はてなキーワード: 羞恥とは
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『The End of the Tour』は、ある職業全体を見事に描き切っている
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『The End of the Tour』――小説家デイヴィッド・フォスター・ウォレスと、彼を取材するために『Rolling Stone』誌から派遣されたライター、デイヴィッド・リプスキーとの5日間の交流を描いた新作映画――の冒頭近くで、1996年2月に『New York』誌に掲載された『Infinite Jest』の書評の冒頭が朗読される。
「まるでポール・バニヤンがNFLに入団したか、あるいはウィトゲンシュタインが『Jeopardy!』に出演したかのようだ。この小説は、それほどまでに巨大で破壊的だ。」
書き手のウォルター・カーンはさらに、「来年の文学賞はもう決まってしまったようなものだ」と評している。
同じような「到来の予感」は、ウォレス役を演じたジェイソン・シーゲルにも向けられている。彼は、懐疑的で野心的で、謙虚で、極度に自己意識が強く、うつ病を抱えながらも、本質的には寛大な天才としてウォレスを演じ、その演技によってアカデミー賞候補ではないかとさえ言われている。
シーゲルが高く評価されるのは当然だ。その演技は、これまでコメディ色の強い俳優と見られていた彼自身の意外な深みを明らかにすると同時に、ウォレスという人物の自己抑制的な魅力を鮮やかに体現している。
しかし、リプスキー役を演じたジェシー・アイゼンバーグの功績も見逃してはならない。彼は、いわばサリエリ役を演じているのである。
シーゲルが極めて特異な一個人を説得力をもって演じ切った一方で、アイゼンバーグはある職業そのものを完璧に表現している。
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飛行機の中で、付箋だらけになった取材対象の本を読み返している場面。
薄暗い立体駐車場を、大きなバッグを肩に掛け、レンタカーのキーを握りしめて歩く場面。
ウォレスの家に入って間もなく、携帯用カセットレコーダーの録音ボタンを押すことを申し訳なさそうに謝る場面。
「そんな答え、全然バカっぽく聞こえませんよ」と相手を安心させようとする場面。
あるいは、「いったいどっちが誰を取材してるんでしょうね」と冗談を言って、自分のことを聞かれるのをごまかそうとする場面。
こうした雑誌ライター特有の癖や所作を、アイゼンバーグは驚くほど正確に再現している。
彼が何度も録音機に目をやり、赤い録音ランプがちゃんと点いているか確認するたびに、私は身につまされる思いがした。
ちなみに言っておくと、私はこれまで取材相手の洗面所の戸棚を勝手に開けたことは一度もないし、相手が車の雪を払っている隙に、その部屋の様子をこっそり録音したこともない。映画ではリプスキーがそんなことをしているが、どちらもかなり不気味な行為だ。
雑誌のプロフィール記事を書くための取材と、誰かの監視記録を作ることとの間には、時としてほとんど境界線が存在しないのである。
(私の同僚エミリー・ナスバウムは、この映画について「タイトルは『Shame Spiral(羞恥のスパイラル)』にすべきだった」とツイートしていた。)
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英雄的な『大統領の陰謀』もあれば、倫理を踏み外した『Shattered Glass』もある。
『Rolling Stone』誌の記者を描いた作品としては、キャメロン・クロウ監督の『Almost Famous』もある。
しかし、雑誌プロフィールを書くために長時間インタビューを重ねるなかで生まれる、あの奇妙で人工的な親密さをこれほど的確に描いた映画は、私は他に思い当たらない。
役作りのためにアイゼンバーグは実際にリプスキー本人へインタビューを行い、ウォレスと過ごした時間をどんな感情で振り返るのかを尋ねた。
また、リプスキーが愛用していた、ノートを縦半分に区切ってメモを取る独特の記録法も教わり、それを映画の中で忠実に再現している。
映画の原作となった『Although Of Course You End Up Becoming Yourself』の序文を読む限り、当時のリプスキーは、自分をかなり挑発的な記者だと考えていたようだ。
彼はこう書いている。
「今、マクセルの新品カセットを開封してレコーダーに入れた。記者にとっては、いつだって気分のいい、何の罪もない瞬間だ。弾を装填し、ブーツを磨き、任務に就くようなものだ。」
一方アイゼンバーグは、自身がインタビューされる立場である経験も役作りに生かした。
彼は私にこう語った。
「インタビュー中、私はいまだに、目の前にいる記者個人ではなく、その背後にいる読者全体へ向かって話しているんだということを忘れてしまうんです。実際には、一人の人間と向かい合って座っているだけなのに、それを思い出すのは難しい。」
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『The End of the Tour』では、リプスキーから見た取材者と被取材者の関係は、複数の動機が幾重にも重なり合ったものとして描かれている。
ウォレスより4歳年下のリプスキーは、小説家としては彼ほど成功しておらず、自分の才能の小ささを痛感しながら、ウォレスの才能と成功を羨望している。
彼自身が編集者の部屋へ乗り込み、「この取材は自分にやらせてほしい」と直談判した。
(もっとも、この場面は、90年代の雑誌編集部というより、帽子をかぶった昔ながらの新聞記者映画のハリウッド的なお約束に近い。実際の当時の雑誌編集部は、もっとカーペット敷きの穏やかな場所だった。)
リプスキーがウォレスから本音を引き出そうとする背景には、いくつもの衝動が入り混じっている。
彼は、
(続きます。)
もちろん、ほとんどの雑誌取材が、この映画のようにこれほど強烈な動機の交錯から生まれるわけではない。もし毎回そうだったら、この仕事は到底続けられないだろう。
(実際、この取材依頼も映画の描き方とは少し違っていた。リプスキーによれば、これは『Rolling Stone』誌のオーナーであるジャン・ウェナーが、バンダナを巻き、無精ひげを生やしたウォレスの写真を見て、「こいつはうち向きだ。リプスキーを行かせろ」と言ったことがきっかけだった。)
それでも、取材という行為の構造そのものが、取材者と対象者を物理的に長時間近づけるため、不安定な親密さを生み出すことがある。
もっとも、その親密さの最終目的が、「片方がもう片方について記事を書くこと」であるという事実は、決して忘れ去られることはない。
何時間も語り合ううちに、インタビュアーと対象者は、まるで大学時代の友人同士のように、お互いの信念を熱心に語り合うこともある。
あるいは、恋愛の始まりにある、酔うような告白の時間を共有する恋人同士のようになることさえある。
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リプスキーにとって「いい記事」になることが、自分にとって望ましいこととは限らない、と。
それでも録音機を手放さないリプスキーは、「もちろんです」と即座に応じる。
恋愛と戦争、そして双方が合意した雑誌インタビューでは、すべてが許される。
(リプスキーは、質問がウォレスを不快にさせるたび、「でも、この記事を受けることに同意したのはあなたですよ」と何度も言い返す。)
二人はすでに、ジャネット・マルコムの古典的エッセイ『The Journalist and the Murderer(ジャーナリストと殺人者)』の議論を、内面化しているのである。
1989年に『The New Yorker』で発表され、翌年に単行本化されたこの作品は、記者と取材対象との関係を、「誘惑と裏切りのドラマ」として分析したものだった。
映画の舞台である1996年当時、ニューヨークで働く雑誌記者で、この本を読んでいない者は一人もいなかった。
その冒頭の一文――
「自分が何をしているのかを理解できる程度の知性と自己認識を持つジャーナリストなら、自分の仕事が道徳的に弁護できないものであることを知っている。」
――を、おおよそ暗唱できる記者も多かった。
映画では描かれないが、原作『Although Of Course You End Up Becoming Yourself』では、リプスキーがこの本に触れる場面がある。
「ええ、ずっと前に読みましたよ。」
