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2026-07-05

マムダニ市長 米国独立250周年演説 63 堂本かおる 堂本かおる 2026年7月4日 13:18 https://note.com/nybct/n/nbdb33ebe1ecd

以下はそのAI自動翻訳(未精査)です。

最後に原文と演説動画へのリンクがあります

 

おはようございます、親愛なるアメリカ国民の皆さん。季節が移り変わり、年月が経つにつれ、ニューヨーク港には潮の満ち引き​​が繰り返されてきました。「ニューヨーク」という名が生まれるずっと以前からレナペ族の丸木舟がこの海流を渡っていました。かつては、ヴェラッツァーノやハドソンといった探検家たちが操る船が、この海域水平線にそびえ立ち、彼らの名にちなんで、私たちは橋や川に名前を付けました。そしてそれ以来、長い旅に疲れた旅人を乗せた船が、大西洋の風を背に、ナロー海峡を通り抜けてきました。

 

乗客たちが波の向こうに広がる景色垣間見ようと顔を上げた時、彼らは何を見たのでしょうか? 緑豊かで生命力にあふれた大地。彼らを奴隷として連れ去ろうと、波止場で待ち構える男たち。貧困にあえぐ長屋。活気に満ちた産業、立ち昇る蒸気と煙、そして躍動する都市。彼らは、自由象徴であるそびえ立つ記念碑世界中に歓迎の光を放つその灯火を目にしたのです。彼らはニューヨーク市を見た。彼らはアメリカを見た。

 

明日我が国独立宣言から250周年を迎えます。250年にわたる壮大な自治実験――1776年当時、この実験が数年どころか四半世紀も続くとは誰も想像できなかったほど大胆な実験でした。レキシントンからロサンゼルスセルからセネカフォールズ、モリサニアからミッドウッドまで、毎年そうであるように、アメリカ国民は一日を共に過ごします。家族バーベキューを囲み、夜空には花火打ち上げられます。これは単なる祝賀の日ではありません。250年という節目は、3億4千万人を超える人々が、互いに、そして自らを見つめ、国家としてのアイデンティティを改めて見つめ直す、またとない機会です。アメリカを見つめたとき私たちは何を見るのでしょうか?

 

ここ市庁舎で、ジョージ・ワシントンの机の後ろに座り、この国にやってきた新アメリカ人たちと並んでいても、私にはアメリカのすべてを見ることはできません。しかし、かつて多くの人々がそうであったように、私もニューヨーク市の姿を思い浮かべることができます

 

今日私が見るこの街は、ジョージ・ワシントンが迎えた街とは全く異なる様相を呈しています。1776年7月この街は抑圧の軛の下でうごめいていました。イギリスはあまりにも抑圧的な植民地支配を敷いており、250年前、80マイル南で、少数の新聞編集者農民兵士たちが、今では自明のことのように思える真実宣言する文書署名しました。それは当時革命的なものであり、私たちの国が今もなお実現しようと努力している理想確立したのです。

 

イギリスはこれを快く思いませんでした。戦争が勃発しました。そしてその年の8月ブルックリン独立戦争最大の戦いが繰り広げられる中、ガバナーズ島の砲台は沖合に停泊していたイギリス艦隊に照準を合わせました。私たちは火力でも兵力でも劣勢で、完敗を喫しました。わずか数ヶ月後、私たちの生まれたばかりの民主主義の試みは崩壊危機に瀕しているように見えました。

 

しかしその夜、月が頭上に輝く中、何千人もの兵士たちが静かにフェリーや平底船に乗り込み、マンハッタンへと脱出しました。大陸軍は生き延び、再び戦うことができました。独立フィラデルフィア宣言されたかもしれませんが、ニューヨーク市で救われたのです。ジョージ・ワシントンブルックリン最後に去った人物でした。川岸日の出を待ちながら、彼はニューヨーク市の水面を見渡したに違いありません。そして、それから250年の間に多くの人々が目にしてきたもの、すなわち新たな始まりの機会を、そこに見たに違いありません。ニューヨーク市のあらゆるものと同様に、そうした機会は与えられるものではありません。勝ち取るものなのです。

 

1838年ニューヨーク州が奴隷制度を廃止してから11年後、ジェームズ・ウィークスという名の、解放されたばかりの黒人男性が、自らも新たな人生を始めようとしました。そして、何百人もの人々が同じように新たな人生を歩めるよう支援しようとしました。彼はブルックリン土地を購入し、自ら投票権を獲得し、新たに解放された人々に土地販売したのです。ニューヨーク港に降り立った時、彼らはそれまで一度も手にしたことのないもの、つまり「家」が自分たちを待っていることを知っていました。ウィークスビルは今もなお存在し、私たちアメリカという国を象徴する生きた証となっています。それは、私たち一人ひとりが自ら築き上げる力を持つ場所アメリカ本質です。

 

当時、港は世界中から船がひっきりなしに入港し、活気に満ちていました。何十万人ものアイルランド移民が、帝国主義の残虐行為によって引き起こされた飢饉で飢えに苦しみながら到着しました。中国人船員たちは、現在チャイナタウンに定住しました。さらに何百万人もの人々が自由の女神像の下を通り、エリス島を経由してアメリカ渡りました。ユダヤ人迫害から逃れ、イタリア人貧困から逃れ、シリア人経済的機会を求めていました。

 

これらの新たな到着者たちは皆、船の舷窓から、国と同じように急速に変化していく街を眺めていました。彼らは、波止場商品を売り歩く商人、碁盤の目のように整備される街路、雲のようにそびえ立つ建物を目にしました。彼らはまだ、これから直面するであろう排外主義拒否される仕事、貸してくれない家主、そして耐え忍ばなければならない過酷労働環境生活環境を予見していませんでした。しかし、港にどれほど濃いスモッグが立ち込めていようとも、彼らは新たな出発の機会を見出していたのです。

