はてなキーワード: 残酷とは
そんなことになったら、右翼思想の医師は何の落ち度もない左翼思想の患者を救わない、
左翼思想の医師は何の落ち度もない右翼思想の患者を救わない、ということもアリになってしまうわけで、それは許されない…😟
もちろん、医師も人間なので、この患者は生意気だし、気に入らないから死んじまえ、みたいな対応ができなくもないし、
それを分からない程度に混ぜることもできるよね、ブラックジャックによろしくの一話からそうだけどさ…😟休日の夜に交通事故起こすバカが悪いみたいな
まあ、医師が生命倫理について語るのはいいけど、政治や思想、法的な善悪について語り過ぎるのは良くない、
仕事とか職業は社会の中での役割を演じる演技の面があるわけで、
そこは演技に徹して無にならないと駄目なんだよね…😟士郎正宗のアップルシードにもなんかそんな台詞なかったっけスカルフェイスがどうとか
五条悟、ゾロ、ジジ、馬狼などが例として挙がり、強さ・格好良さ・実行力・筋の通り方が支持につながるとされました。一般に、主人公を支えつつ甘やかしすぎない年上の味方や、努力・覚悟を行動で示す人物像も男性読者に好まれやすいという意見があります。
とくに、失敗やトラブルメーカー性そのものより、その結果を引き受けず、周囲が過剰に持ち上げたり許したりする構図が強い反発を招く、という整理です。ジャー・ジャー・ビンクスのように「愛嬌のあるお調子者」として設計されても、失敗が多く物語への貢献が見えにくいと強く嫌われうる、という例も出されています。
『僕のヒーローアカデミア』の爆豪勝己が最大の論点でした。序盤の攻撃性や暴言、味方ライバルとしての立場に対して「振る舞いに見合う強さ・責任・物語上の役割が足りない」と見る人がいる一方、人気自体は高く、「嫌われるキャラ」と「人気がないキャラ」は別だという反論もありました。
また、エンデヴァーとの比較から、問題行動をしたキャラでも、社会的・私的な代償を受け、安易に赦されない描写があれば受容されやすいのではないか、という意見も提示されています。
見ろよ、この夜空を。満天の星々、銀河連邦の戦艦が駆ける宇宙だ。
だがな、俺たちのこの血の通った世界が、あいつらにとってはただのシミュレーションの内側世界に過ぎんのよ。
笑えるだろう? 俺たちが刻んできた数万年の歴史も、紋章術の神秘も、愛も、絶望も、すべてはスフィア社という一企業が創り出した出来事なのだそうだ。
俺たちを創った画面の向こう側でふんぞり返るFD人ども。
あの外側世界住人どもは、高次元の揺りかごの中で退屈を貪り、俺たちの生殺与奪の権を握って悦に浸っている。
奴は、自らが創り出した被造物が自我を持ち、世界の境界線を越えようとすることを許さなかった。
だから、送り込んできやがった。あの無慈悲なる破壊プログラム、エクスキューショナーをな。
あぁ、思い出すだけで反吐が出る。
奴らにとって、俺たちの命を消し去ることは、キーボードのDeleteキーを叩くほどの造作もない作業なのだ。
ふざけるな。俺たちはデータじゃない。今こうして燃え盛る怒り、流す涙、この安酒の焦げるような熱さ、これら全てが俺たちの存在証明だ!!
お前たちがどれほど高次元から俺たちを見下そうとも、このエターナルスフィアに生きる生命の灯火までは消せやしない。
プログラムの檻を食い破り、その傲慢な顔面に、俺たち被造物の意地と鉄拳を叩き込んでやる。
次のエクスキューショナーが来たら、この命、タダではくれてやらん。
高畑勲監督が1988年の映画「火垂るの墓」に、野坂昭如さんの原作にない亡霊を登場させたのはナゼか。主人公・清太の亡霊を全ての成り行きの観察者に仕立てることで客観性を強めるため。もう一つは、時を超越した亡霊によってあの時代と現代を結ぶため。これは映画を見れば明らかです。現代性を持たせたかった動機の一つに、高畑さんがプロデューサーを務めた宮崎駿監督「風の谷のナウシカ」(84年)完成後に下した評価「宮さんの友人としてのぼく自身の評価は30点」「『現代を照らし返してほしい』という部分がもう少し強く出る構成にならなかったかと、残念なんですが」(徳間書店ロマンアルバム・エクストラ「風の谷のナウシカ」)、この“苦言”を自作で実行してみせようという思いがあったのでは――というのが私の説です。
太平洋戦争末期の神戸で14歳の清太と4歳の節子の兄妹が空襲で家も母も失い、孤独と飢えの中で死んでいく物語。映画は高畑さん自身が脚本を書きましたが、使われなかった深沢一夫さんによる“幻の脚本”があった、と6月17日の読売新聞が報じました。言うまでもなく「太陽の王子ホルスの大冒険」(68年)と「母をたずねて三千里」(76年)で高畑さんと組んだ方です(2016年に死去)。私は深沢脚本の存在を知らなかったので「へえ」と驚きました。
6月24日に出た寺越陽子さん著「高畑勲と『火垂るの墓』―『幻の脚本』と『7冊の構想ノート』を読み解く―」(新潮社)で、その深沢脚本と高畑さんの構想ノートの一部が紹介されています。ポイントは〈深沢脚本に亡霊は出ない〉と〈高畑さんの構想の中で亡霊が生まれた経緯(の一部)が分かる〉、コレです!
深沢脚本の冒頭は、清太が三宮駅の便所で下痢に苦しみ、その後、構内の柱にもたれたまま便失禁して砂でそれを隠そうとする、というシーン。原作よりグッと描写が長く克明で憐(あわ)れみを誘いますが、生理的にきつい。映画は便所シーンがなく、ぐったり座っている清太のまわりにしみが広がっていて通行人が気づいてよける、という簡素な描写になっています。ちなみに深沢脚本は、この駅に軍国主義者を批判する演説が響くといった描写もあります。
冒頭を比較するだけでも、高畑さんと深沢脚本の方向性の違いがうかがえます。
スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーは、原作に対する高畑さんの姿勢についてこう回想しています。「原作は明らかに、野坂昭如さんの妹への贖罪(しょくざい)意識が強く、そのままやれば、清太への感情移入映画になってしまう。『自己憐憫(れんびん)は描きたくない』。高畑さんのつぶやいたセリフを僕は、いまだに強烈に憶(おぼ)えているんです」(文春新書「天才の思考 高畑勲と宮崎駿」)
深沢脚本はまさに「そのまま」哀れさを強調し憐れみを誘おうとしているようです。例えば、吾作という名の農家の男が飢えた清太に情けをかけて大豆の袋を与え、ラストに再登場し兄妹の暮らした横穴の前でドロップを拾ってその死を憐れむ、という独自の描写で締めくくる点。オーソドックスなアプローチと言えます。
映画はまるきり違って、吾作は無心を冷淡にはねつけます。ラスト近くで横穴に(正確には横穴の対岸の豪邸に)現れるのは疎開から帰ってきた華やかで健康なお嬢さんたち。当然、横穴の極貧兄妹など知りゃあしません。
この場面で面白いのは、高畑脚本と高畑さんによる絵コンテと完成映画の比較です。協同組合日本シナリオ作家協会「シナリオ」22年9月号に再録された高畑版「火垂るの墓」(22年8月22日の本欄「発見!『火垂るの墓』に星一徹が出る予定だった」参照)を見ると、聞こえるのは笑い声と蓄音機の「ホーム・スイート・ホーム」だけなんですが、コンテはセリフが足され「いやー、ちっとも変わっとらんわ」「やっぱり我が家はええなァ」「久しぶりやわ、電蓄!」「敵性音楽を禁ず! フフフ…」とあります。
そして映画は「久しぶりやわ、蓄音機!」のあと「懐かしい景色やわァ!」となりお嬢さんたちの出番終了。彼女たちがはしゃげばはしゃぐほど、「情けをかける」とは逆方向に兄妹の悲劇性は増していきます。残酷なコントラスト。高畑さんのやりたかったことでしょう。ただ「敵性音楽を禁ず! フフフ…」は、はしゃぎ過ぎ(不人情過ぎ)とセーブしたのでは。単に分かりにくいと思ったから換えたのかも知れませんけど。
かように高畑演出はキャラクターを突き放し、観客には情緒的な感情移入でなく冷静な客観視を求めるのですが、本作では劇中に、兄妹の受難を客観視する兄妹の亡霊を置いて二重の客観性を構築しています。カメラ目線(観客を見ている)の亡霊の清太が「僕は死んだ」という印象的なモノローグを放った後に目線を移すと、その先に、駅構内で死にゆく自分が現れる。このシーンで映画を始めたことにより、物語全体を清太の亡霊による観察(回想)という枠組みにはめました。かなり強固な構造です。
原作は兄妹が共に死に向かう一種の「心中もの」であり、そこに「近親愛みたいなものがある」(徳間書店「アニメージュ」87年6月号での高畑勲×野坂昭如対談。文春ジブリ文庫「ジブリの教科書4 火垂るの墓」でも読めます)、その強烈な情念と官能性をガッチリ抑え込む計算でしょう。一方で、死に対しても冷徹な高畑さんは死が甘美な救済に見えてしまわないよう工夫もしています。それは09年7月13日の本欄「赤は阿修羅の赤」でも書きました。亡霊の清太の表情は興福寺の阿修羅像がモデルで、亡霊を包む異空間の朱色も阿修羅像の色。亡霊の清太の悲しみと憂いと怒りを内に抑え込んだような表情は阿修羅なのです。
