2026-03-29

anond:20260329072006

 かつて「脱オタク」という言葉流行した時代があった。二〇〇〇年代、いや、もう少し前かもしれぬ。彼らは「普通」への帰依を夢見た。眼鏡コンタクトに替え、チェックシャツを脱ぎ、ユニクロセレクトショップで「無難」を装った。だが、どうしてか、その努力は多くの場合、痛ましいほどの違和感を纏って終わった。

 ――彼らには「風景」がなかったのだ。

 社会というものは、ただ服飾や言葉遣いの集合ではない。そこには時代特有空気感、あるいは「通信作法」とでも呼ぶべきものがある。脱オタ世代青年たちは、テレビ雑誌の中に「正しき青春」のイメージを探した。だが彼らの属した世界には、それを実感させる空気がなかった。インターネットはまだ断片的で、匿名掲示板は夜の雑踏のように騒々しく、他人生き方を照らす明るさを持たなかった。

 それに比べて、いまの若い世代はまるで違う。彼らはSNSとともに育ち、最初から「見られる自己」の演出を呼吸のように行っている。自分という存在を、現実デジタル中間に置く技術を、無意識に身につけているのだ。彼らにはもはや「脱オタ」という言葉必要ない。なぜなら、自己趣味や奇癖を「演出可能」な文化資本として接続する術を知っているかである

 かつてのオタクたちにとって、趣味とは「内にこもる小宇宙」であり、それを社会接続する回路を持たなかった。その孤立感覚こそが、「脱却」という幻想を生んだ。しかSNS以後の子らにとって、趣味とは最初から「共有」の単位であり、孤立しようにも孤立できない。自己というものが、生まれながらにして発信の端末であるからだ。

 私は、ここに文明断層を感じる。

 かつての日本人は、「内」と「外」を峻別する文化を持っていた。書院造の襖の向こうに外界を置き、心は和室のように整えてきた。だがSNS空間においては、襖という構造のもの消滅した。心の奥までも、すべてがタイムラインの上に流れていく。そこでは、羞恥秘密も、もはや「演出素材」にすぎない。

記事への反応 -
  • 脱オタクファッションなどという思考法そのものが老人たちのものである。 現在の若者たちは色んな意味で「拗らせていない」人たちなので、軽々と自己のカテゴリー変更に成功する。 ...

    • なんで現代の若者は拗らせないの? いわゆる陰キャとかはどうしてるの?

      •  かつて「脱オタク」という言葉が流行した時代があった。二〇〇〇年代、いや、もう少し前かもしれぬ。彼らは「普通」への帰依を夢見た。眼鏡をコンタクトに替え、チェックシャツ...

      • 当時の若者は陰湿ないじめを行ったが、現代の若者はそこまでではないから

    • いやいや、アニメイベントとか声優イベントとか開催されるとき、物理でクサかったりなんか独特の風体の人達であふれかえったりするからなんかあると思う。

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