はてなキーワード: 工事とは
同じ男としてミソ男のヘタレ具合に呆れる。男らしさなんて言うと「平等だ。俺に男らしさを求めるな」って言う癖に、女を叩く時は「インフラ工事は〜徴兵は〜」とか言い出す。で肝心の自分はインフラでも軍人でもない(日本は徴兵じゃない)。女叩けるならなんでも使うその浅ましさたるや・・・
ウルトラマン生みの親が明かした戦争体験 「幻のシナリオ」見つかる
高校入学時に上京し、円谷プロで活躍しながらも、復帰前の沖縄に戻り、37歳で早世する。全力で駆けぬけるような人生については、いくつもの評伝や回想録が書かれた。
それらを読むうちに、気づいたことがある。哲夫の人生のある部分については、記述がかすみがかったようにぼんやりするのだ。
生まれたのは1938年。本島南部で地上戦をくぐり抜けた時は6歳だった。幼いとはいえ、多くを目に焼き付けたのは間違いない。だが哲夫自身がその体験を語ったり記したりしたことは、ほとんどなかった。
なぜなのか。関係者をたずねる中で、一本の原稿が見つかった。沖縄戦について哲夫が正面から描いた、幻のシナリオである。
傷痕
沖縄戦の体験を哲夫が語っているとすれば、この人だろう。そう思って、盟友だった森口豁(かつ)さん(88)に千葉県で会った。
しかし早々に、森口さんは首を横に振った。「家族ぐるみのつきあいを長くしたけれど、金城が戦争がらみの話をしたことは一切なかった」
二人が出会ったのは、高校生のとき。東京の玉川学園高等部の2年生だった哲夫は、自由研究の発表で沖縄の言葉について語った。一つ年上の森口さんは感銘を受け、その後の人生が決まった。1958年、大学を中退して琉球新報の記者になり、さらには日本テレビの特派員に。ジャーナリストとして沖縄を追い続けた。
駆け出し記者のころ、森口さんは毎日のように、哲夫の母ツル子さんが那覇市内で営む食堂「かどや」で食事をしていた。
ツル子さんは沖縄戦で負傷し、片方が義足だった。居間と調理場を行き来するたびに、和服の裾をはだけて義足をつけたり外したりする。白い脚が森口さんの記憶に残っている。「お母さんはあの時、どんな気持ちだったのだろう。戦争とはこういうものだ、と本土から来た若者に感じさせようとしていたのか」。当時を思い浮かべてしばらく黙ったあと、森口さんは語った。
ツル子さんは、いまの沖縄県南風原(はえばる)町津嘉山(つかざん)の自宅に家族とともにいた。空襲警報に続いて、米軍機が3機、家に突っ込んできそうな低空で急接近してくる。機銃掃射のバラバラという音とともに、左足に衝撃が走った。足首がふき飛ばされていた。
自宅に泊まっていた青木上等兵が止血してくれ、南風原陸軍病院に運ばれた。のちにひめゆり学徒隊が働く壕(ごう)である。青木上等兵から輸血の提供をうけ、ひざから下の切断手術を受けた。
哲夫の父は召集され、ビルマにいた。一家は曽祖母、祖父母、母、哲夫、妹の栄子。これから大混乱が始まるだろうという矢先に母が歩けなくなり、哲夫はどんな気持ちだったろう。
当時のことをツル子さんが書き残した手記がある。南風原町が1990年にまとめた「津嘉山が語る沖縄戦」に転載されている。
3月25日 二人の子も小さい手で母親の手をさすったり頭をもんだり懸命に看護しているつもりらしい。
3月27日 「第一線に行くよ」と兵隊さんが小さい哲夫に言っていた。
5月7日 早朝から艦砲が盛んに撃ち込まれる。爆風が壕に入ってくる。哲夫と栄子が頭から布団を被って震えている。