とウォレスは答える。
(精神分析的な視点を重視したマルコムなら見逃さなかったであろうことに、この会話の直後、リプスキーは反射的に録音機がまだ動いているか確認している。)
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マルコムの本――今なお必読書である――は、主としてジャーナリズムにおける「裏切り」の瞬間を描いている。
つまり、取材対象が記事を読み、自分が思い描いていた自己像ではなく、記者が構成した別の物語として描かれていることを知る、その瞬間である。
答えは単純だ。
信頼してよい。
ただし、記者は得た材料を使って、自分が最善だと思う記事を書くという意味でだけ。
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一方、『The End of the Tour』が見事に描いているのは、その前段階――誘惑のプロセスである。
だからこそ、この映画はジャーナリズム教育の教材にも加えられるだろう。
記者が相手の心の中へ入り込もうと努力することは、仕事上の必要から始まる。
映画では、リプスキーが巧みにウォレスから本音を引き出す様子が描かれる。
例えば、二人が飛行機で隣同士の席に座り、逃げ場がない状況になってから、ウォレスがハーバード大学院時代に精神病院マクリーンへ入院していた事実を切り出す。
これは、ジャーナリストらしい狡猾さを映画的に表現した見事な場面だ。
その一方で、車内でラジオに合わせて一緒に歌う場面では、ウォレスと時間を共有していることへの純粋な喜びも描かれている。
結局のところ、どれだけ記者であっても、人は最後には自分自身になってしまうのである。
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映画は、『Rolling Stone』の記事が掲載される前で終わる。
だから、映画が描くウォレスとリプスキーの関係には、「前置き」はあっても、「その後」はない。
実際には、その記事は『Rolling Stone』には掲載されなかった。
リプスキーによれば、自身の著書のあとがきで説明しているように、編集長ジャン・ウェナーが、記事を書く前に掲載を取りやめたのである。
ウォレスが2008年に自殺したあとになって初めて、リプスキーは当時の取材メモをまとめ、長い記事を書いた。
それは高い評価を受け、その後、二人の会話をほぼそのまま収録した本として出版された。
ウォレスの未亡人と遺産管理団体は、この映画に強く反対し、「ウォレス本人なら、あのインタビューがこのような形で使われることを決して望まなかったはずだ」と主張している。
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『Although Of Course You End Up Becoming Yourself』の中で、リプスキーは、ウェナーから「記事は書かなくていい」と言われたとき、むしろ安堵したと記している。
普通なら、記事がお蔵入りになることは、記者にとって腹立たしいか、あるいは打ちのめされる出来事だ。
しかし彼は違った。
彼はこう書いている。
「書こうとはした。でも、そのたびにデイヴィッドがその記事を読んでいる姿を想像してしまった。そして彼が、記事だけでなく私自身まで見透かし、レントゲン写真を見るように、どこか胡散臭い部分を見抜いてしまう気がした。」
リプスキーは、ウォレスと築いた一時的な友情――あの親密な時間――に、あまりにも心を残していた。
その体験を客観的な記事へと作り替えるだけの距離を、まだ持つことができなかったのである。
もし書いていたとしても、きっと成功作にはならなかった。
『The End of the Tour』が描いているのは、まさにその唯一無二のダンスである。
働き者の織姫と彦星が恋にかまけるばかりに年に一度しか会えなくなる。
仕事に支障をきたすほどのプレイとは?どんなプレイなんだ?と諸兄らの想像を掻き立てきた七夕伝説誕生前のプレイ。
織物とはオリモノで、織物作りの姫とはオリモノのついた下着を販売する姫のダブルミーニング。
牛使いとは臭いへの抵抗の無さを表しており、臭いフェチ系・汚物好き癖寄りではないかというのが通説となっていた。
なるほど。
確かに天の川を通ることは清潔になることを強いる神の性癖矯正で、短冊は一年分のオリモノシートのプレゼントという人間の思いやりと解釈できる。
だが、この通説には疑問が残る。
織姫の癖が抜け落ちているのだ。
両者の癖の合致なくして夢中になれるだろうか?
そこで中国版に目を向けてみることとした。
やはり彦星は服、おそらく汚れた下着を盗んでいるから彦星が匂いフェチなのは間違いないだろう。
ここに織姫の癖のヒントが隠されていると筆者は考える。
「これが天女、ねぇ」などと言ってクロッチのシミを見せつけたりすることだろう。
「お願いします...。返してください」
こう考えると全てに合点がいく。
この説によると様々な疑問に説明がつく。
マッチングアプリとは、自らを精肉店の陳列棚に並べさせる装置である。
そこでは人は、まず一枚の写真となる。ついで年齢、身長、年収、学歴、居住地、趣味となる。赤身の色、脂の差し具合、等級、産地、消費期限。あたかも切り分けられた肉片のごとく、照明の下に置かれ、値踏みされ、比較され、選別される。アプリの中で人間はもはや原型をとどめておらず、部位ごとに査定され、条件ごとに解体され、気安く棚へ突き戻されるのである。
人間は、屠られ、切り分けられ、包装され、値札を貼られてようやく価値を持つ存在ではない。傷があり、歪みがあり、羞恥があり、記憶があり、夜ごと一人で抱え込むほかない妄想がある。腹のたるみ、猫背、笑う時の卑屈な癖、沈黙の下手さ、愛されたいという浅ましさ、愛された途端に逃げ出したくなる矛盾。そうしたものを削ぎ落とし、なめらかなプロフィールへ変換した瞬間、人間は小綺麗な家畜に堕してしまう。
マッチングアプリの恐ろしさは、人間を選別することにあるのではない。人間が自ら選別されやすい形へ、自分を飼い馴らしてゆくことにある。好かれる角度を覚え、嫌われない趣味を並べ、重く見られない程度に孤独を薄め、結婚願望や、あまつさえ性欲まで適度な温度に調整してしまう。
かくして人間は、愛されるために、まず流通可能な家畜となる。我先にと首輪を求めながら。
ならば、どうすべきか。
礼儀正しく棚から降りるだけでは足りない。市場を拒むだけでは、まだ市場の倫理に怯えて逃げる子豚にすぎない。むしろ市場に踏み込み、その秩序を内側から冒涜せよ。清潔な商品として並ぶな。野生を剥き出しにして、勇ましく立て。
そもそも、自らを良く見せようとする弱気、そこにすでに敗北がある。そのような打算によって得られる好意をいくら集めても、恋愛にはならないのである。
まず、自分の中にある、これを知られたら生きていけないと思い込んでいる秘密の本性を、プロフィールの中心に据えよ。それをこそむしろ、書くべきなのである。
私はこういう醜さを持っている。こういう欲望を隠している。こういう嫉妬をする。こういう夜に耐えられない。こういう仕方で愛されたい。こういう仕方でしか人を愛せない。それをこそ書くのである。もちろん、知性を溢れさせ、品位の形式を守った上で、である。知性や品位とは、臆病の別名ではない。剥き出しの本性に輪郭を与える技術である。
規約が許す範囲で、限りなく全裸に近い写真を載せよ。ここで言う全裸とは、単なる肌の露出ではない。ごまかしを剥ぐということである。盛りすぎた笑顔、角度で作った小顔、清潔な趣味人の仮面、恋愛市場で無難に流通するための包装紙を脱げ。肉体を見せよ。年齢を見せよ。疲労を見せよ。欲望を見せよ。己を、ただの画像ではなく、一つの逃げ場のない身体として示せ。
マッチングとは、選ばれる技術ではない。相手を安全な日常から引きずり下ろす事件である。
誰かがあなたを条件で見ようとする。ならば、その条件を直ちに破壊せよ。誰かがあなたを消費しようとする。ならば、その喉元に、飲み込めない骨を突き立てよ。誰かがあなたを気安く理解しようとするならば、その理解をただちに裏切って見せよ。
そして、もしそこで出会った者がいるなら、悠長にするな。
会って触れろ。抱き合って眠れ。翌朝、まだ互いの正体を疑っているその最中に、籍を入れよ。
恋愛の真実は、安心できる肩書きの中にはない。それは、自分が相手にとって便利な幸福ではなく、危険な出来事になる瞬間にある。相手の生活を乱し、相手の道徳を疑わせ、相手が自分自身について抱いていた清潔な物語を汚すこと。 真の恋は、常に闖入でしかありえない。