 

その後何年にもわたり連邦政府移民入国を禁じる法律を制定し、数百人の女性が命を落とした劣悪な労働環境工場火災や、移民存在のものを標的とした暴動にもかかわらず、移民たちはニューヨーク市に居を構え、ニューヨーク市の発展に貢献しました。生命自由幸福追求の権利自分たちにも及ぶと、あらゆる世代アメリカ人が主張してきたこ遺産は、決して過去遺物ではありません。それは、大移動の際に何百万人もの黒人アメリカ人を北へと導き、第二次世界大戦後には何十万人ものプエルトリコ人をニューヨーク市へと引き寄せ、西インド諸島南アジア西アフリカ、そして世界中から数え切れないほど多くの人々を招き入れました。そして、私が7歳の時に家族この街へと導いたのも、まさにこの精神でした。

 

私たち家族は船で到着したわけではありませんが、飛行機の窓から自由の女神像を見ることができました。空からでもアメリカ約束、つまり建国理想に年々忠実であり続けるという、美しく愛国的な営みの約束が見て取れました。私たちの国と、それを形作ってきた人々を形容するのに、よく使われる言葉があります。「アメリカ例外主義」です。一般的に言われているようにアメリカ例外主義こそが、私たち自由をより自由ものにし、エリー運河建設し、西部を灌漑し、遠い国の子供たちがいつかアメリカ移住することを夢見る理由なのです。

 

しか皮肉なことに、アメリカ物語権力と影響力と富を持つ人々から「君たちは決して例外的存在ではない」と言われ続けてきた人々によって、しばしば語られてきました。幾世代にもわたり世界私たち海岸に人々を送り込んだ時、最良の人々を送ったわけではないと教えられてきました。ピューリタンシーク教徒、クエーカー教徒、イスラム教徒ユダヤ人、つまり間違った祈り方をした、間違った神を崇拝した、間違った人々を怒らせたという理由追放された人々が送られてきたのです。それはスラム街やシュテットルから衣服はおろか土地さえほとんど持たず、劣等な存在として扱われていた農民農奴を送り込んだのです。権力とは他人が持つものだと考えていた移民たちを送り込んだのです。アメリカ他国よりも豊かで、強く、力強いからこそ特別な国だと私たちは教えられてきました。

 

しか真実はこうです。アメリカ特別なのは、ここでは何も固定されていないからです。フロンティアは閉ざされ、月面着陸も成し遂げたかもしれない。しか独立宣言最初に掲げられた価値観を実現するという営みは今もなお続いており、私たち全員の責任なのです。そして、今日ここに私と共に立っている、最近帰化を果たしたばかりの、私たちの新しいアメリカ人たちの責任でもあります。約10年前、私も皆さんが感じているのと同じ気持ちを味わいました。もはやニューヨーカーであるだけでなく、アメリカ人でもあるという喜びを。皆さんはそれぞれ特別な力を持っている。アメリカとは何かを決定づける力です。

 

権力者たちは常に、その答えを知っていました。彼らの目にはアメリカ支配舞台であり、ごく一部の者だけが自由を許され、すべての人々が平等創造されているわけではない場所です。彼らに尋ねれば、アメリカは、人々が歓迎すればするほど、その価値を失っていくと答えるでしょう。アメリカは正しいアクセントや肌の色を持つ者だけのものであると彼らは言います。残りの私たちは、ただ訪れることを許されるだけで感謝すべきだと彼らは主張します。

 

彼らはなんと狭量で、なんと弱く、なんと独創性に欠けることか。過去のあらゆる時代において、排除孤立によって支配してきた者たちは、私たちを互いに敵対させることで権力を掌握し、私腹を肥やそうとしてきました。分断は政治における最も古く、最も安易な策略です。しかし250年前を含め、幾度となく、分断の勢力進歩勢力によって打ち負かされてきました。トーマスペインがかつて書いたように「この新しい世界迫害された市民自由宗教的自由を愛する者たちの避難所であり、彼らはここに逃れてきたのだ」。しか今日、あまりにも多くの指導者たちが、この国を迫害された人々の避難所にするというビジョンを信じておらず、むしろ亡命を求める人々を迫害する国だと考えています建国250周年を迎える今、私たちは何を目にするのでしょうか?

 

矛盾に満ちた国の中に、矛盾に満ちた都市が広がっています世界史上最も裕福な国でありながら、世界初の兆万長者がさらなる富を貪る一方で、子どもたちは空腹のまま眠りにつきます。あらゆる産業支配する独占企業と、選挙を買収する寡頭政治家たち。覆面をした工作員が街を恐怖に陥れ、不法滞在の隣人が作った料理を食い荒らしナンバープレートのないバンで彼らを連れ去っていく。工場で汗水垂らして働き、石を削る、泥まみれのたくましい手を持つ人々によって莫大な富が築かれた国でありながら、その富の多くが、ごく少数の人々の甘い手に握られています

 

かに病人搾取する医療保険業界アメリカの姿を見出すことはできますが、アメリカの姿を探る際に私が見るのはそれだけではありません。二交代制で働き、帰宅途中に病弱な隣人の様子を見に行く看護師にもアメリカの姿を見出すことができます

 

かに税金爆弾や救済策に費やすとき選挙を最高額の入札者に売り渡すとき私たちアメリカを目の当たりにします。しかし、この国は私たち国民のものであると今も信じているすべてのアメリカ人の中にも、私たちは同じくらいはっきりとアメリカを目にします。

