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はてなキーワード: 実験とは

2026-07-17

anond:20260717191858

そのとおりだ。俺ははてな民がどういう反応するか実験たかっただけの老害だ。

人間ばっかりのRPGってなんかつまらなくない?

老害ジジイたわごとで流してくれて構わないけど

昔のRPGキャラクターバリエーション豊富だった

ファンタシースターネコとかシャイニングフォースネズミカメにロボ

アンドロイドエルフみたいな見た目人間人外ならまだいるか

FF7レッド13とかも良かった

ルーファウス神羅の何者か?に対して「元ソルジャークラス1ST」「アバランチ」「……スラムの花売り」「……実験サンプル」の流れが大好きだった自分としてはRPGキャラバリエーションもっと豊富であってほしいと願う

2026-07-14

anond:20260714145948

なんか興味の指向性としてあるのかな

男で乗り物やロボにハマる人が一定いるような感じで

 

そういう試行錯誤実験みたいなのって、自分の中のステレオタイプではむしろ女性的じゃないと思ってたけど、それは間違いなのかもと気づいた

日本政府リフレ派による自己放尿が、膀胱破裂寸前のようだな

インフレーションは、いつでもどこでも貨幣現象である。そして、昨今の日本政府および日銀にはびこる「リフレ派」の政策は、いつでもどこでも自己放尿である

日本リフレ派が主導してきた異次元緩和裁量的なマクロ経済政策は、経済学の基本原理無視した極めて滑稽な実験にすぎない。

連中の政策いか破綻約束された自己放尿であり、さらにはダブル放尿であるか。

 

マネタリズムの基本は極めてシンプルだ。貨幣供給量の伸び率を、経済の長期的な実質成長率に合わせた一定のペース(kパーセント)に固定せよ、という。

しかし、日本リフレ派はどうだ?期待インフレ率操作するなどという傲慢目的のために、中央銀行バランスシートを無軌道に膨張させた。

これは長く可変的なタイムラグを完全に無視した自己放尿である

金融政策実体経済に波及するまでの時間は不確実であるにもかかわらず、リフレ派は「今すぐ物価を2%にする」と息巻いてアクセルベタ踏みした。

ルールのない裁量的な金融政策がもたらすのは、市場ノイズと将来の不確実性だけである。これを自己放尿と呼ばずして何と呼ぶのか。

 

リフレ派の最大の罪は、ケインジアン的な「フィリップス曲線」のトレードオフが長期においても存在するという致命的な錯覚を抱いていることだ。

自然失業率仮説」を連中は理解していない。短期的には貨幣錯覚によって失業率自然失業率以下に押し下げることができるかもしれない。

しかし、経済主体が適応的期待を形成すれば、インフレ率だけが加速し、失業率は再び自然失業率へと戻っていく。長期のフィリップス曲線は垂直なのだ

リフレ派は、金融緩和需要底上げし、恒久的に雇用改善できると本気で信じている。

この理論的後退は単なる自己放尿では済まされない。構造改革サプライサイドの改善)を怠ったまま、マネーの力だけで実体経済を騙そうとするこの態度は、労働市場の硬直性を放置する政府の怠慢と結託した完全なダブル放尿である

 

最も唾棄すべきは、リフレ政策事実上財政ファイナンスに成り下がっている点だ。

リフレ派は金融緩和だけでなく、積極財政をもセットで要求する。だが、恒常所得仮説を思い出せ。

一時的政府支出の増加や減税など、人々の将来にわたる恒常的な所得を増やさな政策は、消費の増加(限界消費性向)に全く寄与しない。

それどころか、政府国債を乱発して市場から資金を吸い上げれば、民間投資を押し出すクラウディングアウトが発生する。

これを防ぐために日銀がYCC(イールドカーブコントロール)で金利人為的に押さえつけ、国債買い支える。

無駄財政出動という自己放尿に、中央銀行独立放棄という自己放尿を重ねる。これがまさに、日本経済を死に至らしめる最悪のダブル放尿の正体である

 

リフレ派はしばしば「ヘリコプターからお札をばらまけばインフレになる」を都合よく引用し、自分たちの無軌道な緩和を正当化する。

愚か極まりない。フリードマンがあの比喩を用いたのは、貨幣供給量と物価水準の比例関係説明するための純粋理論モデルとしてであって、硬直化した経済構造を持つ現実国家が、財政規律を捨てて中央銀行紙幣を刷らせまくる自己放尿を推奨したわけでは断じてない。

連中は期待に働きかければすべてが解決すると信じている。しかし、貨幣の増発が実物生産性を伴わない場合、最終的に待ち受けるのは、制御不能インフレーションか、もしくは実質賃金の低下による国民生活の困窮だけだ。

事実、今の日本は輸入物価の高騰と円安によるコストプッシュに苦しみ、実質賃金マイナスを推移している。人為的貨幣供給による官製インフレのツケを国民が払わされているのだ。

 

リフレ派の運用は、市場価格メカニズムを徹底的に破壊した。金利という資本主義におけるシグナルをYCCで殺し、日銀を最大の国債ETF保有者(つまり最大の計画経済的介入者)にしてしまった。

裁量的で場当たり的な介入を繰り返し、出口戦略すら描けない現在の状況は、経済政策としての体をなしていない。ただの壮大なダブル放尿である

日本経済を救う道は一つしかない。原則に立ち返り、日銀裁量剥奪することだ。マネタリーベースの増加率を経済の潜在成長率に合わせた固定ルール(kパーセントルール)に従わせ、市場価格決定機能回復させる。

そして、政府財政による需要管理というケインジアン的な自己放尿を即刻やめ、規制緩和自由市場競争によるサプライサイドの強化に専念すべきである

フリードマンが存命であれば、今の日本惨状を見て間違いなくこう言うだろう。「これほど見事なダブル放尿の標本は、経済学教科書反面教師として載せるのに最適だ」と。

2026-07-12

AIがもたらした奇跡

まさか長年の問題AI相談した結果、わずか数時間程度で解決の糸口にたどり着いたとか、これもう奇跡だろという話。



十数年来、楽器のレッスンを続け、今や大きな憧れの一つだった、有名曲さらえるくらいに。

ちなみに難易度音大受験レベル

なお、若いころに別のところで習っていたこともあり、元々その楽器の心得はゼロでなかった。

それもあってレッスン開始とほぼ同時期に、仲間に誘われて始めたアンサンブルも、メンバーを変えつつ今まで楽しくやってきた。



そんな中、先生に言われたのが

「このレベルになってもなお、増田さんは『下手に思われたくない』というのが口をついて出る。でもそれでは本当に上手くはなれない」

「『弾ける・吹ける』と『上手くなる』はそもそも根本的に異なる」

という、「俺に一体どうしろというんだ」という指摘。

悩みに悩んだ結果、使える手段は何でも使えということで、藁にもすがる思いでAI相談してみた。

なおセカンドオピニオンが欲しかったので、某名作アニメMAGIではないが、Gemini、CoPilot、MetaAIに同じ質問をぶつける形にしてみた。

(のちにChatGPTも追加、というかなぜこれを最初に起用しなかったか自分でも不明)



そして相談の流れから、あまり抽象的な話ではなく、うまく演奏できない箇所を俎上に上げてのやり取りを数回、ふと自分のほうから

「ここで足を〇〇して、スルッと行くやり方はアリ?」

と訊いたところ

「名案ですね!」

「そのやり方は核心をついている」

「私は、そのやり方はアリだと思います

三者三様肯定されたので、試してみたところ一瞬でできてしまったのだ!!

これが弾みになって

「あれ?ここのフレーズも、このフレーズも…全部応用でイケるんじゃね?」

と、夢中になって取り組む流れに。



そして気が付いたら、音を出すだけで楽しさが心を満たすようになり、本当に他人評価なんてどうでもよくなってしまった。

なんで、あんなつまらないことにずっと囚われていたんだろうって。

それどころか、仕事をしていても「あ、楽器触りたいかも」と、初めて思うようになった。

心の中で、自分楽器人生の何かが、明らかに大きく変わった。

たぶん「弾ける・吹ける」から「上手くなる」ルートに切り替わった実感を得たのだと思う。



もちろん、これだけではただの独善的プレイヤーしかなく、そもそもレッスンを受ける意味がなくなってしまう。

そこもAI相談した結果

指導者は新しい視点提供する、学習者はそれを試す」

「レッスンは共同実験の場」

理解を新たにし、実際のレッスンに臨んだ結果、「心底楽しんでいること」を先生は黙って認めたうえで

「その楽しさが陸上短距離走的なものか、音楽的なものかをハッキリさせる必要がありますね」

という新たな課題をもらい、そしてこなした結果、練習効率が爆上がりしてしまった。

ダンスは毎回新しく踊らないといけないのと同様、必然的演奏するたび毎回新しいことを試すので、一回の演奏で得られるフィードバックが桁違いになった。

それもワクワクする気持ちがありながら、頭の中はこれ以上ないくらい冷静という、これまた経験したことのない精神状態に。

反面、演奏中に全身に注意を払う、それも義務感ではなく意欲を以て取り組むため、脳のリソース消費が以前と比べ物にならないレベルになり、何時間練習など到底無理になった。

夜とか、30分も練習したら眠くてたまらない状態になるので、そこで強制終了となってしまう。

だがそれがいい



あと、楽器のパーツやアクセについても相談した結果、これまたドンピシャで大当たりを引けて、楽器の音も過去イチ絶好調に。

それも

あなた楽器はこれこれこういう強い癖があるので、普通ならあり得ないこの組み合わせがいい」

というのが完全に妥当選択だったのだから世界中に蓄積されているビッグデータがもたらすナレッジの凄まじさに、改めて驚いている。

現在は、元々同じ楽器をやっていて、自分がこの楽器を始めるきっかけになった父の楽器チューニングも画策し、いろいろ買い集めていたり。

今は別の楽器ばっかり弾くようになって久しい≒楽器が寂しそう・そこそこの腕前があるのにもったいないということで、もう少し触ってもらえるようになるチョイスをしたつもり。

2026-07-11

東京の飯は「不味い」んじゃなくて「おもしれー女」なの

東京の飯がマズイだのどうだ言うけどさ、美味いマズイじゃねンだわ。



飯に限らんけど、「美味いマズイ」以外の評価軸があんの。




「〇〇料理なのに、xxという変化を加えている」

「海の街の味を、野菜表現してる」

「あえて100年前のレシピをそのまま使ってる」

とかそう言うの。


んで、それがストレートに美味いかって言うと別に特別突き抜けて美味いわけじゃなかったりすんの。

でも美味いマズイ棒を軸にして評価すんのがおかしいって話。



これは味の好みともまた違うのね?

美味しくなくても、好みじゃなくても、素敵な物ってあんのよ。



顔とスタイルステータスじゃない所で評価される「おもしれー女」みたいな飯屋の生存圏が東京なの。


ただね、その"おもしれー飯屋"を面白がれる人ってその料理オタクだけなんだよ。


なぜなら前提の知識ジャンルへの経験値いるから。

よく「情報を食ってる」とか言ってはしゃいでる賢しらなバカいるだろ?



