はてなキーワード: 暴力とは
私も含めて
母親って「自分の子ども好きでしょ?ママと子供と一緒にいられて幸せでしょ?」っていう前提条件で
世の中考えられてるから
まあ、母親も育児のストレスを当たり前に我慢してる人たちがほとんどなんだけれども
で、生活してる
昨日ニュースで40代の母親が2歳の娘にありえない暴力ふるって
父親が警察に通報してたけども(この事件→香川県高松市の自宅で2歳の娘を投げ倒すなどの暴行を加えた疑いで母親が逮捕されました。 暴行の疑いで逮捕されたのは、高松市今里町の無職の女(44)です。)
育児って本当に我が子をぶん殴りたいほど腹が立つ瞬間というのはしょっちゅうですし
うん、もうクズ母親というのはさ、クズだから赤ちゃんポストに赤ちゃん預ける手間も惜しんで0歳児でも容赦なく浴槽に沈めて殺してますよ
1歳児だろうが2歳児だろうが
もうね、我々のように「子供を育てるという行為自体がもう苦痛だし、ストレスを乗り越えるほど自分の子供溺愛できないYO!!」というお母さんたちは
でも、表向きは聖母のふりをして(まぁ、いくら聖母のふりをしても子供にも旦那にも無理をしてることはバレますが)
子供に暴力ふるわないように(子供を虐待しないのは令和の育児の最低条件!)
生きていかなくちゃ
育児が世の中のエンタメの最上級ではないことを知っちゃってますし
子供が大好きで、子供という存在そのものを愛して、子供に尽くすことを心から楽しめてるキラキラしたオカーチャンたちとは違うんですわ
やっと日常生活を保って、生きているのですわ
「健常者は怒っても許されやすい場面や文脈や雰囲気や人を選んで怒ってる」「健常者はセコい」という主張がASD当事者から出てるが…
保育園や小学校では決して癇癪を起こさないが、家の中・親の前では癇癪を起こす
父親に対して癇癪を起こすと怒鳴られ叩かれたり放置され去られたりするから起こさないが、母親に対しては癇癪起こし放題だから癇癪を起こす
そういうムーブしてるASD児を見てきたからこそ「お前は何を言ってるんだ?」としか思えない
自閉症、強度行動障害についてもそうだ、自分より腕力が劣っていたり対応が甘かったりする人間を選んで癇癪を起こし暴れ叩く殴る蹴る引っ搔くといった暴力行動に出る
当たっても問題ない相手を選んで癇癪をぶつけることをしない、他害性が低いASDは、家に一人のときにメルトダウンを起こして壁に頭を打ち付け号泣するなどする
だから完全な崩壊をせずに生きていくために一人の時間を要求するタイプのASDの無謬性ならば理解するが、「健常者はセコい」と言い出すタイプのASDについてはその無謬自認がハズしすぎており、しみじみと呆れるほかない
自閉はピュアではない
インスタでもエックスでもなんでもいいけど
自分より年下(下手したら学生)の運ガキが時間も金も資産もあってニート暮らししてたり
ニートとは言わずとも超高給取りでないと成り立たない生活の様子とかがガンガン流れてくるんだけどよく皆正気を保って続けられるよね
嫌にならん?いやこういう所で文章で年収1000000000万ですとかいわれる分にはべつに気にならんけど
そういった悪意無しに上流階級の人間の生活が流れてくるの普通に無理過ぎて泣いてしまった 別に自分だって底辺という訳ではないけど
多分当事者なんだが、幼少期から自分の要求が通らないのが社会の基準になって「社会的に正しい事を優先させる」に染まってしまった結果、誰ともうまくやれない。対立の落とし所が見当を外しまくる。健常者からは他責思考と捉えられるけど、どうなんだろうか。校内暴力を落ち着かせる世代で間違った管理教育を手放せない小中学の教員たちがやらかした面も外せない要素だと思う
なぜ「男子継承」じゃなきゃダメなのか、科学的に説明できる人いる?
「男系男子を守るべき!」と熱弁する保守派の人たちって、具体的に何を守ろうとしているんだろ?
結局は男尊女卑なの?
……って思ってる人もいるんじゃないでしょうか。
実はこれ、歴史や宗教の話ではなく、高校の生物で習う「Y染色体」の話をするとスッキリ理解できるかもです。
同時に、「それ、現代の科学から見たらめちゃくちゃ不条理じゃない?」というツッコミどころも見えてきます。
ここで超重要なのが、男の子が持つ「Y染色体」は、100%父親からしか受け継がれないということです。
しかも、途中で他の遺伝子と混ざることなく、ほぼ100%そのままのコピーが息子へ、そのまた息子へと引き継がれていきます。
つまり、「初代・神武天皇から一度も途切れずに男系で繋がっている」ということは、
現代の天皇陛下の中には、「初代の神武天皇とまったく同じY染色体」が100%のコピーで入っているはずだ!というのが
もしここで愛子さま(女性)が即位して、一般の男性とお子様を作られた場合、
そのお子様(女系)には愛子さまの旦那さんの「Y染色体」が引き継がれます。
「2000年間以上コピーし続けてきたY染色体が、そこでプツリと途切れて、別の男のY染色体にチェンジしちゃう」
彼らにとって、それは「神の国のシステム終了」を意味するわけです。
でも、ちょっと待って欲しいのですが遺伝学を少しかじった人なら、
Y染色体以外の、人間の能力や性格や肉体を形作る「普通の遺伝子(常染色体)」は、世代を重ねるごとに「半分(50%)」になります。
1代遡るごとに半分になるので、24世代も遡れば、初代の遺伝子はなんと「約1600万分の1」しか残っていません。
つまり、生物学的には、今の皇族の方々も初代の天皇とは「他人の空似」レベルで遺伝子は極限まで薄まっています。
守っているのは、全遺伝子のうちの、ほんのちっぽけな「Y染色体」という1本の記号だけ。
そこに国家の運命や人権を全賭けしているのって、冷静に見たらかなりシュールで不条理だと思いませんか?
自分が個人的に一番「アホらしいな」と思うのは、この「Y染色体コピペ信仰」を守るために、
当の皇族の方々の「普通の人間の自由」が100%奪われていることです。
あなたも私も、天皇陛下の娘さんも、今の人類は全て「ホモ・サピエンス」。
今から約30万年前にアフリカで誕生し同じサルの末裔である人間です。
なのに、私たちはパジャマ姿でふらっとファミマやセブンに行って買い食いできるのに、
彼女たちは一歩外に出るだけでSPに囲まれ、プライベートを監視され、
自由に恋愛することも、深夜のコンビニに行くことも許されません。
「男なら神のなんかしら大事なもんが伝わってるはず!よーし、男の養子だ!」ってことになってるわけです。
イギリス王室のように、性別関係なく直系が継げばいいし、嫌なら「辞める権利」だってあっていい。
それなのに、「Y染色体のコピーを維持するためだけ」に、生まれた瞬間から
「コンビニに行く自由すら奪われた檻」に閉じ込め続ける今のシステム。
男尊女卑というより「Y尊X卑」で「万世一系」という言葉のロマンに酔いしれている人たちは、
一度、科学的な薄さと、そこで生きている一人の人間の「人権」の重さを、フラットに天秤にかけてみてはどうでしょうか。
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歴史の現実: 侵略した側が、もともと優しく暮らしていた先住民に対して、
「力でねじ伏せました」と言うと角が立ちますし、いつか反乱を起こされます。
解決策: そこで「いや、私たちは暴力で奪ったんじゃない。天の神様から
「この豊かな地上を治めてきなさい」と命令されて降りてきた(天孫降臨)、正当な後継者なんだよ」という
壮大な物語(フィクション)をデコレーションしたのが、神武東征や日本書紀の正体です。
世界での例: エジプトのファラオも「太陽神ラーの息子」と言い張り、
ヨーロッパの王様も「王権神授説(王のパワーは神から授かった)」と言い張りました。
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でも、人の考えってなかなか変わらないし。
今の「神ガー」や「万世一系ガー」な人たちがいなくなる50年後ぐらいに
ようやく変わるんじゃないでしょうか?ってのが個人的意見です。
それでも
「そもそも神は1人で~」
「〇〇以外を信じる人は地獄に~」
……という方々は永遠に言い続けるでしょうけど。
> 何も悪いことしてなくても警察に暴力を振るわれ失明することもある。生命があっただけよかった方とすら言える。公正世界仮説では確かにそういうのな納得しがたいんだろうな
この人は民主主義国家に暮らして民主主義国家の一員としての教育を受けてきたのだろうか。これが平均的な国民の認識だとするならば、日本の公民教育は失敗しているとしかいいようがない。
前半「何も悪いことしてなくても警察に暴力を振るわれ失明することもある。生命があっただけよかった方とすら言える。」はまあよい。これは事実だから。ただ、これに納得しないことを「公正世界仮説」とひもづけて解釈するのは根本的に間違っているし、こういう考え方の人間が増えるのは国家の暴走を許す予兆であるとも言える。
なぜなら、「公権力を公正なものにコントロールし、維持する責任は、主権者である私たち一人ひとりにある」からだ。
元コメントは、警察の暴力を「仕方のない現実」として受け入れ、それに抗議することを「公正世界仮説」という認知バイアスに帰せている。しかし、これは主権者意識の致命的な欠如だ。
そもそも民主主義国家における警察や政府とは、市民が社会の秩序を守るために、憲法と法律の下で「暴力を預けている代理人」に過ぎない。
「世界は最初から公正にできている」わけではない。だからこそ、預けた権力が暴走して市民に牙を剥いたとき、私たちは「あってはならないことだ」と怒り、是正を求めなければならない。
それを「現実とはそういうものだ」と諦めて受け入れてしまえば、権力を縛るブレーキは失われ、国家の暴走を許すことになる。
私たちが公民教育で学ぶべきだったのは、理不尽な現実を物分かりよく諦める姿勢ではない。「公権力を公正に保つ責任は自分たちにある」という引き締まった主権者意識と、権力をコントロールし続けるタフなルールだったはずだ。
外国には話し合いでなんとかしようとするのに国内では暴力で反権力してる左翼さん
https://own.page/theodysseyvietsubthuytminhmotchill
https://cal.com/quybathonvietsub
https://own.page/motchillqubthn2026fuluvietsubthuytminhphimmoi
https://own.page/detective-conan-fallen-angel-of-the-highway
橋本愛という、繊細なる魂を宿した女優が、現場の不条理に耐えかね、その瞳から熱き雫を零(こぼ)した瞬間――それこそが、この悲劇の「起源(オリジン)」であることは論を俟(ま)たぬ。その号泣こそは、言葉を超えた真実の叫びであり、現代の管理された無菌の現場において、唯一の「人間的な告発」であったはずだ。