 

ICE移民税関執行局)が私たち地域侵入してくる時、隣人同士が腕を組んで手をつなぎ、どれだけ長くここに住んでいるか、どんな書類を持っているかを問わないとき私たちアメリカを目にします。

 

老若男女が激しい雨の中、あるいはうだるような暑さの中、投票のために立ち並ぶとき私たちアメリカを目にします。

 

働く人々が、自分たちのためだけでなく、同胞であるアメリカ人のために、より多くのものを求めるとき私たちアメリカを目にします。

 

アメリカもっと多くを求める人々に対し、「好きでなければ出て行け」と単純な言葉で応じる人もいますしかし、愛国心とは、この国に欠点がないふりをすることではありません。愛国心とは、正義の異議申し立てのあらゆる行為であり、灼熱の太陽の下で行われるあらゆるデモ行進であり、時代10年も先取りしたあらゆる抗議活動なのです。私たちがこの国を愛しているからこそ、決して離れることはないのです。結局のところ、この国を自由にするために多大な犠牲を払ってきた人々以上に、アメリカ愛する人がいるでしょうか?

 

今日、私は7月4日だけでなく、7月9日のことも思い出します。独立宣言署名されてから5日後、宣言書はここニューヨーク市に届きました。イギリス兵はスタテン島上陸し、100隻を超えるイギリス艦が沖合に迫っていました。この街の至る所で、大陸軍は侵攻の準備を整えていました。ジョージ・ワシントンは、この建物からほんの数フィート場所部隊を集結させるよう命じました。当時はコモンズと呼ばれていましたが、今日ではシティホール・パークと呼ばれています

 

そこで、イギリス軍の砲火の射程圏内で、ワシントン将軍たちに独立宣言朗読するよう命じました。そして、世界最強の帝国攻撃を仕掛けようとしているまさにその時、ワシントンニューヨーク市民に、私たち明日祝うことになる出来事、つまり独立宣言したことを告げたのです。自由は手の届くところにある、と。その夜、危険が迫っていた。衝突はもはや疑いの余地のない、確実なものでした。しかし初期のニューヨーカーたちがボーリンググリーンに立つジョージ3世の像に向かって行進した時、彼らはその像を溶かして若い兵士たちの弾丸に変えることになるのですが、彼らは一斉に歩みを進めた。略奪の追求ではなく、初めて「アメリカ」という名を与えられた理想に根ざしていたのです。

 

私たちの国が築かれたその理想は、いかなる権威主義体制にも耐えうるほど強い。しかし、それは私たちがその理想を追求する限りにおいてのみです。私たちの国は建国当初の理想とする完璧国家を目指して日々努力しています。日々より良い国になろうと奮闘しています。そこにこそアメリカの使命があります努力し、向上し、完璧を目指すこと。

 

国民一人ひとりが自らの手で国を形作ることができるこの国に住めることは、私たち一人ひとりにとって何という特権でしょうか。そして、先人たちの偉大さに恥じない存在となるよう、私たち一人ひとりが果たすべき責任は何なのでしょうか。さらに、この地を訪れた多くの人々が感じてきた偉大さ、すなわち250年ものアメリカ体現してきた偉大さへと、アメリカを一層近づけていく力は、私たち一人ひとりにどれほど大きな力があるのでしょうか。

 

ありがとうございますアメリカに神のご加護を、ニューヨーク市に神のご加護を、そして独立記念日おめでとうございます

 

↓原文と演説動画

2025-08-08

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2021-08-18

1分でわかるアフガニスタン歴史

1747年:アフマド・シャー「イランから独立するで!」

アフガニスタン建国

1838年イギリスロシアインドを狙っとるからアフガンイギリス軍を置かせてくれや」

交渉決裂

イギリス「ほな戦争や!」

第一アフガン戦争

1842年:イギリスあかん、とりあえずアフガン占領したけど、反乱が多すぎるから撤退するわ」

→和睦

1878年イギリス「今度のアフガン国王ロシア寄りっぽくて怪しいわ! また戦争するで!」

→第二次アフガン戦争

1881年イギリス「今回は勝ったけど、めちゃくちゃ苦労したわ…」

イギリスアフガン保護国

1919年アフガン国王世界大戦イギリスが弱っとるみたいやで! いまこそアフガンから追い出す好機や! ジハードや!」

第三次アフガン戦争

アフガン国王あかん、勝てへんわ。和睦するで!」

イギリス「こっちも戦争うんざりやし、もう独立してええで」

アフガン独立する

1919年アフガン国王トルコムスタファ・ケマルかっこええな…ワイも真似したろ! アフガン近代化や!」

1929年アフガン国王あかん、反発が強すぎるわ。無理やり抑えてきたけどもう限界や」

→反乱が多発して首都占拠される

アフガン国王「反乱を鎮圧してワイが王様になったで! もっと穏健に近代化を進めるで!」

1973年アフガン大統領国王が軟弱やからクーデター起こしたったで! 王制を廃止してワイが大統領になるで! ソ連後ろ盾もっと近代化を進めるで!」

1978年ソ連大統領のやつ、最初はワイらに尻尾振っとったのに、最近アメリカにべったりやんけ。ほんならこっちにも考えがあるで」

→四月革命

ソ連アフガン共産主義の同志になったんやで(にっこり)」

イスラム勢力共産化なんかありえへんやろ! 反乱するで!」

1979年ソ連アフガン政府を助ける名目軍事介入するで!」

アフガニスタン紛争開始

アメリカソ連に対抗してもらうためにイスラム勢力武器渡すで〜」

1989年ソ連10年も戦って何の成果も得られませんでした…ソ連軍は撤退するで…」

1991年ソ連「というか、もう国がダメやわ…ほな…」

1992年アフガン政府ソ連が無くなってもうたやんけ。ワイらもあかんわ」

アフガン政府イスラム勢力が集まって新政府誕生したで! でもバラバラに戦ってた派閥の寄せ集めやから内ゲバでズタボロやで!」

1994年タリバンいつまでも派閥同士で争って内戦が終わらんやんけ! ワイらがやるしかあらへんわ!

