はてなキーワード: 良識とは
ドラえもんが騒ぎになってる
俺はなんか違う気がするの、藤子プロは前々から忸怩たる思いで権利許諾を踏襲していたのではないか、と想像してる
そもそも歴史的にコロコロは藤子不二雄のために創刊された雑誌だが
今のコロコロコミックって酷いんだわ
もう当時の面影は無い、
ベイブレード、カード、ゲームそれら物販、翻案コンテンツへの誘導がエグい、隠しもしない
買え買え買え買え、ほーらこれが欲しいだろ、おかぁさんにおねだりしなさい
昔から、下品で下劣な作品もあった、子供はウンチチンチンが好きだ
漫画を入口に活字に馴染み、読書体験になり、作品からなにかを学ぶ、
今はそんなもの一切ない、ウケればOK、売れればOK、ガチ酷い
コンバージョン、シナジー効果、インプレッション、エンゲージメント。。。etcの圧力
だけど、藤子プロ、遺族はそれに耐えられなくなったのではないか
ドラえもんは権利関係も複雑であり、様々な人の思惑、権利の衝突、力や発言力の衝突、なんらかの遺恨、誤解
漫画の強気で狂ってる風な言動はただの強がりで、実際は過去の殺人事件を理由に協会からBL指定され討伐される可能性に怯えていて、
サトツへの攻撃は精一杯の反抗(ハンターなら絶対避けれる低レベル攻撃)
あの年に大人しく受験しライセンスを取らないと自分に来年の命はないとヒソカは恐怖で毎日ねれなかった
ヒソカが言った「ハンターライセンスを得れば殺人事件をしてもスルーされることが多いしね」は、一次試験で危険区域に受験生を誘導し大量虐殺した事案への当てつけ
ブハラは自分は受験生を殺さないような言い方だが、一次の大量虐殺をスルーしてるから、あくまで自分の手を汚すことはしない意味
サトツは「試験官に対する攻撃は即不合格だ」と、自分は受験生を大量虐殺してるくせに言う
協会の誰もそれを問題視しないのは選民思想に染まった集団で、ハンターと一般人とでは命の価値が違うと全員が思ってて、隠しもしない
「ハンターライセンスを得れば殺人事件をスルーされることが多い」の「殺人」の「人」にハンターは含まれない
レオリオの仲間みたいな顔してるチードルは、レオリオの嫌ってる高額医療世界を作った権力の側だろうになぜか良識的なハンターのように描かれてる
キルアは初登場時から実は念能力者で、爺のドラゴンダイブも初回から本当は知ってたが針で記憶が消えてただけ
針で記憶を消された理由はゾル家の教育マニュアルが、一番才能在る後継者候補は年習得させたあとに記憶を消して外で自主学習させろとなってるから
イルミは秘伝マニュアルに教育係は針の超能力を習得して後継者候補の記憶を消せと書いてあったから従ってるだけ
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デイヴィッド・フォスター・ウォレスについて私が書くべき最後のエッセイ
メアリー・K・ホランドがウォレスの女性嫌悪という「未解決の問い」に終止符を打つ
デイヴィッド・フォスター・ウォレスの作品は長年にわたり、(そう考えられてきた)暗澹たるポストモダン的主張――「すべてはほとんど不可能になってしまった」という認識――が数十年続いた後に、小説を共感、誠実さ、そして人間的なつながりへと大胆に方向転換したものとして高く評価されてきた。
彼の作品は、言語的に豊かで構造的にも革新的であるだけではない。主題の面でも強い魅力を持ち、リベラル・ヒューマニズムが覆い隠してきた抑圧、テクノロジーとアメリカ的ナルシシズムがもたらす魂を殺すような危険、そして皮肉(アイロニー)に支配された文化がますます無力化していく状況を、見事に批判している。
ウォレスは、人間が他者をより深く見つめ尊重するためには自己認識を育てなければならない、と感動的に語り、書いていた。そして読者と作者の関係そのものを、刺すような親密さで構築する形式的な方法を生み出した。そのため彼のファンも批評家も、まるで彼自身を知り、愛しているかのように感じている。
彼が自殺によって亡くなってから一年後、彼と彼の作品への大衆的・批評的関心が現在存在するウォレス研究という一大分野へ発展し始めた頃、彼は初めて、女性をつけ回し、操り、身体的暴力を振るった女性嫌悪者として告発された。
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2009年の回想録『Lit』で、メアリー・カーはウォレスが自分を追い求め、短い恋愛関係に至り、最終的には激しい口論の末、「彼が私に向かってコーヒーテーブルを投げつけた」という数年間の関係について、4ページにも満たない範囲で語っている。
しかし、10年近く後に彼女がこの関係について語った内容とは違い、ここでのカーの語り口は終始、知的でユーモラスなものに保たれている。
また彼女は、ウォレスの激しさについての告白の後には必ず、自分自身の後悔すべき行動についても告白している。
彼の「怒りの爆発」について、カーは「謝らなければならなかった文章(言葉)」があったと認め、さらに「もちろん、彼がそこまで怒るだけの十分な理由はあったに違いない」と、私たちに二度も念を押す。
