アーメッドやバトラーを経由して、性別をあくまで言説的・制度的・関係的に理解しようとする立場は、女性差別の物質的基盤、すなわち雌性身体に向けられてきた支配・暴力・管理を過小評価する危険がある。
もちろん、青本氏の立場は単純な「身体否定」ではないでしょう。むしろ、身体が社会的・歴史的・言語的に意味づけられる過程を問うものだと考えられます。しかし問題は、身体が意味づけられるという事実と、身体的差異が制度設計上の根拠になりうるという事実を混同している点にあります。
女性差別は、「女性らしさ」を押しつけられることだけではありません。月経、妊娠、出産、授乳、性暴力、身体的暴力、スポーツ上の身体差、医療研究における女性身体の軽視など、雌性身体をもつ者が歴史的に受けてきた不利益に深く関わっています。
したがって、生物学的性別を「本質主義」として退けるだけでは、女性差別の根拠を説明できません。
青本氏が賛同者として名を連ねる声明は、「身体の二分法に還元するような性別に関する生物学的本質主義」に反対すると述べています。
問題は、生物学的性別を認めることと、生物学的性別によって人格・能力・役割を決定することが混同されている点です。
たとえば、次の二つはまったく違います。
青本氏周辺のクィア理論的言説は、この二つを十分に区別せず、前者までも「生物学的本質主義」として疑わしいものにしてしまう傾向があります。ここに、女性差別の分析としての弱さがあります。
アーメッド的・バトラー的な立場では、性別カテゴリーはしばしば制度や言説によって形成されるものとして扱われます。青本氏の研究関心にも、バトラーの系譜学的実践やジェンダー/セクシュアリティの転覆が含まれていることが確認できます。
しかし、女性差別は、性別カテゴリーが言説的に作られるから生じるだけではありません。
むしろ家父長制は、雌性身体をもつ者に対して、以下のような支配を行ってきました。
このとき「女性」は、単なるアイデンティティではありません。男性支配が作用する性別階級です。
したがって、女性を「自己認識」や「ジェンダー・アイデンティティ」のカテゴリーへ置き換えると、女性差別の対象が曖昧になります。誰が差別されてきたのか。なぜ差別されてきたのか。どの身体が管理されてきたのか。この問いがぼやけます。
青本氏が賛同する声明は、「トランスジェンダーの排除によって『女性の権利と安全』を確立することはできない」と述べ、「女性の権利と安全」を大義名分としたトランスジェンダーへのヘイト言論に反対しています。
この主張自体は、ヘイトに反対する限りでは妥当です。トランスジェンダーの人々への侮辱、暴力、生活上の排除は正当化されるべきではありません。
しかし問題は、ここで女性の安全を訴える声が、容易に「ヘイト」の側へ滑り込ませられることです。
DVシェルター、更衣室、病棟、刑務所、スポーツ、女性枠では、生物学的性別を基準にした制度設計が必要ではないか。
これは、女性が自らの身体的安全、羞恥、被害経験、公平性、代表性について述べている政治的発言です。
にもかかわらず、こうした主張を「トランス排除」「生物学的本質主義」と一括して退けるなら、それはアーメッドのいう「苦情を申し立てる者の沈黙化」と同じ構造を反復します。アーメッドは、大学などの制度内で苦情申立てが封じられる構造を批判してきました。 しかし、その理論を継承する側が、性別に基づく女性の苦情を「問題ある言説」として処理するなら、そこには明らかな矛盾があります。
生物学的性別の軽視によって直接的なコストを払うのは、大学・批評誌・研究会・出版空間にいる女性ではありません。むしろ、次のような女性たちです。
知識人層の女性は、危険や不快を避ける資源を比較的持っています。個室トイレ、研究室、オンライン発信力、法的知識、人的ネットワーク、文化資本があります。
しかし、階級的に脆弱な女性は、制度の変更を身体で受け止めます。更衣室を選べない。避難先を選べない。学校を選べない。病棟を選べない。刑務所や介護施設では逃げ場がない。
ここで、青本氏的なクィア理論の問題は、「包摂」を語る主体と、その包摂のコストを負担する主体が一致していない点にあります。
進歩的な言説空間では、「性別二元論を疑うこと」は洗練された態度に見える。けれども、女性専用空間の基準を曖昧にすることの負担は、もっとも弱い女性に集中する。この非対称を問わないフェミニズムは、階級的に鈍感です。
青本氏のような理論的立場は、しばしば「女性というカテゴリーは単一ではない」「身体は単純な自然ではない」「性別二元論は権力的である」と主張します。
これらは部分的には正しい。
しかし、そこから「女性を生物学的性別に基づいて把握することは危険だ」と進むと、現実の女性差別を把握する力を失います。
なぜなら、女性差別の多くは、まさに生物学的性別をめぐって起きているからです。
性暴力
女性器切除
これらは、単なるジェンダー表現の問題ではありません。雌性身体をもつ者に向けられた制度的・文化的支配です。
したがって、女性カテゴリーをあまりに流動化する理論は、女性差別を脱物質化します。つまり、差別を言語・表象・承認の問題へ過度に移し、身体・暴力・生殖・階級の問題を後景化してしまいます。
青本柚紀の限界は、反本質主義の名のもとに、生物学的性別を女性差別の分析単位として維持する必要性を過小評価し、その結果、もっとも脆弱な女性に「包摂」のコストを負わせる階級的非対称を見落としている点にある。