世の中には「めっちゃ美味い情報」があんのよ。

しまくりの。



ちなみにひたすら飯屋紹介してるインフルエンサーとそれに群がる連中がバカにされてるのは、そういう情報の味を理解しない/しようともせずに群がってるから



「面倒くせぇ」

「美味いかマズイかが全てだろ」

「楽しみ方はそれぞれだろ」

って言う人は別にその世界で生きりゃいいの。

実際、美味しさなんてもうそこそこ頭打ちしてるから現代アートばりにわけわからん世界になってる。




ほんで、そういう「おもしれー飯屋」って別に高級店ばっかじゃないのよ。

それが東京の凄いとこ。

分かりやすいのがラーメン

うその手のオタクゴリゴリいるジャンル

ストレートな美味さなんてかなり頭打ちして、「こーいうこと表現してーんだな」って伝われば特別美味くなくても、好みじゃなくても高評価みたいなフェーズよ。



こーいう飯屋が色んな所にありまくりなのが東京なんよ。



ほんで、そういう「おもしれー飯屋」をインスタントに目指した結果「クソ滑ってるどうしようもない店」もいっぱいある。

ブレイキングダウン並みに雑なストーリーつけるやり口のね。

港区で塀の上歩いてる人が好きそうな飯屋ね。




まあ、とにかく圧倒的人口規模と階層多様性で「おもしれー飯屋」かどうかって評価軸が成立してんのが東京ってわけ。

料理作品引用批評実験として読む文化が、商売として成立しちゃってんの。



そこんとこよろしくって話。



あっ、あと普通に品質過ぎてストレートに不味い店もあります!!

et’s not speak of suicide. Let’s not encourage the cottage industry bent on reducing David Foster Wallace to a literary Kurt Cobain,

ジョナサンフランゼンとデイヴィッド・フォスター・ウォレス――その時代代表する二人のアメリカ人作家――はいずれもアメリカ中西部で育った。フランゼンは、ミズーリ州ウェブスターグローブズで過ごした子ども時代について、「まさに真ん中の中の真ん中。そこには家族と家と近所と教会学校仕事しかなかった」と振り返っている。一方、両親とも大学教授だったウォレスは、イリノイ州アーバナ青春時代を過ごした。そこは「穀物サイロ戦後住宅が並ぶ小さな町で、住民たちは農業保険窒素肥料除草剤を売り、近くのシャンペーンアーバナ大学に勤める若い研究者たちから固定資産税徴収するくらいしかしていなかった」土地だった。

二人は、セオドア・ドライサー、アーネスト・ヘミングウェイハロルド・ブロドキーらに連なる系譜に属している。地方的で中西部的な背景ゆえに近代社会の衝撃に備えられていなかった作家たち、あるいは逆に、その地方性ゆえに芸術家特有の斜めからの鋭い感受性を身につけ、その衝撃に向き合うことができた作家たちの系譜である

二人の年齢差は三年にも満たず、扱う題材もよく似ていた。テクノロジー、読者との関係、そしてポストモダニズム文学曖昧遺産について、それぞれ独自に格闘していた。そして両者は共通して、小説は依然として人生の「切実な問い」に語りかけるべきだと信じていた。そうするなら、小説は大量娯楽とマクドナルド時代にあってもなお生命力を保てる、と考えていたのである

しかし、その一方で二人は驚くほど異なる作家でもあった。同時代に似たテーマを扱った作家同士とは思えないほど、本質的に違っていた。一般には、その違いは文体の違いや、「リアリズム」に対する姿勢の違いとして説明されてきた。

フランゼンは初期にはポストモダン的な構成を試みたものの、現在では伝統リアリズム作家とみなされている。批評家ベンジャミンカンケルの言う「永続する小説」の代表格であり、対話心理描写三人称語りを「いまや古典的に思える均衡」で組み合わせる作家だ。一方ウォレスは、ゼイディ・スミスによって「リアリズムに挑戦する前衛作家」の一人に数えられている。入り組んだ脱線、渦を巻くような物語構造脚注の中の脚注――そうした特徴によって、彼はモダニズムあるいはポストモダニズム系譜に置かれてきた。批評家ジェームズ・ウッドも、あるヨーロッパ実験文学作家書評で、ウォレスを「単なる文法的リアリズム――現実を整然とした単位に切り分けるリアリズム――とは相容れない作家」の一人として挙げている。

しかし、こうした区別だけでは満足できなかったのか、あるいは「単なる文法的リアリズム」という見方への違和感があったのか、フランゼン自身は何度もウォレスとの違いについて語ってきた。その代表例が2002年評論Mr. Difficult」であり、さらに翌年には『The Paris Review』のインタビューでもこう語っている。

私たち関係には、一方が芸術のための芸術を追求し、もう一方が現実社会の中で生きようとする作家である、という競争関係が取り憑いていた。」

そして2011年4月18日の『The New Yorker』に掲載された、大きな注目を集めたエッセイ「Farther Away」で、フランゼンはさらに新しい区別提示する。しかもそれは、それまでで最も単純な区別だった。

二人の本当の違いとは、フランゼンは他人を気にかける人間であり、ウォレスは根っから自己愛的な嫌な奴だった――というのである

続きです。前回の続きから、同じ形式段落を整理しています

もちろん、この要約だけを聞けば極端すぎると思えるだろう。そして実際、ある意味では誇張でもある。しかし同時に、『Farther Away』を読んで誇張した物言いに誘われたのは、私だけではない。このエッセイは、二十年以上に及んだ二人の文学友情の総決算とも言える作品になっている。

フランゼンは、自分とウォレス関係を「比較し、対照し、そして兄弟のように競い合う関係」と表現している。その始まり1988年夏だった。ウォレスが、フランゼンのデビュー長編『The Twenty-Seventh City』を読んで感銘を受け、ファンレターを送ったのである

実際に二人が会ったのは1990年だった。その間が空いた理由についてフランゼンは、「後になって理由が分かった」と書いている。つまり当時のウォレスは薬物依存問題を抱えていたのである

実際に会ってみると、手紙のやり取りほど親密ではなかった。フランゼンは振り返る。

はいつも、自分が十分に面白く、十分に頭がいい人間だと証明しようともがいていた。

一方ウォレスは、数マイル先の一点を見つめ続け、その視線のせいで私は、自分が何一つ相手を納得させられていないような気分になった。

それでも二人は手紙を書き続け、お互いを称賛し合った。

1996年には、ウォレスが公の場でフランゼンを擁護している。当時フランゼンが『Harper’s』誌に発表した長大評論「Perchance to Dream」は賛否両論を呼んでいたが、ウォレスはこの文章を、

芸術ほとんど評価しない文化の中で、本気の芸術を作ろうとすることがどんな気持ちなのかを、これほど率直で親密に描いた文章

だと高く評価した。

同じ年、フランゼンはウォレスから送られてきた『Infinite Jest』の草稿を読んで衝撃を受ける。

彼は言う。

あの原稿は私を仕事へ向かわせた。競争相手がいると、人は仕事をするものからだ。

その結果生まれたのが、出世作となる『The Corrections』である

しかしウォレスは、『Infinite Jest』以降、長編小説をもう一冊も完成させることはなかった。短編集やルポルタージュを書き続け、未完の原稿は死後『The Pale King』として出版される。そして2008年9月、自宅裏庭で首を吊って自殺した。

フランゼンは後に、この自殺をどうしても「反則」のように感じてしまったと告白している。それは二人の作家同士の競争ルールを破るものだった。

彼はこう書く。

「ようやくまた仕事に集中しようとしていた矢先に、デイヴ自殺してしまった。

『おい、本当にそんなことをするのか?

若くして死ぬ天才になるつもりか?

それは反則だろう。』

と思った。」

二年後、『Freedom』を書き終えたフランゼンは、『Farther Away』を書き始める。彼自身、この文章は、

「私が愛していた人の、おぞましい自殺と向き合うため」

に書いたものだと説明している。

『Farther Away』は複数テーマを一本に束ねた奇妙なエッセイである。『ロビンソン・クルーソー』の読解。小説史の概説。インターネット論。そして、ウォレスの遺灰を撒くために南太平洋のマサフエラ島を訪れ、珍しい鳥を探す旅。

その中でも最も物議を醸した部分で、フランゼンは、ウォレスの死後形成された「礼賛一色の物語」に異議を唱える。

ウォレス聖人ではなかった、と彼は文字通り書く。

フランゼンによれば、ウォレスは信頼できない友人であり、競争心が強く、意地悪でもあった。

彼はその証拠としていくつかの逸話を紹介する。

ある時ウォレス恋人に非常にひどいことを言った。また別の日には、サインを頼まれた自著のタイトルページに、自分勃起した性器輪郭を描いたという。

さらフランゼンは、ウォレスは極端な自己没入型の人間であり、周囲の世界から喜びを感じ取る能力に乏しかったとも書く。

ある日二人がカリフォルニア州ティンソン・ビーチ近くを車で走っていた時、フランゼンは望遠鏡をウォレスに渡し、

「すごい鳥だ」

シギの仲間であるロングビルド・カーリューを見せた。

ウォレス礼儀として軽くうなずいただけで、あからさまに退屈そうな様子で視線を逸らした。

続きです。今回は段落を大きめにまとめます

そしてフランゼンは、ウォレス自殺のものについても、世間があまり触れたがらない側面をあえて強調する。ウォレス抗うつ薬をやめたが、その理由は「自分永久病人であると認めたくないという自己愛的な拒否反応」だった、とフランゼンは述べる。さらにウォレスは少なくとも四種類もの自殺方法を考えており、最終的には「自分を最も愛してくれていた人々に最大限の苦痛を与えるような方法自殺した」と書く。

もちろんフランゼンは、ウォレスが重いうつ病に苦しみ、耐え難い痛みの中にいたことは認めている。しかし、それだけでは終わらない。彼はさらに、自分にはどうしても拭えない疑念があると言う。ウォレスは「自殺キャリア上の一手として考えた可能性がある」のではないか、と。

もちろん、それはウォレス自身が最も嫌悪していた計算高さでもあった。フランゼンはこう書く。もし誰かがその可能性をウォレス本人に突きつければ、最初否定しただろう。しかし、「いや、でも君にもそういう面はあるだろう」と言われ続ければ、最後には「ああ……そうだな。確かに自分にはそういうことを考える能力はある」と認めたはずだ、と。

『Farther Away』は当然ながら激しい反発を招いた。「死者への冒涜」「墓荒らし」という批判が浴びせられ、翌年にはすでに「悪名高い失敗作」と当然のように呼ばれるようになっていた。こうした反応は理解できる。実際、この文章には弁護しがたい箇所も少なくない。多くの人は、自分が友人と呼んだ人物について、あのようなことを活字にはしないだろう。