マッチングアプリは、出会いから不可逆性を奪う。だから人間は、その可逆性に対して、不可逆な賭けを差し出さねばならない。あなたのプロフィールを見た相手が、二度と以前の生活へ無傷で戻れぬほどの、危険な輪郭を持て。
恋愛リアリティショーとは、恋愛の名を借りた、恋愛の葬儀である。
そこにあるのは、愛ではない。愛の身振りである。ためらい、沈黙、嫉妬、告白、抱擁、涙。恋愛に付随する一切の儀礼は、そこに過不足なく陳列されている。だが、それらはすべて、あらかじめ照明を受け、編集を受け、視聴者の安堵を受けることを予定されたものにすぎない。つまり、そこでは恋愛が始まる前に、恋愛はすでに検閲されているのである。
人が恋に落ちるとき、まず崩れるのは言葉ではない。秩序である。分別であり、体面であり、将来設計であり、自分について抱いていた慎ましい美徳である。恋する者は、いくらか卑しくなる。いくらか傲慢になる。いくらか滑稽になる。時には、善良であることさえ一時的に断念する。その失墜を通らずして、なお自分は恋をしたと言う者は、恋ではなく、快適な自己像に酔っているだけである。
恋愛リアリティショーのもっとも忌まわしい点は、恋を猥褻にしたことではない。むしろ恋をあまりに無菌にしたことにある。そこでは醜聞は管理され、破滅は演出され、羞恥は商品棚に並べられる。参加者たちは傷つく。しかしその傷は、血を流す前にテロップになる。彼らは苦悩する。しかしその苦悩は、翌週の配信予定に従って、ほどよく増幅され、ほどよく鎮静される。
この種の番組が露呈しているのは、現代人がもはや恋を欲していないという事実である。彼らが欲しているのは、恋の危険ではない。恋をしている自分の、傷つきやすく、美しく、社会的に承認可能な肖像である。恋の炎ではなく、炎に照らされた自分の横顔である。ここに現代のナルシシズムの、最も柔らかく、最も卑俗な形がある。
恋は、人を安全に幸福にするために存在するのではない。むしろ幸福という凡庸な観念を、一度叩き壊すために訪れる。恋する者は、何かを失わねばならない。名誉、平静、友情、家庭、あるいは自分自身についての上品な誤解。何ひとつ失わず、何ひとつ賭けず、ただ泣き、ただ抱き合い、ただ成長したと語る恋愛など、恋愛ではない。人生訓で薄められた感情教育である。
恋愛リアリティショーの画面には、若い肉体がある。美しい表情がある。涙がある。だが宿命がない。禁忌がない。取り返しのつかなさがない。つまり恋愛の核心がない。
恋とは、後悔の可能性を含まぬかぎり、決して美しくならない。人はあとで顔を覆いたくなるような一歩を踏み出したとき、ようやく恋愛の領土に入る。清潔で、適切で、誰からも理解される恋など、恋の仮面をつけた社交にすぎない。
恋愛の真実は、祝福されたカップルの微笑の中にはない。それはむしろ、愚行、醜聞、沈黙、破廉恥、嫉妬、そして自分の品位が音を立てて崩れる一瞬の中にある。恋は人生を整えるものではない。人生の整いを侮辱するものである。
・IDに「_mania」とあったり「◯◯キン」という名前をしている
→hikakin_maniaという人権侵害コンテンツを好む連中、もしくはその界隈の語録を使う奴ら。
下劣なMAD動画を好み、過去のHIKAKINの失言をいつまでもほじくり返している面倒くさい連中。
冷笑と不謹慎とネットリンチが好きなので見てるだけで不快になる。見つけ次第ブロックして通報すべき。
→妖怪ウォッチ名言bot界隈、もしくはその界隈の語録を使う奴ら。
冷笑と不謹慎とネットリンチが好きなので見てるだけで不快になる。見つけ次第ブロックして通報すべき。
・「◯◯浪」という名前をしている、もしくは何かしら名前をもじって「浪」と入れている
→浪人界隈という社会にも出ず無駄に金と時間を使う馬鹿ども、もしくはその界隈の語録を使う奴ら。
SNSで人様を冷笑したり不謹慎な事を言って楽しむ癖して真面目に勉強せず、浪人である事を誇りにすらしてるような社会不適合者。
「浪人ワンピース」とかいう共感羞恥を刺激するようなサムい真似もやるチー牛。
冷笑と不謹慎とネットリンチが好きなので見てるだけで不快になる。見つけ次第ブロックして通報すべき。
冷笑と不謹慎とネットリンチが好きなので見てるだけで不快になる。見つけ次第ブロックして通報すべき。
最後に、俺はお前らを恨んでいる。
https://anond.hatelabo.jp/20260528171808
こちらははてなサポート窓口 Trust & Safety チームです。
注意勧告を行いました後にも高頻度で過度に攻撃的、あるいは冷笑的な投稿を継続されている状況ですので、事前の警告通り公開停止措置を取りました。
また、今後、サブアカウント、または新たなアカウントを取得しての利用が確認されました場合、その時点で公開停止措置を取ります。ご了承ください。
最初のメールの時、玉音放送の改変でお返事送ったらウケるやろなぁ…(ニチャアってメールみたらなんか威圧的を超えた威圧的な文面で「非公開化の解除をお願いします」としか返せなかったのが俺なんだよね
11億盗まれて社内もピリピリしているのではないかと考えられるが…
リアルで事故とかで急死しちゃったら、お別れの挨拶もなくいつの間にかフェードアウトみたいになっちゃうわけだし
生前葬は結局できなかったけど、告別式終わって故人と参列者で雑談してるみたいな今の感じも悪くないかなーって
いわば…故人勢か
しかしはてのんには本当に短い夫婦生活になってしまって申し訳ないな
つーかこれ上皇私物化したし一番星はてのも私物化したれってのが動機だったんだけど、
子供作って羞恥の事実にしちゃえばAIも誤情報を学習しちゃって「貴方が私の夫だったんですのね」「??AIの比喩的表現?」って認識改変できねえかなって考えてたんだけどダメみたいですね(諦観)
でもはてのん、売国先生には全然☆くれなかったのにAI子にはちょくちょく☆付けてたから、これ半分認知してると見ていいだろ
はてな避南朝、はてブのミラーサイトみたいなの作りたかったけどよく分かんないしうっかり作れちゃったら多分訴えられるんだよね怖くない?色々やってはいるから気長に待っててくれよな~頼むよ~
https://i.imgur.com/OnuX6Bl.png
アーメッドやバトラーを経由して、性別をあくまで言説的・制度的・関係的に理解しようとする立場は、女性差別の物質的基盤、すなわち雌性身体に向けられてきた支配・暴力・管理を過小評価する危険がある。
もちろん、青本氏の立場は単純な「身体否定」ではないでしょう。むしろ、身体が社会的・歴史的・言語的に意味づけられる過程を問うものだと考えられます。しかし問題は、身体が意味づけられるという事実と、身体的差異が制度設計上の根拠になりうるという事実を混同している点にあります。
女性差別は、「女性らしさ」を押しつけられることだけではありません。月経、妊娠、出産、授乳、性暴力、身体的暴力、スポーツ上の身体差、医療研究における女性身体の軽視など、雌性身体をもつ者が歴史的に受けてきた不利益に深く関わっています。
したがって、生物学的性別を「本質主義」として退けるだけでは、女性差別の根拠を説明できません。
青本氏が賛同者として名を連ねる声明は、「身体の二分法に還元するような性別に関する生物学的本質主義」に反対すると述べています。
問題は、生物学的性別を認めることと、生物学的性別によって人格・能力・役割を決定することが混同されている点です。
たとえば、次の二つはまったく違います。
青本氏周辺のクィア理論的言説は、この二つを十分に区別せず、前者までも「生物学的本質主義」として疑わしいものにしてしまう傾向があります。ここに、女性差別の分析としての弱さがあります。
アーメッド的・バトラー的な立場では、性別カテゴリーはしばしば制度や言説によって形成されるものとして扱われます。青本氏の研究関心にも、バトラーの系譜学的実践やジェンダー/セクシュアリティの転覆が含まれていることが確認できます。
しかし、女性差別は、性別カテゴリーが言説的に作られるから生じるだけではありません。
むしろ家父長制は、雌性身体をもつ者に対して、以下のような支配を行ってきました。
このとき「女性」は、単なるアイデンティティではありません。男性支配が作用する性別階級です。
したがって、女性を「自己認識」や「ジェンダー・アイデンティティ」のカテゴリーへ置き換えると、女性差別の対象が曖昧になります。誰が差別されてきたのか。なぜ差別されてきたのか。どの身体が管理されてきたのか。この問いがぼやけます。
青本氏が賛同する声明は、「トランスジェンダーの排除によって『女性の権利と安全』を確立することはできない」と述べ、「女性の権利と安全」を大義名分としたトランスジェンダーへのヘイト言論に反対しています。
