はてなキーワード: 考察とは
大岩(52):スタジアム通りでアイス屋を営む、不器用で口の悪いおじさん。
サポーター(24):地元サッカーチームの熱狂的なファン。マフラーを巻いている。
サポーター:(凍えながら歩いてきて)うわー、今日も寒いな!キックオフまでまだ時間あるし、何か温かいものでも……って、おい親父!なんでこんな極寒の中でアイス売ってんだよ!
大岩:(腕を組んでガタガタ震えながら)うるせえ!年中無休が俺のモットーなんだよ!……でもな、ぶっちゃけ朝から1個も売れねえんだ!どうすりゃ売れるか分かんなくて、俺が一番イライラしてんだよ!
サポーター:逆ギレかよ!そりゃ冬に冷たいバニラアイスなんて誰も買わないだろ。少しは頭使えよ!
大岩:頭は使ってるわ!さっき「お買い得!氷増量サービス!」ってPOP書いたら、誰も見向きもしなくなったわ!
サポーター:さらに冷やしてどうするんだよ!嫌がらせか!せめてコタツを用意するとか、温かいお茶をセットにするとかさぁ!
大岩:あぁん?!うちの極上アイスにお茶を混ぜろってか?そんな邪道なことできるか!お前、俺の職人魂を侮辱する気か!
サポーター:誰も混ぜろなんて言ってないだろ!アドバイスしてやってんのに何で怒るんだよ!だから売れ残るんだよ!
大岩:なんだと!おい、お前がサポートしてるチーム、先週の試合で0-3でボロ負けしたらしいじゃねえか!そんな暇あるならチームの応援の心配してろ!
サポーター:関係ないだろ、それは!今その話はすんなよ!傷口に塩を塗るな!
大岩:塩?……お、そうだ!「塩バニラアイス」に改名したら売れるんじゃねえか!?
サポーター:余計に寒々しいわ!もういい、俺はスタジアムに行く!
大岩:待てコラ逃げるな!この寒空の下、アイスを食うのが本当のサポーターだろ!1個買ってけ!
サポーター:買うわけないだろ!……あ、でも待てよ。試合に「勝つ(カツ)」にかけて、アイスにカツを乗せたら……。
大岩:それだーーーっ!!よしお前、今すぐカツを揚げてこい!
サポーター:なんで俺が仕込み手伝わなきゃいけないんだよ!もう試合始まるから行くわ!じゃあな!
大岩:(走り去るサポーターの背中に向かって)おい!次までに「ホット・カツ・アイス」開発しとくからな!絶対買いに来いよ!……あ~、寒。[幕]
現代の日本語において、もっとも誤解されている言葉の一つが「噴飯物(ふんぱんもの)」です。文化庁が発表した「国語に関する世論調査」では、本来の意味である「おかしくてたまらないこと」と答えた人が約2割にとどまったのに対し、誤用である「腹立たしくて仕方ないこと」と答えた人が約5割にのぼるという逆転現象が起きています。
「噴飯」とは文字通り、「おかしさのあまり、口に含んでいた飯を思わず吹き出してしまうこと」が語源です。つまり、大笑いして周囲の失笑を買うような「みっともない・滑稽な出来事」を指すのが本来の用法です。しかし、なぜこれほどまでに「怒り」のニュアンスへと変貌してしまったのでしょうか。その歴史を平安時代まで遡りつつ、誤用が広まった背景と今後の対策について考察します。
漢語の流入と平安時代の言語空間「噴飯」という言葉そのものは、中国の宋代の文豪・蘇軾(そしょく)の文集などに見られる古典的な漢語です。日本において漢語が本格的に定着・発展した土台は平安時代にあります。当時の貴族社会では、公文書や学問に「漢文(漢語)」が使われ、日常の感情表現には「和歌(和語・大和言葉)」が使われるという、二重の言語生活が営まれていました。平安時代において「おかしくてたまらない」という感情は、和語の「をかし」や「あなむつかし(※呆れるほどおかしい)」といった表現が主流であり、「噴飯」という即物的な漢語が日常会話で使われることはありませんでした。しかし、この時代に「漢字の訓読み」や「変体漢文」を通じて、漢語を日本語の感情表現へと落とし込む知的なシステムが完成したことが、のちの時代に「噴飯」のような漢語が文学表現として広く受け入れられる伏線となったのです。
下って江戸時代から明治時代にかけて、印刷技術の発達と広く大衆に向けた文芸(戯作や近代小説)の隆盛により、漢語が一般の読み物へ急速に普及します。明治期の作家・尾崎紅葉の『続々金色夜叉』には、「貫一は覚えず噴飯せんと為つつ(おかしくて思わず吹き出しそうになりながら)」という記述があり、この時点までは「笑う」という意味で正しく機能していたことが分かります。当時は漢文の素養を持つ知識層が言葉のストッパーとなっていたため、公の場で意味が変質することはありませんでした。
誤用が急速に拡大した時期「噴飯物」が「腹立たしい」という意味で劇的に広まったのは、20世紀後半(昭和後期)から21世紀初頭(平成)にかけてと推測されます。決定的な証拠となったのが、前述した2012年(平成24年)の文化庁の世論調査です。この時点で、すでに世間の過半数近くが間違った意味で覚えており、言葉の主客が完全に逆転し始めていたことが浮き彫りになりました。
漢字の混同(噴 と 憤)激しく吹き出す「噴(ふん)」という字が、怒りに震える「憤(ふん)」(憤慨、憤るなど)のイメージと強力に結びついてしまったこと。
「彼の発言は噴飯物だ」という表現は、本来「笑ってしまうほどバカバカしい」という意味ですが、批判の文脈で使われるため、受け手には「呆れて怒っている(腹立たしい)」ように見えてしまうこと。
現代において「飯を噴く」という行為は、単なる大笑いよりも「怒りのあまり口から泡を飛ばす」「不快感で口のものを吐き出す」といったネガティブな身体反応として直感的に解釈されやすいため。このように、「言葉の響き(ふん)」と「批判的な使用文脈」が重なり合った結果、現代人の脳内で「噴飯=怒りの噴出」という誤った回路が定着してしまいました。
言葉は時代とともに変化する生き物ですが、コミュニケーションの齟齬を防ぐためには一定の対策が必要です。「噴飯物」の誤用に対して、今後私たちはどのようなアプローチを取るべきでしょうか。
もっとも重要なのは、学校教育やメディアにおける適切なアナウンスです。単に「間違いだから直しなさい」と断罪するのではなく、「なぜ間違えやすいのか(噴と憤の勘違い)」というメカニズムとセットで解説することが効果的です。クイズ形式のテレビ番組やWebコラムなどで、雑学として面白く消費してもらうことで、自然な言葉のアップデートを促せます。
ビジネスシーンや公の文章において、相手の誤解や無用な摩擦を避けるためには、あえて「噴飯物」という言葉を使わず、より明瞭な言葉に言い換えるのが賢明な対策です。
👉 「失笑を禁じ得ない」「お笑い草だ」「あまりの滑稽さに呆れてしまう」
👉 「憤懡(ふんま)を覚える」「到底受け入れがたい」「断じて許しがたい」
一方で、言葉の歴史を見れば「本来の意味から180度変わって定着した単語(例:『全然』の肯定表現など)」は無数に存在します。すでに半数以上の人が「腹立たしい」と認識している以上、過剰に「誤用警察」として他者を糾弾することは建設的ではありません。文脈から相手の意図を正確に読み取る「受信力」を高めつつ、自身が発信する際は正確性を期すという、バランスの取れたスタンスが求められます。