しかし著者は、「それでも、この文章は単なる悪口ではない」と論じる。なぜなら、これは現代アメリカ代表する小説家が、愛したもう一人の小説家を、文学的にも個人的にも理解しようとして書いた、極めて珍しい批評からであるフランゼン自身、『The Discomfort Zone』『How to Be Alone』といった回想録を書いた人物であり、自分文章がどのような受け止められ方をするかは十分承知していたはずだ。それでも彼は出版した。なぜなのか。彼は何を伝えようとしたのか。

その答えは、『Farther Away』の中心にある文学論にある。

それまでウォレスについて論じる人々は、「作品自殺を結びつけてはいけない」という暗黙のルールを守っていた。つまり、ウォレス小説を論じる際に、「なぜ彼は死を望んだのか」という問題には踏み込まないようにしていたのであるしかフランゼンは、この禁忌をあえて破る。しか意図的に。

理由は明確だった。彼は、ウォレス生き方のものが、彼の小説理解する鍵だと考えていたかである

フランゼンは『Farther Away』の中で、小説には大きく二種類あると論じる。それは、二種類の人間から生まれる。一人目の男――仮に「ジョン」としよう――は、世界を見て、他人を見る。もう一人――仮に「デイヴ」としよう――は、世界を見ても、結局は自分しか見ていない。

もし二人とも小説家なら、前者は社会小説を書く。後者自己小説を書く。

この観点から見ると、『Farther Away』で語られる数々の私的エピソードも、単なる暴露ではない。少なくとも批評的には、それらは一つの文学的主張を支える証拠なのである

その主張とは、「私たち人生意味を与える最も重要ものの一つである、親密で愛情ある人間関係は、ウォレス小説世界には存在しない」ということだ。

しかフランゼンは、単に「ウォレス小説には親密な人間関係がない」と指摘するだけでは終わらない。彼はさらに一歩踏み込んで、価値判断を下す。

自己小説」は、結局のところ自己賛美の小説でもある。その題材は「どこまでも興味深い自己」であり、最終的に到達する場所もまた「自己」でしかない、と彼は言う。

フランゼンは、ウォレス作品に漂う自己愛的な視線や語り口を、実験モダニズム作家――たとえばフランツ・カフカやセーレン・キェルケゴール――に見られる極端な自己省察系譜へと位置づける。そして、ウォレス現実でも見せていた反社会的な振る舞いと、その文学的傾向を結びつける。

長年にわたるうつ病との闘い。そして最後には凄惨自殺。これらはすべて、「極端に個人主義的な魂」が最後にたどり着く場所を示す証拠であるかのように提示される。

フランゼン自身言葉を借りれば、自己という島は、おぞましい場所である。そして、ウォレスはその島に住んでいた。読者もまた、その島へ近づくなら覚悟必要だ、と彼は暗に語っている。

続きです。同じく段落をまとめた形で続けます

一方で『Farther Away』には、文学史を振り返る長い議論も織り込まれている。その目的は明快である。「自己小説」には別の選択肢があることを示すためだ。

フランゼンによれば、社会小説家たちは、「どこまでも興味深い自己」ではなく、「終わることなく興味深い、人間関係という危険」を書いてきた。小説という形式を生み出したサミュエル・リチャードソン以来、優れた社会小説家たちは、人間関係こそが「自己という島から脱出する唯一の方法」だと理解してきた。

から彼らの小説では、孤独だった人物が、誰かを愛することによって変化していく。そして読者もまた、「愛によって孤独を乗り越えた人々の心の中へ入っていける」のである

この議論不快だと思う人もいるだろう。しかし、単に「趣味が悪い」と切り捨てられるものではない、と著者は述べる。『Farther Away』には粗さもある。配慮を欠く部分もある。それでも、このエッセイには一つ重要前進があった。

それは、フランゼンとウォレスの違いを、初めて文学観・人生観の違いとして真正から論じたこである

これまで二人の違いは、リアリズムポストモダニズムか。文体の違いか実験性か。そうした形式論ばかりで語られてきた。しかフランゼンは、問題はそこではないと言う。

本当の違いとは、読者にどのような価値観提示し、どのような人生を目指すよう促しているかなのだ

まり、二人の違いは、文学技法ではなく哲学の違いなのである

ここで著者は次の問いへ進む。では、フランゼン自身哲学とは何なのか。

では、フランゼンの小説を支えている哲学とは何だろうか。彼の小説には、「よく生きる」とは何かについてのビジョンがあるのだろうか。

『Farther Away』の議論だけを読めば、その答えはすぐに見つかるように思える。それは、「親密で愛情ある人間関係である

かにフランゼンの小説は、人間関係について書かれている。夫婦。親子。恋人。そして個人国家との関係

しかし意外なことに、彼の登場人物たちにとって、その「人間関係という危険」は、ほとんど乗り越えられないものとして描かれている。

フランゼンが繰り返し語る物語は、人間関係理想を抱いた男が、その理想現実によって少しずつ失っていく、という物語である

彼の登場人物たちは、仲間や成功を求めて社会へ踏み出す。しか最後には、苦味と失望、そして運が良ければ、人間というもの偽善について少しだけ賢くなる、という結末にたどり着く。

デビュー作『The Twenty-Seventh City』では、主人公マーティンプロブストは、家庭にも仕事にも満足した幸福な男として登場する。しか物語の終わりでは、彼は家族を失い、一人でセントルイスを離れて高速道路を走る。そのとき彼は、「自分は、実は好きでもなかった世界に生きていたことを、今になってようやく知った」と悟る。

第二作『Strong Motion』でも同じである主人公ルイスホランドは、愛よりも憎しみによって孤独を深めていく。物語は一応希望を残して終わるが、彼は最後まで、「豚のような欲深さと愚かさと不正義が、日に日に勢力を広げていくアメリカ」に対する疎外感を消すことができない。

まりフランゼン作品では、人間関係から距離を置き、やがて社会のもの

[][] フランゼン、ウォレス、そしてリアリズム問題 https://thepointmag.com/criticism/coming-to-terms/

ジョナサンフランゼンとデイヴィッド・フォスター・ウォレス――その時代代表する二人のアメリカ人作家――はいずれもアメリカ中西部で育った。フランゼンは、ミズーリ州ウェブスターグローブズで過ごした子ども時代について、「まさに真ん中の中の真ん中。そこには家族と家と近所と教会学校仕事しかなかった」と振り返っている。一方、両親とも大学教授だったウォレスは、イリノイ州アーバナ青春時代を過ごした。そこは「穀物サイロ戦後住宅が並ぶ小さな町で、住民たちは農業保険窒素肥料除草剤を売り、近くのシャンペーンアーバナ大学に勤める若い研究者たちから固定資産税徴収するくらいしかしていなかった」土地だった。

二人は、セオドア・ドライサー、アーネスト・ヘミングウェイハロルド・ブロドキーらに連なる系譜に属している。地方的で中西部的な背景ゆえに近代社会の衝撃に備えられていなかった作家たち、あるいは逆に、その地方性ゆえに芸術家特有の斜めからの鋭い感受性を身につけ、その衝撃に向き合うことができた作家たちの系譜である

二人の年齢差は三年にも満たず、扱う題材もよく似ていた。テクノロジー、読者との関係、そしてポストモダニズム文学曖昧遺産について、それぞれ独自に格闘していた。そして両者は共通して、小説は依然として人生の「切実な問い」に語りかけるべきだと信じていた。そうするなら、小説は大量娯楽とマクドナルド時代にあってもなお生命力を保てる、と考えていたのである

しかし、その一方で二人は驚くほど異なる作家でもあった。同時代に似たテーマを扱った作家同士とは思えないほど、本質的に違っていた。一般には、その違いは文体の違いや、「リアリズム」に対する姿勢の違いとして説明されてきた。

フランゼンは初期にはポストモダン的な構成を試みたものの、現在では伝統リアリズム作家とみなされている。批評家ベンジャミンカンケルの言う「永続する小説」の代表格であり、対話心理描写三人称語りを「いまや古典的に思える均衡」で組み合わせる作家だ。一方ウォレスは、ゼイディ・スミスによって「リアリズムに挑戦する前衛作家」の一人に数えられている。入り組んだ脱線、渦を巻くような物語構造脚注の中の脚注――そうした特徴によって、彼はモダニズムあるいはポストモダニズム系譜に置かれてきた。批評家ジェームズ・ウッドも、あるヨーロッパ実験文学作家書評で、ウォレスを「単なる文法的リアリズム――現実を整然とした単位に切り分けるリアリズム――とは相容れない作家」の一人として挙げている。

しかし、こうした区別だけでは満足できなかったのか、あるいは「単なる文法的リアリズム」という見方への違和感があったのか、フランゼン自身は何度もウォレスとの違いについて語ってきた。その代表例が2002年評論Mr. Difficult」であり、さらに翌年には『The Paris Review』のインタビューでもこう語っている。

私たち関係には、一方が芸術のための芸術を追求し、もう一方が現実社会の中で生きようとする作家である、という競争関係が取り憑いていた。」

そして2011年4月18日の『The New Yorker』に掲載された、大きな注目を集めたエッセイ「Farther Away」で、フランゼンはさらに新しい区別提示する。しかもそれは、それまでで最も単純な区別だった。

二人の本当の違いとは、フランゼンは他人を気にかける人間であり、ウォレスは根っから自己愛的な嫌な奴だった――というのである

続きです。前回の続きから、同じ形式段落を整理しています

もちろん、この要約だけを聞けば極端すぎると思えるだろう。そして実際、ある意味では誇張でもある。しかし同時に、『Farther Away』を読んで誇張した物言いに誘われたのは、私だけではない。このエッセイは、二十年以上に及んだ二人の文学友情の総決算とも言える作品になっている。

フランゼンは、自分とウォレス関係を「比較し、対照し、そして兄弟のように競い合う関係」と表現している。その始まり1988年夏だった。ウォレスが、フランゼンのデビュー長編『The Twenty-Seventh City』を読んで感銘を受け、ファンレターを送ったのである

実際に二人が会ったのは1990年だった。その間が空いた理由についてフランゼンは、「後になって理由が分かった」と書いている。つまり当時のウォレスは薬物依存問題を抱えていたのである

実際に会ってみると、手紙のやり取りほど親密ではなかった。フランゼンは振り返る。

はいつも、自分が十分に面白く、十分に頭がいい人間だと証明しようともがいていた。

一方ウォレスは、数マイル先の一点を見つめ続け、その視線のせいで私は、自分が何一つ相手を納得させられていないような気分になった。

それでも二人は手紙を書き続け、お互いを称賛し合った。

1996年には、ウォレスが公の場でフランゼンを擁護している。当時フランゼンが『Harper’s』誌に発表した長大評論「Perchance to Dream」は賛否両論を呼んでいたが、ウォレスはこの文章を、

芸術ほとんど評価しない文化の中で、本気の芸術を作ろうとすることがどんな気持ちなのかを、これほど率直で親密に描いた文章

だと高く評価した。

同じ年、フランゼンはウォレスから送られてきた『Infinite Jest』の草稿を読んで衝撃を受ける。

彼は言う。

あの原稿は私を仕事へ向かわせた。競争相手がいると、人は仕事をするものからだ。

その結果生まれたのが、出世作となる『The Corrections』である

しかしウォレスは、『Infinite Jest』以降、長編小説をもう一冊も完成させることはなかった。短編集やルポルタージュを書き続け、未完の原稿は死後『The Pale King』として出版される。そして2008年9月、自宅裏庭で首を吊って自殺した。

フランゼンは後に、この自殺をどうしても「反則」のように感じてしまったと告白している。それは二人の作家同士の競争ルールを破るものだった。

彼はこう書く。

「ようやくまた仕事に集中しようとしていた矢先に、デイヴ自殺してしまった。

『おい、本当にそんなことをするのか?