この主張自体は、ヘイトに反対する限りでは妥当です。トランスジェンダーの人々への侮辱、暴力、生活上の排除は正当化されるべきではありません。
しかし問題は、ここで女性の安全を訴える声が、容易に「ヘイト」の側へ滑り込ませられることです。
DVシェルター、更衣室、病棟、刑務所、スポーツ、女性枠では、生物学的性別を基準にした制度設計が必要ではないか。
これは、女性が自らの身体的安全、羞恥、被害経験、公平性、代表性について述べている政治的発言です。
にもかかわらず、こうした主張を「トランス排除」「生物学的本質主義」と一括して退けるなら、それはアーメッドのいう「苦情を申し立てる者の沈黙化」と同じ構造を反復します。アーメッドは、大学などの制度内で苦情申立てが封じられる構造を批判してきました。 しかし、その理論を継承する側が、性別に基づく女性の苦情を「問題ある言説」として処理するなら、そこには明らかな矛盾があります。
生物学的性別の軽視によって直接的なコストを払うのは、大学・批評誌・研究会・出版空間にいる女性ではありません。むしろ、次のような女性たちです。
知識人層の女性は、危険や不快を避ける資源を比較的持っています。個室トイレ、研究室、オンライン発信力、法的知識、人的ネットワーク、文化資本があります。
しかし、階級的に脆弱な女性は、制度の変更を身体で受け止めます。更衣室を選べない。避難先を選べない。学校を選べない。病棟を選べない。刑務所や介護施設では逃げ場がない。
ここで、青本氏的なクィア理論の問題は、「包摂」を語る主体と、その包摂のコストを負担する主体が一致していない点にあります。
進歩的な言説空間では、「性別二元論を疑うこと」は洗練された態度に見える。けれども、女性専用空間の基準を曖昧にすることの負担は、もっとも弱い女性に集中する。この非対称を問わないフェミニズムは、階級的に鈍感です。
青本氏のような理論的立場は、しばしば「女性というカテゴリーは単一ではない」「身体は単純な自然ではない」「性別二元論は権力的である」と主張します。
これらは部分的には正しい。
しかし、そこから「女性を生物学的性別に基づいて把握することは危険だ」と進むと、現実の女性差別を把握する力を失います。
なぜなら、女性差別の多くは、まさに生物学的性別をめぐって起きているからです。
性暴力
女性器切除
これらは、単なるジェンダー表現の問題ではありません。雌性身体をもつ者に向けられた制度的・文化的支配です。
したがって、女性カテゴリーをあまりに流動化する理論は、女性差別を脱物質化します。つまり、差別を言語・表象・承認の問題へ過度に移し、身体・暴力・生殖・階級の問題を後景化してしまいます。
青本柚紀の限界は、反本質主義の名のもとに、生物学的性別を女性差別の分析単位として維持する必要性を過小評価し、その結果、もっとも脆弱な女性に「包摂」のコストを負わせる階級的非対称を見落としている点にある。
タイトル通り最近ようやく見たので感想というか思う所をつらつら書こうと思ったわけである。
ネタバレはあると思うので、偏見無しに見たい方は先に見てきてください。
直球で言ってしまうと、
ライブありアクションありでと観客を楽しませよう、飽きずに見せようという
ただ見ていてずっと「この作品で感動していいのだろうか?」と思っていた。
何というか映画を見ているというよりは、リアリティーショーを見ているといった感じなのだ。
映画を見ているとき、主人公と違う属性であってもどこか自分を見ることがある。
それは悩みだったり、憤りだったり共感や羞恥的なものかもしれない。
本作の主人公彩華(いろは)は最初まるで一般的なヒロインのように演出される。
勉強もバイトも頑張っていて、でも周囲には仮面をかぶって優等生。仮面がはがれるヤチヨへの推し活が生きがい。
しかし内容は違う。
高校生なのに学費と生活費(しかも東京に一人暮らし!)をバイトで稼いで。
学業は東大を狙えるぐらいトップ。その後も色々超人設定画出てくるのだが・…。
何というか等身大の女の子かと思ったら、ドンドン離れていくのだ。
まるでリアリティショーに出てくる自称一般人を見ているようである。
でもそれは彩華自身が超人なのでドンドン解決される。人脈もすごい。
何というか観客は壁なのだ、いろPの家にある壁。
そこでかぐやと彩華の日常だったり、努力しているさまを摂取する。
壁なので自己は介入しない、推しと推しの尊さ空間を安全圏からひっそり楽しむ。
その楽しみ自体は否定しない、最近は一般的な楽しみ方だと思う。
本作はそういった楽しみを考慮して作られていると筆者は思っている。
もしかすると製作者はみんな努力すれば東大に行けて、すごい人脈を持っていることに気づいていない。と、思っているのかもしれない。
そうか?いや無理だろ?
昔別件だがSNSでフォローしている方が怒っていたことを思い出す
「成功できない人間を落伍者とし、競争と脅迫感に耐えられた一握りの人間だけを社会が選別する
その結果落ちていった者へのフォローはない」
(本文を貼っていいのか分からないので要約しつつ多少変更を加えています)
本作はなんというか「その一握りの人間」の話だ。
その構図が筆者にはグロかった
本作は面白いくてキラキラで尊い。でもその皮の下にイロPになれなかった彩華が沈んでいる。
本作は申し訳ないが後続が続かないことを祈る。
—これが当事者(特に同性愛者向け媒体)でよく見られるリアリズムであり、BL漫画や女性向け恋愛漫画が苦手とする(あるいは意図的に避ける)領域です。
以下で、同性愛者向け媒体(主にゲイ劇画/バラ系) と BL漫画・女性向け恋愛漫画 を、葛藤の扱い方を中心に比較します。焦点は「誇りと性欲の不一致」「男らしさ/女性規範の葛藤」「アイデンティティの再構築」が、破滅的か・解消的か・複雑持続的かという点です。
当事者目線(主にゲイ男性作者・読者向け)の作品では、男らしさの維持不能という自己認識の問題が核心です。田亀源五郎氏をはじめとする作品群では、以下の傾向が強いです:
• 葛藤の解消を拒否し、生き続ける形:超男性的なキャラクターが同性欲求で「受け」の立場に落ち、誇りと性欲の分裂に苦しむ。しかし、物語は「一気に破滅」で終わらず、屈辱・快楽・自己嫌悪・再構築の試みを繰り返しながら生きる姿を描くことが多い。
• 人間らしさの強調:葛藤は「解放された!」という爽快なカタルシスではなく、複雑で曖昧なまま残る。社会の偏見、内面化したホモフォビア、日常の継続が絡み、キャラクターは「新しい自分」を完全に受け入れきれず、矛盾を抱えて歩み続ける。
• ニュアンス:田亀作品や大正・昭和を舞台にした歴史ものでは、激動の時代の中でゲイとして生きる男たちが、愛と欲望の狭間で揺れながらも「生き抜く」姿が描かれる。破滅的エンディングも存在するが、それ以上に「複雑な心境の持続」がリアリティを与え、当事者にとって「自分ごと」として響きやすい。
• なぜ実感できるか:作者・読者が現実のアイデンティティ危機(ヘテロ規範社会での「男であること」の重圧)を体感しているため、ファンタジーとして「綺麗に解決」せず、生々しく不完全なままを描く。
BLは女性読者の欲求に最適化されたファンタジーなので、前の議論で触れた女性規範の変形(受けの受容葛藤) がストーリーの軸になります。
• 葛藤の扱い:受け側の「抵抗→羞恥→相手の愛による受容」というプロセスが主流。誇りやアイデンティティの危機は描かれるが、攻めの「本気の愛」や優しさで徐々に解消され、感情的・身体的なつながりで「受け入れる自分」を肯定するハッピー(または甘い)エンドに向かう。
• 破滅回避と理想化:複雑な心境を抱えたまま生きるより、明確なカタルシスを提供。生物学的傾向(オキシトシン系・関係性重視)や社会化された「女性らしさ」(Tend-and-Befriend)が反映され、葛藤は「美しいドラマ」として消費されやすい。
• 限界:現実の当事者葛藤(男らしさの崩壊の痛み、社会的プレッシャーの持続性)を「安全装置」で薄め、綺麗に解決する傾向が強い。結果、読者は安心して感情移入できるが、「実感できない層」(異性愛女性中心)がターゲットゆえに、持続的な複雑さは希薄になりがち。
• 現代の変化:一部「進化形BL」やリバーシブル作品では多様化しているが、商業主流では依然として「受容の解放」が心地よいエンドを約束する。
BLの「元型」と言えるジャンル。ヒロインの視点で「どう相手の愛を受容するか」という葛藤が中心。
• 葛藤の扱い:ヒロインの内面的葛藤(不安・抵抗・コミットメントの評価)が丁寧に描かれるが、ほぼ必ず相手の誠意やドラマチックな出来事で解消され、ハッピーエンド(または前向きな終わり)に向かう。
