はてなキーワード: 中学とは
男版のフレネミー、あります。むしろ男性の場合は「女同士の陰口・仲間外れ」みたいな形より、競争・序列・プライドの形で出ることが多い印象です。フレネミー自体は「表面上は友好的だけど、内心では競争心や不信がある関係」とされます。
典型例を挙げると――
一番ありがちな男版。
A「お前とは一番気が合うわ」
↓
でも心の中では
「でも俺のほうが上だと思いたい」
という関係。
例:
同じ部活で仲良し
同じ会社で同期
同じ趣味仲間
「昇進したんだ?まあでもあの部署大変らしいぞ」
みたいに、必ず少し水を差す。
2. 「いじりという名の攻撃型」
男同士だとかなり多い。
と言いつつ本人は「仲良い証拠」と思っている。
でも、
弱点だけは覚えている
ならフレネミー寄り。
これも男特有。
と言いながら、
車
家
で勝負してくる。
相手の成長を喜ぶより、
「昔のダメだったお前」を固定したがる。
普段:
「俺たち同期だし助け合おうぜ!」
裏では:
ただし露骨な敵ではないので、完全には切れない。
職場研究でも、こういう「助けることもあるが害することもある」曖昧な関係はストレスになりやすいとされています。
「お前の作例すごいな!」
と言いながら、
「でもそのキット、今さら買うの?」
本当に好きな友達なら、
「それ買ったのか!いいじゃん!」
で終わる。
女版フレネミーが「関係性・仲間内の位置」を巡る争いになりやすいなら、男版は
「俺とお前、どっちが上か」
面白いのは、男版は本人たちが「友情」だと思っているケースも多いところです。
「親友だからこそ遠慮なく言える」と「実は相手を下に置きたい」の境界がかなり曖昧です。
ちなみに漫画やアニメだと、男フレネミーは「ライバルキャラ」化しやすいです。友情と敵意が同居するので、物語映えするんですよね。
親は子どものあらゆる環境を自分の選択のもとで与えるわけだけどそれは遺伝子とはどう違う?
親が良いと思って与えた環境も結局のところ偶然性によって良し悪しが決まるわけだけど、良いと思って与えた遺伝子だけは完全に偶然性が排除される? こんな遺伝子を与えられなければよかったみたいな話になる? その遺伝子を活用できるかどうかは子どもの選択に委ねられてる
そもそもその遺伝子が良いかどうかは市場での需要で決まり、親が市場を決められるわけではない、自分の遺伝子のどの長所をどのように利用するかは結局本人次第
親はたとえば「この中学がいいと思って通わせる」わけだけど、それは「この遺伝子がいいと思って生まれさせる」こととはどう違う?
舞姫の授業すると荒れるっていうけどまず気に入らない内容の小説を国語の授業で教えた程度で荒れるってその中学?高校?がガラ悪くね?って思うんだが
少年の日の思い出の僕とかも他人の標本盗んで壊すという割と最低のことするけどクラスの虫取り博士が怒り狂って授業が荒れましたなんてエピソードが話題になること無いじゃん
好きなアイドルが「怖い夢を見た」という旨のストーリーをインスタにあげていた。
夢の中で、グループのために自分が死ななくてはならない夢を見たそうだ。
「私は生まれてから一度も◯にたいと思ったことのない幸せで恵まれた人間です」と書いていた。
中学生の時、友人関係がゴタゴタしたとき「まだまだ人生が続くのに、若くしてこんなに辛いことがあるなんて、この先70年も生きてられない、死にたい」と思った。
高校生の時、彼氏と別れて「これ以上人生で辛いことなんてあるのだろうか、死にたい」と思った。
大学生の時、就職活動で「働きたくもないのに、なんなら夢もないのに、こんな辛い就職活動をしなくてはならないなんて、死にたい」と思った。
結果、死んでいない。
朝起きて、夫が淹れたコーヒーを飲む
愛犬が私にピッタリとくっついて、穏やかな顔をしている
この瞬間を終点にしたい
私の好きなアイドルに言わせる「幸せで恵まれた」人生ではないのかもね
正直、今となっては私が中学〜大学時代死にたかった理由は、自分にとってちっぽけに思える
そして、どんなに辛くても絶対に生き抜いてやる、という人もいるだろう
死にたいと思ったことがあるのは、恵まれていないからとは思わない
定数外で不合格になった生徒をめぐって、中学校の先生が怒っている。「全員入学させろ」と。高校側は、全員を受け入れれば治安が悪化する、生徒と教員が被害を受けると考えている。そして高校側のこの選別は、しばしば「内なる適格者主義」だと批判される。