アルカイダ「アタシらも協力しまっせ^^」

1996年タリバン首都占拠したったで! ワイらは欧米化共産化も目指さへん! 伝統的なイスラム社会を作るで!」

→旧政府あらた北部同盟「北に逃れて『北部同盟』として捲土重来を期すでー」

2001年アメリカなんやテロリストビル飛行機を突っ込ませて大惨事やんけ! ワイらにこんなことしたやつは絶対許さへんで!」

アメリカ犯人アルカイダアフガンにおるらしいやんけ! 引き渡せや!」

交渉決裂

アメリカ「ほな戦争や!」

タリバン政権が打倒される

北部同盟あらた新政府まさかの復活やで! アメリカさんのご指導のもとでやっていくで!」

2021年タリバンアメリカ軍が撤退するっていうから攻勢を仕掛けるで!」

新政府「こりゃかなわんわ、降参します」

タリバン政権復活! ←いまここ

2021-07-15

圧倒的な戦力差にも関わらず勝利善戦した戦い3

https://anond.hatelabo.jp/20210708183653字数制限に達したので書ききれなかった分はここに付け足しま

ISILに関する記述もありますが、テロを賛美する意図は一切ありません。あくま事実として記載しただけです。無論、ISIL惨敗した戦闘もあります。決してISILを格好いいと思わないでください。

古代

・ペルシス門の戦い

 B.C330 アレクサンドロス大王東方遠征 ペルシア軍700vs★マケドニア軍1万7000

 マケドニア軍の大軍に対し、ペルシス門を少数の守備隊が1か月守り抜いた。マケドニア軍は現地の住民から得た情報を元に挟撃することでようやく勝利を収めた。

中世

マリツァの戦い

 1371年 オスマンセルビア戦争 ★オスマン軍800vsセルビア軍2万~7万

 セルビア軍は大軍を率いて、オスマン帝国の首都エディルネへの奇襲を試みた。しかし、オスマン軍の夜襲に遭い敗退した。

近世

ペンコの戦い

 1550年 アラウコ戦争 ★スペイン・ピウンチ連合軍500vsマプーチェ族1万5000~2万

 スペイン軍はペンコに砦を築いた。マプーチェ族は大軍で包囲するが、攻城兵器もなく砦を突破できなかったため、兵を引いたところをスペイン軍に追撃される。マプーチェ族は4000人が戦死し、捕らえられた200人は鼻と耳をそがれた。

・チャカンの戦い

 1660年 マラータ王国800vs★ムガル帝国2万

 ムガル軍がマラータ軍を包囲。1ヶ月の攻防戦の末にマラータ軍は包囲した。マラター軍の死傷は300人、ムガル軍の死傷者は3000~5000であった。

・スラトの戦い

 1664年 ムガル帝国1000vs★マラータ王国8000~1万

 スラト市をマラータ軍が襲撃、3日間の攻撃の末、同市は6日間略奪の対象となった。ムガル軍の死傷者は28人、マラータ軍の死傷者820人であった。

・サラタの戦い

 1699~1700年 マラター王国300vs★ムガル帝国1万 

 サラタ市をムガル軍が包囲、数ヶ月にも及ぶ包囲戦の末に陥落させ、守備隊も玉砕したが、ムガル軍は3500人が死傷した。

・トルナの戦い

 1704年 マラータ王国700~800vs★ムガル帝国1万5000

 ムガル軍がマラータ軍を包囲、トルナ市を陥落させた。マラータ軍の死傷者は170~180、ムガルの死傷者は300であった。

近代

・コーレーガオンの戦い

 1818年 第三次ラー戦争 ★東インド会社750vsマラータ王国2万8000

ラータ軍とイギリス軍交戦、丸一日の激戦の末にマラータ軍が撤退した。イギリス軍の死傷者175人に対し、マラータ軍の死傷者は500~600人であった。

ブラッド・リバーの戦い

 1838年 グレート・トレック ★フォールトレッカーズ664(200人が非戦闘員)vsズールー軍1万5000~3万

 フォールトレッカーズ(英領ケープ植民地から南ア北部へのブーア人移民)がズールー族の大軍交戦撃退した。ズールー族3000人以上の戦死に対し、ブーア人はわずか3人が負傷したのみであった。

・ヴェコプの戦い

 1836年 グレート・トレック ★フォールトレッカーズ35vsマタベレ軍5000

 マタベレ軍がフォールトレッカーズを襲撃するも、撃退された。マタベレ184名の戦死に対し、ブーア人は2名が戦死した。マタベレは戦闘には5万500頭の家畜強奪することに成功した。