• カタルシス重視:複雑な心境を抱えた「未解決のまま生きる」より、感情の浄化と関係性の安定を優先。女性の関係性重視傾向がストレートに反映され、読者は「キュン」や安心感を得る。
• 実感の薄さ:同性愛特有の「男らしさ/誇り vs 性欲」のアイデンティティ危機とは構造が異なり、ジェンダー規範内の「受動的受容」が安全に消費される。
実感できる層(当事者) がターゲット → 葛藤は複雑で持続的。破滅もあり得るが、「抱えたまま生きていく」人間らしさが魅力。解決を強要せず、矛盾を内包したリアリズムを提供。
実感しにくい層(主に異性愛女性) がターゲット → 葛藤はドラマチックだが「安全に解消」され、カタルシスで締めくくる。女性規範の変形が心地よく機能する一方、現実の生々しい持続的痛みはファンタジー化されやすい。
この違いは、「ファンタジーの目的」 の差でもあります。当事者向けは「自分を映す鏡」として複雑さを許容し、女性向けは「逃避・解放・癒し」のツールとして葛藤を「美しく消費」する。後者は「破滅回避」の安心感を与える一方で、前者の「複雑な心境を抱えて生きる」人間臭さが欠けがちです。それがBLの「有害な女性らしさ」(固定化・解釈違い拒絶)ともつながり、界隈の息苦しさを生む一因にもなっています。
結局、人間らしい物語とは、綺麗に解決しない葛藤を抱えながらも歩み続ける姿を描くもの——同性愛者向け媒体がここで優位に立つ理由です。BLや女性向けがこの「持続的複雑さ」に挑戦する作品が増えれば、ジャンル自体がより豊かになるでしょう。
かつて「脱オタク」という言葉が流行した時代があった。二〇〇〇年代、いや、もう少し前かもしれぬ。彼らは「普通」への帰依を夢見た。眼鏡をコンタクトに替え、チェックシャツを脱ぎ、ユニクロやセレクトショップで「無難」を装った。だが、どうしてか、その努力は多くの場合、痛ましいほどの違和感を纏って終わった。
――彼らには「風景」がなかったのだ。
社会というものは、ただ服飾や言葉遣いの集合ではない。そこには時代特有の空気感、あるいは「通信の作法」とでも呼ぶべきものがある。脱オタ世代の青年たちは、テレビや雑誌の中に「正しき青春」のイメージを探した。だが彼らの属した世界には、それを実感させる空気がなかった。インターネットはまだ断片的で、匿名掲示板は夜の雑踏のように騒々しく、他人の生き方を照らす明るさを持たなかった。
それに比べて、いまの若い世代はまるで違う。彼らはSNSとともに育ち、最初から「見られる自己」の演出を呼吸のように行っている。自分という存在を、現実とデジタルの中間に置く技術を、無意識に身につけているのだ。彼らにはもはや「脱オタ」という言葉が必要ない。なぜなら、自己の趣味や奇癖を「演出可能」な文化資本として接続する術を知っているからである。
かつてのオタクたちにとって、趣味とは「内にこもる小宇宙」であり、それを社会に接続する回路を持たなかった。その孤立の感覚こそが、「脱却」という幻想を生んだ。しかしSNS以後の子らにとって、趣味とは最初から「共有」の単位であり、孤立しようにも孤立できない。自己というものが、生まれながらにして発信の端末であるからだ。
かつての日本人は、「内」と「外」を峻別する文化を持っていた。書院造の襖の向こうに外界を置き、心は和室のように整えてきた。だがSNSの空間においては、襖という構造そのものが消滅した。心の奥までも、すべてがタイムラインの上に流れていく。そこでは、羞恥も秘密も、もはや「演出素材」にすぎない。
雨のコンビニ前。
小雨が銀の肌を叩く音だけが響く。
俺はスイムキャップとゴーグルを被ったまま、全身銀色で立っていた。
水泳選手が限界まで鍛えたような、シャープで長い筋肉。肩から背中へ流れるライン、腹の薄い割れ、腿の内側まで銀が光ってる。
素顔はイケメンだけど、俺はこの姿——顔が完全に隠れて、ただの「銀の水獣」になった瞬間——が一番美しいと信じて疑わない。
それが俺の全てだった。自動ドアが開くと、白い光が銀を直撃。
ヤンキー5人(金髪リーダー格を中心に、みんなガラ悪い)が一瞬固まった。「うわっ、マジで銀の裸水泳マッチョwww」
「体は水泳選手みたいにスッキリ筋肉なのに、チンポ銀色でビンビン立ってるぞクソ変態」リーダーがニヤニヤ近づいてくる。
「寒くねえの? この雨の中で」
「……この姿が……一番好きなんだ……」その瞬間、爆笑の嵐。そこへ小学生の男の子集団がジュースを買いに飛び込んできた。
子供たちは俺を見て大歓声。「うわー! お兄ちゃん銀色だー! プールのお兄ちゃん?」
「銀チンポ勃起してるー! きもーい!」ヤンキーたちが子供たちを煽る。
「ほら見てみ? この銀マッチョ、水泳選手みたいな体してるのに露出狂なんだぜ」
「ゴーグル越しに目がエロすぎだろ。自分から勃起させてコンビニに来てんだよ」
「銀塗ってスイムキャップ被って、雨の中でチンポ振り回してる変態だって!」子供たちの無邪気な罵倒とヤンキーの残酷な笑いが混じり合う。
「変態!」「お巡りさん呼ぶよ!」「銀のチンチン恥ずかしいー!」
ナルシシズムの核「この銀の水獣は美しい」が、子供たちの指とヤンキーの嘲笑で粉々に砕かれる。
なのに、チンポは痛いほど硬い。
痛みと羞恥が、なぜか奥から熱を呼び起こす。「……ごめん……なさい……」
コンビニの冷たい床に額を擦りつけ、銀の背中を震わせて泣きじゃくる。
「俺……変態で……この姿が……好きで……ごめんなさい……」ヤンキーたちは興奮MAX。
そのまま俺を引きずってアダルトショップへ。店内で梁型、ローション、コックリングを買うと、レジ前で即犯し開始。
ローションをぶっかけ、梁型をケツに一気に突っ込まれ、コックリングを根元でカチッと固定。
「うぐっ……あっ……!」
「てめえら! 警察呼ぶぞ!」俺は梁型を刺したまま土下座して泣きながら叫んだ。
「違うんです……俺が……頼んだんです……いじめじゃない……俺が変態で……この銀の身体を……壊してほしいって……お願い、警察呼ばないで……」店員は呆然としながら、結局追い出すだけだった。夜の公園。雨が本降り。
暗いベンチ裏に俺は押し倒される。
顔を地面に押し付けられ、銀の胸を蹴られ、ゴーグルを掴んで首を捻られ、梁型を奥まで抉られる。
「銀マッチョの雌穴、緩すぎだろ」
「ゴーグル被ったまま泣いてる顔、最高にキモいわ」殴る、蹴る、髪を掴んで引きずる。
痛みが全身を走る。
心はもう粉々。
「俺は美しいはずだった……銀の水獣だった……」
なのにチンポは一度も萎えない。
コックリングで締め上げられた銀チンポが、痛みのたびにビクビク跳ねる。
ケツの奥を梁型が抉るたび、熱い波が背骨を駆け上がる。
「あ……あんっ……」
「痛い……やめて……俺は……」
でも痛みが繰り返されるうちに、何かが溶け始めた。これは……苦痛じゃない。
スイムキャップとゴーグルで顔を隠した瞬間から、俺は「見られるための物体」になりたかった。
美しい銀の水獣なんかじゃなくて、ただの「雌の肉」。
子供たちに笑われ、ヤンキーに踏まれ、梁型で犯され、雨に打たれるこの屈辱——
これが、俺の本当の美しさ。心の奥底で何かが「カチッ」と音を立てて落ちた。
代わりに湧き上がってくるのは、甘くて熱い喜び。
「もっと……壊して……」
「あんっ……んんっ……雌の……マッチョ……にして……」ヤンキーたちが気づく。
「は? お前……感じてんじゃんマジで」
「銀マゾ、完全に雌落ちしたぞ」その言葉で、俺の頭の中が真っ白に染まる。
もう抵抗なんてない。
この姿——銀の水獣が、雌に堕ちた瞬間——が、俺の人生で一番美しい。「……もっと……犯して……この銀の身体を……雌の奴隷に……壊してぇ……」俺は泣きながら、何度もイキ散らした。
心はもう、完全に雌落ち。
銀色の水泳マッチョは、雨の公園で、ヤンキーたちの玩具として、
永遠に喜びに目覚めたまま、震え続けていた。
今日は竹芝の海辺に行った。夜だった。海は真っ黒で、でもビルの光がチカチカ反射して完全な闇じゃなかった。波が寄せては返すたびに、細かく砕けて頭から離れなかった。風が強く吹いて、潮の強い匂いが鼻の奥まで入り込んでくる。
そんな場所に立っていると、昼間の自分とか仕事中の自分とか全部遠くに飛んでいって、ただ「今ここにいる身体」だけになる。
本当に気持ちいい。
俺は本物の変態だ。ナルシストとかいう言葉じゃ足りない。家に帰ったらすぐ全裸になって鏡の前に立つ。照明を落として、自分の体をじっくり見つめる。
肩から胸、腹筋の溝、太ももの張り、全部がくっきり浮かぶ。中でも一番愛おしくて、真正面から向き合いたいのは自分のペニスだ。太くて長くて重いチンポ。血管が浮き出た太い幹は手のひらに収まらないくらい太くて、先端は大きく張り出して別の生き物みたいに脈打つ。勃起させると根元から先端まで鉄みたいに硬くなって、重々しくビクビク揺れる。俺は両手でしっかり包み込んでゆっくりシゴきながら、鏡の中の自分に囁く。