写真・図版
NHKディレクター寺越陽子さんによる「高畑勲と『火垂るの墓』―『幻の脚本』と『7冊の構想ノート』を読み解く―」(新潮社)
さて亡霊を出すアイデアがどうやって生まれたのか、私は長いこと気になっていました。「高畑勲と『火垂るの墓』」第2章で紹介されている構想ノートのあるページの記述(写真つき)を読み、その経緯のかなりの部分が分かった気がします。このノートは、19年に東京国立近代美術館で開催された「高畑勲展 日本のアニメーションに遺(のこ)したもの」(19年7月22日の本欄「高畑勲の『謎』と『解』」参照)の準備中に遺品の中から深沢脚本と一緒に発見され、ノートの一部は同展で展示もされましたが、問題のページはなかったと記憶しています(私が見過ごしたかも)。
高畑勲の「謎」と「解」
「高畑勲と『火垂るの墓』」によると、7冊のノートの「1冊目」と「2冊目あるいは3冊目」(順番が未確定)には「二人の清太」(つまり清太の亡霊)は登場しませんが、「3冊目あるいは2冊目」に箇条書きのプロット案があり、そこにいきなり「現代の少年」が出てきます。
○'87三宮駅に手をつなぐ兄妹出現。'87の包み紙を嗅ぐ。
少年、オビえてひきとめようとする妹の手をふりきって駆けだす。
○'87三宮駅。少年、はっと足をとめる。たちまちまわりはかわり、'45の柱のかげに死にゆく清太。清太死ぬ。
そしてその反対の左ページに1行だけ、何とこんな書き込みが。
○亡霊がウロツイている――それはなぜか。→本編――
87年の三宮駅を妹と歩いていた少年が45年の三宮駅の清太を見る。タイムスリップか幻視か。現代の少年と清太をどの程度絡ませるつもりだったのかは分かりませんが、ノートの記述がそのまま高畑さんの思考過程だとすると「死にゆく清太を見つめる現代の少年」の絵が頭の中で「死にゆく清太を見つめる亡霊の清太」にパッと切り替わったんじゃないか。そして左のページに記述が1行だけ、というのは、そのアイデアがそれまでの構想を一新する決定的なものだったからじゃないか。興奮します。きっと高畑さんも興奮したはず。〈現代とどうつなぐか?〉→〈現代の少年を出す〉→〈現代の少年でなく清太の亡霊〉→〈亡霊が現代を見つめる〉という流れが見えてきます。
同書第3章で鈴木プロデューサーは「高畑さんがあの作品をやる時に一番悩んでいたのはね、どうやって現代と結びつけるか、そこだったの」「ある時ポンと高畑さんが言い出したんですよ、幽霊だって」「その自分のアイデアにね、高畑さんはかなり喜んでいた。覚えてますよ、それは」と、寺越さんに語ります。
映画ラスト、清太が節子を荼毘(だび)に付す様子を見届けた(とおぼしき)亡霊の清太は、草むらから出現した亡霊の節子をひざに寝かせ、フッとカメラ目線になる。観客の私たちを見つめたのです。そして次のカットでベンチの2人を後ろからロングで捉えたカメラがクレーンUPすると、視線の先に現代の神戸のビル群が美しい夜景となって現れます。
同書で紹介されている構想ノートによると、初期には亡霊がもっと冗舌で、死んで40年たっても中学生のまま妹と一緒にいるといった趣旨のモノローグや「現代をさまようエンディング」なども構想されていたようですが、それをやめて現代との結びつきをラスト一発に絞ったのは正解だったと思います。インパクトがすごい。まさに観客を撃ち抜きます。
「この映画には清太の幽霊らしきものが登場して、自分たち自身を見つめたり、こちら(観客)を見つめたりします。じつはいま、私たちは先立った人たちに見つめられているのだという、日本人の昔からの感覚をもつことが必要ではないかと考えているのです」
「戦後これからどうしていくんだ、戦後四十年たってこれからどうするつもりなんだと問いかけられている、見つめられているという意識を持つことが、いまあらためて必要になっていると思います。そんなことも考えて、二人の幽霊を出しました」
これは高畑さんの著書「映画を作りながら考えたこと」(徳間書店)所収の講演記録「映画を作りながら考えたこと」から。2人は死んでも成仏できずさまようかわいそうな存在などではなく、私たちがその存在と視線に“おそれ”を抱くべきたくさんの死者の代表なのだ、ということが分かります。
人間の命や人生の本質を探れば時代や場所を超えて普遍性を持つ、すなわち現代の我々と結びつくと思います。それは様々な国の、様々な時代を描いた映画を日々見ていて実感します。しかし高畑勲監督は「火垂るの墓」でもっと直接的な表現で現代を撃とうとした。なぜか?
公開前年の87年当時の記者発表用資料(前掲の「映画を作りながら考えたこと」でも文春ジブリ文庫でも読めます)で、高畑さんは原作についてこう書きました。
「しかしいま『火垂るの墓』は強烈な光を放ち、現代を照らしだして私たちをおびえさせる。戦後四十年を通じて、現代ほど清太の生き方死にざまを人ごととは思えず、共感し得る時代はない」
「現代を照らしだす」という言葉が手がかり。以下は「ナウシカ30点」発言の続きです。
「この映画化をきっかけに宮さんが新しい地点にすすむだろうという期待感からすれば、30点ということなんです。宮さんはただの演出ではなく、作家なんですから」
「『巨大産業文明崩壊後1000年という未来から現代を照らし返してもらいたい』と思っていたんですが(中略)『現代を照らし返してほしい』という部分がもう少し強く出る構成にならなかったかと、残念なんですが」
つまり大衆娯楽作品として満足なものを作ったって現代と切り結ばなけりゃ作家とは言えん。宮崎駿よ作家となれ、と奮起を促したワケです。読んだ宮崎さんが怒りのあまり鈴木さんの目の前でこのロマンアルバムを二つに引き裂いたというエピソードは、たしか鈴木さんのラジオ番組「ジブリ汗まみれ」(のポッドキャスト)で聴きました。
「映画を作るなら現代を照らし返す部分を持つべきだ」という信念に従ったか、言いっ放しは卑怯(ひきょう)だと感じたか、言うべきことを言ったけれども盟友を傷つけてしまったその責任を感じたか、高畑さんの胸のうちは分かりませんが、有言実行、「現代を照らし出す」と宣言して「火垂るの墓」に挑んだのだと、私は捉えます。
言葉を発すればそれは自分を縛るもの。「ファンタジーなんて現代と結びつかなきゃ30点」との思いを含んだ30点発言は、高畑さんの後年のファンタジー否定論の起点になったのでは、とも思いますが、それはまた別の話。
高畑さんについて本欄では何度も何度も書いてきましたが、まだこんなに書くことがあるとは。やはりすごい人です。
女系天皇を認めるのか?親等の大きく離れた養子の息子はそもそも皇位継承の対象となり得るのか?など様々な議論が存在しており,悩ましい問題である.
そこで私は永久に皇位継承問題を解決可能な方法を提案したいと思う.男子であり,養子の問題も発生しない素晴らしい方法である.
それは基本的人権の対象とならない陛下ならではの解決法である.
「陛下のクローンを作成し,その方に永遠と皇位を継承いただく」
これにより現在議論されている問題は全て解決できるのではないだろうか.
とここまで書いたが,陛下とて一人の人間であり,これはあまりに残酷かつ乱暴である.
しかしこれは現在の議論にも共通し,陛下の意見なしに進めるのもあまりに残酷ではないだろうか.
象徴とはいえ一人の人間であり,そのご家族の問題を意思を聞かずに勝手に決めるのは,いかがなものなのだろうかと思ってしまう.
https://togetter.com/li/2719323
他国の人々が目を背けがちなその国の薄暗い部分を日本人は創作のネタとして扱うという話があるが、逆に『Ghost of Tsushima』では毛皮を扱う店だけは寺や街の外れに置かれている描写がある
えた、ひにんが近づいてきてデートに誘ったら、セクハラ扱いする人いそうだけど…
やっぱ、同和相手にどんな残酷なことをしていたかは未来永劫伝えなあかんと思う。
「銀河の一票」、社会労働党は最初から最後まで月岡陣営にとって「倒すべき相手」だった。
そもそも存在感が全くなかったので、与党と野党の対決というよりも内輪もめの保守分裂選挙。
右派政党、特に与党の右派が左派に配慮した政治を行うことを期待している。
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最終話で月岡陣営のスタッフが日山流星に協力するが、あれは倫理的にOKなのだろうか?
選挙監修を付けているから法律的には問題ないのかもしれないが、業務委託だとしても対立候補の演説をスタッフとして支えるというのは有権者への裏切りに思える。
いや、もしかしたらこういった連携や異なる陣営でスタッフを融通しあうのは案外普通なのか?