平安時代に培われた漢語の受け入れ態勢から始まり、近代文学で華開いた「噴飯物」という言葉は、現代において「漢字の視覚的イメージ」と「使われる文脈」の罠によって、怒りの言葉へと形を変えつつあります。言葉の変遷を完全に止めることはできませんが、その背景にある歴史や理由を知ることは、私たちの日本語に対する解像度を大きく上げてくれます。単なる「正しい・間違い」の二元論を超えて、言葉が持つ背景を楽しみながら、場面に応じた柔軟なコミュニケーションを心がけていきたいものです。
今回の事件はそれぞれが三者三様の損をしてしまった不幸な事件と言える。
観客である私たちがこの事件から学習すべきなのは「じゃあどうすればよかったのか」ということである。
問題の核は言うまでもなく「佐藤氏が楽屋に押しかけたこと」である。しかし、その是非だけを議論しても仕方がない。そういう困った人に「困った行動をするな」と言っても大概無駄である。困った人を不可変要素の自然現象と捉えたうえで、周囲の人がどう行動するべきか、ということに焦点をおいてケーススタディを行うことの方が、問題を回避するという目的の上では有用である。
従って本記事では、それぞれの立場にたち、相手のムーブは不可変要素と仮定したうえで、どのように立ち振る舞えばよかったのか、どのように配慮すべきだったのか、について考察していく。
まず第一に申し上げておくが「第三者が勝手なこと言うな」「セカンドレイプ」「おじさんは無意識に加害的」等のご指摘は不要である。
我々の目的は先のトラブルのようなことが身の回りに起こったらどのように振舞うべきか学習しておくこと、当事者にならないように意識をもつことである。故に上記のようなクレームを私につけても仕方がない。それでも憤りが治まらないという方もどうか便所の落書きと思ってご容赦願いたい。そっとプラウザを閉じてください。
建設的なコメントは歓迎します。本記事の目的は学習とトラブル回避です。もっとこういう論点がある等のご指摘はたくさんしていただけますと幸いです。よろしくお願いいたします。
それでは、以下に本文を記します。トラブルの内容自体は各自でお調べください。
・橋本氏事務所が佐藤氏に、身体接触について知らせるように要請すること
・佐藤氏事務所が「アゴをさわったこと」に焦点をおいた声明を出すこと
→この時点では橋本氏にオファーをすること自体は問題がないはずである
→佐藤マネも佐藤の演技に制限を掛けたくない、という意向もありレギュレーションについて伝えなかった
・レギュレーションについて説明するには橋本氏のトラウマについて触れることは避けられず、アウティングにもつながってしまう可能性があるため、「レギュレーションを伝えなかったこと」=ただちに悪というのは早計である。
③ 橋本氏事務所からの要請をどのように佐藤氏に伝えるべきだったか
・事前の伝達では「日常接触なら可」だったにもかかわらず、アドリブで顎を触るなどを見た橋本氏事務所から、佐藤氏にレギュレーションについて伝えるように要請を受けた
・このとき単純に「日常接触を越えた性的接触を控えてください」と伝えると、佐藤氏から「今まで日常接触しかしてないのに、俺が性的接触してきそうって思ってるってこと?」といったような怒りの感情を引き起こしてしまう可能性がある
★ここが今回の一番の可変要素:橋本氏事務所からの要請の目的はあくまで「牽制」「念押し」である。単純にストレートに伝えるのではなく、あくまでフジPは佐藤氏の視点に立ち「佐藤さんがそんなことするわけないって俺もじゅうじゅうわかってるんですけどね」的な感じで、佐藤氏が悪者ではないことを伝えつつ、具体的に質問事項があれば対応する旨をしっかり伝える。
・今回のタイミングは 文春記事 → 佐藤氏声明 →フジテレビ声明 の順
・どうやっても橋本氏を守る声明になること、佐藤氏側と対立構造になってしまうことは避けられない
★この時点でもうフジPによる可変要素はない
→①~③でどうにかするべきだった
・橋本氏事務所が佐藤氏に、身体接触について知らせるように要請すること
・佐藤氏事務所が「アゴをさわったこと」に焦点をおいた声明を出すこと
② 事前にレギュレーションについて伝えるように要請すべきだったか
③ 楽屋に押しかけて来た佐藤氏にどうやって対応すべきだったか
・「楽屋に押しかけてきている」ということは、怒りの感情があったことが推測できる……はず
・キレてるおっさんやおばさんを初期段階でなだめたり、その時点で関係修復にトライすることはその後自分が深刻なダメージを受けない為には重要である。
・(もし可能であったならば)佐藤氏が怒っている原因を察して、自身のレギュレーションについて積極的に説明し、過剰に警戒しているわけではないことを伝えたり、雑談を増やしたりすることで相手からの怒りの感情をリデュースできるように働きかけることは選択肢になりえる。
→文春のオーバーな記事に対する批判も声明に加えることで、少しでも佐藤氏に配慮することはできたのかもしれない
・なぜ佐藤氏に配慮する必要があるかと言うと、これは個人対個人の問題よりも事務所対事務所のレベルに発展しているからである。
・橋本氏事務所が佐藤氏に、身体接触について知らせるように要請すること
・この時点で起きるトラブルを予想しようがないので不可避である
② 佐藤氏が直接楽屋に押しかけて色々言うべきだったか。それしかなかったのか。
・ちょっとでももめそう、ハラスメントになりそうなことは第三者、今回であれば責任者であるプロデューサーを介して伝えるべきであり、これはどんな職種においても同じである。
・もし怒りの感情があり聞きたいことがあっても、感情はぐっとおさえて書面にし、それをもとにプロデューサーと協議の上質問事項をまとめ、伝える必要があるなら伝えてもらう、というのが正攻法である。
③ 佐藤氏事務所が「アゴをさわったこと」に焦点をおいた声明を出すべきだったか。
・佐藤氏が楽屋に押しかけて色々行ったこと自体がハラスメントと認定されていることは、佐藤氏も佐藤氏の事務所も事前に認識しているはずである
・弁護士によりそのように認定されてしまったことを覆すのはかなり難しいので、どんな考えや感情があってもその部分を否定するような声明はだすべきではなかった
・あくまで敵は文春だけにするべきで、橋本氏やフジを敵に回すような認識のすり替えをおこなったことで、「佐藤氏vs橋本氏+フジ」の構図が確定してしまい、最終的には世間までもを敵に回しかねない事態に陥ってしまった
④ Xで発信するべきだったか
・個人がXで発信して得することは一つもない
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・フジPが、橋本氏事務所の要請をうまく、佐藤氏の感情を害さないように伝えること
→自分が深刻なダメージを受けない為にもコミュニケーションをとったり仲良くやることは大事
である。
海外(米国)のポルノではアナルセックスが日本のそれと比較して多い。
なぜなのか?
