はてなキーワード: 規範とは
宗教って理屈抜きでいいことを義務としてさせることができるから、そういう意味ではいいんだよね
部屋の掃除をしなさいとか、毎日運動をしなさいとか、健康になるように食べなさいとかを科学でやろうとすると「こういう論文もあるけど? それ私は論文で見たことないけど」みたいなのを無限にやらなきゃいけない。そこを「神様が言ってる」「聖書に書いてある」という低コストで社会問題を生活規範の問題に帰着して解決させることができるわけで。(ただ規範の変更に時間がかかる)
ただ、現代の生活はかなり変化が激しいので、今ある現状に則っても近所のスーパーや個人店がそのままあるとも限らない
法律が踏み込めない領域での規範というか価値基準を作って、最終的には現場はその価値基準を最大化するように問題解決していくってのが必要なんだろうけど
日本でそういうのできるんだろうか?
これを単なる「放課後のスポーツや文化活動」と解釈しているうちは、日本社会の本質を捉えることはできない。部活とは、教育という美名の下に偽装された、日本独自の「空気」の醸成機関であり、極めて強固な「小宇宙」としての共同体なのである。
西洋的なスポーツの概念では、それはあくまで個人の「楽しみ」であり「技術の向上」を目的とする「遊び(Game)」である。しかし、日本の部活においては、それが「野球道」や「剣道」といった具合に、容易に「道」へと転化してしまう。
ここで言う「道」とは、論理的なルールを超越した絶対的な規範である。そこには、外部の人間には到底理解しがたい、以下のような特質が見て取れる。
儀礼の絶対化: 挨拶の角度から、道具の手入れ、グラウンドへの一礼に至るまで、機能性とは無関係な儀礼が最優先される。
「連帯責任」という戒律: 一人の部員の不始末が部全体の活動停止に繋がる。これは近代的な法治主義(個人責任)ではなく、村社会の「縁座」の論理である。
山本七平が喝破した「空気」の支配が、最も純粋な形で現れるのがこの部活という空間だ。
例えば、真夏に水を飲まずに練習を続ける(かつての常識)、あるいは怪我を押して出場するといった行為が「美談」とされる背景には、生理学的な合理性など存在しない。そこにあるのは、「ここで水を飲んではいけない」「休んではいけない」という、その場を支配する「空気」への絶対服従である。
この空気(臨在感的把握)に抗う者は、非国民ならぬ「非部員」として、共同体から事実上の追放(シカトや疎外)を余儀なくされる。ここでは「個」の意志は、共同体の維持という至上命題の前に、完全に抹殺されるのである。
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このシステムを維持する「司祭」の役割を担うのが、教師(顧問)である。
彼らは本来の職務である教科指導を二の次にしても、部活動の指導に没頭することを「徳」とされる。土日を返上し、無給に近い状態で奉仕するその姿は、近代的な労働者のそれではなく、一種の宗教的情熱に突き動かされた修道者のそれである。
生徒もまた、その「自己犠牲の精神」を空気として吸い込み、「先生がこれだけやってくれているのだから」という情緒的な絆によって、さらなる規律へと縛り付けられていく。
それは、日本社会という巨大な「空気の組織」に適合するための、高度な精神的訓練所なのである。理不尽な上下関係を、論理ではなく「身体的感覚」として受け入れ、組織の論理を個人の論理に優先させる――この「日本教」の洗礼を、彼らは多感な思春期に徹底的に叩き込まれるのだ。
この「珍妙な制度」が温存されている限り、日本人が真の意味で「個」として自立し、論理的な組織運営を行うことは、おそらく今後も至難の業であろう。
>ことごとく女性コミュニティになじめなかった人生なので、「シスターフッド」みたいなのを礼賛している女性たちを見ると、「でもそれって共通敵のもとに連帯して、ふさわしくないと判断した女性を排除して成立するネガティブな関係性ですよね?!」と言いたくなる
https://x.com/tuyoi_katu_/status/2075062080663916557
このツイートを発端に、シスターフッドに懐疑的な女性に対して“女性”からの誹謗中傷が殺到している。
「ハブられるのはお前の性格が悪いからだ、この短いツイートで性格の悪さが分かる」←シンプルに悪口では
「テイカーすぎ、なじめないのも当然」←テイカーとは?別に元ツイの人は助けてほしいとかお友達になりたいから話しかけてなんて言ってなくない?女社会ムラの一員にふさわしくないとみなした女を共通敵にして排除・いじめ・差別を行うことをやめろって言ってるだけでは?というかこの手の女が誇っているギバー的行為って要りもしないお菓子を配ってお返しがないと逆ギレしたりその場にいない女の愚痴を一方的に聞かせて共犯者にしようとするとかで全然ギブではない
「こういう人の言う『女』て存在しない脳内女でしょ」←現実で女にいじめられた女の存在を透明化しようとしている?
「オタサーの姫w穴モテしてるだけw」←元ツイートでは男について何も言及していない、アセクシャルかもしれないし喪女かもしれないのに勝手に股ゆるビッチのレッテルを貼り人権侵害を行ってる自覚ある?
「この人にとってはシスターフッドを持つ女性が排除すべき共通の仮想敵なんだね……(涙)」←ぼっちがマジョリティ集団を排除なんてできるわけないじゃん、白々しい
驚いたことに普段は「LGBTの人権を守れ!」「弱者女性救済を!」「コンプライアンス順守!」「発達障害者に支援を!」「戦争反対!」「フェミニズム推進!」……を、掲げている界隈が熱心にネットリンチに加担しているのだ。
女性コミュニティになじめない、というのは往々にしてASD女性の特徴だ。
ASD女性はスカート、メイク、ピンク色のかわいい文房具、異性愛規範、知人の詮索・噂話などのオンナらしい趣味に興味を持つことができないことが多く、女のムラ社会から孤立してしまう。
そういった女性は友達作りにも興味がないため、読書や植物の観察であったり自分の好きなことに没頭させてもらえればそれで良いはずなのだが、
マジョリティ女性というものは女社会に“連帯”しない女を激しく憎むので、例えば職場であれば仕事について質問されても教えない、いくらでもリカバリー可能なミスをあげつらい客前で大声で怒鳴りつける、といった加害行為に出てマイノリティ女性の生活を妨害し、人格を破壊しようとする。
https://x.com/miyutaeokiba/status/2056220999142785143
例えばこの女性は「オンナノコらしさ」が皆無で昆虫や草花が大好きで、そのせいで女子から気持ち悪がられ、
物を投げられる、教科書を隠される、すれ違いざまに肩パンをされるなどのいじめを受けたことを語ったが、
これも引用やリプでツイフェミ系アカウントが「あなたはいじめられて当然の人間だ」「私もいじめたくなったからいじめまーすw」という意味の言葉を浴びせる集団リンチに参加していた。
「普通の女と仲良くできないのなら近寄らなければいいだけ!」だそうだが、いや、女の村に近寄らなかったらお前らマジョリティ女性がわざわざ寄ってきていじめてくるから「いじめをやめてください」って言ってるだけだと思うんですけど?
