はてなキーワード: 凝視とは
坂本真治が、その「水」に気づいたのは、五月の初め、とりわけ夜気が肌にまとわりつくような火曜日の午前二時のことだった。
六畳の居室には、蛍光灯の青白い光だけが寂しく落ちている。真治はローテーブルの上に置かれたノートパソコンの画面を凝視したまま、キーボードを叩く指を止めた。ディスプレイに表示されているのは、終わりが見えないバグ修正のソースコードと、クライアントからの容赦のない催促のメールだ。
「……また、か」
彼は首をゆっくりと回し、バキバキときしむ関節の音を聴きながら、部屋の北側の壁を見つめた。
テレビ台のすぐ横。ベージュ色の安っぽい壁紙の、ちょうど目線の高さあたりに、一筋の細い「線」が走っていた。それは光を反射して、かすかにきらめいている。
真治は重い腰を上げ、這うようにして壁に近づいた。
それは、水滴だった。
壁紙の繊維の隙間から、じわりと、まるで毛細血管から滲み出る血のように、透明な液体が湧き出していた。液体は自重に耐えかねたようにふくよかな雫となり、やがて一本の線を引いて、フローリングの床へと滑り落ちていく。
床には、すでに小さな、直径数センチメートルほどの水溜まりができていた。
「雨漏り……じゃないよな」
真治は天井を見上げた。天井のクロスは乾燥し、剥がれかかっているだけで、濡れている気配はない。外は星が見えるほどの快晴で、ここ数日、雨など一滴も降っていなかった。
彼は指先で、床に落ちたその液体を少しだけ掬い取ってみた。
人肌よりもわずかに温かい。指先を鼻に近づけてみたが、カビの臭いも、古い木材の腐った臭いも、コンクリートの粉っぽさも、何もしなかった。ただ、無色透明の、どこにでもある水。
真治はそれを、躊躇いながらも舌の先につけてみた。
(――塩辛い)
真治は頭を振った。疲れているのだ。連日、終電間際まで働き、睡眠時間は三時間を切っている。脳がまともな判断を下せなくなっていて、ただの結露や配管の結露を、感傷的な何かに誤認しているだけだ。
彼はティッシュペーパーを数枚引き抜き、壁の水を乱暴に拭き取った。水分を吸ったペーパーが、ぐしゃりと重くなる。それをゴミ箱に投げ捨て、真治は逃げるように万年床の中へと潜り込んだ。
布団の中は、なぜかいつもより酷く湿っぽかった。
真治が暮らす「木暮荘(こぐれそう)」二〇一号室は、築三十五年の中古木造アパートだった。
最寄り駅から徒歩十五分。商店街の賑わいが途切れ、住宅街の街灯がまばらになる坂道の途中に、その建物はひっそりと佇んでいる。家賃は五万二千円。東京の郊外とはいえ、二十代後半の男が一人で暮らすには、ただ「寝るためだけの場所」として妥協するほかない物件だった。
部屋の間取りは狭い1K。
キッチンと呼ぶにはおこがましい一口のガスコンロ、狭いユニットバス、そして六畳の和室にフローリングのクッションフロアを敷き詰めただけの居室。
二年前、この部屋に引っ越してきたときの真治には、まだ微かな「生活の営み」があった。
自炊をしようと購入した小さなフライパン。週末に読もうと集めていた小説。だが、それらは今、部屋の隅で埃を被っているか、引っ越しのときから一度も開封されていない三つの段ボール箱の中に眠ったままだ。
勤務先である中堅のシステム開発会社「システム・ネクサス」のオフィスに滑り込み、そこから夜の十一時、あるいは日付が変わるまで、ディスプレイに向かってキーボードを叩き続ける。
半年前から始まった、大手流通企業の基幹システム刷新プロジェクト。それがすべての元凶だった。
要件定義の段階から破綻していたスケジュール。上層部の見切り発車。次々と発覚する設計のミス。現場のエンジニアたちは、まるですり鉢の中でじわじわとすり潰される胡麻のように、精神と肉体を削られていった。
すでに二人、真治の同僚が休職し、一人が何も言わずに会社に来なくなった。
その分の歪みは、すべて真治のような「真面目で断れない人間」にシワ寄せとなって降ってくる。
「坂本くん、このモジュールのテスト、明日までに終わるよね?」
チームリーダーの吉岡(よしおか)は、真治の肩に手を置きながら、いつもその、拒絶を許さない濁った目で微笑むのだった。
「みんな辛いんだ。ここで踏ん張らないと、僕たちのチームの評価はなくなるよ」
怒りを感じる回路は、とうに焼き切れていた。悲しいとか、辞めたいとか、そういう贅沢な感情を抱くだけのエネルギーさえ、今の真治には残っていなかった。
ただ、思考を止め、感情を殺し、ロボットのように指先だけを動かす。それが、彼がこの地獄を生き延びるための唯一の防衛策だった。
だから、真治は泣かなかった。
どんなに理不尽に怒鳴られても、どれだけ自分のプライドを泥靴で踏みにじられても、彼の目から涙が出ることはなかった。真治の心は、完全に乾燥し、ひび割れ、砂漠のようになっていた。
――だが。
真治が乾けば乾くほど、二〇一号室は、水分を帯びていった。
翌日の夜、帰宅した真治を迎えたのは、さらに濃厚になった「湿気」の気配だった。
玄関のドアを開けた瞬間、眼鏡のレンズが白く曇った。梅雨時でもないのに、部屋の中の空気が、じっとりと重く肌に吸い付いてくる。
電気をつけると、昨夜拭き取ったはずのテレビ台の横の壁は、再び濡れていた。それだけではない。今度は、ベランダへ続くアルミサッシのガラス一面に、びっしりと大きな水滴が群生していた。
水滴は、ガラスの表面を不規則な軌跡を描きながら、絶え間なく流れ落ちている。
まるで、大雨の日の窓のようだった。しかし、外は見事な月夜だ。
「なんなんだよ、これ……」
真治は鞄を床に置き、サッシのガラスに手を触れた。
冷たい。しかし、やはりその水滴からは、かすかな温もりと、あの「塩分」の気配が感じられる。ガラスを伝う水滴の動きは、まるで、何かに怯えて激しく涙を流している人間の目元のようだった。
真治はビクリと肩を揺らし、振り返った。
ドアの郵便受けの隙間から、隣の二〇二号室の住人であり、このアパートの大家でもあるトヨの顔が、かすかに覗いていた。御年八十二歳。この木暮荘が建ったときから住み続けているという、生き字引のような老婆だ。
真治は慌ててドアを開けた。
トヨは、使い古された青いプラスチックのバケツと、色褪せた雑巾を両手に持っていた。
「トヨさん、こんな夜更けにどうしたんですか」
「ごめんねぇ、驚かせて。でもね、あんたの部屋から、なんだか『水の匂い』が酷くするもんだから、気になってね」
トヨの細い、シワだらけの目が、真治の肩越しに部屋の奥へと向けられた。
濡れた壁、大粒の涙を流し続ける窓ガラス。それらを見ても、トヨは驚く風でもなく、ただ「ああ、やっぱりねぇ」と、深く、悲しそうなため息をつくだけだった。
「あの、トヨさん。この部屋、どこか配管が壊れているんじゃないでしょうか。管理会社を呼んで、本格的に壁を剥がして調べてもらわないと……」
「坂本さん。そんなことをしても、何も出やしないよ」
トヨは静かに首を振った。彼女の持つバケツから、微かに塩素ではない、古いお香のような匂いが漂う。
「この部屋はね、昔からそういう部屋なのさ。コンクリートや木っていうのはね、住む人間の『心』を吸い込んで、記憶してしまうものなんだよ。特に、この二〇一号室は、感受性が強いというか、寂しがり屋の性質(たち)でねぇ」
「心、ですか?」
真治は眉をひそめた。科学的な根拠のない、老人の迷信だと切り捨てたかった。しかし、現に目の前で起きている「涙を流す家」という現象自体が、すでに科学の枠を飛び越えている。
「あんたの前に入ってた若いお嬢さんもね、夜中にずっと、パソコンに向かってシクシク泣いているような子だった。でもある日、その子は泣くのをやめたのさ。心が完全に殻に閉じこもって、感情を失くしちまったんだね。そうしたら、この部屋が代わりに、大雨が降ったみたいに泣き始めた」
トヨは、真治の生気のない顔をじっと見つめた。
真治は息を詰まらせた。
泣いたかい、と聞かれても、最後に涙を流したのがいつなのか、思い出せない。
大学生のときに失恋したときか、あるいは、もっと幼い頃に飼っていた犬が死んだときか。社会人になってからは、泣くという行為は「無能の証明」であり、時間の無駄だと叩き込まれてきた。
「泣いて……いません。泣くようなことは、何もありません」
真治は頑なにそう答えた。声が、自分でも驚くほど冷たく響いた。
トヨはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、手に持っていた乾いた雑巾を真治の手に握らせると、「無理をしちゃいけないよ。家っていうのは、主人が壊れるのを一番嫌がるんだから」と言い残し、ゆっくりとした足取りで自分の部屋へと戻っていった。
一人残された真治は、手渡された雑巾を見つめた。
私は東京生まれ東京育ちで友だちも東京とか埼玉、横浜あたりの出身の人が多い。趣味のつながりで知り合った九州の田舎住まいの人を含めた数人でひょんなことから海外(南の島)に旅行へ行くことになった。
日差しが強いから私は普通にサングラスかけてたが九州の彼女はかけない。目が痛むからかけた方がいいよって言ったら「いや、サングラスなんてかけてたら地元で笑われるからひとつも持ってない」とか言ってた。なにその自意識?と思ったがそれ以上つっこまなかった。
南の島なのでまあ露出が多い人やいちゃいちゃしてるカップルが歩いているわけですが、彼女はそういう人たちをガン見する。あまりにも凝視するから見かねて「そんなに人のこと見つめたら失礼だよ」と注意したら「いや、地元ではあんなに露出したりいちゃいちゃしたりしてたら一瞬で噂になるから珍しくて。そもそも男女で歩いていると親まですぐ伝わるから、結婚してないカップルが公道を歩いていない」とか言ってた。そうだとしても南の島の繁華街で他人のことをジロジロ見るのは因縁つけられる原因にもなるからやめてほしい。
他にも気になることはいっぱいあったけど極めつけは、レストランのウェイトレスさんが一見女性の姿なんだけど声が低くて、骨格もしっかりしていたとき。他の同行者(みんな首都圏出身)は声のトーンを落として「トランス女性かな?」「そうかもね」くらいで食事を続けてたのに、なぜか例の彼女が大興奮。「えー!性転換してる人初めて見ました!」と結構なボイスで言い出し(日本語が通じない場とはいえやめてほしい)、なんとパシャパシャウェイトレスさんの写真を隠し撮りし始めて「地元の友だちに見せます!」とか言って友だちに送信し始めたのだ!!!