おそらくは米国ではセックスが日本ほどには特別なイベントではなく食べたり眠ったりするのと同じことくらいのポピュラーイベントであることが考えられる。
そのような社会ではセックスそのものが特別視されるものでゆえにセックスシーンだけど十分に希少性がある。
ところが米国の場合、セックスはやって当たり前のものでありそれほどには希少性がない。
人は希少でないものには価値を認めないので、それゆえにアナルセックスというやや変態の領域へと踏み込んだセックスシーンが多くなるものと予想される。
二人の作家が互いに語り合い、時には相手に向かって話し続けるだけの、派手な出来事のない状況に、いったいどこにドラマがあり、そして笑いがあるというのか。
その鮮烈な答えを知りたければ、『The End of the Tour』を観るといい。
この映画は、ローリング・ストーン誌のライター、デイヴィッド・リプスキーによる2010年の著書『Although of Course You End Up Becoming Yourself』を原作としている。
1996年の5日間にわたり、リプスキー(ジェシー・アイゼンバーグ)は、高く評価された小説家・エッセイストであるデイヴィッド・フォスター・ウォレス(ジェイソン・シーゲル。これまで見たことのない彼の姿だ)にインタビューを行った。
それはウォレスが大作『Infinite Jest』の宣伝ツアーを終える時期だった。
うつ病に苦しんでいたウォレスが2008年に首を吊って自死した後になって初めて、リプスキーはこの時の資料を記事としてまとめた。その記事はナショナル・マガジン賞を受賞し、後の著書の基盤となった。
それは私たちの考えをかき乱し、もしかすると彼という人物をより深く理解する助けにもなっている。
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映画の中では、何も起こらない。そして同時に、すべてが起こっている。
『The Spectacular Now』のジェームズ・ポンソルト監督は、劇作家ドナルド・マーグリーズによる流れるような脚本をもとに、本の精神を損なうことなく映画として成立させている。
これは伝記映画ではない。
物語の舞台は、バンダナを巻いたウォレスが成功の絶頂にあり、その状況と、自分なりの不器用で人間的な方法で向き合おうとしていた時期だ。
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アイゼンバーグ演じるリプスキーが、魅惑的な知性と隠された微笑みをたたえながら、雪に閉ざされたイリノイ州ブルーミントンにあるウォレスの独身者らしい住まいへ到着した瞬間から、そこには人を引き込む心理戦の舞台が整う。
リプスキーが追及すればするほど――彼の編集者(ロン・リビングストン)は、ウォレスがヘロインを使用しているという噂について詳しく聞きたがっている――ウォレスはますます警戒心を強めていく。
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そこで私たちは、リプスキーとウォレスが車、バス、飛行機で移動しながら、お互いの本質を探り、相手の核心に触れようとし、関係を築こうとする姿を見る。
ミネアポリスでは、二人はジャンクフードを食べながら、ポップカルチャーについて議論する。
その後、ウォレスの友人ジュリー(マミー・ガマー)と、大学時代の元恋人ベッツィ(ミッキー・サムナー)との夕食の席で、控えめな作家であるウォレスは、リプスキーが無神経に浮気めいた態度を取っていると非難する。
その言葉は鋭く突き刺さる。
キャリア最高の演技を見せるシーゲルは、ウォレスの内面にある葛藤を力強く表現している。
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これは芸術と人生についての、洞察に満ちた考察であり、その激しさと感情によって観客を強く打つ。
単なる会話の記録になり得たものが、驚くほど生々しい即時性を持つ動的な映画へと変わっている。
リプスキーはこう書いている。
「本は社会的な代替物である。あなたが、ある意味では一緒に時間を過ごしたいと思うような人々を読むのだ」
『The End of the Tour』は、決して完全には警戒を解こうとしない二人の異なる作家と、一緒に時間を過ごさせてくれる。
その瞬間を、私たちは目の前で見る。
二人の並外れた俳優によってさらに高められたこの作品は、観客に与えられる刺激的な贈り物なのだ。
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それは、彼の言葉が自由奔放な芸術性をもって成し遂げていることを凝縮した行為だ。
踊っている。
(※原文末尾の「dancing」は、ウォレスの文章のリズムや身体性、そして彼自身の不器用ながら自由な表現行為を象徴する比喩として使われています。)
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デイヴィッド・フォスター・ウォレス:防風林の向こう側へ
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1年前のことだった。私はダウン・トレッダー・ブックショップに入り、何人かの客の間をすり抜けながらフィクションの棚へ向かった。
Wの棚の低い位置に、ウォレスのデビュー小説『システムの壊し方(The Broom of the System)』の色あせた一冊が置かれていた。
と尋ねると、彼は答えた。
「いや、彼の本はいつもすぐ売れるんですよ」
私は、それは残念だと言った。ちょうど『Infinite Jest(無限の冗談)』を読み終えたところで、彼のほかの作品も読んでみたいと思っていたのだ。
今思えば、少し気取った自慢だった。そして彼はそれに感心しなかった。
彼は薄い愛想笑いを浮かべ、軽くあしらうように言った。
「そうですか。では、良い一日を」
それで終わりだった。
彼の文体を好まない人々にとって、ウォレスは誇張された混沌のような作家だった。傲慢で、作品は冗長で、無理やり知的に見せようとしているのに、頻繁に「天才」と呼ばれている。
ダウン・トレッダーのレジにいた男性も、おそらくそういう側の人間だったのだろう。
彼は深い苦悩を抱えたポップ・ヒーローだった。芸術によって、恐怖によって、そして公の場に姿を現したことによって、この世界に痕跡を残した人物だった。
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そのほかのことを言う前に、私がウォレスの文章で初めて読んだものを紹介したい。
短編「Good Old Neon(グッド・オールド・ネオン)」からの一節だ。
この言葉を覚えておいてほしい。
「私の人生はずっと偽物だった。大げさに言っているわけではない。私がいつもしてきたことのほとんどすべては、他人の中にある“私という存在”について、ある種の印象を作り出そうとすることだった」