適格者主義、ではない
高校教員の選別の動機を分解すると、そこにあるのは「誰が教育を受けるに値するか」という価値の序列づけではない。「限られたリソースの中で、既存の生徒・教員が受ける被害をどう最小化するか」というリスク管理の論理である。この二つは倫理的に別の回路だ。前者は価値判断、後者は被害の配分にすぎない。
その意味で、「適格者主義」というラベルは、高校教員の主観的な動機を正確に言い当ててはいない。
ただし、ここに厳しい論点がある。動機がリスク回避であっても、結果としての排除機能は適格者主義と同じものになりうる、ということだ。
「治安を乱すリスクが高い」生徒を判定する材料は、結局のところ内申点、出席日数、問題行動歴といった記録である。そしてこれらは家庭環境や被虐待経験、発達特性と強く相関する。主観的には「価値判断ではなく防御」のつもりでも、構造的には「困難を抱えた生徒ほど弾かれる」という同じ選別が再生産される。
批判者が「内なる適格者主義」と呼ぶとき、彼らは高校教員の動機を誤読しているのではない。動機と無関係に生じる構造的帰結を指摘しているのだ。排除された生徒の側からすれば、動機が防衛だろうと価値判断だろうと、結果に違いはない。この論争がすれ違う核心はここにある。
もう一つ、見過ごせない心理的経路がある。中学校は義務教育ゆえに、選別の自由が構造的に存在しない。目の前に生徒がいる限り、リソース不足を理由に「引き受けられません」と言う出口が制度的に塞がれている。その不自由の中で、最悪のライフワークバランスで生徒と向き合ってきた側からすれば、「選ぶ権利を持つ側」への羨望が、道徳的な言葉——適格者主義批判——に転化して出てくることは十分にありうる。
重要なのは、この仮説はあくまで「なぜそういう言葉遣いになるか」の説明であって、批判の内容そのものの当否とは独立だということだ。動機に羨望が混ざっていても、指摘(排除の構造的帰結)は正しいことがある。逆に、動機が高潔でも指摘が的外れなこともある。ここを混同してはならない。
さらに踏み込むと、高校と中学のあいだには、リソース不足への対処の「OS」そのものに根本的な違いがある。
高校教員は、比較的冷静にこう言える。「リソース不足なので受け入れられません」と。選別権があるからこそ、この言葉は自分の無力さの告白ではなく、構造的事実の記述として発話できる。責任は制度・行政・定数の問題として自分の外に置かれる。冷静でいられるのは、この言明が自己否定を含まないからだ。
中学校教員には、この出口がない。リソース不足という事実は消えないまま、それに直面し続けるための唯一の解は、「私生活を削ってでもやることが善である」という信念に自分を作り替えることだけになる。これは合理的な選択というより、選べない状況を生き延びるための認知の再編成である。
だから両者が同じ言葉——「適格者主義」——を使って話すとき、実際には全く違う経験を語っている。
中学校教員:「リソース不足でも私は線を引かずにやってきました」(信念・自己犠牲の言語)
中学校教員からすれば、高校教員の発言は「私たちが信じ込むことで耐えてきたものを、あなたたちは制度的に免除されている」という免除への怒りに触れる。論点は「適格者主義かどうか」という客観的な体裁を取りながら、実際にはその下を「お前らはズルい、なぜなら私は信じ込むことでしか生き延びられなかったから」という感情が流れている。
一つ目——悪貨は良貨を駆逐する。ここでの「悪貨」は、リソース不足を信念で埋める中学校型のOSである。これが良貨、すなわち「リソース不足なので線を引く」という構造的な言語を駆逐する構図は、二重に働く。
組織内では、「私生活を削ってでもやる」教員が基準点になると、それをしない・できない教員が「劣った教員」として可視化される。良心的に線を引こうとする教員から先に淘汰されていく。
行政との関係では、「信じ込んで無償労働してくれる悪貨」の方が圧倒的にコストが低い。だから構造は悪貨を積極的に選別・温存する方向に力を働かせる。良貨——待遇改善を求め、線引きを構造の言葉で語る教員——は「甘えている」「生徒のことを考えていない」というレッテルを貼られて先に排除される。これは自然発生的な劣化ではなく、行政という選抜圧が悪貨を優遇するように設計されているということだ。