若くして死ぬ天才になるつもりか?

それは反則だろう。』

と思った。」

二年後、『Freedom』を書き終えたフランゼンは、『Farther Away』を書き始める。彼自身、この文章は、

「私が愛していた人の、おぞましい自殺と向き合うため」

に書いたものだと説明している。

『Farther Away』は複数テーマを一本に束ねた奇妙なエッセイである。『ロビンソン・クルーソー』の読解。小説史の概説。インターネット論。そして、ウォレスの遺灰を撒くために南太平洋のマサフエラ島を訪れ、珍しい鳥を探す旅。

その中でも最も物議を醸した部分で、フランゼンは、ウォレスの死後形成された「礼賛一色の物語」に異議を唱える。

ウォレス聖人ではなかった、と彼は文字通り書く。

フランゼンによれば、ウォレスは信頼できない友人であり、競争心が強く、意地悪でもあった。

彼はその証拠としていくつかの逸話を紹介する。

ある時ウォレス恋人に非常にひどいことを言った。また別の日には、サインを頼まれた自著のタイトルページに、自分勃起した性器輪郭を描いたという。

さらフランゼンは、ウォレスは極端な自己没入型の人間であり、周囲の世界から喜びを感じ取る能力に乏しかったとも書く。

ある日二人がカリフォルニア州ティンソン・ビーチ近くを車で走っていた時、フランゼンは望遠鏡をウォレスに渡し、

「すごい鳥だ」

シギの仲間であるロングビルド・カーリューを見せた。

ウォレス礼儀として軽くうなずいただけで、あからさまに退屈そうな様子で視線を逸らした。

続きです。今回は段落を大きめにまとめます

そしてフランゼンは、ウォレス自殺のものについても、世間があまり触れたがらない側面をあえて強調する。ウォレス抗うつ薬をやめたが、その理由は「自分永久病人であると認めたくないという自己愛的な拒否反応」だった、とフランゼンは述べる。さらにウォレスは少なくとも四種類もの自殺方法を考えており、最終的には「自分を最も愛してくれていた人々に最大限の苦痛を与えるような方法自殺した」と書く。

もちろんフランゼンは、ウォレスが重いうつ病に苦しみ、耐え難い痛みの中にいたことは認めている。しかし、それだけでは終わらない。彼はさらに、自分にはどうしても拭えない疑念があると言う。ウォレスは「自殺キャリア上の一手として考えた可能性がある」のではないか、と。

もちろん、それはウォレス自身が最も嫌悪していた計算高さでもあった。フランゼンはこう書く。もし誰かがその可能性をウォレス本人に突きつければ、最初否定しただろう。しかし、「いや、でも君にもそういう面はあるだろう」と言われ続ければ、最後には「ああ……そうだな。確かに自分にはそういうことを考える能力はある」と認めたはずだ、と。

『Farther Away』は当然ながら激しい反発を招いた。「死者への冒涜」「墓荒らし」という批判が浴びせられ、翌年にはすでに「悪名高い失敗作」と当然のように呼ばれるようになっていた。こうした反応は理解できる。実際、この文章には弁護しがたい箇所も少なくない。多くの人は、自分が友人と呼んだ人物について、あのようなことを活字にはしないだろう。

しかし著者は、「それでも、この文章は単なる悪口ではない」と論じる。なぜなら、これは現代アメリカ代表する小説家が、愛したもう一人の小説家を、文学的にも個人的にも理解しようとして書いた、極めて珍しい批評からであるフランゼン自身、『The Discomfort Zone』『How to Be Alone』といった回想録を書いた人物であり、自分文章がどのような受け止められ方をするかは十分承知していたはずだ。それでも彼は出版した。なぜなのか。彼は何を伝えようとしたのか。

その答えは、『Farther Away』の中心にある文学論にある。

それまでウォレスについて論じる人々は、「作品自殺を結びつけてはいけない」という暗黙のルールを守っていた。つまり、ウォレス小説を論じる際に、「なぜ彼は死を望んだのか」という問題には踏み込まないようにしていたのであるしかフランゼンは、この禁忌をあえて破る。しか意図的に。

理由は明確だった。彼は、ウォレス生き方のものが、彼の小説理解する鍵だと考えていたかである

フランゼンは『Farther Away』の中で、小説には大きく二種類あると論じる。それは、二種類の人間から生まれる。一人目の男――仮に「ジョン」としよう――は、世界を見て、他人を見る。もう一人――仮に「デイヴ」としよう――は、世界を見ても、結局は自分しか見ていない。

もし二人とも小説家なら、前者は社会小説を書く。後者自己小説を書く。

この観点から見ると、『Farther Away』で語られる数々の私的エピソードも、単なる暴露ではない。少なくとも批評的には、それらは一つの文学的主張を支える証拠なのである

その主張とは、「私たち人生意味を与える最も重要ものの一つである、親密で愛情ある人間関係は、ウォレス小説世界には存在しない」ということだ。

しかフランゼンは、単に「ウォレス小説には親密な人間関係がない」と指摘するだけでは終わらない。彼はさらに一歩踏み込んで、価値判断を下す。

自己小説」は、結局のところ自己賛美の小説でもある。その題材は「どこまでも興味深い自己」であり、最終的に到達する場所もまた「自己」でしかない、と彼は言う。

フランゼンは、ウォレス作品に漂う自己愛的な視線や語り口を、実験モダニズム作家――たとえばフランツ・カフカやセーレン・キェルケゴール――に見られる極端な自己省察系譜へと位置づける。そして、ウォレス現実でも見せていた反社会的な振る舞いと、その文学的傾向を結びつける。

長年にわたるうつ病との闘い。そして最後には凄惨自殺。これらはすべて、「極端に個人主義的な魂」が最後にたどり着く場所を示す証拠であるかのように提示される。

フランゼン自身言葉を借りれば、自己という島は、おぞましい場所である。そして、ウォレスはその島に住んでいた。読者もまた、その島へ近づくなら覚悟必要だ、と彼は暗に語っている。

続きです。同じく段落をまとめた形で続けます

一方で『Farther Away』には、文学史を振り返る長い議論も織り込まれている。その目的は明快である。「自己小説」には別の選択肢があることを示すためだ。

フランゼンによれば、社会小説家たちは、「どこまでも興味深い自己」ではなく、「終わることなく興味深い、人間関係という危険」を書いてきた。小説という形式を生み出したサミュエル・リチャードソン以来、優れた社会小説家たちは、人間関係こそが「自己という島から脱出する唯一の方法」だと理解してきた。

から彼らの小説では、孤独だった人物が、誰かを愛することによって変化していく。そして読者もまた、「愛によって孤独を乗り越えた人々の心の中へ入っていける」のである

この議論不快だと思う人もいるだろう。しかし、単に「趣味が悪い」と切り捨てられるものではない、と著者は述べる。『Farther Away』には粗さもある。配慮を欠く部分もある。それでも、このエッセイには一つ重要前進があった。

それは、フランゼンとウォレスの違いを、初めて文学観・人生観の違いとして真正から論じたこである

これまで二人の違いは、リアリズムポストモダニズムか。文体の違いか実験性か。そうした形式論ばかりで語られてきた。しかフランゼンは、問題はそこではないと言う。

本当の違いとは、読者にどのような価値観提示し、どのような人生を目指すよう促しているかなのだ

まり、二人の違いは、文学技法ではなく哲学の違いなのである

ここで著者は次の問いへ進む。では、フランゼン自身哲学とは何なのか。

では、フランゼンの小説を支えている哲学とは何だろうか。彼の小説には、「よく生きる」とは何かについてのビジョンがあるのだろうか。

『Farther Away』の議論だけを読めば、その答えはすぐに見つかるように思える。それは、「親密で愛情ある人間関係である

かにフランゼンの小説は、人間関係について書かれている。夫婦。親子。恋人。そして個人国家との関係

しかし意外なことに、彼の登場人物たちにとって、その「人間関係という危険」は、ほとんど乗り越えられないものとして描かれている。

フランゼンが繰り返し語る物語は、人間関係理想を抱いた男が、その理想現実によって少しずつ失っていく、という物語である

彼の登場人物たちは、仲間や成功を求めて社会へ踏み出す。しか最後には、苦味と失望、そして運が良ければ、人間というもの偽善について少しだけ賢くなる、という結末にたどり着く。

デビュー作『The Twenty-Seventh City』では、主人公マーティンプロブストは、家庭にも仕事にも満足した幸福な男として登場する。しか物語の終わりでは、彼は家族を失い、一人でセントルイスを離れて高速道路を走る。そのとき彼は、「自分は、実は好きでもなかった世界に生きていたことを、今になってようやく知った」と悟る。

第二作『Strong Motion』でも同じである主人公ルイスホランドは、愛よりも憎しみによって孤独を深めていく。物語は一応希望を残して終わるが、彼は最後まで、「豚のような欲深さと愚かさと不正義が、日に日に勢力を広げていくアメリカ」に対する疎外感を消すことができない。

まりフランゼン作品では、人間関係から距離を置き、やがて社会のものから退いていくことこそが、最も典型的運動なのである

しかも彼の作品では、アメリカのものが一人の

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第二作『Strong Motion』でも同じである主人公ルイスホランドは、愛よりも憎しみによって孤独を深めていく。物語は一応希望を残して終わるが、彼は最後まで、「豚のような欲深さと愚かさと不正義が、日に日に勢力を広げていくアメリカ」に対する疎外感を消すことができない。

まりフランゼン作品では、人間関係から距離を置き、やがて社会のものから退いていくことこそが、最も典型的運動なのである

しかも彼の作品では、アメリカのものが一人の登場人物のように扱われる。主人公たちは、祖国と激しく愛憎入り混じった関係を結ぶ。

批評家ティム・パークスは、この特徴についてこう述べている。

フランゼンの登場人物は、必ずアメリカ社会へ関わり、その中で汚され、堕落し、そして最後にはそこから身を引いていく。

この視点から見ると、小説は単なる「より深いジャーナリズムである必要はないし、科学理想とする客観性に従う義務もない。ヴァージニア・ウルフは有名なエッセイ『Modern Fiction(現代小説)』で、私たちが求めているのは単なる勇気や誠実さではなく、「唯物論者」と呼ばれる作家たちとは対照的に、ジョイス精神作家なのだと書いている。