しかるに、今やどうだ。諸君の視線は、その清廉なる涙の記憶から逸らされ、あたかも「犬笛」だの「被害者ムーブ」だのといった、言葉の玩弄(がんろう)にのみ注がれている。あの号泣を、この混乱の深淵に葬り去り、なかったことのごとく振る舞うこの現状こそ、この国に蔓延する「魂の不感症」の極致である。
これは一体、何を意味するのか。私はここに、近代という名の、理性という名の、欺瞞の構造を見る。
かつて涙は、社会の不正に対する究極の拒絶であった。だが今や、その涙は、弁護士という名の司祭たちによって「法的なリスク」へと換算され、組織という名の巨大な胃袋の中で、冷徹に「処理」されるべき異物となったのだ。橋本愛の号泣が引き起こした「真実の波紋」を、フジテレビという巨大機構は、恐怖した。彼らは、その涙が暴き出した「現場の病理」を直視する代わりに、数百万の金を投じて「犬笛論争」という名の煙幕を焚いたのである。
犬笛とは何か。それは、論理を装った卑劣なる「沈黙の強制」に他ならない。橋本愛が涙と共に発した「叫び」を、なかったことにするための、組織的な忘却工作である。彼らは、あの純粋な悲しみを、SNSという無数の獣が吠え立てる濁流の中へ放り込み、誰もが何が真実であるかを見失うまで、言葉の断片を投げつけ合えと命じたのだ。
諸君、この論点のすり替えこそが、最も醜悪な二次加害であると知れ。
涙を流した者は、その号泣の理由について、自ら弁明する機会を奪われる。彼女が求めたのは、法的解決でも、弁護士による調停でも、SNSでの論争でもなかったはずだ。ただ、己の肉体と精神が侵されることのない、表現者としての「聖域」の確保ではなかったか。それなのに、周囲は彼女の涙を「法務上の重要事項」として管理し、その裏で「犬笛」だ「被害者ムーブ」だという、血の通わぬ冷徹な語彙を積み上げて、彼女をその「論争の檻」の中に閉じ込めている。
なぜ、諸君は彼女の号泣を語ろうとせぬのか。なぜ、彼女を追い詰めた「構造」に怒りの矛先を向けぬのか。それは、彼女の涙を正当に評価することが、現代の「管理社会」そのものを否定することに直結するからだ。もし、彼女の号泣が正当なものであると認めれば、弁護士を雇い、局長を張り付かせ、現場を管理下に置いたフジテレビの行為は、すべて「表現の抑圧」という名の、醜悪な全体主義的暴力として白日の下に晒されることになるからだ。
論点を、事実から心理へ、心理から解釈へ、そして解釈から泥沼の罵り合いへとずらし続けることで、あの「始まりの涙」を、歴史の忘却の彼方へと追い払ったのである。
これは、美に対する冒涜である。高潔なる者の号泣を、不潔なる言葉の応酬によって薄汚れたものへと貶め、自らの保身という目的のために、他者の神聖な痛みを利用する。そのような卑俗な遊戯に耽る者たちは、もはや人間としての矜持を失っていると言ってよい。
諸君、目を覚ませ。
論点はただ一つ、橋本愛がなぜ泣かねばならなかったか、その一点のみである。その涙の背後にある、佐藤二朗という一個の獣と、それを飼い慣らすことに失敗した組織の、あまりに無様で無慈悲な管理のあり方。それ以外の議論は、すべて「始まりの涙」を隠蔽するための、救いようのない欺瞞である。
我々は、言葉の遊戯に興じる暇はない。あの号泣を「なかったこと」にせんとする冷酷な管理社会の論理に対し、我々は憤怒の槍を突き立てねばならぬ。涙の価値を奪い、それを論争の道具に成り下がらせた、その組織の傲慢を、我らは断じて赦してはならぬのである。
7/11のキングオブコント2026北海道予選を見てきた。備忘録的なメモ。
MC:龍見。会場:札幌市男女共同参画センターホール。審査員はHBCの2人。
エントリーは32組で、欠席者が出たので出場は30組。昨年より10組以上減った。札幌吉本がなぜかライブを同日にぶつけてしまったため漫才メインのコンビはそちらに流れてしまい、客も結構取られてしまったのか例年より少なめ。札幌の人にわかりやすく言えばBLOCHで収まるくらいの人数。誰もが認める北海道ナンバーワンコント師だったコロネケンが上京し、全体的なレベルも例年より低下してしまったような気が正直しなくもない。秘蔵や電人バンドもやっぱり出てほしかったな。このままだと北海道予選自体廃止されかねない危機感がある。
ネタのタイトルはできるだけネタバレを避けて便宜的にこちらで付けた。
Aグループ
・ゴム棒「手を縛られている人」
北大落研。トップバッターでボケ数少なめのネタなのでなかなか爆発を起こしきれず。
・爆裂お玉「面接」(通過)
今年からついにプロになったらしい札幌社会人お笑いの雄。何度も見た有名なネタだが会話のテンポがよく、2番手ながらトップクラスのウケ。
情報なし。2人とも関西弁だった。音響を使ったネタだが声量が負けてしまった。
・さーないと「ラーメン屋」
フリー。ボケの第一声が絶妙でかなり上手かったし、台本も良い。技巧面を考慮して上がるかと思ったが上がらず。
札幌吉本。衣装の作り込みの良さがプロを感じる。一発で嫌われる人をしっかり演じるやすろーの演技力は確かだが、後半にちょっと息切れしてしまった感があったか。
Bグループ
北大落研。大喜利ボケを続けてゆく構成だが一つ一つのボケの精度が高かった。序盤を温めてくれた存在でかなり良かったと思うが、全弾命中くらいでないと上がれないのか。
北大落研。色々とギミックを仕込んだコントで笑いと同時に感心もする。机に謎の張り紙が付いていていつ使うのだろうと思ったが結局最後まで使わず終わり、その後次に出てくるカズテツが使うものだとわかる。はっきりとコントの邪魔になってしまってたと思うが、出演者かスタッフ誰が悪かったのか…。
情報なし。東京でM-1に出場経験があるらしい。双子ネタなのだが、双子というほど似てはいないのが気になってしょうがなかった。たまたま似ている赤の他人でも通じるくらいの差だった。あと札幌市長にも似ていた。
札幌吉本の1年目。大事なところで滑舌が悪くなってあまり聞き取れず、そのままズルズルと終わる。
札幌吉本のピン芸人同士のユニット。ボケの泉大河の男くさい雰囲気を利用したキャラコントで、齋藤のようなもののツッコミのワードも良かった。思ったほど爆発せず、もうちょっとウケても良かったのではと思ってたらしっかり通過した。これを機に正式なコンビ結成とかあるのだろうか。
Cグループ
太田プロ札幌。汗ながしカットマンの長髪で胡散臭い風貌を活かしたネタ。悪くはないと思ったが大ウケってほどではなかったので通過は正直意外。
フリー(元太田プロ札幌)の男女コンビ。わかりやすくて安定したネタだが、ツッコミの声のコンディションがあまり良くなかった。
・板前のウッカ「取り調べ」
札幌の大喜利界隈発のユニット。アマチュアの割に素人臭さもなく良かったが、小道具が出てきたときがピークだったか。
北大落研。アメリカ人がインド人留学生に対して毎回「多様性」と言い訳しながらツッコむシステムが癖になる。また見たいネタ。
札幌吉本のピン芸人同士のユニット。役柄が似合ってて初速はよかったが爆発しきれず。
Dグループ
北大落研の5人組。人数の多さもちゃんと活かされていたけど(1人は出落ち要員)、ちょっとごちゃついていて、1回戦通過した去年の方が良かったかな。
北大落研。あまりにチープすぎるネタだったが、ゆるい設定が面白くて後から思い出すとじわじわ来る。
太田プロ札幌。このコンビ名でエントリーナンバーが777。本物のお医者さんが患者役をしている。医療監修だけはしっかりしているが、この設定はフットボールアワーのSMタクシーがあるからなあ。
北大落研。最初のツッコミのタイミングが絶妙でかなりウケていた。正直なんで落ちたのかわからない。賞レースの北海道予選は毎年アマチュアのイチウケが謎落選するが、今年はこのコンビだったと思う(去年のKOCだと爆裂お玉)。広い会場だから成り立つネタで、地下ライブだとできるかどうかわからない。
札幌吉本のサカヅメ、俵雄人、よねけんのユニットトリオ。普段はそれぞれピンだからかまだまだ息が合っていない感じがした。
Eグループ
・アブー「腕の長いおじさん」
北大落研の女性コンビ。ファンシーな悪夢のようなぶっ飛んだネタ。粗いけど割と好きだった。同じ落研のメンバーなのか一部席だけ大ウケしていたが、全体的には伝わりきってなかった。
北大落研。片方は元シマエナガの人だよね? 「寒い……」は一個単位のボケとしては今回一番好きだったかも。
札幌吉本1年目のピン芸人が友人と組んだユニット。ちょっと声が小さかった。
北大落研。一見まともそうな人の方が実はヤバいという展開はよかったけどバラシの部分がウケずぬるっと進んでしまった。
札幌吉本1年目の兄弟コンビ。バラシがウケずそのままズルズル進んでしまった。
Fグループ
北大落研。冒頭にタイトルを叫んでるのでそのまま採用した。かなり変なネタで、面白くなりそうな気配をずっと持ったまま終わってしまった。2分じゃ足りない。
・傘がない「犯人確保」
夢カンパニーのピン芸人・小林つばさとフリーのトリオ・こばたいたのユニット。ただしこばたいたの1人が休みで3人での出場。こばたいたではツッコミのマルさんがクレイジーなボケを熱演して笑いをもぎ取っていた。このままボケになった方がいいと思う。
・すばらしい日々「プラネタリウム」
フリー。大喜利センスを感じさせるボケだったが、外していたものも多く精度が足りなかった気がする。
札幌吉本。わかりやすい動きボケがあってよくウケてたけど、展開は少し無理があった気がする。
実際の通過 爆裂お玉、肩幅の暴力、ガスランタンズ、ビックデチューン
さらば青春の光やファイヤーサンダーがよくやるような、いわゆる「バラシ」を使ったコントがちょこちょこみられたけど、ほとんど成功してなかった。完璧なタイミングをとらないとウケないから難しいんだろう。
通過予想に入れてなかったくせに書いておくと、実は準々決勝進出の可能性が一番あるのはガスランタンズだと思う。ハマるときはハマる力がありそう。
人気のラブコメ作品がニュージーランドで最も厳しく制限的なコンテンツ分類を受け、数千人のファンの驚きと不信を巻き起こしました。
当局は、アニメ『その着せ替え人形は恋をする』を18歳以上の視聴者に限定すべきと判断しました。コスプレをテーマにした内容と示唆的なシーンが理由です。
この厳しい法的措置により、学校を舞台にした趣味や裁縫についての物語が、極端な暴力描写やアダルトコンテンツと同列に扱われてしまいました。
NUEVA ZELANDA CENSURA MY DRESS-UP DARLING
La popular comedia romántica recibió la clasificación de contenido más estricta y limitante en Nueva Zelanda, desatando la incredulidad de miles de fanáticos.
