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はてなキーワード: webとは

2026-07-14

anond:20260714194808

派遣プログラミング覚えたいんですとやってきた人いたけど、さすがにWebアプリ系は短期間で厳しそうだったので、インフラ作業アサイン移したら嫌で辞めていったな

辞める前に、職業訓練でもプログラミング組み込みの)を学びながらお金貰える事をアドバイスはしといた

生成AIは、今どこまでできるの?

イラレWEBページデザインを作っているけど、これをサクッとWEBデータにしてくれるの? Figmaデータにしてくれるの?


生成AIデザインをしてもらうとか頑張っているのとかいるみたいだけれど。私としては、そういうのじゃないんだよ。

anond:20260714164925

Web小説としては毎日延々と更新し続けたほうが読まれるんだよなあ

「ふんぱんもの」の歴史

1. はじめに:「噴飯物(ふんぱんもの)」の正体と誤用の現状

現代日本語において、もっとも誤解されている言葉の一つが「噴飯物(ふんぱんもの)」です。文化庁が発表した「国語に関する世論調査」では、本来意味であるおかしくてたまらないこと」と答えた人が約2割にとどまったのに対し、誤用である「腹立たしくて仕方ないこと」と答えた人が約5割にのぼるという逆転現象が起きています

「噴飯」とは文字通り、「おかしさのあまり、口に含んでいた飯を思わず吹き出ししまうこと」が語源です。つまり、大笑いして周囲の失笑を買うような「みっともない・滑稽な出来事」を指すのが本来用法です。しかし、なぜこれほどまでに「怒り」のニュアンスへと変貌してしまったのでしょうか。その歴史平安時代まで遡りつつ、誤用が広まった背景と今後の対策について考察します。

2. 歴史的変遷:

平安時代から近代までの言葉系譜

漢語流入平安時代言語空間「噴飯」という言葉のものは、中国宋代文豪・蘇軾(そしょく)の文集などに見られる古典的漢語です。日本において漢語が本格的に定着・発展した土台は平安時代にあります。当時の貴族社会では、公文書学問に「漢文漢語)」が使われ、日常感情表現には「和歌和語大和言葉)」が使われるという、二重の言語生活が営まれていました。平安時代において「おかしくてたまらない」という感情は、和語の「をかし」や「あなむつかし(※呆れるほどおかしい)」といった表現が主流であり、「噴飯」という即物的漢語日常会話で使われることはありませんでした。しかし、この時代に「漢字訓読み」や「変体漢文」を通じて、漢語日本語感情表現へと落とし込む知的システムが完成したことが、のちの時代に「噴飯」のような漢語文学表現として広く受け入れられる伏線となったのです。

江戸明治から近代文学への定着

下って江戸時代から明治時代にかけて、印刷技術の発達と広く大衆に向けた文芸(戯作や近代小説)の隆盛により、漢語一般の読み物へ急速に普及します。明治期の作家尾崎紅葉の『続々金色夜叉』には、「貫一は覚えず噴飯せんと為つつ(おかしくて思わず吹き出しそうになりながら)」という記述があり、この時点までは「笑う」という意味で正しく機能していたことが分かります。当時は漢文の素養を持つ知識層が言葉ストッパーとなっていたため、公の場で意味が変質することはありませんでした。

3. いつから、なぜ誤用が広まったのか

誤用が急速に拡大した時期「噴飯物」が「腹立たしい」という意味で劇的に広まったのは、20世紀後半(昭和後期)から21世紀初頭(平成)にかけてと推測されます。決定的な証拠となったのが、前述した2012年平成24年)の文化庁世論調査です。この時点で、すでに世間過半数近くが間違った意味で覚えており、言葉の主客が完全に逆転し始めていたことが浮き彫りになりました。

誤用が定着した3つの心理的言語的要因
要因具体的なメカニズム

漢字混同(噴 と 憤)激しく吹き出す「噴(ふん)」という字が、怒りに震える「憤(ふん)」(憤慨、憤るなど)のイメージと強力に結びついてしまたこと。

文脈二面

「彼の発言噴飯物だ」という表現は、本来「笑ってしまうほどバカバカしい」という意味ですが、批判文脈で使われるため、受け手には「呆れて怒っている(腹立たしい)」ように見えてしまうこと。

身体イメージ連鎖

現代において「飯を噴く」という行為は、単なる大笑いよりも「怒りのあまりから泡を飛ばす」「不快感で口のものを吐き出す」といったネガティブ身体反応として直感的に解釈されやすいため。このように、「言葉の響き(ふん)」と「批判的な使用文脈」が重なり合った結果、現代人の脳内で「噴飯=怒りの噴出」という誤った回路が定着してしまいました。

4. 今後の対策

言葉の乱れとどう向き合うべきか

言葉時代とともに変化する生き物ですが、コミュニケーション齟齬を防ぐためには一定対策必要です。「噴飯物」の誤用に対して、今後私たちはどのようなアプローチを取るべきでしょうか。

教育メディアにおける「気づき」の提供

もっと重要なのは学校教育メディアにおける適切なアナウンスです。単に「間違いだから直しなさい」と断罪するのではなく、「なぜ間違えやすいのか(噴と憤の勘違い)」というメカニズムとセットで解説することが効果的です。クイズ形式テレビ番組Webコラムなどで、雑学として面白く消費してもらうことで、自然言葉アップデートを促せます

② 言い換え表現積極的活用

ビジネスシーンや公の文章において、相手の誤解や無用な摩擦を避けるためには、あえて「噴飯物」という言葉を使わず、より明瞭な言葉に言い換えるのが賢明対策です。

本来意味(笑える・バカバカしい)で使いたいとき

👉 「失笑を禁じ得ない」「お笑い草だ」「あまりの滑稽さに呆れてしまう」

誤用意味(腹立たしい)として伝えたいとき

👉 「憤懡(ふんま)を覚える」「到底受け入れがたい」「断じて許しがたい」

③ 変容を受け入れる「寛容さ」と「客観性

一方で、言葉歴史を見れば「本来意味から180度変わって定着した単語(例:『全然』の肯定表現など)」は無数に存在します。すでに半数以上の人が「腹立たしい」と認識している以上、過剰に「誤用警察」として他者糾弾することは建設的ではありません。文脈から相手意図を正確に読み取る「受信力」を高めつつ、自身が発信する際は正確性を期すという、バランスの取れたスタンスが求められます

