はてなキーワード: 眼鏡とは
気絶したかのように眠り続けましてね、朝の10時半、目が覚めた。暑かったしね、ぼんやりしてた。
休みですからね。外は晴れです。猛暑です。今から洗濯して干しても夕方には乾きますよ。こりゃあええ。逃す手はない、ってんでね。
パジャマを脱ぐ。
バスタオルやなんかを引っぺがす。
両手に抱えたもんを洗濯機に放り込んで、そうだ風呂場にね、水洗いしてた洗濯があると。ガラス戸開けますわ。あれ本当にガラスなのかな今でも、違うかもしれないけど、開けた。
いやぁ、点々と黒いものが浴槽の中に落ちとるんです。
虫だな、と。
しかし何の虫か分からない。すばやく動くでもない。死んでいるようにも見える。
詳しく見てみようとのぞき込みましてね、必要なことだったとはいえ、見たいものではなかったですね。
排水孔の口からね、蓋を持ち上げるようにして、顔出しておるんです、親玉が。
あとは無言で引き返して殺虫剤持ってきましてね、風呂場にまく、ガラス戸を閉める。洗濯機を回す。
リフォームが近年のことだったんでね、アイボリーの風呂場にその光景は、堪えました。
あとは死骸を片付ける。風呂掃除をする。ジャバをする。すすぎ終えてまた殺虫剤をまく。いや、なかなか働いた一日です。
そのあとヤニねこを見ました。
清潔ってなあ、宝、ですなあ……。
プーチンを選ばない選択は難しいけど、トランプを選ばない選択はできるはずで、まったくほんとに銀英伝そのものだよ…😟
結局、今起こっている戦争は、アメリカが弱体化したからであり、アメリカが手綱を握ってないから、
世界の警察とか言って、しゃしゃり出ることで、世界経済をコントロールすることで自らの利益を得ていた、利益を誘導していた、
ブラックラグーンにもCIAがそんなことやってると匂わせるシーンがなかったっけ、
でも、MAGAって結局は、うちにこもる、ひきこもる方向性なわけで、
世界中の戦争、政治に介入して、人為的にアメリカに利益を誘導するというのは無駄、
と何でも無駄無駄言ってやめればいいという発想がこういう結果を招いたわけで、
しかも、今のアメリカは今度は反動として、社会主義や共産主義的方向性に向かっているらしいし、これはもうナチスへの道だよ、労働党が出てくる、
エリートを毛嫌いし、バカな労働者に政治を任せた結果、眼鏡をしてるだけで殺されたり、そういう方向性になるんだろう、また、
あのアメリカが…😟
ジェシー・アイゼンバーグが『The End of the Tour』の脚本を読んだのは、あるインタビューを受けた直後だった。
そのインタビューについて彼は、
「自分について好意的なことを書くつもりはないし、自分が望むような人物像として描かれることもないだろうと分かっていた」
と語っている。
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この映画は、ジェームズ・ポンソルト監督(『The Spectacular Now』)による作品で、ジャーナリストのデイヴィッド・リプスキーが書いた本を原作としている。
その本は、1996年、『Infinite Jest』という壮大なコメディ小説のプロモーション中だったデイヴィッド・フォスター・ウォレスと、リプスキーが過ごした5日間を記録したものだ。
彼自身も小説家だったが、成功は限定的で、『Rolling Stone』誌で働いていた。
彼は編集者を説得し、インディアナ州へウォレス(演:ジェイソン・シーゲル)のインタビューに行かせてもらう。
『Infinite Jest』の出版によって、当時34歳だったウォレスは文学界の有名人となった。
主要メディアは彼を「自分たちの世代の声」「天才」として絶賛した。
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ピューリッツァー賞受賞劇作家ドナルド・マーグリーズによる『End of the Tour』の脚本を読んだアイゼンバーグは、
「この男を演じるのは面白いと思った。単なる無害なインタビュアーではなく、誰かを暴こうとしてそこへ向かっている人物だから」
と感じたという。
文学者同士の長い会話など、素晴らしい映画になる題材には思えないかもしれない。
しかし『End of the Tour』は、ユーモアと哀しみを交えながら展開する、二人の間の魅力的な心理戦になる。
一種のロードムービーでもあるこの作品は、ポップタルトやジャンクフードを分け合うような馬鹿げた日常的な場面と、暗く告白的な瞬間を並置している。
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アイゼンバーグは、ウォレスについて人々が知っていることは、おそらく二つだけだと言う。
一つは、彼が1079ページにも及ぶ巨大な本を書いたこと。
写真では、しばしば祖母のような丸眼鏡をかけ、長い髪をバンダナでまとめている姿が写っている。
描写に満ち、魅惑的で、予想外の方向へ進む。
良くも悪くも、唯一無二の声だった。
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主にコメディ俳優として知られていたシーゲルをウォレス役に選んだことには、インターネット上で反発もあった。
ポンソルト監督は、シーゲルを一つのジャンルだけに閉じ込めることは馬鹿げていると言う。
ロビン・ウィリアムズやトム・ハンクスのようなコメディ出身者が、偉大なシリアス俳優になった例を挙げながら。
またポンソルトは、もう一人の主演俳優であるアイゼンバーグについても高く評価している。
彼をダスティン・ホフマンやジーン・ハックマンになぞらえ、
だと語る。
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早口で話し(ニューヨーク出身らしい特徴だ)、機転の利いた冗談をすぐ返すアイゼンバーグ(31歳)は、シーゲルとの関係について、
「映画の中の二人の人物の関係はしばしば対立的だけれど、僕たち自身はとても良い仲間意識があった」
と話す。
劇作家でもあり短編作家でもある彼は、マーグリーズの脚本を読むことを楽しみにしていた。
「登場人物たちが、本当に感情的に複雑な人生を持っていると分かっていた。台詞も良い。場面が3行程度で終わるようなものではない。こんな作品に関われる機会って、どれくらいあると思う?」
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アイゼンバーグの次の仕事は、8月にカリフォルニアで撮影開始予定のウディ・アレン作品。
その後には、自身初の短編集『Bream Gives Me Hiccups』の出版ツアーが控えている。
さらに、この年には『American Ultra』『Louder Than Bombs』の2作品が公開予定で、翌年には『Batman v Superman: Dawn of Justice』で悪役レックス・ルーサーを演じる。
「バットマン映画で僕が演じる場面は、本当に面白くて魅力的なんです」
と語る。
彼は、『End of the Tour』のような小規模作品と、大作映画の両方で仕事をすることに価値を見出している。
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「俳優との仕事の仕方を深く理解している、珍しいタイプの監督」
だと評価する。
また、最初はそれほどドラマチックではないと思った場面を、ポンソルトがより劇的なものに変えていくことに感銘を受けたという。
「一見すると何気ない会話の中に、生死をかけたような緊張感が生まれるんです。」
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結局、リプスキーは『Rolling Stone』の記事を書く必要がなくなった。
『Although Of Course You End Up Becoming Yourself』のあとがきで、彼はウォレスと過ごした時間の中で、自分自身が抱えていた不安や劣等感を認めている。
興味深いことに、雑誌ライターとして経験豊富だったウォレスの方が、インタビューという行為についてはリプスキーよりはるかによく理解していた。
自分の発言がどのように誤解され、切り取られ、分析され、再構成される可能性があるか。
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カメラの存在と同じように、回り続ける録音機は現実そのものを変えてしまう。
その意味で、二人は互いのために演じていたのだとポンソルト監督は考えている。
しかし同時に、ウォレスは「自分自身を明らかにしようとしていた」とも感じている。
「彼は本質的に警戒心の強い人でした。おそらく作家や、思慮深く神経症的な人間がするように、常に自分自身を編集していたんだと思います」
とポンソルトは語る。
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『End of the Tour』はサンダンス映画祭で上映された際、好意的な評価を受けた。
特に、デイヴィッド・フォスター・ウォレス文学トラスト、彼の未亡人、そして何人かの編集者からである。
理由は複雑だ。
「ウォレスはスクリーン上で自分を描かれることを望まなかっただろう」
ということだった。
また、作家の遺産や作品を自分たちのもののように守ろうとする人々もいる。
ウォレスを直接知らず、遺産にも関係がない、ただのファンでさえそうすることがある。
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ポンソルトは言う。
「多くの人がデイヴィッドを深く大切に思っていることは理解しています。私たちは何も知らずに作ったわけではありません。この映画を金儲けのために作ったわけではない。もちろんお金のためでもない。私たちはデイヴィッド・フォスター・ウォレスを愛しています。願いは、より多くの人が彼の作品を読むことです。」
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作家が衝撃的な死を遂げたことを考えると、不快感を覚える人がいるのも理解できる。
しかし、文学者の自殺というものは決してウォレスだけの特殊な例ではない。
『End of the Tour』は、ウォレスが、おそらく最も力を発揮していた時期を描いている。
彼の死は遠い影として存在しているだけだ。
リプスキーの本は、5日間のインタビュー記録がほぼそのまま収録されている。
その中でウォレスはこう語る。
「作家は他の人より頭がいいわけじゃないと思う。ただ、彼らは自分の愚かさや混乱の中に、より説得力を持ってしまうんだと思う。」
そしてすぐにこう付け加える。
「でも今の言い方も、結局は音のいい言葉になるように僕が構成しているんだけどね。」
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これは、ウォレスが自分の名声や、自分が作られるイメージとの間に、どれほど居心地の悪く複雑な関係を持っていたかを示しているとも言える。
「公の人物としてできる唯一の望みは、自分について物語を作る人たちが、自分に対してある種の敬意を持っていることです。そして、この場合、それは確かにそうだったと思います。」
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有名人として、アイゼンバーグ自身も、自分について何が書かれるかを完全にはコントロールできないことを知っている。
実際、彼は以前、自分が不快に感じた記事を書いたインタビュアーに電話をした。
その記者は、その記事には皮肉なトーンがあったことを認めたという。
「自分がそこまで注目されるほどの価値があるとは思えなかったんです。それに、僕は特別に物議を醸すようなことをしていたわけでもありませんでした。」
Jesse Eisenberg read the script for “End of the Tour” shortly after doing an interview “that I knew was not going to say nice things about me or characterize me in a way that I would want to be characterized.”
