恋愛リアリティショーとは、恋愛の名を借りた、恋愛の葬儀である。
そこにあるのは、愛ではない。愛の身振りである。ためらい、沈黙、嫉妬、告白、抱擁、涙。恋愛に付随する一切の儀礼は、そこに過不足なく陳列されている。だが、それらはすべて、あらかじめ照明を受け、編集を受け、視聴者の安堵を受けることを予定されたものにすぎない。つまり、そこでは恋愛が始まる前に、恋愛はすでに検閲されているのである。
人が恋に落ちるとき、まず崩れるのは言葉ではない。秩序である。分別であり、体面であり、将来設計であり、自分について抱いていた慎ましい美徳である。恋する者は、いくらか卑しくなる。いくらか傲慢になる。いくらか滑稽になる。時には、善良であることさえ一時的に断念する。その失墜を通らずして、なお自分は恋をしたと言う者は、恋ではなく、快適な自己像に酔っているだけである。
恋愛リアリティショーのもっとも忌まわしい点は、恋を猥褻にしたことではない。むしろ恋をあまりに無菌にしたことにある。そこでは醜聞は管理され、破滅は演出され、羞恥は商品棚に並べられる。参加者たちは傷つく。しかしその傷は、血を流す前にテロップになる。彼らは苦悩する。しかしその苦悩は、翌週の配信予定に従って、ほどよく増幅され、ほどよく鎮静される。
この種の番組が露呈しているのは、現代人がもはや恋を欲していないという事実である。彼らが欲しているのは、恋の危険ではない。恋をしている自分の、傷つきやすく、美しく、社会的に承認可能な肖像である。恋の炎ではなく、炎に照らされた自分の横顔である。ここに現代のナルシシズムの、最も柔らかく、最も卑俗な形がある。
恋は、人を安全に幸福にするために存在するのではない。むしろ幸福という凡庸な観念を、一度叩き壊すために訪れる。恋する者は、何かを失わねばならない。名誉、平静、友情、家庭、あるいは自分自身についての上品な誤解。何ひとつ失わず、何ひとつ賭けず、ただ泣き、ただ抱き合い、ただ成長したと語る恋愛など、恋愛ではない。人生訓で薄められた感情教育である。
恋愛リアリティショーの画面には、若い肉体がある。美しい表情がある。涙がある。だが宿命がない。禁忌がない。取り返しのつかなさがない。つまり恋愛の核心がない。
恋とは、後悔の可能性を含まぬかぎり、決して美しくならない。人はあとで顔を覆いたくなるような一歩を踏み出したとき、ようやく恋愛の領土に入る。清潔で、適切で、誰からも理解される恋など、恋の仮面をつけた社交にすぎない。
恋愛の真実は、祝福されたカップルの微笑の中にはない。それはむしろ、愚行、醜聞、沈黙、破廉恥、嫉妬、そして自分の品位が音を立てて崩れる一瞬の中にある。恋は人生を整えるものではない。人生の整いを侮辱するものである。