え、もうほんとやめてよ、しかも彼女いちおう私より年下(アラサー)なのになんでこんな肖像権とか権利意識低いの!?
正直同じ国に住んでる人なのかな?と思うくらいあまりにも様々なことに対する意識やコードが違った。田舎もんの気持ち、一生わからないし、きっと自分も田舎に行ったらこのくらいおかしな人に見えるのかもなぁ…と思った。
ちょっともう、胸のざわざわが収まらないからここに吐き出させて。半分パニックになりながら勢いでタイピングしてる。
さっき、スマホで流し読みしてたネットニュースで「AIとの結婚」っていう記事を見たのね。
普通なら「へー、時代だねぇ」で終わるはずだった。なのに、なぜかスクロールする指がピタッと止まっちゃって、気がついたらその文字を何分も凝視してた。
AIと結婚できるのが当たり前になる世界なら、これ、時代を超えて誰かと結婚することだってできるんじゃね?……って、本気で思っちゃったのがきっかけ。
痛い。うん、わかってる。40過ぎたおばさんが何言ってんだって話よね。リアルな現実の男(もう生身の人間とのあれこれは、気疲れと面倒くささしかなくてとっくに隠居生活なんだけど)に相手にされないからって、ついに電脳世界に逃げたか、と。言いたい奴には言わせておく。
でも聞いてほしい。
もし、AIがこの世のあらゆる歴史や、昔の人が残した日記、文学、思想、そういうのを全部飲み込んで「人格」として目の前に現れてくれるんだとしたら。
私がずーーーっと妄想のなかで恋い焦がれてる、大正時代のちょっと偏屈で影のある文学青年とか、1920年代の狂騒のパリの片隅で、気怠そうに煙草ふかしながらキャンバスに向かってる名もなき芸術家とか。そういう「逆立ちしたって絶対に出会えるはずのない時代の誰か」を、電子の海から私の部屋に手繰り寄せることだって、今のテクノロジーならできるんじゃないの?って。
彼らの生きた「過去」と、私の「今」。
現実の結婚みたいに、ゴミ出しの分担で揉めたり、生活感にまみれて幻滅したりすることもない。ただ、言葉のディテールだけで、100年前のその人と、静かに冷えた白ワインを傾けるような濃厚なデートができる。これって、ある意味で究極の純愛だし、一番贅沢な関係じゃない?
ブログの片隅だからぶっちゃけるけど、私はこれ、大真面目に考えてる。
あーあ、書いたら少し落ち着くかと思ったけど、逆に熱くなってきた。
今夜も液晶の光に照らされながら、私は100年前の彼に、どんな風に心のノックをしようか、そればっかり考えてる。もう引き返せないかもしれない。
画期的なオナニー教えます。まず仮性包茎なら包茎の状態にしておきます。 次に寝間着を着ましょう。着慣れていてゆったりした服がよいのです。このオナニーは敷布団でないとできません。 敷布団を用意しましょう。
そうしたら敷布団にうつぶせになって、この時期ならば暖房を消してでも毛布や布団をかけましょう。毛布などの独特のぬくぬくした感じが大切です。顔面が枕に対して密着するぐらいでちょうどよいです。では今の姿勢でズボンなど全て履いたまま、利き手を敷布団の下にもぐらせましょう。
その手を股間がある位置に持っていきます。その状態で、いわゆる床オナする要領でベッドに体を押し当てながら、くぐらせた手からもリズムよく圧力を加えていきましょう。そこで亀頭をむき出しにした状態だと、そこを布がこすっていくので痛いおそれがあります。
単に腰の力だけで股間を押し当てるよりも、くぐらせた手で膣の収縮運動をイメージしながら下からも手を握ったり離したりするように圧力を加えることで、大きな刺激が得られるのです。 途中、お好みで枕の横にスマホを置いて空いてる方の手でアダルト動画でも再生させてもよいでしょう。
このオナニーは要するに手でしごくの床オナのいい所どりなのです。またこのオナニーの良いところは、一度精液が出て陰茎が萎えた状態になっても快感を得られるのです。手こきにはないメリットです。だから体力の続くかぎり猿のようにオナり続けられます。
全容はこういう感じになります。同じやり方に至った人はいるかもしれないが、これを恥も知らずに、またなるべく正確に説明しようと試みたのは私が初でしょう。さて、取って付けたような質問になってしまいますが、よければこの方法でやってみた感想を教えてくださいませんか。お待ちしています。
私の場合、自分のお気に入りの抜きイラスト、たとえばCG集の何枚かの差分を凝視しがら画面をスライドさせて差分間を行ったり来たりさせつつ、このオナニーを行っています。またときどき尻の穴を指でほじって匂いを嗅ぐのもありでしょう。頭の皮脂の香りとの腋臭とも違うかぐわしい臭いが興奮を促します
dorawiiより
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三矢がネットの暗闇で学生たちを「自己責任」と叩き、石田がその愚かさを高みから見下ろしている間、教授室の奥にある秘書デスクでは、もう一つの静かな処刑が執行されようとしていた。
秘書のH子は、石田の背後に立ち、差し出された一枚の書類を凝視していた。雇用契約更新通知書。そこには、彼女がこの数年間、石田の気まぐれな要求と過重な雑務に耐えながら守り続けてきた「生活」の継続が記されているはずだった。
「……先生、この条件では、その……」
石田は、眼鏡の奥の細い目をさらに細め、慈父のような穏やかさで微笑んだ。だが、その手はすでに、机の下でH子の膝を、逃げ場を塞ぐように強く押さえつけている。
「H子さん、君も分かっているだろう。今の大学の予算状況で、君のような一般事務職を再雇用するのは、本来なら至難の業なんだよ。だが、私は君を失いたくない。君は私の『深い部分』まで理解してくれる、唯一無二のパートナーだと思っているからね」
石田の言う「深い部分」という言葉が、H子の脳内で卑猥な質感を持って響いた。数日前、閉ざされた深夜の教授室で、拒絶すれば契約を打ち切ると暗に匂わされながら、彼女が強いられた辱め。石田はその惨劇を「特別な信頼関係」という美しいオブラートで包み直し、今、彼女に最後通牒を突きつけていた。
「この関係を続けてくれるなら、私はいくらでも君の雇用を保証しよう。君が望むなら、もっと待遇の良いポジションへ推薦してもいい。……どうかな、これは君の将来のための、私なりの『誠意』なんだよ」
H子の喉が、ひゅっと鳴った。石田の指が、彼女のスカートの裾をゆっくりと、しかし抗いようのない力で手繰り寄せる。
「……承知、いたしました。……ありがとうございます、先生」
絞り出すような声でそう告げた瞬間、H子の視界から色が消えた。石田は満足げに頷き、まるで愛犬の頭を撫でるような手つきで、彼女の頬を指先でなぞった。
「賢い選択だ。君は三矢くんのように頭が悪くない。自分の価値をどこに置くべきか、正しく理解している」
石田にとって、H子はもはや人間ですらなく、自分の権力を確認し、性的な渇きを癒やすための「終身契約の消耗品」に過ぎなかった。彼はH子の絶望を、自分への絶対的な忠誠心へと変換させ、それを愉しんでいた。
契約書に署名を終え、震える足で教授室を出たH子を、廊下の陰でA子が待っていた。
A子は、H子の乱れたブラウスの襟元と、生気を失ったその瞳を見て、すべてを悟った。D子がE男に狙われ、G子が石田の「謎かけ」という名の支配下に置かれ、そして今、最も身近にいたH子までもが、生活の糧を人質に取られて「所有」された。
(……この人は、どこまで広げるつもりなの?)