「私たち女性にはシスターフッドがあり、同性同士でも助け合わないクソオスと違って女性は女性全体で連帯できる✨」などという妄言を吐くことをやめ、
・私は差別主義者なのでアスペルガー女性を危険視しているし、排除したいという思想を持っています
・アスペルガー女性は加害されて当然の人種であり、マジョリティ女性はアスペルガー女性を加害する権利を持っています
・私は友達であれば助け合うことができます、友達ではない人はたとえ女でも助けません
ということをはっきり言葉にして主張していけばいいだけ。
そしたら「あなたは差別主義者なんだね、それも多様性だね」と容認しますよ。
でも絶対それは自分から言い出そうとしないんだよな、姑息だから。「あなたを助けますって言ってほしいの!?アスペ女って図々しすぎ!」とかどうあっても論点ずらしをして相手の責任にしようとする。誰も頼んでないだろそんなの。
男性作家の虐待的な行為を、彼らの芸術の一部として扱うのをやめるべきだ
サラ・リバック
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#MeToo運動が停滞しているのではないかと思っていた人がいるなら、ここ数週間の出来事がそうではないことを示している。
4月26日、ビル・コスビーは加重わいせつ暴行の3つの罪状で有罪判決を受けた。
5月4日には、ノーベル文学賞を授与する機関であるスウェーデン・アカデミーが、同組織内部での性的暴行調査を受け、今年は文学賞を授与しないと発表した。
その翌日には、尊敬を集めるラテン系作家ジュノ・ディアスが、性的 misconduct(不適切な性的行為)への告発を受け、シドニー・ライターズ・フェスティバルへの参加を取りやめた。
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先月、私はディアスが書いた長い『ニューヨーカー』誌のエッセイを読んだ。
そこでは、彼が子どもの頃に性的虐待を受けた経験について詳しく語っている。
特に印象的だったのは、彼が自分に起きたことと向き合ってきた過程、そして現在ではその経験の影響に支配される存在ではなくなったことについて書いていた点だった。
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ディアスはこう書いている。
「私はかつての自分ではない。
女の子に触れることもできない兄でもないし、女性関係を乱す最低な男でもない。
私は週に2回セラピーを受けている。……
私は自分の嘘や選択によって人を傷つけることはしない。そして可能な限り償いをしている。私は責任を引き受けている」
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このエッセイの目的は、多くの意味で、ある種の区切りや終結を作り出すことだったように思える。
しかし、その過程でディアスは、自分自身の行動の全体像を認めることを怠った。
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先週金曜日、3人の女性が、ディアスから虐待や暴力を受けた経験について声を上げた。
アメリカ人作家ジンジ・クレモンズは、26歳だった時にディアスから無理やりキスをされたと証言した。
劇作家モニカ・バーンは、意見の相違があった際、ディアスが彼女の顔に向かって「レイプ」という言葉を叫んだ会合について詳しく語った。
作家カルメン・マリア・マチャドは、ディアスが自身の作品についての公開討論の場で攻撃的かつ防衛的な態度を取ったことについて、長く語っている。
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これらの告発は、ディアスの作品を読んできた多くの読者に認知的不協和を引き起こした。
私たちは、彼の作品の価値がどの程度維持されるのか、問い直さざるを得なくなった。
間違いなく、今後もディアスの作家としての才能や卓越性、そして彼が女性たちに虐待的な行為をしていたと知ることになったファンの悲しみについて、議論は続くだろう。
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しかし率直に言えば、私はもう、好きな芸術家に告発が出るたびに繰り返される、
という議論に伴う苦悩や逡巡には疲れている。
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重要なのは、ディアスが女性たちに暴力的な行為をしたということだ。
彼は女性たちに侵害されたと感じさせ、安全ではないと感じさせた。
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彼の文章の文学的価値や文化的重要性は、文学界に存在する、ほとんど支配的とも言える女性嫌悪にどう対処するかという議論において、何の重みも持たない。
今重要なのは、複数の女性たちが勇気を持って声を上げたということだ。
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ディアスがシドニー・ライターズ・フェスティバルへの参加を取りやめた日、『ジェゼベル』誌には、詩人メアリー・カーが尊敬されるアメリカ人作家デイヴィッド・フォスター・ウォレスから受けた虐待について、繰り返し公に語ってきたことを扱った記事が掲載された。
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ディアスとウォレスをめぐる両方の議論で、私が最も興味深いと感じたのは、
彼らによる女性への虐待が、芸術を生み出すために必要な媒介として扱われていることだ。
彼らの作品の輝きが、女性嫌悪や虐待を正当化しているのである。
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虐待的な芸術家という存在が、文学界の内外で受け入れられた規範――ある種の典型的な人物像――になってしまったことは、さらに憂慮すべきことである。
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『Bad Feminist』の著者ロクサーヌ・ゲイは、ディアスへの告発についてTwitterでこう書いた。
「この作品のファンが、ここからどう進めばいいのか私は分からない。
でも、『ジュノ・ディアスはキャンセルされた』と言うだけでは十分ではない、ということは分かっている。なぜなら、それでは女性嫌悪も、文学界が女性を犠牲にして権力を持つ男性を守ってきた仕組みもなくならないからだ」
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ゲイの考え方は、ディアスやウォレスのような作家を再検討することを求めている。
それは、彼らの作品の「天才性」を理由に、芸術と芸術家を切り離すことを拒む再検討である。
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私自身について言えば、