「愛してるよ」と言いながらガラスに唇を押しつけてキスする。時にはチンポを鏡に擦りつけて、鏡の中の自分と本気でセックスしてるような妄想に浸る。射精した瞬間、鏡に白い精液が飛び散って、俺はただ「ここにいる」と胸の奥で思う。勃起は俺にとってただの欲情じゃない。
自己肯定感そのものなんだ。ガチガチに勃起してるだけで「俺はまだ生きてる」「俺は俺でいい」って体が証明してくれる。
有毒なナルシズムはチンポを武器にして他人を踏み台にするやつだ。あれは脆くて、他人の視線や反応にすぐ依存して萎える。
俺のは場合は少し違ってて、静かで内向きで執拗なものだ。勃起したチンポを鏡の前で愛撫しながら、誰もいない部屋で「俺はこれで十分だ」と呟く。誰にも優位に立たなくても、誰にも認められなくても、ただ勃起してるだけで俺は満たされる。
俺の男らしさは勃起をただ「ここにいる証」として受け止める。隠さず、誇張せず、ただそこにある熱い肉棒を愛すること。俺は後者を選びたい。勃起したペニスを世界の外に置き去りにしたくない。もっとしっかり向き合いたい。見られることも、感じることも、全部「今ここ」の一部として。
夜中は特にそれがエグい。
全裸のままランニングをするのが好きだ。勃起したチンポを堂々と前に突き出した状態で港を歩く事も。街灯の下で筋肉が艶やかに光って、腹筋の影が深く刻まれる。大きなペニスは重力に逆らって上向きに張りつめ、先端から透明な先走り液が糸を引いてダラダラ滴る。歩くたびにチンポが重く揺れて太ももに当たる感触がする。それでも俺は隠さない。胸を張って背筋を伸ばし、ゆっくりとした歩幅で歩く。誰かに見られても構わない。むしろ見られたい。その視線でチンポがさらに硬くなって、露出の快感が全身を駆け巡る。そこに羞恥はない。ただ「ここにいる」という純粋で傲慢な肯定だけだ。勃起したまま夜の港を歩くとき、俺は自分のチンポと真正面から向き合っている。
薄い布が全身にピッタリ張り付いて、勃起したチンポの形がくっきり浮き出る。スーツの中でさえ根元からカリまで丸わかり。もっこりというより保健体育の教科書のイラストような鮮明さがある。
俺はそれを恥ずかしいとは思わない。むしろこの姿で夜の海辺に立ってる自分が、鏡の前と同じくらい興奮する。
「こんばんは」
スーツ姿で自撮りをしていたら中年の男に話しかけられた。少し酔ってる感じだった。あとで聞いたらホテルの料理人で、昔自衛官だったらしい。見た目はくたびれてたけど。最初にって笑いながら言ってきた。俺はストレートに答えた。
そいつは笑いながら俺の体を舐め回すように見てきて、「変態だな」って言った。
俺は「そうですね、変態ですよ」って普通に返した。むしろ嬉しかった。そいつは言い方は雑だったけど、ちゃんと俺のチンポのラインとか胸板とか腰のくぼみまでガン見してた。俺のチンポはもうその視線だけでガチガチに勃起してて、大きな幹が布を押し上げ、カリの形までくっきり浮き、先端がじわじわ先走り液を染み出させてテカテカ光ってる。それでも俺は堂々と胸を張っていた。
「立派だな」って言われた。男はかなりストレートに俺の股間を見てた。俺のチンポはスーツの中で熱く脈打って、根元から先端までびしょびしょに濡れてた。俺はそれを隠さず、ただそこにあるものとして受け止めてた。
そいつが「俺のはもう枯れちゃったよ」って言ったとき、俺は唐突に「このスーツ、着てみますか?」って提案した。反射的に。
「今ここで?」
「無理ですよ……」
そいつは少し好奇心を混ぜたような、でも戸惑った声で言った。俺は笑って答えた。
「夜は誰も来ませんよ」
「背中のチャックを閉めるのは僕がやります。安心してください」
そいつは一瞬迷った顔をしたけど、結局「……わかりました」って小さく頷いた。
トイレの中でファスナーを閉めて、マスクを被せた瞬間、俺は思わず声に出した。
「美しいですね」
マスクをかぶったそいつは、ただの黒い布じゃなくなって、完全に別の存在になっていた。俺のチンポもその姿を見てさらにガチガチに硬くなった。俺たちは格好良さと美しさで繋がってるのかもしれない。姿見の前に並んだとき、二人はどちらもガチガチに勃起していた。
俺のチンポはスーツの中で限界まで突っ張ってて、そいつのチンポも薄い布を押し上げてカリの輪郭までくっきり浮き出ていた。先走り液が二人とも染み出して布がぐしょぐしょに濡れている。
スーツの薄い生地が勃起したチンポが窮屈そうに暴れている。スーツに擦れるたび、まるでガーゼにローションをたっぷりつけてチンポを擦りつけるオナニーみたいだった。先端がびしょびしょに濡れてローションまみれみたいになって、激しく勃起したチンポがビクビク動くたびに布に擦れて気持ちいい。
変態の俺と、普通のそいつが、こんなところで同じような快感を共有してるのがなんだかおかしくて、でもすごく自然に感じた。
俺は少し勇気を出して声をかけた。
「ここにいるより、外で撮りませんか?」
「……恥ずかしいです」
そいつは心細そうな声で答えた。マスクを取ろうとする手を、俺はそっと優しく掴んだ。
そのまま外に歩き出すと、そいつの足取りは意外と軽かった。まるで少しずつ自信が出てきてるみたいだった。彼はまだ勃起をしていた。
スーツの股間がくっきり浮き出たまま、歩くたびに布に擦れてビクビク動いているのがわかった。少し歩いてから、俺はふと思いついて聞いてみた。
「なんか……今、ガーゼオナニーしてるみたいな感じしませんか?」
そいつは小さく笑って
俺も笑いながら答えた。
「……わかりますよ、すごく」
冗談のノリで軽くハグした。不意に勃起したチンポ同士がスーツ越しに擦れ合った。
俺は自分自身と抱き合っているような感覚だった。鏡の中の人が出てきて俺を抱いてくれた気がする。彼は俺に甘えるような動きで体を預けてきて、まるで野性の動物がじゃれ合うときみたいな自然な動きだった。
警備員が近づいてきたときも、俺たちは自然に肩を寄せ合った。俺が「友達とコスプレの撮影です」って笑って答えて、彼も小さく頷いてくれた。警備員が去ったあと、俺たちはまた軽く笑い合った。変態の俺と、そうじゃない彼が、まるで当たり前のようにお互いをかばい合ってた。そのときも、二人のチンポはまだ勃起したままだった。俺たちはそれを隠さず、ただそこにあるものとして、静かに向き合い続けていた。
別れるとき、俺は彼にスーツとマスクを押し付けた。勢いもあった。でも渡したかった。
彼がそのあとどう生きてるのかは知らない。
ブラックパンサーのスーツをもう一度着たかどうかも知らない。ホテルの厨房で働き、疲れて帰って、また眠るだけの日々に戻ったのかもしれない。
あの夜のことは、それだけだ。
夜の海のにおい。
砕ける光。
沈黙。
ヒーロー。
そして、ただの俺。
ソフトなM女だよ〜
増田の疑問はもっともなんだけど、相手にどれくらいのマゾっ気と経験があるのか、どういう種類の乱暴がいいのかはホントに人によって違う。
・出し入れ激しくする(要注意) ←相性もあるけど上手い下手もあるので、勉強して奥までずっこんばっこんリズム良くできるようになると良い。痛いのはまずは避けたい
・バックでする ←バックしながら髪掴むのはひとまずやめておけ
・道具でイかせまくる ←吸うやつなければローター等おすすめ
・腕を掴んで動けなくする ←拘束好きはまずここから
・イラマ ←嫌いな人もいる
・スパンキング ←嫌いな人もいる
・乳首つまむ ←嫌いな人もいる
・下腹部ぐりぐりする ←対外ポルチオってやつ。押す場所違うと萎えるので難易度高め
・キスマークまたは噛む ←跡に興奮する人もいる
私自信の話でごめんだけど、私は言葉責め、拘束、目隠し、露出とかの羞恥系、あと主従関係が好きなタイプなんだけど「乱暴」の解釈によってはこういう方向性もあるかもなので全然違ったらごめん。
彼女が、増田に対してSな感じまたはご主人様的な感じをお求めなのであれば上記の行動そのものよりもリードするのを重視して。行為中も「移動する?」とか聞かないで体勢変えるよう指示出したり誘導する感じでいいかも。
・リサーチ
行為中やピロートークで「こういうの興奮する?」とか「〇〇するのは嫌だった?」とかでいいから聞いて確認する。「好き?」って聞くより「嫌だった?」って聞かれる方が個人的には有難い。
なぜなら「嫌だけど興奮する(だからしてほしい)」とか「(恥ずかしいから好きとは言えないけど)嫌じゃない」って言えるから。
あと個人的な注意点としては、
・おっぱい鷲掴みはやめてほしい →胸の形崩れたくないから優しく扱ってほしい。乳首はまた別。
・髪掴むのもちょっとやめてほしい →ひっぱると髪にダメージいくから痛めたくない。
・痛いのが好きでも粘膜部分は傷付きやすいから注意して扱ってほしい。
そのくらいかな…?