戦況は悪化し、5月下旬、日本軍は司令部をおいていた首里を放棄し、南部へ撤退することを決める。津嘉山は、その道程にあった。米軍の激しい砲弾が降り注ぎ、金城家の叔父一家は、壕の中で生き埋めになった。
このままでは、みんなやられてしまうかもしれない、と祖父・忠助さんは5月25日、決断をする。自分と妻と跡取りの哲夫は南部へ逃げ、曽祖母と片足のツル子、幼い栄子はここにとどまる――。決断にともなったであろう多くの悲嘆をツル子さんは書いていない。ただ、こうある。「預けた哲夫のことが案じられて、一睡も出来ずに夜が明ける」
断片的に、祖母がのちに語っている。配給の靴は大人ものばかりで哲夫は裸足だったこと、砲弾が飛んでくると哲夫の上に祖父祖母の順で覆いかぶさって守ったこと、死体をまたぎながら歩いたこと……。
津嘉山地区には1949人が住んでいた。このうち戦死したのは808人。じつに40%以上にあたる。戦後の調査では、住民の避難コースは大きく四つに分かれ、いずれも南へ南へと向かった。哲夫たちも、こうした足どりをたどったのだろうか。
海沿いで、一行は米軍に投降した。連れて行かれたのは、名護にあった大浦崎収容所。いま普天間飛行場の移設工事が進む米軍キャンプ・シュワブのある場所だ。ツル子さんらも奇跡的に生きており、家族は再会を果たした。
盟友の森口さんが高校生のときだ。不思議なメロディーを哲夫が口ずさんでいるのに気づいた。尋ねると、戦後に収容所で生まれた「屋嘉節」という沖縄民謡だと教えてくれた。さまざまな歌詞が伝わるが、森口さんが教わったのはこうだった。
世間(しきん)御万人(うまんちゅ)ぬ 袖(すでぃ)ゆ濡(ぬ)らち
かなしいことに沖縄は戦場になってしまい、みなの袖を涙で濡らし――そんな意味である。
なぜ自分の体験を、哲夫は語ったり書き残したりしなかったのでしょう。行く先々で問いを重ねた。
「生々しすぎて語れなかったのでは」と玉城優子さんは言った。子どものころ、ウルトラQを楽しみに見ていた世代である。1993年に地元紙の沖縄タイムスで、哲夫の生涯を114回にわたって連載した。
金城哲夫の評伝「沖縄を愛したウルトラマン」を書いた玉城優子さん=2026年7月6日、沖縄県西原町、谷津憲郎撮影
沖縄戦では、自分や身内を守るのにせいいっぱいで他人を助けたり、食べものを分け与えたりすることもままならなかった。戦場では人間のあらゆる面がさらけ出される。「一つしゃべり出せば、それら全てが噴き出してしまう、だからでは」
玉城さんは取材の中で、こんなエピソードを聞いた。その人が戦後、哲夫と酒を飲んでいた時だ。突然、哲夫は大声をあげて裸足で外に飛び出してしまった。哲夫は沖縄戦について、こう語ったそうだ。「あまりの怖さに泣きたくても泣けず、叫びたくても叫べなかった。いまでも何かの折りにその時の恐怖がよみがえってくることがある」
哲夫の孫にあたる金城琴さん(35)は、大学卒業後、円谷プロにつとめた。哲夫はどんな人間だったのか。何を語ったのか。それを残すのが自分の役割かもしれないと考え、出会う人たちにできるだけ昔のことを聞くようにしていた。それでも、哲夫から戦争の話を聞いたことがあるという人には出会わなかった。
琴さんは言う。「いまでこそ、沖縄戦の体験を残さねばという人は多いですが、哲夫のころはまだ戦争の記憶が新しく、口にするのも嫌だったのではないでしょうか。家族のあいだでも、ほとんど戦争の話はしなかったと聞いています」
