<連載> 僕はパーキンソン病 恵村順一郎

「新聞なき政府」を選ばぬために 新聞少年たちが届け続けてくれた朝を忘れない

【エッセイ編・病中閑あり】その24 新聞

2025.03.24

 年明けのインフルエンザを皮切りに、2月に入って軽いギックリ腰、さらに自宅で転倒して左の脇腹をしたたか打ち、3月には胃腸炎、加えて花粉症の季節到来――と、超低空飛行の日々が続く。

 こんな時ではあるが、今回は我が古巣を取り上げたい。新聞について、である。

 僕の住むマンションに朝日新聞朝刊が配達されるのは午前2時半~3時ごろ。パーキンソン病で眠りの浅い僕は、郵便受けに朝刊が差し込まれる音で目覚め、取り込んだ新聞にしばしベッドで目を通す。

 現役の記者だった頃は3~5紙を取っていた。特ダネを抜かれていないか、届いたばかりのライバル紙の見出しに目を走らせた。退職から間もなく4年。抜かれる心配などない今も、行動は変わらない。そんな自分にあきれる。

 かつてどの家庭でも新聞をとり、電車やバスの通勤客のほぼ全員が新聞を開いていた時代があった。

 丸山薫(1899~1974)に「朝」という詩がある。

〈お父さんが新聞をひらくと/新聞紙いつぱいに/ぱつと朝日が射した
朝日の中で/刷りたての活字の匂いがする/活字の匂いはいいな/ぼくにはよく言えないが/ジヤムのような/パンのような/食べたくなる匂いだ〉

 

 この詩が収められた詩集が発刊されたのは、敗戦3年目の1948年。朝日新聞は新制高校や男女共学を大きく報じ、「天声人語」は女性のパーマと男性のリーゼントを取り上げた。この年、朝日新聞の発行部数は351万部。62年に411万部、66年には509万部と猛スピードで上り坂を駆けあがった。

 いま、その坂を逆に駆け降りるかの新聞業界にとって、夢のような「古き良き時代」である。往時をしのばせるモニュメントがあると聞き、東京・南麻布の有栖川宮記念公園に妻と出かけた。

 地下鉄広尾駅から急な坂を登り詰めた高台にモニュメント――「新聞少年の像」はあった。

 

新聞少年の像=有栖川宮記念公園

新聞少年の像=東京・南麻布の有栖川宮記念公園

 

 この銅像は1958年、「新聞を配る少年保護育成の会」が建てた。同様の像は岡山や京都、広島、神戸にもつくられた。台座の背面に「この像を建てたわけ」と記されたプレートが掲げてある。

〈毎朝毎晩、私たちの待つている新聞を届けてくれるのは、多くの配達少年です。/雨にも、風にも、負けないで元気に働く少年たちです(略)この像は、少年たちには、仕事への誇りと責任を、/大人には、働く少年たちへもつと愛の想いをと、/呼びかけているのです〉

 

像の背面に掲げられた「この像を建てたわけ」

像の背面に掲げられた「この像を建てたわけ」

 

 新聞少年。それは先の大戦末期、戦場や軍需工場に動員された大人に代わって、新聞配達を担った未成年者を指す。敗戦後も、新聞配達の主力は彼ら・彼女らであった。

 作家の山本一力さん(1948~)も14歳から約4年間、その一人だった。ふるさと高知から先に上京していた母と妹を追い、東京・富ケ谷の読売新聞販売店に住み込んで朝夕刊を走って配った。450部ほどを配り終えるのに2時間かかった。

 2002年、江戸下町の豆腐屋が舞台の人情時代小説『あかね空』で直木賞を受けた。当時のインタビューで次のように語っている。「あの住み込み新聞配達の4年間が私の生き方を決定づけた。性根を鍛えてくれ、人情とは何かを教えてくれた」

 新聞配達は天気や体調が悪くても休みにくい、過酷な仕事だ。それでも希望者は引きも切らず、新聞販売店は新聞少年の労働力を頼みに部数拡張を競った。1963年の調査で、12歳以上18歳未満の新聞少年は全国23万5千人に及んだ。