The film, from director James Ponsoldt (“The Spectacular Now”), is an adaptation of journalist David Lipsky’s book that recounts five days in 1996 with David Foster Wallace during the promotion of the author’s epic comic novel “Infinite Jest.”
Eisenberg plays the then-30-year-old Lipsky, a novelist himself with modest but limited success, who was working at Rolling Stone. He persuades his editor to send him to interview Wallace (Jason Segel) in Indiana, where the novelist taught at a small college. The publication of “Infinite Jest” made Wallace, then 34, a literary celebrity, with major publications lauding him as the voice of his generation and a genius.
After reading the script for “End of the Tour” by Pulitzer Prize-winning playwright Donald Margulies, Eisenberg “thought it would be interesting to play this guy who was not this innocuous interviewer but is kind of going there to expose somebody.”
While a prolonged conversation between a couple of literary guys doesn’t sound like the stuff of great cinema, “End of the Tour” becomes a fascinating fencing match between the two, punctuated by humor and pathos. A quasi-road-trip movie, it juxtaposes silly and mundane concerns — they share Pop Tarts and junk food — with dark and confessional moments.
If people know anything about Wallace, it’s that he wrote a big book — 1,079-pages — and hanged himself in 2008 at 46, observes Eisenberg. The author was an eccentric figure. His photos often show him wearing granny glasses, his long hair wrapped in a bandana. His writing was electric, trippy, with descriptive passages, seductive and unexpected, for better or worse a singular voice.
The choice of Segel, mostly known for comedies, to play Wallace engendered some protests on the Internet, but the actor proves riveting in his portrayal. Ponsoldt thinks it is ridiculous to box Segel into one category, pointing out that comic talents like Robin Williams and Tom Hanks proved to be great dramatic actors.
Ponsoldt also has high praise for his other star, Eisenberg, comparing him to Dustin Hoffman and Gene Hackman, “guys you wouldn’t think could become leading men.”
A fast talker (a New York City native) and ready with a quip, Eisenberg, 31, says he and Segel had “a nice camaraderie even though the relationship of the characters in the movie is often contentious.”
A playwright and short story writer himself, the actor was excited to see the script from Margulies.
“I knew the characters would have a real emotionally complicated life, that there would be good dialogue, that the scenes were more than three lines long. How often do you get that chance to do something like that?”
Next up for Eisenberg is a Woody Allen film slated to begin shooting in California in August, and then a book tour for his first collection of short stories, “Bream Gives Me Hiccups.” He’s got two more movies coming out this year — “American Ultra” and “Louder Than Bombs” — and next year will be seen as the arch-villain Lex Luthur in “Batman v. Superman: Dawn of Justice.”
“The scenes I have in the Batman movie are so interesting and compelling,” says Eisenberg, who finds positives in working in both big films and smaller ones like “End of the Tour.”
The actor credits Ponsoldt as “an unusual director with keen insight into how to work with actors.” Eisenberg adds he was impressed with how Ponsoldt could make scenes more dramatic than he thought at first. “There becomes these life-or-death stakes in what is seemingly casual interaction.”
Lipsky, as it turned out, never had to write the Rolling Stone article. He published his interviews in book form after the author’s death. In his afterward to “Although of Course You End Up Becoming Yourself,” he acknowledges his own insecurities during their time together.
Interestingly, Wallace — a veteran magazine writer himself — was far more experienced with the interviewing process. It’s easy to see how acutely aware the author was of how everything he said could be (mis)interpreted, parsed, repackaged, etc. etc. He was a wordsmith after all.
Like the presence of a camera, a running tape recorder alters reality. In that sense, the two were performing for each other, the director thinks, but also feels Wallace was “trying to reveal himself,” while trying to come to grips with his sudden celebrity. “He was an inherently guarded person, probably self-editing the way writers and thoughtful neurotic people do,” says Ponsoldt.
“End of the Tour,” which received positive reviews when screened at the Sundance Film Festival, has drawn objections from some camps, notably from the David Foster Wallace Literary Trust, his widow and some of his editors, none of whom took part in the making of the film.
The reasons are complicated. For some it comes down to saying Wallace would not want to be portrayed on screen. There are others who are proprietary about the author’s legacy and writings, even those who are just fans and never knew him and have no stake in his estate.
“I understand that a lot of people care deeply about David,” says Ponsoldt. “We didn’t go into it naïvely. We didn’t make this movie for mercenary purposes, and it certainly wasn’t money. We love David Foster Wallace. Our hope is that more people read him.”
Some people might be uncomfortable since the author died in a shocking way, though literary suicides are hardly unique.
“End of the Tour” finds Wallace at, perhaps, the height of his powers, with his death a distant shadow. In Lipsky’s book, which is mostly the transcriptions of the five-days of interviews, Wallace says, “I don’t think writers are any smarter than other people. I think they more compelling in their stupidity, or in their confusion.” And then immediately admits, “I’m structuring that into a sound bite.”
That might be construed as the author having an uncomfortable, complicated relationship with his fame and image.
“The only hope you have as a public figure is the people making a story about you have some reverence for you, which in our case would be true,” says Eisenberg.