・チンハットの戦い

 1857年 インド大反乱 東インド会社700vs★反乱軍7000

 イギリス軍反乱軍鉢合わせし、敗退するが、全滅は免れた。イギリス軍の死傷者は200人ほどで、反乱軍の死傷者は589名であった。

・トゥエンクアン包囲戦

 1884~1885年 清仏戦争 ★フランス軍630vs清・阮朝1万2000

 フランス軍が清軍に包囲されるが、4ヶ月持ちこたえた末に撃退した。フランス軍の死傷者274名に対し、清軍の死傷者は3000名以上であった。

ドガリの戦い

 1887年  エリトリア戦争 イタリア軍550vs★エチオピア軍1万5000

 エチオピア軍の大軍イタリア軍大隊を襲撃。イタリア軍はほぼ全滅したが、エチオピア軍も1071名が戦死した。

現代

・サポティラルの戦い

 1927年 サンディー戦争アメリカニカラグア占領)・バナナ戦争 アメリカ軍・ニカラグア政府軍20vs★サンディニスタ400人以上 

 アメリカ軍・ニカラグア政府軍撃墜された米軍パイロット2名の救出に20派遣する。救出隊は途中でゲリラ待ち伏せに遭い、奮戦するも撤退し、作戦は失敗した。救出隊は4人が死亡したが、ゲリラは40~60名が死亡し、1人捕虜となった。

・フォルネブの戦い

 1940年 ノルウェーの戦い 第二次世界大戦 ノルウェー軍7vs★ドイツ軍70~80

 ノルウェー航空部隊ドイツ空軍交戦ノルウェー軍は戦闘機1機、ドイツ軍は4機撃墜されたが、ノルウェー軍の燃料が尽きたため、戦闘ドイツ軍勝利に終わった。

ビルハケイムの戦い

 1942年 北アフリカ戦線 第二次世界大戦 自由フランス軍3703vs★ドイツイタリア軍4万5000

 ロンメル将軍指揮下の枢軸軍自由フランス軍の籠城する砦を包囲、16日間の激戦を経て、砦を占領した。フランス軍の死傷者369名に対し、枢軸軍の死傷者は3300名に及んだ。この戦いはイギリス第8軍の撤退と再建のための時間を稼ぎ、エル・アライメンの戦いでの連合軍勝利につながった。チャーチルド・ゴールは勿論のこと、ヒトラーですらフランス兵の勇気を称えた。

・ヴェロニク作戦

 1955年 アルジェリア戦争 FLN359vsフランス軍5000+航空支援

 フランス軍FLN活動鎮圧するため爆撃を伴った大規模な掃討作戦実施する。FLNゲリラ戦で1か月以上抵抗した後に撤退した。ゲリラ側の死者は9名で、鎮圧の失敗はFLNの影響力を大いに高め、アルジェリア独立につながった。

・ヴェラノ作戦

 1958年  キューバ革命 ★7月26日運動300vsキューバ軍1万2000

 バティスタ政権反乱軍鎮圧のために軍を差し向ける。しかし、カストロチェ・ゲバラ指揮下の反乱軍返り討ちに遭った。この戦いで反乱軍の指揮は大いに上がり、バティスタ打倒に繋がった。

サンタクララの戦い

 1958~1959年 キューバ革命 ★7月26日運動340vsキューバ軍3900

 反乱軍はヒジャ・クララ州の首都サンタクララ攻撃、4日で占領した。その直後バティスタドミニカ亡命し、キューバ革命成功した。 

・ドゥヴロブニク包囲戦

 1991年から1992年 クロアチア紛争 ★クロアチア軍480~1000vsユーゴスラヴィア軍7000

 ユーゴスラヴィア軍はクロアチア軍を7ヶ月に渡って包囲するが、陥落できず撤退した。この戦いで1万5000人以上の難民が出た。

サパティスタの反乱

 1994年 サパティスタ民族解放軍3000vsメキシコ軍3万~4万

 メキシコ最貧州チアパス先住民たちが北米自由貿易協定NAFTAによる貿易関税撤廃に反対、一斉蜂起した。政府ゲリラを包囲し、徹底的な鎮圧を試みるが、反乱が世間の注目を浴びると、一転、停戦を呼び掛けた。両者の間で先住民権利文化尊重するサンアドレア協定が結ばれた。