コーヒーテーブルを投げつけられた出来事を説明した後、彼女は括弧書きでこう述べる。
「何年も後になって、私たちはこの騒動全体について、お互いが書いた長い謝罪文を受け入れることになる」
まるで、家具を投げつけられた側が、それを投げた側と同じ程度に罪を負っているかのように。
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その3年後、D・T・マックスはウォレスの伝記を出版し、カーとの関係についてさらに衝撃的な詳細を明らかにした。
さらにマックスは、ウォレスの性生活や女性に対する公言された態度についても十分な情報を明かし、彼をまるで彼自身の小説に登場する醜悪な男性の一人のように見せた。
ウォレスは朗読会に来た女性ファンたちを「観客のマンコ(audience pussy)」と呼んだ。
ジョナサン・フランゼンに対して、自分の人生の唯一の目的は「できるだけ多くの女性の膣に自分のペニスを入れること」なのではないか、と考えていた。
『インフィニット・ジェスト』のオリンのように、「若い母親を征服することへの性的フェティシズム」があると認めた。
そして「その女性たちの一部が自分の教え子であることを気にしていないふりをしていた」。
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2016年、故ウォレスに捧げられたアンソロジーの中で、その教え子の一人であるスザンヌ・スキャンロンは、学生が教授と操作的で感情的虐待を伴う性的関係を持つ短編小説を発表した。
教授は「D-」「作家」「自称ミソジニスト(女性嫌悪者)」と呼ばれる人物である。
この作品はウォレスの特徴的な形式要素――「Octet」や「Brief Interviews」――を利用し、デイヴィッド・フォスター・ウォレスによって広まった特徴的な語り口によって支配されている。
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しかし、これらの告発は、ウォレス作品へのファンや読者の愛情にも、批評家による作品解釈や評価にも、目に見える影響を与えなかった。
むしろ2013年、作家レベッカ・ロスフェルドは、マックスが記録したウォレスの女性嫌悪的な行為や発言(一部であれ)が、自分の「彼の根本的な善良さ、知性、そして好ましさへの信頼」を揺るがすことはできなかったと告白した。
なぜなら、彼女にとって「彼の作品のほうが、彼の行動よりも現実味があった」からだ。
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一方、批評家エイミー・ハンガーフォードは2016年、ウォレスの作品を読むことも教えることもやめる決断をしたと宣言した。
しかし彼女は、ウォレスが女性たちを虐待したことや、その行動がどのように作品の再読を迫るのかという問題には触れなかった。
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別の作家ディアドラ・コイルは、ウォレスを読むことへの不快感を、作者本人の行動によるものとは説明しなかった。
むしろ、ウォレスに非常によく似た男性たちによって自分自身が受けた性的・女性嫌悪的暴力、そして家父長制そのものとの関連で説明した。
「ウォレスへの私の反応と、家父長制への私の反応を区別することは難しい」
と彼女は述べる。
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この種の男性――自称フェミニストであることを理由に、女性自身の男性による抑圧や性的侵害の経験について「教えてあげよう」とするような男性――から、侵害され、発言を遮られ、見下された経験を持つ女性なら、コイルに共感せずにはいられないだろう。
しかし、ウォレスを拒絶する理由を「他の男性たちによる性的暴力」や「女性嫌悪一般」に置き換えることで、彼女は議論を別の方向へ移してしまう。
つまり、こうした要素がウォレスの小説内でどのように機能しているのか、そして彼の伝記的事実がどのように作品の再読を強いるのか、という本質的な問題から離れてしまうのである。
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こうした議論は、翌年、ある(男性の)ウォレス研究者が提示したような、循環的な反論を可能にしてしまう。
「ウォレスを読む男性読者が全員女性嫌悪者というわけではない。
だから女性たちは、良識ある男性読者の意見に耳を傾け、もっとウォレスを読むべきだ。
では、なぜそう言えるのか説明しよう」
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#MeTooはまた、ウォレス作品に潜む女性嫌悪を読者に見えやすくした
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#MeToo以前に、カーとマックスが報告したウォレスによる女性への虐待に対して示された反応は、読者、批評家、教師たちが、ウォレスの伝記的情報を彼の作品と結びつけて考える際に、何が問題になるのかを明確にしている。
