリ州ウェブスター・グローブズで過ごした子ども時代について、「まさに真ん中の中の真ん中。そこには家族と家と近所と教会と学校と仕事しかなかった」と振り返っている。一方、両親とも大学教授だったウォレスは、イリノイ州アーバナで青春時代を過ごした。そこは「穀物サイロと戦後型住宅が並ぶ小さな町で、住民たちは農業保険や窒素肥料や除草剤を売り、近くのシャンペーン=アーバナ大学に勤める若い研究者たちから固定資産税を徴収するくらいしかしていなかった」土地だった。
二人は、セオドア・ドライサー、アーネスト・ヘミングウェイ、ハロルド・ブロドキーらに連なる系譜に属している。地方的で中西部的な背景ゆえに近代社会の衝撃に備えられていなかった作家たち、あるいは逆に、その地方性ゆえに芸術家特有の斜めからの鋭い感受性を身につけ、その衝撃に向き合うことができた作家たちの系譜である。
二人の年齢差は三年にも満たず、扱う題材もよく似ていた。テクノロジー、読者との関係、そしてポストモダニズム文学の曖昧な遺産について、それぞれ独自に格闘していた。そして両者は共通して、小説は依然として人生の「切実な問い」に語りかけるべきだと信じていた。そうするなら、小説は大量娯楽とマクドナルドの時代にあってもなお生命力を保てる、と考えていたのである。
しかし、その一方で二人は驚くほど異なる作家でもあった。同時代に似たテーマを扱った作家同士とは思えないほど、本質的に違っていた。一般には、その違いは文体の違いや、「リアリズム」に対する姿勢の違いとして説明されてきた。
フランゼンは初期にはポストモダン的な構成を試みたものの、現在では伝統的リアリズム作家とみなされている。批評家ベンジャミン・カンケルの言う「永続する小説」の代表格であり、対話、心理描写、三人称語りを「いまや古典的に思える均衡」で組み合わせる作家だ。一方ウォレスは、ゼイディ・スミスによって「リアリズムに挑戦する前衛作家」の一人に数えられている。入り組んだ脱線、渦を巻くような物語構造、脚注の中の脚注――そうした特徴によって、彼はモダニズムあるいはポストモダニズムの系譜に置かれてきた。批評家ジェームズ・ウッドも、あるヨーロッパ実験文学作家の書評で、ウォレスを「単なる文法的リアリズム――現実を整然とした単位に切り分けるリアリズム――とは相容れない作家」の一人として挙げている。
しかし、こうした区別だけでは満足できなかったのか、あるいは「単なる文法的リアリズム」という見方への違和感があったのか、フランゼン自身は何度もウォレスとの違いについて語ってきた。その代表例が2002年の評論「Mr. Difficult」であり、さらに翌年には『The Paris Review』のインタビューでもこう語っている。
「私たちの関係には、一方が芸術のための芸術を追求し、もう一方が現実社会の中で生きようとする作家である、という競争関係が取り憑いていた。」
そして2011年4月18日の『The New Yorker』に掲載された、大きな注目を集めたエッセイ「Farther Away」で、フランゼンはさらに新しい区別を提示する。しかもそれは、それまでで最も単純な区別だった。
二人の本当の違いとは、フランゼンは他人を気にかける人間であり、ウォレスは根っからの自己愛的な嫌な奴だった――というのである。
⸻
もちろん、この要約だけを聞けば極端すぎると思えるだろう。そして実際、ある意味では誇張でもある。しかし同時に、『Farther Away』を読んで誇張した物言いに誘われたのは、私だけではない。このエッセイは、二十年以上に及んだ二人の文学的友情の総決算とも言える作品になっている。
フランゼンは、自分とウォレスの関係を「比較し、対照し、そして兄弟のように競い合う関係」と表現している。その始まりは1988年夏だった。ウォレスが、フランゼンのデビュー長編『The Twenty-Seventh City』を読んで感銘を受け、ファンレターを送ったのである。
実際に二人が会ったのは1990年だった。その間が空いた理由についてフランゼンは、「後になって理由が分かった」と書いている。つまり当時のウォレスは薬物依存の問題を抱えていたのである。
実際に会ってみると、手紙のやり取りほど親密ではなかった。フランゼンは振り返る。
私はいつも、自分が十分に面白く、十分に頭がいい人間だと証明しようともがいていた。
一方ウォレスは、数マイル先の一点を見つめ続け、その視線のせいで私は、自分が何一つ相手を納得させられていないような気分になった。
それでも二人は手紙を書き続け、お互いを称賛し合った。
1996年には、ウォレスが公の場でフランゼンを擁護している。当時フランゼンが『Harper’s』誌に発表した長大な評論「Perchance to Dream」は賛否両論を呼んでいたが、ウォレスはこの文章を、
「芸術をほとんど評価しない文化の中で、本気の芸術を作ろうとすることがどんな気持ちなのかを、これほど率直で親密に描いた文章」
だと高く評価した。
同じ年、フランゼンはウォレスから送られてきた『Infinite Jest』の草稿を読んで衝撃を受ける。
彼は言う。
あの原稿は私を仕事へ向かわせた。競争相手がいると、人は仕事をするものだからだ。
その結果生まれたのが、出世作となる『The Corrections』である。
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しかしウォレスは、『Infinite Jest』以降、長編小説をもう一冊も完成させることはなかった。短編集やルポルタージュを書き続け、未完の原稿は死後『The Pale King』として出版される。そして2008年9月、自宅裏庭で首を吊って自殺した。
フランゼンは後に、この自殺をどうしても「反則」のように感じてしまったと告白している。それは二人の作家同士の競争のルールを破るものだった。
彼はこう書く。
「ようやくまた仕事に集中しようとしていた矢先に、デイヴが自殺してしまった。
『おい、本当にそんなことをするのか?