評論家は、この言葉を借りながらウォレス位置づける。ウォレスの「自己小説」とは何なのか。それは、近代的な精神自伝(spiritual autobiography)が現代に生まれ変わった姿ではないか。その系譜には、キルケゴールプルーストジョイスヴァージニア・ウルフカフカベケット、そしてハロルド・ブロドキーが連なっている。

彼らが抱えていた問題は、「現代人は混乱しているか現実適応させよう」というものではなかった。そうではなく、「現代人は渇いている。だから魂を潤さなければならない」というものだった。つまり彼らは、私たちが当然のものとして受け入れている「現実主義」そのものから私たちを目覚めさせようとしていたのである。それは限界を受け入れさせるためではない。限界の向こう側へ目を向けさせるためだった。なぜなら、人間とは本質的精神的な存在からである

評論家はここで再びクリスフォーグルの言葉引用する。

「私の中には、でたらめでも子どもじみてもいない、深いものがあった。それは抽象的なものではなく、服や自己イメージなんかよりもずっと現実的で、ほとんど神聖と言っていいほど輝いていた。本気でそう言っている。話を大げさにしたいわけではない。」

今日、このような「深み」について真面目に語ることがいかに難しいかフォーグルがわざわざ「本気で言っている」と断らなければならないこと自体が、その難しさを物語っている。だからこそ彼の百ページに及ぶ独白は長く続くのであり、ウォレス小説全体もまた、既存の型には簡単には収まらない。

評論家最後にこう締めくくる。「最も現実的なものとは何か」。ウォレスのような作家は、その問いを小説によって探究しようとした。一方でリアリストは、その答えをすでに知っているかのように振る舞うことが多い。

Freedom』について書いた評論で、批評家キース・ゲッセンは「リアリズムは結局いつでも勝つ」と称賛した。『Freedom』の支持者の多くも同じ考えだった。長く続いた実験文学時代は終わり、リアリズム勝利証明されたのだ、と。

評論家も、『Freedom』が本格的なリアリズム小説がなお書けることを示した点は認めている。しかし、それによって証明されたのは、リアリズムリアリズム仕事を果たせるということだけである。それは、ウォレスのような実験文学果たしてきた役割まで代替できることを意味しない。

リアリズムは、私たち社会人間限界理解させることはできる。しかしウォレス文学が目指したのは、それとは別のものだった。彼は、私たち現実のもう一つの次元へ、美的にも精神的にも目覚めさせようとしていたのである

もちろん、そのような文学現代ではますます理解されにくくなっている。現実政策社会問題から距離を置くため、「ナルシシズム」「狂気」「大げさ」「エリート主義」と批判されることも多い。

それでも評論家最後にこう述べる。

ゲッセンは「リアリズムは必ず勝つ」と言った。しかし、おそらく正しい言い方はこうだろう。

リアリズムは、その時代には勝つ。

しか二十世紀文学が教えているのは、最も遠い場所から出発した作家たちこそ、最も長く読み継がれるということなである


ここでザディ・スミスが言う “The two books seem like cousins to me.”(この二冊は従兄弟同士のように思える) は、英語でよく使われる比喩です。

双子」や「兄弟」ほど似ているわけではない。でも、「まったく無関係」でもない。その中間くらいの関係を表します。

まり

共通テーマ精神を持っている

血筋は近いが、性格表現方法はかなり違う

同じ家系からまれたような作品

という意味です。

ザディ・スミス比較しているのは、

Brief Interviews with Hideous Men

Fear and Trembling

この二冊です。

一見すると全然違います

『Brief Interviews…』は現代アメリカ文学で、皮肉実験的な形式を使う。

『畏れとおののき』は19世紀宗教哲学

それでも彼女は、「根っこの問い」が同じだと言っています

彼女自身が続けて引用したキェルケゴール文章が、その理由を示しています

「人は愛を超えた先へ行こうとする。だが、その先には何があるのか。」

そして彼女は、

「どちらの本も、『愛も信仰も終わった』と思い込んでいる人間を描いている」

と言っています

まり、ウォレスキェルケゴールも、

自己意識に囚われた人間

愛する能力を失った人間

信じる能力を失った人間

を描いている。

しかし、それを冷笑して終わるのではなく、

「それでも愛や信仰へ戻れるのではないか

という希望を、非常に遠回しな形で探っている。

からザディ・スミスは、「兄弟」ではなく「従兄弟」と言ったのでしょう。

表現時代ジャンルも違う。でも、精神的には同じ一族に属している──そういう意味比喩です。

2026-07-10

[][] 彼が残したシラバスから、ウォレスが偉大な教師であった理由のいくつかを読み取ることができる。 https://medium.com/at-pathwright/4-things-david-foster-wallace-taught-me-about-teaching-an-undoubtedly-fun-class-ill-never-get-to-5ddca59466e4

4 Things David Foster Wallace Taught Me About Teaching: An Undoubtedly Fun Class I’ll Never Get to Take





David Foster Wallaceは、卓越した才能と、その才能を教える力の両方を授かった、数少ない人間の一人だった。

ウォレスは優れた小説家でありエッセイストだった(代表作は小説Infinite Jest』や「Shipping Out(船に乗って)」などのエッセイで知られる)。しかし同時に、彼は情熱を持って創作文学を教える教師でもあった。まだ高く評価される作家になる以前から、彼は次世代作家たちを育てていた。

彼が残したシラバスから、ウォレスが偉大な教師であった理由のいくつかを読み取ることができる。

1. 目的を持った厳密さを求める

ウォレスは細部を大切にした。

彼はフィクション可能性、さらにはページそのもの限界を押し広げるような実験を行った作家だった。しかし同時に、文章技術の基礎を身につけることの重要性も理解していた。

そして、彼が学生に求めた基準の一部は制度のものだったとしても、その多くは、学生たちに同級生文章について思いやりを持って考えさせ、自分たちが書く言葉尊重させるためのものだったように思える。

ある元学生はこう語っている。

中途半端相互批評や、見落とされた一つのコンマによって言葉に失敗することは、自分たちがなりたいと願う作家たちを裏切ることだった。」

たとえば、大学時代、私は何度も「余白を1インチ空けたレポート」を提出するよう求められた。しかし、ウォレス学生に書いたような、これほど単純でありながら役に立つ注意書きをしてくれた教師は一人もいなかった。

書き手へ:エッセイダブルスペースにし、十分な余白を設ける理由の一つは、私たちが余白に書き込み(marginalia)を残せるようにするためです。読み手へ:余白へのコメントは読みやすく明確にし、必ず作者に向けたものにしてください……」

さな注意書きだ。しかも、さらに小さな細部についての話だ。

しかし、こうした小さな言葉の一つ一つが、ウォレス学生とその作品をどれほど真剣に扱っていたかを示している。

2. 学生に教えさせることで学生を教える

ウォレスの授業は、学生同士の交流を中心に構成されていた。

彼の授業では、クラスでの議論、1対1のフィードバック、そしてテキストとの個人的対話が大きな役割果たしていた。

彼は、若い作家たちが自分自身の周囲に作ってしまいがちな孤立した殻を、意図的に壊そうとしていたように思える。

ウォレス学生たちに、クラスメートの作品へ詳細なフィードバックを書くことを求めた。

その批評は、元の作者だけでなく、批評する側の学生自身にも役立つものになることを目指していた。

「この授業は、文章をたくさん書き、詳細な批評を受け取ることだけでなく、他の作家作品に対して、より洗練され、明確な批評者になることによっても、あなたたちは書き手として成長するという考えに基づいています。」

まり、彼は学生に教えさせることで教えた。

失敗する余地を与えることで教えた。

彼は、自分を「山から降りてきて、誰も逆らえない真理を授ける全知の知識保持者」とは考えていなかった。

彼は自分庭師のような存在だと考えていた。植物を育て、方向を整える人間として。

3. 明確な目標を設定する

ウォレスは、明確で高い水準の学習目標を設定していた。

実際、彼の学習目標の素晴らしい点の一つは、それがいかにも「学習目標」という形式に感じられないことだ。

それは会話のように感じられる。

ウォレス学生に向かって、「私はあなたにこう期待している。そして、こうなってほしいと思っている」と語りかけているようなのだ

これは、彼の会話的な語り口と明確な目標設定をよく示す、私のお気に入りの例の一つである

クリエイティブノンフィクションシラバスで、彼は学生たちにこう伝えている。

エッセイスト目的は、『自分を共有すること』でも『自分表現すること』でも、高校で教えられたような気分の良い言葉でもありません……大人世界では、クリエイティブノンフィクションとは表現的な文章ではなく、伝達するための文章なのです。」

この二つの文の中で、ウォレスは同時に誤解を打ち壊し、学生たちが何を学び、何ができるようになるべきかという明確な期待を示している。

ウォレスシラバスには、簡単に読み飛ばせるような箇条書きが大量に並んでいるわけではない。

彼は学生に対して率直に語りかけた。

からこそ学生たちは、彼の言葉を信頼し、明確な目的へ向かって努力することができた。

4. 自分真剣に取り組み、学生にも真剣さを求める

学生の「立ち居振る舞いの快活さ(alacrity of carriage)」を評価対象にする教師は多くないだろう。

しかし、ウォレスはそれを評価した。

この言葉意味するのは、学ぶことへの明らかな喜びや熱意を持って、自分自身をどう振る舞わせるかということだ。

ウォレスはエネルギッシュに教えた。

授業中の議論には動きや冗談を織り交ぜた。

学生たちにエネルギーと熱意を持って授業に来るよう求めたのは、自分自身も同じ姿勢で臨むつもりだったからだ。

ウォレスエネルギーと期待は、学びやす環境を作り出した。

それは、学生たちを厳密さと喜びへ押し進める、前向きな同調圧力の渦のようなものだった。

ウォレスの熱意と思いやりが組み合わさった結果、学生たちは自分たち仕事真剣に取り組むことを楽しめる環境を得た。

それぞれの学生は、愚かな考えなら厳しく分析されることがあると理解していた。

しかし、その批評は彼らを打ちのめすためではなく、成長させるためのものだった。

ウォレスは、喜びと責任感が結びつき、学習必要謙虚さへと導いていくような空気を作り出した。

 ウォレスシラバスを実際に見てみたいなら、こちら、こちら、そしてこちらで確認できる。

 私たちのチームは、規模を問わずLXD(Learning Experience Design/学習体験設計)のプロジェクト支援できます。 私たちアプローチについて詳しく知りたい方はこちら。