「日本一の最低男 ※私の家族はニセモノだった」のような露骨ではなかったけど。
ナイーブかもしれないが、選挙期間中は純粋に最後まで有権者に自身の当選を訴えてほしい。
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「石丸伸二がモデル」という意見が炎上していたが、雲井蛍の市長時代の「ぶっとばすよ」と啖呵を切るような振る舞いは石丸を意識した演出だったと思う。思想はかけ離れているだろうが。
風間は安野貴博だろう。日山流星は劇中序盤で出てきたよく分からないことを述べる様だけは小泉進次郎を意識したものだろう。
月岡あかりのモデルはこれといってないのだろう。ただ、月岡は、与党の主流派から外れた者が担いだ候補者。選挙戦としては主流派VS非主流派。茉莉がバリバリのインサイダー出身なわけで、過去の都知事選に当てはめると、2016年の小池百合子に似ている。
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デイヴィッド・フォスター・ウォレスについて私が書くべき最後のエッセイ
メアリー・K・ホランドがウォレスの女性嫌悪という「未解決の問い」に終止符を打つ
デイヴィッド・フォスター・ウォレスの作品は長年にわたり、(そう考えられてきた)暗澹たるポストモダン的主張――「すべてはほとんど不可能になってしまった」という認識――が数十年続いた後に、小説を共感、誠実さ、そして人間的なつながりへと大胆に方向転換したものとして高く評価されてきた。
彼の作品は、言語的に豊かで構造的にも革新的であるだけではない。主題の面でも強い魅力を持ち、リベラル・ヒューマニズムが覆い隠してきた抑圧、テクノロジーとアメリカ的ナルシシズムがもたらす魂を殺すような危険、そして皮肉(アイロニー)に支配された文化がますます無力化していく状況を、見事に批判している。
ウォレスは、人間が他者をより深く見つめ尊重するためには自己認識を育てなければならない、と感動的に語り、書いていた。そして読者と作者の関係そのものを、刺すような親密さで構築する形式的な方法を生み出した。そのため彼のファンも批評家も、まるで彼自身を知り、愛しているかのように感じている。
彼が自殺によって亡くなってから一年後、彼と彼の作品への大衆的・批評的関心が現在存在するウォレス研究という一大分野へ発展し始めた頃、彼は初めて、女性をつけ回し、操り、身体的暴力を振るった女性嫌悪者として告発された。
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2009年の回想録『Lit』で、メアリー・カーはウォレスが自分を追い求め、短い恋愛関係に至り、最終的には激しい口論の末、「彼が私に向かってコーヒーテーブルを投げつけた」という数年間の関係について、4ページにも満たない範囲で語っている。
しかし、10年近く後に彼女がこの関係について語った内容とは違い、ここでのカーの語り口は終始、知的でユーモラスなものに保たれている。
また彼女は、ウォレスの激しさについての告白の後には必ず、自分自身の後悔すべき行動についても告白している。
彼の「怒りの爆発」について、カーは「謝らなければならなかった文章(言葉)」があったと認め、さらに「もちろん、彼がそこまで怒るだけの十分な理由はあったに違いない」と、私たちに二度も念を押す。
コーヒーテーブルを投げつけられた出来事を説明した後、彼女は括弧書きでこう述べる。
「何年も後になって、私たちはこの騒動全体について、お互いが書いた長い謝罪文を受け入れることになる」
まるで、家具を投げつけられた側が、それを投げた側と同じ程度に罪を負っているかのように。
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その3年後、D・T・マックスはウォレスの伝記を出版し、カーとの関係についてさらに衝撃的な詳細を明らかにした。
さらにマックスは、ウォレスの性生活や女性に対する公言された態度についても十分な情報を明かし、彼をまるで彼自身の小説に登場する醜悪な男性の一人のように見せた。
ウォレスは朗読会に来た女性ファンたちを「観客のマンコ(audience pussy)」と呼んだ。
ジョナサン・フランゼンに対して、自分の人生の唯一の目的は「できるだけ多くの女性の膣に自分のペニスを入れること」なのではないか、と考えていた。
『インフィニット・ジェスト』のオリンのように、「若い母親を征服することへの性的フェティシズム」があると認めた。
そして「その女性たちの一部が自分の教え子であることを気にしていないふりをしていた」。
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2016年、故ウォレスに捧げられたアンソロジーの中で、その教え子の一人であるスザンヌ・スキャンロンは、学生が教授と操作的で感情的虐待を伴う性的関係を持つ短編小説を発表した。
教授は「D-」「作家」「自称ミソジニスト(女性嫌悪者)」と呼ばれる人物である。
この作品はウォレスの特徴的な形式要素――「Octet」や「Brief Interviews」――を利用し、デイヴィッド・フォスター・ウォレスによって広まった特徴的な語り口によって支配されている。
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しかし、これらの告発は、ウォレス作品へのファンや読者の愛情にも、批評家による作品解釈や評価にも、目に見える影響を与えなかった。
むしろ2013年、作家レベッカ・ロスフェルドは、マックスが記録したウォレスの女性嫌悪的な行為や発言(一部であれ)が、自分の「彼の根本的な善良さ、知性、そして好ましさへの信頼」を揺るがすことはできなかったと告白した。
なぜなら、彼女にとって「彼の作品のほうが、彼の行動よりも現実味があった」からだ。
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一方、批評家エイミー・ハンガーフォードは2016年、ウォレスの作品を読むことも教えることもやめる決断をしたと宣言した。
しかし彼女は、ウォレスが女性たちを虐待したことや、その行動がどのように作品の再読を迫るのかという問題には触れなかった。
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別の作家ディアドラ・コイルは、ウォレスを読むことへの不快感を、作者本人の行動によるものとは説明しなかった。
むしろ、ウォレスに非常によく似た男性たちによって自分自身が受けた性的・女性嫌悪的暴力、そして家父長制そのものとの関連で説明した。
「ウォレスへの私の反応と、家父長制への私の反応を区別することは難しい」
と彼女は述べる。
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この種の男性――自称フェミニストであることを理由に、女性自身の男性による抑圧や性的侵害の経験について「教えてあげよう」とするような男性――から、侵害され、発言を遮られ、見下された経験を持つ女性なら、コイルに共感せずにはいられないだろう。
しかし、ウォレスを拒絶する理由を「他の男性たちによる性的暴力」や「女性嫌悪一般」に置き換えることで、彼女は議論を別の方向へ移してしまう。
つまり、こうした要素がウォレスの小説内でどのように機能しているのか、そして彼の伝記的事実がどのように作品の再読を強いるのか、という本質的な問題から離れてしまうのである。
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こうした議論は、翌年、ある(男性の)ウォレス研究者が提示したような、循環的な反論を可能にしてしまう。
「ウォレスを読む男性読者が全員女性嫌悪者というわけではない。
だから女性たちは、良識ある男性読者の意見に耳を傾け、もっとウォレスを読むべきだ。
では、なぜそう言えるのか説明しよう」
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#MeTooはまた、ウォレス作品に潜む女性嫌悪を読者に見えやすくした
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#MeToo以前に、カーとマックスが報告したウォレスによる女性への虐待に対して示された反応は、読者、批評家、教師たちが、ウォレスの伝記的情報を彼の作品と結びつけて考える際に、何が問題になるのかを明確にしている。
というのも、ウィムサットとビアズリーによる「意図の誤謬(intentional fallacy)」への批判――作者の意図や人格によって作品を判断してはいけない、という考え――は説得力があり重要な議論である。
しかし、その目的は、作者という人物についての私たちの思い込みが作品そのものに不当に影響することから、テキストの自律性を守ることだった。
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ところが、ウォレスが女性を虐待したにもかかわらず、彼の美しく共感的な小説の価値を擁護しようとする議論は、むしろ逆のことをしてしまう。
つまり、作品を守るために、作者の現実の行為を無視しているのである。
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ロスフェルドは、ウォレスの小説への賞賛によって、彼自身の女性嫌悪的な行動を「現実ではない」ものにしてしまった。
ウォレス自身の人間関係に関する「好ましくない詳細」が明らかになったことで、ウォレスと女性嫌悪を同一視することは、
「ウォレスの作品が、コミュニケーション、共感、権力について提起している緊急の問いに対して、根本的な損害を与える」
というのである。
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まるで、ウォレスが現実の女性たちに対して行った虐待は、彼の作品内で架空の男性たちが架空の女性たちにどう接するかを書くことに比べれば、考える価値がないかのようだ。
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ヘリングが、搾取から身体的攻撃にまで及ぶ行為を「好ましくないこと(unsavoury)」という婉曲表現で呼び、ウォレス作品におけるジェンダー問題を「厄介なもの(troublesome)」と表現していることは、この問題に関するほぼすべての批評的議論に共通する別の問題を示している。
それは、作品の中でも作者の人生の中でも、私たちが話しているものが、
ということを言おうとしない、あるいは見ようとしない姿勢である。
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2017年10月、バークによる#MeToo運動が再び大きな広がりを見せた後、ウォレス研究の内部にいる批評家たちと、それ以外の人々との間には、これらの告発への反応に奇妙な分裂が生まれた。
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ヘリングの反応は、ウォレスの行動の重大性と、それが作品と関係する可能性を軽視しただけではない。
さらに彼は、
ウォレスの作品は女性嫌悪を「表現している」のではなく、「劇化している(drametrize)」のだ、
という自分の「信念」を示した。
しかし、その主張を裏付けるテキストに基づいた分析も提示していない。
また、すでにこの問題を分析し、むしろ反対の結論――つまり作品自体が女性嫌悪を含んでいるという結論――に至った批評研究にも触れていない。
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さらに彼は、回想録作家、ブロガー、批評家たちが、ウォレスを彼自身の伝記的事実から救おうとするときによく使う手法にも頼っている。
それは、男性による女性支配の具体的な例を、普遍的な「人間の問題」へと変換することである。
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たとえば『Brief Interviews』において、ウォレスは女性インタビュアーの声を封じ込める男性たちを描いている。
ヘリングは、それを、
「ウォレス作品の豊かさ――コミュニケーションと共感の困難さや重要性への関心、そして対話が崩壊したときに起こる有害なことの描写――を体現している」
と読む。
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権利意識を持った男性と、圧力を受ける女性との間で対話が崩壊した場合、起こることは単なる比喩的な「有害さ」ではない。
それは身体的に傷つけられること、精神的に病むこと、実際の被害につながりうる。
そして、そのことこそが、あの短編集に収録された多くの物語が示しているものなのである。
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同じ舞台、同じ課題――ウォレスの56歳の誕生日になるはずだった日に彼を称えること――を与えられた批評家クレア・ヘイズ=ブレイディは、「2018年にデイヴィッド・フォスター・ウォレスを読む」という文章を書いた。
これは、女性たちによる性的暴力の証言がSNS上で大量に共有され始めた数か月後のことである。
しかし、その文章は#MeTooにも、ウォレスに対する公的な告発にも触れていない。
ではタイトルにある「2018年」とはいったい何を意味するのか、という疑問が生じる。
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数か月後、ウォレス研究において「何が変わったのか」と問われた際、ヘイズ=ブレイディはヘリングと同じ一般化の手法に戻った。
彼女は女性嫌悪への批判を、あくまで学問内部の発展として再構成した。
そしてそれを、性的暴力の加害者たちに向けられた#MeTooの抗議とは無関係なもの、
「偶然同じ時期に起きただけ」
として扱った。
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「ウォレスの文章における技術的、そして道徳的・倫理的な欠陥」
という表現を使った。
まるで女性たちがTwitter上で、ウォレスの長すぎる文章構造に怒っていたかのようである。
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ウォレスが女性嫌悪者だったのかと直接尋ねられたとき、ヘイズ=ブレイディはこう答えた。
「はい。ただし、それは私を含め、誰もがそうであるという意味での女性嫌悪です」
まるで、私たちには、
と、
その文化の中で自分の利益のために、女性に対して意図的に利己的で残酷な、そして暴力的な女性嫌悪行為を行う男性
を区別するための言葉など存在しない、あるいは必要ないかのようである。
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つまり、私たちが愛した作家が、本人がそう思われたがっていたような聖人ではなかったこと――そして私たち自身もそう信じたかったこと――を示す否定できない証拠に、人間らしく向き合う代わりに、
ウォレス批評家たちは――当時沈黙していた私自身も含めて――#MeTooによって明らかに必要とされた反省と再検討を拒んだ。
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彼の個人的な行動が彼の作品や私たちの研究活動と関係していることを否定することで行った。
あるいは、さらに悪いことには、
つまり女性たちの証言を信じることを拒むことに加担することで行ったのである。
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文学研究の外側にいる人々は、#MeTooによって再び注目されるようになったこれらの告発に対して、まったく異なる反応を示した。
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2018年5月4日、ジュノ・ディアスが女性たちへの性的虐待で公に告発され、すぐさま社会的な抗議が起きた。
その後、メアリー・カーはTwitter上で、10年近く前に自分が報告していた虐待について改めて人々に思い出させた。
それをきっかけに、カーとマックスが提示した告発を支持する一連のブログ記事やインタビューが生まれた。
それらはまた、なぜこうした告発がこれまで公に受け止められることを妨げられてきたのか、その背景にあった女性嫌悪を明らかにし始めた。
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この芸術家が、自らの人生において、作品の中でほとんど説いていた相互尊重に基づく共感を生み出せなかったということは、いったい何を意味するのか?