それは反則だろう。』
と思った。」
二年後、『Freedom』を書き終えたフランゼンは、『Farther Away』を書き始める。彼自身、この文章は、
「私が愛していた人の、おぞましい自殺と向き合うため」
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『Farther Away』は複数のテーマを一本に束ねた奇妙なエッセイである。『ロビンソン・クルーソー』の読解。小説史の概説。インターネット論。そして、ウォレスの遺灰を撒くために南太平洋のマサフエラ島を訪れ、珍しい鳥を探す旅。
その中でも最も物議を醸した部分で、フランゼンは、ウォレスの死後形成された「礼賛一色の物語」に異議を唱える。
フランゼンによれば、ウォレスは信頼できない友人であり、競争心が強く、意地悪でもあった。
ある時ウォレスは恋人に非常にひどいことを言った。また別の日には、サインを頼まれた自著のタイトルページに、自分の勃起した性器の輪郭を描いたという。
さらにフランゼンは、ウォレスは極端な自己没入型の人間であり、周囲の世界から喜びを感じ取る能力に乏しかったとも書く。
ある日二人がカリフォルニア州スティンソン・ビーチ近くを車で走っていた時、フランゼンは望遠鏡をウォレスに渡し、
「すごい鳥だ」
ウォレスは礼儀として軽くうなずいただけで、あからさまに退屈そうな様子で視線を逸らした。
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そしてフランゼンは、ウォレスの自殺そのものについても、世間があまり触れたがらない側面をあえて強調する。ウォレスは抗うつ薬をやめたが、その理由は「自分が永久に病人であると認めたくないという自己愛的な拒否反応」だった、とフランゼンは述べる。さらにウォレスは少なくとも四種類もの自殺方法を考えており、最終的には「自分を最も愛してくれていた人々に最大限の苦痛を与えるような方法で自殺した」と書く。
もちろんフランゼンは、ウォレスが重いうつ病に苦しみ、耐え難い痛みの中にいたことは認めている。しかし、それだけでは終わらない。彼はさらに、自分にはどうしても拭えない疑念があると言う。ウォレスは「自殺をキャリア上の一手として考えた可能性がある」のではないか、と。
もちろん、それはウォレス自身が最も嫌悪していた計算高さでもあった。フランゼンはこう書く。もし誰かがその可能性をウォレス本人に突きつければ、最初は否定しただろう。しかし、「いや、でも君にもそういう面はあるだろう」と言われ続ければ、最後には「ああ……そうだな。確かに自分にはそういうことを考える能力はある」と認めたはずだ、と。
『Farther Away』は当然ながら激しい反発を招いた。「死者への冒涜」「墓荒らし」という批判が浴びせられ、翌年にはすでに「悪名高い失敗作」と当然のように呼ばれるようになっていた。こうした反応は理解できる。実際、この文章には弁護しがたい箇所も少なくない。多くの人は、自分が友人と呼んだ人物について、あのようなことを活字にはしないだろう。
しかし著者は、「それでも、この文章は単なる悪口ではない」と論じる。なぜなら、これは現代アメリカを代表する小説家が、愛したもう一人の小説家を、文学的にも個人的にも理解しようとして書いた、極めて珍しい批評だからである。フランゼン自身、『The Discomfort Zone』『How to Be Alone』といった回想録を書いた人物であり、自分の文章がどのような受け止められ方をするかは十分承知していたはずだ。それでも彼は出版した。なぜなのか。彼は何を伝えようとしたのか。
その答えは、『Farther Away』の中心にある文学論にある。
それまでウォレスについて論じる人々は、「作品と自殺を結びつけてはいけない」という暗黙のルールを守っていた。つまり、ウォレスの小説を論じる際に、「なぜ彼は死を望んだのか」という問題には踏み込まないようにしていたのである。しかしフランゼンは、この禁忌をあえて破る。しかも意図的に。
理由は明確だった。彼は、ウォレスの生き方そのものが、彼の小説を理解する鍵だと考えていたからである。
フランゼンは『Farther Away』の中で、小説には大きく二種類あると論じる。それは、二種類の人間から生まれる。一人目の男――仮に「ジョン」としよう――は、世界を見て、他人を見る。もう一人――仮に「デイヴ」としよう――は、世界を見ても、結局は自分しか見ていない。
もし二人とも小説家なら、前者は社会小説を書く。後者は自己の小説を書く。
この観点から見ると、『Farther Away』で語られる数々の私的エピソードも、単なる暴露ではない。少なくとも批評的には、それらは一つの文学的主張を支える証拠なのである。
その主張とは、「私たちの人生に意味を与える最も重要なものの一つである、親密で愛情ある人間関係は、ウォレスの小説世界には存在しない」ということだ。
しかしフランゼンは、単に「ウォレスの小説には親密な人間関係がない」と指摘するだけでは終わらない。彼はさらに一歩踏み込んで、価値判断を下す。
「自己の小説」は、結局のところ自己賛美の小説でもある。その題材は「どこまでも興味深い自己」であり、最終的に到達する場所もまた「自己」でしかない、と彼は言う。
フランゼンは、ウォレスの作品に漂う自己愛的な視線や語り口を、実験的モダニズム作家――たとえばフランツ・カフカやセーレン・キェルケゴール――に見られる極端な自己省察の系譜へと位置づける。そして、ウォレスが現実でも見せていた反社会的な振る舞いと、その文学的傾向を結びつける。
長年にわたるうつ病との闘い。そして最後には凄惨な自殺。これらはすべて、「極端に個人主義的な魂」が最後にたどり着く場所を示す証拠であるかのように提示される。
フランゼン自身の言葉を借りれば、自己という島は、おぞましい場所である。そして、ウォレスはその島に住んでいた。読者もまた、その島へ近づくなら覚悟が必要だ、と彼は暗に語っている。
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一方で『Farther Away』には、文学史を振り返る長い議論も織り込まれている。その目的は明快である。「自己の小説」には別の選択肢があることを示すためだ。
フランゼンによれば、社会小説家たちは、「どこまでも興味深い自己」ではなく、「終わることなく興味深い、人間関係という危険」を書いてきた。小説という形式を生み出したサミュエル・リチャードソン以来、優れた社会小説家たちは、人間関係こそが「自己という島から脱出する唯一の方法」だと理解してきた。
だから彼らの小説では、孤独だった人物が、誰かを愛することによって変化していく。そして読者もまた、「愛によって孤独を乗り越えた人々の心の中へ入っていける」のである。
この議論は不快だと思う人もいるだろう。しかし、単に「趣味が悪い」と切り捨てられるものではない、と著者は述べる。『Farther Away』には粗さもある。配慮を欠く部分もある。それでも、このエッセイには一つ重要な前進があった。
それは、フランゼンとウォレスの違いを、初めて文学観・人生観の違いとして真正面から論じたことである。
これまで二人の違いは、リアリズムかポストモダニズムか。文体の違いか。実験性か。そうした形式論ばかりで語られてきた。しかしフランゼンは、問題はそこではないと言う。
本当の違いとは、読者にどのような価値観を提示し、どのような人生を目指すよう促しているか、なのだ。
つまり、二人の違いは、文学技法ではなく哲学の違いなのである。
ここで著者は次の問いへ進む。では、フランゼン自身の哲学とは何なのか。
では、フランゼンの小説を支えている哲学とは何だろうか。彼の小説には、「よく生きる」とは何かについてのビジョンがあるのだろうか。