[][] 児童文学作家マックバーネットが、厳しくも刺激に満ちた創作指導者だった彼との思い出を語る。 https://www.theguardian.com/books/booksblog/2016/sep/12/david-foster-wallace-my-teacher

デイヴィッド・フォスター・ウォレス、私の先生

ウォレスの死から8年。児童文学作家マックバーネットが、厳しくも刺激に満ちた創作指導者だった彼との思い出を語る。

マックバーネット

2016年9月12日

私の先生だったデイヴィッド・フォスター・ウォレスについて書くのは、少し怖い。彼は私にとって大切な人だったから、台無しにしたくないのだ。

モナ大学で彼の授業を取ることも、同じ理由で怖かった。

その授業に入るにはオーディション必要だった。学生たちは短編小説を提出し、その中から15人だけが選ばれる仕組みだった。

私は、もし落とされたら、自分はもう作家にはなれないと思っていた。

そこである作戦を考えた。

彼のオフィスアワーに通い、気に入られるようにして、授業に入りたがっている他の学生を押しのけよう、と。

しかし、その作戦はあまりうまくいかなかった。

緊張しすぎて、良い印象を与えることができなかったからだ。

私は高校卒業祝いにもらったギフトカードで『Brief Interviews with Hideous Men(醜い男たちとの短いインタビュー)』を買っていた。タイトルおかしくて面白いと思ったからだ。

ずっと後になって、そのことをウォレス本人に話したことがある。

すると彼は、時々見せる中西部出身者らしい控えめな態度で笑いながら言った。

「それは本当にいいタイトルだね」

『Brief Interviews』は、私が初めて本格的に触れた実験小説だった。

そして、私をひどく戸惑わせた。

18歳の私は、生意気文学少年だった。子どもの頃以来、物語に頭を殴られるような衝撃を受けたことはなかった。

でも、やがて私は気づいた。

これらの物語は、私に本当の仕事を求めているのだ、と。

大変な仕事を。しかも大量に。

しかし、その努力に対して、ちゃんと報いてくれる。

私は小説について、新しい考え方をするようになった。

いや、むしろ古い考え方に戻ったのかもしれない。

子どもの頃、私が一番好きだった物語は、奇妙で、刺激的で、理解するのが難しいものだった。

それは自然なことだった。なぜなら世界のものが、しばしばそういうものだったからだ。

子ども実験小説を読むのに理想的な読者だ。

なぜなら、子ども時代のもの実験的だから

一方で、思春期の利口ぶった子どもたちは、実験小説を読むには最悪の読者だ。

彼らは、自分はもうすべて理解したと思い込んでいるからだ。

大人さらにひどい。

でもウォレス物語は、私にもう一度、子どものように読む感覚を与えてくれた。

私は彼の本を買い続けた。

そして今、私は彼のオフィスにいた。

私は彼に、提出する文章について何か知っておくべきことがあるか尋ねた。

彼は、授業カタログに書かれている指示は明確だと思う、と答えた。

(実際、その通りだった。ウォレスが書くものはすべて明確だった。彼は、有名な小説文体と同じように、正確なスタイルで話し、メールを書き、授業説明を書いていた。)

90秒ほどで帰る準備ができるほど私は落ち着いていなかったので、さらに尋ねた。

出作品をどのように評価するのか、と。

すると彼の態度は少し柔らかくなった。

たぶん彼は、私が企てていた情けない作戦のすべてに気づいていたのだと思う。

彼は言った。

短編作品の良し悪しを判断するというのは、階段から作品を投げ落として、どれが一番遠くまで転がるかを見るようなものだ、と。

そして最後に注意を付け加えた。

「誤字や間違いがないか、必ず確認してください」

さらにもう一つ付け加えた。

「一度だけじゃなくて」

ウォレス英語用法に強いこだわりを持っていたことは有名だった。

そして、それは彼の授業にも表れていた。

毎週、彼は「Your Liberal Arts $s at Work(リベラルアーツ教育費が役立っている証拠)」というタイトルプリントを配った。

そこには、前の週に学生たちが文章の中で犯した誤用や間違いが集められていた。

私たちはすぐに固有名詞を探した。

自分登場人物名前をその紙の上に見つけたら、自分がみんなの前で叱られることが分かったからだ。

最初の授業でウォレスは言った。

「大きな勝負に出ている時、人は文法的な間違いなんてしない」

ただし彼は「間違い」という言葉の代わりに、イギリス新聞には載せられないだろうと思われる単語を使った。

私はその言葉ノートに書き留めた。

そのノートには、ウォレスが言ったことで、絶対に忘れたくないものを集めていた。

たぶん他の学生たちも、同じようなノートを作っていたと思う。

ウォレス教室文法にこれほど厳しかったのには理由があった。

しかし、それは単に規則を押しつけるようなものではなかった。

ウォレスは、人間であるとはどういうことか、そして良い人間であるとはどういうことかを作品の中で探求した、道徳的作家として理解されるべきだと思う。

しかし同時に、彼は倫理的作家でもあった。

はいつも、作家責任について話していた。

明確にする責任

面白くする責任

ウォレス作品は難解だった。

読者に努力を求めた。

からこそ彼は、自分自身も仕事果たしていることを確かめたかったのだ。

自分意図したことを正確に伝えること。

そして、それを人を惹きつける形で伝えること。

私のノートには、こんな言葉も残っている。

「もし、自分が話している内容のほうに、聞いている相手よりも強い関心を持っているなら、あなたは退屈な人間定義のものだ」

私はその言葉を聞いて、棒で殴られたような気がした。

その日、私がワークショップの席を得ようとして彼のオフィスを訪れた時、ウォレス最初に私に尋ねたことがある。

なぜ彼の授業を取りたいのか、と。

私が児童書を書きたいからだと答えると、彼は顔をしかめて言った。

子ども向けの文章を書くことについては、僕は何も知らないよ」

私は答えた。

子ども向けの書き方を学びたいわけではない。

ただ、文章を書く方法のものを学びたいのだ、と。

彼は私に文章を書くことを教えてくれた。

少なくとも、どうやって書くべきかを教えてくれた。

そしてそれは、整った美しい一文を書くことより、ずっと難しいことだった。

それは、本当の会話をすることと同じくらい難しい。

なぜなら、本当の会話をするには、まず自分が本当に大切に思っていることを見つけなければならない。

そして次に、どうすれば他の誰かにもそれを大切に思ってもらえるかを考えなければならない。

そして、それがどれほど怖いことか。

私たちはみんな知っているはずだ。

そうだろう?

マックバーネット児童文学作家2004年にポモナ大学卒業。ジョリー・ジョンとの共著『The Terrible Two』は、ケヴィンコーネルイラスト付きでAmulet Booksから出版されている。

anond:20260710092225

これは自治体によってはすでに検討されているんだよね

どこだったかな?調べれば出てくると思うけども

実験では混雑時に並ぶ時間が2割近く減ったという結果も出ている

でも女性ユーザーの反発も結構あるそうだ

あと地方問題なのは高齢者が多いから足が悪くて和式がつらいって部分

個人的には施設によっては省スペースの和式個室ってのは進めていいと思うけどね

から鳥が落ちてきた増田酢魔他きて千緒がり虎から祖(回文

おはようございます

ここで問題です!

バーバン

飛ぶ鳥を落とす勢いで私が毎日デイリーミッション必須プレイしてハマっているゲーム勝利の女神NIKKEですが、

インドで食べられるタンドール釜で焼かれた三角状のパンのような日本印度料理店で好まれて食べられる食べ物ってナーンだ?

このワールドなぞなぞ難しいと思うわ!

でさ、

もう私ショック!

新しく買ったスマートフォンになんかSIM差し込むスロットがなくってこれどうしたらいいの?って通信ができない状態で私は野に放たれていて困っているんだけどってよりも困ったことで、

まあ困ったというか、

その私が毎日飛ぶ鳥を落とす勢いで遊んでいる大好きな勝利の女神NIKKEなんだけど、

昨日の晩はあまりに疲れていて

デイリーミッションはこなせているものの、

陰のデイリーミッションの、

アークコンテンツの「シミュレーションルーム」と「トライブタワー」を攻略し忘れて逃していたわ!

なんたるちゃー!

トライブタワーは難しくて進めないところがあるから

あいいとしてもってところもある感じだけど、

ニケ達のスキルアップに欠かせない資材を得られる「シミュレーションルーム」はこなさなくてはいけない私が私に課しているデイリーミッションの1つで、

これやり忘れていたわ!

あちゃー!

でね、

そうよエリシオントライブタワー380階だったかな?

その「巨鯨」をやっとやっと倒せたってところで、

ニケのキャラクターギロチンっていうのがいるんだけど

巨鯨対策で電撃属性マシンガンでぶっ放さなくちゃいけなかったので

育てに育てて遂に巨鯨撃破!って感じ。

泣けるー!

なので、

この「シミュレーションルーム」でもらえる資材は重要要の肝心要素満点なのよね。

まあこういう時もあるわ。

私疲れてすぐ寝ちゃっていたのよ。

でもさ、

本当に飛ぶ鳥が空から落ちてきたら目の前によ!ビックリしない?

昨日帰り道まさに飛ぶ鳥が落ちてきて、

私のあまりにもプレイタイルのNIKKEが飛ぶ鳥を落とす勢いだったのかは分からないけれど、

からぼてっと鳥が落ちてきて、

道端にひっくり返っているの。

カラスとかハトとかじゃない鳥で名前は分からないけれどなんか街で暮らしている鳥っぽい鳥ね。

そんで道に落ちてひっくり返ってるので、

私は大丈夫?って

それこそ鳥さん用のAEDを探したけれどなかったので

ツンツンと突いてみて、

なんか口はパクパクして動いている感じ。

そしたら急にパッと鳥さんは目を覚ましたのか気付いたのか慌ててひっくり返った体勢から立ち上がったの!

私はちょっと待っててね!ってその鳥さんに言って

ペットボトルの水を持ってきて飲ませてあげようと思ったの。

鳥さんってペットボトルから上手に水が飲めないのは私もさすがに分かるわよ。

ペットボトルのフタのキャップをひっくり返してコップのようにして、

そこに水を入れて、

はいゆっくり飲んで落ち着いて!って言ったら、

そのペットボトルのフタのキャップをコップにして入っている水をちょっとクチバシでついばむように飲んで、

なんか鳥さん曰く、

別にから落ちてきてひっくり返ってませんけどそれがなにか?って顔して

普通に飛び立っていったわ。

まあ私にしたら鳥さんが空から落ちてきて道端にひっくり返ってるところから元気になって飛んで行ったからホッとしたわ。

天空から落ちてきていいのはパズーだけよね!って思いながら、

本当にそんな目の前に鳥が落ちてくることなんてあるんだ!って、

その一部始終ビックリしちゃったわ。

でも今思ったら、

その時私の隣に親方がいたら、

地で「親方!空から鳥が!」っていって「5秒で受け止めろ!」って成立したのになぁって。

5秒でと言えば広末涼子さんばりにそう思ったのよね。

惜しいことしたわ。

でも実際に

からぼた餅が落ちてくるような速度で鳥が落ちてきたか

そんな5秒で対応できないわよね。

よく理科実験映像であるじゃない。

真空の中で棚からぼた餅が落ちる速度と羽毛の落ちる速度はどっちが速く落ちるでしょう!?っていって同時に同じ速度で落ちる実験映像

まさにあの感じを目の当たりにしたわ。

もう本当に1日その日は大変なことがあったなぁって

振り返る暇も無くばたんきゅー

昨日は寝ちゃったので、

NIKKEのデイリーミッションの欠かせない「シミュレーションルーム」という攻略コンテンツをやり逃してしまったのよね。

「棚からぼた餅」って言うけれど、

その下の句は「ぼた餅を食らわば皿まで」って知ってた?