5. まとめ

平安時代に培われた漢語の受け入れ態勢からまり近代文学で華開いた「噴飯物」という言葉は、現代において「漢字視覚イメージ」と「使われる文脈」の罠によって、怒りの言葉へと形を変えつつあります言葉の変遷を完全に止めることはできませんが、その背景にある歴史理由を知ることは、私たち日本語に対する解像度を大きく上げてくれます。単なる「正しい・間違い」の二元論を超えて、言葉が持つ背景を楽しみながら、場面に応じた柔軟なコミュニケーションを心がけていきたいものです。

anond:20260714102619

webって焼畑農業だよな。

広告費を稼ぐ最適解なんだろうけど、そのうち誰も利用しなくなるよな。

anond:20260714093615

なろう系って暇つぶしWEBで読むにはいいんだけど、別に書籍欲しいとは思わんしアニメ見ようとも思わんのだよな

2026-07-13

anond:20260713163246

おらんぞ。たとえば、こんな風にググってみるといい

"リクルート 平均年齢"

 

役職別 平均年齢・最年少年齢(2026年4月現在

執行役員 平均年齢47歳、最年少40歳

 

エグゼクティブ相当 平均年齢45歳、最年少32歳

部長相当 平均年齢43歳、最年少31

課長相当 平均年齢39歳、最年少27歳

年代従業員比率20代以下) 28%

年代従業員比率 (30代) 51%

年代従業員比率40代) 18%

年代従業員比率 (50代以上) 4%

https://www.recruit.co.jp/people/inclusion/decent-work/

 

 

現実マッシュIT系野郎がどこから供給されているかは、やっぱ緩いWEB系じゃない?

anond:20260712100633

増田に何を求めてんだ

web小説に専門書求めてるようなもんだろ

増田日本人にどう思われているか

増田人物

はてな匿名ダイアリー通称増田)」の投稿コメント欄から浮かび上がる平均的人物像は、「地方から上京した、ITWeb界隈で働く30代〜40代独身知的労働者」です。技術社会サブカルチャーへの関心が高く、論理的思考を好みます。一方で、高学歴でありながら自己評価が低く、世間エリートへの強いコンプレックスを抱えています孤独感や生きづらさを内向的分析する傾向があり、テキストでの自己表現に高い執着を持っていますネットスラング2ちゃんねる(現5ちゃんねる)文化文脈理解しており、冷笑的かつ批判的な視点から社会を眺めています承認欲求匿名性の間で揺れ動きながら、日々の仕事愚痴や、誰にも言えないドロドロとした本音言語化されない日常違和感を、高い文章表現力でシニカルに綴るのが特徴です。

増田と大便

増田では大便を漏らすエピソードが頻繁に投稿されます増田特有匿名性と、読者層の健康心理的背景、そしてプラットフォーム文化が複雑に絡み合っているためです。

1. 「お漏らしエピソード」が読まれ文化

増田では、他人凄惨な失敗談や、誰にも言えない恥ずかしい本音が好まれ文化通称:クソ記事ウンコプログラミングなどの文脈)があります

評価を得やすい:

「漏らした」という強烈な体験談は、はてなブックマーク拡散されやすく、バズを狙う投稿者が集まりやす性質があります

一種エンタメ化:

悲惨体験文学的シニカルに描くことで、読み物としてのエンターテインメント昇華されています

2. ストレスと「過敏性腸症候群IBS)」

平均的人物像でも触れた通り、増田のメインユーザー層はITWeb業界などで働く、精神プレッシャーの強い30代〜40代知的労働者です。

過酷労働環境

時間デスクワーク精神ストレスにより、お腹を下しやす過敏性腸症候群IBS)を患っている人が少なくありません。

通勤トラブル

距離満員電車通勤など、トイレに駆け込めない閉鎖環境に置かれる機会が多いことも要因です。

3. 完全匿名からこそ吐き出せる聖域

大人になって大便を漏らした」という事実は、Twitter(X)やFacebookなどの実名・半実名SNSでは絶対投稿できません。

究極のデトックス

誰だか分からない「増田」だからこそ、プライドを捨てて最悪の失敗を吐き出し、精神的な救いを求めることができます

まとめ

本当は大人でも毎日大便を漏らしている

実は「大人が大便を漏らす(便失禁)」というのは、公にだれも口にしないだけで、医学的にも決して珍しいことではありません。

1. 20代〜70歳の成人の5人に1人が経験

衛生用品大手ユニ・チャーム実施した2万人規模の大規模な実態調査によると、成人の約2割が「軽い便もれや下着への付着」を経験していますさらに、その経験者の約2割は「週に1回以上」の頻度で発生していると回答しています

2. 働き盛りの20代〜30代に多い

驚くべきことに、この調査では加齢による身体能力の低下よりも、20代〜30代の若い世代のほうが経験率が高いという結果が出ています

主な原因は「ストレスによる下痢」:

緊張や過度なストレスによる自律神経の乱れから、急激な下痢を催す過敏性腸症候群IBS)を患う現役世代が非常に多いためです。

想定外事態

「ただのおならだと思ったら、液体状の便だった」というケースが最も多い失敗パターンです。

3. 社会タブーが生む「孤独な悩み」

大人が漏らす」ことは社会的な羞恥心が極めて強いため、友人や家族はもちろん、医師にすら相談できず8割以上の人が1人で抱え込んでいます

その結果、完全匿名で誰の目も気にしなくていい「増田」のような場所に、唯一の吐き出し口として毎日のように投稿が集まるという縮図が出来上がっています

anond:20260713152955

AI仕事現在地

ループなんちゃらの話は多分極一部でしかできていない(たぶんwebの一部)

・Agentやskillは割と使われてるが、コーディング以上の仕様の部分でもゴリゴリ使ってるチームはレア

・ChatGPTの音声アシスタント機能がびっくりするくらい強くなったが、会社で声を出すコストを考えると影響は限定的

2026-07-12

web上での色んな言い合いを見る限り、「自分を正確に認識できていないこと」がとても大きい問題なんだろう

 

だって自分を正しく賢いと思いたい

そしてその「正しく賢い自分像」が現実であることを示すために、他人マウントを取ったり、否定したり、攻撃したりする

 

だって自分人生選択が正しいと思いたい

から他人選択否定したり、馬鹿にするための情報を探す

 

しかしよく考えると、本当に賢く正しいならばそんなことをする必要はなく、生活は充実して未来への希望で満ちているはず

2026-07-11

コールセンターかけても法的事前告知ばかり長くなって解決不能Web手続き勧めてきて必要選択肢を後ろの方にしてまで通話料毟り取るビジネスなんとかしろ長電話クレーマー対策なのは分かるが急いでる必要電話まで迷惑被るのはマジクソ

うちの親父(70代)くらいだと、家父長制の家で古風な父親像を見て育ったけど、社会は既に変容し始めていて、そのギャップに苦しむということがある世代だと思うけど、なんか今でもWeb上を見ると、そういう人たちが結構いるもんだ

et’s not speak of suicide. Let’s not encourage the cottage industry bent on reducing David Foster Wallace to a literary Kurt Cobain,