二つ目——地獄への道は善意で舗装されている。これも二層で効く。
個人のレベルでは、「私生活を削ることが善」という信念そのものが、本人を守るための認知的な適応でありながら、同時に本人を蝕む。自己犠牲的な「善意」が、当人にとっての地獄——過労、燃え尽き、私生活の消失——への道を敷いている。
集合のレベルでは、その善意の総和が、行政にとっての免罪符になる。「先生たちは頑張ってくれている」という物語がある限り、リソース不足は可視化されず、修正圧力がかからない。個々の教員の善意が、システムとしては生徒にとっての地獄——定数外で弾かれる、支援なく放置される——を舗装する材料になる。
結論——個人の徳目に依存する設計は、必ずどちらかの罠に落ちる
この二つの格言は、「だから善意を疑え」という話ではない。個人の徳目に依存する設計は、必ずこの二つの罠のどちらかに落ちる、という診断そのものである。
悪貨が良貨を駆逐しないためには、良貨——構造的に線を引く言葉——を選抜する側に回す仕組みが要る。地獄への道を善意で舗装させないためには、善意を制度の代替物にしないための、つまり善意がなくても機能する最低ラインの制度設計が要る。
高校と中学の対立を、「あちらの内なる差別意識」「こちらのズルさ」という個人の道徳の問題に矮小化することは、リソース不足という本丸を見えなくする。両者とも、同じ資源不足構造の下流にいる当事者にすぎない。定時制・通信制・教育支援センターなど、弾かれた後の受け皿が十分にあれば、高校は排除する必要がなく、中学も「押し付けられた」と感じない。
問うべきは「どちらが適格者主義か」ではない。どの制度的レバー——定数改善、受け皿の整備、評価制度の変更——が、悪貨の駆逐と善意の搾取という二つの罠を同時に外せるか、である。
ここ1年でホットエントリの中で触れられていたアガサ・クリスティの本書を読み終わった。ところどころ難しい熟語などあったが、とても読みやすい日本語訳だった。
内容についてはあまり触れないが(気になる人は実際読んだり、ググってあらすじ見てくれ)、この本で一番衝撃を受けたのが巻末の解説だった。
本編の感想は月並みな感想だった。つまり、「他人の気持ちも察せない、すべての事象に対して都合の良い解釈しかできない独りよがりなプアリトルジョーンは本当に救いのないやつだ」であり、現代にもこういう人いるよねというものだった。
ところが解説では、訳者の夫が「ロドニー(毒母親の夫)は嫌なやつだ」という感想について記載されており、自分の考えでは全くそこに至れなかったこともあり「そんな感じ方もあるのか!」と衝撃を受けた。
その後、何故ロドニーに対して矛先を向けているのかの理由が説明されており、非常に納得できた。
個人的には「ロドニーが娘エイブラルに、『妻の行動によって夫の幸せが失われる可能性』について諭す」場面が本当に好きで、あくまでジョーン視点で進められている物語において、ジョーンがロドニーのこの発言の真意に気づいていない(気づいたけどフィルタしてたのかもしれない)表現は本当によい場面だと思った。こういった1つの視点表現だけなのに、複数の視点があると気付かされることについてとても気持ちいいからこそ、本書の解説が刺さったと思っている。
増田過去投稿では「中学時代に読んでから、自戒のためにたまに読む」であったり、「理想だけでは生きていけないからジョーンの行動に対して嫌悪を抱かなかった」みたいな感想が見受けられて、それぞれ重要な感想だと思う。それらも含めて、本書は本当に素晴らしい本だと言える。
ちなみにあんまり小説を読まない自分がこれの前に読んだのが「ライ麦畑でつかまえて」であった。自分の読みたい小説の主人公の傾向が偏らなければと願っている。
中学校は昼飯持参でよい
女子と文化部男子に合わせて作られる給食はそのほか大多数の男子には到底足りないし飲食物の持ち込みは許されない
朝飯で1日分食えと言うのは暴論である
体の仕組みを理解していない
午後の授業と塾の授業が無駄に終わることを強いている
中高一貫にして進学実績が伸びていない高校は中学の給食を廃止するところから始めましょう
東大合格者上位の学校は中学生の男子が適切にカロリーを取れています
午後の授業も塾の授業もしっかりついていけます
中学・高校に下の学年の者が上の者に先輩と呼んで敬わなければいけない文化は部活というものが始まって以降それを契機にに成立したのか?