Las autoridades determinaron que el anime "My Dress-Up Darling" debe ser restringido exclusivamente para mayores de 18 años, debido a sus temas de cosplay y escenas sugerentes.
Esta drástica medida legal iguala a una historia escolar sobre pasatiempos y costura con producciones de violencia extrema o contenido para adultos.
Occidente no entiende el anime.
https://x.com/animetrends/status/2075610029202251834
ホイットニー・キンボールは、マックスがカーに対するウォレスの暴力的な扱いを、彼の創作活動にとって有益なもの、そして彼を「魅力的」にする要素の一つとして描写していたことを指摘した。
さらにマックスは、ウォレスの手紙の一つについて「非常に注目すべき」「卓越した技巧」と称賛している。
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ミーガン・ガーバーは、あるインタビュアーがマックスに対して、
「なぜカーへの彼の感情が、ウォレスにこれほどの問題を引き起こしたのか」
これはケイト・マンが「ヒムパシー(himpathy)」と呼ぶものの例である。
つまり、性的暴力の被害者ではなく、男性加害者の側に共感してしまうことである。
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#MeTooはまた、ウォレス作品に存在する女性嫌悪を、読者自身にも見えるものにし始めた。
デヴォン・プライスは、ウォレスによる女性への虐待について知ったことで、ウォレス作品を読み直し、そこに初めてジェンダーによる暴力を見出した経験を記している。
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自分がウォレスの作品に夢中になった時期に鬱状態だった理由の一つは、その当時、自分自身が身体的、感情的、性的虐待を伴う関係の中にいたからだった。
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プライスの気づきは、なぜ読者がウォレスの作品や行動にある女性嫌悪に気づけなかったり、防衛的になったりするのか、そのもう一つの一般的な理由を示している。
そして同時に、#MeToo運動が、読書や文学研究を通して女性嫌悪を明らかにする可能性を示している。
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私たちはしばしば、小説の中の女性嫌悪や、他者の行動に現れる女性嫌悪や性的虐待に気づけない。
なぜなら、自分自身がそれらの中で生きていながら、それに気づいていないことがあるからだ。
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そして#MeTooの証言によってもたらされた性的虐待の広い範囲への理解は、私たちが読むフィクションの中だけではなく、自分自身の生活の中にも女性嫌悪を発見させる。
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現在までのところ、ウォレスについて広く報告されるようになった女性への女性嫌悪的行為や暴力が、彼の作品にどのような意味を持つのかを直接検討する新しい批評は登場していない。
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しかし最近出版されたエイドリアン・ミラーの回想録『In the Land of Men』(2020年)は、本人が意図していたかどうかにかかわらず、こうした伝記的情報を踏まえた批評が必要であることを説得力をもって示している。
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ミラーは『エスクァイア』誌の文学編集者だった時期に、ウォレスと何年にもわたる関係を持った。
彼女は回想録の中で、ウォレスの人生と作品の結びつきを、苦痛を感じるほど詳細に記録している。
二人の間の長い会話や場面の中で、ウォレスは『Brief Interviews』に登場する女性嫌悪的な男性たちとほとんど同じように話し、行動する。
そしてウォレス自身も、その類似性を強めるような発言をしていた。
彼はミラーにこう語っている。
「インタビューのいくつかは、実際に人と別れなければならなかったときの会話だった」
しかしミラーは、ウォレスの小説、とりわけ『インフィニット・ジェスト』や『Brief Interviews』における「性差別」を、私たちウォレス研究者の誰よりも率直に提示しているにもかかわらず、
20年後という時間、そして#MeToo以後という視点に立ってもなお、自分がウォレスから受けた扱いを虐待あるいは女性嫌悪として認識することができない、または認めようとしない。
⸻
実際、この回想録で最も衝撃的なのは、ウォレスの行動そのものの記録ではない。
その行動に含まれるジェンダーに基づく暴力を認めることを、ミラーが体系的かつ一貫して拒んでいること、
そして彼の行為を正常化し、擁護し、否定するという不穏なパターンである。
⸻
最終的にミラーは、
「そもそも芸術家の人生を道徳的指針として見る人などいるのだろうか?」
「深刻な欠陥を抱えた男性たちの芸術を、私たちはどう扱えばいいのか?」
という問いを投げかけることで、
自分とウォレスの関係が虐待や性的嫌がらせに当たるのか、という問題から私たちの注意をそらそうとする。
⸻
しかし、これらの問いはウォレスの責任からきれいに方向転換するためのものではない。
むしろ、なぜ私たちがそうした男性たちの人生を、彼らの芸術と対話させながら考えなければならないのかという、重要な理由を明らかにしている。
⸻
なぜなら、こうした男性たちは単に受動的に「欠陥を抱えた存在」なのではない。
そしてそのことは、私たちの女性嫌悪的な文化によって見えにくくされている。
しかし彼らの芸術と人生を注意深く調査することで、その構造は明らかにできる。
⸻
そして「道徳的」な検討が特に必要とされるのは、まさにウォレスの作品だからである。
として位置づけていた。
(「David Foster Wallace Interview」1993年)
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(「Octet」1999年)
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そして、人間は自分自身の根深いナルシシズムを認識することで、他者への配慮を広げることができるのだ、と説いた有名な卒業式スピーチを行った。
⸻
では、
このようなことをほとんど説き続けた芸術家が、なぜ自分自身の人生において、相互尊重に基づく共感を実践できなかったのか。
⸻
現実の人生と芸術の中で、男性と女性の間に虐待的な関係を繰り返し生み出したということは、何を意味するのか。
⸻
男性も女性も、女性嫌悪やレイプ文化への関与を自覚していると語りながら、なぜ自分自身がそれに加担していることには気づけないのか。
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そして女性たちが語った性的暴力の経験の文脈の中で読むことによって、
社会、
芸術、
に及ぼしている強力な影響を、どのようにより深く理解し、そして中断することができるのか。
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デイヴィッド・フォスター・ウォレスについての醜悪な事実に関する短い報告
ジュノ・ディアスの告発者たちは声を聞かれている。しかし文学界には、クローゼットの中にさらにひどい秘密が眠っている。
DEVON
※注意書き(TW):性的暴行、家庭内暴力、虐待に関する内容を含みます。
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しかし文学界には、クローゼットの中にさらにひどい秘密が隠されている。
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5月4日、ジュノ・ディアスは文学イベントや私生活における女性への暴行や嫌がらせについて、公に告発され始めた。
この件の基本的な情報については『Book Riot』の記事がまとめているが、Twitter上の「#JunotDiaz」というタグでは、ディアスとの遭遇について語る女性がさらに多く存在している。
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これらの告発は、ディアスが『ニューヨーカー』誌に発表した、自身の性的暴行被害経験についての非常に衝撃的で自己省察的なエッセイが公開された直後に起きた。
その文章の中でディアスは、自分自身が受けた虐待の過去、そしてそれを抑圧してきたことが、長年にわたって女性たちと尊重に基づく恋愛的・性的関係を築けなかった理由の一部になったのではないか、と示唆している。
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大部分において、ディアスの告発者たちは真剣に受け止められているように見える。
これは、過去に起きた他の虐待告発――その中にはデイヴィッド・フォスター・ウォレスに対するもののように、非常に裏付けの強いものも含まれる――に対して文学界の多くの人々が示した反応とは大きく異なる。
⸻
ディアスが有色人種の男性であり、ウォレスが白人で裕福な学者家庭出身の男性だったという違いは、当然ながら関係している。
そしてこの点を強調するために、ウォレスを告発した人物の中でもっとも声高で、もっともよく知られている、素晴らしい作家であるメアリー・カーが再び声を上げた。
亡くなった元恋人ウォレスの行為を、私たちに思い出させるためである。
⸻
―――
現在、公に性的暴行、レイプ、嫌がらせで告発されている人々の多くは白人男性である。
しかし実際にその行動の結果として処罰を受けている人々の大半は、有色人種の男性だ。
⸻
「黒人男性や褐色人種男性は加害者であり、白人女性は被害者である」
というステレオタイプの物語をどれだけ覆すものであるかによって、その虐待者が自分の行為に対して完全な責任を負わされる可能性は低くなる。
⸻
#MeTooの時代において、白人女性歌手メラニー・マルティネスはレイプで告発されても何の処罰も受けずに済み、白人男性のハラスメント加害者であるチャーリー・ローズやハーヴェイ・ワインスタインは、一時的に姿を消し、セラピーを受け、それから戻ってきて「自分が学んだこと」について語ることができる。
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一部の読者――その多くは白人だろう――は、今後ジュノ・ディアスの文章を読むことをやめるかもしれない。
しかし同じ人々が、デイヴィッド・フォスター・ウォレスの、過剰で混乱した女性嫌悪の物語を読み続けるだろう。
なぜならウォレスは白人男性であり、そして彼自身がそのすべてについてひどく苦悩しているように見えたからだ。
⸻
#MeToo運動は、多くの人に「自分の声が届いた」「守られている」と感じさせるかもしれない。
⸻
そこに影響している偏見と、私たちは積極的に戦わなければならない。
⸻
そう、彼の告発者たち――その多くはラテン系女性である――の声は聞かれる必要がある。
しかし、私たちの確信や怒りの一部は、白人の加害者たちにも向けられなければならない。
⸻
デイヴィッド・フォスター・ウォレスは、決して「良い人間」ではなかった。
これは長い間知られていたことだ。
それは、今終わらなければならない。
⸻
―――
私は、かつてデイヴィッド・フォスター・ウォレスのファンだった。