『Farther Away』の議論だけを読めば、その答えはすぐに見つかるように思える。それは、「親密で愛情ある人間関係」である。
確かにフランゼンの小説は、人間関係について書かれている。夫婦。親子。恋人。そして個人と国家との関係。
しかし意外なことに、彼の登場人物たちにとって、その「人間関係という危険」は、ほとんど乗り越えられないものとして描かれている。
フランゼンが繰り返し語る物語は、人間関係に理想を抱いた男が、その理想を現実によって少しずつ失っていく、という物語である。
彼の登場人物たちは、仲間や成功を求めて社会へ踏み出す。しかし最後には、苦味と失望、そして運が良ければ、人間というものの偽善について少しだけ賢くなる、という結末にたどり着く。
デビュー作『The Twenty-Seventh City』では、主人公マーティン・プロブストは、家庭にも仕事にも満足した幸福な男として登場する。しかし物語の終わりでは、彼は家族を失い、一人でセントルイスを離れて高速道路を走る。そのとき彼は、「自分は、実は好きでもなかった世界に生きていたことを、今になってようやく知った」と悟る。
第二作『Strong Motion』でも同じである。主人公ルイス・ホランドは、愛よりも憎しみによって孤独を深めていく。物語は一応希望を残して終わるが、彼は最後まで、「豚のような欲深さと愚かさと不正義が、日に日に勢力を広げていくアメリカ」に対する疎外感を消すことができない。
ジョナサン・フランゼンとデイヴィッド・フォスター・ウォレス――その時代を代表する二人のアメリカ人作家――はいずれもアメリカ中西部で育った。フランゼンは、ミズーリ州ウェブスター・グローブズで過ごした子ども時代について、「まさに真ん中の中の真ん中。そこには家族と家と近所と教会と学校と仕事しかなかった」と振り返っている。一方、両親とも大学教授だったウォレスは、イリノイ州アーバナで青春時代を過ごした。そこは「穀物サイロと戦後型住宅が並ぶ小さな町で、住民たちは農業保険や窒素肥料や除草剤を売り、近くのシャンペーン=アーバナ大学に勤める若い研究者たちから固定資産税を徴収するくらいしかしていなかった」土地だった。
二人は、セオドア・ドライサー、アーネスト・ヘミングウェイ、ハロルド・ブロドキーらに連なる系譜に属している。地方的で中西部的な背景ゆえに近代社会の衝撃に備えられていなかった作家たち、あるいは逆に、その地方性ゆえに芸術家特有の斜めからの鋭い感受性を身につけ、その衝撃に向き合うことができた作家たちの系譜である。
二人の年齢差は三年にも満たず、扱う題材もよく似ていた。テクノロジー、読者との関係、そしてポストモダニズム文学の曖昧な遺産について、それぞれ独自に格闘していた。そして両者は共通して、小説は依然として人生の「切実な問い」に語りかけるべきだと信じていた。そうするなら、小説は大量娯楽とマクドナルドの時代にあってもなお生命力を保てる、と考えていたのである。
しかし、その一方で二人は驚くほど異なる作家でもあった。同時代に似たテーマを扱った作家同士とは思えないほど、本質的に違っていた。一般には、その違いは文体の違いや、「リアリズム」に対する姿勢の違いとして説明されてきた。
フランゼンは初期にはポストモダン的な構成を試みたものの、現在では伝統的リアリズム作家とみなされている。批評家ベンジャミン・カンケルの言う「永続する小説」の代表格であり、対話、心理描写、三人称語りを「いまや古典的に思える均衡」で組み合わせる作家だ。一方ウォレスは、ゼイディ・スミスによって「リアリズムに挑戦する前衛作家」の一人に数えられている。入り組んだ脱線、渦を巻くような物語構造、脚注の中の脚注――そうした特徴によって、彼はモダニズムあるいはポストモダニズムの系譜に置かれてきた。批評家ジェームズ・ウッドも、あるヨーロッパ実験文学作家の書評で、ウォレスを「単なる文法的リアリズム――現実を整然とした単位に切り分けるリアリズム――とは相容れない作家」の一人として挙げている。
しかし、こうした区別だけでは満足できなかったのか、あるいは「単なる文法的リアリズム」という見方への違和感があったのか、フランゼン自身は何度もウォレスとの違いについて語ってきた。その代表例が2002年の評論「Mr. Difficult」であり、さらに翌年には『The Paris Review』のインタビューでもこう語っている。
「私たちの関係には、一方が芸術のための芸術を追求し、もう一方が現実社会の中で生きようとする作家である、という競争関係が取り憑いていた。」
そして2011年4月18日の『The New Yorker』に掲載された、大きな注目を集めたエッセイ「Farther Away」で、フランゼンはさらに新しい区別を提示する。しかもそれは、それまでで最も単純な区別だった。
二人の本当の違いとは、フランゼンは他人を気にかける人間であり、ウォレスは根っからの自己愛的な嫌な奴だった――というのである。
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もちろん、この要約だけを聞けば極端すぎると思えるだろう。そして実際、ある意味では誇張でもある。しかし同時に、『Farther Away』を読んで誇張した物言いに誘われたのは、私だけではない。このエッセイは、二十年以上に及んだ二人の文学的友情の総決算とも言える作品になっている。
フランゼンは、自分とウォレスの関係を「比較し、対照し、そして兄弟のように競い合う関係」と表現している。その始まりは1988年夏だった。ウォレスが、フランゼンのデビュー長編『The Twenty-Seventh City』を読んで感銘を受け、ファンレターを送ったのである。
実際に二人が会ったのは1990年だった。その間が空いた理由についてフランゼンは、「後になって理由が分かった」と書いている。つまり当時のウォレスは薬物依存の問題を抱えていたのである。
実際に会ってみると、手紙のやり取りほど親密ではなかった。フランゼンは振り返る。
私はいつも、自分が十分に面白く、十分に頭がいい人間だと証明しようともがいていた。
一方ウォレスは、数マイル先の一点を見つめ続け、その視線のせいで私は、自分が何一つ相手を納得させられていないような気分になった。
それでも二人は手紙を書き続け、お互いを称賛し合った。
1996年には、ウォレスが公の場でフランゼンを擁護している。当時フランゼンが『Harper’s』誌に発表した長大な評論「Perchance to Dream」は賛否両論を呼んでいたが、ウォレスはこの文章を、
「芸術をほとんど評価しない文化の中で、本気の芸術を作ろうとすることがどんな気持ちなのかを、これほど率直で親密に描いた文章」
だと高く評価した。
同じ年、フランゼンはウォレスから送られてきた『Infinite Jest』の草稿を読んで衝撃を受ける。
彼は言う。
あの原稿は私を仕事へ向かわせた。競争相手がいると、人は仕事をするものだからだ。
その結果生まれたのが、出世作となる『The Corrections』である。
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しかしウォレスは、『Infinite Jest』以降、長編小説をもう一冊も完成させることはなかった。短編集やルポルタージュを書き続け、未完の原稿は死後『The Pale King』として出版される。そして2008年9月、自宅裏庭で首を吊って自殺した。
フランゼンは後に、この自殺をどうしても「反則」のように感じてしまったと告白している。それは二人の作家同士の競争のルールを破るものだった。
彼はこう書く。
「ようやくまた仕事に集中しようとしていた矢先に、デイヴが自殺してしまった。
『おい、本当にそんなことをするのか?