dorawiiより
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20260710185426# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCalDBUwAKCRBwMdsubs4+ SNWiAP9pzYggsLcOTcvEuH7SSbUjRC0mTDrcoaPbfcfeAJ0rgAD+P8nVjtQRb8wL aw4pFHO5hn2+2LNvh9xg3auFYaS62w4= =vDPa -----END PGP SIGNATURE-----
中学の時から好きな本で、まあ簡単に言うと地味で親戚からもちょっと馬鹿にされてるような行き遅れの主人公が余命宣告されたのを機に「好きなように生きたるわい!」と決意して行動していく…みたいな話なのね
ふと思い出して読み返したら、すんごい一切希望のない行き遅れ扱いされてる主人公がたった29歳でひっくり返った
春の風が教室の窓をくすぐるころ、弱者男性の増田太郎は机に突っ伏して小さくため息をついた。中学1年生の新学期。新しいクラス、初めて会う顔、そして――恐怖の婚約者たち。
「……婚約者?」
小さい頃、増田は結婚の意味を勘違いしていた。仲良しの子とずっと一緒にいられる約束、だと思っていたのだ。まさか中学に入った途端、現実はこうなるとは。
向こうから差し出されたのは、イケメン男子、山田颯太のお弁当。ウインナーがニコッと笑っているみたいに盛られていた。
「え、ありがとう……」
増田は小さく頭を下げるが、まだ机に顔を埋めたまま。彼の周りにはすでに数人の「婚約者」が待機している。男子も女子も関係ない。クラスメート全員が「婚約者」であり彼にベタ惚れで、牽制を繰り広げているのだ。
「太郎くん!今日はカレー弁当だよ!そんなウインナーよりも愛情がたっぷり詰まってるからね❤」
隣の席の笑顔満開の女子、佐藤美咲が笑顔で見せるカレー。増田の顔は青ざめる。「いや、そんなに……」
しかし教室の空気は完全に戦場だった。誰かが手を伸ばせば、すぐに別の「婚約者」が睨みをきかせる。
美咲の声に、颯太が舌打ち。男子も女子も、お弁当で争い、眼差しで牽制する――まさに「愛のバトルロワイヤル」状態。
増田はそっと机の下に手を伸ばして、ポケットの中の小さなメモを握った。そこには、昔の自分の願いが書かれていた。
あの日の夢と、今の現実――あまりにも違いすぎて、増田は思わず笑ってしまった。
「……ま、まあ、みんな、仲良くしてくれるのは嬉しいけど……」
だが、その言葉を聞くやいなや、全員が一斉に「私(俺)の太郎くんなのに!」と抗議する。教室中が喧騒に包まれ、増田はただ、頭を抱えて立ち上がった。
突然ですがみなさん、「公立中学校の部活動全面廃止」という国の方針はご存知でしょうか。
私が住む自治体では、ちょうど我が息子(現在小学校5年生)が中学へ上がる年度から「公立中学校の部活動全面廃止」となるというアナウンスが保護者へのお便りとして公式に配布されました。正直、狼狽しております。
現在は移行期間で、段階的に縮小しながら、2026〜2028年度で廃止に向かい、新たに「地域クラブ」なるものへ移行するとのことです。
少子化によるものと、教職員の働き方改革が由来であることは重々承知の上で、お気持ちを表明させていただきたく、キーボードを叩いております。
まず「地域クラブ」なるものが、いったいどこで?何ができるのか?その費用は?週何回行われるのか?など全く見通しが見えません。
これは「今後決めていくんで続報待っててね♪」とのことで、最新情報では「地域クラブの愛称を募集しています☆」などと呑気なお知らせを受け取ったまでです。
これまでは自動的に、放課後または休日や長期休みの期間、学校の敷地内でほとんど無料で(運営費・設備費・人件費)、望む限りの多種多様なアクティビティを享受することができました。
教職員の方々の多大な労力、ご家庭の事情等を犠牲にしてあの制度が成り立っていたことは、自分が中学時代のことを思い返すと「そういえば顧問の先生、子供が生まれたばっかだったのに朝練も、夏休みも、土日の試合もおったよなぁ」と気が付いてしまうのですが、では、これを実質の活動分を実費・有償とした時、いったいいくらの金額を出せば、あの「部活動」という中学生特有の時期にしか得られなかった体験を息子に与えられるのでしょうか。