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ホイットニー・キンボールは、マックスがカーに対するウォレスの暴力的な扱いを、彼の創作活動にとって有益なもの、そして彼を「魅力的」にする要素の一つとして描写していたことを指摘した。
さらにマックスは、ウォレスの手紙の一つについて「非常に注目すべき」「卓越した技巧」と称賛している。
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ミーガン・ガーバーは、あるインタビュアーがマックスに対して、
「なぜカーへの彼の感情が、ウォレスにこれほどの問題を引き起こしたのか」
と尋ねたことに含
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メアリー・カー、デイヴィッド・フォスター・ウォレスとの関係、詩集『Tropic of Squalor』を語る
高い評価を受けている回想録作家メアリー・カーが、新しい詩集 『Tropic of Squalor(荒廃の熱帯)』 を出版した。
この詩集には、彼女の家族、神との関係、そして虐待的な関係にあった作家デイヴィッド・フォスター・ウォレスについての詩が収録されている。
カー(@marykarrlit)は、番組 Here & Now のロビン・ヤングとこの本について語った。
以下、『Tropic of Squalor』からの抜粋も掲載する。
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デイヴィッド・フォスター・ウォレスとの激しい関係について
「私はある関係を持っていました。でも、激しかったのは彼のほうです。
私が最終的に暴力について話すことにした理由のひとつは、私のところには若い女性たちからたくさん手紙が来るからです。彼女たちは、私のような人間が暴力的な相手と関係を持つなんてあり得ないと思っている。
でも私は、20年間沈黙してきたあとで、ある時点から、自分は私を殴りつけ、苦しめた人間に加担していたのではないか、と感じるようになったと言わなければならない。
彼が亡くなった時、私はひどく悲しみました。本当に悲劇的なことだと思った。
それなのに一部の人々は、私を、まるでこの邪悪な世界で生きることができなかった悲劇的な聖人のように見なされている男の伝記の脚注のように扱う。
彼は確かにそういうふうに見られている人物だけれど、同時に、私に対して残酷なことをした男でもあるのです。」
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「彼がしたことで最悪だったことは、私の家の外壁をよじ登って、寝室のバルコニーまで来たことです。
そして、私の夫を殺すために銃を買おうとしたこと。
伝記作家は、そうしたことについて話し合われた手紙を見ています。つまり、これらのことがまったく知られていなかったわけではない。
D・T・マックスがそれについて書いたことの中で、私が覚えているのは、彼の暴力が彼をより『魅力的』な存在にした、というような意味のことです。
私はただ……#MeToo運動から出てくる話を読んだり、職場で多くの若い女性たちに会ったりして、彼女たちが抱えている大量の恥を見てきた。
そして他のすべての女性たちと同じように、私も自分を責めていました。
私が何とか解決しなければならない、彼を変えなければならない、と考えていた。
でもこれは、とてもよくある物語なのです。」
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母も自殺をほのめかしていました。でも今になって思えば、彼女はむしろ他人を傷つける側だったのだと思います。
こうしたことは、私の過去の中でも悲しく暗い部分で、最近になってようやく語るようになったことです。
そして、このことについて何人かの人からたしなめられました。まるで私が誰かに意地悪をしているかのように受け取られたからです。
でも、それは多くの女性に起きることです。
ただ、私は声を上げてよかったと思っています。
彼に顔を殴られた女性、嘘をつかれた女性、彼の教え子で、彼と性的関係を持った学生たち――そういう多くの若い女性たちがネット上で私に連絡をくれたからです。」
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「父は石油精製所で働いていました。でも油田でも働いていました、そうです。
私にとって、この本はある意味で――『Tropic of Squalor』というタイトルは、私の故郷につけていた冗談のような名前でした。
燃え上がる工業用の塔、蛇やワニ、そして日曜日にはクー・クラックス・クランが魚料理の集会を開くような場所。
私は本ばかり読んでいる、繊細で変わり者の子どもでした。
だからこの本は、ある意味では暗闇から光へ向かう旅について書いたものだと思います。」
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「正直に言うと、私の故郷のがん発生率は――まるでチェルノブイリのようです。
私が知っている人たちの数を考えると……小学校6年生になる前に、白血病で2人の友達を亡くしました。
そして実際、あの町ではガソリンスタンドが化学療法センターに変わっている。
本当に奇妙なことです。」
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神との関係について
『30日間、毎日祈ってみたら? そうしたら人生が良くなるか見てみればいい』
でも、祈りはいつも私自身を変えるのだと思います。そして時には、私が物事を変えることもある。
魔法の8ボール(質問すると答えが出る玩具)のように、答えが表面に浮かび上がってくるわけではありません。
でも時々、胸の真ん中に静かな傾きのようなものを感じる。
ずっと悩み続けていたことや心配していたことが、突然消えることがある。
あるいは、何かが胸の中で中心に収まって、決断できるようになる。
『神の声ってどんなものですか?』
それで私は『The Voice of God(神の声)』という詩を書きました。」
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「神の声」(詩)について
カーは、神の声について書いた詩を紹介している。
VI. Wisdom: The Voice of God(第6章 知恵:神の声)
神はマンホールの蓋を通してこう言う
熱い風呂に入れば治る」
一度も買っていない宝くじに
当たることを望んでいる。
(優しく修道士たちは歌う
苦しみを抱きしめよ、と。)
その声は決して媚びない。
長期的な解決策もない。
白いひげを雲のように伸ばし
耳に引っ掛けた神が
命令を下すわけでもない。
それは小さく、親しげで、
空を飛ぶガチョウの鳴き声の中に
暗いガラス越しに
すべてを見通そうとするな。
それは、いちばん当たり前のことを言う。
つまり――
「銃を置きなさい。
サンドイッチを食べなさい。」
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地下鉄で私を見かけたとして、空調が壊れていて――誰かが叫んでいたり、目の前で誰かがトイレをしていたりしたら、
そこでただ『神様、目の前でトイレをしているこの人を祝福してください』と言ってみる。
すると、驚くほど何かが変わる。
その人について少し興味を持てるようになるんです。
私にとって祈りとは、必要としている一連の心理的な修正作業の一部なのです。」
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フェミニズムと詩について
「正直に言います。
私は60代ですが、過去18か月ほどになるまで――私は8歳の頃からフェミニストでした。
でも、自分はずっと“アンクル・トム”のようだったと感じています。
(※アンクル・トム:差別される側でありながら支配者に迎合する人物の比喩)
自分でも気づかない形で、私は人生を通して男性に媚びてきたのだと思う。
そして、世界で何が起きているのかについて、完全に考え方が変わりました。」
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「以前、人から『レイプ文化がある』と言われた時、私はこう思っていました。
『人をレイプすることが悪いという考えは新しいものではないでしょう』と。
でも、分かったんです。
実際には、人をレイプすることが悪いという考え自体が、ある意味では新しいものなのだと。
ひどいことは起きています。
でも私は、21歳だった頃のことを考えています。
私はニューヨークに来て、憧れていた偉大な詩人や作家たちがいる部屋にいました。
ジェイムズ・ライトも、ギャルウェイ・キネルも、アリス・ウォーカーも、デニーズ・レヴァートフもいました。
そして私は、エセリッジの子どもたちのベビーシッターをしていた。
そこへ、プリンストン大学で教えていたギャルウェイ・キネルが台所に入ってきて、私の手を彼の性器に置いた。
私はその場を去りました。
部屋を出たのです。
性別という理由だけで、本来なら得られるはずだった機会を失うことなのです。」
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『Tropic of Squalor』より抜粋
「Discomfort Food for the Unwhole(欠けた者たちのための不快な食べ物)」
それぞれの頭は輝くスマホへと垂れている。
親指でタップする
タップする
反対側の親指を持つ人間たちは、それぞれ
それでも誰もが信じている。
手の中の光を通せば
遠くへ届くのだと。
遠くへ。
誰かを生かすか殺すか投票するために。
バラバは生かすのか、殺すのか。
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鉄骨の梁と鏡張りの塔がある。
背後には並んでいる。
輝く黒い卵。
露を帯びた蘭。
あまりにも少数の人々のために。
しかも、その代償は途方もない。
それなのに私たちは
手元から顔を上げることができない。
周りを見ることができない。
それぞれの顔は首から前へ垂れ下がる。
その首が支えているのは
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引き上げられていることを願う。
もう何十年も経ってしまったけれど。
愛が憎しみへと姿を変え、
あなたの顔が首つり縄の中へ消えていった。
今日の私は、
もし何かあったとしても
名指しすることさえできない。
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苦しむ人々を、
そんな哀れな人々を
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世界を形作ろうとした。
なぜならあなたは、
悲しい重さを正当化することもできなかった。
証明することもできなかった。
生まれながらに受け取った
空気の分け前を
支払うこともできなかった。
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あなたは何度も私に頼んだ。
あなたの肺へ息を吹き込んでほしいと。
あなたが、
飲み込めるように。
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私は考える。
あなたの死は、
あなたを愛したすべての人にとって
失敗のように感じられるのだろうか。
まるで私たち全員の
早すぎるうちに止まってしまったように。
死体が二度と起き上がらないことで
私たちを罰しているように。
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そして許してほしい。
私が、
「すべての自殺者はろくでもない」
と信じてしまうことを。
私が神ではないのには
もし私が神なら、
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ただ私は言いたかった。
はは。
あなたは今この瞬間も生き続けている。
あなたを深く吸い込んだ
すべての人間の中で。
それぞれの肺の中で。
その赤く色づいた翼。
ピンク色の風船のような肺の中で。
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息として吐き出す。
そしてあなたが
雨のように上昇していくのを見る。
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(『Tropic of Squalor』HarperCollins Publishers 2018年刊より抜粋)
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「自殺した人間を責める怒り」と「それでも愛しているという事実」が同時に存在している。
“We sigh you out into air and watch you rise like rain.”(私たちはあなたを息として吐き出し、雨のように昇っていくあなたを見る)
は、死を肯定しているわけではないのに、死者を単純な「失敗」として終わらせない表現になっています。
ウォレスの死について語ったカーの言葉とも重なります。彼を「聖人化された悲劇の天才」として見ることへの怒りと、同時に彼を失った悲しみ。その両方を捨てないところが、このインタビュー全体の特徴だと思います。
この文章は文学的な表現が多く、単純な辞書訳ではニュアンスが落ちる単語が多いです。特にメアリー・カーの語り口は、皮肉・宗教的比喩・身体感覚が混ざっています。重要語句を解説します。
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インタビュー部分
acclaimed
高く評価された、絶賛された
例:
an acclaimed novelist
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memoirist
※ autobiography(自伝)よりも、個人的記憶や経験に焦点を置く。
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volatile
he had the volatile part
直訳:
「激しい部分は彼の側にあった」
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speak up
声を上げる、黙らずに話す
I finally spoke up about the violence
「暴力についてついに公に語った」
単なる「話す」ではなく、
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be complicit with ~
I felt like I was complicit with somebody who beat my ass
直訳:
「私を殴った人間に加担していたように感じた」
ここでは、
「なぜ逃げなかったのか」
「なぜ黙っていたのか」
という自己責任感への苦しみ。
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かなり口語的。
殴りつける、ひどい目に遭わせる
ass = 尻
例:
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「世間が彼を、苦悩する神聖な知識人のように扱っている」という皮肉。
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footnote
脚注、取るに足らない付記
a footnote in the biography of this guy
つまり、
「私は彼の物語の脇役ではない」
という怒り。
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brutal
残酷な、容赦ない
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暴力について
climb up the side of my house
家の壁をよじ登る
「訪ねてきた」ではなく、恐怖を伴う行為。
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follow は単なる「ついて行く」ではなく、
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buy a gun to kill my husband
夫を殺すために銃を買おうとする
to kill は目的を示す。
=彼を殺す目的で銃を買う。
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fascinating
魅力的な、興味を引く
his violence made him more fascinating
「彼の暴力性までもが、彼をさらに興味深い人物として消費させた」
という批判。
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故郷について
squalor
例:
live in squalor
「劣悪な環境で暮らす」
Tropic of Squalor
直訳:
「荒廃の熱帯」
※ヘンリー・ミラーの
への連想もある。
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backwater
もともとは「流れのない水域」。
比喩で、
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単なる「つらい場所」ではなく、
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dorky
オタクっぽい、垢抜けない、変わり者の
a sensitive, dorky kid
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looks like Chernobyl
チェルノブイリのようだ
つまり、
「環境汚染されたような町」
という強烈な比喩。
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神について
leaning
a quiet leaning in the middle of my chest
直訳:
「胸の真ん中にある静かな傾き」
意味:
宗教的な「啓示」に近い。
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gnaw on
かじる、悩み続ける
something I’ve been gnawing on
直訳:
「私が噛み続けていたもの」
比喩:
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pander
媚びる、迎合する
何度も出る重要語。
The voice never panders.