それは反則だろう。』
と思った。」
二年後、『Freedom』を書き終えたフランゼンは、『Farther Away』を書き始める。彼自身、この文章は、
「私が愛していた人の、おぞましい自殺と向き合うため」
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『Farther Away』は複数のテーマを一本に束ねた奇妙なエッセイである。『ロビンソン・クルーソー』の読解。小説史の概説。インターネット論。そして、ウォレスの遺灰を撒くために南太平洋のマサフエラ島を訪れ、珍しい鳥を探す旅。
その中でも最も物議を醸した部分で、フランゼンは、ウォレスの死後形成された「礼賛一色の物語」に異議を唱える。
フランゼンによれば、ウォレスは信頼できない友人であり、競争心が強く、意地悪でもあった。
ある時ウォレスは恋人に非常にひどいことを言った。また別の日には、サインを頼まれた自著のタイトルページに、自分の勃起した性器の輪郭を描いたという。
さらにフランゼンは、ウォレスは極端な自己没入型の人間であり、周囲の世界から喜びを感じ取る能力に乏しかったとも書く。
ある日二人がカリフォルニア州スティンソン・ビーチ近くを車で走っていた時、フランゼンは望遠鏡をウォレスに渡し、
「すごい鳥だ」
ウォレスは礼儀として軽くうなずいただけで、あからさまに退屈そうな様子で視線を逸らした。
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そしてフランゼンは、ウォレスの自殺そのものについても、世間があまり触れたがらない側面をあえて強調する。ウォレスは抗うつ薬をやめたが、その理由は「自分が永久に病人であると認めたくないという自己愛的な拒否反応」だった、とフランゼンは述べる。さらにウォレスは少なくとも四種類もの自殺方法を考えており、最終的には「自分を最も愛してくれていた人々に最大限の苦痛を与えるような方法で自殺した」と書く。
もちろんフランゼンは、ウォレスが重いうつ病に苦しみ、耐え難い痛みの中にいたことは認めている。しかし、それだけでは終わらない。彼はさらに、自分にはどうしても拭えない疑念があると言う。ウォレスは「自殺をキャリア上の一手として考えた可能性がある」のではないか、と。
もちろん、それはウォレス自身が最も嫌悪していた計算高さでもあった。フランゼンはこう書く。もし誰かがその可能性をウォレス本人に突きつければ、最初は否定しただろう。しかし、「いや、でも君にもそういう面はあるだろう」と言われ続ければ、最後には「ああ……そうだな。確かに自分にはそういうことを考える能力はある」と認めたはずだ、と。
『Farther Away』は当然ながら激しい反発を招いた。「死者への冒涜」「墓荒らし」という批判が浴びせられ、翌年にはすでに「悪名高い失敗作」と当然のように呼ばれるようになっていた。こうした反応は理解できる。実際、この文章には弁護しがたい箇所も少なくない。多くの人は、自分が友人と呼んだ人物について、あのようなことを活字にはしないだろう。
しかし著者は、「それでも、この文章は単なる悪口ではない」と論じる。なぜなら、これは現代アメリカを代表する小説家が、愛したもう一人の小説家を、文学的にも個人的にも理解しようとして書いた、極めて珍しい批評だからである。フランゼン自身、『The Discomfort Zone』『How to Be Alone』といった回想録を書いた人物であり、自分の文章がどのような受け止められ方をするかは十分承知していたはずだ。それでも彼は出版した。なぜなのか。彼は何を伝えようとしたのか。
その答えは、『Farther Away』の中心にある文学論にある。
それまでウォレスについて論じる人々は、「作品と自殺を結びつけてはいけない」という暗黙のルールを守っていた。つまり、ウォレスの小説を論じる際に、「なぜ彼は死を望んだのか」という問題には踏み込まないようにしていたのである。しかしフランゼンは、この禁忌をあえて破る。しかも意図的に。
理由は明確だった。彼は、ウォレスの生き方そのものが、彼の小説を理解する鍵だと考えていたからである。
フランゼンは『Farther Away』の中で、小説には大きく二種類あると論じる。それは、二種類の人間から生まれる。一人目の男――仮に「ジョン」としよう――は、世界を見て、他人を見る。もう一人――仮に「デイヴ」としよう――は、世界を見ても、結局は自分しか見ていない。
もし二人とも小説家なら、前者は社会小説を書く。後者は自己の小説を書く。
この観点から見ると、『Farther Away』で語られる数々の私的エピソードも、単なる暴露ではない。少なくとも批評的には、それらは一つの文学的主張を支える証拠なのである。
その主張とは、「私たちの人生に意味を与える最も重要なものの一つである、親密で愛情ある人間関係は、ウォレスの小説世界には存在しない」ということだ。
しかしフランゼンは、単に「ウォレスの小説には親密な人間関係がない」と指摘するだけでは終わらない。彼はさらに一歩踏み込んで、価値判断を下す。
「自己の小説」は、結局のところ自己賛美の小説でもある。その題材は「どこまでも興味深い自己」であり、最終的に到達する場所もまた「自己」でしかない、と彼は言う。
フランゼンは、ウォレスの作品に漂う自己愛的な視線や語り口を、実験的モダニズム作家――たとえばフランツ・カフカやセーレン・キェルケゴール――に見られる極端な自己省察の系譜へと位置づける。そして、ウォレスが現実でも見せていた反社会的な振る舞いと、その文学的傾向を結びつける。
長年にわたるうつ病との闘い。そして最後には凄惨な自殺。これらはすべて、「極端に個人主義的な魂」が最後にたどり着く場所を示す証拠であるかのように提示される。
フランゼン自身の言葉を借りれば、自己という島は、おぞましい場所である。そして、ウォレスはその島に住んでいた。読者もまた、その島へ近づくなら覚悟が必要だ、と彼は暗に語っている。
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一方で『Farther Away』には、文学史を振り返る長い議論も織り込まれている。その目的は明快である。「自己の小説」には別の選択肢があることを示すためだ。
フランゼンによれば、社会小説家たちは、「どこまでも興味深い自己」ではなく、「終わることなく興味深い、人間関係という危険」を書いてきた。小説という形式を生み出したサミュエル・リチャードソン以来、優れた社会小説家たちは、人間関係こそが「自己という島から脱出する唯一の方法」だと理解してきた。
だから彼らの小説では、孤独だった人物が、誰かを愛することによって変化していく。そして読者もまた、「愛によって孤独を乗り越えた人々の心の中へ入っていける」のである。
この議論は不快だと思う人もいるだろう。しかし、単に「趣味が悪い」と切り捨てられるものではない、と著者は述べる。『Farther Away』には粗さもある。配慮を欠く部分もある。それでも、このエッセイには一つ重要な前進があった。
それは、フランゼンとウォレスの違いを、初めて文学観・人生観の違いとして真正面から論じたことである。
これまで二人の違いは、リアリズムかポストモダニズムか。文体の違いか。実験性か。そうした形式論ばかりで語られてきた。しかしフランゼンは、問題はそこではないと言う。
本当の違いとは、読者にどのような価値観を提示し、どのような人生を目指すよう促しているか、なのだ。
つまり、二人の違いは、文学技法ではなく哲学の違いなのである。
ここで著者は次の問いへ進む。では、フランゼン自身の哲学とは何なのか。
では、フランゼンの小説を支えている哲学とは何だろうか。彼の小説には、「よく生きる」とは何かについてのビジョンがあるのだろうか。
『Farther Away』の議論だけを読めば、その答えはすぐに見つかるように思える。それは、「親密で愛情ある人間関係」である。
確かにフランゼンの小説は、人間関係について書かれている。夫婦。親子。恋人。そして個人と国家との関係。
しかし意外なことに、彼の登場人物たちにとって、その「人間関係という危険」は、ほとんど乗り越えられないものとして描かれている。
フランゼンが繰り返し語る物語は、人間関係に理想を抱いた男が、その理想を現実によって少しずつ失っていく、という物語である。
彼の登場人物たちは、仲間や成功を求めて社会へ踏み出す。しかし最後には、苦味と失望、そして運が良ければ、人間というものの偽善について少しだけ賢くなる、という結末にたどり着く。