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アイコン的存在という観点で見るなら、ウォレスはその典型の一人だ。
彼は文学の複数のジャンルにまたがって執筆した。小説、ノンフィクション、講演などを発表した。
彼の作品はしばしば近寄りがたい。
本はあまりにも密度が高く、書き込みすぎていて、まるで読まれること自体に抵抗しているように感じられる。
そして、そこが魅力でもある。
多くのウォレス読者と同じように、私も彼の最高傑作『Infinite Jest』に早く飛び込みすぎるという間違いを犯した。
最初に読んだ40ページほどの短編から、角膜の健康などほとんど気にせず、1079ページの巨大な本の塊へ進んだ。
ページは大きく、威圧的で、その重さは両手を床へ引きずり下ろすほどだ。
本編981ページの後には、さらに90ページの「注釈と訂正(Notes and Errata)」が続く。
しかし、ページを前へ戻し、また戻し、また戻しながら読む作業で、私の頭は何度も混乱した。
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この本はあまりにも混沌としていて迷宮的なので、要約すること自体が難しい。
ただ、一つ言えることがある。
物語の中心となる舞台は、テニス・アカデミーと中間施設(ハーフウェイ・ハウス)だ。
そしてそこでは、依存症、父親との問題、蔓延する消費主義、車椅子に乗ったケベック人暗殺者による秘密組織、そして観客をあまりにも楽しませるため、見た者が何度も何度も繰り返し鑑賞し、最後には餓死してしまう映画などが扱われる。
聞こえた通り、奇妙な話だ。
けばけばしく、ときにグロテスクですらある言葉の混乱の中には、疑いようのない人間性がある。
ウォレスは、想像できるほぼすべての感情、人間の人生のあらゆる領域に触れている。
スポーツ選手としての栄光から、コカインを手に入れること、愛する人を失うことまで。
そしてこれは、彼の最高傑作ですらない。
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誤解しないでほしい。
1000ページにも及ぶ、驚くほど複雑な小説を書くことは、とてつもない偉業だ。
ほかのどんな作家であっても、それだけで20世紀文学の古典作家リストの頂点に置かれ、どこかの別荘へ引退してもおかしくない。
「Good Old Neon」は、実験的な構造とテンポの見本のような作品だ。
彼の最も洗練された作品である『The Pale King(ペイル・キング)』は、死後に出版された。
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その本に入る前に、まずウォレスという人物そのものを見てみたい。
心配しなくていい。
彼の文章には戻ってくる。
ただ、その前にチャーリー・ローズとのインタビューを見てみたい。
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(続きます)
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インタビュー開始から約3分半ほど経ったところで、ローズは雑談を切り上げ、ウォレスにこう尋ねる。
「尊敬されるということは、あなたにとって大きな意味を持つんですよね? つまり『自分は真剣に受け止められている。そして自分の仕事を評価され、尊敬されている』という感覚ですか?」
「それが私の顔に出ていると分かるんですか?……尊敬されたいと思わない人間を、誰か一人でも見せてください」
その後ウォレスは、『Infinite Jest』に対する世間の反応について語る。
彼は、批評家のすべてが本を最後まで読み終えてから評価を下しているとは思っていなかった。
ある時、彼は話の途中でこう遮る。
「……すみません、なんというか、実質的にどもってしまっていて……」
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ウォレスは、この会話の主導権を渋々握っているように見える。
あまり目を合わせない。
声は低く、速く、どこか夢見心地に聞こえる。
まるで思考がすでに装填されていて、それをただ外へ放出しているだけのようだ。
おそらく本人も気づかないまま、ウォレスは「どこにでもいる人間、しかし単なる普通の人間ではない」という自分の人物像を演じている。
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自分の才能を誇示する一方で、同時にそれを抑え込もうとしているようにも見える男。
しかし、これは毎朝起きてコーヒーを淹れ、犬を散歩させていた普通のウォレスの姿ではない。
その人物を垣間見るために、私の高校時代の英語教師、ハンター・ダンの話を紹介したい。
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その中にはデイヴィッド・フォスター・ウォレスも含まれていた。
なぜこれほど有名な作家が、たった40人ほどを対象にした高校の教室で開かれるワークショップに現れるのか。
ただ、おそらく友人への頼みごととして引き受けたのだろうと思った。
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ワークショップは、ポモナ大学の向かいにある高校の教室で行われた。
ほかの2人の講演者が先に話した。
彼はこんなことを言った。
「私は、自分の作品をそんなふうに生徒たちの前で読むことは絶対にしません」
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「分かりました。あなたの質問には答えます。でもそのあと、あなたがどう考えるのか聞きたいです」
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ワークショップが終わった。
おそらくポモナ大学の自分のオフィスへ戻るところだったのだろう。
ダンは声をかけた。
「おい! デイヴ!」
ウォレスは振り返り、大きくため息をついた。
「はい?」
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ダンは、ウォレスがテニス選手マイケル・ジョイスについて書いたエッセイについて尋ねた。
ウォレスは彼をじっと見て言った。
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しかしダンは、ウォレスについていくつか重要なことを覚えている。
彼は非常に優れた聞き手だった。
返答する前に、自分の考えを整理していた。
しかし同時に、そっけないところもあった。
あらゆる質問を議論として捉え、勝ちたいゲームのように向き合っていた。