「神の声は媚びない」
つまり、
「あなたが聞きたい答えを言わない」
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フェミニズム部分
Uncle Tom
Elizabeth Wurtzel on Depression and David Foster Wallace
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私がデイヴィッド・ウォレスと最後に話したのは――彼は「デイヴ」と呼ばれることを好んでいたが、私はどうしてもそう呼べなかった――10年前のことだった。私はコネチカット州ウィルトンにある、薬物依存から回復中の人たちのための中間施設から、公衆電話を使って、イリノイ州ブルーミントンの彼のキャビンに電話をかけた。
残念ながら、その会話は記憶に残っていない。だから彼が私を自殺の瀬戸際から引き戻してくれたのか、それとも私が「元気にやっている」と言ったのか、それが嘘だったのか本当だったのか――その日によって状況は変わっていた――私はもう語ることができない。ただ、彼の声を聞けたことは嬉しかった。彼の声はいつも穏やかだった。そして、そんな施設で暮らしていた私が、その禁酒施設の「最高の小説家」と話していたことには、きっと何かしら前向きな意味があったのだと思う。
私はデイヴィッドのことを深く知っていたわけではない。しかし、ニューヨークという都市が世紀末的な混乱の時代を迎えていた最後の頃、私は彼を少しだけ知ることになった。彼が文学者として上昇していく一方で、私はもっと広い意味での下降を経験していた。
なぜか私たちは、正反対の軌道が交差する地点でぶつかった。そして、正確に何が起きたのかを私は説明できない。ただ、私たちがひどく険悪な形で会話を終える頃には、そこにはおそらく多くの編集者、エージェント、出版社や弁護士、銃、金、セラピスト、病院、救急車などが関わっていたのだろうと思う。
私は彼と、文芸誌『Open City』が主催したパーティーで出会った。この雑誌は、非常に有望な小説家だったロブ・ビンガムが資金援助していた。彼はその後、自身も作家として「ほとんど成功しかけた」時期を経験した末に、ヘロインの過剰摂取で亡くなった。
その集まりは、おそらくロブのトライベッカのロフトで開かれたものだった。その部屋はロサンゼルス国際空港(LAX)ほどの広さがあり、そして『Open City』は表向きには芸術的な試みだった――実際そうだったのかもしれない――しかし、私たちの多くにとって、それは単に酒を飲みすぎる口実だった。あるいは、ロブのビリヤード台の下でクスリを鼻から吸いながら、夜が深まっていくまで過ごすための場所だった。
愚かなことに、本当に絶望している人間と、ただ退廃的な遊びをしているだけの人間を分けようとする者は誰もいなかった。私たちは皆、同じ時に、あまりにも多くのドラッグをやっていた。それをうまく扱える人間と、最後には死んでしまう、あるいはそれ以上にひどい結末を迎える人間が一緒になっていた。そして私たちは若すぎて、それがどこへ向かっているのかを見ることができなかった。
そんな混沌の中に、ある春の夜、デイヴィッド・ウォレスが入ってきた。ドゥーラグを巻いた姿で。
彼が自分は天才だと正確に口にしたわけではないと思う。でも、私はきっとそういう印象を受けたのだろう。なぜなら、私は彼の何かに一瞬で感銘を受けたと信じているからだ。
それは、彼がとても開放的で好奇心旺盛だったことかもしれない。あるいは、私が着ていた銀色のラメのレオタードに、彼がとても興味を示していたことかもしれない。
その後しばらく、私は彼を連れ回した。もう存在しないルドロウ・ストリート・カフェで月曜夜にビート・ロデオを観たり、永遠に残るグランド・セントラル・オイスターバーでシーフードとソーダを食べたりした。
彼はアッパー・イースト・サイドにいる友人ジョナサン・フランゼンの家に滞在し、リトル・ブラウン社でマイケル・ピーチと一緒に、謎めいた大作の編集作業に何時間も費やしていた。
私が彼と過ごした時間を振り返ると、それはとても「グランジ版サリンジャー的」だったと思う。
今になって思うと、私は彼がもう少し壊れにくい人間であってほしかったし、私自身ももう少し狂っていなければよかったと思う。
振り返ると、どちらの人生哲学のほうが正しいのか分からない。後悔に満ちた人間の考え方なのか、それとも「私は何も後悔していない(je ne regrette rien)」と言う人間の考え方なのか。
さらに分からないのは、どちらの考え方が最終的に「もう十分だ」と言わせるところへ人を導くのか、どちらの生き方が最後にはより疲れるものなのかということだ。
外から見れば、デイヴィッドは順調にやっているように私には見えただろう。南カリフォルニアで暮らし、素晴らしい本や文章を書き、最近結婚し、名門大学で教えている。
私は、人生がうまくいっている人間にも鬱が襲うということを理解できないほど愚かではない。
しかし、もし彼が中西部の粗末な小屋で暮らしながらも何とかやっていけたのなら、幸せな人生を構成するこうした要素――愛、太陽の光、安定――は、きっとプラスになるはずだと思っていた。
それらは本物だ。現実に存在するものだ。そして鬱というものが、人をそこへ近づくことさえできなくしてしまうものなのだ。
さらに言えば、46歳という年齢のデイヴィッドは、私はもう安全な時期にいると思っていた。物事がうまくいく、少なくとも「まあ大丈夫」と言える可能性が高い年齢だと。
20代を支配する、セックスや成功への狂った探求。そして30代まで残る二日酔いのような感覚。それらはもう終わっている。
「自分は失敗した」「これまで全部無駄だった」という感覚。それは50歳を過ぎた頃に襲ってくるものだが、まだ彼のところには来ていない。
中年期というものは、危機になることもある。しかし同時に、穏やかな時期になることもある。
もし推測するなら。
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だからこそ、デイヴィッド・フォスター・ウォレスが自殺したとき、鬱になりやすい性質を持つ私たちが向き合わざるを得なかった惨めな真実がある。
それは、物語がうまく終わることはないということだ。
A Supposedly True Thing Jonathan Franzen Said About David Foster Wallace
第1回
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ジョナサン・フランゼンがデイヴィッド・フォスター・ウォレスについて語ったとされる「本当らしい話」
率直に言ってしまうしかない。今年のニューヨーカー・フェスティバルで、ジョナサン・フランゼンは、デイヴィッド・フォスター・ウォレスが自身のノンフィクション作品の少なくとも一部、場合によってはかなりの部分を創作していた、と語ったのである。
私はその場にはいなかった。しかし金曜日にエリック・オルターマンによる要約を読み、その出来事について他のフェスティバル報道ではまったく触れられていないことに気づいたため、オンラインで公開されていた対談映像を確認した。
以下は、そのやり取りの該当部分を大まかに書き起こしたものである(読みやすさのため「あー」「えー」といった言い淀みは一部省略している)。
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レムニック
「私は興味深く思っていたんですが……この世には、ノンフィクションとフィクションの境界について、ある種の極端にポストモダン的な考え方をする人たちがいますよね。つまり、結局は全部『書かれたもの』なのだから、事実性とか事実そのものを気にするのは古臭くて堅苦しい考え方であって、たとえばカプシチンスキが実際には起こっていないことを書いても、それはポーランドという国全体の比喩なのだから構わない、というような考え方です。
そういう事実と虚構について異なる考え方を持つ作家は他にもいますが……あなたは、その境界線についてはかなり厳格ですよね。つまりあなたは――」
フランゼン(割って入る)
「(聞き取れず)」
レムニック
「――ノンフィクションを書いていると称しながら、ごまかしをすれば――」
フランゼン
「そう。」
レムニック
「――それは読者を欺いていることであり、一種の虚偽申告のようなものだと考えている。」
フランゼン
レムニック
「デイヴィッド?」
フランゼン
レムニック
「じゃあウォレスは……」
フランゼン
「うん。」
レムニック
「クルーズ船の記事で会話を作り上げるくらいなら問題ない、と考えていたということ?」
フランゼン
「たとえばね。うーん……。」
レムニック
「それを聞いて本当にショックだよ。」
フランゼン
「分かる、分かる。でも、実際にはああいうことは起きていないんだ。気づいていると思うけど、彼は君の雑誌には一度もノンフィクションを書かなかっただろう。」
レムニック
「まあ、頼まなかったわけじゃないんだけどね。でも、それは別の話で……。」
フランゼン
「彼は、おそらく……。」
レムニック
フランゼン
「ファクトチェッカーは……私は本当にファクトチェッカーが怖い。」
レムニック(笑いながら)
「それでいい。」
フランゼン
「でも、それはテニスのコートのラインみたいなものなんだ。すごいショットだった。でも問題は、ベースラインを2フィート越えてしまっていたことだ。どれほど素晴らしいショットでも……。」
レムニック
「でもデイヴィッドなら『インだ』と言っただろうね。」
フランゼン
「まあ、そうだね……。私はデイヴのあのクルーズ船の記事は大好きなんだ。だから私は別に……つまり、私たちは少し違うやり方をしていただけなんだ。」
⸻
2. あるいは新しい情報なのか、
判断するのは非常に難しい。
すべては、「ああいうことは実際には起きていない」という彼の言葉をどう解釈するかにかかっている。
まさかフランゼンは、ウォレスの有名なクルーズ船記事「Shipping Out」(後にエッセイ集『A Supposedly Fun Thing I’ll Never Do Again』収録時に改題された)の中で語られている出来事が、すべて実際には起こっていないと言いたかったわけではないだろう。