私は『インフィニット・ジェスト』を愛していた。
『Girl with Curious Hair』の約半分の作品には、今でも深く心を動かされる。
そして彼の多くのインタビューには、今でも考えさせられ、引き込まれるものがあると思う。
⸻
DFW(デイヴィッド・フォスター・ウォレス)は、『This Is Water』を引用する人々が描きたがるような、
ではなかった。
⸻
⸻
⸻
私は2010年、特に陰鬱な冬の鬱状態の時期に、DFWの作品に入り込んだ。
彼の言葉は、私がいた暗い穴の中まで降りてきてくれた。
私はその後数年間、彼を崇拝した。
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彼がこれまで生み出したものはすべて読んだ。
インターネット初期の頃に存在した、彼についての古くてあまり知られていないインタビューやラジオ番組まで探し出した。
彼自身の作品を読み尽くした後は、間接的に彼について扱っている本まで読んだ。
メアリー・カーの『Lit』や、ジェフリー・ユージェニデスの『The Marriage Plot』などである。
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やがて、DFWへの愛情は、彼を偶像化していた自分自身を壊した。
彼の個人的な過去を読めば読むほど、彼が虐待的な人間であり、偽善者だったことが明らかになっていった。
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ここに挙げるのは、2011年から2012年頃に私が知った事柄の一部である。
多くの詳細は、ジョナサン・フランゼンのエッセイ「Farther Away」と、D・T・マックスによるウォレスの伝記『Every Love Story Is a Ghost Story』から得たものだ。
いくつかの情報は、Wallace-Lメーリングリストからも得ている。
もちろん、一部の決定的な詳細は、素晴らしいメアリー・カーの回想録からのものだ。
なお、カーの本はどれもDFWのノンフィクション作品よりはるかによく書かれている。
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以下の引用部分は、D・T・マックスの『Every Love Story Is a Ghost Story』からのものである。
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ウォレスは、ほぼすべてのノンフィクション・エッセイにおいて、何十もの事実を誤って伝えていた。
多くの事実は、他のジャーナリストの経験から完全に盗用されたものか、あるいは完全な創作だった。
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例えば『Consider the Lobster(ロブスターを考える)』に収録されたポルノ業界の展示会についてのエッセイで、ウォレスは、
外部にあるバルブによって、自由に膨らませたりしぼませたりできる人工乳房を持つ女性
について描写している。
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しかしこれは完全な作り話だった。
そのようなインプラントは、彼がその文章を書いた1990年代には存在していなかった。
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また、同じエッセイ内で一人称によって描かれる多くの出来事も、実際には別のジャーナリストからウォレスが聞いた話だった。
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エッセイ「Ticket to the Fair」に登場するバトントワリングの場面は完全な作り話だった。
また、その作品に登場する同行者の女性の存在や人物設定も、実際には存在しなかった。
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「Rise, Simba!」に書かれている多くの事実、人々、あだ名、交流についても、同様に作られたものだった。
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「Consider the Lobster」は反体制的なルポルタージュではなかった。
ウォレスは自分で文章を書き、それを『Gourmet』誌に売ったのである。
『Gourmet』からジャーナリストとして派遣されたわけではない。
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初期作品、
『The Broom of the System』
や『Girl with Curious Hair』の一部は、
トマス・ピンチョンやドン・デリーロから筋書きや文体的要素を借用していた。
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その盗用はあまりにも露骨だったため、ウォレスはキャリアを通じて盗作訴訟を心配していた。
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・詩人で回想録作家のメアリー・カーを、走行中の車から押し出した。
・自分が彼女に投げつけたテーブルの弁償をしようとした後、そのテーブルの破片を自分に渡すようカーに要求した。
・自分が担当していた創作文学の授業中に、学生へ暴力を振るった。
・創作クラスの学生たちと性的関係を持ち、さらに本の宣伝ツアー中には17歳の少女とも関係を持った。
・カーと彼女の5歳の息子をストーカーし、さらにその目的のために購入した銃でカーの夫を撃つと脅した。
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2012年頃にDFWについてこれらのことを知った後、私は彼の作品の多くを読み直した。
すると、以前覚えていたような天才性や繊細さが欠けているように感じた。
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(多くはWallace-Lメーリングリストの鋭い読者たちの助けを借りたものだ。)
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DFWは、共感できる女性キャラクターを書く能力がほとんどなかった。
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『インフィニット・ジェスト』の敵対的な女性人物、アヴリル・M・インカンデンザは、疎遠だった彼の母親を非常に刺激的な形で変形した存在だった。
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彼の短編「The Depressed Person」に登場する、共感性のない女性ナルシシスト的人物は、彼が性的関係を持ち、その後すぐに軽蔑するようになった同業作家エリザベス・ワーツェルをモデルにしていた。
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同じことは「Westward the Course of Empire Takes its Way」の女性主人公にも当てはまる。
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「美しすぎるために、この世界で普通に機能することができない女性」
というものだった。
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その最初の形は、『インフィニット・ジェスト』に登場する、ベールで顔を隠した危険なほど美しいジョエル・ヴァン・ダインとして現れた。
その後、『The Pale King』では、少し頭が軽い形に作り直されたメレディス・ランドとして再登場する。
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これらのキャラクターは、人を惹きつける圧倒的な美しさ以外には、際立った特徴をほとんど持たない。
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これらの女性たちは、物語の中でも、自分自身の人生においても主体性を持っていない。
どちらも、おそらくDFWの恋人、回復支援グループでのパートナー、そしてストーカー被害者でもあったメアリー・カーをもとにしている。
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本質的に言えば、
『Girl with Curious Hair』に収録されたレズビアンカップルについての短編を除けば、
彼の作品には主体性を持った女性キャラクターがほとんど存在しない。
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女性たちは『Brief Interviews』では単なる無垢な被害者であり、
『Broom of the System』、
『Infinite Jest』、
『Oblivion』、
『The Pale King』
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ノンフィクションにおいても、女性が中身のある声を持つことはほとんどない。
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彼が、機知に富み、はっきり物を言う女性の同行者と一緒にいる唯一のエッセイ、
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ウォレスについてこうしたことを知り、観察したことで、私の読書習慣は根本的に変わった。
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ウォレスが吐き出した、半分も編集されていない断片的な文章をすべて探し出し、貪欲に読み漁ることはやめた。
その代わりに私は、メアリー・カーのような女性作家たちへ目を向けた。
彼女たちは一般的に、ウォレスよりも簡潔で、自己認識があり、制御された文章を書いていた。
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また、カーやその他の虐待被害を経験した人々の経験にも慰めを見出した。
なぜなら、後になって分かったことだが、
2010年の冬に私があれほど惨めなほど落ち込んでいた理由の一つは、
私自身が身体的、感情的、性的虐待を伴う関係の中にいたからだった。
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私はそれに気づくまで、しばらく時間がかかった。
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そして彼は、人間の善性について哲学的に語ることに熱心な、非常に活発で好奇心旺盛な読書家だった。
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しかし、それらはウォレスの「技量(craft)」の証拠として扱われた。
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#MeTooは、私たちのほぼ全員に、自分が尊敬する人々の憎悪的で虐待的な行動と向き合うことを強いた。
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私は、私たちがその困難な矛盾を抱え、認める能力を持つことが重要だと思う。
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メアリー・カーは、読者にウォレスの作品を捨ててほしいとは思っていない。