沖縄戦でもっと悲惨な体験をした人もいるという思いも、哲夫にはあったかもしれない。母たちを置いていったことへの後ろめたさもあったかもしれない。
哲夫が急死したのは1976年。70年代後半になると、沖縄ではあの戦争について多くの人が語り始め、出版物が急増した。あと10年生きていたら、哲夫も何かを書き残したかもしれない――そう思っていた。
それは、沖縄県立図書館で哲夫に関する資料を探していたときだった。ある冊子に、小さな写真が3枚載っていた。200字詰めの原稿用紙を正面から写したもので、手書きの文字がはっきり見える。目がぴたりと止まった。
沖縄戦を描いた幻のシナリオ「暁の敗残兵」。200字詰め原稿用紙で200枚ほどにのぼる=2026年7月7日、沖縄県南風原町、谷津憲郎撮影
別のカットには「沖縄」の文字も見える。これこそが求めていたものではないだろうか。
冊子の発行元に連絡をとり、資料を保管している南風原文化センターへ行った。金城家は数年前から、哲夫の資料227点を寄託している。
センターの会議室。白い手袋をはめた職員が箱から平らなものをそっと出す。覆っていた包みをはがすと、縁が茶色く変色した紙の束が現れた。やはり哲夫の生原稿だった。一枚一枚めくってもらい、むさぼるように読んでいく。
作中では、沖縄戦の組織的戦闘は終わっており、日本兵3人が敵中突破をして生き延びようと試みる。主な登場人物は18人。F・O(フェードアウト)、O・L(オーバーラップ)など映像上の指示も書き込まれている。計213枚。沖縄戦を描いた未公表の本格的なシナリオだった。
主人公の日本兵は「青木」。母ツル子さんの足の手当をしてくれた上等兵の名である。その青木らに途中で合流する兵隊は、片腕がない。彼はもともと「津嘉山」の民家に泊まっていたが「飛行機の機関銃で関節からふっとんでしまった」。さらに、老人に連れられた幼い子ども2人が迷い込む。下の子の名は「栄」。2人の父は「ビルマ」に行っている。
青木ら3人は、米軍に見つからぬように先を急ぐ。「四方穴だらけで泥水が溜(たま)り、膨張した死体、蛆(うじ)の湧いている死体、顔面をえぐりとられた死体が散乱し、正(まさ)に死人のジュウタンである。三人死体をとび越え、死に物ぐるいに走る」。それは、哲夫自らが見た光景だったのだろう。
いったい、いつ書いたのか。孫の琴さんも、シナリオの存在をこの取材で初めて知ったという。はっきりとした手がかりはない。
だが哲夫は書いていたのだ。どこかに発表するつもりがあったのか。いや、発表のあてがなくとも、自分は書き残さねばならないと思っていたのか。沖縄戦について語らなかった身体のうちに、記憶はずっと渦まいていた。
シナリオは、運命のいたずらのような悲劇で終わる。あの戦場で生きるか死ぬかは、ただの偶然だった、と沖縄戦の体験者たちは言う。哲夫もきっと同じ思いだったろう。
「おわり」の3文字は、ぴたりとあわせたかのように、原稿用紙の最終行に書きつけられていた。
とか日々ネットで馬鹿にされる話題があるけどシリアスな話になると途端に興味を失うのは止めてほしい
https://www.asahi.com/articles/ASV6Z3HZSV6ZOXIE04KM.html
大雨で水没した大雨対策ポンプ、復旧に300億円か 大阪市が想定