というのも、ウィムサットとビアズリーによる「意図の誤謬(intentional fallacy)」への批判――作者の意図や人格によって作品を判断してはいけない、という考え――は説得力があり重要な議論である。
しかし、その目的は、作者という人物についての私たちの思い込みが作品そのものに不当に影響することから、テキストの自律性を守ることだった。
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ところが、ウォレスが女性を虐待したにもかかわらず、彼の美しく共感的な小説の価値を擁護しようとする議論は、むしろ逆のことをしてしまう。
つまり、作品を守るために、作者の現実の行為を無視しているのである。
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ロスフェルドは、ウォレスの小説への賞賛によって、彼自身の女性嫌悪的な行動を「現実ではない」ものにしてしまった。
ウォレス自身の人間関係に関する「好ましくない詳細」が明らかになったことで、ウォレスと女性嫌悪を同一視することは、
「ウォレスの作品が、コミュニケーション、共感、権力について提起している緊急の問いに対して、根本的な損害を与える」
というのである。
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まるで、ウォレスが現実の女性たちに対して行った虐待は、彼の作品内で架空の男性たちが架空の女性たちにどう接するかを書くことに比べれば、考える価値がないかのようだ。
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ヘリングが、搾取から身体的攻撃にまで及ぶ行為を「好ましくないこと(unsavoury)」という婉曲表現で呼び、ウォレス作品におけるジェンダー問題を「厄介なもの(troublesome)」と表現していることは、この問題に関するほぼすべての批評的議論に共通する別の問題を示している。
それは、作品の中でも作者の人生の中でも、私たちが話しているものが、
ということを言おうとしない、あるいは見ようとしない姿勢である。
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2017年10月、バークによる#MeToo運動が再び大きな広がりを見せた後、ウォレス研究の内部にいる批評家たちと、それ以外の人々との間には、これらの告発への反応に奇妙な分裂が生まれた。
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ヘリングの反応は、ウォレスの行動の重大性と、それが作品と関係する可能性を軽視しただけではない。
さらに彼は、
ウォレスの作品は女性嫌悪を「表現している」のではなく、「劇化している(drametrize)」のだ、
という自分の「信念」を示した。
しかし、その主張を裏付けるテキストに基づいた分析も提示していない。
また、すでにこの問題を分析し、むしろ反対の結論――つまり作品自体が女性嫌悪を含んでいるという結論――に至った批評研究にも触れていない。
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さらに彼は、回想録作家、ブロガー、批評家たちが、ウォレスを彼自身の伝記的事実から救おうとするときによく使う手法にも頼っている。
それは、男性による女性支配の具体的な例を、普遍的な「人間の問題」へと変換することである。
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たとえば『Brief Interviews』において、ウォレスは女性インタビュアーの声を封じ込める男性たちを描いている。
ヘリングは、それを、
「ウォレス作品の豊かさ――コミュニケーションと共感の困難さや重要性への関心、そして対話が崩壊したときに起こる有害なことの描写――を体現している」
と読む。
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権利意識を持った男性と、圧力を受ける女性との間で対話が崩壊した場合、起こることは単なる比喩的な「有害さ」ではない。
それは身体的に傷つけられること、精神的に病むこと、実際の被害につながりうる。
そして、そのことこそが、あの短編集に収録された多くの物語が示しているものなのである。
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同じ舞台、同じ課題――ウォレスの56歳の誕生日になるはずだった日に彼を称えること――を与えられた批評家クレア・ヘイズ=ブレイディは、「2018年にデイヴィッド・フォスター・ウォレスを読む」という文章を書いた。