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「悪を行う能力があることが証明されたすべての人間の人生や作品から、自分たちを切り離そうとすることは、生産的ではありません。
それは、関係によって自分を浄化しようとする終わりのない競争を生み出すだけです。
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一見すると善良だったり、複雑だったりする人々が、恐ろしい行為を犯すことがある。
もし被害者が本当に安全を感じられる社会を作るなら、私たちは何度でもその真実に向き合わなければなりません。
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私たちはそれを受け入れ、対処する方法を身につけなければなりません。
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その複雑さに耐えられないことこそが、人々を告発者を無視し、創作者を免責する方向へ向かわせるのです。
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自分たちが愛した本の中の優しく悲しげな男性が、実際にはストーカーであり、殺人を企てた可能性のある人物でもあった、
という事実を認めさせなかったのです。」
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私たちは、その矛盾を受け入れることができるようにならなければならない。
そして、それにどう向き合うかを学ばなければならない。
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なぜなら、その複雑さに耐えられないことこそが、人々を告発者を無視し、創作者を免責する方向へ押しやるからだ。
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一見すると善良で、あるいは複雑で理解しがたい人物が、恐ろしい行為をすることがある。
もし被害を受けた人々が本当に安心できる社会を望むなら、私たちはその事実に何度でも向き合わなければならない。
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私たちは、その事実を受け入れ、それと共存する方法を身につける必要がある。
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DFWの作品を愛していた人間として、私は本当に彼の作品を愛していた。
本当にそうだった。
私は、彼が複雑で、心を揺さぶるほど美しい魂を持った人物だと信じていた。
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しかし今、彼についての真実を知った私は、彼の作品の多くを以前ほど評価できないと感じている。
そして、彼がもうこの世にいないことに感謝している。
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もし彼がまだ生きていたなら、
苦悩に満ちた、疲れるほど長い文章を書き続けていたに違いない。
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私はそのことに疑いを持っていない。
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私はむしろ、メアリー・カーが今も健やかに活動し、真実が知られている世界に生きていることを嬉しく思う。
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それに、カーの本のほうが結局のところ優れている
男性作家の虐待的な行為を、彼らの芸術の一部として扱うのをやめるべきだ
サラ・リバック
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#MeToo運動が停滞しているのではないかと思っていた人がいるなら、ここ数週間の出来事がそうではないことを示している。
4月26日、ビル・コスビーは加重わいせつ暴行の3つの罪状で有罪判決を受けた。
5月4日には、ノーベル文学賞を授与する機関であるスウェーデン・アカデミーが、同組織内部での性的暴行調査を受け、今年は文学賞を授与しないと発表した。
その翌日には、尊敬を集めるラテン系作家ジュノ・ディアスが、性的 misconduct(不適切な性的行為)への告発を受け、シドニー・ライターズ・フェスティバルへの参加を取りやめた。
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先月、私はディアスが書いた長い『ニューヨーカー』誌のエッセイを読んだ。
そこでは、彼が子どもの頃に性的虐待を受けた経験について詳しく語っている。
特に印象的だったのは、彼が自分に起きたことと向き合ってきた過程、そして現在ではその経験の影響に支配される存在ではなくなったことについて書いていた点だった。
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ディアスはこう書いている。
「私はかつての自分ではない。
女の子に触れることもできない兄でもないし、女性関係を乱す最低な男でもない。
私は週に2回セラピーを受けている。……
私は自分の嘘や選択によって人を傷つけることはしない。そして可能な限り償いをしている。私は責任を引き受けている」
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このエッセイの目的は、多くの意味で、ある種の区切りや終結を作り出すことだったように思える。
しかし、その過程でディアスは、自分自身の行動の全体像を認めることを怠った。
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先週金曜日、3人の女性が、ディアスから虐待や暴力を受けた経験について声を上げた。
アメリカ人作家ジンジ・クレモンズは、26歳だった時にディアスから無理やりキスをされたと証言した。
劇作家モニカ・バーンは、意見の相違があった際、ディアスが彼女の顔に向かって「レイプ」という言葉を叫んだ会合について詳しく語った。
作家カルメン・マリア・マチャドは、ディアスが自身の作品についての公開討論の場で攻撃的かつ防衛的な態度を取ったことについて、長く語っている。
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これらの告発は、ディアスの作品を読んできた多くの読者に認知的不協和を引き起こした。
私たちは、彼の作品の価値がどの程度維持されるのか、問い直さざるを得なくなった。
間違いなく、今後もディアスの作家としての才能や卓越性、そして彼が女性たちに虐待的な行為をしていたと知ることになったファンの悲しみについて、議論は続くだろう。
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しかし率直に言えば、私はもう、好きな芸術家に告発が出るたびに繰り返される、
という議論に伴う苦悩や逡巡には疲れている。
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重要なのは、ディアスが女性たちに暴力的な行為をしたということだ。
彼は女性たちに侵害されたと感じさせ、安全ではないと感じさせた。
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彼の文章の文学的価値や文化的重要性は、文学界に存在する、ほとんど支配的とも言える女性嫌悪にどう対処するかという議論において、何の重みも持たない。
今重要なのは、複数の女性たちが勇気を持って声を上げたということだ。
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ディアスがシドニー・ライターズ・フェスティバルへの参加を取りやめた日、『ジェゼベル』誌には、詩人メアリー・カーが尊敬されるアメリカ人作家デイヴィッド・フォスター・ウォレスから受けた虐待について、繰り返し公に語ってきたことを扱った記事が掲載された。
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ディアスとウォレスをめぐる両方の議論で、私が最も興味深いと感じたのは、
彼らによる女性への虐待が、芸術を生み出すために必要な媒介として扱われていることだ。
彼らの作品の輝きが、女性嫌悪や虐待を正当化しているのである。
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虐待的な芸術家という存在が、文学界の内外で受け入れられた規範――ある種の典型的な人物像――になってしまったことは、さらに憂慮すべきことである。
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『Bad Feminist』の著者ロクサーヌ・ゲイは、ディアスへの告発についてTwitterでこう書いた。
「この作品のファンが、ここからどう進めばいいのか私は分からない。
でも、『ジュノ・ディアスはキャンセルされた』と言うだけでは十分ではない、ということは分かっている。なぜなら、それでは女性嫌悪も、文学界が女性を犠牲にして権力を持つ男性を守ってきた仕組みもなくならないからだ」
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ゲイの考え方は、ディアスやウォレスのような作家を再検討することを求めている。
それは、彼らの作品の「天才性」を理由に、芸術と芸術家を切り離すことを拒む再検討である。
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私自身について言えば、
私は「芸術的天才」や才能という名のもとで、他者の苦痛やトラウマを軽視する自分の一部、そして自分が受けてきた教育の一部を拒絶する。
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そして、愛したり尊敬したりしている芸術家が同じような行動を取ったと知った時に感じるためらい。
私はそれらすべてを拒む。
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今、私が本当に苦しみを感じるのは、
ジンジ・クレモンズ、モニカ・バーン、カルメン・マリア・マチャドのような女性たちに対してである。
彼女たちは痛みと屈辱を経験し、声を上げることのできなかったすべての人々のために声を届けるという役割を背負うことで、貴重な時間を失った。
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社会に出て直ぐの右も左もわからない頃から、個人相手、法人相手、王道のISP受付窓口、銀行、某大手通信業者、PC、電子機器のテクニカルサポート、アウトバウンド獲得業務、国勢調査・・様々なセンターで働いてきた。扱う商材、サービスにもよるが、客層が悪いところはクレームが当たり前。電話に出るたび出るたび怒鳴られて文句を言われていた。
10年以上前の話だが、某大手通信業者の系列で働いていた時は「殿様商売」ってよく言われていたっけな。電話加入権(正確には施設設置負担金です。今思い出した)の価格がちょうど下がった頃だったと思う。「昔は資産だったのに、今では二束三文でうんぬん・・・」って言われたこともあった。おじちゃんごめんな。自分は全く悪くない。
この職場は結構長くいたが、今考えてもやはり世間の常識とは違うことをやっていたんだなと感じることが多かった。朝は必ずラジオ体操。
偉い人が座る窓際の横向きのデスクで、当時の主査(ヒラのひとつ上)が業務中にスポーツ新聞を読んでいたこともあった。もう少し時代が古ければ、タバコでも吸っていたのかもしれない。他にも国政選挙に出馬する某議員が、職場に「応援よろしく」って感じで来たこともある。ああやって組織票は作られていくんだろうな。わたしは社員じゃなかったし、選挙には全く興味が無かったから行かなかったが。