デビュー作『The Twenty-Seventh City』では、主人公マーティン・プロブストは、家庭にも仕事にも満足した幸福な男として登場する。しかし物語の終わりでは、彼は家族を失い、一人でセントルイスを離れて高速道路を走る。そのとき彼は、「自分は、実は好きでもなかった世界に生きていたことを、今になってようやく知った」と悟る。
第二作『Strong Motion』でも同じである。主人公ルイス・ホランドは、愛よりも憎しみによって孤独を深めていく。物語は一応希望を残して終わるが、彼は最後まで、「豚のような欲深さと愚かさと不正義が、日に日に勢力を広げていくアメリカ」に対する疎外感を消すことができない。
つまりフランゼン作品では、人間関係から距離を置き、やがて社会そのものから退いていくことこそが、最も典型的な運動なのである。
第二作『Strong Motion』でも同じである。主人公ルイス・ホランドは、愛よりも憎しみによって孤独を深めていく。物語は一応希望を残して終わるが、彼は最後まで、「豚のような欲深さと愚かさと不正義が、日に日に勢力を広げていくアメリカ」に対する疎外感を消すことができない。
つまりフランゼン作品では、人間関係から距離を置き、やがて社会そのものから退いていくことこそが、最も典型的な運動なのである。
しかも彼の作品では、アメリカそのものが一人の登場人物のように扱われる。主人公たちは、祖国と激しく愛憎入り混じった関係を結ぶ。
フランゼンの登場人物は、必ずアメリカ社会へ関わり、その中で汚され、堕落し、そして最後にはそこから身を引いていく。
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この視点から見ると、小説は単なる「より深いジャーナリズム」である必要はないし、科学が理想とする客観性に従う義務もない。ヴァージニア・ウルフは有名なエッセイ『Modern Fiction(現代小説)』で、私たちが求めているのは単なる勇気や誠実さではなく、「唯物論者」と呼ばれる作家たちとは対照的に、ジョイスは精神の作家なのだと書いている。
評論家は、この言葉を借りながらウォレスを位置づける。ウォレスの「自己の小説」とは何なのか。それは、近代的な精神的自伝(spiritual autobiography)が現代に生まれ変わった姿ではないか。その系譜には、キルケゴール、プルースト、ジョイス、ヴァージニア・ウルフ、カフカ、ベケット、そしてハロルド・ブロドキーが連なっている。
彼らが抱えていた問題は、「現代人は混乱しているから現実に適応させよう」というものではなかった。そうではなく、「現代人は渇いている。だから魂を潤さなければならない」というものだった。つまり彼らは、私たちが当然のものとして受け入れている「現実主義」そのものから私たちを目覚めさせようとしていたのである。それは限界を受け入れさせるためではない。限界の向こう側へ目を向けさせるためだった。なぜなら、人間とは本質的に精神的な存在だからである。
「私の中には、でたらめでも子どもじみてもいない、深いものがあった。それは抽象的なものではなく、服や自己イメージなんかよりもずっと現実的で、ほとんど神聖と言っていいほど輝いていた。本気でそう言っている。話を大げさにしたいわけではない。」
今日、このような「深み」について真面目に語ることがいかに難しいか。フォーグルがわざわざ「本気で言っている」と断らなければならないこと自体が、その難しさを物語っている。だからこそ彼の百ページに及ぶ独白は長く続くのであり、ウォレスの小説全体もまた、既存の型には簡単には収まらない。
評論家は最後にこう締めくくる。「最も現実的なものとは何か」。ウォレスのような作家は、その問いを小説によって探究しようとした。一方でリアリストは、その答えをすでに知っているかのように振る舞うことが多い。
『Freedom』について書いた評論で、批評家キース・ゲッセンは「リアリズムは結局いつでも勝つ」と称賛した。『Freedom』の支持者の多くも同じ考えだった。長く続いた実験文学の時代は終わり、リアリズムの勝利が証明されたのだ、と。
評論家も、『Freedom』が本格的なリアリズム小説がなお書けることを示した点は認めている。しかし、それによって証明されたのは、リアリズムがリアリズムの仕事を果たせるということだけである。それは、ウォレスのような実験的文学が果たしてきた役割まで代替できることを意味しない。
リアリズムは、私たちに社会や人間の限界を理解させることはできる。しかしウォレスの文学が目指したのは、それとは別のものだった。彼は、私たちを現実のもう一つの次元へ、美的にも精神的にも目覚めさせようとしていたのである。
もちろん、そのような文学は現代ではますます理解されにくくなっている。現実の政策や社会問題から距離を置くため、「ナルシシズム」「狂気」「大げさ」「エリート主義」と批判されることも多い。
ゲッセンは「リアリズムは必ず勝つ」と言った。しかし、おそらく正しい言い方はこうだろう。
しかし二十世紀文学が教えているのは、最も遠い場所から出発した作家たちこそ、最も長く読み継がれるということなのである。
男性作家の虐待的な行為を、彼らの芸術の一部として扱うのをやめるべきだ
サラ・リバック
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#MeToo運動が停滞しているのではないかと思っていた人がいるなら、ここ数週間の出来事がそうではないことを示している。
4月26日、ビル・コスビーは加重わいせつ暴行の3つの罪状で有罪判決を受けた。
5月4日には、ノーベル文学賞を授与する機関であるスウェーデン・アカデミーが、同組織内部での性的暴行調査を受け、今年は文学賞を授与しないと発表した。
その翌日には、尊敬を集めるラテン系作家ジュノ・ディアスが、性的 misconduct(不適切な性的行為)への告発を受け、シドニー・ライターズ・フェスティバルへの参加を取りやめた。
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先月、私はディアスが書いた長い『ニューヨーカー』誌のエッセイを読んだ。
そこでは、彼が子どもの頃に性的虐待を受けた経験について詳しく語っている。
特に印象的だったのは、彼が自分に起きたことと向き合ってきた過程、そして現在ではその経験の影響に支配される存在ではなくなったことについて書いていた点だった。
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ディアスはこう書いている。
「私はかつての自分ではない。
女の子に触れることもできない兄でもないし、女性関係を乱す最低な男でもない。
私は週に2回セラピーを受けている。……
私は自分の嘘や選択によって人を傷つけることはしない。そして可能な限り償いをしている。私は責任を引き受けている」
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このエッセイの目的は、多くの意味で、ある種の区切りや終結を作り出すことだったように思える。
しかし、その過程でディアスは、自分自身の行動の全体像を認めることを怠った。
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先週金曜日、3人の女性が、ディアスから虐待や暴力を受けた経験について声を上げた。
アメリカ人作家ジンジ・クレモンズは、26歳だった時にディアスから無理やりキスをされたと証言した。
劇作家モニカ・バーンは、意見の相違があった際、ディアスが彼女の顔に向かって「レイプ」という言葉を叫んだ会合について詳しく語った。
作家カルメン・マリア・マチャドは、ディアスが自身の作品についての公開討論の場で攻撃的かつ防衛的な態度を取ったことについて、長く語っている。
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これらの告発は、ディアスの作品を読んできた多くの読者に認知的不協和を引き起こした。
私たちは、彼の作品の価値がどの程度維持されるのか、問い直さざるを得なくなった。
間違いなく、今後もディアスの作家としての才能や卓越性、そして彼が女性たちに虐待的な行為をしていたと知ることになったファンの悲しみについて、議論は続くだろう。
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しかし率直に言えば、私はもう、好きな芸術家に告発が出るたびに繰り返される、
という議論に伴う苦悩や逡巡には疲れている。