私は「芸術的天才」や才能という名のもとで、他者の苦痛やトラウマを軽視する自分の一部、そして自分が受けてきた教育の一部を拒絶する。
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そして、愛したり尊敬したりしている芸術家が同じような行動を取ったと知った時に感じるためらい。
私はそれらすべてを拒む。
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今、私が本当に苦しみを感じるのは、
ジンジ・クレモンズ、モニカ・バーン、カルメン・マリア・マチャドのような女性たちに対してである。
彼女たちは痛みと屈辱を経験し、声を上げることのできなかったすべての人々のために声を届けるという役割を背負うことで、貴重な時間を失った。
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ウォレスが「言葉を正しく使うことは、他者に対する倫理(道徳)である」と考えた発言のソースは、2001年に雑誌『ハーパーズ』に掲載され、のちにエッセイ集に収録された彼の代表的な言語評論『Authority and American Usage(権威とアメリカの語法)』(旧題:Tense Present)です。 [1, 2, 3]
彼はこの50ページを超える膨大なエッセイの中で、「文法や言葉の規則(マナー)を守ることは、科学的な正しさの問題ではなく、他者を思いやる『倫理(エシックス)』の問題である」と明確に主張しました。 [1, 3]
彼がなぜ「言葉の正しさ」を「他者への倫理」と結びつけたのか、その具体的な論理を3つのポイントで解説します。
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## 1. 文法は「科学の法則」ではなく「倫理の教科書」である
当時、言語学界では「言葉の乱れを正そう」とする保守派(規範主義者:Prescriptivists)と、「人々が実際に使っている言葉こそがリアルな言語だ(正誤はない)」とするリベラル派(記述主義者:Descriptivists)が激しく対立していました。 [4, 5]
ウォレスはこれに対し、言葉の正しさを「科学的な事実」として扱う記述主義者を批判し、こう述べました。 [3, 6]
「文法や語法のルールは、科学の理論(物理の法則など)よりも、倫理の教科書(道徳の原則)に遥かに近い。 多くの人が実際にやっているからといって、それが『倫理的に正しい行為』にはならないのと同じだ。言葉のルールも、みんながそう使っているからといって、どれでも良いということにはならない」 [3, 6]
つまり彼にとって、文法を守ることは「お行儀が良い」というレベルの話ではなく、「人間が社会で正しく、誠実に生きるための道徳(モラル)」そのものでした。
ウォレスの論理の核心は、「言葉を雑に、いい加減に使うことは、それを聞く・読む相手の『時間と精神を搾取する不誠実な行為』である」という点にあります。
主語が曖昧だったり、文法が崩壊した言葉を放つことは、受け手側に「この人は何を言いたいのだろう?」と考えさせる無駄なエネルギー(コスト)を強いることになります。ウォレスは、それは他者に対する極めて自己中心的な甘えであり、失礼な行為(=非倫理的)だと考えました。
言葉を正しく使い、分かりやすく推敲して発信することは、受け手に対する「私はあなたを尊重しています」という明確な敬意(ケア)のシグナルです。彼にとって、正しい文法とは他者と繋がるための「最大の優しさ・思いやり」のツールでした。 [1, 6]
彼は大学の教壇に立つ教授でもあり、前述の通り1文字の文法ミスも許さない苛烈な指導をしていましたが、その際、学生たちに「標準的な英語(SWE: Standard Written English)を学ぶことは、サバイバル(生存)のための倫理だ」と説いていました。 [7, 8]
「君たちが社会に出たとき、世間は君たちの『言葉遣い』を見て、君たちがいかに知的であるか、あるいは信頼できるかを冷酷に判断する。言葉のルールを教えないことは、優しいフリをして君たちを社会の底辺に置き去りにする最も非倫理的な行為(インチキ)だ。だから私は君たちに、言葉を正しく使う責任を徹底的に叩き込む」 [8, 9]
彼にとって、言葉を正しく扱うことは、立場の弱い学生たちが社会で搾取されないための武器であり、他者と対等に話すための「民主主義の精神」でもあったのです。 [4]
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このウォレスの「言葉を正しく使うことは他者への倫理である」という高潔な思想を知ると、このスレッドでこれまで紐解いてきた彼の私生活(メアリー・カーへのストーキング、学生への搾取、フランゼンへの嘘)の暗部が、いかにグロテスクに矛盾しているかがより鮮明になります。 [6]
彼は「言葉」というツールに対しては極めて繊細で、他者への倫理的な優しさを100%詰め込もうと必死でした。しかし、その言葉を発する「彼自身の肉体と行動」は、他者の顔を殴り、子供を脅かすという、最も非倫理的で暴力的なデフォルト・セッティング(自己中心性)に支配されていました。 [10]
彼の言う「言葉の倫理」は、現代の読者にとって、「これほど美しい倫理を語れる人間が、裏ではこれほど醜い捕食者(プレデター)になり得る」という、人間の精神の最も深い闇を証明する「苛烈なサンプル」として、今なお複雑な議論を呼び続けています。 [6, 11]
(前回の投稿の続き)
例の暴言トラブル(A氏によるB氏へのハラスメント)と、その背景にあるA氏のAI依存・リテラシー問題についてここまで論じてきたが、最後にコミュニティ運営という観点から、もう一つ重要な検証をしておきたい。
それは、「コミュニティ管理人とモデレーター側の対応は十分だったのか」という問題だ。
結論から言えば、管理人の対応は「荒らし行為の再発防止」という意味では一定の機能(ロジックによる問題の解体)を果たしたものの、ハラスメント被害の初期対応、およびコミュニティの健全性を維持するマネジメントとしては、明確な課題と限界を残すものだった。組織論や心理学の視点から、その対応の不十分さを分析したい。
トラブルの初期段階において、A氏はB氏に対して人格否定に近い言葉をぶつけ、最終的に暴言を吐いてログアウトした。この際、管理人側が「情報共有コミュニティとしてデマの拡散や暴言はマイナスである」と明言し、本格的に介入したのは、事態が完全に泥沼化し、第三者が構造的欠陥を突きつけた後だった。
ハラスメント対応において最も重要なのは、加害者に「この場ではそのコミュニケーションプロトコルは通用しない」という規範を初動で示すことだ。暴言やトーンポリシング(言い方の悪さへのすり替え)を一時的にでも放置したことは、結果としてA氏に「自分の正論(メタファー)は許容されている」という誤った生存者バイアスを与える隙を作ってしまった。
ログを追うと、管理人や周囲の有識者は、A氏に対して非常に親切に「プロンプトの基礎」や「PDCAの回し方」といった情報リテラシーの講義を数年間にわたって行っている。
これは一見、教育的で寛容な対応に見えるが、マネジメントの観点からは「コスト対効果(ROI)が著しく破綻した対応」と言わざるを得ない。