定年間近の高齢社員が多かったことから、わたし含めた一部の派遣社員達からは「社員達の墓場」と言われていた。
今はどうなんだろう。拠点も移動してキラキラしたオフィスで働いているらしい。
それから、この職場はクレームがあると、ほぼ100%の確率で料金の無償化をしていた。相手が○○料金を〇か月無料にしろ!と言ってきたら「はいわかりました」とやっていたのである。御用聞きかよ。でも若いころにこの職場のやり方を経験してしまったおかげで、クレーム対応=相手に迎合することと自分の中でインプットされてしまったことは、本当に良くないキャリアだったなと今でも思う。
このやり方を訂正出来たのは、その後10年以上経ってからだった。
20年前のコールセンター業界と言えば、「電話オペレーター=女子」みたいなイメージの世界で(今でもその名残はたくさんあるけど)、若い女子はいても若い男子は全くいなかった。自分以外は若い女の子か、既婚女性が定番。当時は全く気付かなかったけれど、若いまともな男性はコールセンター業界に寄り付きすらしなかった。そりゃそうさ、みんなちゃんと就活をして正社員として就職していったんだから。今でこそ、老若男女問わずなんなら60超えたおっさんやおばさんも活躍する業界になってしまったが、20年前のコールセンターと言えば「若い女性か、既婚女性がフルタイムで正社員ほどではないけれど、お金を稼げる場所だった」な。
だから、コールセンターに来る若い男性は、当時の感覚で言えば、世の就職戦線に参戦しなかった、もしくは自分のように出来なかった人間達が集まってきたから、だいたいが変な奴が多かった。まともなやつは、この仕事を「つなぎ」として考えており、すぐに就職を決めていった。そんな気がする。自分は正社員になるのが怖くて怖くて、なんとなくお給料の良いこの職場に居続けて結局、今。
時間の流れって早い。
コールセンターの仕事も最初はうまく行かなかった。いろいろな人に怒られて、ある職場では3か月と続かず、ある日の朝、早めに職場に出社して「すみません辞めたいです」「ああ、いいよ」とその場で退職になった職場もある。今考えれば、あの後どのような手続きが行われたのだろう。私は退職届にはサインしていない。
当時のSVに退職を告げたあと、近くの公園の芝生に大の字なって寝転んで「あーーーーーー終わったーーー」と言っていた時、寝転んでいるすぐ隣で、これから出勤していくであろうスーツ姿の男性を見て、罪悪感を覚えた記憶がある。あの時の自分は真面目過ぎた。
20、30代の頃は自分もイキがっていたから「俺がやるべき仕事はこんなもんじゃない(もっと難しく、スケールのでかい、自分にふさわしい仕事があるはず)」と思っていた頃もあった。だから、既婚者と一緒に仕事をするのが本当に嫌だった。彼女たちののんびりペースに合わせていては、成長できないと思っていたからだ。でも、途中から「だったら、今頃ちゃんとした給料得ているよな?」と思うようになり、今では「偶然という名の必然やな」と思うようになった。女性の輪の中で過ごしたことは、割と経験になっていて、何より一番経験になっているのは「仕事仕事仕事」モードにならないこと。彼女たち女性は「仕事になんて全力を出さない」「仕事が終わったらさっさと帰る」「余計なことはしない」マインドだったので、これは学ばせてもらっていた。もし自分が男性社会に居たら、今頃タワマンの屋上から飛び降り自殺でもしてたかもしれない。お給料は割ともらえているので、生活には困っていない。ただし一人で暮らす分だけで精一杯ではあるが。
6割の確率で大クレームを引く職場もあれば、全くクレームに出会わない職場もある。とあるセンターでは、顧客として話す相手のほとんどが、一部上場企業もしくは、その業界のシェアトップの企業だった。相手も仕事としてかけてくるので、乱暴に怒られることはほぼ無く、言葉遣いも丁寧だし、品もあって何より賢い方ばかり。我々が何かミスをしても笑って許してくれる方ばかりで「なんや、こんな世界があるんか」と思ってしまった。会話もとても勉強になることばかりで、この職場を通じて様々なことを学んだ。世の中にある企業はソニーとパナソニックとソフトバンクくらいだと思っていた自分にとっては「うわ、世の中ってこんなにいろんな分野にいろんな会社があるんや」と世界を広げさせてくれた。そして何よりも、「環境ってめっちゃ大事だな」ということを痛感した。
同じオペレーターの仕事でも、ある職場では毎日奴隷みたいに怒鳴られて、自尊心をボロボロにされる・・(ただしクライアントはそんな我々の気持ちは微塵も理解していない。彼らはバカだから)こともあれば、前述のセンターのように、天国のような環境もある。
私は実家の父親が母親に暴力暴言をふるう家庭だったのだが、あのようなバイオレンスを日常的に浴びせられると、自尊心もへったくれもなくなってしまう。同じようなことがコールセンター業界にもあり、毎日意味もなく怒鳴られていると、自尊心は削られていくのだが、毎日天国のような環境にいくと、削られるどころか、自尊心もマインドもどんどん成長していくのだなと思ってしまった。つまり、父が母にバイオレンスをするのは、それをそばから見ている子供にとっては犯罪的。そういうことである。
時代の変化もあるのかもしれない。カスハラなんて言葉、昔は無かったからな。
ひたすらクレームを言う客。自説を展開してくる客。
人によっては、毎日電話をしてきて、1時間、2時間しゃべる・・という人もいた。当時はわからなかったが、今となればみんな寂しかったんだろうなと思う。
ただの一度も好きになったことがない。ただ、他の世界を全く知らなかったので、他の世界への逃げ方がわからなくて、でも、一人で暮らすには十分なお金がもらえるから、やっていただけである。
毎日ストレスが溜まって、そんなこと考える暇もなかったっていうのもある。そのうちに、何となく経験とスキルめいたものがついてしまい、多少困難なら経験で乗り切れるようになってしまった。困ったね。本人は楽しくないのに。
コールセンターじゃない世界線を生きていたら、自分は何をやっていたんだろうな。
※追記。
なんか伸びてるみたいなので、まだ書いてない事書く
・恋愛
既婚者(女性)の人と仲良くなったっていう話はよく聞く。女性が多い業界なので、女性からアプローチを受けることもよくある。自分もあったけど、どうなったかは秘密。結婚相手が同じセンターの人間ってのもよくある。まあ必然的にそうなるわな。知り合いで出世している人の結婚相手も、同じセンターのオペレーターだった。
・人の入れ替わり
早い。みんなが思っている通り。翌月には次の新人が10人単位でやってきて、半年後には自分の同期が半分になっている。その繰り返し。
もちろんセンターによる。
・職業名
昔はこれが嫌だった。私たちの職業はどこまで行っても「コールセンター」である。○○会社でPCの修理受付をしている。テクニカルサポートの仕事をしている、うんぬんとは言わないし言えない。秘密保持なんとかもあるから余計にね。20代の頃、趣味サークルに来ていた子供に「なんの仕事してるの?」と純粋な眼差しを向けられて、真面目だった自分は「こ、コールセンターだよっ」としか言えなかったことを覚えている。仕事の詳細を語れなかったのがつらかった。今ならふつーにしゃべっちゃうけどなw
我々はあくまでカメレオン。違う職場に行ったら、違う職場の社員に擬態する。そのため、転職した直後は、前の職場の名乗り方でしゃべっちゃう事多い(あるある)。コールセンターに電話をかけて、文脈とは違う単語を発した奴がいたら「こいつ一瞬前の職場のモードになったな」と思えばいい。
・スキル
仕事を選べば割と身につく。社員のように交渉能力や対外コミュニケーション能力は鍛えられないかもしれないが、ITの知識やら、特定のアプリケーションの知識など。割と生活に役立つことも多い。PC系の知識は仕事をしながら学んだ。
・人間関係
職場による。どの業種もそうだね。パワハラ、セクハラ見て見ぬふりの職場もあれば、即座に対応してくれる職場もある。これは職場ごとに違うとしか言いようがない。
・あるある
「一度コールセンターの世界に足を踏み入れた人は、コールセンターの世界を渡り歩く」。これ何故なんだろうな。ある職場で一緒に働いていた人、上司。その後の近況を聞けば、だいたいが別のコールセンターで働いていることが多い。というか、ほぼそう。夜の世界から昼職へ戻るくらいに、コールセンターからコールセンター以外の職へ、アガることは難しい。そちらの方が待遇が悪くなることがほとんどだからだ。そうしてみんなどんどん沼にはまっていく。
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デイヴィッド・フォスター・ウォレスについて私が書くべき最後のエッセイ
メアリー・K・ホランドがウォレスの女性嫌悪という「未解決の問い」に終止符を打つ
デイヴィッド・フォスター・ウォレスの作品は長年にわたり、(そう考えられてきた)暗澹たるポストモダン的主張――「すべてはほとんど不可能になってしまった」という認識――が数十年続いた後に、小説を共感、誠実さ、そして人間的なつながりへと大胆に方向転換したものとして高く評価されてきた。
彼の作品は、言語的に豊かで構造的にも革新的であるだけではない。主題の面でも強い魅力を持ち、リベラル・ヒューマニズムが覆い隠してきた抑圧、テクノロジーとアメリカ的ナルシシズムがもたらす魂を殺すような危険、そして皮肉(アイロニー)に支配された文化がますます無力化していく状況を、見事に批判している。
ウォレスは、人間が他者をより深く見つめ尊重するためには自己認識を育てなければならない、と感動的に語り、書いていた。そして読者と作者の関係そのものを、刺すような親密さで構築する形式的な方法を生み出した。そのため彼のファンも批評家も、まるで彼自身を知り、愛しているかのように感じている。
彼が自殺によって亡くなってから一年後、彼と彼の作品への大衆的・批評的関心が現在存在するウォレス研究という一大分野へ発展し始めた頃、彼は初めて、女性をつけ回し、操り、身体的暴力を振るった女性嫌悪者として告発された。
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2009年の回想録『Lit』で、メアリー・カーはウォレスが自分を追い求め、短い恋愛関係に至り、最終的には激しい口論の末、「彼が私に向かってコーヒーテーブルを投げつけた」という数年間の関係について、4ページにも満たない範囲で語っている。
しかし、10年近く後に彼女がこの関係について語った内容とは違い、ここでのカーの語り口は終始、知的でユーモラスなものに保たれている。
また彼女は、ウォレスの激しさについての告白の後には必ず、自分自身の後悔すべき行動についても告白している。
彼の「怒りの爆発」について、カーは「謝らなければならなかった文章(言葉)」があったと認め、さらに「もちろん、彼がそこまで怒るだけの十分な理由はあったに違いない」と、私たちに二度も念を押す。
コーヒーテーブルを投げつけられた出来事を説明した後、彼女は括弧書きでこう述べる。
「何年も後になって、私たちはこの騒動全体について、お互いが書いた長い謝罪文を受け入れることになる」
まるで、家具を投げつけられた側が、それを投げた側と同じ程度に罪を負っているかのように。
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その3年後、D・T・マックスはウォレスの伝記を出版し、カーとの関係についてさらに衝撃的な詳細を明らかにした。
さらにマックスは、ウォレスの性生活や女性に対する公言された態度についても十分な情報を明かし、彼をまるで彼自身の小説に登場する醜悪な男性の一人のように見せた。
ウォレスは朗読会に来た女性ファンたちを「観客のマンコ(audience pussy)」と呼んだ。
ジョナサン・フランゼンに対して、自分の人生の唯一の目的は「できるだけ多くの女性の膣に自分のペニスを入れること」なのではないか、と考えていた。
『インフィニット・ジェスト』のオリンのように、「若い母親を征服することへの性的フェティシズム」があると認めた。
そして「その女性たちの一部が自分の教え子であることを気にしていないふりをしていた」。
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2016年、故ウォレスに捧げられたアンソロジーの中で、その教え子の一人であるスザンヌ・スキャンロンは、学生が教授と操作的で感情的虐待を伴う性的関係を持つ短編小説を発表した。