スポーツクラブなり、文化系の習い事をさせた場合、私が中学生当時部活動に費やしていた時間に相当する活動
・土or日:1日✖︎2時間
[Geminiによる試算]
計算してみると、当時の活動量は年間で約560時間にのぼります。
1. 月謝:選手コース・育成コース(週4〜6日指定)の場合: 月額 20,000円〜35,000円 ほど
2. 夏休み(短期講習・合宿)の目安:プラス30,000円〜100,000円
ですよねぇという感じ。
地域クラブが民間のスポーツクラブなりと同等の費用となることはないと思いますが、それなりに覚悟しておかなければいけなそうです。
息子が現在週1で通っているスイミングスクールのコーチに探りをいれたところ「あーーー部活って・・・無くなるんでしたっけ・・・」みたいな反応だったので、民間のスポーツクラブで部活相当の受け皿となるコースが準備されている気配はなさそうでした。
金額もさることながら、次は場所っていうか、所属っていうかさ、居場所の問題も心配なのよね。
これまでは放課後に体育館や音楽室、グラウンドへ行けば仲間がいました。これからはちょっと遠くの地域体育館や、別の中学校までわざわざ足を運ぶことになるのでしょうか。
クラスや学年を超えた学校内の居場所。授業中とは違う顧問の先生の顔や、先輩後輩の上下関係、同じ部の同級生との密な繋がり。そういうものが全部変わっていくんやろうな、大丈夫かな、という感じです。私自身がクラスでは居場所がないけど、部活は行きたい、という子だったので。別の学校の子と交流ができるメリットはあるのかもしれませんが……。
それから一番の懸念は「特に何もしたくない層」はどうなるのか、という点。 私の時代は部活は強制加入でした。活発な部もそうでない部もありましたが、放課後は部活をするというルーティーンがあり、一種の「コミュニティへの所属」でもありました。
その強制力、所属、目標がなくなった中学生たちは、あり余る体力と、持て余す時間と、フラストレーション、好奇心をどこで発散するのでしょうか。バイトもできない、お金もない。発散できずに鬱憤を溜め込むのか、どないなるんでしょう。
「小1の壁」言うてますけど、これからは完全に「中1の壁」そそりたちますよ。
手は離せるけど目を離したらやべー年頃の子供達が、部活の檻、顧問の目から解き放たれ、野放し。
コンビニの前でたむろしたり、万引きしたり、ソシャゲに重課金したり、女の子ならパパ活したりさ、
子が中学生になってもフルタイムで働くと放課後の時間がやばいかも、なんて未来想像できた?
それはそうと、スラムダンクも、ハイキューも、ちはやふるも、シュートも、これからの世代の子たちにはピンとこなくなるん・・・?
ほんで10数年後の新卒の子ら「部活無し世代」言われて、挨拶はせん、上下関係も理解できん、いうてフルボッコ言われるんやろな。
信じたくはないけれど
私には中学二年生の子供がいます。中学一年生から不登校になっており、児相や担任に相談等をして外部との繋がりを切らないしているのにも関わらず、息子からいじめの八つ当たりで暴言暴力を振るわれている状況です。
以前ヤフー知恵袋で同様の質問をした際に親切な方から自立支援施設に相談してはどうか、というご回答を頂きました。児相から紹介してくれた自立支援施設に相談したら嘘つき扱いされました。
理由としては
・息子は重度のうつ病で暴力なんて振るえない、生きているのがやっと
・暴力を振るわれているというには外傷がない
とのこと
職員にはクレームを入れましたが、紹介してくれた児相の方にも悪いの念の為事情報告をしたところボイスレコーダで証拠を取ればどうかと
(実際、既にやっているのですがそういう時に限って息子は黙りこくるので失敗していました)
今度こそはと思って30本ほどは録ったと思いますが、音声には全て癇癪を起こす私の声だけで息子は何も声を発していませんでした。
あまりにも怖くなったのでボイスレコーダを捨ててしまいました。
もし自立支援の方が言っていたことが本当で、全て私の妄想だった場合どうすればいいのでしょうか。また、私は息子からの暴力から身を守るために正当防衛で手を上げることもしばしばありましたが、被害妄想だった場合、私は一方的に暴力を振るっていたということになってしまうのでしょうか。