やっぱりあの速度で落ちてきて5秒で反応できないわ。

できる人類っているのかしら?

照英さんしかできそうになさそうなんだけどね。

でも今夜はちゃんとNIKKEのミッション全部こなせますように!って

それこそ飛ぶ鳥を落とす勢いでプレイするの!

本当にまた鳥さんが空から落っこちてきたら困るけどね!

今度はちゃんと5秒で反応できるようにするわ。

うふふ。




今日朝ご飯

納豆巻きにしました!

そうよ!今日納豆の日だもん!

この火を逃している納豆巻き食べるの?

今でしょ!って思うぐらい納豆巻き!

うわー!

ネバネバパワーが美味しくて元気出るわ!

納豆美味しいの嬉しいわね!

デトックスウォーター

レモン炭酸水ウォーラー

これで最後の1本です、

注文のタイミングちょっと遅かったので、

もうちょっと届くまでに時間がかかりそうだわ。

私としたことが!って感じね。

なんとか他の水出しウォーラー系でしのぐわ。

本当に暑いので、

水分補給はしっかりとね!




すいすいすいようび~

今日も頑張りましょう!

2026-07-09

[] それが、アイコンという存在になることの意味なのだ人間欠点からほぼ完全に切り離されるという贅沢。 https://www.michigandaily.com/arts/david-foster-wallace-beyond-windbreak/

デイヴィッド・フォスター・ウォレス:防風林の向こう側へ

ジュリアン・レイ

2020年10月4日

この記事は「Icons」のArts b-side企画の一部です。このテーマを扱ったb-side記事の全体を見るには、こちらのリンククリックしてください。

1年前のことだった。私はダウン・トレッダー・ブックショップに入り、何人かの客の間をすり抜けながらフィクションの棚へ向かった。

Wの棚の低い位置に、ウォレスデビュー小説システムの壊し方(The Broom of the System)』の色あせた一冊が置かれていた。

私はその本をレジへ持っていき、男性店員会計をしてくれた。

「ウォレスのほかの本はありますか?」

と尋ねると、彼は答えた。

「いや、彼の本はいつもすぐ売れるんですよ」

私は、それは残念だと言った。ちょうど『Infinite Jest(無限冗談)』を読み終えたところで、彼のほかの作品も読んでみたいと思っていたのだ。

今思えば、少し気取った自慢だった。そして彼はそれに感心しなかった。

彼は薄い愛想笑いを浮かべ、軽くあしらうように言った。

「そうですか。では、良い一日を」

それで終わりだった。

彼の文体を好まない人々にとって、ウォレスは誇張された混沌のような作家だった。傲慢で、作品冗長で、無理やり知的に見せようとしているのに、頻繁に「天才」と呼ばれている。

ダウン・トレッダーのレジにいた男性も、おそらくそういう側の人間だったのだろう。

しかし私は、ウォレスは別のものだったと思う。

彼は深い苦悩を抱えたポップ・ヒーローだった。芸術によって、恐怖によって、そして公の場に姿を現したことによって、この世界痕跡を残した人物だった。

そのほかのことを言う前に、私がウォレス文章で初めて読んだものを紹介したい。

短編「Good Old Neon(グッド・オールド・ネオン)」からの一節だ。

この言葉を覚えておいてほしい。

「私の人生はずっと偽物だった。大げさに言っているわけではない。私がいつもしてきたことのほとんどすべては、他人の中にある“私という存在”について、ある種の印象を作り出そうとすることだった」

アイコン存在という観点で見るなら、ウォレスはその典型の一人だ。

彼は文学複数ジャンルにまたがって執筆した。小説ノンフィクション、講演などを発表した。

彼の作品はしばしば近寄りがたい。

本はあまりにも密度が高く、書き込みすぎていて、まるで読まれること自体抵抗しているように感じられる。

そして、そこが魅力でもある。

多くのウォレス読者と同じように、私も彼の最高傑作Infinite Jest』に早く飛び込みすぎるという間違いを犯した。

最初に読んだ40ページほどの短編から、角膜の健康などほとんど気にせず、1079ページの巨大な本の塊へ進んだ。

Infinite Jest』は、本というより怪物に近い。

ページは大きく、威圧的で、その重さは両手を床へ引きずり下ろすほどだ。

本編981ページの後には、さらに90ページの「注釈と訂正(Notes and Errata)」が続く。

巻末注は読者体験に不可欠なものだ。

しかし、ページを前へ戻し、また戻し、また戻しながら読む作業で、私の頭は何度も混乱した。

この本はあまりにも混沌としていて迷宮的なので、要約すること自体が難しい。

ただ、一つ言えることがある。

物語の中心となる舞台は、テニスアカデミー中間施設ハーフウェイ・ハウス)だ。

そしてそこでは、依存症父親との問題蔓延する消費主義車椅子に乗ったケベック暗殺者による秘密組織、そして観客をあまりにも楽しませるため、見た者が何度も何度も繰り返し鑑賞し、最後には餓死してしま映画などが扱われる。

聞こえた通り、奇妙な話だ。

しかしウォレスは、その奇妙さを優雅に受け入れている。

けばけばしく、ときグロテスクですらある言葉の混乱の中には、疑いようのない人間性がある。

ウォレスは、想像できるほぼすべての感情人間人生のあらゆる領域に触れている。

スポーツ選手としての栄光からコカインを手に入れること、愛する人を失うことまで。

そしてこれは、彼の最高傑作ですらない。

誤解しないでほしい。

1000ページにも及ぶ、驚くほど複雑な小説を書くことは、とてつもない偉業だ。

ほかのどんな作家であっても、それだけで20世紀文学古典作家リストの頂点に置かれ、どこかの別荘へ引退してもおかしくない。

しかしウォレスは、もっと優れた物語を書いている。

「Good Old Neon」は、実験的な構造テンポの見本のような作品だ。

しかも1か月ではなく、1時間ほどで読める。

彼の最も洗練された作品である『The Pale King(ペイル・キング)』は、死後に出版された。

その本に入る前に、まずウォレスという人物のものを見てみたい。

心配しなくていい。

彼の文章には戻ってくる。

ただ、その前にチャーリーローズとのインタビューを見てみたい。

(続きます

インタビュー開始から3分半ほど経ったところで、ローズ雑談を切り上げ、ウォレスにこう尋ねる。

尊敬されるということは、あなたにとって大きな意味を持つんですよね? つまり自分真剣に受け止められている。そして自分仕事評価され、尊敬されている』という感覚ですか?」

ウォレス椅子の上で姿勢を正し、唇を噛んでから答える。

「それが私の顔に出ていると分かるんですか?……尊敬されたいと思わない人間を、誰か一人でも見せてください」

その後ウォレスは、『Infinite Jest』に対する世間の反応について語る。

彼は、批評家のすべてが本を最後まで読み終えてから評価を下しているとは思っていなかった。

ある時、彼は話の途中でこう遮る。

「……すみません、なんというか、実質的にどもってしまっていて……」

ローズは、熟練したセラピストのような声で彼を安心させる。

「いや、そんなことありません。ちゃんと話せていますよ」

ウォレスは、この会話の主導権を渋々握っているように見える。

まり目を合わせない。

自分自身発言に、ときどき顔をしかめる。

声は低く、速く、どこか夢見心地に聞こえる。

まるで思考がすでに装填されていて、それをただ外へ放出しているだけのようだ。

しかし、それらはあくま思考にすぎない。

彼は自分言葉特別権威を与えようとはしない。

おそらく本人も気づかないまま、ウォレスは「どこにでもいる人間しかし単なる普通人間ではない」という自分人物像を演じている。

インタビューで見えるのは、こういう人物だ。

自分の才能を誇示する一方で、同時にそれを抑え込もうとしているようにも見える男。

しかし、これは毎朝起きてコーヒーを淹れ、犬を散歩させていた普通のウォレスの姿ではない。

その人物垣間見るために、私の高校時代英語教師ハンターダンの話を紹介したい。

パサデナ2005年

ダンは、文章教育に関するワークショップのチラシを見つける。

演者名前は3人。

その中にはデイヴィッド・フォスター・ウォレスも含まれていた。

なぜこれほど有名な作家が、たった40人ほどを対象にした高校教室で開かれるワークショップに現れるのか。

ダンには分からなかった。

ただ、おそらく友人への頼みごととして引き受けたのだろうと思った。

ワークショップは、ポモナ大学の向かいにある高校教室で行われた。

ウォレスはそこで創作を教えていた。

ほかの2人の講演者が先に話した。

準備してきた資料を使い、自分たちの作品朗読した。

しかしウォレスには何も準備がなかった。

彼はこんなことを言った。

「私は、自分作品をそんなふうに生徒たちの前で読むことは絶対しません」

発表の最後に、ダンはウォレス質問をした。

どんな質問だったかは、今では忘れてしまった。

しかし、ウォレスの答えだけは覚えている。

「分かりました。あなた質問には答えます。でもそのあと、あなたがどう考えるのか聞きたいです」

ワークショップが終わった。

人々は建物から出ていった。

帰り道、ダン中庭を歩いているウォレスを見つけた。

おそらくポモナ大学自分オフィスへ戻るところだったのだろう。

ダンは声をかけた。

「おい! デイヴ!」

ウォレスは振り返り、大きくため息をついた。

はい?」

ダンは、ウォレステニス選手マイケルジョイスについて書いたエッセイについて尋ねた。

ウォレスは彼をじっと見て言った。

面白い選手ですよね、彼は」

その後の会話は、15年分の記憶の中で失われてしまった。

しかダンは、ウォレスについていくつか重要なことを覚えている。

彼は非常に優れた聞き手だった。

返答する前に、自分の考えを整理していた。

しかし同時に、そっけないところもあった。

あらゆる質問議論として捉え、勝ちたいゲームのように向き合っていた。

彼はまったく不快そうでも、自意識過剰そうでもなかった。

そこには確かな自信があった。

チャーリーローズとのインタビュー時とは違い、実際に会ったウォレス葛藤しているようには見えなかった。

おそらく、有名なインタビューのような場面で「あなた天才だ」という世間の期待に直面した時、彼本来自己像と、周囲が求める「天才作家」という役割が衝突したのだろう。

その葛藤は彼の文章にも存在する。

ただし、別の形で。

『The Pale King』に戻ろう。

物語舞台は、イリノイ州ピオリアにあるIRS(アメリカ合衆国内国歳入庁)の地域審査センターだ。

想像できる限り、最も退屈な場所ひとつ

しかし550ページもの中で、ウォレスは税務申告書の審査という退屈で狂気じみた世界に命を吹き込む。

まるでトールキンが中つ国を創造たかのように。

私が初めて『The Pale King』の中に、本当のウォレスの手がかりを見つけ始めたのは、この作品だった。

第9章には「作者による序文(Author’s Foreword)」というタイトルが付いている。

ウォレスはこう書く。

「作者だ。つまり、本当の作者。鉛筆を握っている生身の人間であって、抽象的な物語上の人格ではない」

彼は説明する。

「これから続くものは、実際にはまったくのフィクションではなく、かなりの部分で真実で正確なものだ。『The Pale King』は、実際のところ、作り話というより回想録に近い」