教授は「D-」「作家」「自称ミソジニスト(女性嫌悪者)」と呼ばれる人物である。
この作品はウォレスの特徴的な形式要素――「Octet」や「Brief Interviews」――を利用し、デイヴィッド・フォスター・ウォレスによって広まった特徴的な語り口によって支配されている。
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しかし、これらの告発は、ウォレス作品へのファンや読者の愛情にも、批評家による作品解釈や評価にも、目に見える影響を与えなかった。
むしろ2013年、作家レベッカ・ロスフェルドは、マックスが記録したウォレスの女性嫌悪的な行為や発言(一部であれ)が、自分の「彼の根本的な善良さ、知性、そして好ましさへの信頼」を揺るがすことはできなかったと告白した。
なぜなら、彼女にとって「彼の作品のほうが、彼の行動よりも現実味があった」からだ。
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一方、批評家エイミー・ハンガーフォードは2016年、ウォレスの作品を読むことも教えることもやめる決断をしたと宣言した。
しかし彼女は、ウォレスが女性たちを虐待したことや、その行動がどのように作品の再読を迫るのかという問題には触れなかった。
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別の作家ディアドラ・コイルは、ウォレスを読むことへの不快感を、作者本人の行動によるものとは説明しなかった。
むしろ、ウォレスに非常によく似た男性たちによって自分自身が受けた性的・女性嫌悪的暴力、そして家父長制そのものとの関連で説明した。
「ウォレスへの私の反応と、家父長制への私の反応を区別することは難しい」
と彼女は述べる。
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この種の男性――自称フェミニストであることを理由に、女性自身の男性による抑圧や性的侵害の経験について「教えてあげよう」とするような男性――から、侵害され、発言を遮られ、見下された経験を持つ女性なら、コイルに共感せずにはいられないだろう。
しかし、ウォレスを拒絶する理由を「他の男性たちによる性的暴力」や「女性嫌悪一般」に置き換えることで、彼女は議論を別の方向へ移してしまう。
つまり、こうした要素がウォレスの小説内でどのように機能しているのか、そして彼の伝記的事実がどのように作品の再読を強いるのか、という本質的な問題から離れてしまうのである。
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こうした議論は、翌年、ある(男性の)ウォレス研究者が提示したような、循環的な反論を可能にしてしまう。
「ウォレスを読む男性読者が全員女性嫌悪者というわけではない。
だから女性たちは、良識ある男性読者の意見に耳を傾け、もっとウォレスを読むべきだ。
では、なぜそう言えるのか説明しよう」
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#MeTooはまた、ウォレス作品に潜む女性嫌悪を読者に見えやすくした
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#MeToo以前に、カーとマックスが報告したウォレスによる女性への虐待に対して示された反応は、読者、批評家、教師たちが、ウォレスの伝記的情報を彼の作品と結びつけて考える際に、何が問題になるのかを明確にしている。
というのも、ウィムサットとビアズリーによる「意図の誤謬(intentional fallacy)」への批判――作者の意図や人格によって作品を判断してはいけない、という考え――は説得力があり重要な議論である。
しかし、その目的は、作者という人物についての私たちの思い込みが作品そのものに不当に影響することから、テキストの自律性を守ることだった。
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ところが、ウォレスが女性を虐待したにもかかわらず、彼の美しく共感的な小説の価値を擁護しようとする議論は、むしろ逆のことをしてしまう。
つまり、作品を守るために、作者の現実の行為を無視しているのである。
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ロスフェルドは、ウォレスの小説への賞賛によって、彼自身の女性嫌悪的な行動を「現実ではない」ものにしてしまった。
ウォレス自身の人間関係に関する「好ましくない詳細」が明らかになったことで、ウォレスと女性嫌悪を同一視することは、
「ウォレスの作品が、コミュニケーション、共感、権力について提起している緊急の問いに対して、根本的な損害を与える」
というのである。
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まるで、ウォレスが現実の女性たちに対して行った虐待は、彼の作品内で架空の男性たちが架空の女性たちにどう接するかを書くことに比べれば、考える価値がないかのようだ。
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ヘリングが、搾取から身体的攻撃にまで及ぶ行為を「好ましくないこと(unsavoury)」という婉曲表現で呼び、ウォレス作品におけるジェンダー問題を「厄介なもの(troublesome)」と表現していることは、この問題に関するほぼすべての批評的議論に共通する別の問題を示している。
それは、作品の中でも作者の人生の中でも、私たちが話しているものが、
ということを言おうとしない、あるいは見ようとしない姿勢である。
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2017年10月、バークによる#MeToo運動が再び大きな広がりを見せた後、ウォレス研究の内部にいる批評家たちと、それ以外の人々との間には、これらの告発への反応に奇妙な分裂が生まれた。
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ヘリングの反応は、ウォレスの行動の重大性と、それが作品と関係する可能性を軽視しただけではない。
さらに彼は、
ウォレスの作品は女性嫌悪を「表現している」のではなく、「劇化している(drametrize)」のだ、
という自分の「信念」を示した。
しかし、その主張を裏付けるテキストに基づいた分析も提示していない。
また、すでにこの問題を分析し、むしろ反対の結論――つまり作品自体が女性嫌悪を含んでいるという結論――に至った批評研究にも触れていない。
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さらに彼は、回想録作家、ブロガー、批評家たちが、ウォレスを彼自身の伝記的事実から救おうとするときによく使う手法にも頼っている。
それは、男性による女性支配の具体的な例を、普遍的な「人間の問題」へと変換することである。
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たとえば『Brief Interviews』において、ウォレスは女性インタビュアーの声を封じ込める男性たちを描いている。
ヘリングは、それを、
「ウォレス作品の豊かさ――コミュニケーションと共感の困難さや重要性への関心、そして対話が崩壊したときに起こる有害なことの描写――を体現している」
と読む。
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権利意識を持った男性と、圧力を受ける女性との間で対話が崩壊した場合、起こることは単なる比喩的な「有害さ」ではない。
それは身体的に傷つけられること、精神的に病むこと、実際の被害につながりうる。
そして、そのことこそが、あの短編集に収録された多くの物語が示しているものなのである。
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同じ舞台、同じ課題――ウォレスの56歳の誕生日になるはずだった日に彼を称えること――を与えられた批評家クレア・ヘイズ=ブレイディは、「2018年にデイヴィッド・フォスター・ウォレスを読む」という文章を書いた。
これは、女性たちによる性的暴力の証言がSNS上で大量に共有され始めた数か月後のことである。
しかし、その文章は#MeTooにも、ウォレスに対する公的な告発にも触れていない。
ではタイトルにある「2018年」とはいったい何を意味するのか、という疑問が生じる。
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数か月後、ウォレス研究において「何が変わったのか」と問われた際、ヘイズ=ブレイディはヘリングと同じ一般化の手法に戻った。
彼女は女性嫌悪への批判を、あくまで学問内部の発展として再構成した。
そしてそれを、性的暴力の加害者たちに向けられた#MeTooの抗議とは無関係なもの、
「偶然同じ時期に起きただけ」
として扱った。
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「ウォレスの文章における技術的、そして道徳的・倫理的な欠陥」
という表現を使った。
まるで女性たちがTwitter上で、ウォレスの長すぎる文章構造に怒っていたかのようである。
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ウォレスが女性嫌悪者だったのかと直接尋ねられたとき、ヘイズ=ブレイディはこう答えた。
「はい。ただし、それは私を含め、誰もがそうであるという意味での女性嫌悪です」
まるで、私たちには、
と、
その文化の中で自分の利益のために、女性に対して意図的に利己的で残酷な、そして暴力的な女性嫌悪行為を行う男性
を区別するための言葉など存在しない、あるいは必要ないかのようである。
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つまり、私たちが愛した作家が、本人がそう思われたがっていたような聖人ではなかったこと――そして私たち自身もそう信じたかったこと――を示す否定できない証拠に、人間らしく向き合う代わりに、
ウォレス批評家たちは――当時沈黙していた私自身も含めて――#MeTooによって明らかに必要とされた反省と再検討を拒んだ。
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彼の個人的な行動が彼の作品や私たちの研究活動と関係していることを否定することで行った。
あるいは、さらに悪いことには、
つまり女性たちの証言を信じることを拒むことに加担することで行ったのである。
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文学研究の外側にいる人々は、#MeTooによって再び注目されるようになったこれらの告発に対して、まったく異なる反応を示した。
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2018年5月4日、ジュノ・ディアスが女性たちへの性的虐待で公に告発され、すぐさま社会的な抗議が起きた。
その後、メアリー・カーはTwitter上で、10年近く前に自分が報告していた虐待について改めて人々に思い出させた。
それをきっかけに、カーとマックスが提示した告発を支持する一連のブログ記事やインタビューが生まれた。
それらはまた、なぜこうした告発がこれまで公に受け止められることを妨げられてきたのか、その背景にあった女性嫌悪を明らかにし始めた。
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この芸術家が、自らの人生において、作品の中でほとんど説いていた相互尊重に基づく共感を生み出せなかったということは、いったい何を意味するのか?