 この年、NHKテレビ「たのしいうた」で、阪田寛夫(1925~2005)作詞の「朝いちばん早いのは」が人気を博す。

〈あさ いちばんはやいのは/パンやのおじさん〉でスタート。とうふやさん、ぎゅうにゅうやさんのあと、〈まだまだ はやいのは/しんぶんの はいたつ/キューキュキュキュと しごいては/はい ちょうかん おはよ/キュッキュキュキュ キュッキュキュキュ〉

 

 一度だけ、僕も新聞を配達したことがある。1984年4月、朝日新聞社の入社研修で、都内の販売店にお邪魔して自転車で朝刊を配った。青森出身という女性の専門学校生が、指導役を務めてくれた。

 忘れられない情景がある。配達後、彼女が自動販売機で熱い缶コーヒーを買い、僕にくれたのだ。僕が戸惑っているように見えたのか、彼女はこう話してくれた。「私も初めての配達の後、先輩にコーヒーをもらったのが、すごくうれしかったから」

 読者と新聞をつなぐ――その大事な接点を務めた新聞少年たちの多くは、配達をやめた後も「良き新聞ファン」であり続けてくれた。だが1950年代末を境に、新聞少年の応募数は減りはじめる。時代の流れであろう。

〈新聞のように折り畳まれて朝がきた/あくびして朝をひろげ/今日なにが起きるか みる/友よ/あなたの朝は あたらしいか〉

 

 工藤直子さん(1935~)の詩「朝」は、1974年出版の詩集に収められている。

 74年と言えば、NHKテレビが磯村尚徳(1929~2023)をキャスターに「ニュースセンター9時」の放送を開始した年である。「あたらしいもの」を報じる力=速報力を誇ってきた新聞は、テレビにその座を奪われる。そしていま、「あたらしいもの」は、インターネットで個人個人の端末に瞬時に届く。

 

米国の「新聞少年の像」=2008年、アリゾナ州フェニックス

米国では9月4日が「新聞配達員の日」。ペーパーボーイの愛称で親しまれ、像が各地にある。ちなみに日本では10月15日からの新聞週間中の日曜日が「新聞配達の日・新聞少年の日」=2008年、米国アリゾナ州フェニックス

 

〈新聞なき政府と政府なき新聞を選ばなければならないとしたら、躊躇せずに後者を選ぶ〉

 第3代大統領、トーマス・ジェファーソンの言葉が残る米国でも、新聞は危機に立たされて久しい。

 リーマン・ショック前夜の2008年、僕は日本新聞協会の日米記者交換に参加し、米国各地の新聞社を訪ねて回った。驚かされたのは「ニュース砂漠」の広がりである。デジタル化とネット広告の浸透で、多くの新聞社が経営難に陥っていた。

 人員とコストを削減し、人材不足を招き、紙面の質を低下させ、休廃刊や吸収合併で地域の新聞を失ったエリアが広がっていた。そうしたエリアでは、自治体選挙の投票率が下がり、候補者数が減り、現職有利の傾向が顕著にみられた。監視の目を失った行政や議会が緊張感を失い、公務員が自身の給与をお手盛りで増やすといった不正や怠慢、放漫財政を招いていた。

 それでも、ペンタゴンペーパー報道、ウォーターゲート事件報道の伝統を誇る米国の新聞はしぶとい。

 僕が希望を見るのは、朝日新聞の真鍋弘樹記者による小川明子・立命館大教授(メディア研究)のインタビュー(3月14日朝刊オピニオン面)だ。米国では2010年代以降、規模は小さくとも質の高い公益ニュースを伝え、調査報道を行う非営利メディアが増えた。大学が学生に呼びかけ、メディアを立ち上げるケースもある。英国などでは、財団の資金援助やクラウドファンディングに加え、個人の寄付を募集するメディアもあるという。

 

 さて、日本である。「紙」の新聞は今後も生き延びられるだろうか。

 新聞の衰退は痛々しいほどだ。総発行部数は1997年の5376万部をピークに減り続け、2024年は2661万部。情報通信白書によると、2020年の平日の平均の新聞閲読時間は8.5分だが、インターネットの利用は約20倍の168.4分。電通によれば2023年のネット広告費は、前年比7.8%増の3兆3330億円で過去最高を更新。一方、新聞広告費は3512億円。前年比5%減だった。