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重要なのは、ディアスが女性たちに暴力的な行為をしたということだ。
彼は女性たちに侵害されたと感じさせ、安全ではないと感じさせた。
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彼の文章の文学的価値や文化的重要性は、文学界に存在する、ほとんど支配的とも言える女性嫌悪にどう対処するかという議論において、何の重みも持たない。
今重要なのは、複数の女性たちが勇気を持って声を上げたということだ。
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ディアスがシドニー・ライターズ・フェスティバルへの参加を取りやめた日、『ジェゼベル』誌には、詩人メアリー・カーが尊敬されるアメリカ人作家デイヴィッド・フォスター・ウォレスから受けた虐待について、繰り返し公に語ってきたことを扱った記事が掲載された。
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ディアスとウォレスをめぐる両方の議論で、私が最も興味深いと感じたのは、
彼らによる女性への虐待が、芸術を生み出すために必要な媒介として扱われていることだ。
彼らの作品の輝きが、女性嫌悪や虐待を正当化しているのである。
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虐待的な芸術家という存在が、文学界の内外で受け入れられた規範――ある種の典型的な人物像――になってしまったことは、さらに憂慮すべきことである。
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『Bad Feminist』の著者ロクサーヌ・ゲイは、ディアスへの告発についてTwitterでこう書いた。
「この作品のファンが、ここからどう進めばいいのか私は分からない。
でも、『ジュノ・ディアスはキャンセルされた』と言うだけでは十分ではない、ということは分かっている。なぜなら、それでは女性嫌悪も、文学界が女性を犠牲にして権力を持つ男性を守ってきた仕組みもなくならないからだ」
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ゲイの考え方は、ディアスやウォレスのような作家を再検討することを求めている。
それは、彼らの作品の「天才性」を理由に、芸術と芸術家を切り離すことを拒む再検討である。
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私自身について言えば、
私は「芸術的天才」や才能という名のもとで、他者の苦痛やトラウマを軽視する自分の一部、そして自分が受けてきた教育の一部を拒絶する。
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そして、愛したり尊敬したりしている芸術家が同じような行動を取ったと知った時に感じるためらい。
私はそれらすべてを拒む。
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今、私が本当に苦しみを感じるのは、
ジンジ・クレモンズ、モニカ・バーン、カルメン・マリア・マチャドのような女性たちに対してである。
彼女たちは痛みと屈辱を経験し、声を上げることのできなかったすべての人々のために声を届けるという役割を背負うことで、貴重な時間を失った。
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1990年の秋、『インフィニット・ジェスト』を出版する何年も前のこと、デイヴィッド・フォスター・ウォレスはボストンのエマーソン・カレッジで非常勤講師として教え始めた。
D・T・マックスが伝記『Every Love Story Is a Ghost Story』で書いているように、この時期のウォレスの状況は決して良いものではなかった。当時の彼は精神的に不安定で、最新の短編集『Girl with Curious Hair(奇妙な髪の少女)』をひどく恥じていた。エマーソンの英文学科がその本の広告を掲示したとき、彼はそれを引き剥がしたほどだった。
そして教える仕事も、彼が自分の文学や社会全体に対して抱えていた問題から彼を救うものにはならなかった。ジョナサン・フランゼンへの手紙の中で、彼は学生たちを「幼児」と呼んでいる。
「彼らの頭を支えてやるために、ほとんど首を抱いてやらなければならないほどだ」
若者たちは単にテレビの手軽な魅力に夢中になりすぎていたのだろうか。マックスはこう書いている。
彼が教えていた学生たちは、問題が自分の想像していた以上に深刻だと感じさせた。彼らは短編「My Appearance(私の出演)」の中で彼が想像した「レターマン世代」だった。自分たちの物知りぶりを誇りにしている世代だ。
「みんな“テレビ専攻”なんだよ。そんなものが何を意味するのか分からないけどね」と彼はデイヴィッド・マークソンに不満を漏らした。そして、デリーロの小説(どの作品かは彼は書いていない)によって学生たちを「挫折させた」ことで、学科から注意を受けたと付け加えた。彼がその小説で意図していたのは、学生たちを目覚めさせることだったのだが……。
ウォレスは、自分がエマーソンに長く留まりたいとは思っていないことを分かっていた。
それでも、テレビ文化に精通していたため、ウォレスは学生たちの間で人気があった。そして少なくとも一人の学生は、その「挫折させるような」デリーロ体験によって勇気づけられた。
その学生とは、今週全米公開された最新作『インヒアレント・ヴァイス』の監督、ポール・トーマス・アンダーソンである。
昨日、マーク・マロンのポッドキャスト番組『WTF』の新エピソードで、アンダーソンは高等教育に対してウォレスと似たような不満を抱き、大学を卒業していない自身の経験を語りながら、ウォレスとの時間について長く話した。彼はウォレスを深く敬愛していた。
「エマーソンにいたあの一年、当時はまだ有名ではなかった偉大な作家デイヴィッド・フォスター・ウォレスが僕の先生だった。英語の先生だったんだ……。彼は僕が初めて恋をした先生だった。これまで通ったどの学校でも、あんな人には出会ったことがなかった。
だから学校とか教育制度について悪く言うことにはすごくためらいがある。結局どこも同じなんだと思う。もし良い先生を見つけられるなら、学校っていうものはきっと素晴らしいものになると思う」
「じゃあ、なぜ君はそこに残らなかったの?」とマロンが尋ねる。
「彼が辞めたから」とアンダーソンは答える。そして続ける。
「一度彼に電話したことがある。彼は電話番号を教えることにとても気前がよかった。“何か質問があったら電話してくれ”と言ってくれて、僕は何度か電話したんだ。
書いていた論文について、いくつかアイデアを聞いてもらった。ドン・デリーロの『ホワイト・ノイズ』についての論文を書いていたんだ……。
いくつか突拍子もないアイデアを思いついて、それについて話したんだけど、会話の内容はよく覚えていない。ただ、締め切り前日の真夜中みたいな時間にも、彼が本当に親切に対応してくれたことだけは覚えている……。
ウォレスが学生時代のアンダーソンをどう評価していたのか、あるいはそもそも彼を教えたことを覚えていたのか、私たちには永遠に分からない。
しかし『Every Love Story Is a Ghost Story』によれば、少なくともウォレスはアンダーソンの映画を知っていた。彼は『ブギーナイツ』のファンで、友人に「あれはまさに自分が書きたかった物語だ」と語っていたという。(後にウォレス自身もエッセイ「Big Red Son」でポルノ業界について書くことになる。)
一方で『マグノリア』については、それほど熱狂しなかった。彼はこの作品を気取っていて、中身がなく、「悪い意味で100%大学院生っぽい(gradschoolish)」ものだと感じていた。
ただ、アンダーソン自身もおそらくその評価には反論しないだろう。『WTF』のインタビューで、彼はもし現在この映画を作るなら編集を完全に変えるだろうと認めている。
「自分自身をちゃんと編集していなかったんだ。長すぎる。あまりにもクソ長い」
スティーヴ・ポールソンが、『David Foster Wallaceの言葉にできない失敗(The Unspeakable Failures of David Foster Wallace)』の著者クレア・ヘイズ=ブレイディに、#MeToo時代における故作家の遺産について話を聞く。