これは、女性たちによる性的暴力の証言がSNS上で大量に共有され始めた数か月後のことである。
しかし、その文章は#MeTooにも、ウォレスに対する公的な告発にも触れていない。
ではタイトルにある「2018年」とはいったい何を意味するのか、という疑問が生じる。
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数か月後、ウォレス研究において「何が変わったのか」と問われた際、ヘイズ=ブレイディはヘリングと同じ一般化の手法に戻った。
彼女は女性嫌悪への批判を、あくまで学問内部の発展として再構成した。
そしてそれを、性的暴力の加害者たちに向けられた#MeTooの抗議とは無関係なもの、
「偶然同じ時期に起きただけ」
として扱った。
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「ウォレスの文章における技術的、そして道徳的・倫理的な欠陥」
という表現を使った。
まるで女性たちがTwitter上で、ウォレスの長すぎる文章構造に怒っていたかのようである。
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ウォレスが女性嫌悪者だったのかと直接尋ねられたとき、ヘイズ=ブレイディはこう答えた。
「はい。ただし、それは私を含め、誰もがそうであるという意味での女性嫌悪です」
まるで、私たちには、
と、
その文化の中で自分の利益のために、女性に対して意図的に利己的で残酷な、そして暴力的な女性嫌悪行為を行う男性
を区別するための言葉など存在しない、あるいは必要ないかのようである。
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つまり、私たちが愛した作家が、本人がそう思われたがっていたような聖人ではなかったこと――そして私たち自身もそう信じたかったこと――を示す否定できない証拠に、人間らしく向き合う代わりに、
ウォレス批評家たちは――当時沈黙していた私自身も含めて――#MeTooによって明らかに必要とされた反省と再検討を拒んだ。
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彼の個人的な行動が彼の作品や私たちの研究活動と関係していることを否定することで行った。
あるいは、さらに悪いことには、
つまり女性たちの証言を信じることを拒むことに加担することで行ったのである。
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文学研究の外側にいる人々は、#MeTooによって再び注目されるようになったこれらの告発に対して、まったく異なる反応を示した。
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2018年5月4日、ジュノ・ディアスが女性たちへの性的虐待で公に告発され、すぐさま社会的な抗議が起きた。
その後、メアリー・カーはTwitter上で、10年近く前に自分が報告していた虐待について改めて人々に思い出させた。
それをきっかけに、カーとマックスが提示した告発を支持する一連のブログ記事やインタビューが生まれた。
それらはまた、なぜこうした告発がこれまで公に受け止められることを妨げられてきたのか、その背景にあった女性嫌悪を明らかにし始めた。
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この芸術家が、自らの人生において、作品の中でほとんど説いていた相互尊重に基づく共感を生み出せなかったということは、いったい何を意味するのか?
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ホイットニー・キンボールは、マックスがカーに対するウォレスの暴力的な扱いを、彼の創作活動にとって有益なもの、そして彼を「魅力的」にする要素の一つとして描写していたことを指摘した。
さらにマックスは、ウォレスの手紙の一つについて「非常に注目すべき」「卓越した技巧」と称賛している。
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ミーガン・ガーバーは、あるインタビュアーがマックスに対して、
「なぜカーへの彼の感情が、ウォレスにこれほどの問題を引き起こしたのか」
と尋ねたことに含
会社はいつでも不要になった従業員を切り捨てる。そういう世界で良識を言われてもな。会社は従業員の1番健康で1番いい時期を利用して、それが終わったら黒字でもリストラ。会社は労働者を守らないのに、労働者が倫理を持つ意味とは?
個人の趣味として、相互扶養の幻覚を見ているなら好きにすればいいけど。それは週末ゴルフしますみたいな趣味でしかないから。興味ない人は大量にいるよ。
それは完全に間違ってるよ。
商売って信頼関係によって成り立ってる。宅配の兄ちゃんたちは運送した物を盗まんやろ。客のもの盗んだら次から仕事頼まれへん。儲けなくなるなら盗みなんてやらんやろ。