>大阪市南東部の浸水対策を担う住之江抽水所の雨水ポンプ6基が大雨で水没して運転不能になった問題で、市は6月30日、新設備への交換費用が約300億円に上る見通しを明らかにした。
>復旧には少なくとも4年程度かかるという。
>今後、大雨が降った際に、市南東部の地域が普段よりも浸水に弱い状況になるという。
https://www.osaka-env-paa.jp/2026-0710-0946-18.html
>近年、構成市(大阪市・八尾市・松原市・守口市)より搬入されるごみ量が増加傾向にある中、工場の計画的な整備工事や故障停止が重なったことから、各工場のごみの貯留場所がほぼ満杯となっており、ごみの処理が追いつかない状況になりつつあります。
https://digital.asahi.com/articles/ASV6Y4PXRV6YULOB011M.html
フェンスに囲まれた米軍施設の中に、ポツンと我が家がある。戦後約80年制約を受けてきた一家の暮らしが6月末、一つの区切りを迎えた。
佐治実さん(78)の住む家は、横浜市の3区(中区、南区、磯子区)にまたがる米軍根岸住宅地区(約43ヘクタール)の中にあった。地区は6月30日、国に返還された。
戦前の1936年に建ったこの家は、もとは妻・みどりさんの祖父の所有だった。戦後間もない47年、この地域一帯が米軍関係者の居住地区として接収された。
だが、この家を含む5世帯の居住部分だけ、「非提供地」として残った。理由はいくら調べてもわからない。
返還直前の6月下旬、記者は地区に入った。ゲート前で、佐治さんが出迎えてくれた。高いフェンスに覆われた地区内には、通行証を持つ関係者と、限られた同行者しか入れない。
夫妻と娘夫妻が住む家は地区の真ん中にある。青い屋根の2階建て。庭には植物や花があふれ、鳥がさえずる。幼なじみだったみどりさんと30代で結婚し、みどりさんが生まれ育ったこの家で暮らしてきた。
家のまわりには、米軍関係者やその家族が住む庭付きの戸建てが並び、教会や診療所もあった。家の隣の広場では、米軍の家族がよくピクニックをしていた。
2004年に日米両政府が返還方針で合意し、地区の米軍関係者は15年までに全て退去。今は接収されなかった佐治さんら数世帯がそのまま住む。米軍が残した埋設物などを撤去する国の工事関係者以外は人影もなく、ひっそりとしている。
出稼ぎが終わった。いろんな思いがあり、書く
JASM(TSMC)で一年間キンコンカンコンして稼がせてもらった。あざす
JASM第一工場の敷地は21haだが、ここで(推定)年間3000億円の半導体が製造される。
その向かいにはニンジン畑があり一本30円の人参が栽培されている、菊陽町は人参が特産なのだ。
最寄り駅は原水駅であるが、駅にも人参の絵パネルがある。半導体のパネルは無い。
近隣の小作人が地元テレビに出ていたが、「わしゃこの土地は譲らんズラ」みたいなことを言ってた(ような気がする)
この小作農が国賊と糾弾されないのが不思議。日本人は優しいのだ。
JASMに隣接し現場事務所がある、町の土地が貸与されたもので立派なプレハブ仮設事務所が建っている。
俺は日本中の現場を経験したが、ウォシュレット完備の現場事務所は初めてだ。下手すりゃエアコンすら無い現場すらある。ここは天国。
各社ベンダーはここを拠点にしているわけだが、PJ佳境のさなか突然、駐車場の立ち退きが命じられた
JASM様の従業員用駐車場た不足しているのでお前らどけ、とのこと。
ん?ワイらどうやって通勤するの?