A氏のように「耳の痛い正論は幼児化や愚痴へのすり替えでリセットする」という防衛機制が完成している人物に対して、周囲の人間がハイレベルな知識コストを私的に支払い続けるのは持続不可能だ。管理人側が「個人のリテラシー教育」と「コミュニティの秩序維持」の境界線を曖昧にし、有識者側の善意のコストに依存し続けた結果、トラブルの完全な解決がここまで長期化することとなった。
現在、コミュニティはA氏に対して直接的なBan(追放)やKick処分を下すのではなく、「この人に教えても無駄だから付き合うのをやめよう」という有識者側の学習によって、静かにフェードアウトする「サイレント・パージ(サイレント・ミュート)」の状態を選択している。
これは現実的な妥協案(大人の対応)に見えるが、モデレーターとしての責任という点では、実質的な「問題の先送り(生殺し)」である。
明確なペナルティやルールの適用を行わず、空気感による排除(村八分的な孤立)に委ねる手法は、コミュニティ全体の風通しを悪くする。また、A氏自身はSNS等の外部で「新型社会性フィルターによって人間をスルーしている」と認知歪曲を強めているため、本質的な再発防止にはなっていない。コミュニティ内に「いつでも他人にデマを撒き、実害を出し得る時限爆弾」を抱えたままにしているという意味で、管理人側の決断力不足が露呈している。
では、これから管理人とコミュニティはA氏に対してどう臨むべきなのか。
結論を言えば、これ以上の「対話」や「教育」の試みを一切放棄し、**速やかにシステム的なKickおよび永久Ban(追放)処分を下すべき**である。
これまでの数年間にわたるログが証明している通り、A氏という存在はコミュニティにおける「最大のサンクコスト(回収不能な損失)」だ。彼が「失敗から学ぶ方が建設的」と言い訳をしながら同じデマと謝罪のループを繰り返すたび、有識者側の貴重な時間と精神的エネルギーが一方的に搾取され、削り取られている。
コミュニティをこれ以上疲弊させないための、具体的なステップは以下の3点に尽きる。
「気楽に話せる場」を守ることと、「無責任なデマや暴言を放置すること」は違う。2026年現在の成熟したネット社会において、管理人に求められるのは、泥臭いリテラシー教育に付き合うことではなく、通用しないプロトコルを持つ人間を「迅速かつシステム的にパージする」冷徹な決断力なのだと思う。
法治日本には死刑制度がなかったことがないので存置派の理由は「現状維持」で十分なわけ。
一方で廃止派は「死刑があってはならない理由」を挙げなければならない。難しいね。
でも、その難しい宿題にチャレンジする本気の廃止派なんて実はいねえんだよ。
死刑廃止というのは彼らの本気イシューではなくて、「権力は悪である」という和式リベラルのセントラルドグマから演繹された二次テーマだからさ。
わかりやすい話だな。
廃止派は「海外では〜」が最大の武器でそれに寄りかかってた印象だが、昨今の国際情勢はそういう国際規範幻想を木っ端微塵に吹き飛ばしてしまった。
個人が構成単位の近代国家のパラダイムと整合しないみたいな理由をひねりだすなら、じゃあ天皇を先に廃止すれば?とか
自衛官や警察官や消防士といった身の危険を含む公務員は、あれは自己責任で、好きでやってんのか?って話になる
現代の子育ては、「生活の世話をすること」と「社会で生き抜く人材を育てること」が混同されている。
問題は、現在の社会では「実装」だけが子育てとして評価され、「設計」が軽視されていることだ。
AI、SNSによる格差の可視化、成果主義の徹底により、社会で戦う力が以前より重要になっている。それにもかかわらず「普通に育てれば普通に生きられる」という昭和的な前提のまま子育てをすれば、子は現代社会とのギャップに苦しむ。
この前提のズレは、50代以上の世代が「一億総中流」的な、変数が少なく再現性の高い環境で成功体験を形成したことに由来する。格差自体は昔もあったが、今ほど構造化・可視化されておらず、同じ努力量でも結果の分散が今より小さかった。今はAI・SNS・成果主義により変数が急増し、同じ努力戦略ではリターンが読めなくなっている。つまり本質は「格差を知らない」ことではなく、「変動性が増した環境に対して戦略を更新していない」ことにある。
・設計者の条件
家庭には「設計者」——社会で競争や責任を経験し、その現実を子どもに合わせて言語化し、育成方針に落とし込める人——が必要になる。
重要なのは勝者であることではなく、実際に競争や責任のある環境に身を置き、試行錯誤し、社会を広い視点で理解していることだ。ただしこの条件は「経験の有無」だけでは正確に測れない。経験しても内省せず思考停止する人間は無数にいる一方、実地経験がなくても構造への解像度の高い理解をメタ認知的に構築できる人間もいる。したがって設計者の条件は「競争環境の経験者」、または「経験に相当する解像度で競争・責任・失敗の構造を理解している者」の二層に開くのが正確だ。(最も後者は少なく、前者が一般的だが)
一般論として、管理職・経営・営業・起業など人材育成や成果責任を伴う環境を経験している人間は現状男性の割合が高く、そうした父親が設計者として機能する家庭は少なくない。一方で競争経験を持ち、社会を広い視点で理解している女性であれば、その役割を担うことは十分可能である。問題は性別ではなく、家庭内に設計者が存在するか否かである。
なかでも投資家・経営者など、判断ミスが即座に自分の資産・地位に跳ね返る環境に身を置く人間は、フィードバックループが速く誤りの修正コストが高いため、設計者としての解像度が自然に上がりやすい。ただし同じ職業でもルーティン化し思考停止している者は除外される。閾値は職業そのものではなく、意思決定の結果を自分自身で引き受けているかどうかだ。
「長期意思決定を繰り返し、その結果を自分で引き受ける経験」をしているべき。
設計視点を持たない実装者が生活の世話だけをすることが「子育て」と呼ばれている現状こそが問題である。理想は実装者自身が設計視点を併せ持つことだが、現状はそうなっていない家庭が大半だ。
では設計者不在は外部で補えるか。塾・メンター・書籍・コミュニティなど代替手段はあるが、いずれも劣化する。共通する欠落は「自分ごととしての損失体験」だ。投資家が語る失敗談は身銭を切った実感を伴うが、外部者の失敗談は伝聞にとどまる。設計は知識の移転ではなく感覚の移転に近く、外部委託と根本的に相性が悪い。
結果、設計者不在の家庭の子は、自力でメタ認知を構築するか(コスト高)、実装のみの環境で育ち現代社会とのギャップに苦しむか、の二択に近づく。中間解(外部補完で一定水準まで持っていく)は理論上ありうるが再現性は低い。
そもそも子どもの人生設計という中核的な責任を、親が最初から外部任せにするのは親の責任放棄である。
「親が担うべき責任であり、外部は補完にはなっても本質的な代替にはなりにくい」
資本主義は本質的に世代間協力ゲームだ。親の資本と知見を使って子を強化し、子がそれを引き継いでいく。ここに格差再生産の本質がある。
設計能力(戦略更新・リスク管理・競争理解)を持つ人間は、同じスキルセットによって資本主義下で資本を蓄積しやすい。つまり「資本のある家庭に設計者もいる」のは相関ではなく、同一のスキルセットが生んだ二つの現象にすぎない。