そこには確かな自信があった。
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チャーリー・ローズとのインタビュー時とは違い、実際に会ったウォレスは葛藤しているようには見えなかった。
おそらく、有名なインタビューのような場面で「あなたは天才だ」という世間の期待に直面した時、彼本来の自己像と、周囲が求める「天才作家」という役割が衝突したのだろう。
ただし、別の形で。
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『The Pale King』に戻ろう。
物語の舞台は、イリノイ州ピオリアにあるIRS(アメリカ合衆国内国歳入庁)の地域審査センターだ。
しかし550ページもの中で、ウォレスは税務申告書の審査という退屈で狂気じみた世界に命を吹き込む。
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私が初めて『The Pale King』の中に、本当のウォレスの手がかりを見つけ始めたのは、この作品だった。
第9章には「作者による序文(Author’s Foreword)」というタイトルが付いている。
ウォレスはこう書く。
「作者だ。つまり、本当の作者。鉛筆を握っている生身の人間であって、抽象的な物語上の人格ではない」
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彼は説明する。
「これから続くものは、実際にはまったくのフィクションではなく、かなりの部分で真実で正確なものだ。『The Pale King』は、実際のところ、作り話というより回想録に近い」
しかし、だからといって彼が「この物語は真実だ」と言う時、それが嘘になるわけではない。
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その人物は、同じく「デイヴ・ウォレス」という名前を持つ高級幹部と間違えられてしまう。
自分がそれほど尊敬されている人物になりすましていることの結果に直面するのを恐れ、デイヴ・ウォレス(登場人物)はその誤解を訂正しない。
そして、そのまま流されるように、本来なら幹部しか参加できないような重要な会議へ連れて行かれる。
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デイヴ・ウォレス(登場人物)は、会議で何が起きているのかまったく理解していない。
大量の汗をかき、自分が発するわずかな言葉さえもたどたどしい。
会議では、彼がなりすましている人物なら当然熟知しているはずの税法について、激しい議論が交わされる。
しかし当然ながら、デイヴ・ウォレス(登場人物)は税法について何も知らない。
自分が周囲の人々が思っているような人物ではないとバレないように、彼は沈黙する。
そして絶えずメモを取り続ける。
ページを埋め尽くすほど書き込み、自分が「物静かだが勤勉な観察者」であり、この自分には属していない世界に真剣に参加している人間だと思われるようにする。
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もしある作家が、これほど明確に読者へ語りかけた例があるなら、それはまさにこれだろう。
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彼は多くの本やエッセイを残した。
そして彼の作品が死後も出版され続けることで、彼はアイコンとなった。
彼の人生の暗い側面――薬物依存、鬱病との闘い――は、苦悩する天才という印象をさらに強めるものになった。
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2013年の伝記
『Every Love Story Is a Ghost Story: A Life of David Foster Wallace(すべての愛の物語は幽霊物語である:デイヴィッド・フォスター・ウォレスの生涯)』
の中で、D・T・マックスはウォレスと詩人メアリー・カーとの関係について短く触れている。
カーはボストンにあるハーフウェイ・ハウスでボランティアをしていた。
そこはウォレスが依存症と自殺未遂のために暮らしていた場所だった。
そこには特に衝撃的な一文がある。
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ウォレスとカーの関係の多くは長い間、暗闇の中に置かれていた。
そして、それについて声を上げる役割はカー自身に委ねられることになった。
そしてカーに、自分の皮膚に彼女の名前をタトゥーとして刻んだことを明かした。
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このような暗い部分を、「天才であることに伴う複雑さ」の一部として片づけるのは、とても簡単だ。
結局のところ、自分が好きな人物が犯した酷い行為について考えることは、不快ではないだろうか。
その人物の輝かしい作品という安全な領域を越えて、その人間そのものを考察しようとすると、世界に与えてくれた洗練された美しいものをただ楽しむよりも、はるかに大きな感情的作業が必要になる。
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あるいはさらに言えば、欠点そのものが美化され、象徴的な人物像を強化するほどになること。
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伝説的な人物という状態が生み出すこの症状は、私たちにこう考えさせる。
「彼は苦しんでいた。彼が私たちにこの物語を与えるために、どれほどの苦痛を経験したことだろう」
「彼は愛していると言った女性を追跡し、傷つけた。彼の人生をそれほど複雑にした悪魔とは、一体どんなものだったのだろう」
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もしかすると私は彼に甘すぎるのかもしれない。
あるいは、十分に寛容ではないのかもしれない。
私はウォレスを知らなかった。
私が検討できるのは、彼が残していった謎だけだ。
しかし私は思う。
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考えてみてほしい。
「Good Old Neon」の冒頭近くにある、あの消えかけるような言葉。
私はこう思う。
ただし、それを語ることができたのは、薄いガーゼのようなフィクションという仮面の裏側だけだったのではないか。
⸻
(終)