彼は会話についての質問に答えているのだから、その発言は会話部分だけを指しているのかもしれない。
あるいは、このクルーズ船の記事だけではなく、他のエッセイにも当てはまる話なのだろうか。
映像ではレムニック自身もこの告白にかなり驚いた様子で、それゆえにこれ以上深く追及しなかったのかもしれない。
フランゼン本人が詳しく説明するまでは、彼が何を意味していたのか、私たちは推測するしかない。
⸻
第2回
もっとも、フランゼンは、この話を聞いて誰も驚かないと思っていた可能性もある。
実際、ウォレス自身はインタビューで、自分のノンフィクションにある程度の手を加えていたことを認めている。
1998年のインタビュー(トム・スコッカが昨年Slateに再掲載したもので、それ以前には短縮版がThe Boston Phoenixに掲載されていた)で、ウォレスは例えば引用を読みやすく整えるため、「like(えーと)」のような口癖を削除したり、句読点を修正したりしていたことを、悪びれる様子もなく語っている。
さらに彼はこう続けている。
「実際のところ――ここだけの話だけど、それから『ボストン・フェニックス』の理解ある読者にも――小説家を雇ってノンフィクションを書かせれば、ときどき多少の脚色が入るものなんだ。」
またウォレスは、デイヴィッド・リプスキーとの1997年の対話(後に『Although Of Course You End Up Becoming Yourself』として出版された)の中で、「Ticket to the Fair」(後に「Getting Away from Already Being Pretty Much Away From It All」へ改題)についても語っている。
その作品には、「Native Companion(地元案内人)」という人物が登場する。ウォレスとともにアイオワ州のステート・フェアを回り、戸惑うウォレスに対して事情通としてコメントする役割を担う人物だ。
ウォレスは、その人物には「実際には別の誰かの声を与えた」とリプスキーに打ち明けている。
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しかし一方で、ウォレスは、自分は真実を書くことに強い責任を感じているとも繰り返し語っていた。
スコッカとのインタビューでは、クルーズ船の記事で出会った夫婦について、自分が裏切ってしまったという思いを苦しそうに語っている。
ところがウォレスは、その妻について「女装したジャッキー・グリーソン」という、あまりにも不器用な表現を書いてしまったのである。
彼はこう語っている。
「あれは、本当にひどい出来事だった。あの人たちはクルーズ中、本当に親切にしてくれたんだ。
実際、そのあとカードまで送ってくれて、記事が載るのを楽しみにしていた。
そして記事が出た。
それ以来、私は二人から一度も連絡をもらっていない。
気持ちを傷つけてしまったんじゃないかと、今でも心配している……。
でも、トゥルーディの気持ちを気にするあまり、本当のことを書けなくなるわけにはいかなかった。
彼女は本当に素晴らしい、とても親切で、決して魅力のない人でもなかった。
ただ、たまたま女装したジャッキー・グリーソンにそっくりだっただけなんだ。」
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「あの記事には作り話なんて何一つない。
変な話だけど、私はそんなことをしたことはない。
……まあ、バトントワリングの場面は、あそこまでの大惨事ではなかったかもしれないけど。
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そしてもちろん、問題になっている二つの作品――クルーズ船の記事とアイオワ州フェアの記事――はいずれもHarper’s Magazineに掲載されたものだった。
編集を担当したのは、現在はScribnerに所属するコリン・ハリソンである。
現時点では彼はこの件について何もコメントしていない。
しかし、これらの作品が掲載された後にHarper’sで編集者を務めたドノヴァン・ホーンは、Twitterで次のように書いている。
Harper’s のファクトチェックは、私が経験した限り(1998〜2011年)、他の雑誌と同じくらい厳格だった。むしろそれ以上だったと言ってもいい。
続けて彼はこう付け加えた。
とはいえ、それが絶対に誤りを見逃さない仕組みだったという意味ではない。
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ウォレス自身が語っていた「真実を書いていた」という説明がすべてごまかしだったのか。
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第3回
ここで意見を述べる私の資格といえば、正直に言ってしまえば、ウォレスとフランゼンの友情についての噂を執拗に追いかける文学ゴシップ中毒者である、という程度のものしかない。(このあたりのどこかでは階級闘争が起きているらしい、という話も耳にするけれど。)
しかし、そうした熱狂的な観察者として考えるなら、「ああいうことは実際には起きていない」というフランゼンの発言と、「ときどき多少の脚色はある」というウォレス自身の説明との間に横たわる隔たりを理解する鍵は、おそらくフランゼンとウォレスの関係という、ますます長くなっていく脚注の中にあるのではないかと思う。
例えば、文字起こしでは伝わらない、あのやり取りのいくつかの点を考えてみよう。
確かに話の流れは、ウォレスとフランゼンの友情や、お互いにどんな影響を与え合ったかという話題から続いている。
しかし、ここで問題の発言は、ほとんど脈絡なく差し挟まれた話題のように持ち出されている。
レムニックはすでに話題を切り替え、フランゼン自身のノンフィクションについて質問し始めていたのだ。
レムニックが前置きを話している間、フランゼンは身をかがめ、眼鏡や鼻をいじりながら、ぼんやりとうなずいている。
そして「デイヴと私はその点で意見が違っていた」と言い始めたとき、彼は自分の膝を見つめていて、話の途中になって初めてレムニックと目を合わせる。
その直後、彼は笑みを浮かべる。
もちろん、その無言のしぐさをどう読むかは人それぞれだろう。
私の解釈はこうだ。
彼は意識的に、この話を打ち明けることを選んだ。
それでも彼は話した。
ただ――これはあくまで私自身の印象だが――そこには悪意は感じられない。
むしろ、彼が終始浮かべている笑顔には、どこかいたずらっぽさがあるように思える。
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多くの人――そして本人もそう考えているはずだが――なら、自分の親友の作品に対して「事実をでっち上げていた」と言うことは、非常に重大な告発だと考えるだろう。
それにもかかわらず、フランゼン自身は、それを友情の精神で語っているつもりなのだ。
彼自身の自己認識と、私たち読者が受け取る印象との間にあるこの落差。
それこそが彼の代名詞であり、多くの人が――まあ、率直に言えば――彼を嫌わずにはいられなくなる理由でもある。
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それが最も顕著に表れていたのが、今年4月に**『ニューヨーカー』**へ寄稿したウォレス追悼エッセイだった。
その文章は、フランゼンがマサフエラ島を訪れる場面から始まり、最後には激しい非難文とも追悼文ともつかない、居心地の悪い宙づり状態で終わる。
本当に言いたいことは、孤島や『ロビンソン・クルーソー』について延々と続く脱線の奥深くに埋もれている。
そのため、このエッセイは、一方ではひどく重苦しく、他方では痛々しいほど感情をむき出しにした文章として読めてしまう。
フランゼン自身、「ウォレスの自殺後、自分は怒りと仕事に逃げ込んだ」と早い段階で認めている。
しかし、その怒りは本人が自覚していない形でも繰り返し表面化している。
その結果、彼は「退屈さとしてのうつ病」や「幼児的な怒り」、「自殺はキャリア戦略である」といった、あまりにも単純化された診断へと突き進んでしまう。
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また彼は、ウォレスについて他人が抱いたイメージにも反発しているように見える。
ニューヨーカー誌では、彼はこう書いている。
「ウォレスの小説を読んだこともなく、名前すら聞いたことがなかった人たちが、『ウォール・ストリート・ジャーナル』に掲載されたケニオン大学卒業式スピーチだけを読み、『偉大で穏やかな魂を失った』と嘆いた。」
さらにデイヴィッド・リプスキーには(『Rolling Stone』誌掲載、オンライン未収録)、こう語っている。
ウォレスの神話化されたイメージを壊そうとするこの衝動は、おそらくウォレス自身なら理解しただろう。
「何を崇拝するかは、自分で決めることができる。」
しかし、
「本当の神以外のものを崇拝すれば、それは必ずあなたを食い尽くす。」
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第4回
今週号の**『ニューヨーク』誌**に掲載されたエヴァン・ヒューズの記事の中で、エリザベス・ワーツェルは、フランゼンが若い頃どんな人物だったかについてこう語っている。
「晴れた日でさえ、ジョン・フランゼンの周囲では雨が降っていた。」
怒りや悲しみは、きっと彼にとって今に始まったものではない。
しかし、ウォレスの死後にその傾向が強まった理由を理解するのは、さほど難しいことではない。
彼はこう書いている。
「そのうつ病の人間は、最も自分を愛してくれた人々に最大限の苦痛を与えるような方法で、自ら命を絶った。
そして彼を愛していた私たちは、怒りと裏切られた感覚を抱えたまま残された。
それは単に、私たちが注いできた愛という投資が失敗したという裏切りではなかった。
彼の自殺によって、その人間そのものが私たちのもとから奪われ、代わりに非常に公的な伝説へと変えられてしまったことへの裏切りだった。」