ファルージャ陥落

2013年 ★ISIL200~300vsイラク軍1万人以上

 ファルージャ市をISILが襲撃。1週間足らずでイラク軍を撃退し、同市を占領した。

モスル陥落

2014年 ★ISIL800~1500vsイラク軍1万2000

 ISILモスル市を襲撃。1週間足らずで陥落させた。イラク軍は6万人で防衛に当たったと主張しているが、実際にはその2割ほどの兵力しか無かったと推定される。

バイジ奪還

 2014~2015年 ISIL1500以上vs★多国籍軍1万5000+米英加の航空支援

 イラク軍は1年弱にも及ぶ激戦の末にバイジ市をISILから奪還した。ISIL2000人以上が戦死したが、イラク軍も2500人以上が死傷した。

・ラマディ陥落

 2014~2015年 ★ISIL150~600vsイラク軍6000

 ISILがラマディ市を襲撃。5ヶ月の激戦の末に同市を占領した。

2021-02-22

ご面倒様って

 「ご面倒様ですが、車掌が参りましたら切符をお見せください」

 「特急列車からお乗換のお客様、ご面倒様でした」



この「ご面倒様」という言葉、少々古風な感じがあって丁寧で好きなんだけど、馴染みのない人には「誤った日本語」として認識されることがあるらしいと知った。



 「「御面倒様で御座いますが」……この敬語絶対間違ってるだろ……」

 「御面倒様、御迷惑様、山梨に限らずありますね。正しい用法とは思えませんが」

 「面倒って人じゃないし。せいぜいご面倒ではございますが、でいいんじゃないかと。用法としておかしくないかね?」

 (Twitter個人ブログより引用



日本国語大辞典では初出として1838年人情本からハイこれは御面倒さまで」という例が挙げられている。既に現代と近い使い方である

同じく日国の例で、幸田露伴が「御面倒様と悪慇懃挨拶する」と書いている。

少なくとも最近出来たような言葉じゃないし、これを誤りと決めつけることには極めて抵抗がある。

人以外に様をつけるから変というなら、「ご苦労様」や「お世話様」もいかんということになる(そんなことはあるまいよ)。


日本人日本語を知らないという教授の弁を、大学講義で聞いた覚えがある。

日本語に対する無知無自覚人間が「間違った日本語」を排斥していけば、日本語語彙の歴史的重層性や多様性が損なわれていく。

母語話者からと驕るなかれ、未知の語に出会ったら正誤を判断する前に、せめて日国を引くくらいの手間はかけてほしい。まあこれはただの愚痴ですが。



ところで「ご面倒様」は専ら電車バスなど運輸業従事者によって使われている印象がある。今では一種位相語として生き残っているんかな。

2020-10-26

『翼ある人びと』整理

『BADDAY』『星逢一夜』『金色砂漠』と進んできたけどなんかしっくりこなかった因数分解したい。

金色砂漠』は最初花乃さんが明日海さんに(もうそれぞれの役名忘れた)死罪を言い渡すのがしっくりきてなくて、友人に話すうちにしっくり答えが見つかって、ああやっぱすごいなあと思ったから。

それから、『fff』に向けてという意味もある。上田久美子氏のクラシック音楽に材をとったものは、もしかして自分受け付けないんじゃないか、いやいやいや、せっかくだから受け付けるようにしておきたい、みたいな?

ああ、本来は『サパ』ブルーレイ購入検討のためであった。

前段:上田久美子氏

金色砂漠』を見たあとに、改めて上田久美子氏についてグーグル先生に尋ねたところ、宝塚への見方昭和なことしててすごい、この文化は途絶えさせてはいけない)、東京労働への考え(東京砂漠という表現と稼いで使ってという燃費の悪さ)が自分と同じで驚いた。そして単純計算して、自分の1つ年下か、ということも弾き出した。出身大学もまあ、親戚みたいなもんだ(言い過ぎか)。

前段:ブラームス

ブラームスイメージは、昔友人が言っていた「俺らの大学気質に合ってるんだよ、クララにひそかに恋しちゃったりしてじとじとしてるところが。あと真面目。交響曲こだわりすぎて4曲しか作れなかった。」「交響曲第4番ほんともうスコアの見た目からして美しい(確か。ベートーヴェンの5番と共にこの2曲を挙げてた)」。

それからビジュアルイメージも完全に髭面のそれだった。若いときのやつあんまり記憶になかった。

自分携帯に入ってる唯一の交響曲が、ヴァントのブラームス交響曲3番だった(あ、最近幻想交響曲入れたんだった)(ヴァントにこだわりがあるわけではない。Kugouの中で選んだ)。交響曲1番、4番はメジャーすぎ(というか主張が強いのかな、メロディラインというか)、2番は自分にとって手垢が付きすぎているため。

あ、あと、暗くてじとじと、とはいえ交響曲1番1楽章とか激しい。

まあとにかく、やっぱ気質なのか、あとはミュールフェルトのおかげか、自分にとっては1馬身出てる作曲家

前段:シューマン

シューマンは、交響曲4番(のVnソロ笑)。あと『子供の情景』の<知らない国々>だ。自分体験としては夢々しい、というイメージ。だけど、これも別の友人が言っていた、シューマンを聞きだしたら、闇落ちしていることに気がつく、と。

あと名高い『音楽音楽家』が3ページぐらいで止まって積読

から

ヨハネス・ブラームスクララシューマンロベルト・シューマン、ヨーゼフ・ヨアヒム

知ってる人らだからと油断していたら名前からなくなった罠。ヨハネス、クララロベルト、ヨーゼフ。

ヨーゼフは、フランツ・ヨーゼフ1世と混ざる…。

フランツ・リストフランツ・ヨーゼフ・ハイドン

史実らしいこと整理

【】翼ある人びと

1838年:『子供の情景 Op.15』『クライスレリアーナ Op.16』

1841年シューマン交響曲第1番 Op.38』。シューマン交響曲第4番初演するもイマイチメンデルスゾーン体調不良によりフェルティナンド・ダーヴィトが指揮)、出版されず。

1845年:三女ユーリ誕生【長女、遥羽らら】

1846年長男エミール誕生【秋音光】。シューマン交響曲第2番 Op.61』

1847年長男エミール死没

1848年フランツ・ヨーゼフ1世即位

1850年シューマン交響曲第3番 Op.97』

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1853年ブラームス20歳クララ34歳、シューマン45歳、ヨアヒム22歳、リスト42歳、ワーグナー40歳フランツ・ヨーゼフ1世23歳)

8月18日バート・イシュルの夏は暑い、今年は特別

9月30日シューマン邸『ピアノソナタ第1番』を弾く

10月:いっぱい滞在。初旬にシューマンが『ヴァイオリン協奏曲 d』を作曲するもヨアヒムが封印21世紀に入り、ワーグナーを先取りしたような斬新な和声使用などの先見性が評価されるようになった)。

秋頃(それ以前という説もあり):『ヴァイオリンソナタシューマン出版提案するもブラームス判断で破棄

11月シューマンのもとに『ピアノソナタ3番 Op.5』の譜面が送られている

12月17日:『ピアノソナタ第1番 Op.1』初演@ライプツィヒヴァンハウスシューマンの紹介でブライトコプフから出版、ヨーゼフ・ヨアヒムへ献呈。シューマンは当初別の作品作品1として出版することを提案していた。