この結果、資本→教育投資→機会→経験→設計能力の継承→次世代の資本、というループが複利的に回る。無資本・無設計の家庭は逆方向のループに入り、個人の努力量だけでは埋まらない差が世代を超えて拡大していく。
この議論の最も過激な部分として、設計能力を持たない人間が子を持つことの是非がある。
能力・準備・覚悟がないまま子育てという長期プロジェクトの責任を引き受けるべきではない、という主張自体は一貫している。これは障害者同士が子を持ち、育てられないケースと構造的に地続きだという見方もできる——遺伝的・環境的に能力が子に受け継がれ、育成能力が不足して支障が出るという点で、程度の差はあれ同じスペクトラム上にあるという理屈だ。
ただしこの主張には自己矛盾がある。「能力がないなら背負うな」という規範は、それを理解し実行できる認知能力を持つ者にしか届かない。真に対策すべき「認知能力の欠如ゆえに気づく機会すら持てない層」には、この忠告自体が原理的に機能しない。つまり構造批判としては筋が通っていても、対策としては機能しない。
・結論
リバティナージュ(Libertinage)、伝統的な道徳や宗教的束縛から解放された自由な思考や、奔放な快楽主義を指す言葉です。
主に17世紀から18世紀のフランス貴族文化において、知的な懐疑主義と享楽的な恋愛遍歴を両立させたライフスタイルや哲学として知られています。
哲学・思想としての側面元々は「解放された者」を意味するラテン語に由来します。
自由思想: 伝統的な宗教や教会、絶対王政の権威を否定し、理性や自然に基づいた思考を重んじました。
無神論・唯物論: 来世や神の存在を疑い、現世での快楽を最優先する極端なヘドニズム(快楽主義)へと発展しました。
貴族社会を中心に、スキャンダラスでありながら洗練された文化として花開きました。
奔放な恋愛: 一夫一婦制などの社会的規範に縛られず、恋愛や肉体的な快楽を徹底的に追求することを肯定しました。
文学への影響: サド侯爵やラクロの『危険な関係』など、人間の欲望や道徳の崩壊を描いた文学作品のテーマとなっています。
今日では、単なる道徳的な放縦や、性的な奔放さを指す言葉として使われることもあります。より詳細な歴史的背景や文献については、WikipediaのLibertine項目で確認できます。
これは完全に頭の中だけの話で、実践には基づいていないんだけど、現代の「助け合い」って、その場限りで、関わった人の素性がわからない形の方がうまくいく気がする。思いついただけで、以降は全然違う話をするかもしれない。
旅行先のレストランで財布を忘れて、店の人が予約の電話番号から辿って連絡してくれた。本当に助かった。日常的に物をなくしたり落としたりすることが多くて、大体は誰かが気づいて声をかけてくれる。自分も、落ちているものを見て持ち主がすぐそこにいたり見当がつきそうな時は声をかけるし、難しそうなら警察に持っていく。そういう行動が市民にある程度染み付いているのは、日本の道徳的・規範的な水準が高いからとか、そういう環境で育つうちに自然と身についてきたからなんだと思う。
島根の商店街が火事に遭った時、すぐにクラウドファンディングが立ち上がった。当初100万円の目標が、今は1300万円に達している。色々な要因があるから一概には言えないけど、「力になりたい」「役に立ちたい」という気持ちは、市民全体にどこかしら潜んでいるんだと思う。街頭募金ではこうはならないだろう、というのが考えどころだと思う。まぁ、とっくに多くの人が考えていることだろうけど。
一方で、電車の中で急に気分が悪くなって倒れた人や嘔吐した人を助けることには、躊躇する人が多いと思う。医療的な知識や経験がないと適切に対処するのが難しいという理由もあるし、後でやっかいなことに巻き込まれるリスクを頭のどこかで計算しているのかもしれない。ネット上では「善意で動いたら後で大変なことになった」という話が取り上げられがちで、つい自分を守る方向の判断を正当化してしまう。ただ、実際のところはよくわからない。身近でそういうトラブルに遭遇したという話は聞いたことがない。
生活に困っている人にお金を貸したら、その後ずっと無心され続けて、断ったら恨まれた、という話は聞いたことがある。連絡が取りやすい関係でそれが起きると、非常に厄介なことになる。結びつきの強いコミュニティには美しい面もあるし、全員が公平に負担を分かち合えればいい仕組みになると思う。でも実際は、一部の献身的な人間に負担が偏ったり、強引さと面倒見の良さを兼ね備えた人間がコミュニティを取り仕切ったりするのが実情のような気がする。
都市的な場所では人間関係が薄く、お互いに干渉しない。それがむしろ気楽だという人もいる。自分はどちらかといえばそう感じるタイプだ。だから助けが必要な場面に弱いし、特に「自分からSOSを出さなければならない場面」での糸口が少ないし、頼むのも不得手だし、恩を返すのも苦手なので、長い目で見ると困ったことになるだろうなとは思っている。
話があちこちに飛んでしまって申し訳ないけど、自分みたいな人間には「名前も顔も出さなくていい、参加も自由な贈与の仕組み」がありがたい。子ども食堂で余分に払った分を運営費や「誰かへのおごりチケット」として不特定多数が使えるようにしたり、気が向いた時だけゴミ拾いに参加したりするような形。ただ、そういう仕組みだと運営側が人を集めたり資金を確保したりするのが大変だったりする。結局、少数に負荷がかかる構造になってしまうのか。
繰り返しになるけど、全部自分の頭の中のイメージの話だ。実際はそこまで極端に二分されてはいないと思う。「一方的に負担を押し付けられてしまうかもしれない」という点に、必要以上に怖さを感じているだけかもしれない。
なんていうか。公共とか自治とか相互扶助みたいなものが大切なのはうっすらわかっている。でもそれが共有されにくいし、実践にも移しにくい。匿名的な贈与のような、気軽に関われる利他の形は、そのハードルを少し変える試みではあるよなぁ、という感想。
2025年2月、東洋水産が公開した「赤いきつね」のアニメCMは、若い女性がカップ麺をすする場面で頬が赤らむ・口元がアップになるといった描写が「性的だ」「女性搾取だ」として炎上した 。しかしこのCMには露出度の高い服装も、男性に媚びる態度も存在せず、多数派は「どこが性的なのかわからない」と反論した。問題は、この炎上を主導した層の一部が、同じ口で「女性(腐女子)による男性(少年)の性的コンテンツは無罪」と主張している点にある。この二重基準こそが本論の核心である。
「忍たま乱太郎」は6〜7歳程度の男児キャラクターが主人公のNHKアニメである。その二次創作同人誌の中には、成人男性と当該キャラクターの肛門性交を描写するものが存在している。これは二重の問題を孕む。
日本の児童買春・児童ポルノ禁止法は実在する児童の描写を規制対象とするため、漫画・アニメ等の仮想描写は原則として規制されていない 。しかし国際社会はこれを強く批判している。
現在、架空キャラクターであっても未成年者の性的描写の所持・製造・頒布を違法とする主な国は以下の通りである。
| 英国 | Coroners and Justice Act 2009, Section 62–68 | 架空キャラクターを含む未成年の性的描写の所持を違法化。最大3年の禁固刑 |