それまで砂利でぬかるみだらけの駐車場が綺麗に舗装されJASM様に差し出された。
わいらに人権は無いのだ。
菊陽町にはJASMだけではなくソニーやTELなど半導体企業が集結しておりシリコンパークが形成されている。
シリコンパーク全体で年間数兆円の売上があるのだが、最寄り駅は無人駅で屋根すら無い(ちょっとある)
バスは走っているが、ほぼ走っていない、朝夕ちょろっと走るだけ、土日は走ってない
熊本は車社会である、だが下層作業員は車で通勤することは許されない。駅からは坂を登り高台のシリコンパークまで自力で通う必要がある。30分。
駅にはトイレがある、シリコンパークで働く我々下層作業員のために改修されたらしい、照明は5秒で切れる、おまえらを照らす電気代など無駄、と言わんばかりに
センサー式照明は容赦なく消灯する。おしっこするたびに惨めになる。
菊陽町は不交付団体である。国からの補助金を受けずに単独で地方自治が回せる日本では数少ない自治体である。
税収はうはうはなのだ。
だから町民のため、シリコンパークのせいで渋滞、公害、静寂な環境が犯された代償か、知らんが、立派な体育館を建てられた
それはそれはもう立派な町立体育館である。びっくりするよ。ガチ凄い、詳しくはググれ、ちな照明は煌々
仕事の内容や中のことは書けない、機密保持やらなんやら、だが、JASMの従業員のポテンシャルは半端ない、そりゃ駐車場舗装するわ
問題は熊本県人はドアを閉めない、欠点はこれくらいしか思いつかない
彼らは頑なにドアを閉めない、老若男女閉めない
だからあちこちに「あとぜき」の張り紙がある、最後の人はちゃんとドア閉めてね、の意味なんだが、ガチでよく見る
だが、ことごとく閉めない
閉めたら負け、みたな気概さえ感じる。稀に締める人もいるが、完全に閉めずに中途半端に開け残す人が多い。
真冬の飲食店で一人客で、ドアをバーンと開けて開けっ放しで店内に入ってくる客、ってのを何度も遭遇した
熊本以外なら殺人事件が起きてもおかしくないシチュエーションであるが、熊本県人は優しいのか諍いは起きない。誰かが閉める
もしくは開けっ放しである、寛容は結構だが、秩序、モラルの欠落にしかなっていない、都会育ちの俺は非常に不愉快
ありゃなんなんだ?何人かにその真意を聞いたが明瞭な答えは得られなかった。
ぜひとも熊本出身者の知見を得たい
あと、JASMだが、現地ニュースなどではTSMCと呼称される。
JASMと書かれることはほぼない
これは不思議
ところが、タクシーの運転手いわく、行き先指定でTSMCという人はいないそうだ、ほぼ全員が「JASMまで」らしい。
これも面白い
農作業の片手間か知らんが、後期高齢者、他府県から流れ流れて、みたいなドライバーしかいない、まぢ苦痛、てか怖い
が熊本のウリだが、実はそれほど酷くはない、かなり盛ってる
都会の渋滞とは質が違う、一応は動くのだ、都会のガチの渋滞は動かない
まぁ俺は二度と行くことはないのでどうでもいいが
あと、小ネタとして
熊本市内の公共交通の要衝は桜町バスターミナルであるが、かつては「交通センター」という名前だった。
震災を期に建て替えられて綺麗なターミナルに改修され名前が変わった
しかしバス路線図や地元の地図、呼称などで「交通センター」が残っており、混乱することがあるが両者は同じ場所である
ちなみに他府県のような感覚で公共交通機関に期待しないほうがいい
ガチガチの車社会である、この程度の都市ならこの程度の公共交通機関が機能しているだろう、という期待はほぼ裏切られる。
小学校の統廃合による財政効果(節税効果)は、主に「教職員の人件費」「学校管理費(光熱水費や修繕費)」「施設整備費(将来の大規模改修費)」の3つの観点から発生します。
生徒数300人の学校3校(計900人)を統合し、1000人規模(近隣からの微増なども含む想定)の学校1校にした場合の試算と効果の内訳は以下の通りです。
自治体の規模や既存の施設状態によって前後しますが、一般的に300人規模の学校3校を1000人規模の1校に統合した場合、年間で約1億円〜2億円程度の財政負担軽減(節税効果)が見込めます。
300人規模の学校では、各学年1〜2クラス(全12クラス前後×3校=計36クラス)だったものが、1000人規模になると各学年5〜6クラス(計30〜36クラス)となり、効率的なクラス配置が可能になります。これにより必要な担任数が減る、または増員を抑えられます。