ジョナサンフランゼンとデイヴィッド・フォスター・ウォレス――その時代代表する二人のアメリカ人作家――はいずれもアメリカ中西部で育った。フランゼンは、ミズーリ州ウェブスターグローブズで過ごした子ども時代について、「まさに真ん中の中の真ん中。そこには家族と家と近所と教会学校仕事しかなかった」と振り返っている。一方、両親とも大学教授だったウォレスは、イリノイ州アーバナ青春時代を過ごした。そこは「穀物サイロ戦後住宅が並ぶ小さな町で、住民たちは農業保険窒素肥料除草剤を売り、近くのシャンペーンアーバナ大学に勤める若い研究者たちから固定資産税徴収するくらいしかしていなかった」土地だった。

二人は、セオドア・ドライサー、アーネスト・ヘミングウェイハロルド・ブロドキーらに連なる系譜に属している。地方的で中西部的な背景ゆえに近代社会の衝撃に備えられていなかった作家たち、あるいは逆に、その地方性ゆえに芸術家特有の斜めからの鋭い感受性を身につけ、その衝撃に向き合うことができた作家たちの系譜である

二人の年齢差は三年にも満たず、扱う題材もよく似ていた。テクノロジー、読者との関係、そしてポストモダニズム文学曖昧遺産について、それぞれ独自に格闘していた。そして両者は共通して、小説は依然として人生の「切実な問い」に語りかけるべきだと信じていた。そうするなら、小説は大量娯楽とマクドナルド時代にあってもなお生命力を保てる、と考えていたのである

しかし、その一方で二人は驚くほど異なる作家でもあった。同時代に似たテーマを扱った作家同士とは思えないほど、本質的に違っていた。一般には、その違いは文体の違いや、「リアリズム」に対する姿勢の違いとして説明されてきた。

フランゼンは初期にはポストモダン的な構成を試みたものの、現在では伝統リアリズム作家とみなされている。批評家ベンジャミンカンケルの言う「永続する小説」の代表格であり、対話心理描写三人称語りを「いまや古典的に思える均衡」で組み合わせる作家だ。一方ウォレスは、ゼイディ・スミスによって「リアリズムに挑戦する前衛作家」の一人に数えられている。入り組んだ脱線、渦を巻くような物語構造脚注の中の脚注――そうした特徴によって、彼はモダニズムあるいはポストモダニズム系譜に置かれてきた。批評家ジェームズ・ウッドも、あるヨーロッパ実験文学作家書評で、ウォレスを「単なる文法的リアリズム――現実を整然とした単位に切り分けるリアリズム――とは相容れない作家」の一人として挙げている。

しかし、こうした区別だけでは満足できなかったのか、あるいは「単なる文法的リアリズム」という見方への違和感があったのか、フランゼン自身は何度もウォレスとの違いについて語ってきた。その代表例が2002年評論Mr. Difficult」であり、さらに翌年には『The Paris Review』のインタビューでもこう語っている。

私たち関係には、一方が芸術のための芸術を追求し、もう一方が現実社会の中で生きようとする作家である、という競争関係が取り憑いていた。」

そして2011年4月18日の『The New Yorker』に掲載された、大きな注目を集めたエッセイ「Farther Away」で、フランゼンはさらに新しい区別提示する。しかもそれは、それまでで最も単純な区別だった。

二人の本当の違いとは、フランゼンは他人を気にかける人間であり、ウォレスは根っから自己愛的な嫌な奴だった――というのである

続きです。前回の続きから、同じ形式段落を整理しています

もちろん、この要約だけを聞けば極端すぎると思えるだろう。そして実際、ある意味では誇張でもある。しかし同時に、『Farther Away』を読んで誇張した物言いに誘われたのは、私だけではない。このエッセイは、二十年以上に及んだ二人の文学友情の総決算とも言える作品になっている。

フランゼンは、自分とウォレス関係を「比較し、対照し、そして兄弟のように競い合う関係」と表現している。その始まり1988年夏だった。ウォレスが、フランゼンのデビュー長編『The Twenty-Seventh City』を読んで感銘を受け、ファンレターを送ったのである

実際に二人が会ったのは1990年だった。その間が空いた理由についてフランゼンは、「後になって理由が分かった」と書いている。つまり当時のウォレスは薬物依存問題を抱えていたのである

実際に会ってみると、手紙のやり取りほど親密ではなかった。フランゼンは振り返る。

はいつも、自分が十分に面白く、十分に頭がいい人間だと証明しようともがいていた。

一方ウォレスは、数マイル先の一点を見つめ続け、その視線のせいで私は、自分が何一つ相手を納得させられていないような気分になった。

それでも二人は手紙を書き続け、お互いを称賛し合った。

1996年には、ウォレスが公の場でフランゼンを擁護している。当時フランゼンが『Harper’s』誌に発表した長大評論「Perchance to Dream」は賛否両論を呼んでいたが、ウォレスはこの文章を、

芸術ほとんど評価しない文化の中で、本気の芸術を作ろうとすることがどんな気持ちなのかを、これほど率直で親密に描いた文章

だと高く評価した。

同じ年、フランゼンはウォレスから送られてきた『Infinite Jest』の草稿を読んで衝撃を受ける。

彼は言う。

あの原稿は私を仕事へ向かわせた。競争相手がいると、人は仕事をするものからだ。

その結果生まれたのが、出世作となる『The Corrections』である

しかしウォレスは、『Infinite Jest』以降、長編小説をもう一冊も完成させることはなかった。短編集やルポルタージュを書き続け、未完の原稿は死後『The Pale King』として出版される。そして2008年9月、自宅裏庭で首を吊って自殺した。

フランゼンは後に、この自殺をどうしても「反則」のように感じてしまったと告白している。それは二人の作家同士の競争ルールを破るものだった。

彼はこう書く。

「ようやくまた仕事に集中しようとしていた矢先に、デイヴ自殺してしまった。

『おい、本当にそんなことをするのか?

若くして死ぬ天才になるつもりか?