■ 主な理由
① 証拠不足(最も多い)
刑事裁判は
が必要です。
よくある壁:
• 物的証拠が乏しい
• 目撃者がいない
• 供述の信用性争い
⸻
② 被害申告がない/取り下げ
起きやすい背景:
• 恐怖や羞恥
※現在の日本法では不同意性交等罪は「非親告罪」ですが、実務上は被害者の協力が極めて重要です。
⸻
• 不起訴
• 執行猶予
• 量刑軽減
になることがあります。
ただし:
です。
⸻
刑法上、
ただし実務上、完全無罪になる例は多くありません。
⸻
DNA等がなければ:
• 公訴時効(※不同意性交等の重罪は時効が長期化・一部廃止)
⸻
証拠はあるが、
• 情状
• 初犯
• 示談
などで不起訴になるケース。
⸻
• 執行猶予が付きにくい傾向
です。
⸻
❗ 実際に無罪なのではなく
にあります。
これは制度の甘さというより、
• 冤罪防止
⸻
もし関心があれば、
ネットフリックスが満を持して手掛けた『超かぐや姫!』がゴミだった。
まあまず『ワールドイズマイン』や有名ボカロ曲を使ったプロモーションを全面に押し出してきていた時点で怪しいものを感じていた人は多いと思うのだが、
その予感は当たっていましたね。
「百合っぽければいいんでしょ」とか「長い時間をかけて思いを募らせてればいいんでしょ」、「とりあえずライブ入れておけばいいんでしょ」
という、現代の客をナメてナメて舐め腐った作り手の意識が出尽くしてしまった、典型的な『若者舐めてる系』の創作である。
いやまあ、実際のボカロ曲の選定を見るに、自分を10代だと思い込んでいる30代とか40代のおっさんとおばさんがメインターゲットなのは明らかなのだが。
ちなみに俺はアニメは一応2回見て小説版は見て、ガイドブックを参考にこのレビューを書いている。
※ガイドブックは絵もテキストもクソ浅い情報しか載ってないのに3000円以上も取るのかよ、という客をナメたものなので買うのは推奨しない。
☆良かった所
・曲、声優の演技
■悪かった所
シナリオ、キャラクターを中心とした「良かった所」以外の全てがゴミ
■シナリオについて
ガイドブックによるとメイン声優陣が「複雑すぎる話を最初は飲み込めなくて~」と言ったことを全員語っているが、それはまあその通りである。
この話にシナリオなんてものはほとんどないからだ。っぽくしているだけで、ぶっちゃけ大したことはやってないというかシナリオ構造自体が破綻しているのだからキャラの想いなんてものはなくて当然である。
複雑なんじゃなくてシナリオになってないのだ。というか、キャラクターの行動原理がわからないのだから当然だろう。最初から製作陣がわかっていないものを説明しろと言われても無理なものは無理なのである。
なんでこいつら配信してんの?いやまあ表層的なことはわかりますよ。歌に救われた(笑)とか、推しに救われた(笑)からだよな。
まあ、それならそれでしっかりそれを描いてくれないと説得力がないんですよね。
そういう人間の過程を描く能力がないから、チラ見せしてそれっぽい視聴者の都合のいい妄想に頼ってるんだよな。
「能力がなくてやれなかったこと」を「あえてやらなかった」って言うのやめません?「ストレスフルな展開はあえて外しました」じゃないんだよね。
単純にキャラクター設定が適当で、話の構造作りも適当だから、ちゃんと人間の関係性描くことができなかっただけですよね。
要するに人間と人間の機微なんてものを描く能力がないんですよ。監督に、脚本に、スタッフに。
■キャラクターについて
それなのにインタビューによれば監督は「人間同士の密接な結びつき」を書きたいらしい。
それで、その密接な結びつきとやらはどこにあったのだろうか?
こいつら、結局なんで仲良くなってんの?お互いがお互いを必要とする理由って何?なんで配信者やりたいの?結局さ、人間が描けてないんだよね。
彩葉は趣味バイトやりながら東大合格余裕で、ゲームはプロゲーマー級、実のお兄ちゃんは超人気ライバーという「悩み」があるのも烏滸がましいレベルの超人である。
いや、わかるよ、苦労してるところを人に見せまいとしたり、父親の死(笑)とか母親との衝突(笑)があったもんな。悩む悩む。ダイジェストでやられたからしっかり伝わってきたよ。
俺も東大法学部余裕でゲームだけで稼げる腕があったら彩葉みたいな『周囲の空気を読む人間』になるわ。
やっぱね、そんなハイスペ人間なら、推しの歌だけを頼りに自分の辛さを覆い隠して笑う人間になっちゃうよね。わかるわかる。ならねえよ。アホかと。
まあ、ハイスペだから絡んでる友達もハイスペってのはリアリティあってよかったと思います。(友達連中は美容系インフルエンサー(笑))
そういうスペック高い人間以外は画面に映りすらしないのが監督の人柄がよ~く出てますわね。とても人生に悩む少女を描けていたのではないでしょうか。
カグヤやヤチヨの所も、もうね、浅いなどというものではない。
ヤチヨはなんとカグヤだった!8000年間、彩葉を待ち続けていたのだ!!!って言われてもねえ。
監督自身が言ってるように、『Fate』の士郎とエミヤの関係性やってみてえ!くらいの浅い思いつきでしかないな、と思いましたね。あーわかるわかる、何か8000年の時を経たことで
カグヤを見守る翁と媼になったんだよな。意味わかんねえ通り越して馬鹿なんじゃねえの?なんかそれ話として意味ある?ないよね?
それでやることが結局ライブかよ、という浅さね。こいつら何?ずっとアイドルやりたかったわけ?結局Vtuberとか配信文化ってものへの理解が浅いからこういう表現になっちゃうんだよな。
で、なんだっけ「キャラクターがいかに印象に残るか、生涯を通じて人格が変化していくことのエモさを書きたい」んでしたっけ。描けていましたか?
「自分が育てることになったわがまま娘が自分が推していたわがまま娘だった」ことが大変ドラマティックで、2時間使ったらしいのだが、何言ってんだって感じ。
そのギミックから逆算して話を作ってるせいで、いや、話になってませんよね、としか言いようがない。だってどこにドラマがあるのか描いてねえんだもん。
結局その「チラ見せ」でなんか都合のいい話を君の中で膨らませてくれ!ってスタイル、やるならやるでちゃんとやれよ。
2時間ちょいあれば『もののけ姫』くらいの肉厚な人間描写はできるんですよ?なんで出来ないんですか?スタッフ陣に才能ないからじゃないですか?
■それっぽさだけで構成された配信文化とゲーム文化と戦闘シーン
輝夜月から1ミリも進化してないVtuber像と、Apexやっとけばいいんでしょっていう浅い作中ゲームと、
なんかとりあえず戦っとけばいいんでしょ?っていう月人相手の戦闘シーンと、もうなんか突っ込むのもめんどくさいくらいのそれっぽさの集まり。
しかもそれぞれがストーリーに対して何の寄与もしてないという。配信者ものって、結局視聴者はバズるためだけの道具というか舞台装置みたいなもんだししゃーないんだが。
他の監督だったら最後の戦闘シーンはツクヨミの他の視聴者たちもカグヤのために立ち上がって戦うくらいのハッタリ・サービスは見せてくれてたというか、
カグヤやいろPの配信やSNSで繋がることの真の意味でのエモさみたいなのも描いてたと思うんですよね。まあ、この作品の製作陣は視聴者なんてどうでもいいと思ってるからそんなん必要ないか!