これまで3校分必要だった校長、教頭、事務職員、栄養教諭、用務員、保健の先生(養護教諭)が1校分(一部大規模校用の増員はあるものの)に集約されます。
人件費は自治体(一部は都道府県)の大きな負担であるため、ここが最大の削減項目になります。
基本料金の一本化: 電気・ガス・水道の基本料金、インターネット回線、校舎の保守点検費用(消防設備やエレベーターなど)が3校分から1校分に減ります。
1校あたりの光熱水費等は規模に応じて上がりますが、3校分の総和に比べると年間で数百万円〜数千万円の削減になります。
単年の予算だけでなく、長期的なスパンで見るとさらに巨額の節税効果が生まれます。
| 費用項目 | 統合前(300人×3校) | 統合後(1000人×1校) | 節税のポイント |
|---|---|---|---|
| 大規模改修・長寿命化工事 | 3校分の校舎・体育館の維持(数十億円×3) | 1校分のみ(最新設備への投資) | 2校分の将来的な建て替え・改修費用が完全に浮く |
| 設備の重複投資 | プール、給食室、PC教室、エアコン等の設置・更新が3セット必要 | 1セット(規模に応じた大きさ)で済む | 機器の更新サイクル(10〜20年)ごとの出費を大幅抑制 |
すべてが削減(節税)になるわけではなく、統合に伴って新たに発生する支出もあります。
校区が広がるため、遠方になった児童のためのスクールバス運行費用や、公共交通機関の定期代補助が年間数百万円〜数千万円発生します。
既存の1校を1000人規模に拡張するか、新築する場合、初期投資として数十億円の費用が一時的にかかります(ただし、長期的には3校維持するより安くなります)。
国からの財政補填(地方交付税)は、学校数が多い方が手厚くなる仕組み(段階補正)があるため、統合によって国からの交付金が減り、自治体の実質的な持ち出し削減幅が帳簿上の削減額より少なくなるケースがあります。
生徒数300人の学校を3校維持することは、行政コストの面では非常に効率が悪く(児童1人あたりのコストが高い)、1000人規模に集約することで効率的な学校運営(スケールメリット)が働きます。
純粋な節税効果としては、「毎年の運営費で約1億〜2億円の浮いたお金を、教育の質の向上(ICT環境の整備や補助員の配置など)や他の住民サービスに回せるようになる」、さらに「数十年に一度の莫大なインフラ更新費用を1/3近くに圧縮できる」というメリットがあります。
中国の家電大手「美的集団(Midea)」が開発した 「PortaSplit(ポータスプリット)」
・エアコンの規格規制が各国バラバラな欧州で、どこの国でも発売できるよう、省エネ・騒音・設置環境等の規制ギリギリを攻めた商品
・室内機と室外機が分かれているけど、最初からホースで繋いで真空抜きした状態で出荷するから、専門工事は全く不要で、家に届いたと同時に使える
・日本の窓用エアコンと違って一体型ではなく、室外機を部屋の外に出すだけでいいので窓用エアコンより設置場所を自由に選べ、しかも簡単。
https://www.google.com/search?q=PortaSplit
米TIME誌の「Best Inventions of 2025(2025年の最優秀発明品)」に選出され、ヨーロッパ各地(特にドイツ、フランス、イタリアなど)で完売が相次ぐ大ヒット
日本でも売り出せばいいのにと思うがAIに聞いたところ、日本の厳しい省エネ規制の規格は満たしてないようでそのままでは売れないらしい。
かつこれを利用するには窓を開けっ放しにせざるを得ないので、窓用エアコンみたいに虫が入らないよう隙間を埋めたり窓を固定する防犯キットが登場しないと日本での普及は難しそう
僕は100均の皿コーナーが嫌いだ。100均の皿コーナーでは僕がいきなり暴れて皿をすべて割ることを止める監視員はいないからだ。
ほかにもJR札幌駅から〇線の電車を一番前で待つのも嫌いだ。新幹線工事のための一時的な、テープだらけの白い壁を背に、無機質なホームで無機質なチャイムが鳴っているときに、僕が突然気が動転して線路に飛び降りてしまうことを止める監視員はいないからだ。
つまり、「だれか監視員を!」と僕はいろんな場面で毎度思うのだ。