とはいえ、現実だとその中で自分が得しようと騙しを入れるのはあるわ。それも相手に丸損させないちょこっとの範囲ならグレーゾーンで許されるわな。ウソを全部取り締まるなんて土台から不可能や。そういうことを言いたいとちゃうねん。
だから、俺が他人に期待してるのはそういう「社会人として最低限の良識」だよ。言ってることとやってることがまったく違うのはまともな大人のやることじゃねえ。
今年の3月18日(anond:20260321192723)にプーチン氏に反旗を翻した後、精神科病院に収容されてしまったイリヤ・レメスロ氏が、その後退院し(anond:20260505233557)、さらに今回、反旗の告発文の続きを投稿したので、こちらも翻訳して紹介しておきたい。
https://t.me/ilya_remeslaw/11365 - 日本時間 5月17日 15:17
ちょうど2ヶ月前の2026年3月17日(訳注: 日本時間では18日)、私は「私がウラジーミル・プーチンを支持しなくなった5つの(後に6つの)理由」というマニフェストを発表した。
それ以来、多くの出来事があった。私は自由の身であり、健康でもあるため、(法律と良識の範囲内で)プーチン大統領を批判することは、私の特権である。(訳注: レメスロ氏は弁護士)
それゆえ、続けていこう。
理由その7:エリートと民衆の間の甚大な社会的格差。
プーチンは、「スクリパ(社会的結束)」や価値観、そして物質的な富の蓄積とは無縁なロシア民族の「独自の道」について 語る のが好きだ。それは、忌むべき「西側」とは対照的である。(訳注: リンク先は、プーチンが「我々の自己認識の根底にあるのは、やはり物質的な豊かさではなく、道徳的・倫理的な基盤である。それは家族、国家、そしてロシアの未来の礎となっている」と語る記事)
しかし、プーチンの唱える調和を、代数で検証してみようではないか。(訳注: ロシアの劇作家プーシキンの悲劇『モーツァルトとサリエリ』からの引用で、ここでの代数は現実の数字という意味)
プーチン自身、決して質素であるとは見なされたことがない。 彼は20もの邸宅を利用し、何一つ自分を制限しない。また、「中傷者であり外国の代理人」とされる者たちは、国の指導部が支配する国営企業の口座に天文学的な金額(数十億)(訳注: 1ルーブルは2円)が眠っていると主張している。我々は当然、これをほとんど信じていないが――プロパガンダの犠牲者でなければ、プーチンが給料だけで生活しているなどとは信じないだろう。
大統領の友人や側近たちの収入は莫大な額に上る。国営企業のトップの公式給与でさえ、数十億ルーブルに達する。そして、規定の枠を超えて蓄積され、分配された資金については、公正な裁判でまだ明らかにされる必要がある。
大統領とその側近たちは、明らかに贅沢を厭わない。そして、一般市民が戦争の苦難、インターネット遮断、経済の低迷、物価や税金の高騰に苦しんでいる最中にも、こうしたことが起きているのだ……
人々と分かち合い、消費格差を埋める代わりに、物質的な富の蓄積は我々の道ではないと説教される。
これは見苦しい、典型的な二重基準だ。身内にはすべてを与え、残りの国民には残飯を……
戦争と動員が始まるまで、多くの人はこうした実態に目をつぶっていた。だが、今は違う。
交戦国の指導者は、少なくとも国民の苦難を分かち合うべきであり、贅沢と二重基準の中で暮らすべきではない。
理由その8:すべての人に対する公正な司法の欠如
この問題は、一般市民にも、プーチンの側近グループに属さない起業家にも等しく関係している。
ロシアでは、まともな法執行機関や裁判所が長い間存在していない。裁判官や警察官からは常に数百億ルーブル規模の資産が見つかる一方で、他の者たちは手を付けられないままだ。腐敗に対して体系的に取り組んでいる者は誰もいない。
「司法制度」は、理不尽な理由で人々を投獄し、彼らのビジネスを奪い、日常生活レベルでさえ権利を守る機会を与えない。
大企業にも問題がある。以前は外国の裁判所に訴えることができたが、現在はロシア国内でしか紛争を解決できない。独立した裁判所の代わりに、プーチン大統領の友人からの電話が支配しているのだ。
まともな裁判所が存在しないことは、制裁が解除された後であっても、ロシア連邦における経済発展を不可能にしている。「プーチンの友人たちのための法律」と、それ以外のすべての人々のための法律が存在する国で、まともな実業家が事業を行うことはあり得ない。起業家たちは、まともな法律と裁判所がある場所へ、資金をロシアから移していくことになるだろう。
理由その9:プーチンと彼のチームに個人的な責任感がないこと
わが国の大統領は決して間違いを犯さず、無垢な存在だ。何か良いことが起これば、大統領府の広報担当者はそれをプーチンに帰する。悪いことが起これば(クルスク州への侵入、テロ、ドローン襲撃など)、大統領はどこかへ控えめに姿を消し、長期にわたり姿を現さない――市民が動揺せず、支持率が下がらないようにするためだ。貴族どもに自分で責任を取らせればいい……