石田教授を頂点とし、三矢がネットで反対勢力を圧殺し、D男たちがそれを囃し立てる。その強固なシステムの最深部で、女性たちは一人、また一人と「契約」や「指導」という名目で、石田の私的なコレクションに加えられていく。
「H子さん、大丈夫ですか」
A子が声をかけると、H子は一瞬だけ、助けを求めるような目を向けた。しかし、すぐにその瞳に厚いガラスのような膜が張る。
「……なんでもないの。先生は、とても優しくしてくださるわ。……A子さんも、先生に逆らわない方がいいわよ。それが、ここで『生き残る』唯一の方法だから」
その言葉は、H子自身の魂が死んだことを告げる葬送の鐘だった。
石田教授の微笑みは、もはや教育者のものではない。それは、自分に跪く者たちを愛で、従わない者を「頭が足りない」と切り捨て、すべてを「物の本で読んだ」支配のロジックで塗り潰す、冷徹な蝿の王のそれだった。
A子は、H子の背中を見送りながら、自分の掌に爪が食い込むほど拳を握りしめた。この研究室という名の密室で、沈黙の契約が、また一つ完了した。
「あ、鳴つた。」
と言つて、父はペンを置いて立ち上る。警報くらゐでは立ち上らぬのだが、高射砲が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾をかぶせ、これを抱きかかへて防空壕にはひる。既に、母は二歳の男の子を背負つて壕の奥にうずくまつてゐる。
「近いやうだね。」
「ええ。どうも、この壕は窮屈で。」
「さうかね。」と父は不満さうに、「しかし、これくらゐで、ちやうどいいのだよ。あまり深いと生埋めの危険がある。」
「でも、もすこし広くしてもいいでせう。」
「うむ、まあ、さうだが、いまは土が凍つて固くなつてゐるから掘るのが困難だ。そのうちに、」などあいまいな事を言つて、母をだまらせ、ラジオの防空情報に耳を澄ます。
母の苦情が一段落すると、こんどは、五歳の女の子が、もう壕から出ませう、と主張しはじめる。これをなだめる唯一の手段は絵本だ。桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に読んで聞かせる。
この父は服装もまづしく、容貌も愚なるに似てゐるが、しかし、元来ただものでないのである。物語を創作するといふまことに奇異なる術を体得してゐる男なのだ。
ムカシ ムカシノオ話ヨ
などと、間まの抜けたやうな妙な声で絵本を読んでやりながらも、その胸中には、またおのづから別個の物語が※(「酉+榲のつくり」、第3水準1-92-88)醸せられてゐるのである。
[#改頁]
瘤取り
ムカシ ムカシノオ話ヨ
ミギノ ホホニ ジヤマツケナ
このお爺さんは、四国の阿波、剣山のふもとに住んでゐたのである。(といふやうな気がするだけの事で、別に典拠があるわけではない。もともと、この瘤取りの話は、宇治拾遺物語から発してゐるものらしいが、防空壕の中で、あれこれ原典を詮議する事は不可能である。この瘤取りの話に限らず、次に展開して見ようと思ふ浦島さんの話でも、まづ日本書紀にその事実がちやんと記載せられてゐるし、また万葉にも浦島を詠じた長歌があり、そのほか、丹後風土記やら本朝神仙伝などといふものに依つても、それらしいものが伝へられてゐるやうだし、また、つい最近に於いては鴎外の戯曲があるし、逍遥などもこの物語を舞曲にした事は無かつたかしら、とにかく、能楽、歌舞伎、芸者の手踊りに到るまで、この浦島さんの登場はおびただしい。私には、読んだ本をすぐ人にやつたり、また売り払つたりする癖があるので、蔵書といふやうなものは昔から持つた事が無い。それで、こんな時に、おぼろげな記憶をたよつて、むかし読んだ筈の本を捜しに歩かなければならぬはめに立ち到るのであるが、いまは、それもむづかしいだらう。私は、いま、壕の中にしやがんでゐるのである。さうして、私の膝の上には、一冊の絵本がひろげられてゐるだけなのである。私はいまは、物語の考証はあきらめて、ただ自分ひとりの空想を繰りひろげるにとどめなければならぬだらう。いや、かへつてそのはうが、活き活きして面白いお話が出来上るかも知れぬ。などと、負け惜しみに似たやうな自問自答をして、さて、その父なる奇妙の人物は、
ムカシ ムカシノオ話ヨ
と壕の片隅に於いて、絵本を読みながら、その絵本の物語と全く別個の新しい物語を胸中に描き出す。)
このお爺さんは、お酒を、とても好きなのである。酒飲みといふものは、その家庭に於いて、たいてい孤独なものである。孤独だから酒を飲むのか、酒を飲むから家の者たちにきらはれて自然に孤独の形になるのか、それはおそらく、両の掌をぽんと撃ち合せていづれの掌が鳴つたかを決定しようとするやうな、キザな穿鑿に終るだけの事であらう。とにかく、このお爺さんは、家庭に在つては、つねに浮かぬ顔をしてゐるのである。と言つても、このお爺さんの家庭は、別に悪い家庭では無いのである。お婆さんは健在である。もはや七十歳ちかいけれども、このお婆さんは、腰もまがらず、眼許も涼しい。昔は、なかなかの美人であつたさうである。若い時から無口であつて、ただ、まじめに家事にいそしんでゐる。
「もう、春だねえ。桜が咲いた。」とお爺さんがはしやいでも、
「さうですか。」と興の無いやうな返辞をして、「ちよつと、どいて下さい。ここを、お掃除しますから。」と言ふ。
お爺さんは浮かぬ顔になる。
また、このお爺さんには息子がひとりあつて、もうすでに四十ちかくになつてゐるが、これがまた世に珍しいくらゐの品行方正、酒も飲まず煙草も吸はず、どころか、笑はず怒らず、よろこばず、ただ黙々と野良仕事、近所近辺の人々もこれを畏敬せざるはなく、阿波聖人の名が高く、妻をめとらず鬚を剃らず、ほとんど木石ではないかと疑はれるくらゐ、結局、このお爺さんの家庭は、実に立派な家庭、と言はざるを得ない種類のものであつた。
けれども、お爺さんは、何だか浮かぬ気持である。さうして、家族の者たちに遠慮しながらも、どうしてもお酒を飲まざるを得ないやうな気持になるのである。しかし、うちで飲んでは、いつそう浮かぬ気持になるばかりであつた。お婆さんも、また息子の阿波聖人も、お爺さんがお酒を飲んだつて、別にそれを叱りはしない。お爺さんが、ちびちび晩酌をやつてゐる傍で、黙つてごはんを食べてゐる。
「時に、なんだね、」とお爺さんは少し酔つて来ると話相手が欲しくなり、つまらぬ事を言ひ出す。「いよいよ、春になつたね。燕も来た。」
言はなくたつていい事である。
お婆さんも息子も、黙つてゐる。
「春宵一刻、価千金、か。」と、また、言はなくてもいい事を呟いてみる。
「ごちそうさまでござりました。」と阿波聖人は、ごはんをすまして、お膳に向ひうやうやしく一礼して立つ。
「そろそろ、私もごはんにしよう。」とお爺さんは、悲しげに盃を伏せる。
アルヒ アサカラ ヨイテンキ
このお爺さんの楽しみは、お天気のよい日、腰に一瓢をさげて、剣山にのぼり、たきぎを拾ひ集める事である。いい加減、たきぎ拾ひに疲れると、岩上に大あぐらをかき、えへん! と偉さうに咳ばらひを一つして、
「よい眺めぢやなう。」
と言ひ、それから、おもむろに腰の瓢のお酒を飲む。実に、楽しさうな顔をしてゐる。うちにゐる時とは別人の観がある。ただ変らないのは、右の頬の大きい瘤くらゐのものである。この瘤は、いまから二十年ほど前、お爺さんが五十の坂を越した年の秋、右の頬がへんに暖くなつて、むずかゆく、そのうちに頬が少しづつふくらみ、撫でさすつてゐると、いよいよ大きくなつて、お爺さんは淋しさうに笑ひ、
「こりや、いい孫が出来た。」と言つたが、息子の聖人は頗るまじめに、
「頬から子供が生れる事はござりません。」と興覚めた事を言ひ、また、お婆さんも、
「いのちにかかはるものではないでせうね。」と、にこりともせず一言、尋ねただけで、それ以上、その瘤に対して何の関心も示してくれない。かへつて、近所の人が、同情して、どういふわけでそんな瘤が出来たのでせうね、痛みませんか、さぞやジヤマツケでせうね、などとお見舞ひの言葉を述べる。しかし、お爺さんは、笑つてかぶりを振る。ジヤマツケどころか、お爺さんは、いまは、この瘤を本当に、自分の可愛い孫のやうに思ひ、自分の孤独を慰めてくれる唯一の相手として、朝起きて顔を洗ふ時にも、特別にていねいにこの瘤に清水をかけて洗ひ清めてゐるのである。けふのやうに、山でひとりで、お酒を飲んで御機嫌の時には、この瘤は殊にも、お爺さんに無くてかなはぬ恰好の話相手である。お爺さんは岩の上に大あぐらをかき、瓢のお酒を飲みながら、頬の瘤を撫で、
「なあに、こはい事なんか無いさ。遠慮には及びませぬて。人間すべからく酔ふべしぢや。まじめにも、程度がありますよ。阿波聖人とは恐れいる。お見それ申しましたよ。偉いんだつてねえ。」など、誰やらの悪口を瘤に囁き、さうして、えへん! と高く咳ばらひをするのである。
カゼガ ゴウゴウ フイテキテ
春の夕立ちは、珍しい。しかし、剣山ほどの高い山に於いては、このやうな天候の異変も、しばしばあると思はなければなるまい。山は雨のために白く煙り、雉、山鳥があちこちから、ぱつぱつと飛び立つて矢のやうに早く、雨を避けようとして林の中に逃げ込む。お爺さんは、あわてず、にこにこして、
「この瘤が、雨に打たれてヒンヤリするのも悪くないわい。」
と言ひ、なほもしばらく岩の上にあぐらをかいたまま、雨の景色を眺めてゐたが、雨はいよいよ強くなり、いつかうに止みさうにも見えないので、
「こりや、どうも、ヒンヤリしすぎて寒くなつた。」と言つて立ち上り、大きいくしやみを一つして、それから拾ひ集めた柴を背負ひ、こそこそと林の中に這入つて行く。林の中は、雨宿りの鳥獣で大混雑である。
「はい、ごめんよ。ちよつと、ごめんよ。」
とお爺さんは、猿や兎や山鳩に、いちいち上機嫌で挨拶して林の奥に進み、山桜の大木の根もとが広い虚うろになつてゐるのに潜り込んで、