12月30日シューマン交響曲第4番(改訂版Op.120』初演(現在一般的演奏されるのはこれ。翌年出版はするがあまりハネなかった模様)

1854年

1月:『ピアノトリオ第1番 Op.8』@ハノーバー

2月27日シューマン投身エンデニヒの精神病院へ。ブラームスデュッセルドルフへ駆けつけ、シューマン家を助ける。クララとの距離近づく。

春?:『ハンガリー民謡主題による14の変奏曲 Op.21-2』

6月:四男(末子)フェリックス誕生次男、花菱りず】。ブラームス名付け親ブラームスの子供説あり。ロベルトによく似ていてクララもとても可愛がる。

8月:『シューマン主題による変奏曲 Op.9』完成

夏:『4つのバラード Op.10』この曲集の作曲とほぼ同時期にクララへの生涯にわたる愛が始まっている。

1855年クララ手紙の中で「君」と表現。『2つのガヴォット』『2つのジーグ』『2つのサラバンド』『ベートーヴェンピアコン4番のカデンツァ』『格言(この欺瞞世界で)』。交響曲第1番着想(シューマンの『マンレッド序曲』を聞いて)。

1856年フーガ』『前奏曲フーガ a』『モーツァルトピアコン20番のカデンツァ』『キリエ』『ミサ・カノニカ』

4月05日:『惜しみなく与えよ Op.30』

7月29日シューマン

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1857年:『前奏曲フーガ g』『子供のための14の民謡』『モーツァルトピアコン17番のカデンツァ(着手)』

1858年:25歳の時、友人の家で知り合ったアガーテ・フォン・ジーボルト婚約。『セレナード第1番 Op.11

1859年結婚生活音楽活動の制約となることを恐れて婚約破棄

1861年:『シューマン主題による変奏曲 Op.23ユーリエへ献呈。

1863年エリザベート・フォン・シュトックハウゼンブラームス弟子として受け入れるも、ユリウス・エプシュタインに送り返している(彼女まれにみる美貌と才能のため必要以上に惹かれてしまうことを恐れてか、エプシュタインへの配慮か)。

1867年オーストリア=ハンガリー二重帝国誕生戴冠式マーチャーシュ協会ミサ曲はリスト作曲

1869年:36歳の時、ユーリエに心を寄せるも内気ゆえいつもの癖で気持ちを打ち明けられずにいるうちにクラライタリアのラディカーディ・ディ・マルモリートからユーリエへの求婚を容れて婚約させてしまい、ブラームスは怒りをもって『アルト・ラプソディ(ゲーテの「冬のハルツの旅」から断章Op.53』を作曲(別のサイト表現では、プロポーズを承諾したときにわかに不機嫌に。『アルト・ラプソディ』はユーリエへの嘆きの歌)。

1874年フェリックスの詩に付曲(Op.63-5~6)

1876年:『交響曲第1番 Op.68』21年の歳月をかけ完成。

1876or7年 *43歳:「結婚すればよかったと思うこともある。……しかし適齢期のころには地位はなく、いまでは遅すぎる」と友人に語った

1879年フェリックス病没。悲しみにくれるクララを慰めるため、ブラームスは『ヴァイオリンソナタ第1番<雨の歌>Op.78』を作曲クララ「この曲を天国に持って帰りたい」。また同時期にフェリックスの詩に付曲(Op.86-5)。

1883or4年 *50歳:コントラアルト歌手ヘルミーネ・シュピース23歳年下)に出会い歌唱力の素晴らしさと女性としての魅力に惹かれるが結婚にまでは踏み切れず。

1889年フランツ・ヨーゼフ1世から芸術科学のための金の大勲章」を授かる。暮れに謁見。シューマン交響曲第4番初稿版を再演(クララ改訂版派だった)

1890or1年 *57歳:コントラアルト歌手バルビと出会って音楽家としての魅力に惹かれる。

1891年:『クラリネットクインテット Op.115』@バート・イシュル夏。シューマン交響曲第4番ブラームスヴェルナ校訂版出版、世に知られるようになる。

1893年:『シューマン全集刊行ブラームスクララ編纂

1896年

3月26日クララ脳出血で倒れる

5月07日:『4つの厳粛な歌 Op.121』完成。辞世作品とみなされている。

5月20日:クララ没(76歳)。埋葬式のあと体が衰弱し、肝臓癌であることがわかる。

6月:『11コラー前奏曲 Op.122』@イシュル。第11曲「おお、この世よ、われ去らねばならず」。作品を書き終えたブラームス健康は日に日に衰えていく。医者治療を受けても病状は一向によくならず。

1897年 4月3日:没(63歳)

1898年エリザベート暗殺

1937年シューマンの『ヴァイオリン協奏曲 d』がヨアヒムの蔵書から発見される


※出典:ウィキペディアとか奇特な方のブログとかブラームスインスティテュートとか、、余力があれば追記…。

あと書籍類もぼちぼち読んでいきたい

あと映画

2018-02-28

フィクションにおける南極歴史

古代

約2000万年

宇宙から飛来したUFO南極へと落下(影が行く)

10万年

宇宙から飛来したUFO南極へと落下(遊星からの物体X)

1万2千年以上前

堕天翅族がアトランディアの地(南極)に高度な文明を築いていた(創聖のアクエリオン)

紀元前2000年

プレデター南極に降り立つ。人類建築技術を与え神として崇められた

神殿を建造させ100年ごとに成人の儀式のために地球を訪れ、エイリアン宿主となる生贄を求めた。しかしある時繁殖しすぎたエイリアンによって敗北し、全てをリセットするため自爆装置を用い南極文明消滅させた(エイリアンVSプレデター)

1606年頃?