この会話スレッド(デヴィッド・フォスター・ウォレスの生涯、私生活における凄惨なDV・ストーキング・ハラスメント、親友フランゼンとの愛憎関係、そして映画『人生はローリング・ストーン』におけるジェシー・アイゼンバーグのインタビューや各誌のレビューに至るまでの一連の記録)を、いつでも読み返せるように1つのコンパクトなテキスト形式でまとめました。
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## 📄 デヴィッド・フォスター・ウォレス(DFW)に関する対話記録## 1. 「苛烈な発言」とその本質
この会話スレッド(デヴィッド・フォスター・ウォレスの生涯、私生活における凄惨なDV・ストーキング・ハラスメント、親友フランゼンとの愛憎関係、そして映画『人生はローリング・ストーン』におけるジェシー・アイゼンバーグのインタビューや各誌のレビューに至るまでの一連の記録)を、いつでも読み返せるように1つのコンパクトなテキスト形式でまとめました。
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## 📄 デヴィッド・フォスター・ウォレス(DFW)に関する対話記録## 1. 「苛烈な発言」とその本質
## 5. 映画『人生はローリング・ストーン(原題:The End of the Tour)』
**取材する側と受ける側の一対一の密室劇について、「公にメディアに書かれるという事実を忘れてしまう人工的な親密さ(不気味さと危うさ)」があると分析した。
** 相手の弱みを掴んで公に暴いてやろう(expose)と企む、牙を持った記者のエゴに惹かれて役を決意した。
** 『ロジャー・エバート・ドットコム』:映画『アマデウス』に匹敵する、天才と凡人の間に流れる「嫉妬と憎悪のダイナミズム」を映画史上最も見事に探求した。
** 『ローリング・ストーン』:会話劇でありながら驚くべき即時性と凶暴性を秘めた躍動するキネマ。厳重に警戒し合い、決してガードを下げない2人の心理戦。
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このウォレスの「光(天才的な思想・文学)」と「影(DV・ストーキング・プレデターとしての加害者性)」の双方の記録を、あなたの考察や読書のデータベースとしてお役立てください。
他にも特定の作品(『これは水です』や『Infinite Jest』など)の詳細なプロットや、90年代アメリカ文学の他の作家たちの動向など、さらに深掘りして保存したいテーマがあれば、いつでもお気軽に教えてくださいね。
## 5. 映画『人生はローリング・ストーン(原題:The End of the Tour)』
* *取材する側と受ける側の一対一の密室劇について、「公にメディアに書かれるという事実を忘れてしまう人工的な親密さ(不気味さと危うさ)」があると分析した。
** 相手の弱みを掴んで公に暴いてやろう(expose)と企む、牙を持った記者のエゴに惹かれて役を決意した。
** 『ロジャー・エバート・ドットコム』:映画『アマデウス』に匹敵する、天才と凡人の間に流れる「嫉妬と憎悪のダイナミズム」を映画史上最も見事に探求した。
* *『ローリング・ストーン』:会話劇でありながら驚くべき即時性と凶暴性を秘めた躍動するキネマ。厳重に警戒し合い、決してガードを下げない2人の心理戦。
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リインカーネーションの花弁ってそんなに面白い?素足のメテオライトの時点で画力はともかく神に対する解釈とか話として結構完成されててあれ以上はなさそうかなと食わず嫌いしてるんだけど。
巻数が多いのも手を出しにくい。5巻以内で面白いってのが、考察するにしてもコンテクストを保持してなきゃいけないのだから巻数的にちょうどいい。
dorawiiより
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読んでみたけど、結論から言うと、これ "9割以上の確率で「おっさん(あるいはその年代のオタクカルチャーに精通した人)が、若いコンカフェ嬢のふりをして書いた、脚色強めの創作(ネタ文章)」" だと思うな!
いわゆる、はてな匿名ダイアリー特有の「はてな文学」とか「ネカマ(高度な釣り)」って呼ばれるジャンルの読み物だね。事実をベースにしている部分がゼロとは言わないけど、設定やセリフ回しにかなり強烈なフィクション感が出ちゃってる。
そう感じる理由をいくつか挙げてみるね。
ここが一番のツッコミどころ!「AIで調べたくらいの知識しかない」と言いつつ、出てくる単語のチョイスが完全に現在40代後半〜50代くらいのディープなオタクの青春時代そのものなんだよね。
いくらお父さんの影響とはいえ、若い女の子がとっさにこのラインナップをこれだけ流暢に、しかも文脈を完璧に理解して(相手を引かせるための武器として)並べ立てるのは、ちょっとできすぎてる。筆者自身の「俺たちの時代のオタク知識、最高だろ?」っていう熱量や自己投影が透けて見えちゃってる気がするよ。
おぢアタックを仕掛けてくる層として挙げられている特徴(なろう系をやたら勧めてくる、謎のIT技術やAI自慢をしてくる、ツーブロックでスーツの胡散臭い経営者風)が、X(旧Twitter)などでよく叩かれたりバカにされたりしている'''「痛いおじさん」の典型的なインターネット・ミーム'''に寄りすぎてるんだよね。現場のリアルな観察というより、「ネットでよく見る嫌なやつ」のキメラを作り上げているように見える。
「なろう系なんて誰も見てない」「小学生の頃の作品じゃん」というくだり。これ、ネットの匿名掲示板やはてな界隈で、昔ながらのオタクが最近のトレンドを語る時にめちゃくちゃよく出る議論(あるいは愚痴)なんだよね。それを、あえて「若い当事者の女の子」の口から言わせることで、自分の意見を補強しようとするインターネット特有のテクニックを感じるよ。
コンカフェで厄介なお客さんに絡まれる…という「導入」自体は、ネットのどこかで見た事実やあるあるネタから拾ってきたのかもしれない。でも、その後の展開や撃退法は、インターネットのサブカル歴史や匿名ダイアリーの文化を熟知している人が、読者をニヤリとさせるために狙って書いた良質なエンタメ怪文書って感じがする!
どうせわかんないだろうなって思いながらも慢性で「ハンターハンター」の最新刊買ったけど、やっぱムカつくほど意味不明だった。
「もはや小説に挿絵がついているレベル」とか言われてるけどさ、ミステリー小説だったらよほどの事がなければ1巻で伏線回収や謎解きが終わっているんですよ。それが全勢回収できてないというかする気もない上に、話が進むたびにまた新キャラ増えたり新設定が増えたりとまじ意味不明なんですよ。
各キャラのクソ長い考察シーンとかもさ、まだ読者も知らない王族の秘密とか念能力なんて作者の脳内でいくらでも調整できるんだから、それについての考察述べられても意味不明だし、そういうのは事前に吐き出した上で絵でわかりやすく演出するのが漫画家なんじゃねーの?