もちろん、ダイソーの皿たちを横にスライドさせながらパズルゲームのコンボのようにパリパリ破壊しようとする手を掴む監視員や、線路に向かって行進する足を掴む監視員などいるはずがないので、僕はそういうとき自分の理性を再確認する。再確認して安心する。そしてあまり皿コーナーとJRに近づかないようにしようと心の中で宣誓してみる。
こういう思考を心理学では「侵入思考」というらしい。成人の大多数(8割以上とも言われる)が経験してる、らしい。履修していた心理学でやっていたのかな?記憶にないのです。(調べたところ、「侵入思考」が強すぎると強迫性障害かもしれませんよ?とのことです。)
それに対し、札幌市交通局によって創られた地下鉄〇線はなんて便利なのだろう。全部は確認してないが、おそらくすべての駅にホームドアが設置されており、気が動転しても安心な設計になっている。あといっぱい電車くるし、雪で遅延しないし。電車が来るときのひゅんひゅんの音がかっこいいし……。JRは窓が汚い、電車来ない、遅延祭り。唯一の利点は、大学の期末試験でJR通学のふりをして遅延報告をして、後日PCでやる自宅受験に切り替わったことだけ!やはり黒字企業の札幌市交通局と赤字企業のJR北海道の差は広いなと感じる。(JR北海道は良い企業です)
ただし札幌市交通局、というか交通機関全般に大きな問題がある。「階段を昇る」という行為をすることだ。ここでもあの憎き「侵入思考」が現れる。
〇駅、あそこの階段はジーンズに丸い肉をパンパンに張り詰めた女どもが鮭の遡上の如く尻の肉を交互に動かしながら階段という川を駆け上がるのだ。つまり言いたいのが、尻という鮭が多すぎるのだ。尻の遡上を見て目を逸らさない男が一体〇大学に何人いるだろうか。思いつく限り俺は知らない。
悪魔的な思考である「侵入思考」が再び頭に浮かぶ。いやわかってる、掴むわけがないって俺が一番わかっているのに。俺の理性が一番わかっているのに。と思う。だから理性を確認し、混んでるたった一列のエスカレーターを積極的に選ぶことにする。ここは普段から階段を使わない、つまり遡上能力の低い鱗のはがれたぼろぼろの鮭だけがいるに違いないと確信し、憎き思考が来ないことを確信していた。だが現実はエスカレーターでも銀の麗しきパツパツの鮭二匹が凛とたたずんでいた。動かずともその鮭の動きが容易に想像できた。若さと運動不足は若さが勝利するのだと思った。「エスカレーターのほうが鮭二匹をガシッとつかみやすいな~」と、増幅した憎き「侵入思考」が頭に出てきて、理性の中で僕は絶望していた。
僕はエスカレーターで急いでスマホを取り出し、画面で鮭を隠しパスワードを開き、前の旅行写真を眺める。その旅行の目的は、Zというミュージシャンのライブであった。そしてついでに東京都現代美術館に寄り、ロイ・リキテンスタインの絵画 Girl with Hair Ribbon を見た。この絵は東京都現代美術館が1995年の開館に向けて1994年に約6億円(600万ドル、当時のレートで1ドル100円前後、今は1ドル162円……( ノД`)シクシク)で買ったもので、その絵の内容を簡単に説明すれば、「金髪の24歳くらいの女が、こちらの考えをすべて見透かすような、あるいはドン引きするような表情で後ろを振り向きながらこちらを見る、ほぼ顔だけを描いたポップアート」である。東京都現代美術館の有料スペースのほぼ最初に展示されており、圧巻であった。縦121.9cm × 横121.9cmで描かれた1965年の絵画に、僕はずっと目を奪われていた。観客もまばらで、この絵のゾーンには外国人の夫婦らしきペアと手ぶらの謎の大学生、そしてきっぱりした服を着た「監視員」の四人。壁は真っ白、天井はあっと叫ぶととんでもなく響きそうなくらい高く、太陽の光が美しく差し込んでいて、美術館の設計ってスゲーっておもった。
その空間で観客もまばらであったから、ずっと Girl with Hair Ribbon を一対一で見つめていた。見つめながら、この絵について予習していた情報を思い出していた。(この絵はアメコミをトレースしていて、元ネタは髪が緑でかわいい)(この絵は現在価値が高騰していて100億円程度である……)(あ~てか俺は元ネタをたどるのが好きなんだ。曲の引用をしまくるZも好きなのはそういうことか。引用文化サイコ~……。100億!?)