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ホイットニー・キンボールは、マックスがカーに対するウォレスの暴力的な扱いを、彼の創作活動にとって有益なもの、そして彼を「魅力的」にする要素の一つとして描写していたことを指摘した。
さらにマックスは、ウォレスの手紙の一つについて「非常に注目すべき」「卓越した技巧」と称賛している。
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ミーガン・ガーバーは、あるインタビュアーがマックスに対して、
「なぜカーへの彼の感情が、ウォレスにこれほどの問題を引き起こしたのか」
と尋ねたことに含
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メアリー・カー、デイヴィッド・フォスター・ウォレスとの関係、詩集『Tropic of Squalor』を語る
高い評価を受けている回想録作家メアリー・カーが、新しい詩集 『Tropic of Squalor(荒廃の熱帯)』 を出版した。
この詩集には、彼女の家族、神との関係、そして虐待的な関係にあった作家デイヴィッド・フォスター・ウォレスについての詩が収録されている。
カー(@marykarrlit)は、番組 Here & Now のロビン・ヤングとこの本について語った。
以下、『Tropic of Squalor』からの抜粋も掲載する。
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デイヴィッド・フォスター・ウォレスとの激しい関係について
「私はある関係を持っていました。でも、激しかったのは彼のほうです。
私が最終的に暴力について話すことにした理由のひとつは、私のところには若い女性たちからたくさん手紙が来るからです。彼女たちは、私のような人間が暴力的な相手と関係を持つなんてあり得ないと思っている。
でも私は、20年間沈黙してきたあとで、ある時点から、自分は私を殴りつけ、苦しめた人間に加担していたのではないか、と感じるようになったと言わなければならない。
彼が亡くなった時、私はひどく悲しみました。本当に悲劇的なことだと思った。
それなのに一部の人々は、私を、まるでこの邪悪な世界で生きることができなかった悲劇的な聖人のように見なされている男の伝記の脚注のように扱う。
彼は確かにそういうふうに見られている人物だけれど、同時に、私に対して残酷なことをした男でもあるのです。」
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「彼がしたことで最悪だったことは、私の家の外壁をよじ登って、寝室のバルコニーまで来たことです。
そして、私の夫を殺すために銃を買おうとしたこと。
伝記作家は、そうしたことについて話し合われた手紙を見ています。つまり、これらのことがまったく知られていなかったわけではない。
D・T・マックスがそれについて書いたことの中で、私が覚えているのは、彼の暴力が彼をより『魅力的』な存在にした、というような意味のことです。
私はただ……#MeToo運動から出てくる話を読んだり、職場で多くの若い女性たちに会ったりして、彼女たちが抱えている大量の恥を見てきた。
そして他のすべての女性たちと同じように、私も自分を責めていました。
私が何とか解決しなければならない、彼を変えなければならない、と考えていた。
でもこれは、とてもよくある物語なのです。」
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母も自殺をほのめかしていました。でも今になって思えば、彼女はむしろ他人を傷つける側だったのだと思います。
こうしたことは、私の過去の中でも悲しく暗い部分で、最近になってようやく語るようになったことです。
そして、このことについて何人かの人からたしなめられました。まるで私が誰かに意地悪をしているかのように受け取られたからです。
でも、それは多くの女性に起きることです。
ただ、私は声を上げてよかったと思っています。
彼に顔を殴られた女性、嘘をつかれた女性、彼の教え子で、彼と性的関係を持った学生たち――そういう多くの若い女性たちがネット上で私に連絡をくれたからです。」
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「父は石油精製所で働いていました。でも油田でも働いていました、そうです。
私にとって、この本はある意味で――『Tropic of Squalor』というタイトルは、私の故郷につけていた冗談のような名前でした。
燃え上がる工業用の塔、蛇やワニ、そして日曜日にはクー・クラックス・クランが魚料理の集会を開くような場所。
私は本ばかり読んでいる、繊細で変わり者の子どもでした。
だからこの本は、ある意味では暗闇から光へ向かう旅について書いたものだと思います。」
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「正直に言うと、私の故郷のがん発生率は――まるでチェルノブイリのようです。
私が知っている人たちの数を考えると……小学校6年生になる前に、白血病で2人の友達を亡くしました。
そして実際、あの町ではガソリンスタンドが化学療法センターに変わっている。
本当に奇妙なことです。」
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神との関係について
『30日間、毎日祈ってみたら? そうしたら人生が良くなるか見てみればいい』
でも、祈りはいつも私自身を変えるのだと思います。そして時には、私が物事を変えることもある。
魔法の8ボール(質問すると答えが出る玩具)のように、答えが表面に浮かび上がってくるわけではありません。
でも時々、胸の真ん中に静かな傾きのようなものを感じる。
ずっと悩み続けていたことや心配していたことが、突然消えることがある。
あるいは、何かが胸の中で中心に収まって、決断できるようになる。
『神の声ってどんなものですか?』
それで私は『The Voice of God(神の声)』という詩を書きました。」
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「神の声」(詩)について
カーは、神の声について書いた詩を紹介している。
VI. Wisdom: The Voice of God(第6章 知恵:神の声)
神はマンホールの蓋を通してこう言う
熱い風呂に入れば治る」
一度も買っていない宝くじに
当たることを望んでいる。
(優しく修道士たちは歌う
苦しみを抱きしめよ、と。)
その声は決して媚びない。
長期的な解決策もない。
白いひげを雲のように伸ばし
耳に引っ掛けた神が
命令を下すわけでもない。
それは小さく、親しげで、
空を飛ぶガチョウの鳴き声の中に
暗いガラス越しに
すべてを見通そうとするな。
それは、いちばん当たり前のことを言う。
つまり――
「銃を置きなさい。
サンドイッチを食べなさい。」
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地下鉄で私を見かけたとして、空調が壊れていて――誰かが叫んでいたり、目の前で誰かがトイレをしていたりしたら、
そこでただ『神様、目の前でトイレをしているこの人を祝福してください』と言ってみる。
すると、驚くほど何かが変わる。
その人について少し興味を持てるようになるんです。
私にとって祈りとは、必要としている一連の心理的な修正作業の一部なのです。」
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フェミニズムと詩について
「正直に言います。
私は60代ですが、過去18か月ほどになるまで――私は8歳の頃からフェミニストでした。
でも、自分はずっと“アンクル・トム”のようだったと感じています。
(※アンクル・トム:差別される側でありながら支配者に迎合する人物の比喩)
自分でも気づかない形で、私は人生を通して男性に媚びてきたのだと思う。
そして、世界で何が起きているのかについて、完全に考え方が変わりました。」
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「以前、人から『レイプ文化がある』と言われた時、私はこう思っていました。
『人をレイプすることが悪いという考えは新しいものではないでしょう』と。
でも、分かったんです。
実際には、人をレイプすることが悪いという考え自体が、ある意味では新しいものなのだと。
ひどいことは起きています。
でも私は、21歳だった頃のことを考えています。
私はニューヨークに来て、憧れていた偉大な詩人や作家たちがいる部屋にいました。
ジェイムズ・ライトも、ギャルウェイ・キネルも、アリス・ウォーカーも、デニーズ・レヴァートフもいました。
そして私は、エセリッジの子どもたちのベビーシッターをしていた。
そこへ、プリンストン大学で教えていたギャルウェイ・キネルが台所に入ってきて、私の手を彼の性器に置いた。
私はその場を去りました。
部屋を出たのです。
性別という理由だけで、本来なら得られるはずだった機会を失うことなのです。」
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『Tropic of Squalor』より抜粋
「Discomfort Food for the Unwhole(欠けた者たちのための不快な食べ物)」
それぞれの頭は輝くスマホへと垂れている。
親指でタップする
タップする
反対側の親指を持つ人間たちは、それぞれ
それでも誰もが信じている。
手の中の光を通せば
遠くへ届くのだと。
遠くへ。
誰かを生かすか殺すか投票するために。
バラバは生かすのか、殺すのか。
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鉄骨の梁と鏡張りの塔がある。
背後には並んでいる。
輝く黒い卵。
露を帯びた蘭。
あまりにも少数の人々のために。
しかも、その代償は途方もない。
それなのに私たちは
手元から顔を上げることができない。
周りを見ることができない。
それぞれの顔は首から前へ垂れ下がる。
その首が支えているのは
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引き上げられていることを願う。
もう何十年も経ってしまったけれど。
愛が憎しみへと姿を変え、
あなたの顔が首つり縄の中へ消えていった。
今日の私は、
もし何かあったとしても
名指しすることさえできない。
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苦しむ人々を、
そんな哀れな人々を
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世界を形作ろうとした。
なぜならあなたは、
悲しい重さを正当化することもできなかった。
証明することもできなかった。
生まれながらに受け取った
空気の分け前を
支払うこともできなかった。
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あなたは何度も私に頼んだ。
あなたの肺へ息を吹き込んでほしいと。
あなたが、
飲み込めるように。
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私は考える。
あなたの死は、
あなたを愛したすべての人にとって
失敗のように感じられるのだろうか。
まるで私たち全員の
早すぎるうちに止まってしまったように。
死体が二度と起き上がらないことで
私たちを罰しているように。
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そして許してほしい。
私が、
「すべての自殺者はろくでもない」
と信じてしまうことを。
私が神ではないのには
もし私が神なら、
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ただ私は言いたかった。
はは。
あなたは今この瞬間も生き続けている。
あなたを深く吸い込んだ
すべての人間の中で。
それぞれの肺の中で。
その赤く色づいた翼。
ピンク色の風船のような肺の中で。
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息として吐き出す。
そしてあなたが
雨のように上昇していくのを見る。
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(『Tropic of Squalor』HarperCollins Publishers 2018年刊より抜粋)
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「自殺した人間を責める怒り」と「それでも愛しているという事実」が同時に存在している。
“We sigh you out into air and watch you rise like rain.”(私たちはあなたを息として吐き出し、雨のように昇っていくあなたを見る)
は、死を肯定しているわけではないのに、死者を単純な「失敗」として終わらせない表現になっています。
ウォレスの死について語ったカーの言葉とも重なります。彼を「聖人化された悲劇の天才」として見ることへの怒りと、同時に彼を失った悲しみ。その両方を捨てないところが、このインタビュー全体の特徴だと思います。
この文章は文学的な表現が多く、単純な辞書訳ではニュアンスが落ちる単語が多いです。特にメアリー・カーの語り口は、皮肉・宗教的比喩・身体感覚が混ざっています。重要語句を解説します。
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インタビュー部分
acclaimed
高く評価された、絶賛された
例:
an acclaimed novelist
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memoirist
※ autobiography(自伝)よりも、個人的記憶や経験に焦点を置く。
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volatile
he had the volatile part
直訳:
「激しい部分は彼の側にあった」
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speak up
声を上げる、黙らずに話す
I finally spoke up about the violence
「暴力についてついに公に語った」
単なる「話す」ではなく、
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be complicit with ~
I felt like I was complicit with somebody who beat my ass
直訳:
「私を殴った人間に加担していたように感じた」
ここでは、
「なぜ逃げなかったのか」
「なぜ黙っていたのか」
という自己責任感への苦しみ。
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かなり口語的。
殴りつける、ひどい目に遭わせる
ass = 尻
例:
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「世間が彼を、苦悩する神聖な知識人のように扱っている」という皮肉。
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footnote
脚注、取るに足らない付記
a footnote in the biography of this guy
つまり、
「私は彼の物語の脇役ではない」
という怒り。
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brutal
残酷な、容赦ない
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暴力について
climb up the side of my house
家の壁をよじ登る
「訪ねてきた」ではなく、恐怖を伴う行為。
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follow は単なる「ついて行く」ではなく、
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buy a gun to kill my husband
夫を殺すために銃を買おうとする
to kill は目的を示す。
=彼を殺す目的で銃を買う。
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fascinating
魅力的な、興味を引く
his violence made him more fascinating
「彼の暴力性までもが、彼をさらに興味深い人物として消費させた」
という批判。
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故郷について
squalor
例:
live in squalor
「劣悪な環境で暮らす」
Tropic of Squalor
直訳:
「荒廃の熱帯」
※ヘンリー・ミラーの
への連想もある。
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backwater
もともとは「流れのない水域」。
比喩で、
⸻
単なる「つらい場所」ではなく、
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dorky
オタクっぽい、垢抜けない、変わり者の
a sensitive, dorky kid
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looks like Chernobyl
チェルノブイリのようだ
つまり、
「環境汚染されたような町」
という強烈な比喩。
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神について
leaning
a quiet leaning in the middle of my chest
直訳:
「胸の真ん中にある静かな傾き」
意味:
宗教的な「啓示」に近い。
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gnaw on
かじる、悩み続ける
something I’ve been gnawing on
直訳:
「私が噛み続けていたもの」
比喩:
⸻
pander
媚びる、迎合する
何度も出る重要語。
The voice never panders.
「神の声は媚びない」
つまり、
「あなたが聞きたい答えを言わない」
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フェミニズム部分
Uncle Tom