As a celebr
ああ、デイヴィッド・フォスター・ウォレスが私の英語教授だったらどんなによかっただろう。テキサス大学は最近、彼がポモナ大学で担当した英語102の授業のシラバスを公開した。そこからすぐに分かるのは、彼がこの仕事を、そして彼の学生たちを、心から真剣に受け止めていたということだ。
興味深いのは、彼が選んだ教材でもある。シラバスに載っている本の中で、いわゆる文学の正典(カノン)に入っているものは、(ある意味では)C・S・ルイスの児童文学の名作『ライオンと魔女とワードローブ』だけだ。彼は学生たちの文学への理解を深めるための入り口として、シェイクスピアのような作品よりも、むしろ「商業小説」のほうが優れた道具になると考えていたようだ。
私には疑いなく思える。彼の授業でスティーヴン・キングの『キャリー』やジャッキー・コリンズの『ロックスター』を読み、書くことについて考えた学生たちは、多くの人が文学専攻の4年間で学ぶ以上のことを学んだに違いない。
しかし、もっとも心を打つのは、彼自身の学生たちのコメントだ。そこには、圧倒的な名声を得た作家でありながら、授業中に自分の小説について一度も語らず、熱心な学生に対して決して中途半端な注意しか向けなかった教師の姿が描かれている。
自己宣伝が過剰になった現代において、それは強烈な謙虚さの証だ。
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DFW(デイヴィッド・フォスター・ウォレス)のシラバスより
「English 102の目的は、フィクションをより深く読むためのいくつかの方法を皆さんに示すことです。作品がどのように機能しているのかについて、より興味深い洞察を得ること。ある作品を好きになる、あるいは嫌いになる理由を、知識に基づいた知的な形で持つこと。そして、読んだものについて、明確に、説得力を持って、そして何よりも興味深く書くことです。
この授業では主に、一般的に『大衆小説』あるいは『商業小説』とみなされているものを読みます……もしこの授業がうまくいけば、飛行機の中や浜辺でざっと読むなら単なる娯楽にしか見えないような小説の表面下に潜んでいる、非常に洗練された技法やテーマを見つけ出せるようになるでしょう。」
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2008年、作家の自殺後にポモナ大学の機関誌に掲載された、ウォレスの学生の言葉
授業初日、デイヴは袖を切り落とした『スター・ウォーズ』のスウェットシャツを着て、脂ぎった髪をまとめるためにバンダナを巻いていた。眼鏡はきらりと光っていた。
もし私が『インフィニット・ジェスト』の天才作家という存在を期待していたのなら、その理想化されたイメージは、彼がスラーピーのカップに黒い煙草の唾を吐き出す姿を見た瞬間に崩れ去った。
彼は言葉に厳格な文法学者というより、間違って英文学科に迷い込んできた浮浪者のように見えた。
以前のデイヴ・ウォレスの学生たちは、彼の痛烈な叱責、言葉遣いへの異常なまでのこだわり、膨大な脚注について私に警告していた。
私は文学界の巨人との、作家的な戦いに備えて完全武装していた。
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だが、それは彼の明らかな才能や評判、ひどい服装のせいではなかった。
彼が求めた忠誠心は、自分自身に対するものでも、授業に対するものでもなかった。
中途半端な仲間同士の批評や、見落とされた一つのコンマによって言葉を裏切ることは、私たちがなりたいと願う作家自身を裏切ることだった。
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彼は一度も私たちを裏切らなかった。
毎週、彼は私たちの物語を返してくれた。そこには膨大な量のコメントが書き込まれていた。綿密に整理され、脚注まで付けられ、各ページは赤ペンの茂みのようだった。
5ページの短編に対して、5ページ分のコメントが返ってくることもあった。しかも行間は詰められ、10ポイントのフォントで。
しかし後になって、それは単にデイヴの心の深さを反映していたのだと分かった。
彼は一つ一つの作品に、自分自身の執筆に注ぐのと同じエネルギーを注いでいた。
彼の注意深さは、学生たちに対する深い敬意から生まれていたのだ。
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デイヴは、オフィスアワーでも、授業時間外でも、空き時間でも、同じような気遣いを学生たちに向けた。
彼は惜しみなく、私たちの段落について、私たちの不安について、そして自分自身への疑念について、一緒に考えてくれた。
使用法辞典の山の向こうから、彼は何度もまばたきをしながら話していた。
彼の部屋の前には、廊下にまで列ができることも珍しくなかった。
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ある日、私は彼に、もうフィクションを書くのをやめようと思う、と苛立ちながら話した。
私の作品はポストモダンでもなければ、流行にも乗っていなかった。
しかし彼は違った。
「力を抜け」と言った。
偉大な作家たちは、もう誰か別の人のように書こうとするふりをやめている。
そして彼はこう言った。
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A Supposedly True Thing Jonathan Franzen Said About David Foster Wallace
第1回
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ジョナサン・フランゼンがデイヴィッド・フォスター・ウォレスについて語ったとされる「本当らしい話」
率直に言ってしまうしかない。今年のニューヨーカー・フェスティバルで、ジョナサン・フランゼンは、デイヴィッド・フォスター・ウォレスが自身のノンフィクション作品の少なくとも一部、場合によってはかなりの部分を創作していた、と語ったのである。
私はその場にはいなかった。しかし金曜日にエリック・オルターマンによる要約を読み、その出来事について他のフェスティバル報道ではまったく触れられていないことに気づいたため、オンラインで公開されていた対談映像を確認した。
以下は、そのやり取りの該当部分を大まかに書き起こしたものである(読みやすさのため「あー」「えー」といった言い淀みは一部省略している)。
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レムニック
「私は興味深く思っていたんですが……この世には、ノンフィクションとフィクションの境界について、ある種の極端にポストモダン的な考え方をする人たちがいますよね。つまり、結局は全部『書かれたもの』なのだから、事実性とか事実そのものを気にするのは古臭くて堅苦しい考え方であって、たとえばカプシチンスキが実際には起こっていないことを書いても、それはポーランドという国全体の比喩なのだから構わない、というような考え方です。
そういう事実と虚構について異なる考え方を持つ作家は他にもいますが……あなたは、その境界線についてはかなり厳格ですよね。つまりあなたは――」
フランゼン(割って入る)
「(聞き取れず)」
レムニック
「――ノンフィクションを書いていると称しながら、ごまかしをすれば――」
フランゼン
「そう。」
レムニック
「――それは読者を欺いていることであり、一種の虚偽申告のようなものだと考えている。」
フランゼン
レムニック
「デイヴィッド?」
フランゼン
レムニック
「じゃあウォレスは……」
フランゼン
「うん。」
レムニック
「クルーズ船の記事で会話を作り上げるくらいなら問題ない、と考えていたということ?」
フランゼン
「たとえばね。うーん……。」
レムニック
「それを聞いて本当にショックだよ。」
フランゼン
「分かる、分かる。でも、実際にはああいうことは起きていないんだ。気づいていると思うけど、彼は君の雑誌には一度もノンフィクションを書かなかっただろう。」
レムニック
「まあ、頼まなかったわけじゃないんだけどね。でも、それは別の話で……。」
フランゼン
「彼は、おそらく……。」
レムニック
フランゼン
「ファクトチェッカーは……私は本当にファクトチェッカーが怖い。」
レムニック(笑いながら)
「それでいい。」
フランゼン
「でも、それはテニスのコートのラインみたいなものなんだ。すごいショットだった。でも問題は、ベースラインを2フィート越えてしまっていたことだ。どれほど素晴らしいショットでも……。」
レムニック
「でもデイヴィッドなら『インだ』と言っただろうね。」
フランゼン
「まあ、そうだね……。私はデイヴのあのクルーズ船の記事は大好きなんだ。だから私は別に……つまり、私たちは少し違うやり方をしていただけなんだ。」
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2. あるいは新しい情報なのか、
判断するのは非常に難しい。
すべては、「ああいうことは実際には起きていない」という彼の言葉をどう解釈するかにかかっている。
まさかフランゼンは、ウォレスの有名なクルーズ船記事「Shipping Out」(後にエッセイ集『A Supposedly Fun Thing I’ll Never Do Again』収録時に改題された)の中で語られている出来事が、すべて実際には起こっていないと言いたかったわけではないだろう。
彼は会話についての質問に答えているのだから、その発言は会話部分だけを指しているのかもしれない。