それは反則だろう。』

と思った。」

二年後、『Freedom』を書き終えたフランゼンは、『Farther Away』を書き始める。彼自身、この文章は、

「私が愛していた人の、おぞましい自殺と向き合うため」

に書いたものだと説明している。

『Farther Away』は複数テーマを一本に束ねた奇妙なエッセイである。『ロビンソン・クルーソー』の読解。小説史の概説。インターネット論。そして、ウォレスの遺灰を撒くために南太平洋のマサフエラ島を訪れ、珍しい鳥を探す旅。

その中でも最も物議を醸した部分で、フランゼンは、ウォレスの死後形成された「礼賛一色の物語」に異議を唱える。

ウォレス聖人ではなかった、と彼は文字通り書く。

フランゼンによれば、ウォレスは信頼できない友人であり、競争心が強く、意地悪でもあった。

彼はその証拠としていくつかの逸話を紹介する。

ある時ウォレス恋人に非常にひどいことを言った。また別の日には、サインを頼まれた自著のタイトルページに、自分勃起した性器輪郭を描いたという。

さらフランゼンは、ウォレスは極端な自己没入型の人間であり、周囲の世界から喜びを感じ取る能力に乏しかったとも書く。

ある日二人がカリフォルニア州ティンソン・ビーチ近くを車で走っていた時、フランゼンは望遠鏡をウォレスに渡し、

「すごい鳥だ」

シギの仲間であるロングビルド・カーリューを見せた。

ウォレス礼儀として軽くうなずいただけで、あからさまに退屈そうな様子で視線を逸らした。

続きです。今回は段落を大きめにまとめます

そしてフランゼンは、ウォレス自殺のものについても、世間があまり触れたがらない側面をあえて強調する。ウォレス抗うつ薬をやめたが、その理由は「自分永久病人であると認めたくないという自己愛的な拒否反応」だった、とフランゼンは述べる。さらにウォレスは少なくとも四種類もの自殺方法を考えており、最終的には「自分を最も愛してくれていた人々に最大限の苦痛を与えるような方法自殺した」と書く。

もちろんフランゼンは、ウォレスが重いうつ病に苦しみ、耐え難い痛みの中にいたことは認めている。しかし、それだけでは終わらない。彼はさらに、自分にはどうしても拭えない疑念があると言う。ウォレスは「自殺キャリア上の一手として考えた可能性がある」のではないか、と。

もちろん、それはウォレス自身が最も嫌悪していた計算高さでもあった。フランゼンはこう書く。もし誰かがその可能性をウォレス本人に突きつければ、最初否定しただろう。しかし、「いや、でも君にもそういう面はあるだろう」と言われ続ければ、最後には「ああ……そうだな。確かに自分にはそういうことを考える能力はある」と認めたはずだ、と。

『Farther Away』は当然ながら激しい反発を招いた。「死者への冒涜」「墓荒らし」という批判が浴びせられ、翌年にはすでに「悪名高い失敗作」と当然のように呼ばれるようになっていた。こうした反応は理解できる。実際、この文章には弁護しがたい箇所も少なくない。多くの人は、自分が友人と呼んだ人物について、あのようなことを活字にはしないだろう。

しかし著者は、「それでも、この文章は単なる悪口ではない」と論じる。なぜなら、これは現代アメリカ代表する小説家が、愛したもう一人の小説家を、文学的にも個人的にも理解しようとして書いた、極めて珍しい批評からであるフランゼン自身、『The Discomfort Zone』『How to Be Alone』といった回想録を書いた人物であり、自分文章がどのような受け止められ方をするかは十分承知していたはずだ。それでも彼は出版した。なぜなのか。彼は何を伝えようとしたのか。

その答えは、『Farther Away』の中心にある文学論にある。

それまでウォレスについて論じる人々は、「作品自殺を結びつけてはいけない」という暗黙のルールを守っていた。つまり、ウォレス小説を論じる際に、「なぜ彼は死を望んだのか」という問題には踏み込まないようにしていたのであるしかフランゼンは、この禁忌をあえて破る。しか意図的に。

理由は明確だった。彼は、ウォレス生き方のものが、彼の小説理解する鍵だと考えていたかである

フランゼンは『Farther Away』の中で、小説には大きく二種類あると論じる。それは、二種類の人間から生まれる。一人目の男――仮に「ジョン」としよう――は、世界を見て、他人を見る。もう一人――仮に「デイヴ」としよう――は、世界を見ても、結局は自分しか見ていない。

もし二人とも小説家なら、前者は社会小説を書く。後者自己小説を書く。

この観点から見ると、『Farther Away』で語られる数々の私的エピソードも、単なる暴露ではない。少なくとも批評的には、それらは一つの文学的主張を支える証拠なのである

その主張とは、「私たち人生意味を与える最も重要ものの一つである、親密で愛情ある人間関係は、ウォレス小説世界には存在しない」ということだ。

しかフランゼンは、単に「ウォレス小説には親密な人間関係がない」と指摘するだけでは終わらない。彼はさらに一歩踏み込んで、価値判断を下す。

自己小説」は、結局のところ自己賛美の小説でもある。その題材は「どこまでも興味深い自己」であり、最終的に到達する場所もまた「自己」でしかない、と彼は言う。

フランゼンは、ウォレス作品に漂う自己愛的な視線や語り口を、実験モダニズム作家――たとえばフランツ・カフカやセーレン・キェルケゴール――に見られる極端な自己省察系譜へと位置づける。そして、ウォレス現実でも見せていた反社会的な振る舞いと、その文学的傾向を結びつける。

長年にわたるうつ病との闘い。そして最後には凄惨自殺。これらはすべて、「極端に個人主義的な魂」が最後にたどり着く場所を示す証拠であるかのように提示される。

フランゼン自身言葉を借りれば、自己という島は、おぞましい場所である。そして、ウォレスはその島に住んでいた。読者もまた、その島へ近づくなら覚悟必要だ、と彼は暗に語っている。

続きです。同じく段落をまとめた形で続けます

一方で『Farther Away』には、文学史を振り返る長い議論も織り込まれている。その目的は明快である。「自己小説」には別の選択肢があることを示すためだ。

フランゼンによれば、社会小説家たちは、「どこまでも興味深い自己」ではなく、「終わることなく興味深い、人間関係という危険」を書いてきた。小説という形式を生み出したサミュエル・リチャードソン以来、優れた社会小説家たちは、人間関係こそが「自己という島から脱出する唯一の方法」だと理解してきた。

から彼らの小説では、孤独だった人物が、誰かを愛することによって変化していく。そして読者もまた、「愛によって孤独を乗り越えた人々の心の中へ入っていける」のである

この議論不快だと思う人もいるだろう。しかし、単に「趣味が悪い」と切り捨てられるものではない、と著者は述べる。『Farther Away』には粗さもある。配慮を欠く部分もある。それでも、このエッセイには一つ重要前進があった。