■"I want my MTV"なんてやってたころ、ボクは家のMSXにポチポチBASICでくだらないものを作るのが関の山だったし…😟
近所に金持ちのスネ夫みたいな家が何件かあって、その一つが親も娘も洋楽かぶれだったんだけど、
その女子と、そいつの彼氏が洋楽かぶれで、まあ、いや~んなやつだった、
後々知るんだけど、ボクの親友?というか知人もそう思ってた、って社会人になってから告白されて、
二人のことをクソミソに言ってたんだけど、小学校時代に他にもそう思ってたやつっているのかな…😟
そういえば、中学三年になって、ボクは中二までビリギャルだったのに、急に県のトップレベルになってしまって、
自分でも不思議だったけど、まあ、塾講師の言われたようにやってただけなんだよね、
スポーツと同じで、コーチが言ってる基礎練習をひたすら繰り返す、みたいなことやってただけで…😟
で、中三夏期講習だけ来たんだよな、引っ越した上述の元カレが…😟
二人の関係がどうなってたのかは知らんけど、中学生ながら、未練たらしく田舎に戻ってきたな、と思ったし、
ぶっちゃけ、思ったのは、女の尻を追いかけて田舎に戻ってくる暇があるなら、引っ越した都会で勉強しろよ、金持ちだからここに、しかも夏だけ来るとかできてるんだろうけどさあ、
ほんと、この手の金持ち、クソな…😟女の尻より自分の能力上げろよ
と思ってたんだけど、なんか今現在はボクより幸せになってるんじゃないか、と思うと不愉快でたまらない…😟なんでボクが幸せにならないんだおかしいだろ神さま
中学時代、教室で萌え萌え表紙のラブコメ系ラノベ持ってきて、唐突にげらげら笑うやばい友達いたけど、不良にそのラノベ見せてドン引きされてたのは今でもおもろい
今なら、逆にオタクコンテンツが大衆化してるがゆえにイジメにでも発展しそうだが、あの時はまだマイナーだったから、カルチャーショックで戸惑ったんだろうな
近所に金持ちのスネ夫みたいな家が何件かあって、その一つが親も娘も洋楽かぶれだったんだけど、
その女子と、そいつの彼氏が洋楽かぶれで、まあ、いや~んなやつだった、
後々知るんだけど、俺の親友?というか知人もそう思ってた、って社会人になってから告白されて、
二人のことをクソミソに言ってたんだけど、小学校時代に他にもそう思ってたやつっているのかな…😟
そういえば、中学三年になって、俺は中二までビリギャルだったのに、急に県のトップレベルになってしまって、
自分でも不思議だったけど、まあ、塾講師の言われたようにやってただけなんだよね、
スポーツと同じで、コーチが言ってる基礎練習をひたすら繰り返す、みたいなことやってただけで…😟
で、中三夏期講習だけ来たんだよな、引っ越した上述の元カレが…😟
二人の関係がどうなってたのかは知らんけど、中学生ながら、未練たらしく田舎に戻ってきたな、と思ったし、
ぶっちゃけ、思ったのは、女の尻を追いかけて田舎に戻ってくる暇があるなら、引っ越した都会で勉強しろよ、金持ちだからここに、しかも夏だけ来るとかできてるんだろうけどさあ、
ほんと、この手の金持ち、クソな…😟女の尻より自分の能力上げろよ
と思ってたんだけど、なんか今現在は俺より幸せになってるんじゃないか、と思うと不愉快でたまらない…😟なんで俺が幸せにならないんだおかしいだろ神さま
W杯のあの乗りが苦手だ。 見るのなら静謐な環境で見たいのだが、常にあの“陽”な人々の蠢き、あの河原のBBQや祭りの出店、花火大会の
空気が充満していてむさ苦しい。
日本が敗れてある種の清々しさを感じた。
敗れた後、日本のある代表選手が、強豪国はサッカーがナンバー1の競技で日本はそうなっていない、自分たちが結果を出す事で変わって行くだろうと述べたという。
つまり日本のサッカーは人材や市場が他競技と競合して大きく割を食っていると。
1980年代以降、地元のサッカークラブや中学のサッカー部に入る男子はだいたい社会階級の最上位にいられた。
つまりあの代表選手らは男子社会の貴族であり、更に競争に勝ち抜いた王族なのだ。
そんな彼らの1人が暗に (野球うざ) と言ったとしよう。 君たちは30年以上男子社会ヒエラルキーの上位に君臨し続けてその利益を享受してきた筈だがまだ不満なのかと。
私は東京近郊の公立校に通っていたが、野球部など、卓球や陸上と同程度のチー牛臭い下位の男子が所属していた(高校野球の地方大会を見ればわかるが弱小公立校はほぼチー牛)そんな野球を目の敵にするのは皮肉だ。