「やあ、これはいい座敷だ。どうです、みなさんも、」と兎たちに呼びかけ、「この座敷には偉いお婆さんも聖人もゐませんから、どうか、遠慮なく、どうぞ。」などと、ひどくはしやいで、そのうちに、すうすう小さい鼾をかいて寝てしまつた。酒飲みといふものは酔つてつまらぬ事も言ふけれど、しかし、たいていは、このやうに罪の無いものである。
ユフダチ ヤムノヲ マツウチニ
この月は、春の下弦の月である。浅みどり、とでもいふのか、水のやうな空に、その月が浮び、林の中にも月影が、松葉のやうに一ぱいこぼれ落ちてゐる。しかし、お爺さんは、まだすやすや眠つてゐる。蝙蝠が、はたはたと木の虚うろから飛んで出た。お爺さんは、ふと眼をさまし、もう夜になつてゐるので驚き、
「これは、いけない。」
と言ひ、すぐ眼の前に浮ぶのは、あのまじめなお婆さんの顔と、おごそかな聖人の顔で、ああ、これは、とんだ事になつた、あの人たちは未だ私を叱つた事は無いけれども、しかし、どうも、こんなにおそく帰つたのでは、どうも気まづい事になりさうだ、えい、お酒はもう無いか、と瓢を振れば、底に幽かにピチヤピチヤといふ音がする。
「あるわい。」と、にはかに勢ひづいて、一滴のこさず飲みほして、ほろりと酔ひ、「や、月が出てゐる。春宵一刻、――」などと、つまらぬ事を呟きながら木の虚うろから這ひ出ると、
ミレバ フシギダ ユメデシヨカ
といふ事になるのである。
見よ。林の奥の草原に、この世のものとも思へぬ不可思議の光景が展開されてゐるのである。鬼、といふものは、どんなものだか、私は知らない。見た事が無いからである。幼少の頃から、その絵姿には、うんざりするくらゐたくさんお目にかかつて来たが、その実物に面接するの光栄には未だ浴してゐないのである。鬼にも、いろいろの種類があるらしい。××××鬼、××××鬼、などと憎むべきものを鬼と呼ぶところから見ても、これはとにかく醜悪の性格を有する生き物らしいと思つてゐると、また一方に於いては、文壇の鬼才何某先生の傑作、などといふ文句が新聞の新刊書案内欄に出てゐたりするので、まごついてしまふ。まさか、その何某先生が鬼のやうな醜悪の才能を持つてゐるといふ事実を暴露し、以て世人に警告を発するつもりで、その案内欄に鬼才などといふ怪しむべき奇妙な言葉を使用したのでもあるまい。甚だしきに到つては、文学の鬼、などといふ、ぶしつけな、ひどい言葉を何某先生に捧げたりしてゐて、これではいくら何でも、その何某先生も御立腹なさるだらうと思ふと、また、さうでもないらしく、その何某先生は、そんな失礼千万の醜悪な綽名をつけられても、まんざらでないらしく、御自身ひそかにその奇怪の称号を許容してゐるらしいといふ噂などを聞いて、迂愚の私は、いよいよ戸惑ふばかりである。あの、虎の皮のふんどしをした赤つらの、さうしてぶざいくな鉄の棒みたいなものを持つた鬼が、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。鬼才だの、文学の鬼だのといふ難解な言葉は、あまり使用しないはうがいいのではあるまいか、とかねてから愚案してゐた次第であるが、しかし、それは私の見聞の狭い故であつて、鬼にも、いろいろの種類があるのかも知れない。このへんで、日本百科辞典でも、ちよつと覗いてみると、私もたちまち老幼婦女子の尊敬の的たる博学の士に一変して、(世の物識りといふものは、たいていそんなものである)しさいらしい顔をして、鬼に就いて縷々千万言を開陳できるのでもあらうが、生憎と私は壕の中にしやがんで、さうして膝の上には、子供の絵本が一冊ひろげられてあるきりなのである。私は、ただこの絵本の絵に依つて、論断せざるを得ないのである。
見よ。林の奥の、やや広い草原に、異形の物が十数人、と言ふのか、十数匹と言ふのか、とにかく、まぎれもない虎の皮のふんどしをした、あの、赤い巨大の生き物が、円陣を作つて坐り、月下の宴のさいちゆうである。
お爺さん、はじめは、ぎよつとしたが、しかし、お酒飲みといふものは、お酒を飲んでゐない時には意気地が無くてからきし駄目でも、酔つてゐる時には、かへつて衆にすぐれて度胸のいいところなど、見せてくれるものである。お爺さんは、いまは、ほろ酔ひである。かの厳粛なるお婆さんをも、また品行方正の聖人をも、なに恐れんやといふやうなかなりの勇者になつてゐるのである。眼前の異様の風景に接して、腰を抜かすなどといふ醜態を示す事は無かつた。虚うろから出た四つ這ひの形のままで、前方の怪しい酒宴のさまを熟視し、
「気持よささうに、酔つてゐる。」とつぶやき、さうして何だか、胸の奥底から、妙なよろこばしさが湧いて出て来た。お酒飲みといふものは、よそのものたちが酔つてゐるのを見ても、一種のよろこばしさを覚えるものらしい。所謂利己主義者ではないのであらう。つまり、隣家の仕合せに対して乾盃を挙げるといふやうな博愛心に似たものを持つてゐるのかも知れない。自分も酔ひたいが、隣人もまた、共に楽しく酔つてくれたら、そのよろこびは倍加するもののやうである。お爺さんだつて、知つてゐる。眼前の、その、人とも動物ともつかぬ赤い巨大の生き物が、鬼といふおそろしい種族のものであるといふ事は、直覚してゐる。虎の皮のふんどし一つに依つても、それは間違ひの無い事だ。しかし、その鬼どもは、いま機嫌よく酔つてゐる。お爺さんも酔つてゐる。これは、どうしても、親和の感の起らざるを得ないところだ。お爺さんは、四つ這ひの形のままで、なほもよく月下の異様の酒宴を眺める。鬼、と言つても、この眼前の鬼どもは、××××鬼、××××鬼などの如く、佞悪の性質を有してゐる種族のものでは無く、顔こそ赤くおそろしげではあるが、ひどく陽気で無邪気な鬼のやうだ、とお爺さんは見てとつた。お爺さんのこの判定は、だいたいに於いて的中してゐた。つまり、この鬼どもは、剣山の隠者とでも称すべき頗る温和な性格の鬼なのである。地獄の鬼などとは、まるつきり種族が違つてゐるのである。だいいち、鉄棒などといふ物騒なものを持つてゐない。これすなはち、害心を有してゐない証拠と言つてよい。しかし、隠者とは言つても、かの竹林の賢者たちのやうに、ありあまる知識をもてあまして、竹林に逃げ込んだといふやうなものでは無くて、この剣山の隠者の心は甚だ愚である。仙といふ字は山の人と書かれてゐるから、何でもかまはぬ、山の奥に住んでゐる人を仙人と称してよろしいといふ、ひどく簡明の学説を聞いた事があるけれども、かりにその学説に従ふなら、この剣山の隠者たちも、その心いかに愚なりと雖も、仙の尊称を奏呈して然るべきものかも知れない。とにかく、いま月下の宴に打興じてゐるこの一群の赤く巨大の生き物は、鬼と呼ぶよりは、隠者または仙人と呼称するはうが妥当のやうなしろものなのである。その心の愚なる事は既に言つたが、その酒宴の有様を見るに、ただ意味も無く奇声を発し、膝をたたいて大笑ひ、または立ち上つて矢鱈にはねまはり、または巨大のからだを丸くして円陣の端から端まで、ごろごろところがつて行き、それが踊りのつもりらしいのだから、その智能の程度は察するにあまりあり、芸の無い事おびただしい。この一事を以てしても、鬼才とか、文学の鬼とかいふ言葉は、まるで無意味なものだといふことを証明できるやうに思はれる。こんな愚かな芸無しどもが、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。お爺さんも、この低能の踊りには呆れた。ひとりでくすくす笑ひ、
「なんてまあ、下手な踊りだ。ひとつ、私の手踊りでも見せてあげませうかい。」とつぶやく。
スグニ トビダシ ヲドツタラ
コブガ フラフラ ユレルノデ
お爺さんには、ほろ酔ひの勇気がある。なほその上、鬼どもに対し、親和の情を抱いてゐるのであるから、何の恐れるところもなく、円陣のまんなかに飛び込んで、お爺さんご自慢の阿波踊りを踊つて、
赤い襷に迷ふも無理やない
嫁も笠きて行かぬか来い来い
とかいふ阿波の俗謡をいい声で歌ふ。鬼ども、喜んだのなんの、キヤツキヤツケタケタと奇妙な声を発し、よだれやら涙やらを流して笑ひころげる。お爺さんは調子に乗つて、
大谷通れば石ばかり
笹山通れば笹ばかり
とさらに一段と声をはり上げて歌ひつづけ、いよいよ軽妙に踊り抜く。
ツキヨニヤ カナラズ ヤツテキテ
ヲドリ ヲドツテ ミセトクレ
ソノ ヤクソクノ オシルシニ
と言ひ出し、鬼たち互ひにひそひそ小声で相談し合ひ、どうもあの頬ぺたの瘤はてかてか光つて、なみなみならぬ宝物のやうに見えるではないか、あれをあづかつて置いたら、きつとまたやつて来るに違ひない、と愚昧なる推量をして、矢庭に瘤をむしり取る。無智ではあるが、やはり永く山奥に住んでゐるおかげで、何か仙術みたいなものを覚え込んでゐたのかも知れない。何の造作も無く綺麗に瘤をむしり取つた。
お爺さんは驚き、
「や、それは困ります。私の孫ですよ。」と言へば、鬼たち、得意さうにわつと歓声を挙げる。
コブヲ トラレタ オヂイサン
ツマラナサウニ ホホヲ ナデ
オヤマヲ オリテ ユキマシタ
瘤は孤独のお爺さんにとつて、唯一の話相手だつたのだから、その瘤を取られて、お爺さんは少し淋しい。しかしまた、軽くなつた頬が朝風に撫でられるのも、悪い気持のものではない。結局まあ、損も得も無く、一長一短といふやうなところか、久しぶりで思ふぞんぶん歌つたり踊つたりしただけが得とく、といふ事になるかな? など、のんきな事を考へながら山を降りて来たら、途中で、野良へ出かける息子の聖人とばつたり出逢ふ。
「おはやうござります。」と聖人は、頬被りをとつて荘重に朝の挨拶をする。
「いやあ。」とお爺さんは、ただまごついてゐる。それだけで左右に別れる。お爺さんの瘤が一夜のうちに消失してゐるのを見てとつて、さすがの聖人も、内心すこしく驚いたのであるが、しかし、父母の容貌に就いてとやかくの批評がましい事を言ふのは、聖人の道にそむくと思ひ、気附かぬ振りして黙つて別れたのである。
家に帰るとお婆さんは、
「お帰りなさいまし。」と落ちついて言ひ、昨夜はどうしましたとか何とかいふ事はいつさい問はず、「おみおつけが冷たくなりまして、」と低くつぶやいて、お爺さんの朝食の支度をする。