それは、フランゼンとウォレスの違いを、初めて文学観・人生観の違いとして真正から論じたこである

これまで二人の違いは、リアリズムポストモダニズムか。文体の違いか実験性か。そうした形式論ばかりで語られてきた。しかフランゼンは、問題はそこではないと言う。

本当の違いとは、読者にどのような価値観提示し、どのような人生を目指すよう促しているかなのだ

まり、二人の違いは、文学技法ではなく哲学の違いなのである

ここで著者は次の問いへ進む。では、フランゼン自身哲学とは何なのか。

では、フランゼンの小説を支えている哲学とは何だろうか。彼の小説には、「よく生きる」とは何かについてのビジョンがあるのだろうか。

『Farther Away』の議論だけを読めば、その答えはすぐに見つかるように思える。それは、「親密で愛情ある人間関係である

かにフランゼンの小説は、人間関係について書かれている。夫婦。親子。恋人。そして個人国家との関係

しかし意外なことに、彼の登場人物たちにとって、その「人間関係という危険」は、ほとんど乗り越えられないものとして描かれている。

フランゼンが繰り返し語る物語は、人間関係理想を抱いた男が、その理想現実によって少しずつ失っていく、という物語である

彼の登場人物たちは、仲間や成功を求めて社会へ踏み出す。しか最後には、苦味と失望、そして運が良ければ、人間というもの偽善について少しだけ賢くなる、という結末にたどり着く。

デビュー作『The Twenty-Seventh City』では、主人公マーティンプロブストは、家庭にも仕事にも満足した幸福な男として登場する。しか物語の終わりでは、彼は家族を失い、一人でセントルイスを離れて高速道路を走る。そのとき彼は、「自分は、実は好きでもなかった世界に生きていたことを、今になってようやく知った」と悟る。

第二作『Strong Motion』でも同じである主人公ルイスホランドは、愛よりも憎しみによって孤独を深めていく。物語は一応希望を残して終わるが、彼は最後まで、「豚のような欲深さと愚かさと不正義が、日に日に勢力を広げていくアメリカ」に対する疎外感を消すことができない。

まりフランゼン作品では、人間関係から距離を置き、やがて社会のもの

[][] 彼は、かつての自分自身のような人間を決して許さなかった。また、自分が昔そうだったと感じる作家にも容赦しなかった。

https://firstthings.com/david-foster-wallace-to-the-rescue/

自殺について語るのはやめよう。デイヴィッド・フォスター・ウォレスを「文学界カート・コバーン」へと還元し、その自己破滅ロマン化するような小さな産業に加担するのはやめよう。ウォレス作品には、自殺者や依存症者、そして「セラピー株式会社」の患者たちが数多く登場する。そのため、彼の死後には、作品全体を自伝として読み、依存症自殺願望を抱える登場人物をすべて、後知恵による彼自身肖像画として解釈したくなる誘惑があまりにも強い。

だが、昔ながらの保守的批判を繰り返すのもやめよう。確かにウォレスは、批評家たちが嫌うことを好んだ作家だった。たとえばディケンズこそ小説の頂点だと考える人なら、ウォレスの散文に漂う重苦しい自己意識や、延々と続く「メタ」な遊びにうんざりするのも無理はない。

ジェイムズ・ウッドは、現代後期の口語表現模倣したウォレス自由間接話法を前にして、「ひどく醜く、二、三ページ以上読むのは苦痛だ」と評している。そしてさらに痛烈なのは、ウォレスの「腐敗した言語」は、結局のところアップダイクの過剰に装飾された文体鏡像にすぎない、と論じている点だ(これはウォレス自身がアップダイクを主として倫理的理由から批判していたことを考えると、なおさら痛烈である)。

ウッドによれば、アップダイクは「美学主義(作者が前面に出すぎる)」の典型であり、一方ウォレスは「反美学主義登場人物けがすべて)」の典型だ。しかし両者とも、結局は同じ種類の美学主義であり、その本質は「文体の懸命な誇示」にあるという。

要するに、デイヴィッド・フォスター・ウォレスとは、「理論」が「小説」を振り回してしまった結果なのである

しかし、ウォレスを誤解する方法はほかにも数多くある。その典型が、彼のポストモダン的な遊戯性や自己言及性を、道徳性を欠いたシニシズム、あるいはニヒリズムのもの混同することだ。ヒューバートドレイファスショーンドランス・ケリーは、そのような読みを『All Things Shining』で展開している。

ウォレス初の伝記『Every Love Story Is a Ghost Story』で、D・T・マックスは、ポストモダン的な聖人伝にも、保守派の切り捨てにも、ニヒリストという決めつけにも陥ることなく、見事にそのどれも回避している。彼は丹念な調査を通じて、ウォレスは決してニヒリストではなく、むしろ非常に複雑な種類のモラリストだったことを示している。

芸術的には決して保守的ではなかったものの、ウォレスは、現代後期における文学の使命とは、自分がしばしば誤解されてきた皮肉ニヒリズムのものに対抗することだと確信するようになった。彼にとって小説家とは放火犯ではなく、消防士であるべきだった。

この伝記から浮かび上がるウォレス像は、ポストモダン文学の中から現れた奇妙な生き物――道徳的保守主義者――である。実際、マックスは後年のウォレスを「バーク的(Burkean)」な文化保守主義者だったとインタビューで語っている。(レーガン投票したMFA〈創作修士課程〉の教授を、あなたは何人知っているだろうか。)


ウォレスは、ドナルド・バーセルミトマス・ピンチョンの正統な後継者だった。初期作品は、彼らのいわゆる「ポストモダン」的プロジェクトさら推し進めたものだった。(マックスによれば、「バーセルミを読んだとき、ウォレスは初めて文学の中で『カチッ』という手応えを感じた」という。)

その狙いは、物語を語る仕組みそのものを暴き、内部から解体するような文学を書くことだった。たとえば、夜のニュース番組最後カメラを引き、ニュースキャスターの向こう側にあるスタジオ全体を映し出して、「これは作られた舞台装置にすぎません」と種明かしをするようなものだ。そうした作品には、自己反省プレッツェルのように幾重にもねじれ込んでいる。

そのため、最初長編『The Broom of the System』は、アマースト大学時代卒業論文をもとに書かれた作品であり、ウィトゲンシュタインの影響をこれ以上ないほど露骨に示した、理論色の濃い小説となっている。

続く短編集『Girl with Curious Hair』には、中編小説が収められている。これはアリゾナ大学創作修士課程在学中に書かれたもので、東海岸創作プログラム所属する若い作家志望者たちを描いている。彼らはMFA制度のもの舞台裏を暴きながら、ジョン・バースバーセルミという父親世代の影響から逃れようとし、「父殺し」に夢中になっている。だいたい雰囲気は伝わるだろう。

「デイヴ」が本当の意味で「デイヴィッド・フォスター・ウォレス」になったのは、『Infinite Jest』という予想外の大成功によってだった。

全1100ページに及ぶこの非線形の巨大叙事詩には、およそ100ページもの脚注が付いているが、それらは単なる付録ではなく、本編を理解するために欠かせない。この小説は、近未来北アメリカが「北米国家機構Organization of North American Nations)」、略して O.N.A.N.(もちろんウォレスらしい言葉遊びである)へと再編された世界舞台にしている。