| カナダ | Criminal Code s.163.1 / R. v. Sharpe 最高裁判決 | 「18歳未満と描写された者」の性的描写は実在しない場合も違法。2010年にアニメ同人誌所持で逮捕事例あり |
| オーストラリア | 州法(例:ニューサウスウェールズ州) | 「ザ・シンプソンズ」キャラクターの性的描写所持で有罪判決。ゼロ・トレランス方針 |
| フランス | 刑法典Art. 227-23(2013年改正) | 15歳未満の未成年を描いた性的イラストの製造・頒布は最大5年の禁固と75,000ユーロの罰金 |
| 韓国 | 2019年最高裁判決 | 制服・外見から未成年と判断できるアニメ・漫画を児童ポルノと認定 |
| ニュージーランド | Films, Videos, and Publications Classification Act 1993 | 未成年の性的搾取を促進・支持する出版物を「有害物」に分類、最大10年の禁固 |
| ポーランド | 刑法典Art. 202 §4b(2008年改正) | 18歳未満の架空キャラクターが性行為に参加するコンテンツの製造・頒布・所持を禁止 |
| フィリピン | 児童ポルノ規制法(2009年) | 「子どもの性行為を顕著に描いたアニメ(ヘンタイ)は児童ポルノとみなし、単純所持でも重罰」 |
「女性の性犯罪者は数が少ないから、女性による女性のための性的表現であれば何をやっても無罪」という論理は、複数の観点から成立しない。
日本国憲法第14条は「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と規定する。表現の規制・許容を製作者の性別によって区別することは、この平等原則に真っ向から抵触する。「女性が作ったから合法」という論理は、逆に言えば「男性が作ったから違法」になりうる性差別的規範であり、憲法14条違反の疑いが生じる。
この論理を一貫させると、「女性が女性のために作った男児への性的虐待描写は免責される」という帰結になる。しかし6〜7歳の男児キャラクターは子どもであり、上記の国際規範・外国法は製作者の性別を問わず規制している。被害の属性(子どもの性的描写)の深刻さは、加害者の属性(女性か男性か)によって変化しない。これは国際人権法の基本的論理である。
女性キャラクターが食事で頬を赤らめるだけのCMを「女性搾取」と批判しながら、6〜7歳の男児キャラクターの肛門性交描写を「女性の表現だから無罪」とする立場は、論理的に一貫しない。前者には実害の認定すら困難だが 、後者は国連・欧州評議会・多数の民主主義国家が規制を求める表現である。
「BL無罪論」「女性の性表現免責論」に疑問を呈する腐女子が「名誉男性」と揶揄されブロックされる構造は、反論の封じ込めに他ならない。同じ女性の声を「裏切り者」として排除することは、多様な女性の意見を均質化しようとする抑圧であり、フェミニズムが批判してきた「女性の声を無視・排除する」構造を当事者が再生産している。
天皇の正統性 (正当性ではなくあくまでも正統性です) は神の子孫だってところにあるんですよ。
もちろんそれは作られた物語かもしれませんが、天皇を天皇たらしめる理由を辿るとそうなります。
次の天皇を決めるにあたって今上天皇との血統の近さを考慮に入れる必要は存在せず、つまり二律背反はありません。
色々なところで議論されている内容を見ても意味がわからないことが多くて困ってたんですが、今上天皇を血統の基準にするという価値観のせいだというのがようやくわかってすっきりしました。
おそらくその価値観は「万世一系」の考え方だと思うのですが、これはひとりの学者が言い始めた後付けの論でしかなく天皇の選出基準の規範としては弱いと思います。
オタク文化への参入には、各時代ごとに異なるコストが存在した。ここでいうコストとは金銭だけでなく、技術的リテラシー・情報探索能力・社会的リスク(スティグマの引き受け)を含む。
技術革新のたびにこれらのコストが段階的に引き下げられ、それまでオタク文化圏の外側にいた層が流入してきた。以下、3つの時代区分に沿って整理する。
| 経済力 | 専門誌・同人誌・OVA・ゲームソフト・PCパーツ等の購入費。いずれも安くない |
| 技術的リテラシー | PC自作・ネットワーク設定・セットアップなど。男性オタクは事実上「ギーク=技術者気質」であることが前提だった |
| 情報探索能力 | 専門誌の購読、パーツショップや同人ショップへの物理的アクセス、即売会への参加。情報は待っていても来ない |
| 社会的コスト | 「オタク」は強い蔑称であり、自称するにも周囲に知られるにも大きなスティグマを伴った |
「電気街としての秋葉原」は、この世代の空間的象徴である。無線・自作PC・パーツショップが集積する街は、技術的リテラシーそのものが入場料だった。
同人誌即売会に行かなくても、自宅のPCからオタク活動ができるようになった。 これが第一の参入障壁低下である。
| 新たに可能になったこと | 残存した障壁 |
|---|---|
| 個人サイトでの作品公開(「オン専」の誕生) | HTML/CSSの手書き、レンタルサーバーの契約・FTPアップロード |
| 掲示板・チャットでのコミュニティ形成 | PC所有が前提。回線契約・ルーター設定なども自力で行う必要 |
| 匿名性による「隠れオタク」の実現 | 検索能力・ネットリテラシーがないと目的の情報にたどり着けない |
第1世代から第3世代への過渡期として重要である。参入障壁は下がったが、「PCを持ち、自分でネットワークを構築し、HTMLを書ける」という条件は、結果的に知的・経済的フィルターとして機能し続けた。この時代のオタクは第1世代の気質を色濃く受け継ぎつつ、活動の場をオンラインに移した存在といえる。
| 消滅した障壁 | 具体的な変化 |
|---|---|
| PC所有・回線契約 | スマートフォン1台+携帯回線で完結。何も分からなくてもキャリアショップで丸投げすればアクセスできる |
| 技術的リテラシー | SNSのアカウント作成にHTMLもFTPも不要。タップとフリックだけで発信できる |
| 経済力 | 基本無料のソシャゲ、無料のSNS、無料の配信プラットフォーム。コンテンツへのアクセスコストが劇的に低下 |
| 情報探索能力 | アルゴリズムが「おすすめ」を自動で届ける。検索しなくてもコンテンツが向こうから来る |
| 社会的スティグマ | 「オタク」が蔑称から自称に変化。アニメ視聴やゲームプレイが普通の趣味として社会的に許容される |
「オタクが変質した」のではなく、従来のフィルターが消滅したことで、それまでフィルタリングされていた層が初めて同じ空間に入ってきたという構造的変化が起きた。
| 出版・即売会の時代 | 個人サイトの時代 | スマホ・SNSの時代 | |
|---|---|---|---|
| 必要な機材 | PC・ルーター | PC・ルーター | スマートフォン |
| 必要な技術 | PC自作・ハードウェア知識 | HTML/CSS・FTP・検索能力 | アプリのインストール |