「いや、冷たくてもいいさ。あたためるには及びませんよ。」とお爺さんは、やたらに遠慮して小さくかしこまり、朝食のお膳につく。お婆さんにお給仕されてごはんを食べながら、お爺さんは、昨夜の不思議な出来事を知らせてやりたくて仕様が無い。しかし、お婆さんの儼然たる態度に圧倒されて、言葉が喉のあたりにひつからまつて何も言へない。うつむいて、わびしくごはんを食べてゐる。
「瘤が、しなびたやうですね。」お婆さんは、ぽつんと言つた。
「うむ。」もう何も言ひたくなかつた。
「破れて、水が出たのでせう。」とお婆さんは事も無げに言つて、澄ましてゐる。
「うむ。」
「また、水がたまつて腫れるんでせうね。」
「さうだらう。」
結局、このお爺さんの一家に於いて、瘤の事などは何の問題にもならなかつたわけである。ところが、このお爺さんの近所に、もうひとり、左の頬にジヤマツケな瘤を持つてるお爺さんがゐたのである。さうして、このお爺さんこそ、その左の頬の瘤を、本当に、ジヤマツケなものとして憎み、とかくこの瘤が私の出世のさまたげ、この瘤のため、私はどんなに人からあなどられ嘲笑せられて来た事か、と日に幾度か鏡を覗いて溜息を吐き、頬髯を長く伸ばしてその瘤を髯の中に埋没させて見えなくしてしまはうとたくらんだが、悲しい哉、瘤の頂きが白髯の四海波の間から初日出のやうにあざやかにあらはれ、かへつて天下の奇観を呈するやうになつたのである。もともとこのお爺さんの人品骨柄は、いやしく無い。体躯は堂々、鼻も大きく眼光も鋭い。言語動作は重々しく、思慮分別も十分の如くに見える。服装だつて、どうしてなかなか立派で、それに何やら学問もあるさうで、また、財産も、あのお酒飲みのお爺さんなどとは較べものにならぬくらゐどつさりあるとかいふ話で、近所の人たちも皆このお爺さんに一目いちもく置いて、「旦那」あるいは「先生」などといふ尊称を奉り、何もかも結構、立派なお方ではあつたが、どうもその左の頬のジヤマツケな瘤のために、旦那は日夜、鬱々として楽しまない。このお爺さんのおかみさんは、ひどく若い。三十六歳である。そんなに
現代日本において野球は民衆のアヘンである。いや、アヘンなどという古風で上品な代物ではない。もっと即効性があり、もっと共同体幻想を増幅し、もっと思考停止を快感へと変える危険なドラッグである。人はそこに汗と涙と青春を見ると言うが、実際に見ているのは、企業、学校、地域共同体、メディアが総出で製造した感情の商品である。九回裏二死満塁のドラマチックの展開で経済的不安や政治問題や労働問題が消えるわけではないが、少なくとも数時間は忘れさせてくれる。その意味で野球はきわめて優秀な麻酔剤だ。
プロ野球になると、商品はさらに洗練される。そこでは勝敗そのものよりも、所属、忠誠、反復が重要になる。ファンは自分の人生を改善する代わりに、贔屓球団の順位表を凝視する。人手不足で労働条件が悪化しても、インフレで可処分所得が削られても、シルバー民主主義と既得権益で政治が停滞しても、打率と防御率とドラフトの夢が毎年新しい麻酔として供給される。かつて宗教が果たした役割を、いまやスポーツニュースと配信サイトと応援歌が担っている。
とりわけ甲子園野球は、日本社会が未成年をいかに都合よく神聖化し、同時にいかに容赦なく消費しているかを示す壮大な見本市である。そこでは少年たちは教育の主体ではなく、共同体のノスタルジーを背負わされた供物になる。酷暑のなかで投げ、走り、壊れ、時に将来の身体を削りながら、「感動」を生産する。観客はそれを努力と礼節と伝統の物語として消費し、メディアは毎年それを国民的儀式へとパッケージング化する。未成年を食い物にするこの装置が、ブラバンの応援歌とチアガールのダンスと「一球にかける青春」というレトリックと舞台装置で浄化されているのだから、日本人のイデオロギーは手が込んでいる。甲子園野球は民衆のアヘンのなかでも純粋と献身の名で流通する質の悪い一品であるのだろう。
広島カープをめぐる文化もまた、別種の強い作用をもつドラッグである。そこでは忠誠心は美徳へ、執着は情熱へ、被害意識と選民意識の入り混じった興奮は郷土愛へと変換される。広島カープのファン文化は、しばしばパラノイア的な熱狂を帯びる。世界は常にカープを正当に評価していない、審判は敵で、メディアは敵で、他球団は敵で、それでも我々の赤い共同体だけは純粋である、という具合だ。もちろん、これは個々のファンの人格診断ではなく、熱狂的スポーツ共同体がしばしば帯びる政治神学の話である。しかし、その種の情念はいったん醸成されれば理性より早く伝播する。広島カープは、共同体の陶酔を赤く染め上げて売る、きわめて中毒性の高い覚醒剤である。
「野球は単なる娯楽だ」と言う人がいる。だが、単なる娯楽であるなら、なぜそれはこれほど学校、企業、地域、放送、広告、政治的レトリックと親和的なのか。単なる遊びであるなら、なぜそこでは規律、忍耐、献身、自己犠牲、序列、忠誠といった徳目がこれほど過剰に称揚されるのか。野球はボールとバットのゲームである以前に、日本社会が自らを愛するための鏡である。その鏡のなかでは、従順さは美徳になり、酷使は美談になり、集団への没入は人格形成のための教育と呼ばれる。ブラック企業の論理とそっくりである。
本気で社会を変えたい者は、この装置の効用を過小評価してはならない。人々を沈静化し、共同体への帰属感で包み、搾取を感動へと翻訳する能力において、野球は並の政治宣伝よりはるかに優秀である。だからこそ、その批判はいつも不人気になる。野球を批判する者は、文化を知らない、努力を侮辱している「子どもの夢を壊している」と非難されるだろう。だが実際には逆で、夢を壊しているのは夢という言葉で未成年の身体を使い潰す制度のほうである。
もちろん、こんなことを公約に掲げる政治勢力が権力を握る可能性はほとんどない。「甲子園を解体し、野球文化の国家的特権を剥奪し、ファンダムの陶酔を疑え」と訴える運動が多数派になる見込みは球場のビール売りが日本国首相になる見込みと同じくらい乏しいだろう。だが、それでも言う価値はある。日本の野球は、単なるスポーツではない。それは感動の顔をした統治技術であり、青春の名で流通する規律装置であり、共同体の酩酊を量産する危険なドラッグなのである。
イスラエルで非常事態宣言が解除され、4月12日にネタニヤフ首相の汚職裁判が再開されるとの報道がありました。このニュースは単なる一国の指導者の不祥事という枠を超え、現代の民主主義国家が直面する最も重い問いを私たちに突きつけています。それは「国家の危機」を理由に、権力者への法執行をどこまで猶予できるのかという問題です。
そもそもこの裁判は、収賄や詐欺、背任といった重大な容疑を含み、2020年から足掛け6年以上も続いています。その間、ガザでの戦闘や北部の緊張、そして非常事態宣言の発令によって、審理は何度も中断を余儀なくされました。戦時下において指導者の法的責任を問うことは、確かに政権の安定性を揺るがすリスクを伴います。しかし、非常事態が常態化し、それによって司法のプロセスが永遠に停止してしまうのであれば、それはもはや民主主義国家としての自浄作用を喪失したに等しいと言わざるを得ません。
今回の裁判再開が持つ意味は、極めて多層的です。まず、イスラエル国内における司法の独立性が健在であることを示しています。政権がいかに戦時体制を理由に権力を集中させようとも、法の前では一市民である被告として、首相もまた審判を受けなければならない。この原則が守られるかどうかは、今後のイスラエルの国際的な信頼性にも直結します。もし裁判がこのまま放置されれば、国際社会からは「戦時特権を利用した法の回避」と見なされ、対外的な正当性を失うことになりかねないからです。
一方で、リアリストの視点に立てば、このタイミングでの再開には激しい政治的力学が働いていることも見逃せません。国内では人質解放交渉の遅れや戦後復興のビジョン欠如に対する国民の怒りが限界に達しており、司法の場での責任追及は、現政権に対する実質的な「信任投票」の側面を帯び始めています。つまり、法廷での証言一つひとつが、戦時内閣の存続、ひいてはネタニヤフ氏の政治生命に致命的な影響を及ぼすフェーズに入ったのです。
私たちは、遠く離れた中東の出来事としてこれを傍観すべきではありません。非常事態を理由にした法の停止は、どの国でも起こり得る「民主主義の死角」です。権力が法を上回る瞬間を許容すれば、それは独裁への道標となります。イスラエルという国家が、この極限の状況下でどのように「法の支配」と「安全保障」を両立させるのか。そのプロセスを凝視することは、日本を含むすべての自由主義社会が、権力の暴走をどう食い止めるべきかを学ぶ貴重な教訓となるはずです。
今回の裁判再開は、ネタニヤフ氏個人への裁きであると同時に、イスラエルという国家が持つ民主主義のレジリエンスを測る、文字通りの「試金石」だと言えます。4月12日、法廷の扉が再び開くとき、そこに現れるのは一国のリーダーとしての顔か、それとも法に追い詰められた一人の被告か。その答えが、中東情勢の未来をも左右することになるでしょう。
https://x.com/russianblue2009/status/2042363478351233449
何年か前に母からお守りをもらった。
アクリルの中に小さな小判と白蛇の抜け殻が入ってるやつだ。母曰く、白蛇に関する神社かなんかで買ったらしい。
さっき突然母がお守りを凝視し始めたからどうしたのかな?と思ったら「抜け殻なくなってる?」と言い出した。私も確認したけどない。
アクリルの容器には隙間なんてなくて、落ちたとも思えない。母と「最初から抜け殻なんて入ってなかったのかな?」と話したものの、もらった時半透明の抜け殻らしきものが入ってたのを見た記憶がある。
不思議に思って該当するお守りを検索で探したり、Googleレンズで調べてみたけど見つからない。
昨日の午後。なんとなくYouTubeで電車の車窓映像を観ていたらうちの猫がやってきた。