そこでは、「車椅子暗殺団」というケベック独立派テロ組織のようなレジスタンス活動しており、ウォレス物語の中に政治的な筋書きを巧みに織り込んでいる。

しかし、マーガレット・アトウッドの『オリクスとクレイク』や『洪水の年』にも通じるように、この世界では国家のもの巨大企業に圧倒されてしまっている。

その象徴が、「時間」の支配である

この世界では年代すら企業スポンサーによって命名される。

ワッパーの年」

「試供品サイズのダヴ・バーの年」

大人用紙おむつディペンドの年」

といった具合に、章そのものが消費文化の暦で区切られている。

この意味で、ウォレスモダニズム問題意識さらに徹底させた作家だった。消費社会人間に与える影響を、具体的な商品名まで使って執拗に描き出している。これは、「時代を超越した普遍性」を目指した古典文学ではむしろ禁じ手だったやり方である

消費主義の影響は、この世界全体を覆う「気晴らし(distraction)」という生き方の一部でもある。

その象徴が、『Infinite Jest』という小説の中に登場する映画Infinite Jest』だ。

この映画はあまりにも面白いため、一度見た人間はその娯楽から離れられなくなり、人間として普通に生活する意欲さえ失ってしまう。「エンターテインメント」に完全に飲み込まれしまうのである。(だからこそ車椅子暗殺団は、この映画テロ兵器として手に入れようとする。)

この映画制作したのはジェームズ・インカンデンザ。その妻エイヴリルと、息子ハル、オリンマリオから成る一家が、小説の三つの主要な舞台を結びつけている。

一つはツーソン周辺(ウォレス自身がMFA時代を過ごした土地)。

もう一つは依存症更生施設エネットハウス

そして三つ目が、ボストン郊外にあるエンフィールドテニスアカデミーである。ここは、ウォレス自身哲学博士課程に進学したハーバード大学とも重なる土地であり、その後リハビリ施設へ入所することになる人生とも響き合っている。

 

Infinite Jest』は、読みながら終始にやりとさせられるような小説である

その巧妙さは、人によっては魅力的に映り、人によっては鼻につくかもしれない。(ちなみに合衆国最高裁判事だったアントニン・スカリアもこの小説の愛読者だったという。世の中わからないものである。)

現代の「わかっている」感覚、つまりアイロニカルで、何事にもウインクしながら距離を取るようなヒップスター文化は、この種の作品を好む傾向がある。

その意味では、『Infinite Jest』はトム・ウルフのような「文化人類学としての小説」とも共通する部分を持っている。

まり、この作品ポストモダン社会民族誌エスノグラフィー)なのである

時間空間商業主義によって組み替えられた社会を精密に描き出す一方で、パスカル的な意味において、人間を気晴らしや娯楽が支配し、本当に重要ものが押し流されてしま危険も見抜いている。

マックスが正しく指摘しているように、『Infinite Jest』はインターネット社会支配する以前、1996年出版された。しかし、その先見性は後になってはじめて明らかになった。

文化逸話と短い断片(サウンドバイト)へと崩壊していく中で、その変化を予見し、さらには読者をその変化へ備えさせた数少ない本の一つが『Infinite Jest』だった。」

さらマックスはこうも述べている。

「逆説的だが、ウェブの登場によって『Infinite Jest』は以前より読みやすい本になった。」

Infinite Jest』は、一つの世代感覚をあまりにも正確に言い当てたことで、多くの読者の心をつかんだ。

とりわけ私の世代――1990年代半ばに大学へ進学し、子ども時代MTV誕生し、大学時代インターネットが急速に広がるのを目撃した世代――には強く響いた。

語り手は、自己意識牢獄や、無限可能性ゆえの倦怠感に閉じ込められている私たちに深く共感しているように思える。そして、その向こう側から不器用ながらも別の生き方へ手招きしているようにも感じられる。

ウォレスは、私たちが囚われていることを描くだけでは終わらない。その外へ出る道も、ほのめかさずにはいられなかった。

薬物依存絶望に満ちた『Infinite Jest』の世界でありながら、読者はなお、そこに「愛」のようなものを感じ取るのである

この見方は私だけではない。

ウォレス親友の一人だったジョナサンフランゼンも、2011年に『ニューヨーカー』へ寄せた追悼エッセイ「Farther Away」で、ほぼ同じことを書いている。

フランゼンはまず、ウォレス作品において「愛」が驚くほど欠けていることを指摘する。

私たちの多くにとって人生意味の土台となっている親密で愛情ある関係は、ウォレス小説世界ではほとんど存在しない。」

しかし、その一方で彼はこう続ける。

「にもかかわらず、ウォレス作品について奇妙なのは、熱心な読者ほど、読んでいるあいだ『自分理解されている』『慰められている』『愛されている』と感じることだ。」

私は、このことこそ『Infinite Jest』がこれほど強く受け入れられた理由の一つだと思う。

だが、私はさらに一歩踏み込みたい。

読者がウォレスの率直さや脆さに触れて愛されていると感じるだけではない。

ウォレス自身もまた、依存症欠点にまみれた登場人物たちを愛していたのではないだろうか。

そして、この点こそが、ウォレスフランゼンを決定的に分ける違いなのだと私は考えている。

二人はしばしば同じ「ポストモダン作家」として並べて語られる。

極端な自己意識メタフィクション、アイロニカルな距離感――そうした特徴は共通しているように見える。

しかし実際には、二人はまったく異なる作家である

フランゼンは最終的に、比較的まっすぐなリアリズムの語りへ落ち着いた。

けれども、その小説からシニシズムが絶えずにじみ出ている。

私がそのことを最初に強く感じたのは、『Freedom』を読んだときだった。

あれは見事な小説ではある。しかし読者は登場人物たちに心から共感することが難しい。

なぜなら、フランゼン自身もまた、彼らをそれほど愛していないように思えるからだ。

それに対してウォレスは、ポストモダン的な形式主義者であり続け、さまざまな技巧や仕掛けを惜しみなく使った。

しかし、その技巧の奥から立ち上がってくるものシニシズムではない。

しろ、壊れてしまった人々の世界への深い理解と繊細な共感――ひょっとすると、それは「愛」と呼ぶべきものなのである


しかし、そのことは、伝統主義への回帰や、昔ながらの文体への逆戻りを意味してはいなかった。ポストモダニズムの「遊び」は障害ではなく入口であり、「メタ」的な自己言及性は障壁ではなく、新しい誠実さへ通じる通路だったのである