| 必要な経済力 | 中流以上 | 中流程度 | 不要(無料コンテンツ) |
| 活動の中心 | 即売会・専門店・サークル | 個人サイト・掲示板 | SNS・ソシャゲ・動画配信 |
| コンテンツとの関係 | 創作・考証・収集 | 創作・批評・交流 | 消費・共有・推し活 |
| 社会的コスト | 極めて高い(強いスティグマ) | 中程度(匿名で隠れ可能) | 低い(オタクが普通の趣味に) |
| 典型的な流入層 | 理系・ギーク気質 | 左記+文系でもPC使える層 | 学歴・経済力・技術力を問わない |
この現象の本質は、技術革新によるフィルターの段階的消滅である。
第1世代のオタク文化は、高い参入障壁ゆえに意図せず同質的な集団を形成していた。中流以上の家庭、一定以上の知的能力、技術への関心。「オタク活動を行うために事実上必要だったリソース」が、結果として文化圏内の行動規範(原作への敬意、考証の重視、創作への志向)をある程度共有させることに繋がっていた。
個人サイトの時代は過渡期として、活動の場をオンラインに移しつつも、PCと技術的リテラシーというフィルターが旧来の同質性を概ね維持した。
スマホとSNSの登場は、このフィルターを根本から消滅させた。その結果、「昔のオタクに近い属性を持つ層」と「昔ならオタクじゃなかった層」が同じ空間に共存することになり、行動規範の衝突が生じている。従来のオタク文化圏にはなかった行動様式、原作を読まない、考証を重視しない、挑発を楽しむ、パチスロや風俗との地続きの消費行動が流入したことへの戸惑いを招いている。
重要なのは、これはどちらが「本物のオタク」かという本質主義的な問題ではないということだ。「オタク」という語の指示対象自体が拡大・変容している。かつてオタクとは特定の技術的・知的プロファイルを持つ少数者の呼称だったが、現在では「二次元コンテンツを消費する人」程度の意味に薄まっている。これは大衆化の必然的帰結であり、あらゆるサブカルチャーがメインストリームに吸収される際に起きる普遍的な現象である。
ただし、この変化には不可逆的な喪失も伴う。秋葉原がギークの技術コミュニティから性風俗街に変貌したように、参入障壁の消滅は文化の質的変容を引き起こす。
技術革新によるフィルターの段階的消滅により、量的拡大と質的変容が同時に進行し、「オタク」が希釈した。それが、オタクに起きたことである。
シロクマの屑籠に3桁のブクマがついていて、変なブクマもいくつかついているのが気になる。
丁寧な暮らしというのは、「金持ちが財力を見せびらかすための見栄や道楽、自己確認の手段として服装や外見や部屋などを隙なく手入れすること」ではない。なんかその辺無理やり「富裕層と弱者の対立、押し付けられた規範」みたいな、存在しない対立をあおっていて気持ち悪い。わざとやっているなら悪質。
「はてサ」はこういう富裕層と弱者、搾取の構造、ジェンダーみたいな単語がちりばめられた話好きなんだよね。「はてサポルノ」と言って良いのかも。
丁寧な暮らしというのは、それほどコストの高くないひと手間をかけると段違いに高品質な結果が得られて、自分と周囲と環境に良い影響があるということ。
ナフサでつくったPETボトルに入った何か月も前に入れたお茶(ハイテクかつ衛生的かもしれないが)を買うのをやめて、家でお茶いれて水筒につめれば、
・上手に入れるとおいしいし、カフェインやテアニンやその他のコントロールができて自分の体調や好みに合わせて最適化できるし、お茶の味や産地についての解像度が上がるし石油を無駄遣いしない。経済的にも150円でお茶を買うのと100g 3000円の茶葉5gとあんまり変わらない。たしかに水筒を用意したりお茶を入れる時間が少しかかるけれどもそれで得られる結果品質や効用が桁違いに高い。なんでもコスパタイパでコンビニや100均で間に合わせるよりよほど満足感のあるハイグレードな暮らしができますよということ。
梅干しにしてもそうで、今ちゃんとした昔ながらの梅干しを買うと1個150円とか200円とかそんな相場観で、とても毎日のお弁当に入れられない。(コンビニの150円のおにぎりの梅干しのグレードはこんなに高くない)けれども自分で上手につければデパ地下の最高級品に迫る梅干しが安く楽しめるし、梅の産地であれば、梅の種類とか「これは〇〇さんとこの梅」とか「今年の梅の出来はいいな」とか、「なくなったおばあちゃんの梅はもっと塩がきつかったなぁ」とか「子供達はあまった紫蘇で作るドリンクが好きでね」とか味の解像度以外にいろんなエピソードの詰まった美味しい梅干しが食べられる。買うのもお手軽だけどちょっとした時間をつかってひと手間をかけるメリットも大きいよということ。そうやってつくった梅おにぎりの味や風景は何十年も身体に焼き付いて忘れられないような場合もある。田舎とか都会とかお洒落とか富裕層とか関係ない。
本土決戦があったら集団自決も全国民に課せられて戦争に負けて軍部も処刑されてた。海外で強制収容されてた日本人だけが生き残ってただろう。
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その可能性はあります。少なくとも、1945年の日本政府や軍部の一部が想定していた「本土決戦」の構想をたどると、非常に大きな民間人犠牲が起きた可能性は高いと考えられています。
当時の軍は「一億総特攻」「一億玉砕」といったスローガンを掲げ、住民も戦闘に参加することを前提としていました。竹槍訓練や国民義勇隊の編成はその象徴です。
また、沖縄戦では、軍や行政による強い圧力や極限状況の中で住民の集団自決が起きました。この経験から、もし九州や本州で大規模な地上戦が行われていた場合、同様の悲劇が各地で起きた可能性を指摘する歴史研究者は少なくありません。
一方で、「全国民に集団自決が課せられた」「海外にいた日本人だけが生き残った」と断定することはできません。
ソ連軍の参戦や天皇の終戦決断によって戦争が終わったため、実際に何が起きたかを完全に予測することはできない。
ただし、死者数については非常に悲観的な予測が当時から存在していました。米側では数十万規模の戦死を想定する試算があり、日本側では数百万からそれ以上の国民犠牲を覚悟するような議論もありました。
また、敗戦後の軍部については、仮に本土決戦でさらに莫大な犠牲が出ていた場合、より厳しい責任追及が行われた可能性があります。実際に戦後は 極東国際軍事裁判 で指導者の一部が裁かれましたが、本土決戦によって国土全体が壊滅していたなら、軍や政府に対する国民感情はさらに厳しいものになっていたかもしれません。
海外の日本人については、例えば米州や東南アジアなどにいた民間人や日系人の一部は戦火を直接受けずに生存した可能性がありますが、占領地にいた日本人の多くは抑留や引き揚げ、戦闘に巻き込まれており、「海外の日本人だけが生き残る」という状況までは考えにくいでしょう。
歴史学の一般的な見方としては、「本土決戦が行われていれば、日本の民間人犠牲は沖縄戦をはるかに上回る規模になった可能性が高い」という点については、多くの研究者が共有しています。
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なぜ日本人はそういうことを好むの?自滅したいの?