プーチンが自らの過ちについて国民に謝罪した話を、私は一度も聞いたことがない。例えば、「天才的」に計画された特別軍事作戦(SVO)についてなど。
大統領の友人や同僚たちも、どうやら決して過ちを犯さないらしく、それゆえに不可侵の存在となっている――彼らがどんなことをしても、せいぜい別の役職への異動が待っているだけだ。
プーチンは、自分に競合しうる人物(特に人気のある軍人、恐れているのか?)を要職に任命しない。彼はまるでわざと、愚かで無能な者たちを任命し、彼らの過ちや犯罪については問いたださない。彼は賢明で慎重な政治家であり、不忠実でありながら有能な人々さえ将軍に抜擢したようなナポレオンなどではない。
このため、プーチンは必然的に敗北する。もし盗人であり無能な者たちで周囲を固めれば、彼らは最初の好機を捉えてあなたを裏切るだろう。信念を持ち才能ある者なら守ってくれただろうが、プーチンの周囲にはそのような人物はいない。
続く
https://t.me/ilya_remeslaw/11366 - 日本時間 5月17日 15:21
理由その10:プーチン大統領はとっくに現実や国民の苦境からかけ離れてしまっている
プーチンにとっての「現実」とは、机の上に置かれる報告書に他ならない。ヴォロディンが言うように、彼にとってすべては常に「安定」しているのだ。(訳注: ロシア下院議長のヴォロディンが、世界の他の地域における「緊張と混乱」と対比させ、ロシアの最大の成果として「安定」を掲げていることが、ロシア国内でも批判や嘲笑の対象となっている)
一方、国民の現実とは――空っぽになっていく財布と、記録を更新し続ける物価である。官僚の横暴、都市への砲撃、煤の雨、そして終わりのない戦争。これもまた、ある種の「安定」と言えるだろう……
プーチンは、自分の人生を神話的な「地政学的勝利」で測ることに慣れているが、一般市民は食料品バスケットの価格や公共料金でそれを測っている。国民とのつながりが失われると、権力は彼らの苦しみや問題を感じ取れなくなる。大統領は、中央銀行の政策金利に窒息しそうになっている企業にも、税金や借金に溺れている人々にも、全く関心を示さない。
プーチンにとって、人々は「統計上の単位」へと変貌し、この権力が存在すべき理由である「市民」ではなくなってしまった。これは、プーチンが人口問題を取り上げる際に明らかになる――彼にとって興味があるのは「人的資源」だけなのだ。
リハーサル済みの「直接対話」では、大統領にとって人に関わるすべてがいかに退屈なものになったかが見て取れる。彼の人生から共感は完全に消え失せた。我々は、彼のパレードのための単なる背景に過ぎない。5月9日、プーチンが優先順位をどう付けたか覚えているだろうか?彼にとって、小さな赤の広場はロシアの他のすべてよりも重要だ。
大統領は、今この瞬間、何百万人ものロシア国民の生活が崩壊していることに気づく代わりに、「歴史の教科書」に自分の名を刻むことばかりに気を取られている。
そして今、自国民に対する傲慢さと無関心に対する代償は、極めて高いものとなるだろう。
理由その11:完全に失敗した外交政策と「ソフトパワー」。
ウクライナ、アゼルバイジャン、アルメニア、その他のCIS諸国に見られるように、クレムリンの影響力の低下には、一つの共通した原因がある。
プーチンには、ロシアの隣国に提示できるような、将来の地政学的プロジェクトの構想が全く欠如している。欧州連合やトルコにはそのような魅力的なプロジェクトがあるため、プーチンの「旧来のパートナー」たちは彼の敵の側へと去って行っている。さらに、ロシアの利益を「ソフトパワー」で推進するために割り当てられた資金が、全面的に横領されているという事実も加わっている……
例としてウクライナを取り上げよう。同国での状況は、2004年頃からすでに、クレムリンにとって好ましい方向に変わり始めていた。
プーチンがすでに「特別軍事作戦」に投入した資金の10分の1でも割り当てていれば、その額で現地での我々の利益を効果的にロビー活動できたはずだ。専門家を雇い、有力な地方組織(LOM)を支援し、政党プロジェクトを立ち上げることもできたはずだ。こうした活動を行い、西側諸国と競合することを妨げる者は誰もいなかった。しかし、その代わりにプーチンはまず、強盗のような男ヤヌコビッチ(訳注: 親露派のウクライナ大統領で後にロシアに亡命)と手を組んだ。彼は国内の一部を敵に回し、マイダンで自身の治安部隊に裏切られた。
その後、プーチンは最も重要なウクライナプロジェクトを、自身の親友であるメドヴェドチュク(訳注: 親露派のウクライナ政治家で後に国籍も議員資格も剥奪)に委ねた。彼もまた、資源を堂々と横領し、すべてを台無しにした。プーチンの対外・治安部門のスタッフたちは干渉しなかった。彼らは、大統領には聞きたいことを言うべきだということに慣れていたのだ。「花で出迎えられるだろう」――まあ、ご存知の通りだ。
その結果が戦争であり、ロシアがどうこの状況から抜け出すのか見当もつかない。ウクライナは今後長きにわたり、ロシアにとって友好国とはなり得ないだろう。誰がその責任を取るのか?