それは現代絶望から目を背け、砂に頭を突っ込むような態度ではない。むしろポール・リクールのいう「第二の素朴さ(second naïveté)」に近いものだった。

もちろん、それは文体の後退を意味しなかった。だからこそマックスは、ウォレスの苦境をこう要約している。

革新的文体を用いて、保守的小説目的を果たすにはどうすればよいか。」

ニューヨーク・タイムズ』の批評家A・O・スコットが指摘したように、ウォレスは両方を同時に望んでいた。つまり、「機知に富んだ文章を書くことで、機知ばかりがもてはやされる世界に対して誠実さの優位を主張する」という、いささか危うい戦略を採っていたのである

しかマックスは、ウォレスが「小説とは何のためにあるのか」という理解のものにおいて経験した、一種の回心を丁寧に記録している。

「ウォレスは昔から曖昧さより確実さを、漸進主義より情熱を好んでいた。そして今や彼は、完全に『誠実さ』の使徒となった。」

彼は、かつての自分自身のような人間を決して許さなかった。また、自分が昔そうだったと感じる作家にも容赦しなかった。

作家スティーブムーアが、自分の新作小説を「皮肉に満ちた90年代にぴったりの、シニカル世界観を持つ作品」と紹介してウォレスへ送ったとき、ウォレスはこう返事を書いた。

「それは『燃え盛る家にぴったりの灯油入り消火器です』と言っているようなものだ。」

先ほども述べたように、ウォレスにとって小説家とは放火犯ではなく消防士であるべきだった。

そのため、彼の文章を特徴づける言語的な花火のような技巧と並行して、新しい責任感と真剣さが現れる。

これは決して矛盾ではない。

まり、「ウォレス小説道徳的理想を掲げながらも、その文体だけは依然としてニヒリズムのままだった」という話ではない。

私たちは、「型破りな文体非道徳的」という思い込みのものを退けなければならない。

しろウォレスの独特な文章は、その誠実さと矛盾しないどころか、それを実現するために意図的に選ばれたものだったのだと思う。

アップダイクの美文主義では、文体のものが読者の注意を引きつける。

しかしウォレスが探していたのは、現代私たちの頭の中で鳴り響いている、あのポストモダン的な「内なる声」に限りなく近い形式だった。

からこそ彼は、その声を通して、私たち真正から、誠実に、そして道徳的ビジョンを語りかけることができたのである

 

からこそ、ウォレスフョードル・ドストエフスキー人生作品に、自分との共通点を見いだしていたことは驚くにあたらない。

ジョゼフ・フランクによる全五巻のドストエフスキー伝を『Voice Literary Supplement』で書評した際、ウォレスは次のように述べている。

もっと重要なのはドストエフスキーが死の淵を体験したことによって、もともとは虚栄心が強く流行を追う若い作家――確かに非常に才能はあったが、結局は自分文学栄光しか考えていなかった人物――から

2026-07-10

略称ジェネレーターを作った

色んな略称を作るのにハマってるからWeb上で作れるサイト作ってみた

https://abbreviation-generator.netlify.app/



使い方

・元の単語名称に、略称を作りたい単語(例:バーガーキング)を入れる スペースで区切ると複数単語入力

略称文字数に、何文字で略すかを数字で入れる(最高20文字まで)

・生成方法選択する

複数単語を入れた場合最初に入れた単語頭文字→次に入れた単語頭文字→~→最後に入れた単語頭文字最初に入れた単語の2文字目→という様に文字を抜き出す

(例:バーガーキング マクドナルド すき家 4文字指定→バマすー)



ChatGPTにHTMLコードを書いて貰って、自分で少し手直ししただけだからバグとかあるかもしれないので、その時は教えて

元々の本文

警察相談記録の件、加害者本人に連絡行かないシステム、それでこそ相談記録だしやっぱり日本警察は頭がいいな

デジタルフォレンジックとまでいかない程度のWebアーカイブ警察はとにかく彼が発信者で間違いないと被害者の陳述を信じてくださる

これに俺も救われたんだ。2年前のこと

元々の本文

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anond:20260710143859

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2026-07-08

AIに関するネット記事情報

やっぱりというかWeb系の声がデカすぎるよな

他のドメインではそこまでまだAI活用できないよ

2026-07-07

anond:20260707181017

ドンキスマホWeb見せたら長々と対応してくれたよ、在庫はなかったけど…😟

結局、帰りにイオンに寄って、目当てのカバンに近い掘り出し物を見つけたので買って帰った…😟遠くのドンキより近くのイオンだったぜ

2026-07-06

[]7月6日

ご飯

朝:なし。昼:Inゼリーカロリーメイト。夜:焼きうどんチーズにんじん大根、、ピーマンキノコスープバナナ目玉焼き。間食:なし。

調子

むきゅー。はややー。お仕事あやふやー。なんか面倒になって明日ゆっくりもう一度やる。

なんかずっと雨が降ってるせいで落ち着かない。

最近、リゼロWeb連載版を読んでいるんだけど、面白い

なんかずっと主人公可哀想な目にあってておいたわしいんだけど、どこかでご褒美シーンとかはあるのかしら。

ポケットモンスタームーン(ゴーストポケモン旅1周目)

マーマネの試練を攻略するところまで。

マーマネマーレインカップリング公式でベッタリな割にあんまり見かけないな。

ぽっちゃりショタBLよりゲイ方面の人気なのかしらね

シャドウバースWB

グロナイトメアの主戦場アンリミな気がしてきたので、ローテじゃなくそっちやるか悩み中。

エリカカードスタイル買ってロイヤルもいいし悩ましいわね。

俺は本を読まない

技術系の資料は読む。だが、インデックスから必要情報アクセスして終わりだ。最初から最後まで通読して、著者の用意した順番で技術体系を頭に流し込もうという気はない

技術の取っ掛かりならWebで十分だし、今ならAIに聞けば大抵のことは教えてくれる。必要なら一次資料に当たればいい

それで困ったことはない

 

世間には読書をやたら勧める人がいる

電車の中で自己啓発本を読み、線を引き、付箋まで貼っている大人を見ると、正直、恥ずかしくないのかと思う

「私はこの年になるまで、自分人生の扱い方すら分かりませんでした」と周囲に吹聴しているようなもの

 

学生ならい

若いうちに悩み、他人思想を借り、人生観やアイデンティティを組み立てるのは健全

だが、いい大人が「人生を変える習慣」だの「嫌われる勇気」だのを蛍光ペン片手に読んでいると、オマエその年になるまで何を学んできたんだ?としか思えない

 

それならポケモンGOボックスを整理し、ギフトを処理しているほうがまだ人生有益である

少なくとも、ただの暇つぶし人格形成とは言い張らない

 

もちろん、新しい情報や知見、仮想体験人生を豊かにすることは否定しない

知識を得ることは損ではない

だが、それが紙の本である必要を感じない

ネットでよくね?