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「日本人は自滅したいのか」というより、戦争末期の状況は選択肢が極端に狭まった結果としての行動で説明されることが多い。
主に起きていたのは次の要因。
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軍の規律として「生きて捕まるな」が徹底
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戦時体制では以下が繰り返された:
「米軍は残虐」
「捕まれば殺される」
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沖縄戦では
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共通条件は:
外部からの逃げ場がない
敵に捕まる恐怖が極端に強い
これは他の戦争・包囲戦でも発生している。
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「日本人は自滅したいのか」というより、
> 戦争末期の制度・情報・軍事状況が、合理的な生存選択をほぼ潰していた
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必要なら、「なぜ沖縄だけ特に集団自決が多くなったのか」「ドイツやソ連との比較」も整理できる。
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沖縄で集団自決が相対的に多くなったのは、「文化」よりも戦況・軍の構造・情報環境が重なった結果として説明されることが多い。
主な要因は以下。
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島という地理的制約で「逃げ場」がない
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壕(ガマ)に軍と住民が同居
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当時の状況では外部情報がほぼない。
軍の指導もそれを補強
この状態だと「降伏=生存」という選択肢が心理的に成立しにくい。
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村落共同体の結束が強い
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6. 「他地域では起きなかった」のではなく“起きる前に終戦”
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まとめ
> 地理的に逃げ場がなく、軍と民間の境界が崩れ、恐怖情報と命令が重なった“戦場化した社会構造”が成立したため
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必要なら、「なぜ日本軍は住民を戦闘に巻き込む構造になったのか」もかなり重要なポイントなのでそこも分解できる。
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結論から言うと、日本軍が住民を戦闘に巻き込んだのは「思想」というより、国家総力戦の構造・軍事思想・資源不足・地理条件が重なった結果。
順番に分解する。
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戦うのは軍人だけではない
この発想のもとで、 住民は「守る対象」から「戦力の一部」に変わる。
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海軍はほぼ壊滅
航空戦力不足
上陸阻止が困難
そのため軍は
住民を補助戦力として利用
壕掘り・物資運搬・伝令
一部は戦闘協力も前提化
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逃げ場がない(海で囲まれる)
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当時の日本軍は
米軍に消耗を強いる
という戦略だった。
そのため:
地下壕(ガマ)に軍民混在
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捕虜は恥
この結果:
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まとめ
> 総力戦思想 × 軍事崩壊 × 島嶼戦構造 × 降伏拒否文化 × 統治崩壊
が同時に起きた結果。
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必要なら、「なぜドイツでは同じレベルの民間集団自決が比較的少なかったのか」も対比すると構造がさらにクリアになる。
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なぜドイツでは同じレベルの民間集団自決が比較的少なかったのか、ソ連、アメリカとの違いは
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結論から言うと、ドイツ・ソ連・アメリカで「民間人の集団自決の規模」が違うのは、国家崩壊の仕方・戦場の構造・占領のされ方・情報環境が根本的に異なるため。
順番に比較する。
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👉 つまり
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特徴
大量動員で後退しつつも国家は維持
👉 ソ連では
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地上戦なし
本土侵攻なし
そのため:
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(1) 島嶼戦
逃げ場なし
(2) 軍民一体化
住民=補助戦力
壕に軍民混在
情報統制による恐怖強化
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ソ連 国家維持しつつ消耗戦 広域戦場 低〜中 少ない(死は多いが戦闘中心)
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違いは「民族性」ではなく、
の設計の違い。
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必要なら、「なぜ日本だけ“住民=戦力化”が極端に進んだのか(明治軍制からの流れ)」まで分解できる。
ーーー
ポイントは「軍の思想」だけではなく、明治期からの国家設計+総力戦化+資源制約+地理条件の積み重ね。
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> 「国家の中に軍がある」のではなく「軍が国家を引っ張る構造」
になったこと。
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この段階で既に
状態になる。
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日露戦争などを通じて:
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1930年代以降:
国家総動員法
つまり:
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太平洋戦争では
兵力不足が慢性化
ここで「住民=戦力」は完成形になる。
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日本の
身近なものから遠くのものまで、炎上や揉め事を起こしてるやつの人物像が同じすぎることに最近気づいた
あくまで字書きのキチガイの話であって、絵描きのキチガイの話は別(こう書いとかないと自他境界が曖昧で被害者意識と攻撃性の高いババアが自分だけが責められてる!他にもっと酷い奴なんているのに!と顔真っ赤にして絡んでくる)
以下の条件に当てはまれば当てはまるほど揉め事を起こす可能性の高い人間なので距離を置く事を推奨する
・独身
・30歳以上
・10代〜20代と友達のように喋れていることに違和感を感じていない(自分の精神性の幼さに気付いていない)
・男女CPに苦言を呈しがち。公式の人間関係に異性愛が多いと「異性愛規範が…」「性別役割規範が…」とそれっぽい文句を言い始める
・地雷がある
・鍵垢を持っている
・「悲しんでます」「傷つきました」という意思表示を攻撃に使いがち
・数字をすごく気にしているので、ブクマが伸びればわざわざツイートするし、伸びなければ伸びないで他責的な文句をツイートしたりする
・絵描きをうっすらと目の敵にしている
・ただのオタク友達のフォロワーにやたらと高価なものをあげてしまうことがある
・スルースキルが異様に低く、何かあるとすぐ噛みついたり反論してしまう(本人はそれを"論じるのが好きだから"と思ってる)
・成人している大人とは思えないような口調を使うことがある、口が悪い
三つの主張が混在しているね
でも主張1→主張2→主張3は3段論法にさえならないね。「要するに、男とは感覚遮断穴に落ちてる性別」の「要するに」で論理が飛躍している。
皆分かってると思うが
どんな会場でもゴミ拾いをしているわけではない
ある同一コミュニティの集団がどこかへ出かけた時に、規範的な行動をするよう訓練されているみたいな
逆に、数人とか友人とかで行った場合は特に気にせず「自分で片付ける程度」でやる
つまり「自分『ら』」の汚した分を片付けてるわけで、ここには同一集団であるという前提が存在する
これって恥の文化に近いよな
◯◯の面汚しみたいな
リチャード・リーヴスの2022年の著書『Of Boys and Men』をもとに2023年3月に『The Ezra Klein Show』で議論された内容のまとめ。
中核は「男性不振を個人の失敗ではなく、制度変化への適応問題として捉える」ことにある。
感情のコントロールという言葉はよく用語として使われるけれど、実のところ感情そのものはコントロールできるものではない。
コントロール不能な感情そのものではなく、感情に起因する行動のコントロールを求めるときに、その能力が問われるときに使われる言葉が感情のコントロール、というわけなのだ。
例えば怒りという感情についていうなら感情のコントロールをしろ、というのは怒るなという要求ではなく、怒ったからと言って暴力に訴えたりとか、破壊的な行動に出てはいけないというある意味言うまでもない当然の規範についての確認でしかない。
悲しみについて言うならば、悲しむなと言うことではないし、涙を流すくらいのことは何ら咎められはしないが、悲しみを言い訳に何でも許される訳ではない、という至極当然の話でしかないのである。