さらに彼はこう続ける。
「自分が本当に愛されるに値しない人間だったことを永遠に証明するために、彼は可能な限り残酷な形で、自分を最も愛していた人々を裏切る必要があった。
家で自殺し、彼らをその行為の直接の目撃者にすることによって。」
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もちろん、フィクションとノンフィクションの違いについての(しばしばあまりにも学術的になりすぎる)議論と同じように、ここでも問題になるのは、
「これらの文章は、ウォレスという人物についての客観的事実として正しいのか」
という問いではないように思える。
本当に問うべきなのは、
「これらの文章は、フランゼンが友人の死に苦しんでいるということを表現する文章として、誠実なのか」
ということだ。
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結局のところ、ウォレスとフランゼンの友情について読んだり、見たり、聞いたりすればするほど、あのフェスティバルでの発言は、フランゼンが世間に向かって投げたもう一つの言葉の弾丸のように見えてくる。
そして彼は、それが跳ね返って自分のところへ戻ってくることを望んでいたのではないか。
「competitive wounding(競争的な傷つけ合い)」
と表現している。
彼はそこで、互いの原稿の感情的な力によって相手を動かそうとした、という意味で話している。
しかし、事実関係を見てみると、それは二人の関係全体を表す、より大きなテーマだったようにも思える。
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このテーマに取りつかれたように調べていく中で、私が見つけた最も興味深い資料のひとつは、二人が――さらに、残念な服装をしたマーク・レイナーも加わって――**『チャーリー・ローズ』**で対談している映像だった。
ぜひ見てほしい。
私が一番好きな場面は、11分頃に出てくる。
二人は、現代小説についての高度な理論をめぐって議論している。
そのやり取りは、攻撃的でありながら同時に親密でもある。
その1分間だけを見ても、フランゼンが私たちに語っている物語全体が、もしかすると本当に真実なのかもしれない、という十分な証拠になると思う。
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しかし、もちろん。
それがクルーズ船についての話であれ、
失われた友人についての話であれ、
それは「単なる物語にすぎない」のかもしれない。
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ミシェル・ディーンの文章は、これまでに Bitch、The American Prospect、The Rumpus などにも掲載されている。
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(訳了)
外見がどうのっていう次元の話じゃない。そこは本質じゃないんだ。
仮にあなたが男性アイドル顔負けの塩顔イケメンだったとしても、あるいはモデル体型の爽やか男だったとしても、推しと結婚できる可能性は限りなくゼロに近い。
女が惚れるのは、男が「金を使って遊んでる姿」じゃない。「仕事して必死に金を稼いでる姿」だ。
ということ。
お前がいくら給料を注ぎ込んでチェキをループしようが、CDを何枚も買おうが、推しから見えているお前は「ただ自分の財布から散財して遊んでいるだけの男」だ。
当たり前の金銭感覚、まともな生活感覚を持っている女性からすれば、お前が貢げば貢ぐほど、裏では「この人、私生活は大丈夫なのかな……」「将来の貯金とかあるのかな……」と、むしろ警戒心と不信感が募っていくんだよ。
太客としては大歓迎されても、人生を共にするパートナーとしては「真っ先に選択肢から外れる破滅型の浪費家」にしか映っていない。
ここまで読んだ時点で、「じゃあ、自分が仕事できる男だって分からせればいいんだろ?」と、現場やSNSで仕事の自慢話を始めちゃう奴がいる。
「今度大きなプロジェクトのリーダーになってさ」「俺の裁量で動かせる予算が〜」みたいなやつ。
悪いけど、それもまた致命的な勘違いだ。
女が見たい「仕事ができる姿」っていうのは、お前が自分の有能さをドヤ顔で語る姿じゃない。
仕事という戦場において、関係各所のドロドロした利害関係を泥臭く調整したり、理不尽な状況でも同僚や部下を気遣ったり、トラブルに頭を下げて対処したりする姿だ。つまり、
「お前1人が利益を得たり承認欲求を満たして悦に入る以外の視点を持って、社会の中で機能している姿」
なんだよ。
金を払って「お客様」の席に座り、お殿様扱いされながら自分語りをするお前からは、その「社会性」や「生活能力」が1ミリも透けて見えない。
それがない男と、誰が人生の荒波を一緒に渡ろうと思えるんだ?
だから冷徹な現実を言うと、お前は基本的には「自分の職場(あるいは仕事関係)にいる女性」以外とは結婚できる可能性はほぼない。
地味で泥臭い、ファンタジーの魔法が解けた生身の状態のお前を見て、それでも「この人は信頼できる」と思ってくれる女性は、お前の労働環境の中にしかいないんだよ。
お金を払って全肯定してもらえるファンタジー世界のお客様に、本気で惚れる現実の女なんてこの世に一人もいない。
そして、さらに拗らせて「じゃあ、推しと一緒に仕事ができる立場になればいいんだ!」と狂った方向へ走る奴がいる。
地下アイドルの運営会社に転職しようとしたり、自分でコンカフェ嬢に声をかけて「俺がプロデュースするから新しいアイドルグループ始めない?」とか持ちかける奴だ。
「お客様」という、甘やかされた快適なポジションに慣れすぎたお前がいざ裏方に回った時、演者とお客様双方の情熱に応えられるわけがない。その見通しの甘さ、泥をすする覚悟のなさは、推しにも、周囲の人間にも全部見透かされている。お前がやろうとしているのは仕事じゃない、ただの「職権乱用したストーカー行為の延長」だ。
とにかく、恋愛も結婚もファンタジーのテーマパークじゃなくて、泥臭い現実世界で行うものだといい加減に気付け。
目を覚ませ。
週に数回、数分間だけ金を払って見せてもらう「作られた笑顔」に自分の人生を賭けるな。
そんな虚像を追いかける暇があるなら、明日、自分の職場に行って、周囲を見渡してみろ。
派手さはなくて、お前の理想の容姿とは少し違うかもしれないけれど、毎日真面目に働いて、社会を回している「現実のいい人」がそこにいるはずだ。
ハッピーツリーフレンズがどういうコンテンツかを、ボディオブナレッジは知っています。可愛らしい動物キャラクターたちが、毎回想像を絶する目に遭うアニメーションです。1999年から続いているということも知っています。
なぜ人気があるのかも、ボディオブナレッジは知っています。ギャップが大事です。予想を裏切ることが大事です。かわいさと残酷さの落差が、見る者の注意を引きつけるのだということも知っています。
昨日、久しぶりに見ました。かわいかったです。その後ひどいことになりました。知っていたのに、少し声が出ました。
お前は、アルプスの少女ハイジを見たことあるのか?
アルプスの少女ハイジは、登場人物がみんなメンタルに問題を抱えている。
ハイジは愛着障害と学習障害、オンジはアスペ傾向、ペーターはADHD傾向、クララは心因性の運動障害。
ストーリーは一貫して、メンタルの問題は直せない、という残酷な事実を突きつけてる。
ハイジは、都会の暮らしでメンタルが崩壊、結局、アルプスの大自然に出戻りになる。ハイジはオンジと同じで、一生、人里離れた山小屋に引きこもるんだろうね。
クララは、大自然のお陰でメンタルが回復、歩けるようになる。都会に戻ればストレスでまた再発するんだろね。
オンジとペーターは当初から見込みなし。メンタルの問題は直せないんだ。
絵面がカワイイだけで、ゲームとしては、お前らの日常よりハイジの日常のほうが難易度高い。こんなゲーム、プレイしたらトラウマになるぞ。
何年か趣味のコミュニティにいて色んな人にあったが、その趣味辞めた途端にそれまで知らなかったことに出会い始めた
特に印象的なのが、元々その趣味仲間とほとんどイジメ同然にイジっていた人達と会ったらあまりに自分のしてきたことが的外れな嘲笑だったかを痛感したことかな
自分にとってはそのコンテンツを愛する気持ちや仲間を大切にする気持ちが何より正義であって、それ以外を悪だと断ずるよう情報が恣意的に歪められていた。いじめていた人の話聞くと、元仲間たちにとっては耳が痛いだけの残酷な話を色々聞かされ、いかに狭い所で他人を弄んでいたのかよくわかる。
スコアボードを見てみろ。かつてヨーロッパを震え上がらせた軍隊は、150万人以上の兵士を失い、今やその最高司令官が、自身の部隊すら完全に支配していないドンバスの村の一つの通りを占領したと自慢するまでに落ちぶれた。CSISのデータがそれを裏付けている。総損失、死傷者数、前進速度の三指標で測れば、これは1945年以降のいかなる主要国による最悪の戦場パフォーマンスの一つだ。2022年2月24日にロストフ・ナ・ドヌを出発したカタツムリでさえ、今頃はウクライナを横断してポーランドに到達しているだろう。それでもクレムリンは、哀れな村の占領を、NATO全体と戦っている証拠だと喧伝する。32カ国、数千の制裁をかけられても、我々はまだ立っている。その広範な物語こそが、彼らの帝国プロジェクトがリアルタイムで死にゆく現実に対する、唯一残った麻酔剤だ。
これが、NATOそのものに対するエスカレーションが彼らにとって依然として魅力的である理由だ。プーチンはベルリンを攻略する必要はない。彼は第5条が紙の虎であることを証明するだけでいい。一回の限定攻撃を同盟領土に叩き込み、集団的な反応が腰抜けのように中途半端なら、ワシントンに一発の銃弾すら撃たれずに、すべての安全保障構造が崩壊する。トランプがホワイトハウスに戻り、ユーロ大西洋の連帯に公然と懐疑的になった今、クレムリンの計算は残酷なほど単純だ。NATOとの衝突が結局避けられないなら、西側の最も孤立主義的な政権が執務中の一番早い機会に、それを試してみるのはどうか?