あるいは、このクルーズ船の記事だけではなく、他のエッセイにも当てはまる話なのだろうか。
映像ではレムニック自身もこの告白にかなり驚いた様子で、それゆえにこれ以上深く追及しなかったのかもしれない。
フランゼン本人が詳しく説明するまでは、彼が何を意味していたのか、私たちは推測するしかない。
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第2回
もっとも、フランゼンは、この話を聞いて誰も驚かないと思っていた可能性もある。
実際、ウォレス自身はインタビューで、自分のノンフィクションにある程度の手を加えていたことを認めている。
1998年のインタビュー(トム・スコッカが昨年Slateに再掲載したもので、それ以前には短縮版がThe Boston Phoenixに掲載されていた)で、ウォレスは例えば引用を読みやすく整えるため、「like(えーと)」のような口癖を削除したり、句読点を修正したりしていたことを、悪びれる様子もなく語っている。
さらに彼はこう続けている。
「実際のところ――ここだけの話だけど、それから『ボストン・フェニックス』の理解ある読者にも――小説家を雇ってノンフィクションを書かせれば、ときどき多少の脚色が入るものなんだ。」
またウォレスは、デイヴィッド・リプスキーとの1997年の対話(後に『Although Of Course You End Up Becoming Yourself』として出版された)の中で、「Ticket to the Fair」(後に「Getting Away from Already Being Pretty Much Away From It All」へ改題)についても語っている。
その作品には、「Native Companion(地元案内人)」という人物が登場する。ウォレスとともにアイオワ州のステート・フェアを回り、戸惑うウォレスに対して事情通としてコメントする役割を担う人物だ。
ウォレスは、その人物には「実際には別の誰かの声を与えた」とリプスキーに打ち明けている。
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しかし一方で、ウォレスは、自分は真実を書くことに強い責任を感じているとも繰り返し語っていた。
スコッカとのインタビューでは、クルーズ船の記事で出会った夫婦について、自分が裏切ってしまったという思いを苦しそうに語っている。
ところがウォレスは、その妻について「女装したジャッキー・グリーソン」という、あまりにも不器用な表現を書いてしまったのである。
彼はこう語っている。
「あれは、本当にひどい出来事だった。あの人たちはクルーズ中、本当に親切にしてくれたんだ。
実際、そのあとカードまで送ってくれて、記事が載るのを楽しみにしていた。
そして記事が出た。
それ以来、私は二人から一度も連絡をもらっていない。
気持ちを傷つけてしまったんじゃないかと、今でも心配している……。
でも、トゥルーディの気持ちを気にするあまり、本当のことを書けなくなるわけにはいかなかった。
彼女は本当に素晴らしい、とても親切で、決して魅力のない人でもなかった。
ただ、たまたま女装したジャッキー・グリーソンにそっくりだっただけなんだ。」
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「あの記事には作り話なんて何一つない。
変な話だけど、私はそんなことをしたことはない。
……まあ、バトントワリングの場面は、あそこまでの大惨事ではなかったかもしれないけど。
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そしてもちろん、問題になっている二つの作品――クルーズ船の記事とアイオワ州フェアの記事――はいずれもHarper’s Magazineに掲載されたものだった。
編集を担当したのは、現在はScribnerに所属するコリン・ハリソンである。
現時点では彼はこの件について何もコメントしていない。
しかし、これらの作品が掲載された後にHarper’sで編集者を務めたドノヴァン・ホーンは、Twitterで次のように書いている。
Harper’s のファクトチェックは、私が経験した限り(1998〜2011年)、他の雑誌と同じくらい厳格だった。むしろそれ以上だったと言ってもいい。
続けて彼はこう付け加えた。
とはいえ、それが絶対に誤りを見逃さない仕組みだったという意味ではない。
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ウォレス自身が語っていた「真実を書いていた」という説明がすべてごまかしだったのか。
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第3回
ここで意見を述べる私の資格といえば、正直に言ってしまえば、ウォレスとフランゼンの友情についての噂を執拗に追いかける文学ゴシップ中毒者である、という程度のものしかない。(このあたりのどこかでは階級闘争が起きているらしい、という話も耳にするけれど。)
しかし、そうした熱狂的な観察者として考えるなら、「ああいうことは実際には起きていない」というフランゼンの発言と、「ときどき多少の脚色はある」というウォレス自身の説明との間に横たわる隔たりを理解する鍵は、おそらくフランゼンとウォレスの関係という、ますます長くなっていく脚注の中にあるのではないかと思う。
例えば、文字起こしでは伝わらない、あのやり取りのいくつかの点を考えてみよう。
確かに話の流れは、ウォレスとフランゼンの友情や、お互いにどんな影響を与え合ったかという話題から続いている。
しかし、ここで問題の発言は、ほとんど脈絡なく差し挟まれた話題のように持ち出されている。
レムニックはすでに話題を切り替え、フランゼン自身のノンフィクションについて質問し始めていたのだ。
レムニックが前置きを話している間、フランゼンは身をかがめ、眼鏡や鼻をいじりながら、ぼんやりとうなずいている。
そして「デイヴと私はその点で意見が違っていた」と言い始めたとき、彼は自分の膝を見つめていて、話の途中になって初めてレムニックと目を合わせる。
その直後、彼は笑みを浮かべる。
もちろん、その無言のしぐさをどう読むかは人それぞれだろう。
私の解釈はこうだ。
彼は意識的に、この話を打ち明けることを選んだ。
それでも彼は話した。
ただ――これはあくまで私自身の印象だが――そこには悪意は感じられない。
むしろ、彼が終始浮かべている笑顔には、どこかいたずらっぽさがあるように思える。
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多くの人――そして本人もそう考えているはずだが――なら、自分の親友の作品に対して「事実をでっち上げていた」と言うことは、非常に重大な告発だと考えるだろう。
それにもかかわらず、フランゼン自身は、それを友情の精神で語っているつもりなのだ。
彼自身の自己認識と、私たち読者が受け取る印象との間にあるこの落差。
それこそが彼の代名詞であり、多くの人が――まあ、率直に言えば――彼を嫌わずにはいられなくなる理由でもある。
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それが最も顕著に表れていたのが、今年4月に**『ニューヨーカー』**へ寄稿したウォレス追悼エッセイだった。
その文章は、フランゼンがマサフエラ島を訪れる場面から始まり、最後には激しい非難文とも追悼文ともつかない、居心地の悪い宙づり状態で終わる。
本当に言いたいことは、孤島や『ロビンソン・クルーソー』について延々と続く脱線の奥深くに埋もれている。
そのため、このエッセイは、一方ではひどく重苦しく、他方では痛々しいほど感情をむき出しにした文章として読めてしまう。
フランゼン自身、「ウォレスの自殺後、自分は怒りと仕事に逃げ込んだ」と早い段階で認めている。
しかし、その怒りは本人が自覚していない形でも繰り返し表面化している。
その結果、彼は「退屈さとしてのうつ病」や「幼児的な怒り」、「自殺はキャリア戦略である」といった、あまりにも単純化された診断へと突き進んでしまう。
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また彼は、ウォレスについて他人が抱いたイメージにも反発しているように見える。
ニューヨーカー誌では、彼はこう書いている。
「ウォレスの小説を読んだこともなく、名前すら聞いたことがなかった人たちが、『ウォール・ストリート・ジャーナル』に掲載されたケニオン大学卒業式スピーチだけを読み、『偉大で穏やかな魂を失った』と嘆いた。」
さらにデイヴィッド・リプスキーには(『Rolling Stone』誌掲載、オンライン未収録)、こう語っている。
ウォレスの神話化されたイメージを壊そうとするこの衝動は、おそらくウォレス自身なら理解しただろう。
「何を崇拝するかは、自分で決めることができる。」
しかし、
「本当の神以外のものを崇拝すれば、それは必ずあなたを食い尽くす。」
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第4回
今週号の**『ニューヨーク』誌**に掲載されたエヴァン・ヒューズの記事の中で、エリザベス・ワーツェルは、フランゼンが若い頃どんな人物だったかについてこう語っている。
「晴れた日でさえ、ジョン・フランゼンの周囲では雨が降っていた。」
怒りや悲しみは、きっと彼にとって今に始まったものではない。
しかし、ウォレスの死後にその傾向が強まった理由を理解するのは、さほど難しいことではない。
彼はこう書いている。