あるいはアゼルバイジャンの例を挙げよう。同国はロシアと良好な関係を築き、モスクワに大きなビジネス上の利害を持っていた。政治的に主体性のある政権は、常に国家の利益のためにこうした出来事を利用するものだ。一方、主体性を持たず、その代表者が外国の支援(訳注: 賄賂や裏金、ビジネスの分け前)を受けている政権では、アゼルバイジャンやその他のパートナーを自らの利益(訳注: ロシアの利益ではなく、個人の利益)のために利用する。だからこそ、「スコアボードの数字」(訳注: 外交上の惨敗という結果)に驚く必要はないのだ。
さらに、航空機墜落事故(訳注: 2024年12月のロシアの誤射によるアゼルバイジャン機の墜落事故)をめぐる典型的な話もある。プーチンはアリエフ(訳注: アゼルバイジャンの大統領)への謝罪をできる限り先延ばしにし、メディアには真実の代わりにありとあらゆるデタラメが流された。これでは、今後アゼルバイジャンに何を期待できるだろうか?
ロシア外務省でさえ、品位を欠き、露骨に無作法な振る舞いをしている状況では、「ソフトパワー」など夢のまた夢だ。「サルマト」に関するまったく滑稽な 声明 (訳注: リンク先は、ロシア外務次官が新型ミサイルの巨大さを誇る様子を皮肉る、レメスロ自身の投稿)。それゆえに全世界がプーチンを恐れているというのだ。まあ、コカインの密売にまで手を出しているわけではないから(訳注: 2018年にアルゼンチンのロシア大使館の敷地内から約400キロのコカインが見つかった)、まだマシだが。
この外務省の茶番劇は、たった一人の観客(訳注: プーチン)のために演じられているような印象を受ける。
続く……
https://t.me/ilya_remeslaw/11367 - 日本時間 5月17日 18:22
ところで、戦争における指導部の過ちの認容について、スターリンは次のように述べている。
第二次世界大戦と現在の戦争を比較するつもりはないが、国家指導者の姿勢そのものについて:
わが政府には少なからぬ過ちがあった。1941年から42年にかけて、わが軍が撤退し、ウクライナ、ベラルーシ、モルドバ、レニングラード州、カレリア・フィンランド共和国の、私たちにとって故郷である村や町を離れざるを得なかった、絶望的な状況の瞬間もあった。それは他に道がなかったからだ……。
繰り返すが、我々には過ちがあった。最初の2年間、我々の軍は撤退を余儀なくされ、事態を掌握できず、生じた状況に対処しきれなかったのだ。
スターリンは、残酷で偏執的、気性が荒く、過ちを認めることを好まない人物だった。彼は、ある人々とは異なり、過ちを犯すことはかなり稀だった。しかし、スターリンでさえ公に過ちを認め、戦争初期の莫大な犠牲に対して罪悪感を抱いていた。
スターリンでさえ、多少なりとも共感の心を持っていた。彼は自分自身に対しても、部下に対しても、徹底的に責任を問うた。
しかし、プーチンには自省心が全くない。彼の器量はスターリンの何分の一にも満たないにもかかわらずだ。そして、彼は明らかにこの戦争に勝てないだろう。もっと謙虚になり、自分自身にもっと厳しく問うべきだが、そんな気配は微塵もない。
理由その 12 (anond:20260517235258) に続きます。
DeepL.com(無料版)で翻訳した上で、誤訳や表記ゆれのみ修正しました。太字は原文を反映しています。
これまでの投稿 2026-03-21 プーチン氏に反旗を翻したイリヤ・レメスロ氏の告発文の翻訳 2026-03-21 その後の彼の投稿から、いくつか抜粋して翻訳しておきます。 2026-05-05 反プーチンのイリヤ・レメスロ氏が、精神科病院から退院していた 2026-05-10 反プーチンのイリヤ・レメスロ日記 5月8日-5月9日 2026-05-17 イリヤ・レメスロ氏の「私がウラジーミル・プーチンを支持しなくなった理由」その 7 から その 11 (本記事) 2026-05-17 イリヤ・レメスロ氏の「私がウラジーミル・プーチンを支持しなくなった理由」その 12
https://x.com/Alzhacker/status/2050225236294156455
イタリアのファシスト刑務所で、アントニオ・グラムシは一つの逆説に直面していた。なぜ労働者たちは自分たちを搾取する体制に自ら同意するのか。