全盛期のキスショット南極大陸から日本に渡る。衝撃で南極大陸を破壊しかける(鬼物語)

1838年

アーサー・ゴードン・ピム、友人オーガスタスの協力のもと帆船グランプス号に密航する

様々なトラブルを乗り越え辛くも南洋を目指す貿易ジェイン・ガイ号に救出される

そのまま南極探検に向かい「テケリ・リ」と鳴く動物に遭遇する(ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語)

1868年

ネモ船長人類で初めて南極点を征する(海底二万マイル)

1889年

ノーチラス号は資材補給のため南極秘密基地へ向かう。基地南極の地下にある大空洞に、2万年前に古代アトランティス人が建造した巨大なドックだった(ふしぎの海のナディア)

1930年

ミスカトニック大学ダイアー教授率いる探検隊、南極大陸に向かう

生物学者のレイク率いる分隊狂気山脈発見。「古のもの」の化石を数体発見するがショゴスの襲撃を受ける。最終的にたった2名の隊員のみが帰還する(狂気山脈にて)

1938年

1945年

ナチスの残党が宇宙人との戦闘勝利し、遺跡から聖杯を手に入れ新たな帝国南極に築く(ADVANCED WORLD WAR 〜千年帝国の興亡〜、難局!ED)

1955年

昭和30年代、敗戦から復興を進める日本戦勝国を中心とした国際地球観測年による南極観測への参加を表明する。しかし、他の参加国から敗戦であることを理由罵倒される。そして日本に割り当てられた観測場所は「inaccessible(接岸不可能)」とされていたプリンスハラル海岸であり日本は全く期待されていなかった。その中で倉持たちは日本世界と肩を並べる時が来たとして南極観測のために尽力する(テレビドラマ南極大陸 」)

1958年

二次越冬隊を乗せた南極観測船・宗谷が例年にない悪天候と氷河に阻まれ立ち往生してしま

その4ヶ月後、往生したままの観測から飛行機基地に降り立ち本日中に全員が昭和基地から撤退帰国するよう命令が下る。しかし犬達を連れていくことは許されず、潮田達は苦渋の決断で数日分の餌を与え南極に犬たちを置き去りにして帰国する

犬達は鎖から逃れ、1年後に生き残っていた兄弟犬タロとジロに再会する(南極物語)

1966年

南極に生息する怪獣ペギラ南極観測隊の基地を襲撃したが、南極の苔から取れる物質ペギミンHが弱点であることがわかり、それを搭載した気象観測ロケット迎撃されると黒煙を吹きながらどこかへ飛び去る(ウルトラQ)

1969年

イギリス細菌研究所で開発されたウイルススパイによって盗み出されたが、スパイの乗ったセスナアルプス山中吹雪のため墜落しウィルス流出してしまった

ウイルスは全世界蔓延半年後には35億人の人類を含み地球上の脊椎動物ほとんど絶滅してしま

わずかに生き残ったのは南極大陸に滞在していた各国の観測隊員約1万人と、海中を航行していて感染を免れた原子力潜水艦ネーレイド号やT-232号の乗組員たちだけであった。過酷な極寒の世界ウイルス活動を妨げ、そこに暮らす人々を護っていたのである。隊員らは国家の壁を越えて「南極連邦委員会」を結成し絶望の中から再建の道を模索する(復活の日)

1979年

1982年

1984年

南極の奥地にある機械の城ネオラード拠点とする、メカ人間帝国「新帝国ギア」が人類への攻撃を開始する(超電子バイオマン)

1985年

1991年

「私」が氷男と結婚南極旅行を持ちかける(村上春樹「氷男」)

1992年

南極舞台にしたクレイアニメピングー」が日本放送開始

1994年

学会で使うテープを間違って娘たちに送ってしまった江崎教授のために両津勘吉中川圭一が協力して世界中を駆け巡る。冬子がいた南極両さん制服のまま海に落ちたり白熊と格闘する(こちら葛飾区亀有公園前派出所「絵崎教授80時間世界の旅の巻」)

1995年

1997年

西村淳、昭和基地からも遠く離れた陸の孤島南極ドームふじ基地料理人として派遣される(南極料理人)

2000年9月13日

セカンドインパクト南極大陸が消滅する(新世紀エヴァンゲリオン)

2003年

南極の氷山からまれた極寒爆竜コンビを、アバレンジャー正義の爆竜たちが迎え撃つ(爆竜戦隊アバレンジャー DELUXE アバレサマーキンキン中!)

2004年

2006年

2007年

新人サファーのペンギン「コディ」がサーフィンワールドカップで優勝を目指す(サーフズ・アップ)

2011年

2012年

オルタンス、南極フランス観測基地料理人となり1年間の任期を無事に終える(大統領料理人)

2015年

碇ゲンドウ冬月コウゾウ両名が南極に出向きロンギヌスの槍を回収。NERV本部地下のリリスに零号機によって刺された(新世紀エヴァンゲリオン)

2016年1月

18歳のジンカイザワは、南極海の氷山曳航を計画するシンディバード号にオーストラリアから密航する。乗船を許されたジン厨房で働く一方、クルー研究者たちのために船内新聞をつくることに(氷山の南)

2017年

20XX年

宇宙世紀0079年1月31日

南極条約締結(機動戦士ガンダム)

A.C.195

戦士としてヒイロとの決戦を望むゼクス。ノインはヒイロトロワを連れゼクスの待つ南極へと向かう(新機動戦記ガンダムW 第15話「決戦の場所南極へ」)

不明

2018年

女子高生南極へ行く(宇宙よりも遠い場所)

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