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長年にわたる賞賛の後、デイヴィッド・フォスター・ウォレスはいま、再評価の時期を迎えている。
彼の自殺から10年を迎える中で、女性への虐待的な扱いについて新たな証言が表面化し、彼の文学的遺産はいま揺さぶられている。
ウォレスは「リット・ブロ文化(lit-bro culture)」の象徴になった。
そして#MeToo時代において、一部の批評家たちは真剣に問いかけている。
「私たちはもう彼の本を読むのをやめるべきなのか?」
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ウォレスには今なお熱狂的なファンが存在し、『Infinite Jest』やその他の作品を扱うカンファレンスまで開催されている。
しかし彼は、これまでになく厳しい批評的検証にさらされている。
そして、それは重要なことだとクレア・ヘイズ=ブレイディは言う。
彼女は『The Unspeakable Failures of David Foster Wallace』の著者であり、ダブリン大学トリニティ・カレッジのアメリカ文学研究者だ。
彼女は「ウォレス研究の世界におけるロックスター」と呼ばれることもある。
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ヘイズ=ブレイディは、ウォレスの人生と作品について複雑で慎重な視点を持っている。
彼の女性蔑視(ミソジニー)を認めながらも、同時に彼を同世代で最も偉大な作家だと考えている。
だから彼女は、彼の作品を無視するのではなく、向き合い、問い直したいと思っている。
彼女の考えでは、それこそ文学的正典(カノン)に入った作家に対して批評家が行うべきことなのだ。
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私はヘイズ=ブレイディに、ウォレスの問題を抱えた男性性、男性天才という神話、そしてなぜ私たちは「人格的に立派な作家」だけを読むべきではないのかについて話を聞いた。
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デイヴィッド・フォスター・ウォレスは、もはや単純に「文学的天才」と呼ばれる存在ではありません。
何が変わったのでしょうか?
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いくつか異なることが同時に起きていると思います。
彼は亡くなった時点で、まさに才能の絶頂期にいました。
そのため死後しばらくの初期段階では、彼を称賛する動きが中心で、批評はほとんど聖人伝のようなものになっていました。
だから現在起きていることは、批評的な土台を整える作業なのだと思います。
つまり「ウォレス研究」を正当な学問分野として確立することです。
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ポールソン:
つまり、一人の作家デイヴィッド・フォスター・ウォレスに特化した批評研究の蓄積があるということですか?
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ヘイズ=ブレイディ:
そうです。
その研究者コミュニティは巨大ではありませんが、「Wallace Studies(ウォレス研究)」という言葉自体は、確か2009年にグレッグ・カーライルがウォレス初期研究会議の一つで使ったのが最初だったと思います。
当時はある種の願望を込めた表現でした。
つまり、
ウォレスはウルフやジョイス、エリオット、オースティンと同じくらい重要な作家であり、彼のための研究分野を持つべきだ
という考えです。
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ポールソン:
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ヘイズ=ブレイディ:
なぜなら、批評的な反動は避けられないものでしたし、必要なものでもあったからです。
彼のファンであるかどうかに関係なく、彼が同世代にとって非常に重要な作家だったことを否定するのは難しい。
しかし、批評家が一生をかけて「この人はどれほど素晴らしいか」だけを語り続けることはできません。
それは技術的な欠点の場合もありますし、道徳的・倫理的な欠点の場合もあります。
そしてそれによって、ウォレス研究は本当の意味で活性化しています。
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では次に、
「何がそれほど素晴らしくないのか」
について話そう、という段階に来たのです。
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ポールソン:
その倫理的な問題は、彼の作品よりも人生についてのもののように思えます。
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ヘイズ=ブレイディ:
そうです。
ウォレスの場合、タイミングが興味深いのは、作家メアリー・カーが最近、ウォレスとの関係や彼から受けた扱いについてツイートしたことです。
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メアリー・カーは自身も非常に評価された作家で、かつてウォレスと恋愛関係にありました。
「シングルマザーだった私にデイヴィッド・フォスター・ウォレスが加えた暴力は、彼の伝記作家や『ニューヨーカー』によって“疑惑”として無視された。彼の手書きの手紙を私が持っているにもかかわらず」
その中でマックスは、ウォレスが「コーヒーテーブルを投げた」ことや、「走行中の車から彼女を押し出そうとした」ことについて触れています。
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「銃を買おうとした。私を蹴った。夜中に家の側面をよじ登ってきた。5歳だった息子が学校から帰るところをつけてきた。電話番号を2回変えなければならなかった。それでも彼は番号を手に入れた。何か月も何か月も続いた」
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そして、どうやら彼はカーの夫を殺すための銃を買うことまで提案していたという。
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ヘイズ=ブレイディ:
本当に、本当にひどいことです。
ただ、一つ私が異議を唱えたい点があります。
それは、カーが使った「無視された(ignored)」という言葉です。
なぜなら、それらのことはマックスの伝記にも含まれているからです。
もちろん、すべてが書かれているわけではありません。
同じ詳細さで記述されているわけでもありません。
彼女の夫を殺すために銃を買おうとしたという話も含めて。
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しかし、私が興味深いと思うのは、それが「天才神話」の中に組み込まれてしまったことです。
つまり、
「苦悩する天才が取った行動」
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ポールソン:
そして、おそらく彼は見逃されていた。
なぜなら、これこそが苦悩する天才というものだ、と考えられていたから。
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ヘイズ=ブレイディ:
その通りです。
文化的には、それを隠そうとするのではなく、むしろこう言ってしまう傾向があります。
あるいは、
と。
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カーが再び声を上げたことは、とても勇気のあることだったと思います。
このことは実際に起きた。
そして忘れられるべきではない、と。
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ポールソン:
デイヴィッド・フォスター・ウォレスは女性蔑視者(ミソジニスト)だったのでしょうか?