伝統的な権力論は「警察と軍隊が人々を従わせている」と答える。しかしグラムシは見抜いた。本当に強力な権力は見えない。 学校、メディア、宗教、家族という日常の中に潜み、「これが自然なことだ」と人々に思い込ませる仕組みこそが本質だと。
これをグラムシは「文化ヘゲモニー」と呼んだ。支配階級は暴力ではなく、知的・道徳的リーダーシップによって大衆の「自発的な同意」を獲得する。特定の階級の利益を「国民全体の利益」に見せかける物語を、教育や報道を通じて浸透させるのだ。
この理論の核心は「統合的国家」という概念にある。国家とは政治社会(警察や軍隊)と市民社会(学校や教会、メディア)の総体だ。暴力装置は背後に控えつつ、日常的に機能するのは同意を生産する市民社会の側である。
この同意の心理的メカニズムを解く鍵が、「コモン・センス」と「グッド・センス」の区別である。
コモン・センスとは、支配階級の世界観が長年の伝統や格言として染み込んだ、無批判な現実認識のこと。「給料が上がらないのは景気のせいだから仕方ない」「いじめられる方にも原因があるんじゃないか」――こうした信念は、支配への同意を内部から支える。
これに対してグッド・センスとは、労働や生活の現場から生まれる批判的で実践的な知恵である。「時間厳守でサービス残業はおかしい」「週5フルタイムで働いてるのに生活不安」。これらはまだバラバラだが、本質的に支配の論理と矛盾する。
ヘゲモニーとは、このグッド・センスをコモン・センスの中に封じ込め、人々が自らの矛盾した意識のまま行動し続けるように仕向けるプロセスに他ならない。
ここでグラムシの戦略論が生きてくる。「機動戦」と「陣地戦」の区別だ。ロシア革命のような機動戦は、市民社会が未発達で国家が裸の暴力で立つ社会でのみ有効である。西欧では市民社会(学校、メディア、教会など)が強固に機能しており、その機能は現在、支配階級への同意を日々生産する方向に働いている。
必要なのは「陣地戦」である。教育、メディア、宗教、文化といった市民社会の各要塞を、何年もかけて一つずつ奪取していく長期的な闘争。これは選挙やストライキではなく、人々の「良識」を組織し、新たな「コモン・センス」を構築する文化活動である。
現代のネオリベラリズムはこの理論の完璧な実例だ。市場原理は「競争が唯一の合理的な原理である」というコモン・センスを世界中に普及させた。人々は市民ではなく「自己責任の起業家」となり、失業や貧困を個人の失敗と感じる。「これ以外に選択肢はない」という発想そのものがヘゲモニーの勝利である。
デジタル時代はこの構造をさらに精緻化した。アルゴリズムは「新しい有機的知識人」として機能する。私たちの関心や不安を学習し、パーソナライズされた現実を提示することで、同意を自動的に製造する。フィルターバブルは大衆を分断し、「共通の国民的意志」の形成を妨げる。
しかし希望はある。グラムシは「対抗ヘゲモニー」の可能性を説いた。支配階級が自らの有機的知識人(経営者、技術者、ジャーナリスト)を持つように、従属階級もまた大衆から生まれる有機的知識人を育てねばならない。
彼らは学校なきところで学校を創り、メディアなきところでメディアを運営し、いまあるコモン・センスを解体する別の語彙を生み出す。これが「近代的君主」すなわち革命的集団の役割である。単なる抗議ではなく、新しい道徳的・知的リーダーシップを社会に提供する文化事業として。
結局、権力の最も深い場所はバリケードではなく、私たちの頭の中にある。ある社会秩序が「当然」と思われる瞬間、その秩序は勝っている。逆に言えば、その「当然」が揺らぐとき、歴史は動き出す。グラムシが刑務所で書き続けたのは、まさにその「当然」を解体するための思考の道具だった。
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Douglas C. Youvan(研究者)
『The Architecture of Consent: A Comprehensive Analysis of Antonio Gramsci's Theory of Cultural Hegemony, Intellectual Leadership and Modern Power Structures』