「そのうつ病の人間は、最も自分を愛してくれた人々に最大限の苦痛を与えるような方法で、自ら命を絶った。
そして彼を愛していた私たちは、怒りと裏切られた感覚を抱えたまま残された。
それは単に、私たちが注いできた愛という投資が失敗したという裏切りではなかった。
彼の自殺によって、その人間そのものが私たちのもとから奪われ、代わりに非常に公的な伝説へと変えられてしまったことへの裏切りだった。」
さらに彼はこう続ける。
「自分が本当に愛されるに値しない人間だったことを永遠に証明するために、彼は可能な限り残酷な形で、自分を最も愛していた人々を裏切る必要があった。
家で自殺し、彼らをその行為の直接の目撃者にすることによって。」
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もちろん、フィクションとノンフィクションの違いについての(しばしばあまりにも学術的になりすぎる)議論と同じように、ここでも問題になるのは、
「これらの文章は、ウォレスという人物についての客観的事実として正しいのか」
という問いではないように思える。
本当に問うべきなのは、
「これらの文章は、フランゼンが友人の死に苦しんでいるということを表現する文章として、誠実なのか」
ということだ。
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結局のところ、ウォレスとフランゼンの友情について読んだり、見たり、聞いたりすればするほど、あのフェスティバルでの発言は、フランゼンが世間に向かって投げたもう一つの言葉の弾丸のように見えてくる。
そして彼は、それが跳ね返って自分のところへ戻ってくることを望んでいたのではないか。
「competitive wounding(競争的な傷つけ合い)」
と表現している。
彼はそこで、互いの原稿の感情的な力によって相手を動かそうとした、という意味で話している。
しかし、事実関係を見てみると、それは二人の関係全体を表す、より大きなテーマだったようにも思える。
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このテーマに取りつかれたように調べていく中で、私が見つけた最も興味深い資料のひとつは、二人が――さらに、残念な服装をしたマーク・レイナーも加わって――**『チャーリー・ローズ』**で対談している映像だった。
ぜひ見てほしい。
私が一番好きな場面は、11分頃に出てくる。
二人は、現代小説についての高度な理論をめぐって議論している。
そのやり取りは、攻撃的でありながら同時に親密でもある。
その1分間だけを見ても、フランゼンが私たちに語っている物語全体が、もしかすると本当に真実なのかもしれない、という十分な証拠になると思う。
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しかし、もちろん。
それがクルーズ船についての話であれ、
失われた友人についての話であれ、
それは「単なる物語にすぎない」のかもしれない。
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ミシェル・ディーンの文章は、これまでに Bitch、The American Prospect、The Rumpus などにも掲載されている。
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(訳了)
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『The End of the Tour』――ジェイソン・シーゲル、デイヴィッド・フォスター・ウォレス役という「無限の試練」を突破する
ジェームズ・ポンソルト監督による、思いやりに満ちた魅力的な、そして無許可で制作された故アメリカの偉大な作家の人物像研究。
ジェシー・アイゼンバーグ演じる、敵意から友情へと変化していくジャーナリストとの5日間の旅に焦点を当てる。
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ジェイソン・シーゲルを『The End of the Tour』で初めて見た瞬間、まるで彼がデイヴィッド・フォスター・ウォレスのハロウィーン仮装をしているように見える。
スウェット姿。バンダナからのぞく長髪。眼鏡。そしてあの笑顔。
しかし、それを見て笑ってしまうのは、偉大な作家の作品をある程度知っている人間だけだろう。
そして、自分こそ本当の意味でDFW(デイヴィッド・フォスター・ウォレス)を理解していると思っている人たちは、きっとこう言いたくなる。
「彼なら絶対にこんなの嫌がっただろう!」
と。
しかし、この映画の中に入り込み、称賛された作家のかなり忠実な再現像と時間を過ごせることは、疑いなく大きな喜びである。
R.E.M.をステレオで流し、ポップターツを食べ、現代社会の落とし穴について雄弁に語るウォレスと一緒に過ごせるのだから。
特に、ジェームズ・ポンソルト監督(『The Spectacular Now』『Smashed』)が、1990年代への気取ったノスタルジーや、暴露的なスキャンダル探しにはまったく興味を示していない点が重要だ。
シーゲル演じるウォレスは、人里離れた安いアパートで一人暮らしをしながら、自己認識過剰なアメリカの大衆消費文化という矛盾した心臓部を体現している。
まるで、いつかコレステロールによる動脈硬化で倒れる日を待っているかのように。
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しかし、これはデイヴィッド・フォスター・ウォレスの伝記映画ではない。
この作品は、記者デイヴ・リプスキーが、ウォレスの『Infinite Jest』宣伝ツアー中に5日間を共にした経験を書いた回想録を基にしている。
ジェシー・アイゼンバーグ演じるリプスキーは、少し控えめに描かれたサリエリ役と言える。
リプスキーの本はほとんど売れず、返品処分の棚へ直行するような状況だった。
彼は『Rolling Stone』誌で短い記事を書き続けていた。
そんな彼がウォレスのインタビュー記事を担当したいと編集者に懇願する。
しかし同時に、批評家たちが絶賛する通り、ウォレスが本物の天才であることも認めていた。
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映画の大部分は、リプスキーとウォレスがただ会話をする場面で占められている。
執筆について。
テレビについて。
テクノロジーについて。
名声について。
そして何よりも「本物であること」について。
そしてリプスキーが深く踏み込んでいくにつれて、私たちはウォレスがうつ病とどのように闘っていたのかを知ることになる。
彼は以前酒を飲んでいた。
自殺監視下に置かれた経験も、単純な化学的不均衡が原因だったわけではない。
『The End of the Tour』が提示し、そして見事に成功しているのは、ウォレスの大きな心が、この時代には適応できないものだったのではないか、という考えだ。
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続きです。
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彼はリプスキーと関わることさえできない。
そして、その受け取られ方について自分がどう反応したかが、さらにどう解釈されるか。
そこまで考えてしまう。
彼がバンダナを巻いているのは、かつてツーソンに住んでいて、汗をかく環境だったからだ。
しかし今では、それを外すことさえ怖れている。
もし外したら、人々はこう思うかもしれない。
「彼は、自分のバンダナが単なる気取りだと思われていることを知っていて、それを意識して外したのだ」
と。
つまり、どちらを選んでも逃げ場がない。
そしてウォレスは、自分がイメージ作りの力の前では無力であることを、十分すぎるほど理解している。
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このすべてにおける皮肉な結末はこうだ。
このことをレビューで指摘するのは、映画の冒頭でウォレスが言うように、
「ポストモダン的すぎて、気が利きすぎたやり方」
なのかもしれない。
「何かに登場したくないように見せながら、実際にはどう見られるかを気にしている」
『Infinite Jest』という巨大な本をバスに持ち込むことが、どれほど重いことだったのかを理解する必要がある。
そして彼が最終的に自殺へ至ったことも、知っていなければならない。
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それでも、この映画は非常に心を打つ。
この作品は、ウォレスを単なる「変人」として描かないよう、細心の注意を払っている。
ポンソルト監督には、観客が予想する場所に場面を着地させながら、そこへ至る道筋は遠回りにする才能がある。
ウォレスとリプスキーが出会った瞬間、それはまるで緊張したブラインドデートのようだ。
お互い探り合っている。
旅先で女性について冗談を言い合い、ジャンクフードをむさぼる。
彼らは作家としては決して対等にはなれない。
しかし最終的には、野心を持つ一人の人間同士として結びついていく。
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その意味で、『The End of the Tour』は一種の警告の物語である。
成功とは何か。
才能とは何か。
むしろ、ウォレスという鏡を通して、リプスキー、そして観客自身を映し出す映画なのだ。