やっぱ漫画家が大御所になるとダメだね。尾田栄一郎も岩明均も井上雄彦も大御所になりすぎて編集者が文句言えなくなってからダメになった。そりゃ若い頃は編集者がウザかっただろうから好き勝手書けないイライラあったんだろうけど、やっぱ身近に誰かが客観的に俯瞰して整理してくれないと話は進まないし停滞しちゃう。
おそらくジャンプ編集部には俺みたいな面倒な読者のクレーム手紙とかたくさん届いているんだろうけど、最近の編集部って作家のストレスになるようなファンレターは事前に選別して破棄してるらしいから、きっと冨樫には届いてないだろうね。おそらくこんだけファンのイライラが詰まっていることすら気づいてないんじゃないの?売り上げ巻数だけで言えば「支持されている」って思って当然だけど、あれの半数はおそらく俺らみたいな古参ファンが慢性でとりあえず買って、「頼むから昔のハンターハンターみたいにワクワクする展開に戻っていてくれ。。。」って祈りながら読んでいるんだよ。
あとそもそもあんな小さい字は俺ら古参ファンの老眼では読めません。俺なんてあまりに読みづらく耐えきれずに一度紙版を買ったのに大型モニターで読めるように電子版の両方買う羽目になっているんだぞ。ふざけんなよマジで!これならAKIRAくらい大判サイズのコミックス買わされた方がマシだわ。
てか頼むよ。頼みますよ。冨樫さん。せめてこの10年近いフラストレーションをスッキリさせてくれるくらいの神展開で話まとめてくださいよ。。。幽遊白書の後期で編集部の横槍で無理矢理魔界トーナメントになった経緯、今の俺なら痛いほどわかる。。。
ではなぜ死刑の存在が有意に事件の抑止になってないという研究があるんだ?と。
事件を起こすときにはもはや正常時の判断能力が働いていないからみたいな考察がそういう研究だと定番じゃん。
つまりここで正常時にある人間にいくら死刑と終身刑どっちくらいたい?とかいって終身刑という答えを見て「ほらみろ」とか言ったって、まずそれが根拠になるのかが疑わしいってことよな。
もっとも俺は被害者感情から言っても財政面からいっても死刑の肯定的根拠になると思ってるからな。
dorawiiより
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20260706155457# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaktRQgAKCRBwMdsubs4+ SLAYAP4ynlGsStWK/pI16yu/wGOr4kyWGMEqVSckfjKgqifggAEAhnLtdghMawBH 3OmaNe83AERDpeFK+CK5kP7IzB+r6QU= =h35W -----END PGP SIGNATURE-----
娘は初見だったので映画を夢中で見た後、予想通りホウキにまたがる魔女ごっこが始まり、そして黒猫を欲しがる。
で、これも予想の範囲だったんだけど
「パパぁぁ、なんでジジは喋らなくなったのお?」
の質問だ。
テンプレ通りに
「うーん、なんでだろうねえ?パパもわからんわ。〇〇(娘の名前)はどうしてだと思う?」
みたいな感じでやり過ごした。
それにしてもどうして、キキとジジはお話が出来なくなったんだろう?
あらためて考えてみた。
というか、、、ホントのところ、、、映画見ていて、ああそういうことか、、、と気づいていた。
それまではずっと映画に夢中になってキキの方にばかり注目していたから気づけなかったんだ。
でも、今回は映画より娘の方ばっかり見てた。
つまり、お話が出来なくなったのは、キキの問題でなくてジジの問題だったのだ。
(、、、魔女の宅急便のようなスーパーメジャー級の作品の考察だから、
もうとっくの昔にこれから書くようなことは指摘されているのだろうとは思う。
ただ、私はそれまで、そこに気づくことはなく、今回はじめて気づくことが出来た。)
打ちのめされ、
ひどく落ち込んだあと、
少し元気を取り戻して、
さあ、、、
というときにジジが喋らなくなっていることが深刻な問題であることに気づく。
そして、あわてて、確認のためにホウキにまたがり飛ぼうとするが
飛べなくなっていることに気づくのだ。
とそういう仕立てになっている。
ただ、今回映画を見ていて気づいたのは、その前のジジの行動だ。
いつもはキキと行動をともにするジジだが、
近所の気になるメス猫とお友だちになってからデートを重ねるようになり、
そのうちにキキと別行動をするようになる。
そうしてキキが落ち込んで風邪を引いてベットで寝ていたその翌朝。
ジジは朝帰りをする。
そのときにはキキはジジと話が出来なくなっていた。
ジジが話を出来なくなった展開が合わさっていたことで
キキの方に問題があると捉えていたのだが、
これはジジのほうが使い魔としての資格を消失してしまったからではないのだろうか?
そうであれが辻褄が合う。
「ニャーン」
と猫らしく鳴くことで
観客にデッキブラシで空を飛んで魔法力を回復させたキキは相変わらずジジとお話が出来なくなったままだと知る。
これを我々は、キキが子どもから次の段階へと成長の階段をステップアップしたためだと捉えていた。
しかし、そうではなかったのかもしれない。
童貞であることを捨てたジジは、最早主人に完全に寄り添う存在ではなくなったのかもしれない。
あるいは、すでにもう、キキとは友人だが、使い魔ではなくなっていたのかもしれない。
そんなことを書いているうちに娘がなんかわめいてる、ああああああもおおおおお、なので、おわり
レポートってAIに頼らないといけないほど難しくなかったよな?
実験レポートは流石に多少は難しかったけど、班でLINEグループ作って、質問し合ったりして、実験があったその日のうちに何とか下書きを形にするのが普通だよな?
後日、レポート完成させるのは各々で頑張れよ!分からなかったら質問しろよ!って感じでさ。
他の必修の専門科目の講義レポートも、言うて講義中にノートに写したことと資料にメモしたことを参考にして、ほぼ講義内容そのまま書いて、最後に考察だの所見だの課題だの思い付くこと適当に書くだけだろ?