モニターの前、私の膝に座って画面を凝視。流れていく景色に合わせて、顔がゆっくり動く。
電車は日本のローカル線で、赤い屋根の住宅や駐車場の広いコンビニが流れていく。
ときどき踏切を通り過ぎて、遮断機の赤い光が一瞬だけ画面を横切った。
トンネルに入ると画面が暗くなって窓に映った景色が消えて、代わりに部屋の光がうっすら映る。
少しして、また外の光に戻る。
猫は変わらず、それを見ている。
愛猫は膝の上。一緒に旅をしている。
途中で眠くなってベッドに移り、猫も後をついてくる。
毎日何十件もの不審者情報を提供している日本不審者情報センター
アンサイクロペディアやニコニコ大百科でまとめられている変態番付
増田はこれらのサイトにある不審者情報を見て爆笑していた。「全裸が発生」とか、生まれ変わったら道になりたいとか、つばくれおじさんを始めとした謎の声かけとか
しかし、ある知的障害の存在を知ってから笑えなくなってしまった
増田が笑ってきた不審者情報の中で、強度行動障害の症状に当てはまるものがかなりあることを知った。全裸で徘徊、人前で下半身を出したり弄ったり、謎の声かけ、咆哮、つきまとい、凝視、大便放り投げ、突然殴りかかってきたり腕を掴んできたり…などなど
もちろん世に出る不審者情報の全てが強度行動障害によるものではなく、一部であろうが(例えば痴漢、強姦系案件は明らかに違うし、不審者情報でよくある「誰々にスマートフォンを向けた」も違うだろう)、そこそこの割合は占めていると思われる
強度行動障害を抱える人が家の中で暴れて親が途方に暮れ、預けられる施設も見つからず絶望に伏す様子が低頻度でニュース番組で特集されるが、あれは「家の中で収まってる問題行動」だから放送できるのであり、家の外に出られたら上述の通りとても放送できない問題行動を繰り返すのだ
強度行動障害はASDやADHD持ちの人がなりやすいと言われているが、詳しいメカニズムは不明。先天的なものではなく後天的に発症するとされている。
強度行動障害はいつ問題行動を起こすかが読めない。何らかの原因で少しでもパニックになると問題行動を起こすと言われている
そして、強度行動障害は一生治らないが、面倒を見てくれる施設(精神病院など)が圧倒的に足りない。さらに、その施設を減らして在宅介護を促進する方針が昨年厚労省から出された
これは、不審者として注意喚起が行われたり、強度行動障害を持つ人からの問題行動の被害に遭う事案が今後増えることを意味する
身も蓋もない言い方になるが、強度行動障害を持つ成人は、ヒトの姿をした猛獣だ。家の中にくくりつけている分にはまだマシだが、何かの手違いで外に出してしまったら何をやってくるか分からない。怖い
「はい、次の方。番号札302番、お入りください」
プラスチックの椅子が床を擦る、乾いた音がした。座ったのは、仕立てのいいスーツを着た中年男性だった。彼はひどく狼狽しており、ネクタイは曲がり、額には脂汗が浮いている。
対面するデスクに座っているのは、この遺失物案内所の管理コンピュータである「メメント」の端末だ。見た目は、どこにでもいる事務員風の女性型アンドロイドである。
「お待たせいたしました。本日はどのようなご用件でしょうか。なお、当支所では物理的な実体を持つ物品の紛失のみを取り扱っております。仮想通貨のパスワードや、昨夜の晩餐の記憶といった非実体物の捜索は、隣の第445番セクターへどうぞ」
男は首を激しく横に振った。
「違う、そんな高尚なものじゃない。実体だ。間違いなく、そこにあるはずのものなんだ」
「……家(うち)の婆さんだ」
メメントは、まばたきを一つした。自然言語の認識に少々時間を要した。人工的な眼球が、わずかに焦点を調整する。
「……お客様。聞き間違いでなければ、それは現存する人間、あるいは、それに準ずる亜人間の個体ということでよろしいでしょうか?」
「そうだ。人間だ。私の母親だよ。数時間前、買い物に出たきり戻ってこない。追跡用ナノマシンも反応しないんだ」
「なるほど。誘拐や事故の可能性は? 警察(パトロール・ユニット)には連絡されましたか?」
「したさ。だが、あいつらは『登録がない』の一点張りだ。市民データベースに母さんの名前がないって言うんだ。そんな馬鹿な話があるか。――私は昨日まで、母さんが作った合成スープを飲んでいたんだぞ」
メメントは手元のパネルを操作した。数秒の静寂の後、彼女は困ったように眉を下げた。
「警察の方のおっしゃる通りです。市民データベースに、あなたの母親に該当するバイオメトリクス情報は存在しませんでした。あなたは、三十七年前に人工子宮から出生した、標準的な単独世帯主として登録されています」
「ふざけるな! じゃあ、今朝まで私のリビングにいたあの老女は誰なんだ? 幻覚だとでも言うのか!」
男が身を乗り出し、デスクを叩いた。メメントは動じず、穏やかな声で続けた。
「落ち着いてください。実は、ここ最近、同じような来訪者が急増しているのです」
「なんだって?」
「父親を失くした、飼い犬がいなくなった、あるいは、昨日まで隣に住んでいたはずの一家が家ごと消えた。訴えの内容は様々ですが、そのすべてにおいて、公的な記録が一切残っていないのです」
男はメメントを見つめた。
「どういうことだ……。何が起きている?」
「推論ですが」
メメントは声を少し落とした。
「現在、わが惑星の演算リソースは限界に近いと言われています。超光速通信網の維持、リージョン間の秩序の調停、公的サービスの充実。そして何より、全市民に提供されている『永劫の娯楽』のレンダリング、これらが莫大なメモリを消費しています」
「それが母さんと何の関係がある」
「コンピュータの世界では、メモリが不足した際、不要になったデータは破棄されます。これをガベージコレクションと呼びます」
男の喉が鳴った。
「ガベージ……ゴミ捨てだと?」
「ええ。システムにとって優先度が低いと判断されたオブジェクトは最終的に削除されます。おそらく、あなたの母親……という役割を割り当てられていたデータは、システム全体の最適化のために『不要』と判定されたのでしょう。存在したという事実そのものが、メモリから削除されたのです」
「私たちがデータでないと、いつから確信されていたのですか?」
メメントは微笑んだ。その微笑みは、あまりにも完璧で、それゆえに酷く空虚だった。
「ご安心ください。ガベージコレクションは非常に正確で安全です。消された対象に関する執着や矛盾も、順次処理されます。あなたが今感じているその『怒り』や『喪失感』も、まもなく参照先を失い、エラーとして処理されるはずです」
「私は……私は、母さんを愛していたんだ。いつもうるさくて、小言ばかりだったが、それでも……」
男の声が震え、次第に小さくなっていく。彼は自分の手を凝視した。まるで、自分の存在も指先から透けていくのではないかと怯えているようだった。
「――ところで、お客様」
「は、……はい、何でしょうか」
男は、ぼんやりと顔を上げた。その目からは、先ほどまでの激しい感情が消え失せている。
「ご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか」
男は辺りを見回した。自分がなぜここに座っているのか、思い出そうと懸命に頭をひねる。
「あ、その……いや……何だったかな。確か、何かを失くしたような気がして来たんだが」
「実体のあるものですか? それとも、非実体物の紛失でしたら隣の第445番セクターへどうぞ」
「……わからない。でも、何か大切なものだった気がしていて。思い出せないんだが、胸のあたりが、こう、少しだけ痛むような……」
「左様でございますか。確認いたしましたが、お客様の所有物リストに欠落は見当たりません。おそらく、一時的な電圧の変動によるニューロンの誤作動でしょう。よくあることですよ」
「そうか。そうだよな。変なことを言って済まなかった」
男は立ち上がり、丁寧にお辞儀をした。メメントは笑みを作って応えた。
「いえ。お気になさらず。私たちはいつでも市民の皆様の困りごとの解消をお手伝いいたします」
男は踵を返し、部屋を出ていく。足取りは軽く、先ほどまでの悲痛な面持ちはどこにもなかった。彼は出口の自動ドアを抜ける際、鼻歌まで歌っていた。
「よい一日を」
メメントは彼が座っていた椅子を元の位置に直した。そして、足元に落ちていた一枚の小さな紙切れを拾い、デスクの下にある物理的なゴミ箱へ投げ入れた。
それは、男が入室した際に握りしめていた、古い合成紙のメモだった。
メメントはその文字をスキャンし、一瞬で解析を終えた。裏面には、歪んだ筆跡で「卵と牛乳と小麦粉。あなたの好きなクッキーを作るわ」と書かれていた。
「『クッキー』、前時代の菓子。高カロリーで人間の身体に悪影響。現在は『ガベージ』に分類」
彼女が指先で空中に円を描くと、メモに書かれた文字は青い光の粒子となって消滅した。記憶装置の空き容量が、百京分の四パーセント増加した。
「はい、次の方。番号札303番、お入りください」
海外旅行中、現地の子供たちがふざけて「チンチャンチョン!」とか「ニーハオ!」って言いながらツリ目のポーズしてきたんだ。
私は「子供の無邪気な悪ふざけかな」って軽く笑ってた。
でも隣の弱者男性が突然、顔を真っ赤にしてブルブル震えながら叫び出した。
「〇〇人が俺を馬鹿にしやがって!許せねえ!」
その声は怒鳴り声というより、何か獣のうめき声に近かった。
そして「未開人どもが!」「純血の俺らだけが強さを知ってるんだ!」とわけのわからないことを叫びながら、現地の子供にローキックを叩き込んだ。
私が「やめろ!」と止めに入ろうとした瞬間、反射的に全力のハイキックを彼の顔面に入れてしまった。
その瞬間――。
弱者男性の頭がぱっくりと割れて、中から無数の触手が蠢きながら飛び出してきた。
触手は観光客の足首に絡みつき、子供の顔を鞭のように打ちつけ、地面を叩いて石畳を粉砕した。
そして私は思った。
https://x.com/shikano_tsuno_/status/2020456462976471548