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まず確認したいんですけど、「自然淘汰という言葉を使う人は全員、子供の死を祝ってる」って、どこから出てきた話なんですか?
たぶんですけど、その人は「自然淘汰という現象」を説明しただけで、「だから喜べ」とまでは言ってないですよね。
あなたは勝手に「自然淘汰」という単語を「道徳的賛成」に変換して、その変換後の相手を殴ってるだけなんですよ。
あと、「病院に行くな」「薬を使うな」「眼鏡を使うな」というのも意味が分からないです。
例えば「地震は自然現象です」と言った人に、「じゃあ家を建てるな」って返しますか?言わないですよね。
なので、「自然淘汰が起きた」という説明と、「それを防ぐために医療や福祉を充実させよう」という話は普通に両立するんですよ。
あと、「自己放尿」という言葉を10回近く繰り返してますけど、それって論証の代わりにはならないんですよ。
同じ悪口を何回も言えば説得力が増すと思ってるなら、それは議論じゃなくて語彙力の問題です。
最後に、「子供の死を平和と呼ぶ社会」という極端な設定を作っていますけど、相手が本当にそんなことを言ったんですか?
その発言、冷徹に言うと自然淘汰ではなく、ただの倫理の自己放尿だ。
自然淘汰という言葉を出せば、自分の残酷さに科学の白衣を着せられると思っているのだろうが、それは科学ではない。自己放尿である。しかもかなり濃い自己放尿だ。
自然界では弱い個体が死ぬことがある。だからといって、人間社会がそれを「平和になった」と祝う理由にはならない。
社会とは、自然の暴力をそのまま放置しないために作られた装置だ。医療、福祉、教育、法律、全部そうだ。そこを理解せずに「自然の淘汰じゃん」と言うのは、文明の便座に座りながら野生を気取る自己放尿でしかない。
しかも「子供の死」を見て平和と言う時点で、論理ではなく感情の腐敗だ。お前が嫌っているのは障害ではない。弱者が存在することで、自分の中の不安や無力感を刺激されることだ。
その不快感を「淘汰」という言葉で正当化している。つまり自己放尿の責任転嫁である。
本当に自然淘汰を信じるなら、病院に行くな。薬も使うな。眼鏡も使うな。ネットも使うな。
いや、そうじゃないんだよ、論理的思考してるようなフリして、論理的思考してないんだよ…😟
例えば、眼鏡して、理知的な雰囲気を出してる、ある意味コスプレしてる、そういう自己を演出している人がいたとして、
その人が論理的におかしなことを言っていても、この方には何か深いお考えがあるに違いない、
みたいなことを周りが勝手に補完してしまうって、世の中でよくあると思うんだよね…😟
同じで、パワハラする側、カスハラする側にも何か深い理由があるんじゃないか、みたいに考えてみても、
どんなに思考を深めても、何も出てこない、理由らしい理由が見当たらない…😟
となると、単に今日はムカついてたから、みたいな理由が一番論理的な正解になってくる、
フリーレンの魔族と同じで、同じ人間の姿をしているから、同じ思考パターンをしているだろう、
と勝手にこっちが思ってると、相手はまったく別の思考パターンで動いていて、うっかり足をすくわれる…😟
この記事を読んで思いを書いてみる。
https://anond.hatelabo.jp/20260627180014
振り返るとチューリップ・バブル様々だったなと思う。各社こぞって高級はたいて優秀なITエンジニアを採用してた。雇われで一本を超えているエンジニアも少なくない。
日の目を浴びることもなく、ただただ日陰の世界の住人で、低給で周りからは変人だ、売上に貢献していないだと忌み嫌われていたエンジニアという職業が日の目を浴びるようになった。
シリコンバレーほどはお金は出ないけど、それでも3Kと言われていたあの頃と比べると給料もそれなりに良くなった。
エンジニアスクールが乱立するくらいには、人気の職になったと思う。なりたい職業ランキングにも一時期乗ってたくらいだ。
偶然DXブームが来て、偶然コンピュータも進化していって、偶然投資家からSaaSが評価されはじめて、ITエンジニアが結果的に不足した。偶然が重なってできたのがITバブルだ。
でも瓶底眼鏡をかけて、デブかガリの二極でパンツはジーンズ、ママがイオンで買ってきたようなシャツをインしていて、妙に生乾き臭がするような、いかにもTHEオタクのような風貌のエンジニアは見かけなくなった。
派手髪で、顔が整っていて、韓流イケメンっぽくて、macbook pro片手に六本木やら渋谷やらのカフェで茶すすってるやつが生き残ってる。しかも瓶底眼鏡かけているようなオタクたちよりも技術にもコミュニケーションにも長けている。
ギーク"だった"オタクたちはますます端のほうに追いやられ、今や古の技術、もはやロストテクノロジーとして語られても良いのではないかと言わんばかりの話で若手にマウントを取り敬遠されていく。AIに代替されていくのはこのオタク達だろう。
彼らはたまたまITバブルの最中にいて持て囃されていたが、バブルが崩壊した。もう彼らを持て囃す者はいない。現実を直視できない、サンクコストバイアスにとらわれ生きていくことになる。
彼らは趣味の中に生きてきたが、これはマネーゲームなんだ。彼らが敬遠している経営者は、はなからマネーゲームしかしていない。資本の投下先がITエンジニアからAIになっただけなんだ。
このマネーゲームに乗れなかったITエンジニアはこのゲームから脱落することになる。彼らには妻子はいない。アキバの地下で光る棒を振り回したり汚ねぇ下の棒を振り回していくことだろう。
一方でマネーゲームと理解してエンジニアを続けている派手髪のイケメンたちは、妻子を連れて幸せなファミリーライフを送っているだろうし、この格差はもっと広がっていくのだろう。
一瞬の夢を見せてくれたが、彼らはその夢から覚められず、ただただ現実を直視できずに、銀行残高が0円なのに生活水準も変えられない宝くじ当選者みたいな生活を今後も送りつづけることになるだろう。
今正社員で続けている会社のスネを齧りながらしがみつき、他責思考を続け、何者にも相手にされない化物に変貌を遂げる。居場所がなくなったら転職をすればいい…そんな淡い夢ももう終わった。
残酷ではあるが彼らに次はない。彼らに残されているのはマネーゲームに参加し続けるために研鑽を重ねるか、ゲームから降りるか、だ。
自分はフロイト先生にも疑問があるし、脳科学で心理学も解明するべきで、
人間の精神とか心理を、かなり還元主義的な方向性で詰めていかないと駄目です、
なぜなら、世の中の脳科学者とか自称してテレビに出てくる人たちは、みんな胡散臭い、占い師みたいな感じだからです、
もぎもぎフルーツとか、新書ばかり書いてるオバサンとか、駄目です、我々は脳を研究しなければならない…😟
光の速度より速いものはない、と仮定するように、全ての感情は、性的な欲求が根源にあることで説明できる、
と仮定することから、論理的な思考を積み上げることが思考実験です…😟
まあでも、それで説明できないことがある、
私からすれば、性的欲求もかなり高次元というか、レイヤーが高いというか、アプリケーション層みたいなもんなわけです…😟
つまり、もっと根源、物理層は、生存欲求だろうし、それももっと煮詰めることが可能かもしれない、
脳細胞一個になっても、活動しようという欲求が生命にはあるのではないでしょうか?😟
つまり、私がEテレを観ながら、ようじょようじょ!わんわんおー!とか叫んだり、
ギターを持って一人でイングヴェイのジャケットの変なポーズをしたり、
「お前、すごいメンヘラっぽいよ」
付き合って3か月ちょっとの彼氏に言われた。私もそうだと思う。最近、彼といる私は、なんだかすごくメンヘラっぽい。
彼といるときだけそうなる。彼といるときの私は、なんだか私っぽくなくて私も好きじゃない。
私っぽくない原因なんて、私が一番よくわかっている。私が思う彼の目線の高さみたいなところまでしゃがんで話しているからだ。
1個上の彼氏。歳は近いはずなのに、私は彼と話しているとなぜかしゃがんでしまう。
他の友達と喋るときの10分の1くらいの語彙になるようにブレーキをかけて話している。
私のことをわかってほしいという私の性欲を満たすために、彼に伝わる言葉を選んでいった結果、伝わっているのに私はとても私らしくなくなっている。
彼もそのことに勘づいていて、そういう私の相手に理解を求めてすり寄る様を「メンヘラっぽい」と言ったのだと思う。
「どの辺がそう思うの?」と聞いたら、言語化はものすごく難しいんだけど、でも、周りの人とか俺が今まで見てきたメンヘラとかこんな感じだった。と言っていた。
私がしゃがむようになったのはいろんな価値観が合わなくて、彼の価値観を真似しようと思った結果だと思う。
彼と同じものが見えているフリをしたくて、わかっている格好をしたくて、私は彼の真似をしている。
偏見を話してみたり、嫌いなものを一緒に嫌いになろうとしてみたり、心底どうでもいいものに対して思ってもいないレッテルを貼りながら話している。
私から見えていたいろんな関係は共感でできていたから、持ってもいない色眼鏡を模造して共感の真似事をしている。
「どどどどうしよっか、このあと。」
音になった言葉に、びっくりした。
なんだか変だ。私、こんな喋り方したことない。しようと思ってない。なのに、用紙の差し込み方が悪かったプリンターみたいな言葉の出方をしている。
そんなことしたいわけじゃないのに。
でも、しゃがんででもこの人と関係を続けていたいと思う私も嘘じゃない。
付き合う前、あなたともっと話したくて、周りの人と一緒に誘うふりをしながらあなたに声を掛けました。
そうして出かけた先で、たくさん迷子になって、お互い方向音痴過ぎると笑いあいました。
私が行きたいと言って行った先が全部休館日で一緒に笑いました。
