2026-05-29

フェミニズムが女を裏切るとき青本柚紀のクィア理論批判

1. 批判の核心

青本柚紀氏への批判は、次の一点に集約できます

アーメッドやバトラーを経由して、性別あくまで言説的・制度的・関係的に理解しようとする立場は、女性差別物質的基盤、すなわち雌性身体に向けられてきた支配暴力管理過小評価する危険がある。

もちろん、青本氏の立場は単純な「身体否定」ではないでしょう。むしろ身体社会的歴史的言語的に意味づけられる過程を問うものだと考えられますしか問題は、身体意味づけられるという事実と、身体差異制度設計上の根拠になりうるという事実混同している点にあります

女性差別は、「女性らしさ」を押しつけられることだけではありません。月経妊娠出産授乳、性暴力身体暴力スポーツ上の身体差、医療研究における女性身体の軽視など、雌性身体もつ者が歴史的に受けてきた不利益に深く関わっています

したがって、生物学性別を「本質主義」として退けるだけでは、女性差別根拠説明できません。

2. 「生物学本質主義批判の粗さ

青本氏が賛同者として名を連ねる声明は、「身体の二分法に還元するような性別に関する生物学本質主義」に反対すると述べています

しかし、この表現には重大な曖昧さがあります

問題は、生物学性別を認めることと、生物学性別によって人格能力役割を決定することが混同されている点です。

前者は、女性差別を把握するために必要記述です。

後者は、フェミニズム批判してきた性差別決定論です。

たとえば、次の二つはまったく違います

女性妊娠出産可能性を理由歴史的管理されてきた。

から女性母親になるべきである

前者はフェミニズム分析です。

後者は家父長制の規範です。

青本氏周辺のクィア理論的言説は、この二つを十分に区別せず、前者までも「生物学本質主義」として疑わしいものにしてしまう傾向があります。ここに、女性差別分析としての弱さがあります

3. 女性差別物質的基盤を見失う

アーメッド的・バトラー的な立場では、性別カテゴリーはしばしば制度や言説によって形成されるものとして扱われます青本氏の研究関心にも、バトラー系譜学的実践ジェンダーセクシュアリティ転覆が含まれていることが確認できます

しかし、女性差別は、性別カテゴリーが言説的に作られるから生じるだけではありません。

しろ家父長制は、雌性身体もつ者に対して、以下のような支配を行ってきました。

生殖能力管理

性的利用可能性の強制

妊娠出産による経済的不利益

身体暴力・性暴力への脆弱性

女性身体基準外とする医療研究

男性身体を標準とした空間労働スポーツ制度

このとき女性」は、単なるアイデンティティではありません。男性支配作用する性別階級です。

したがって、女性を「自己認識」や「ジェンダーアイデンティティ」のカテゴリーへ置き換えると、女性差別対象曖昧になります。誰が差別されてきたのか。なぜ差別されてきたのか。どの身体管理されてきたのか。この問いがぼやけます

4. 「女性安全」を語る女性沈黙させる危険

青本氏が賛同する声明は、「トランスジェンダー排除によって『女性の権利と安全』を確立することはできない」と述べ、「女性の権利と安全」を大義名分としたトランスジェンダーへのヘイト言論に反対しています

この主張自体は、ヘイトに反対する限りでは妥当です。トランスジェンダーの人々への侮辱暴力生活上の排除正当化されるべきではありません。

しか問題は、ここで女性安全を訴える声が、容易に「ヘイト」の側へ滑り込ませられることです。

たとえば、女性が次のように言う場合があります

DVシェルター更衣室、病棟刑務所スポーツ女性枠では、生物学性別基準にした制度設計必要ではないか

これは、ただちにヘイトではありません。

これは、女性が自らの身体安全羞恥被害経験公平性代表性について述べている政治的発言です。

にもかかわらず、こうした主張を「トランス排除」「生物学本質主義」と一括して退けるなら、それはアーメッドのいう「苦情を申し立てる者の沈黙化」と同じ構造を反復します。アーメッドは、大学などの制度内で苦情申立てが封じられる構造批判してきました。 しかし、その理論継承する側が、性別に基づく女性の苦情を「問題ある言説」として処理するなら、そこには明らかな矛盾があります

5. 女性内部の階級性への鈍感さ

さら重要なのは女性内部の階級性です。

生物学性別の軽視によって直接的なコストを払うのは、大学批評誌・研究会・出版空間にいる女性ではありません。むしろ、次のような女性たちです。

公共トイレ更衣室を使わざるをえない低所得女性

DVシェルター女性支援施設必要とする女性

刑務所病棟介護施設福祉施設にいる女性

宗教的文化的理由身体プライバシー必要とする女性

公立学校地域スポーツに属する女子生徒

自費で安全代替空間を買えない女性

知識人層の女性は、危険不快を避ける資源比較的持っています。個室トイレ研究室、オンライン発信力、法的知識、人的ネットワーク文化資本があります

しかし、階級的に脆弱女性は、制度の変更を身体で受け止めます更衣室を選べない。避難先を選べない。学校を選べない。病棟を選べない。刑務所介護施設では逃げ場がない。

ここで、青本氏的なクィア理論問題は、「包摂」を語る主体と、その包摂コスト負担する主体が一致していない点にあります

進歩的な言説空間では、「性別二元論を疑うこと」は洗練された態度に見える。けれども、女性専用空間基準曖昧にすることの負担は、もっとも弱い女性に集中する。この非対称を問わないフェミニズムは、階級的に鈍感です。

6. アカデミックな「反本質主義」が、現実女性を消す

青本氏のような理論立場は、しばしば「女性というカテゴリー単一ではない」「身体は単純な自然ではない」「性別二元論権力である」と主張します。

これらは部分的には正しい。

しかし、そこから女性生物学性別に基づいて把握することは危険だ」と進むと、現実女性差別を把握する力を失います

なぜなら、女性差別の多くは、まさに生物学性別をめぐって起きているからです。

女児堕胎

月経タブー

妊娠差別

出産によるキャリア中断

暴力

女性器切除

強制結婚

避妊中絶をめぐる統制

女性スポーツの分離

医療における女性身体の過小研究

これらは、単なるジェンダー表現問題ではありません。雌性身体もつ者に向けられた制度的・文化的支配です。

したがって、女性カテゴリーをあまりに流動化する理論は、女性差別を脱物質します。つまり差別言語表象承認問題へ過度に移し、身体暴力生殖階級問題を後景化してしまます

7. 結論

青本柚紀の限界は、反本質主義の名のもとに、生物学性別女性差別分析単位として維持する必要性を過小評価し、その結果、もっと脆弱女性に「包摂」のコストを負わせる階級的非対称を見落としている点にある。

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