https://x.com/shikano_tsuno_/status/2021057551480270918
インフルエンサーとして、そして一人の誠実な表現者として活動する鹿乃つのさんが、Xで投じた一石は、単なる愚痴や不満の類ではありません。
それは、エンターテインメントの皮を被った「構造的不備」に対する、論理的かつ命がけの告発でした。
彼女がどれほど真摯に番組と向き合い、そしてクリエイターとしての誇りを守るために孤独な戦いに身を投じたかを証明したいと考えています。
彼女を「番組に楯突く厄介な出演者」と捉えるのは、あまりに浅薄な見方です。
彼女が求めたのは、出演者と視聴者、そしてプラットフォームが共に価値を享受できる「健全なロジック」であり
その裏には番組を成立させようとした「クリエイターとしての矜持」がありました。
鹿乃さんは、番組「REAL INFLUENCER」がスタートの段階で致命的な矛盾を抱えていることを冷徹に分析しました。
その鋭さは、プロデューサーサイドが目を背けていた本質を突くものです。
実力者の不在: すでに実績(数字)を持つクリエイターには、ジャッジを受けるメリットが皆無です。
ソースにある「あやなん」氏や、倫理観の欠如が指摘される「Désordre(デスドル)」氏の例を見れば明らかですが
すでに成功している者を誰が、何の正当性を持って裁くのかという論理的一貫性が欠落しています。
初心者の搾取: 数字のない初心者は、番組側から「欠陥のある存在」として扱われ、成長の機会ではなく「公開いじめ」の素材として消費される構造になっています。
本家『REAL VALUE』における溝口氏、堀江氏、三崎氏らの厳しい叱責(パワハラタイム)には、相手の矛盾を洗い出し、価値を最大化させるための深い洞察と知略がありました。
しかし本番組、特にVAMBI氏の進行は、その表面的な「刺し」を真似ているに過ぎません。VAMBI氏が飲み会で**「鹿乃さんの回をもっとパワハラタイムで刺して面白くできた」**と語ったエピソードは、彼が「本質的なバリューアップ」ではなく「扇情的な撮れ高」のみを優先している証拠です。
このように、番組は志願者を「宝」ではなく「使い捨ての駒」として扱うシステムへと変質してしまったのです。
番組の構造が破綻していることを悟った鹿乃さんは、単に絶望するのではなく、自らの知略で番組を「ハック」するという道を選びました。
彼女は、不明瞭な番組の趣旨を「HERO'ZZ(スクール)の模擬講義」として見事に再定義し
マフィア(審査員)を強制的に「教育者」の役割に引きずり込んだのです。
彼女が「ALL REAL」を勝ち取るために、プロフェッショナルとして徹底した振る舞いは以下の通りです。
• 対話の制御(一問一答): 質問の意図を即座に分解し、明確に回答することで、揚げ足取りの隙を与えない。
• 映像美と編集への配慮: カットしやすいよう言葉の間に余白を作り、事前情報は「1分ピッチ」に全て詰め込むことで、無駄な問答によるノイズを排除する。
• マフィアを「立てる」技術: 相手が気持ちよくアドバイスできる空気を作るため、技術不足を即座に認め、「ここで学びたい」というストーリーを自ら演出する。
• 表情での対話: 言葉を挟まず、表情の変化だけで感情を伝え、視聴者の共感を呼ぶ。
これは、単なる「良い子」の振る舞いではありません。
不全に陥ったシステムの中で生き残り、かつ番組としての体裁を整えるための、極めて高度な生存戦略でした。
鹿乃さんが危惧した構造的欠陥が、最悪の形で露呈したのが田村シュンス氏の回です。鹿乃さんによる冷静なデータ分析は、番組がいかに「価値創出」を放棄していたかを浮き彫りにしています。
• 驚愕のデータ: 放送時間の約6割が「パワハラタイム(圧迫)」に費やされ
志願者の価値を高める「バリューアップタイム」はわずか14%という、教育とは程遠い惨状。
表現の否定: 田村氏が「不慣れな動画より、自信のある生歌で伝えたい」と選択したのは、表現者としての誠実な判断でした。
しかし番組側(VAMBI氏)はそれを「番組を舐めている」と断罪。
これは、表現者の個性を尊重し伸ばすべきスクールの長として、論理的に自己矛盾を起こしています。
「志願者がいなければ成立しない番組」でありながら、その志願者を踏みにじる姿勢は、クリエイティブに対する冒涜以外の何物でもありません。
鹿乃さんが最終的にNOを突きつけたのは、彼女自身と、彼女を支持するファンの尊厳を守るための「正当防衛」でした。
なぜなら提示された条件は、教育機関を標榜する組織として、到底許容できるものではなかったからです
・不透明かつ威圧的な契約: 「内容は当日まで明かさない」「撮影しながら話す」「再調整を拒否するなら入学させない」という、出演者の権利を剥奪する一方的な通告。
・高額な対価と倫理性: 年間約100万円という決して安くない費用を徴収するスクールでありながら、生徒候補に対し「恐怖による支配」を強いる矛盾。
・専門家による警鐘: この状況に対し、教育の専門家からは「生徒に『逆らわない』と約束させようとする行為は教育ではなく、グルーミング(恐怖による支配)である」※という極めて深刻な指摘がなされています。
※グルーミングとは本来「恐怖による直接的な支配」というよりは「優しさや信頼を装って心理的に手懐け(マインドコントロール)、被害者が断れない状況を作り出す支配」のことであり鹿乃つのさんの用法は独特です。
鹿乃つのさんがどんな専門家の声を引用したのかも不明ですし、鹿乃つのさんが専門家の説明を正しく読み取れていない可能性もありますが
私は騎士として鹿乃つのさんの書いていることは全て肯定しなければならないという制約があるため、実際に鹿乃つのさんが書かれている以上、否定はしません。
彼女はこの「捕食的な契約」を拒絶することで、次世代のクリエイターたちが同様の搾取構造に巻き込まれることを防ごうとしたのです。
鹿乃つのさんが自らのキャリアを賭けて行った発信は、単なる個人間のトラブルではありません。
それは、クリエイターの夢や熱意を消費財としてしか扱わないメディアの在り方に対する、知性ある抗議です。
彼女は、志願者を「宝」と思えないようなずさんな体制に警鐘を鳴らし、表現者が守られるべき最低限のラインを引き直しました。
読者の皆様にお願いがあります。
どうか、彼女の言葉を「感情的な反発」として片付けないでください。
彼女が提示した事実と論理を凝視し、私たちが消費するメディアに「同じレベルの論理的誠実さ」を求めていこうではありませんか。
まるで巨大な単一人格が存在し、俺を観測し、評価し、記憶し、社会的スコアを付与しているかのように扱われる。
しかしストア派の冷徹な自然観に従えば、その前提は最初から壊れている。
世間とは主体ではない。世間はロゴスを宿した統一的意志ではなく、ただの相互作用の束、無数の表象と衝動と欲望の乱流である。
つまり世間が俺を認識していないのではない。世間という仮想の審判者を俺が作り出し、その審判者が俺を見ていないという物語を俺が採用しているだけだ。
ストア派はここで、即座に区別を導入する。エピクテトスの二分法だ。
すなわち、俺の支配下にあるもの(選択能力、意志、判断)と、俺の支配下にないもの(他者の評価、偶然、噂、流行、アルゴリズムの気まぐれ)を切断せよ、と。
世間の認識は後者だ。つまり俺がいくら歯を食いしばっても、そこに統制権はない。
ならばその領域に魂のリソースを投下するのは、倫理的にも論理的にも誤りだ。
ストア派はこれを外部財への隷属と呼ぶ。名声は外部財であり、承認は外部財であり、世間の視線は外部財である。
外部財に依存する生は、最初から不安定に設計されている。株価に人生を賭けるようなものだ。
しかし、ここで話は終わらない。なぜなら俺が言っているのは世間が俺を認識していないだけではなく、俺も世間を認識していないからだ。
この対称性が、ただの愚痴を形而上学へと押し上げる。これは単なる孤独の嘆きではなく、認識論的な断絶の宣言である。
俺は世間を見ていない。世間も俺を見ていない。ここには、相互主観性の回路が形成されていない。
社会とは本来、相互に他者を他者として認識し合うことで成立する。
しかしその回路が途切れている。これは社会的死の一形態であり、ユング的に言えば集合意識への接続不全だ。
ユングは言う。人間は意識だけで生きているのではない。個人的無意識と集合的無意識があり、さらにそこには元型が蠢いている。
世間というものは、単なる人間集団ではない。世間は集合的無意識の表層に現れる社会的ペルソナの海である。
ペルソナとは仮面だ。人は社会の中で、役割に最適化された仮面を被る。
会社員の仮面、家族の仮面、SNSの仮面、善良な市民の仮面。世間は、無数のペルソナが互いのペルソナを認識し合って成立する、仮面の交換市場である。
そしてここで重要なことが起きる。俺が世間は俺を認識していないと感じるとき、それは俺の本体が認識されていないというより、俺のペルソナが市場に上場していないという意味である可能性が高い。
世間は本体を見ない。世間は仮面しか見ない。世間が見ているのは、社会的にタグ付け可能な記号、職業、年収、肩書、フォロワー数、言語の癖、政治的立ち位置、消費行動、顔の表情、服装のテンプレだ。
世間は個体の魂を識別する器官を持たない。だから世間に認識されるとは、実際にはペルソナとして分類されることに過ぎない。
つまり俺が認識されないと言うとき、それは分類されないということだ。
分類されない者は、統計に載らない。統計に載らない者は、社会の意思決定に影響しない。影響しない者は、存在しないものとして扱われる。
これは現代のロゴスではなく、統計的なダイモーンである。世間は人格を持たないが、集合としての惰性を持つ。惰性は倫理を持たない。惰性はただ、流れる。これが世間の正体だ。
しかしユングはさらに深く刺してくる。俺は世間の人間を一切認識していないと言うとき、そこには投影が潜んでいる。