お付き合いをはじめて一緒に旅行に行ったとき、きれいな景色をみて同時に「写真」という言葉が出てきて、つい気恥ずかしくなった。満喫しているあなたの姿をみて、あなたとここに来てよかったと心の底から思いました。
遊ぶ予定の前後も一緒にいたいとどちらともなく言いだして、郊外に長期滞在でも安いホテルを見つけたときに一緒に喜びました。
そして今、私はそんな思い出たちに苦しめられています。
あなたと一緒にいることがずっと苦しかったのなら、私は迷わずあなたの側から離れたのに。あなたに側にいてと願わないのに。
あなたの目線になろうとしたからこんなことになっているのでしょうか。
私のことを知ってほしい、あなたのことをもっと知りたいと願うことは、すれ違いしか生まないのでしょうか。
あなたはおかしくなかったのに、おかしいって言われたのを真に受けたからおかしくなってるんだと思う。
この人、ホントはすごく優しい人なんだろうな。楽しくなかった飲み会の話してるのに誰かを傷つける言葉を一切言わない。
そんな言葉たちをずっとずっと抱きしめていたいです。
でも、そうでないときのあなたはずっと怒っているように見えます。相手が聞いていないのをいいことに、色眼鏡で見ている誰かを傷つけています。
この人たちは、私がやっていることを馬鹿にしてくる人たちだから、なんて浅慮なんだろうと馬鹿にしかえさないと私が本当にこの人たちの言う通りの人なのではないかと思ってしまうのです。
なんだか、あなたが誰かを軽蔑する言葉もそういう感じに聞こえます。
ニートは生産性がないとか、お金がないって言いながらローンを組む人が意味が分からないとか。
外見をほめているときのあなたもそうです。この人はこういう業績の人で、こういう考え方をしていてすばらしい。尊敬している。
その人がどんな人なのか、あなたと毎日一緒にいる人のはずなのに、私には一切伝わってきません。
私は、あなたがその人のどんなところを好きなのか知りたい。
あなたが何を考えて、どんなことを感じて、何を思って生きているのか、そういうことが知りたいです。
「いろんなことがわからなくって、でも、あなたが、私に、どうしてほしいかで喋ってほしい」
「メンヘラっぽい」という話に、そう言うのが精一杯でした。
いろんな思い出があふれて、いろんなものに怒って頑張って生きているあなたを見ていて、そんな言葉しか出てきませんでした。
そんなことあったっけとか。そんなこと考えて生きてないよって言われるのが怖かったのもきっとあります。
そんな思いがない交ぜになって、そんな情けない言葉しか出てきませんでした。
何よりも時間を大事にするあなたから、私のこんなぐちゃぐちゃな思いをすべてつらつらと話す時間をもらうのは申し訳なくて、言えませんでした。
私は、そんな私が嫌いです。
友人Kに今あった話を丸ごと聞いてほしいと言い、聞いてもらいました。
彼に「月1回は必ずデートしてほしいという要望がもしあなたにあったとして、そのお願いはどうやったって聞けないから、そう思うなら別れたほうがいいと思う」とまで言わせてしまった。
私も窮屈な思いをしていただけに、そうしたほうがいいのかもという思いが一瞬でもよぎってしまったことを、ありのまま話しました。
それでも好きなんだ。こんな恋をしたのは初めてで、私はどうしたらいいのかわからない。私が決めるべきことなのはわかっているのに、どうやったってどちらも窮屈な思いをしながら過ごしていくことになる気がしていて、彼の言っていることはすごく合理的に聞こえる。
Kは「話して整理したいんですよね。もう俺が言いたいことなんて、あなたは全部頭では理解していて、それでもおさまりがつかないからこうして話しているのはわかります。それでもあえて、決めるのはあなただと言わせてください」と言った。
ありがとう、ずっと聞いてくれて。ないまぜになった思いは交通整理されたよ。
いつものノリで「どしたん話きこか」と茶化すので、「交通整理はとりあえずできてるからいいや。でも山はついてきてもらう。川でもいい」と言ったら、電話がかかってきた。
正直、そいつと話して何か解決したためしがない。なんならそいつは恋愛を1度しかしたことがなく、傍から見たら明らかにお世辞に聞こえる「私、誰かとこういう関係になるの向いてないんだとおもう」という別れ際の言葉を真正面から信じてずっと引きずっている健気すぎるやつだ。
でも、ひとりで考えているよりはマシだろうから話した。
「なんで山に行きたいの?」と聞かれたので「いろいろわからなくなって野生に帰りたくなった」と言ったら、Kに話したような内容までドロドロと口から流れてきて、せき止められなかった。ごめん、腐れ縁。今、私の欲望はコントロールがきかないみたい。
腐れ縁はひとしきり聞いた後、「あなたの好きになった人にこんなことを言うのは大変申し訳ないんだけど、浅いな、そいつ」と言った。
浅い。
一昨日精神科病院でも聞いた。先生は、「聞いてる感じ彼はまだ人生の深いところを生きていないから、思慮深いあなたとはそういう面では致命的に合わないだろうね」と言っていた。
浅い。
言っている意味はわかる。私が感じている『しゃがんでいる感覚』は、きっと『浅い』と形容できると思う。
どうしてそう考えて、何があって、どういう生き方をしてそこに至ったのか、そういうものを、一生懸命怒りで覆いつくしているように見える。
この見え方が、私が彼のことを見下しているみたいで、すごく好きじゃない。彼にだって彼の人生があって、必至に生きてきた結果そういう処世術を身に付けたのだと妄想すると、その処世術を出会って数か月の私が「見える」などと形容するのは畏れ多い。
でも、わかりあえない。私は私の思考回路を説明するとき、どうしたって小学生の道徳の教科書にのっているみたいな言葉を選んでしゃべらないと伝わっている感じがしない。
中学生の時に空気が読めなくていじめられてるんだから空気が読めていないお前が悪いと担任の先生に言われて以来、私は私のことを信じられなかったんだけど、最近になって、その先生は「協調性があったほうが社会で生きやすい」ということを伝えるのにそういう言葉しかもっていなかっただけなんだと思ったら、ただそういう人に出会ってしまって運が悪かっただけなんだなって思いなおした。という話をしたら、彼は、それはそいつが悪いよ。と繰り返し言っていた。
いや、語彙や経験や指導力を持っていなかったことなんかは仕方のないことだったと今は思ってる。と言ったのに、そいつが悪いと繰り返していた。
あ、こういう考えは彼は持っていないんだな、と思った。
そういうことが2,3回続いて、私は道徳の教科書みたいな伝え方をするようになった。
「そいつ本読まないでしょ」
情報源はマンガとSNSだと思う。ヒロアカが好きなんだって。(この辺からヒロアカのネタバレがところどころ入ります)
「ヒロアカ好きでそんな浅いのか……。ヒーローものとして見てるのかな」
何が好きか、まだ話してないんだよね。私は今見たところまでの感想を都度喋ってるんだけど、そのたびに全部見てから話そうって言われてる。
「まあ、全部見てから話したい気持ちもわかるね。キャラクターがどんな成長を遂げたのか、後ろから振り返れるし。特に爆豪」
え、待って。爆豪って1期でこんな成長したのに、まだ大人になるの?
「1期でそんな成長感じることある?」
自分が最強だと思っててさ、バカにしてたやつにルール上負けてずるいって言ってたのに、轟くんに圧倒的力を見せつけられて、よりにもよって自分が一番バカにしてたやつに勝てねえって思っちまったって吐露してるんだよ。自分の弱さを認めるのだけでさえものすごく苦しいのに、自分が一番バカにしてた相手に俺は弱いんだって言うの、そんなの、簡単にできることじゃないよ。自分の弱さも、弱いと思ってたやつに負けたことも認めてさ。ものすごくしんどいことを彼はやってのけたんだよ。
「あー、そういう風に見えてるのね。まあ確かにそういわれればそうね。でも、それを成長として捉えられるのは、きちんと自分の弱さと向き合ったことがある人だけなんだと思う。そういうのきっとわかんないだろうところが、俺から見た彼氏さんの『浅さ』」
ちょっと、わかっちゃった。彼のこと見下してる自分がいることを認めるみたいでくやしい。
「2年前の俺を見てるみたいだ。あなたの話についていけてないことを認めたくなくて、わかったふりして相槌うってたし、なんなら自分の知識ひけらかしてあなたにも知らないことがあることに安心してた」
大変申し訳ないけど、そうやって知識ひけらかされたときに、それで?お前はそれを見てどう思ったわけ?何を感じたの?どうしたいと思った?って聞いて、そういうものってだけ、って答えに浅ぇ~って言った覚えがあるわ。
「最近になってマッチングアプリで出会った子の好きなアニメとかマンガとか見たり、旅行行ってみたり、そういうものからしか得られない感性ってものがあることを理解したね。自分の心地いいだけの閉じた世界で生きてたなって」
「教養も近いけど、絵画で言うなら筆致がどうとか配色がどうとかそういうのは教養でわかるかもしれないけど、こんな塗り痕、この人はこの絵を描くとき怒りを感じていたのかもしれないなって思うのは感性でしょ」
なるほど、たしかに。
「あなたのそういう感性が、あなたが閉じてない世界で生きているからこそ身に付いたものなんだって今ならわかるし、彼氏さんの世界が閉じているように見えるのもわかるよ」
そうなのかな。わたしからは絶対に生み出せない宝石みたいな言葉をたくさんもってるのに。
「ここまでの話を聞くに、お金とか時間の使い方に関してものすごく大きなズレがあるじゃん」
うん。
「彼はそれだけ仕事しててお金もあるのにお金を無駄遣いできないっていう感覚で生きているようにあなたから見えてるんじゃないかと思うんだけど、どう?」
そう見えてる。私が彼と同じくらいの時給あったら、必要分だけ貯めて、たくさん旅行行ってたくさん美術館いってたくさん本買ってたくさんゲーム買う。