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ヘイズ=ブレイディ:
短い答えを言えば、はい。
ただし、私は女性蔑視者ではない人を知りません。
私たちは、女性の成果や欲望を低く評価するように、生まれた時から教えられる文化の中で生きています。
だから、現代社会の中で生きながら、ある程度の意味で女性蔑視的ではない人間になることは不可能だと思います。
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ポールソン:
しかし、明らかにもっと深刻な女性蔑視のケースもありますよね。
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ヘイズ=ブレイディ:
あります。
そして、芸術家の女性蔑視や人種差別について話す時には、別の問題も生じます。
これは昔からある問いです。
そうです。
私は、それこそが彼の文章で私たちが気づくものの一つだと思います。
彼がどれほど自覚的で、さらには自己批判的だったかということです。
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ポールソン:
彼が『Brief Interviews with Hideous Men(醜悪な男たちの短いインタビュー)』という本を書いたことは注目に値します。
彼は明らかに有害な男性性(トキシック・マスキュリニティ)を認識していた。
そして、おそらく自分自身の中にも。
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ヘイズ=ブレイディ:
その通りです。
そして彼は、その本における女性蔑視について具体的に語っています。
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だから、彼がジェンダー政治を理解していたことは否定できません。
また、彼が書いていた時代は、ジェンダー政治やフェミニズムが大きく変化していた時代でした。
その議論に気づかないでいるには、耳も目も塞ぎ、岩の下に住んでいる必要があるでしょう。
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ポールソン:
もしかすると、それがウォレスの魅力の一部なのかもしれません。
彼は彼らを理解していた。
なぜなら、彼は本当にひどいこともしたからです。
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ヘイズ=ブレイディ:
もちろんです。
しかし、作品を読むために、その行動を正当化する必要があるとは思いません。
私は、非常に才能のある作家であるウォレスと、非常に欠点の多い人間であるウォレス、その両方を見ることで、彼が書いた文化について多くを学べると思います。
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彼は現代文化について、非常に独特な声と鋭い洞察力で書きました。
そして私は、現在という時代について、彼の視点から聞く価値のあることがたくさんあると思います。
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ポールソン:
なぜなら、彼はある種の問題を非常に先取りしていたからですね。
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ヘイズ=ブレイディ:
そうです。
私はちょうど『Infinite Jest』に登場する「テレピューター(teleputer)」について話していました。
それだけではありません。
SnapchatやInstagram、そして私たちが社会に見せる顔を作るために使うフィルターのようなものまで予測していました。
つまり、
現実に生きている自分の顔に似ているけれど、完全には同じではない顔を社会へ提示する仕組みです。
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ウォレスは、それを驚くほど詳細に予見していました。
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インターネットの一部には、
『Infinite Jest』の登場人物ジョニー・ジェントルによって、ウォレスはトランプを予言していた
という説を唱える人々もいます。
興味がある人は調べてみるといいでしょう。
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ヘイズ=ブレイディ:
なぜなら、もしあなたが幸運にも、自分自身で授業を作り、シラバスを設計できる立場にいるなら、ある作家を外したところで、誰もそれに気づかないからです。
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しかし、ある作家を含めないことは――その理由について語る場合を除けば――目に見える批評的行為ではありません。
そして、その理由について語るのであれば、結局その作家を扱ったほうがいい。
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批評家として、特に教師としてそのようなことをすると、議論を二極化してしまうと思います。
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実際、ウォレスを研究している若手の女性研究者で、ウォレスを研究しているというだけで、別のフェミニスト研究者から強く批判された人たちを私は知っています。
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だから、そのような「門番」のようなルールは、批評という観点から見ると、とても逆効果だと思います。
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ポールソン:
あなたは授業でデイヴィッド・フォスター・ウォレスを教えていると思います。
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ヘイズ=ブレイディ:
皆さんが想像するほど頻繁ではありません。
もちろん教えています。
ただ、彼だけを中心に据えた授業を持っているわけではありません。
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むしろ、あまり声を聞かれてこなかった作家たちと並べて読むことです。
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例えば私は、ウォレスをポロチスタ・カクプールと一緒に読みます。
彼女はイラン系アメリカ人作家で、ウォレスを影響源の一つとして挙げています。
そして、
彼女の作品がウォレスからどう生まれ、またウォレスにどう挑戦しているのか。
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と言うなら、
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そして彼は、欠陥のある立場から、欠陥のある人間について書いています。
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彼を読み、問い直し、本気で作品に挑戦すること。
それによって、私たちが生きている文化について、そして10年後の今、そこから抜け出そうとしている文化について、多くを学ぶことができます。
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もし私たちが、人格的に完全に善良な作家による芸術作品だけを読むなら、世界はかなり退屈な場所になるでしょう。
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もちろん、
「彼のすべてがひどい」
と言うために読むわけではありません。
そうではなく、
そこに何が価値として残っているのかを見るために読むのです。
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その際には、ウォレスが暴力的なパートナーであり、単純に受け入れられない行動をした人物だったという事実を認識しなければならない。
それを許してはいけない。
見過ごしてはいけない。
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しかし文化的には、彼の作品との対話を完全に拒否することで、私たちはさらに議論を孤立化し、二極化させる危険があります。
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おそらくこれは逃げなのかもしれません。
分かりません。
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(終)
アフリカ系アメリカ系MtFプラスサイズダンサーが、ダンスで欧米や世界を魅了してのし上がっていくドラマが見たいな。
日本中のダンスが好きな抑圧された視聴者が勇気をもらえる。シャルウィーダンスの欧米版をヨーロッパ系特権シスヘテロ定型層が演技してる場合じゃないよ。
検索の仕方が悪いのだろうけれど、世の中のテクニックは女性と出会うところは語られないよな。
いくらデートやセックスのノウハウを手に入れても、それを披露する場がないのだ。
その手前の、出会うところは語られない。前に進もうとしているのに一人分の穴を掘り続けている気がする。
本当の非モテは、まず知らない他人、特に異性と出会うことがない。会社と家だけしか出かけるところがなく、たまに出かけてもスーパーなどの出会えるような他人が介在しない買い物しかないのだ。
勇気を出してマチアプをしても、30代の弱者非モテが相手にされることはなく、ロクな写真は選べないし顔も悪いのでマッチングせず、
数カ月に1度マッチしたと思えば、会話が広がることがなく一度も出会えず終わっていく。
追ってる漫画の次週予告ポストに、「とても気になるけどあの表紙の雑誌を買う勇気がない」というポストがついていたので、今週号の表紙を見たら、下乳が出てるエッチなビキニのお姉さんだった。
この表紙は女を避けさせる効果がある。
ついでに子供に買い与えるのを躊躇うし、子供のいる家に放置も気まずいので、親に買ってもらう子供や子持ち客を遠ざける効果もあるだろう。
私も付録ほしさに表紙がお姉さんの時にこの雑誌を買ったことがあったが、中はマスクビキニのさらに際どいグラビアで、子供の目に止まる前に処分した。
連載してる漫画の質の差が一番大きな要因だろうけど、少年誌で一番売れてるのは、グラビアの無いジャンプな時点で、むしろ売り上げ下げてんじゃない?