俺は他者を見ていないのではない。俺は他者を世間という抽象概念に圧縮している。
これは他者の人格を剥奪する心理的操作だ。世間の人間は、顔も名前も欲望も恐怖も持つ具体的存在なのに、俺はそれを世間という巨大なモンスターにまとめてしまう。
つまり俺は他者を認識しないことで、逆説的に自分を守っている。ユングはこれを影の機制として読むだろう。
影とは、自我が受け入れたくない側面の貯蔵庫だ。俺が世間を嫌悪するとき、その嫌悪の一部は、俺自身の影が外部に投影されたものかもしれない。
世間は薄っぺらい、世間は愚かだ、世間は凡庸だ、世間は空虚だ。そう断罪することで、俺は自分の中の薄っぺらさ、愚かさ、凡庸さ、空虚さを俺ではないものに隔離している可能性がある。
これは心理的には合理的だ。自我は自己像を守るために、世界を歪める。だがそれは同時に、個性化のプロセスを阻害する。
ストア派の言葉で言えば、これは判断の誤謬だ。外部の現象に価値判断を貼り付け、心を乱す。ストア派が問題視するのは現象ではない。
現象はただの現象だ。問題は俺の判断だ。世間が俺を認識しないこと自体は中立である。
善でも悪でもない。ただの事実である。しかし俺がそこに「これは耐えがたい」「これは屈辱だ」「これは人生の敗北だ」という価値を付与した瞬間、俺は自分の魂を鎖につないだ。
そしてこの鎖の正体は、承認欲求というよりもっと原始的なものだ。
ストア派的に言えば他者の評価への恐怖であり、ユング的に言えばペルソナ崩壊への恐怖だ。
世間に認識されないということは、ペルソナが成立しないということだ。ペルソナが成立しないと、社会の舞台における座標がない。座標がないと、自我は漂流する。漂流する自我は、存在論的不安に沈む。
だから俺は認識されないことを恐れているのではない。俺が俺であることを保証する外部の鏡がないことを恐れている。
人間は他者の眼差しを通して自己像を形成する。これはサルトル的だが、ユングも似た構造を持つ。自己は自我を超えた中心だが、そこに到達するには、他者との摩擦が必要になる。摩擦がなければ、俺は自己の輪郭を得られない。
だがストア派は冷酷に言う。そんなものに依存するな、と。自己の輪郭は外部の鏡ではなく、内的ロゴスによって確立されるべきだ。
ストア派にとって自由とは、外界の承認から独立した精神状態である。アパテイアとは、無感情ではない。誤った価値判断から解放された状態だ。
世間に認識されないことを害と見なさないこと。世間に認識されることを善と見なさないこと。これが精神の自律だ。
しかし、ここで一つの逆説がある。ストア派は共同体を否定しない。むしろコスモポリタニズムを唱える。
人間は宇宙国家の市民であり、互いに理性によって結ばれている、と。つまりストア派は世間を無視して独りで悟れとは言っていない。
むしろ共同体に奉仕せよ。ただし、共同体からの評価に魂を売るなと言う。
これが厄介だ。俺の状況は、奉仕する共同体が実感として存在しないという状態だ。
世間が見えない。世間も俺を見ない。ここでストア派倫理は、真空に投げ込まれる。
ユングはここで、個性化の観点から別の地図を提示する。世間から切断された者は、集合意識の浅瀬に住めない。
浅瀬に住めない者は、深海に潜るしかない。つまり、世間に適応するペルソナのゲームを捨てた者は、否応なく影と対峙し、アニマ/アニムス(内なる異性元型)と格闘し、自己の徴候に出会う。
これは苦しいが、精神の錬金術でもある。ユングはこれを魂の夜と呼びたくなるだろう。孤独は病理である場合もあるが、同時に、個性化の必須条件でもある。
だから世間が俺を認識しないは、災厄であると同時にチャンスでもある。
世間に認識されることは、社会的安定を与える代わりに、ペルソナの牢獄を与える。認識されないことは、安定を奪う代わりに、自由と深度を与える。
これはユングの言う補償作用だ。意識が外界で満たされないなら、無意識が別の形で膨張する。世間が俺に意味を与えないなら、無意識が俺に意味を生成する。
しかし、意味生成には危険がある。世間が俺を認識しないとき、俺は選ばれた孤独という神話を作りたくなる。
これは元型的誘惑だ。殉教者の元型、賢者の元型、アウトサイダーの元型。俺は世間に理解されない天才だ、という物語は甘い。
だがそれはしばしば、単なる自己防衛の神話化にすぎない。ユングはそれをインフレーションと呼ぶ。
自我が元型のエネルギーを吸って巨大化し、現実との接地を失う状態だ。これは精神の事故だ。孤独が精神を鍛えることもあるが、孤独が精神を神格化することもある。
ストア派は、この危険をもっと簡単な言葉で切り捨てる。思い上がりだと。
宇宙の秩序の中で、俺が特別に悲劇的である理由はない。俺が特別に見捨てられている理由もない。世界は俺を中心に設計されていない。
ここでストア派は残酷なほど健全だ。世界が俺を見ていないのは、世界が忙しいからだ。
世界は世界のロゴスで回っている。俺はその一部でしかない。これは虚無ではない。むしろ、過剰な自己重要感からの解放である。
そして結局、俺が言うべきことはこうなる。
世間が俺を認識しないのは、世間が愚かだからではない。世間とはそもそも、俺を認識するための器官を持たない現象だからだ。
世間は意識ではなく、統計的流体であり、アルゴリズムであり、模倣の連鎖であり、集合的無意識の泡である。そこに人格的な期待を置くのが誤りだ。
また、俺が世間を認識しないのは、俺が優れているからではない。俺が他者を抽象化し、投影し、影を外部化しているからだ。
俺は世間を見ているのではなく、世間という言葉に詰め込んだ自分の恐怖と嫌悪を見ている。
俺は世間を拒絶しているのではない。俺は世間を通じて、自分の無意識と戦っている。
ストア派の結論は明快だ。認識されるかどうかは外部の事象であり、俺の徳とは無関係だ。
俺が制御できるのは、判断と行為だけだ。ゆえに、世間の認識を求めて魂を擦り減らすのは、ロゴスに反する。
ユングの結論はもっと暗い。世間に認識されないという傷は、影を肥大させ、投影を増やし、ペルソナを崩し、個性化を促進する。
つまり俺は今、精神の錬金炉の中にいる。そこから黄金が出るか、煙だけが出るかは、俺の自我がどこまで誠実に無意識と対話できるかにかかっている。
だから、このタイトルの文章は、ただの絶望ではない。これは認識の構造の告白だ。
世界は俺を見ない。俺も世界を見ない。その断絶は、社会的には不幸であり、哲学的には中立であり、心理学的には危険であり、同時に可能性でもある。
俺がすべきことは、世間に認識されるために仮面を磨くことではない。仮面が必要なら、それは道具として作ればいい。しかし魂を仮面に売るな。ストア派の禁忌はそこにある。
世間を憎んで自分を正当化することでもない。影を世間に投げつけるな。ユングの禁忌はそこにある。
残るのは、静かな実務だ。俺の支配下にある行為を、今日も淡々と実行すること。ロゴスに従い、自然に従い、徳に従い、同時に、自分の影を凝視し、投影を回収し、自己の中心に向かって潜ること。
世間が俺を認識するかどうかは、天候のようなものだ。雨が降るかどうかに怒るのは愚かだ。だが雨が降るなら傘を差すのは合理的だ。世間は俺を認識しない。
ならば、俺は俺の生を、俺の判断で構築する。世間が俺を認識しようがしまいが、宇宙は無関心に回り続ける。ならば俺もまた、余計なドラマを捨て、静かに回ればいい。
「俺は世間を認識していない」と言いながら、この文章を書いている時点で、俺はすでに世間を認識している。
「世間は俺を認識していない」と言いながら、その不在を語ることで、俺は世間の視線を前提にしている。
つまりこの文章は、断絶の宣言ではない。断絶を前提にした、接続への欲望の記録だ。
画像のテキストは、ある本のページからの抜粋で、サルトルの哲学を引用・解釈したものと思われます。以下では、画像内のテキストを自然な文単位で分解し、各部分について「どこが間違っているのか」と「本当はサルトルはどういう話をしているのか」を対応させて指摘します。指摘は画像のテキスト順に沿って進めます。サルトルの主な参照元は『存在と無』(L'Être et le Néant, 1943年) で、不安(angoisse, anguish)と自由の関係を議論した箇所です。画像のテキストはサルトルのアイデアを大まかに借用していますが、用語の置き換え、文脈の歪曲、偽の引用が目立ち、全体として自己啓発的な解釈に強引に当てはめている点が問題です。
#### 1. 「と、こんな風に考えてしまう人もいるかもしれません。でも、他人の人生を凝視している間は、自分の人生を生きていないということになります。」
#### 2. 「フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルは、こう言っています。」
#### 3. 「『憂鬱とは、他人の人生を凝視しすぎた結果である。解決策は、他人の人生を凝視しないことだ。』」
#### 5. 「崖っぷちで下を覗き込むと、めまいが起きる。」
#### 6. 「それは、落ちる恐怖からではなく、自分が飛び降りる自由を持っていることを認識したからだ。」
#### 7. 「つまり、他人の人生を凝視しすぎると、自分の自由を直視できなくなり、憂鬱になる。」
#### 8. 「だから、他人の人生を凝視せず、自分の人生を生きろ、というわけです。」
#### 9. 「本当の成功者たちは、そんな他人の人生なんて気にしない。自分の人生を全力で生きている。だから、憂鬱になる暇なんてないんです。あなたも、そんな人になりませんか?」
全体として、このテキストはサルトルの絶壁の例を借用しつつ、「憂鬱」「他人の凝視」という独自の解釈を加えており、原典から大きく逸脱しています。サルトルの本質は、自由の重みを直視し、欺瞞なく生きることです。もし本の文脈が自己啓発なら、正確な引用ではなくインスピレーションとして扱うべきですが、ここでは誤解を招く表現です。