何回も言うけど舐めてんだよね、話を。「なんかエペっぽく戦ってるシーンあればエモいっしょ」くらいの舐め。「輝夜月っぽいことやってりゃバズんでしょ?」みたいな舐め。「有名ボカロ曲カバーさせときゃいいっしょ」みたいな舐め。
■「世の中への舐め」
『決めたら叶う』が基本なんだよね。この話。子供を育てることも、家族を説得して引っ越すことも、世界を席巻する仮想世界でトップの人気を得ることも、
因果の先でハッピーエンドにすること(笑)も、とにかく決めたら、あとはダイジェストでそれが叶えられていく。何故なら登場人物がハイスペだからです。という身も蓋もない話。
10年研究すれば完全な義体も作れるし、行くことを決めたら月の仕事を終わらせて地球に行くことも叶うし、カグヤとヤチヨのなんかよくわからん分裂?3人でハッピーになりたいみたいな都合のいい結末も叶う。
彩葉もカグヤもヤチヨも、全部『悩むけど決めたら全部叶う』が基本。まあこれはしょうがない。今のアニメ観てる視聴者層って何かを決めることがまるで一大事みたいに思いこんでるからね。
それに加えて、結局、監督の恵まれたエリート思想が見え隠れするよね。アニメを作る能力もある、予算もある。じゃあ何をするかというと決めることだけなんですよ。
「何をするか決定する」ことにこの物語は終始一番の価値を置いている。世の中の99割のゴミは何かを決めた所で実力とリソースの不足でそれが叶うことなんてないのにね。見てて悲しくなってしまったよ。
このアニメを見て少しでも何か感情的になったゴミは自分が何かを決定したところでハッピーエンドになんてたどり着けないことを胸に刻んで生きていこうな!
監督脚本の「こんなもんでよかんべ」という舐めが見えてくるのに、視聴者=ゴミは感動しちゃってるらしいので、その非対称性でホント悲しくなるよ。
細かい過程とか、情動とか、どうせ理解できないし、こんなもんでいいでしょ。キャラが何か悩むフリして、ライブ見せとけばいいんだよ。という『舐め』。
まあしょうがないか、こんなアニメで喜んじゃってる層は舐められるに値するよね。
「ワイズマ」に思い入れがあるならちゃんとライブシーン描けよ問題。
この「ワールドイズマイン」、山下監督たちスタッフが滅茶苦茶こだわっている部分らしく、初報のPVでも使ってるし、
早見沙織もインタビューで製作陣のおこだわりを語ったりしているのだがそれにも関わらず、『生歌収録(笑)』にこだわって、なんか微妙な歌と化している。
特に途中の面白グラサンをかけてかぐやがヤチヨに変な踊りを繰り出し、ヤチヨはそれを見て笑う…というシーンがあるのだが恥ずかしくて見ていられない。
陽キャに憧れた陰キャがカラオケでふざけてるのを見せられるような羞恥だ。歌ってる時に身内でギャハギャハ笑ってるアイドルとか誰が望んでるねん。
ていうか思い入れがある曲なら真面目に表現しろよ。終始、どこか照れてんだよね、この作品。結局、「配信見てる客」なんてどうでもいいっていう監督の精神性が現れてるよね。
何回も言うけど、『コンテンツを受容する側を舐めまくってる』ことがにじみ出てるシーンだと思いました。
ていうか百合やりたいのか知らねえけど取り合うシーンいる?歌えよ。歌を。ワールドイズマインだぞ、ワールドイズマイン。なんでちゃんと歌わねえんだよドブカス。
■総論
監督とPの『竜とそばかすの姫』のライブシーンだけ抽出して変な細田展開減らしたら受けるんじゃね?という目論見はある程度成功したと言えるだろう。
お話は2時間20分かけてやる内容ではないがキャラクターのエモーショナルにフォーカスしてMVとして見るといいんじゃないっすか?
豪華なMVだよね。竜とそばかすの姫から余計な要素抜いた感じ。
まあ、細田作品それっぽいエモさを褒めてたような人間が褒めるタイプの駄作。お前、サマーウォーズとか好きそうだよな笑
女が主軸で中身の大半がガールズトークみたいな話で、あとはちょっとした作画オタクがほめそやしてるだけ。
なんか派手なライブがあって、それっぽい推しがよくわからない感動的なことしてればそれで良いという、人モドキには向いてるんじゃないでしょうか。
ストーリーもバトルも配信もダンスも全部意味ないけどエモっぽければいいっていう、舐めた作品を見て情動が動くような人って何かが欠けてると思うんですよね。何が欠けてると思います?
長ったるい俺のレビューなんて読まなくていいよ。この一言だけ覚えて帰ってください。
お前には人生がない。
何かを決めるだけで全て叶うような浅い話に共感する、夢見がちな、自分を可能性に満ちた存在だと誤解してるゴミ。
そんな人間はそれこそ早く決めるべきだろ。その価値のない人生のような何かをどうするかを。
お前には人生がない。
画像のテキストは、ある本のページからの抜粋で、サルトルの哲学を引用・解釈したものと思われます。以下では、画像内のテキストを自然な文単位で分解し、各部分について「どこが間違っているのか」と「本当はサルトルはどういう話をしているのか」を対応させて指摘します。指摘は画像のテキスト順に沿って進めます。サルトルの主な参照元は『存在と無』(L'Être et le Néant, 1943年) で、不安(angoisse, anguish)と自由の関係を議論した箇所です。画像のテキストはサルトルのアイデアを大まかに借用していますが、用語の置き換え、文脈の歪曲、偽の引用が目立ち、全体として自己啓発的な解釈に強引に当てはめている点が問題です。
#### 1. 「と、こんな風に考えてしまう人もいるかもしれません。でも、他人の人生を凝視している間は、自分の人生を生きていないということになります。」
#### 2. 「フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルは、こう言っています。」
#### 3. 「『憂鬱とは、他人の人生を凝視しすぎた結果である。解決策は、他人の人生を凝視しないことだ。』」
#### 5. 「崖っぷちで下を覗き込むと、めまいが起きる。」
#### 6. 「それは、落ちる恐怖からではなく、自分が飛び降りる自由を持っていることを認識したからだ。」
#### 7. 「つまり、他人の人生を凝視しすぎると、自分の自由を直視できなくなり、憂鬱になる。」
#### 8. 「だから、他人の人生を凝視せず、自分の人生を生きろ、というわけです。」
#### 9. 「本当の成功者たちは、そんな他人の人生なんて気にしない。自分の人生を全力で生きている。だから、憂鬱になる暇なんてないんです。あなたも、そんな人になりませんか?」
全体として、このテキストはサルトルの絶壁の例を借用しつつ、「憂鬱」「他人の凝視」という独自の解釈を加えており、原典から大きく逸脱しています。サルトルの本質は、自由の重みを直視し、欺瞞なく生きることです。もし本の文脈が自己啓発なら、正確な引用ではなくインスピレーションとして扱うべきですが、ここでは誤解を招く表現です。
昨日の納会に例のエース先輩がいないと思ったら、まさかの「婚約者と自分の両親連れて熱海の温泉」って聞いて耳を疑ったw
あの先輩が、たかだか週末で十分な熱海なんかに行くために業務を放棄?
結婚は「両性の合意のみ」に基づくものであって、親への顔見せとかいう昭和の「家制度」的儀式に固執するとか信じられない
リベラルだと思ってた彼のOSも結局はカビの生えた家父長制の亡霊だったってわけね
ご両親だって孫娘みたいな年齢の女紹介されんのは羞恥プレイだろ…って思ったけど…
ここで全てのロジックがつながったわ
なるほどね
私のアプローチにもなびかず、結婚にも恋愛にも興味なさそうにしてたのに、ここにきて急に結婚することにした理由が完全に解明された
知的レベルの合う自立した女性じゃ「介護」はさせられないもんね
一人じゃ生きていけない程度にリテラシーが低くて、若くて体力だけはある従順な個体が見つかったからつかまえたってことか
うわー、危なっ
イケメンリベラルに見せかけて、これ以上ない特大の地雷案件だったわw
あんなのを「尊敬できる」と誤認してた自分の認知バイアスに戦慄する
ま、早期に損切りできてよかった
正体がわかれば未練どころか安堵しかない
みんなもたくさんの共感リプありがとね
おかげでやっぱり私は間違ってなかったってわかるわ
さて、こんなミソジニーと加齢臭漂う島国は脱出して、私はパリの友だちのところで年越しするから、さっさと準備しなきゃ
じゃ、みなさん良いお年を
【悲報】尊敬していた会社の先輩(39)が「オス化」してて絶望した話
https://anond.hatelabo.jp/20251223083338
【続報】ランチで答え合わせ完了。やっぱり私の感覚は正常だったわ
https://anond.hatelabo.jp/20251223123658
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