もちろん、ウォレスはIRSで働いたことなどない。

そして本の中の出来事も完全なフィクションだ。

しかし、だからといって彼が「この物語真実だ」と言う時、それが嘘になるわけではない。

ある意味では、本当に真実なのだ

ウォレスは、自分自身物語の中に登場させる。

彼は若いIRS職員として描かれる。

その人物は、同じく「デイヴ・ウォレス」という名前を持つ高級幹部と間違えられてしまう。

自分がそれほど尊敬されている人物なりすましていることの結果に直面するのを恐れ、デイヴ・ウォレス登場人物)はその誤解を訂正しない。

そして、そのまま流されるように、本来なら幹部しか参加できないような重要な会議へ連れて行かれる。

イヴ・ウォレス登場人物)は、会議で何が起きているのかまったく理解していない。

大量の汗をかき、自分が発するわずかな言葉さえもたどたどしい。

会議では、彼がなりすましている人物なら当然熟知しているはずの税法について、激しい議論が交わされる。

しかし当然ながら、デイヴ・ウォレス登場人物)は税法について何も知らない。

自分が周囲の人々が思っているような人物ではないとバレないように、彼は沈黙する。

そして絶えずメモを取り続ける。

ページを埋め尽くすほど書き込み自分が「物静かだが勤勉な観察者」であり、この自分には属していない世界真剣に参加している人間だと思われるようにする。

もしある作家が、これほど明確に読者へ語りかけた例があるなら、それはまさにこれだろう。

ウォレス2008年自殺した。

彼は多くの本やエッセイを残した。

そして彼の作品が死後も出版され続けることで、彼はアイコンとなった。

彼の人生の暗い側面――薬物依存鬱病との闘い――は、苦悩する天才という印象をさらに強めるものになった。

2013年の伝記

『Every Love Story Is a Ghost Story: A Life of David Foster Wallace(すべての愛の物語幽霊物語であるデイヴィッド・フォスター・ウォレスの生涯)』

の中で、D・T・マックスはウォレス詩人メアリー・カーとの関係について短く触れている。

カーはボストンにあるハーフウェイ・ハウスボランティアをしていた。

そこはウォレス依存症自殺未遂のために暮らしていた場所だった。

そこには特に衝撃的な一文がある。

「ある夜、ウォレス走行中の車からカーを押し出そうとした」

ウォレスとカーの関係の多くは長い間、暗闇の中に置かれていた。

そして、それについて声を上げる役割はカー自身に委ねられることになった。

ウォレスは何年もの間、彼女につきまとった。

彼女が既婚者で、子どもがいたにもかかわらず。

ある時、彼は腕に包帯を巻いた状態パーティーに現れた。

そしてカーに、自分の皮膚に彼女名前タトゥーとして刻んだことを明かした。

このような暗い部分を、「天才であることに伴う複雑さ」の一部として片づけるのは、とても簡単だ。

結局のところ、自分好きな人物が犯した酷い行為について考えることは、不快ではないだろうか。

その人物の輝かしい作品という安全領域を越えて、その人間のもの考察しようとすると、世界に与えてくれた洗練された美しいものをただ楽しむよりも、はるかに大きな感情作業必要になる。

それが、アイコンという存在になることの意味なのだ

人間欠点からほぼ完全に切り離されるという贅沢。

あるいはさらに言えば、欠点のものが美化され、象徴的な人物像を強化するほどになること。

伝説的な人物という状態が生み出すこの症状は、私たちにこう考えさせる。

「彼は苦しんでいた。彼が私たちにこの物語を与えるために、どれほどの苦痛経験したことだろう」

「彼は愛していると言った女性を追跡し、傷つけた。彼の人生をそれほど複雑にした悪魔とは、一体どんなものだったのだろう」

しかすると私は彼に甘すぎるのかもしれない。

あるいは、十分に寛容ではないのかもしれない。

私はウォレスを知らなかった。

私が検討できるのは、彼が残していった謎だけだ。

しかし私は思う。

その謎は、私たちが考えているほど不可解なものではない。

考えてみてほしい。

私がウォレス出会った最初文章

「Good Old Neon」の冒頭近くにある、あの消えかけるような言葉

私はこう思う。

彼は私に、ある真実を伝えようとしていたのではないか

ただし、それを語ることができたのは、薄いガーゼのようなフィクションという仮面の裏側だけだったのではないか

(終)

低学歴理系って意味なくね?

ワイのことなんだけどさ

底辺が成り上がるのって公務員試験文系分野からの出題が多い)とかエッセイコラム書くとか文系が強い気がする

ワイは理系論文読むとか、そんな感じ

実験とかしてみたいけど、環境がないと無理だし

anond:20260709151135

あと数値計算的な天気予報力学にも興味ある

こういう系は近い将来AI自動的研究できるようになって人間がやる余地はなくなるかもなあ

物理学科は、実験物理しか人間のやる仕事としては)残らなくなるんじゃないかって気もする

女ってさ、体の構造上、男よりも漏らしやすいんだわ

(「お兄ちゃんおしまい」というアニメで学んだ)

からそんなに尿意を感じなくても予防的にトイレに行かなきゃいけないわけ

するとさ、「トイレ行ってくる(`・ω・´)」→「出なかった(´・ω・`)」みたいなことも当然起こる

母親がそんな感じのムーブしてた)

CMで尿漏れを防ぐ感じの女向けのオムツみたいなやつもあっただろ

尿漏れやすいってのは、ようは尿をコントロールする筋肉が弱いわけ

から締めるのも開放するのも男より能力がないんだわ

Googleで調べた限り)

あと、服装

男はズボンジッパーを下ろせば即放尿体制に入れるけど、女の服はややこしいからな

(よう知らんけど)

男は、小便をガマンする力も高いし、筋力があって排尿自体能力も高いし、

文化的に小便器という効率の塊のようなものがあるので、

トイレに入ってから出るまでおよそ1分30秒くらいで済む

自分はそれくらい)

排尿能力が低ければ時間がかかるってのは、年配おじの男も分かるはずだ

時間かけないと残尿がお前のパンツを濡らすだろ?

残尿を多少許容するメンタルも男ならではかもしれんが

女はそうじゃないはずだ

しかし、女って最速で排尿にどれくらいの秒数かかるのか知りたいよな

誰か実験してくれ

2026-07-08

anond:20260708211002

歴史追体験するんだったら教師大事ものである平和論や人権歴史の本を塗りつぶしたり燃やしたりするのが先なんだよな

徐々に娯楽や自分必死に描いたものが消えるって方が正しい

そこまでする実験シミュレーションだったらまだわかる

平和教育として戦争大事もの燃やされる実験やるんだったら本当は

一番最初に「平和人権」「人権歴史」みたいな本や宗教としてお経や聖書を燃やす

二番目に新聞週刊誌を燃やす

三番目に漫画ゲームを燃やしたり壊したりする

四番目に教科書を塗りつぶしたりお金や財布を取られたりする

みたいにしてやったほうがいいよな~

2026-07-07

たとえばだけど

10部員がいるマンガ研究会があるとする

そのうち8人が幸せで、2人が不幸とする

そうすると十分時間が経つとどうなるか。

シルバースプリングス海岸フジツボしか残らなくなってしまった生態系をいじる実験と同じで、みんな不幸になるんだよ。

A「私の絵〜じょうずでしょおお〜〜」

B「うんうん!」

C「いや、下手だね。線がガタガタ震えてるし、薬物中毒者様相を呈しているよ」

D「むぎぎぎぎ…」

2026-07-06

高市首相NATO首脳会議を欠席というニュースについて。

前提として前回の石破は欠席している。前々回は岸田で出席している。日本首相として初めて出席したのも岸田。

専守防衛日本としては、岸田の出席こそ例外に思える。

一方で、NATOとの協力関係を築くことは大切だろう。実際に、NATO極東安全保障に大きな力を発揮したからだ。

というのは、石破政権時代2024年12月NATOロシア製原子炉を積んだ北朝鮮行きの船を撃沈したとされているのだ。

https://news.yahoo.co.jp/articles/3ccb13b169fe8bd34bd55cf35456f60f3503371e

アメリカ要請を受けてNATOが実行したとされる。

ちなみに北朝鮮SLBMの発射実験には成功していると考えられていて、あとは原潜さえあればという状況。

中国の原潜+SLBMで騒いでいるけれど、北朝鮮も手にする寸前のところにあるが、NATOによりそれを阻止された。

先の米中首脳会談では北朝鮮の非核化について話したと発表したり、意外と今のアメリカトランプ)は北朝鮮に対して厳しい。

また、NATO対立していると言われながらも、ウクライナから離れた場所ではロシアに加担する国を牽制しているように見える。

トランプが何を考えているのかはともかくとして、北朝鮮からすればなんでNATOちょっかいを出すんだと言いたいだろうし、NATOに船を撃沈された直後に日本NATO首脳会議に出席したら腹を立ててロシアに兵を送り続けたかもしれない。

そんなわけで、NATO首脳会議への出席を控えているんじゃないかと考えている。

北朝鮮のケツ持ちは長らくロシア中国ではない。2024年当時、中朝関係建国以来最悪といっていいくらい疎遠だったが、去年から習近平の気を引こうとしている)

anond:20260705122406

実験開始 三菱UFJフィナンシャルG (8306)

2025/07/06 

始値

3,314.0 (09:00) 

鳥人間コンテストなんて、もうやめない?😟

ライフサイエンスバイオテクノロジー悪用して、人間と鳥を融合した実験体を繰り返しても、

噂によると、子孫が作れない、生殖能力を失っているのではないか、と言われているが、

その通りで、街中に鳥人間の親子がいるかというと、確かに歩いていない…😟



我々人類は神の領域を侵そうとしているのではないか?その神罰がいつか下るのではないだろうか…😟

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