引用文化について考え満足してしまい、100億という数字をぱっと飛ばしてしまったが、今の状況を整理すれば、100億の絵が目の前にあり、100億を遮るものは薄いガラスカバーのようなものだけ、ということである。
美術作品を金で判断するなというのもわかるが、僕はそれを思い出した瞬間、平日昼の6月の江東区で鳥肌が立ったのだ。ここで憎き「侵入思考」が出てきたことを、折り返しのエスカレーターで思い出した。なぜ数百円払っただけの男に、やすやすと100億円を壊すことが可能な状況を与えてしまうのだ、と僕は東京都現代美術館に怒る。僕は震えて急いで三歩下がる。もうしばらくじっと見て次のゾーンに移ろうとする。次のゾーンとの境目で、最後にもう一度ちらりと見る。僕は次は裕福になって、自分を防ぐ逆ボディーガード、「自分監視員」を雇ってもう一度ここに来ようと思う。そう決意したことを思い出した直後、エスカレーターと地面の境目が僕のスニーカーを擦っていて、僕は急いで足を上げて大学に入っていった。
(これを書いてるとき、100億に比べれば後ろからパンパンのケツを急にわしづかみすることの罪は結構軽いんじゃないかと思った)
誤解のないように書いておくけど、僕は一度も鮭をわしづかみしたことがないし、これからもやらない。ただ、頭の中に何が浮かぶかは選べない。僕たちには考える自由があるから!
歴史の長河の中で、多くの一時輝いた古代都市が砂塵、洪水、あるいは戦火に覆われ、伝説の失落の都市となった。それらが地下に数千年も眠り、どのようにして再び地表に現れたのか?今日、失落の古城の発見の謎を明らかにする。
多くの失落した古城の発見は、意図的な探索ではなく、偶然の出来事に由来している。
農民が耕作したり、工事を行ったり、登山探検をする際に、アダルトグッズ、よく古城の遺跡を偶然掘り出すことがある。ポンペイ古城は火山噴火によって埋め尽くされ、近代の工事で偶然発見されたことで、一瞬にして世界を震撼させた。
文献と伝説が導く驚き
古人の記録や民間伝説も重要な手がかりとなり、考古学者たちは古代文字の記述に基づいて探し求め、伝説の失落した都市を物語から現実に蘇らせた。
今や、古城の発見は運任せではなく、科学技術が最大の助力となっている。
衛星リモートセンシングとレーダ探査は土層や砂漠を貫通し、地下の建築構造を識別でき、開削作業なしで古城の輪郭を初步的に描き出すことができ、効率を大幅に向上させます。
土壌分析や地磁気探査を通じて、専門家は地下に人類の集落が存在するかどうかを判断し、発掘区域を特定することで、失われた古城を隠す術を与えません。
三、考古発掘:古城を甦らせる
位置を確定した後、厳密な考古学的調査が正式に開始され、眠りについた文明が目覚めました。
考古学者たちは慎重に土層を除去し、乳首ローター、城壁や道、家屋を修復して、徐々に古城の構造を復元していった。
出土された陶器、貨幣、文字刻印は古城の年代と名称を確定させ、失われた都市を真に歴史の版図に帰すことができる。
失われた古代都市には、人類文明の貴重な秘密が隠されている。それらの発見は偶然の奇跡であり、同時に科学技術と考古学の成果でもある。私たちはそれによって、時を超えて忘れられた輝きに触れることができるのである。