「それってさ、どれだけ稼いでたとしても不安だからなんじゃないかな」
青天の霹靂。そうか。私は貯金が底を尽きたことがあるし、そんな状況であってもなんとか立て直していま生きているから、将来のお金の不安なんて考えたことなかった。
「考えは彼は持っていないんだな、と思った。
友達付き合いだって、きっと価値で考えてる節も大きいと思うよ。縁があったらいつか大きいお金を動かすときに頼りになるからね」
めちゃくちゃ思い当たる節がある。100%そうじゃないけど、でも、そういう風に見てる面だって少なからずあるって話してたし、私がやりたいと思ってたこと話してても、そういう話してた人に話聞いてみるわみたいなこと言ってた。
「だからあなたとのデートやあなたの価値観を理解することは、生きるためにお金を稼ぐことに必死な彼にとってそんなに優先度が高くない」
うわ、私、彼がお金のことで怒りを感じてる話聞いてたのに、ちゃんと理解してなかった。どうしよう、すごく申し訳ない。話聞いたふりだけして、なんにもわかってなかった。いや、彼さえ多分気付いていないことだから言葉になって出てこないのは当然なんだけど、それはそれとして彼の立場になって理解しようとしてなかった。どうして怒ってるのって聞き出せないことにもどかしさばっかり感じて、私、なんてひとりよがりなコミュニケーションしてたんだろう。すごく申し訳ないな。
「そしてそんな浅い彼とストレスなく一緒にいたいと思うならどうすべきか考えるのはあなたの方がきっと突飛なアイデアを持っているはず」
ちょっと待って、すごくショック。あのね、彼が、親は貧乏だから贅沢言うなって言ってたのにローン組んで注文住宅買いなおしたの本当に馬鹿だと思ってるって話してて、その話、私がわからなさすぎてちゃんと聞けなかった。そこに彼の怒りがあったのに、気付かなかった。
「それは彼も不動産のことちゃんとわかってないわ。ローンは借金かもしれないけど、活用すれば節税になる」
事実としてそうかもしれないけど、彼はそれを全く知らないわけではないと思っていて、節税するほど稼いでるように見えないのに、少なくともそんな稼ぎはないと言われているのに借金をつくっていると怒っているんだから、自分がしてきた遠慮とか無意識のうちに受けてた制限に怒ってることを理解できなかった私に腹が立ってるんだ。私の人生だってまだまだ全然浅いのに、棚に上げて、もう、本当に呆れている。
「反省は5秒でいいでしょ。それで、どうするの?」
お金の勉強する。FP3級とか。彼の不安に寄り添うか解消するかして、彼が遊ぶ時間を作って私の遊びに付き合わせる。
「自分のわがままに払う代償でかすぎるだろ。100時間はかかるぞ」
まあ、時間はありあまってるから。お金をえることを諦めた代わりに人生の余白を作ってるくらいだし。
「あなたのそういうところ本当に素敵だと思う。やりたいことやりな」
私の世界に、初めて人が入ってきた感じがした。
私がここにいることを、この人は心の底から肯定してくれている。絶対に嘘じゃない。
衝動的で、気分屋で、自己愛が強くて、いじめられるのが怖くて臆病な私を丸ごとさらけ出したのに、この人はお世辞抜きで肯定してくれている。
10年の付き合いが、それを信じさせてくれている。
私を見ていてくれた人が、ここにいる。
私さ、小学1年生のときに10を見て、なんで1と0なのに『じゅう』なんですか?って聞いたんだよね。そしたら、そういうものだって言われてさ。わかんないって言ったらそういうものだから聞かないでって言われたの。
「まあ、小学1年生に十進法がどうとか説明してもわからんわな」
これって大きく分けて2つの側面から先生はそうやっていったと思うんだよ。1つはお前の言った通り、相手を子ども扱いしてるからってことと、もう1つは理由はあるんだけどその先生が説明できるほど詳しくなかったとかそういう説明するのをめんどくさがったとかまあそういうのに類するもの。
「ああ、まあそれもあるかもね」
私の彼氏に対する扱いが前者。で、私が彼氏にむかついてる理由が後者。
「というと?」
知らないものを知らないと言ったり、できないものをできないと言わないかわりに自分より立場の弱そうな人を標的にして怒ってるんだと思うんだけど、それを言葉にできる能力がなかったり認めたりできるほど考えたことないんだろうなってことがなんとなくわかる。
「話を聞いてる感じ僕にもそう見えるね」
でも、私はそれも彼の人生だと思う。私は居心地悪いけど、ここで彼のそういう面を私が言葉にして彼にぶつけるのは、傷つけたり彼の人生を否定することになるからしたくない。
「ほんとそういうところ素敵だと思うよ。他人のこと全部受け入れるっていうか、否定しないっていうか。真っ直ぐ生きてる」
どうだろ。頭の中は激情が渦巻いてるけど、私のこの感情をぶつけることよりもあなたがあなたらしくいることのほうが尊いっていう怒りや自虐みたいなものなのかも。
(中略)
「昔さ、同じ学校の同学年に支援級に通ってるアスペルガーの子がいてさ。正直ぼくはそいつのことバカにしてたんよ」
まあ、理解できない行動してるよね。
「でもテストの点数はそいつのほうが圧倒的によくって。低いところにいると思って見下してたら、はるかに高いところにいたって話」
まあ、どちらにせよお前の視界の外にいたから不気味だったんでしょ。理解できなかったり視界の外にあるのにいることはわかるって怖いし。
「そうかも、そうだね」
私もそう。どこかみんなと違って、おかしいのに、公立学校っていう普通の社会の中にいたんだけどさ、誰も私が異常だって言葉で指摘できなかった。だから村八分にされたんだよね。
因習村もびっくりな都会で、あいつは化物だって村八分。村八分にされたら、私、自分らしくいることが怖くなっちゃってさ、私が何者かとか、私が何が好きかとか、どんなことがしたいのかとかわからなくなっててさ。
でも、今、やっと思い出した。私、みんな素敵なんだよ、あなたのこんなところが好きだよって全人類に言って回りたかったんだ。
「普通にそれされたら怖いよ」
ちょっと前までのお前は口を開けば投資やまったく形のない理想の結婚の話ばかりでファニーだったけど、今の私は、間違いなくお前がいてくれてよかったと思ってる。
『平等』
舞台: 明治16年、慶應義塾の書斎。福沢諭吉が『学問のすゝめ』の改訂に取り組んでいる夜更け。
悪魔:(突然、洋灯の影から現れ、西洋風の礼装で一礼)「福沢諭吉先生。あなたの『天は人の上に人を造らず』という言葉、実に見事です」
福沢:(眼鏡を押し上げ、冷静に観察)「おや、随分と物々しいお方が訪ねてこられた。どうやら普通の客人ではなさそうだな」
悪魔:「ええ、私は…『平等』という概念の普及によって、利益を得る日本の悪魔です。今回、あなたに特にお礼を言いに参りました」
福沢:「ほう? わしが平等を説くことで、悪魔が喜ぶとはこれ如何に」
悪魔:(優雅に椅子に座りながら)「あなたの言葉は確かに人々を鼓舞しました。しかし同時に、最も巧妙な『罠』を仕掛けたのです」
悪魔は掌をかざすと、そこに現代日本の光景が浮かび上がる——受験戦争、就活の敗者、SNS上の妬みと劣等感…
悪魔:「見てください。『平等』を信じれば信じるほど、人々はわずかな格差に敏感になり、他人との比較に苦しむ。あなたが与えた『平等の幻想』が、かえって人々の心に深い不公平感を植え付けたのです」
福沢:「違うな。わしは『法の下の平等』と『機会の平等』を説いた。結果の平等など、夢物語だと知っている」
悪魔:「それです! まさにそこが素晴らしい。あなたは『機会の平等』を説くことで、すべての失敗を『自己責任』に帰着させる装置を作り上げた。失敗者は社会を恨むのでなく、自分を責め続ける——これ以上に効率的な苦悩の製造装置がありますか?」
福沢:(机を叩いて)「迂闊なことを! わしが求めたのは『独立自尊』の精神だ。他者との比較ではなく、自己の成長を——」
悪魔:(遮って)「しかし現実は? 学歴、収入、容姿——あらゆるものが序列化され、人々はあなたの言葉を盾に『努力不足』と自己嫌悪に陥る。最も残酷なのは、『平等であるべき』という理想と、『明らかに不平等な現実』のギャップなのです」
悪魔:「江戸時代、身分は固定されていましたが、人々は比較の範囲が限られていた。あなたが『平等』を説いたおかげで、誰もが無限の比較対象を持つ地獄に放り込まれた——これこそ私の最高の芸術作品です」
福沢:(静かに、しかし力強く)「聞け、悪魔よ。お前の論理には重大な誤りがある。確かに平等は苦悩をもたらすかもしれぬ。しかし、それは成長の苦悩だ。身分制度の下で蠢くより、苦しみながらも上を目指す方が、人間らしい生き方ではないか」
悪魔:(嘲笑して)「では質問を。あなたの愛する日本で、『平等』の名の下に、かえって新たなエリート階級が生まれ、学歴エリートが庶民を見下す構造ができあがった。これも『独立自尊』の成果ですか?」
福沢:「……それも一理ある。しかし、わしは諦めん。教育こそが、真の平等への道だ」
悪魔:(立ち上がり、深々とお辞儀)「そのお考えこそが、永遠の苦悩を保証するのです。あなたが教育を重視すればするほど、人々は『教育格差』に敏感になり、さらに深い苦しみが生まれる——まさに悪循環の始まりです」
悪魔は次第に影の中に消えていく。
悪魔:「福沢先生、あなたの掲げた『平等』という理想は、人類に永遠の不満と苦悩を与えてくれました。これ以上に価値ある貢献がありましょうか? 心から感謝申し上げます」
悪魔が消えた後、机の上には初版の『学問のすゝめ』が置かれていた。ページは「天は人の上に人を造らず」の箇所で開かれている。
福沢諭吉:
「たとえ悪魔の言う通りだとしても……人間が上を目指して苦しむ権利を、誰が奪えようか? 平等は確かに幻想かもしれぬ。しかし、その幻想を追い求めることが……人間なのである」