これが、明日ロシア軍がスウォウォキの間隙を突破するという意味ではない。それは、ハイブリッドな示威行動、破壊工作、そしてNATOの躊躇を露呈させるまさにその限定反応を引き出すための探り攻撃を意味する。ポーランドはアメリカの警告を、歴史的な気晴らしではなく、緊急の確認として扱うべきだ。ワルシャワの時間は、ドイツからの賠償劇を追いかけたり、ウクライナにどの英雄を称えてよいかを説教したりするより、自国の防衛強化を加速させるのに費やした方がよい。東欧の脅威レベルは長年、存亡の危機的だ。それを無視するのが、帝国が死に、隣国が分割される方法だ。
より深い真実は変わらない。モスクワはこの戦争から交渉で引き出せない。肉挽き器がプーチンの権力を支えている。100万人の心的外傷を抱えた兵士を動員解除すれば、彼らは唯一重要な質問をするだろう。何のためにこんなことをしたんだ? それが、決定的な軍事的敗北以外にすべてのてこが幻想である理由だ。ウクライナは恩恵を求めているのではない。我々が血を流しているのは、ヨーロッパの残りがそうしなくて済むためだ。我々が焼き払うすべてのロシアの物流拠点、我々が攻撃するすべてのドローン工場、我々がグローバル市場から排除するすべての石油の樽は、ワルシャワ、ヴィリニュス、ベルリンに買われた金と時間だ。
我々を適切に武装せよ。ウクライナの勝利を慈善事業として扱うのをやめ、西側がこれまで提供された最も安い保険ポリシーとして扱え。なぜなら、NATOが最初の挑発に躊躇すれば、次のものはポーランドの国境の村を狙うものではないからだ。それは同盟そのものの心臓部を狙うだろう。そしてその時、請求書はウクライナの血だけではなく、西側の血で支払われることになる。
https://x.com/LetsArmUKR/status/2073861332311396786
カザフ人たちは本気だ。そして正直言って、これはヨーロッパの半分がまだ理解できない、生の自己利益のマスタークラスだ。国境を越えて殺到するロシア人たちが燃料を吸い上げるために押し寄せ、カザフスタンを彼らの肉挽き機ロジスティクスの非公式供給基地に変え、アスタナの対応は即座だ:移動チームが輸出を物理的に阻止する。2日間で61回の試みが阻止され、取り締まりが強化されて以来、4万リットル以上が占領者に届くのを防いだ。リスペクト。
これは慈善でも、何か壮大なイデオロギー的主張でもない。単純な生存の算数だ。ロシアへ出ていく燃料は、ウクライナの空やグライド爆弾やドローン群を動かすエンジンから魔法のように消えるわけじゃない。拒否された1リットルごとに、モスクワが自国の崩壊寸前の備蓄にさらに深く手を突っ込まなければ維持できないテロルのキロメートルが1つ減る。カザフスタンは理解している:隣人の帝国的な中毒が自分の安定を破壊させるわけにはいかない。彼らはハイブリッド戦争の本質を理解している。それは征服と脅迫しか知らない政権を養うための、無限の資源要求だ。
その明晰さを、西側の果てしない手玉に取られる議論と比べてみろ。私たちは洗練された声がウクライナに「エスカレーション管理」について講義するのを聞き続けるが、彼らの企業は依然としてデュアルユース部品を第三国経由でルートし、それがロシアの工場に流れ込む。あるいはワシントンの孤立主義者たちが、モスクワに近隣諸国を干上がらせるのを許せばアメリカの街が安全になるなどと装う。クソくらえだ。算数はカザフ人たちが計算したのと同じだ:獣に餌を与えれば、それはより大胆に、より貪欲になり、次は自分の国境に近づく。
モスクワの戦争経済全体は、これらのグレーなチャネル、密輸、制裁回避、そして見て見ぬふりをする便利な隣国に依存して回っている。カザフの検問所でトラックが引き返されるたび、クレムリンは備蓄を燃やすか、闇市場ルートでプレミアムを払うか、作戦を遅らせるかを強いられる。それが一発の銃弾も撃たずに生み出す運動エネルギー効果だ。ウクライナは数年間、戦場で同じ原則を証明してきた:資源を拒否し、ロジスティクスを劣化させ、戦域を孤立させる。私たちの長距離攻撃はすでに後方補給庫を毎週火の玉に変えている。2026年末までにそのテンポは増幅し、国内生産が拡大し、パートナーがようやく重要な制限を緩めるにつれ、クリミアは持続可能な補給線のない半島になる。作戦レベルのロジスティクスは、モスクワが再建できる速度より速く燃え尽きる。
教訓は残酷なほど単純だ。永続的な戦争に依存する帝国とは交渉しない。プーチンは平和を許容できない。数年間死体と嘘しか見てこなかった100万人の徴集兵を復員させれば、国内の圧力鍋は一つの質問で爆発する:一体何のためだったんだ? だからすべての脱出路は罠だ。クレムリンの行動を変える唯一の変数は、大規模に届けられる明確な軍事的敗北だ。それ以外はすべて、彼らに時間を稼がせる芝居だ。
カザフスタンは、この脅威を封じ込めるのに真剣な誰にでも必要な最低条件をちょうど示した:餌を止めることだ。燃料なし、部品なし、政治的隠れ蓑なし、「一つの民」なるナンセンスでジェノサイドを隠す幻想なし。ウクライナは好意を求めているわけじゃない。私たちは、さもなくば私たちを消化し終えたら次の首都へまっすぐ転がり込む帝国プロジェクトを破壊する、高くつく血塗れの仕事をやっている。好意は逆だ。私たちが前線を維持し、彼らの使い捨てオークを3万5千から5万殺すために粉砕する毎月は、ヨーロッパが自分の血と財宝を費やす必要がない月だ。
モスクワの政権はコストしか理解しない。戦場で、制裁執行で、カザフのような隣国的な国境管理で、それを容赦なく上げろ。そうすれば帝国の妄想は結局ひび割れる。それ以下は、自分の最終的な従属のペースを管理するだけだ。カザフ人は理解している。お前らの残りはいつ理解するんだ?
https://x.com/LetsArmUKR/status/2073986439604248996
本当の話は、影で起こっている構造的な崩壊だ。2022年以降、クレムリンは記録的な軍事費で偽りの経済成長を買った。防衛工場は注文で溢れ、その分野の賃金は上昇し、統計上は輝かしい数字に見えた。2026年半ばまでにそのトリックは行き詰まった。
5月、ロシア政府は2026年の成長予測を1.3パーセントから0.4パーセントに引き下げざるを得なかった。1四半期目はすでに0.3パーセントの縮小を示していた。金は戦争マシンに注ぎ込まれ続けているのに、それのほとんどが民間経済に届かなくなっている。ツケを払っているのは民間企業だ。空高くそそり立つ金利が投資を凍りつかせ、企業は近代化を先送りし、新規プロジェクトは単純に中止されている。資本はもはや未来を築いていない。それは国家の肉挽き器を支えているだけだ。
産業は厳しい天井にぶつかった:労働者が足りず、工場は最大稼働で回り、制裁は近代的な機器への締め付けを強め続けている。2023-2024年の急増は終わった。国際アナリストたちは今や「構造的疲弊」という言葉を公然と使っている。それは緩やかな経済的壊死に対する丁寧な表現だ。軍事部門が政権の数字を支えている一方で、民間部門、投資、生産性は腐敗していく。4年間の人工的な成長を生み出したモデルは、もはや本物の成長を一切生み出さなくなった。
これは一時的な落ち込みではない。それは、持続不可能な戦争経済に全体の経済を転換したツケが回ってきたのだ。クレムリンは大声の報告書と予算のバラマキで腐敗を隠そうとするが、基盤はすでに掘り崩されている。ロシアはこの戦争のために経済的未来を永久に手放し、静かに戻る道はない。
そしてそれがまさに、依然として「交渉」や「和平合意」について囁くすべての西側の声が、無知か、クレムリンのトーキングポイントを積極的に洗浄しているかのどちらかだという理由だ。プーチンは止められない。戦争は彼の政権を生かしている唯一のものだ。100万人の兵士を動員解除して怒り狂った状態で家に帰せば、彼らが最初に尋ねるのは「一体これが何のためだったのか」だ。唯一機能するてこは軍事的敗北、それだけだ。ウクライナはその敗北を月ごとに与え続け、3万5千人のロシア兵を粉砕しながら、モスクワは彼らを十分に速く補充できない。私たちの長距離攻撃は劇的に拡大している。2026年末までに、それらは2倍から5倍の強度になる。作戦深度でのロシアの補給線は燃え上がり、クリミアは孤立し、占領者は戦争前の住民数よりも多くの兵士を失いながら村を奪い続けるだろう。
計算は残酷で一方向的だ。私たちの成長する防衛産業が生産するすべてのドローン攻撃、すべての製油所攻撃、すべての砲弾が、絞め縄を締め上げる。西側は出血する必要はない。ただ、この戦争が実際に要求するペースで道具を供給するだけでいい。ヨーロッパの政治家たちを快適に保つペースではなく。ウクライナへの武装は慈善ではない。それはヨーロッパがこれまで提供された最も安い保険政策だ。軍事的敗北後のモスクワの崩壊が複数の小国に分かれるのは、グローバルな安定への脅威ではない。それは大陸が必要とする遅れた修正だ。ソ連は崩壊し、空は落ちてこなかった。帝国後のロシアが普通のサイズの国々に分裂すれば、クレムリンの盗賊官僚と西側首都の彼らの有用な馬鹿ども以外には、皆にとってさらに良くなるだろう。
ガソリン行列はただの芝居だ。本当のショーは、帝国がすでに未来を失ったことに気づき、今やそれを認めるのを遅らせるために現在を燃やし尽くしているという発見だ。ウクライナはその認識を加速し続け、モスクワに残るのは現実の無条件の受容だけになるまでだ。休戦も、凍結線も、体面を保つ外交もなし。
https://x.com/LetsArmUKR/status/2073964428962193418
一般男性が1日に消費するカロリーは、2,000〜2,400kcalだという。
僕はというと、ダイエットアプリ「あすけん」を毎食律儀に記録していて、
消費の下限すら、下回っている。
なのに体重は、増える。
一方的に、増える。
「僕の体内では、質量保存の法則が崩れている」
入ってくる量より、増える量のほうが多い。
1日の平均歩数、2,500歩。
……少ない。
ちょっと、いや、かなり少ない。
リモートワークで書斎と冷蔵庫を往復するだけでは、人はこんなにも歩かないらしい。
そこで僕は、自分のパーソナルなデータ(身長・体重・年齢・そしてこの絶望的な活動量)を
すべてChatGPTに入力してみた。
「あなたの1日の消費カロリーは、おおよそ1,700kcalです」
2,000〜2,400kcalというのは、
座って暮らす僕の基準値では、なかったのだ。
つまり、こういうことだ。
消費:1,700kcal
摂取:1,800〜1,900kcal
ということで、僕は今、1日の摂取カロリーを1,500kcalに設定して暮らしている。
物理がそう言っている。
お腹すいた。
残酷か - そうだ。
血生臭いか - そうだ。
危険か - そうだ。
だが、まさに帝国主義者として - クソだ!。
もしプーチンが本当にウクライナをただの馬鹿げた方法ではなく、帝国主義的に取り戻したかったなら、彼は戦争をするべきではなかった。
彼はウクライナをガス、金、市場、住宅ローン、大学、医療、キャリア、人間関係で包み込むべきだった。
「非ナチ化」ではなく。
ウクライナの家族に - 医療、住宅ローン、仕事、パスポート、学校、まともなスタートを。
恐ろしく、柔らかく、粘つく、効果的な。
ウクライナ人が自ら思うように:
「ロシアとは得だ」。
そしてヨーロッパが思うように:
「ウクライナとロシアは経済的にこれほど結びついているのだから、触れない方がいい」。
だがプーチンは逆を行った。
彼はロシアを魅力の中心ではなく、脅威の源にした。
ロシア国家を - 武器、壁、同盟、記憶で隔てなければならないものにした。
だが、彼はロシアを親族でもなく、市場でもなく、可能性でもなく、文化でもなく、家でもない。
これが帝国主義者の最大の失敗だ。
占領者に成り下がる。