手っ取り早いし、更新も早いし、必要情報に直接アクセスできる

 

読書否定するつもりはない

愚者経験に学び、賢者歴史に学ぶ。大いに結構

ただ、他人経験を読んだだけで、自分まで賢者になった気になるな

読書思考の取っ掛かりになる、想像力を養う、思考力を鍛える、という人もいる

そんなもん学生の間に済ませておけ

 

本を読んで考えた気になる段階は、若いうちに卒業しておくべきだ

大人になってから必要なのは他人の完成した思考を順番に摂取することではなく、散らばった情報を拾い、比較し、疑い、自分で組み立てることだ

もちろん、何歳になっても入力必要

考えるには基礎知識がいるし、知らない分野に入れば誰でも初心者になる

だが、それも紙の本でなければならない理由にはならない

 

Webには情報が溢れている

論文統計一次資料専門家議論も、検索すればいくらでも出てくる

知識アクセスする方法こそ、学生の間に習得しておくべきだ

 

図書館の使い方、索引の引き方、文章の読み方、知識の吸収の仕方、人にものを教わる態度

その基礎体力をつけるために、読書重要だったことは否定しない

自身学生時代はクソほど本を読んだが二十歳で卒業したわ

 

きっちり基礎体力を備えて大人になったなら、あとはインデックスだけでいい

必要情報に最短距離アクセスし、自分の頭で処理すればいい

 

そもそも、本を読めば人間が賢くなり、社会が豊かになる?

日本識字率が高く、出版文化も発達し、成人の読解力も高い

ほんで堀江とかひろゆきとかヒカルの本がベストセラーになるのw

読書で知性が身につくんじゃなかったのかよ。ヒカルてw屋台くじ引きの人だよね?www頭痛で頭が痛くなる

 

んで、んで、その読書民族が作った社会がこれだ

経済は何十年も停滞、低い生産性前例踏襲にしがみつき幸福度も低い

ずいぶん本を読んだ成果が出ているじゃないか

もちろん、読書経済停滞を生んだわけではない

だが少なくとも、本を読めば思考力が高まり人生社会も豊かになるという読書家の宣伝文句は、国家単位ではまるで再現されていない

 

本を読む人間が賢いのではない

賢い人間が、必要に応じて本も使うだけだ

重要なのは何冊読んだかではない

 

それを何に変えたのかである

何百冊読んでも、会社では前例踏襲会議では沈黙人生に悩めばまた自己啓発本

それは知的活動ではない

知識過食症である

月に何冊読んだ、本棚に何冊ある、今年は何冊読破した

 

知らんがな

 

読書量を誇るのは、食べた食材の量を誇るようなもの

習慣という名の惰性で紙をめくり、思考している気分になっているだけじゃねぇか

いい年をして、知性の補助輪を自慢するな

 

追記

いい年して本読むやつってその習慣そのものに謎の優越感もってんのな

で、一生懸命本読んで、知性上げてるつもりが

ワンセンテンス書き逃げしかできない知性が身についたとさw

本読む意味ねぇじゃんって自分で立証しちゃってる間抜けさにも気づいてねぇのw

論理立てて反駁するか、無視するかって、どっちもできねぇwおバカww

anond:20260706044126

🤔ニアピン

まんしゅうきつこの弟 血まみれ +3 漫画家・まんきつ先生(旧筆名:まんしゅうきつこ)の弟さんが「血まみれ」になったエピソードは、彼女自伝サウナ漫画『湯遊ワンダーランド』第3巻の最終回に描かれた実話です。エピソード概要発生した状況:まんきつ先生と実の弟である写真家・江森康之さんの間で、激しい口論きょうだい確執)が勃発しました。血まみれの理由口論最中、興奮したまんきつ先生が弟さんの顔面(あるいは皮膚の薄い部分)を引っ掻いてしまい、そこから大量の血が噴き出したためです。インタビューでも「実話で、皮膚が薄いところだからすごく血が出た」と本人が語っています漫画での扱い:元々『湯遊ワンダーランド』はサウナ漫画ではなく「きょうだい漫画」として企画されており、この血まみれの喧嘩シーンが第1話になる予定でした。最終的にサウナ漫画へと路線変更されましたが、この衝撃的なエピソード最終回回想シーンとしてしっかりと回収されています。まんきつ先生と弟(江森康之氏)の関係性作中では喧嘩やきつい言葉応酬も描かれますが、非常に絆が深い姉弟です。アルコール依存症に苦しんでいたまんきつ先生に「顔がよどんでる。サウナに行って毒を抜け」とサウナを勧めて救ったのはこの弟さんです。過去には、弟さんのリクエストで彼が包茎手術をしたときの一部始終をまんきつ先生漫画化(『まんしゅうきつこのゲスな話』に収録)するといった、ぶっ飛んだ協力関係も築いています。他にも『湯遊ワンダーランド』の作中エピソードや、弟の江森康之さんとの他のエピソードについて詳しく知りたい情報があれば、お気軽にお知らせください!ちょっとだけ成長する物語」『湯遊ワンダーランド』まん ...2019/07/04 — この作品は、アルコール依存を激白した『アル中ワンダーランド』でデビューした漫画家、まんきつ(連載時ペンネームは「まんしゅうきつこ」)先生が、サウナ ...ダ・ヴィンチWebまんしゅうきつこの作品一覧 - 電子書籍無料漫画なら ...漫画家アシスタントを辞め、自暴自棄になっていたきつこ。新天地を求め、オムツプレイ専門店面接を受けることに!? 小さな雑居ビルへ向かうとそこには――「オムツ倶楽部面接」。ある日...ブックライブ湯遊ワンダーランド | まんしゅう きつこ |本 | 通販悪夢と退屈な日々に悩む漫画家まんしゅうきつこが、弟の助言で銭湯通いを始める。マナーにうるさい常連客や個性的な人々と出会いながら、サウナと水風呂で「ととのう」快感を知り、日常に熱と色...Amazon.jp根本敬ゲルニカ計画 - Motion Gallery2017/07/08 — さて、ご存知の方も多いでしょうが、まんしゅうさんはゲルニカ計画公式カメラマン・江森康之さんの実のお姉さん。motion-gallery.netちょっとだけ成長する物語」『湯遊ワンダーランド』まん ...2019/07/04 — 高石:連載がはじまる前の企画段階では、“おふろ漫画”ではなく、“きょうだい漫画”になる予定だったんです。きょうだい確執などを連載にしようとしていたんですよ。そのときに生まれたのが...ダ・ヴィンチWeb AI不正確な情報を表示することがあるため、生成された回答を再確認するようにしてください

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