 2024年度の新聞通信調査会の世論調査の結果は、僕には衝撃だった。新聞、NHKテレビ、民放テレビ、インターネットの印象を問う調査で、新聞が1位になった項目がひとつもなかったのだ。

 「情報が信頼できる」「社会的影響力がある」はNHK、「情報が面白い・楽しい」「情報がわかりやすい」は民放、「情報源として欠かせない」「情報の量が多い」「情報が役に立つ」「手軽に見聞きできる」はネットが1位。新聞がネットより上位だったのは唯一、「情報が信頼できる」だった。人々の新聞に向ける目は、こんなにも冷ややかなのか。暗澹(あんたん)たる思いにとらわれる。

 

 それでも、ネットさえあれば十分かと問われれば「否」というしかない。

 正月早々、米メタ(旧フェイスブック)から驚愕の発表が飛び出した。第三者が投稿内容の事実関係を確認する「ファクトチェック」を米国で廃止するという。米国の話ではあるが、ひとごとではない。権力に弱い巨大プラットフォームの限界が見えてくる。

 再び日本に目を戻す。前述の真鍋記者のインタビューでは、住民視点の小規模なウェブメディア、「ハイパーローカルメディア」が日本各地で広がっていることが紹介されていた。歓迎すべき動きだと思う。大事なことは、紙かウェブか形はどうあれ、権力を監視し、真実を発掘・公表し、誰もが意見を述べられる権利を守ること。僕たちの生活と民主主義を守るメディアの機能を維持することである。

 新聞には人材とノウハウの蓄積がある。「ハイパーローカルメディア」には地元密着の強みがある。互いの長所を出し合う協力もあっていい。

 

 「紙」の新聞を愛する者のひとりとして、ささやかだが、ひとつのことを僕は誓う。これからも新聞を購読し続ける、と。

 日本から新聞が消え去るか、僕自身が消え去るか。いずれかの時まで。

文・写真 恵村順一郎

◆今後も随時掲載します。次回は、4月21日(月)公開を予定しています。

 

「新聞少年の像」と僕=東京・南麻生の有栖川宮記念公園、家族撮影

「新聞少年の像」と筆者=有栖川宮記念公園、家族撮影

 

 

連載「僕はパーキンソン病 恵村順一郎」が本になりました

  • 左がきかない「左翼記者」
  • 恵村順一郎 (著)
    出版社: 小学館

     現役の朝日新聞記者だった筆者がパーキンソン病と診断されて以来、家族とともにどう病気と向き合ってきたかに加え、あらためて考えた朝日新聞の存在意義、この先のジャーナリズムのあり方などについても論考しています。

    〈恵村順一郎さんからのメッセージ〉
     病を得るのはつらいものです。でも、病気になったがゆえに見える景色もあるはずです。
     この本には、現役の新聞記者だった僕がパーキンソン病になって感じたこと、考えたことを率直につづりました。
     まず知っていただきたいのは、いま世界で患者数が急増中のパーキンソン病とは何か。加えて、僕が37年間、さまざまな形で体験してきたメディアとジャーナリズムの課題にも考察を広げています。ぜひ手に取ってご一読ください。

 パーキンソン病は、脳の神経細胞が減少する病気です。ふるえや動作緩慢、筋肉のこわばりといった症状があり、便秘や不眠、うつなどがみられることもあります。連載では、ジャーナリスト恵村順一郎さんが、自らの病と向き合いながら、日々のくらしをつづります。

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  • 恵村順一郎
  • 恵村 順一郎(えむら・じゅんいちろう)

    ジャーナリスト 元朝日新聞論説副主幹

    1961年、大阪府生まれ。1984年、朝日新聞社入社。政治部次長、テレビ朝日「報道ステーション」コメンテーターなどを経て、2018年から2021年まで夕刊1面コラム「素粒子」を担当。2016年8月、パーキンソン病と診断される。

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