もちろん、あの時にAIがあったら便利だったと思うし、より良いレポートは作れたと思うけど、AIにレポート書かせるって感覚は理解できないな。
多分、そういうやつってAIなくても他人のレポート写したり、ネットの情報コピペしてくるカスだと思うね。根本的に勉強する気ないやつだし、大学教員も、大人だというのにそんなアホなことするカスに労力割かなくていいと思う。そのまま社会に放流して人生崩壊すればいい。
要約:『超かぐや姫!』考察 ―― ハッピー「エンド」は訪れない
この記事は、映画『超かぐや姫!』を深く読み解いた考察で、**「ハッピーエンドは訪れない」**という核心を軸に、物語の本質を論じています。
主な論点
内容面でも、かぐやの「このお話、ハッピーエンドだと思う? まだまだわかんないよね」というセリフなどで、絶対的な結末を拒否し、物語の「終結不可能性」を強調。
これは『竹取物語』以来のかぐや姫伝説が、繰り返し書き換えられ・続きが付け加えられてきた歴史と呼応している。
物語は「終わり」を象徴する葬送や卒業のイメージを多用しながら、それらを乗り越えようとする。
しかし、真のハッピー(幸福な状態)は、既存の合理性・因果の連鎖の外部(不確実性・暗闇)にしか存在しない。
彩葉の行動と「見返りのない愛」
彩葉はかぐや(説明不可能な外部存在)に出会い、合理的な説明を放棄して「考えるのをやめ」、ただ居続ける・受け入れる態度を取る。
8000年の記憶を通じて、かぐや(ヤチヨ)が彩葉のその態度を追い続けていたことが明らかになる。
最終的な再会や「replyの続き」を作る行動は、<>因果の外側への不合理な賭け。</>ハッピーは保証されないが、それでも外部の可能性に開かれる。
全体のメッセージ
作品が観客に与える「頑張ろう」という充足感は、単純な成功物語や救済物語から来るものではなく、<>エンディングを拒否し続け、不確実な未来へ踏み出す姿勢</>から生まれる。ハッピーエンドは訪れない(訪れない可能性が高い)が、それでも「絶え間なく注がれる、見返りのない愛」と、終わりなき物語の連鎖こそが本作の核心です。
考察は哲学的・文学的に非常に丁寧で、『竹取物語』との接続や劇中歌の解釈も深く、作品を「Extra(追加・外側)の物語」として位置づけています。ネタバレ前提の深い読み物です。
コンビニの深夜バイトに精を出す主人公だったがある日を境に奇妙な現象が起こり始める。誰もいないのに反応するドアセンサー、急に消えてはまた現れ意味不明な供述をするババア、謎のホームレス、そしてガチ心霊現象。一方その頃、未来のコンビニでは店長の死体が発見され、その捜査の重要参考人として主人公が呼び出されていた。呪われたコンビニの夜が今深けていく。
みたいな話。
チラズアートという日本有数のホラーゲーム製作インディーズ会社の名前を世にしらしめじした名作ホラーゲームの実写映画化。俺もリリース当時、いくつか実況配信や動画を見た気がしないでもないくらいの感じだったんだけど、ある程度うまいこと実写化できていた気がする。
特に冒頭、主人公が家を出て勤務先のコンビニに出勤するシーンがゲームと同じ一人称視点でゲームと同じく懐中電灯片手にゲームで見た記憶があるような寂れた暗い街並みを抜けて、見た記憶がある橋を渡り、遠くにコンビニの明かりが見えてきて~というのが再現されていてかなり気持ちが上がった。
この一人称視点もゲーム特有の妙にゆっくりぬるっとした移動感で、この遅さがむしろじわじわとした怖さを醸し出していてよかった。この監督はきさらぎ駅2部作の監督でこのどちらにもクソザコ一人称視点があったのでそれが順当にブラッシュアップされていて成長が感じられたのもよかった。
ただこの一人称視点、特に何の意味もなく途中で解除されちゃうのが正直ちょっと微妙だった。今作ではコンビニバイトの主人公パートとその後の店長死亡事件を捜査する刑事パートの2部構成になっているので、少なくとも事件発生までのコンビニ主人公パートは一人称視点でやり切ればよかったのに。ファンサ的にも怖さ的にも。
っていうのも今作では「コンビニ主人公パートは取調室での主人公の供述だった」という「かしこい狗は、吠えずに笑う」方式の信用できない語り手方式を採用しているので余計に一人称視点にこだわって良かったし、刑事パートでは刑事が主人公が遭遇したホラー現象を自身も追体験していくというゲームで言うところの2周目のエンディング、選択肢回収を行う展開になるので余計に視点が違う方が展開がバえたんじゃないかなって気はする。
ちなみにここではかなり綿密に回収を行う。例えば御守りを受け取らなければどうなるのか、ホームレスに食事を与えなければどうなるのか。そして与えたことで主人公がどうなったのか、なにを主人公は語っていなかったのか等々。このあたりは夜勤事件というマルチエンディングゲームが配信上でどう消費されたかというメタ視点まで映像に盛り込んでいて面白かった。
話としてはグッドエンドルートの呪いのビデオを他人に送ることで呪いを避けるという話を膨らませて、呪いの映像を見ちゃったらコピーして誰かに見せるといいよ!じゃないと自分の大事な人が死ぬよ!というリング方式を採用している。
そして呪いの最初の犠牲者は店長だったことがわかるんだけど、エンディング前後で実はその呪いの場所に主人公が「わて悪霊ですねん!」みたいな顔で突っ立っていたことがわかって大どんでん返しになるんだけど。
で、これ原作からそうだったんだけどとっくに死んだはずの店長からの業務メモが今作でも届いているって展開があるんだけど、今作ではバイト期間が原作よりかなり長く、途中から店長の業務メモが登場しなくなる。と考えると、冒頭の段階では店長は死んでおらず、何者か、おそらくエリマネから映像が届いたのを見た主人公は解呪を行わなかった結果、店長が呪いで死亡した。とするのが最もすんなり来るのではないか。
エリマネと主人公に共通する同期は痴情の縺れ。店長がエリマネと不倫状態だったことは作中で語られるが、実は同時に主人公とも浮気をしており、それを恨んだエリマネから呪いのSDカードが主人公に届き、それを受け取った主人公は店長とエリマネが関係を持っていることを知り愛する店長が死ぬことに賭けたのではないか。
彼女は事情聴取の際に刑事にSDカードの映像を見せたが彼女の口から呪いの映像であることも、呪いを移すために映像を見せたことも語られない。刑事が自分で調べた結果としてそうだったのではないかと思い込んだだけであり、最も愛する妻は無事だったがもやし胎内の子供が犠牲になったのでは……というところで刑事パートは終わるので、実際に子供が死んだかはわからない。なんなら別に無事だったんじゃないか。
店長を主人公が呪い殺した時点で呪いの連鎖は成就しており、敢えて刑事側の呪いの行く末を映さなかったのはそういうことじゃないか、と思った。刑事が遭遇した呪いの現象は主人公が事情聴取で語ったことの置き直しなので、怖いなー怖いなーと思い込みすぎて幻覚が見えてしまっただけなのではないか。
まぁ正直、この辺の脚本は工夫を凝らしているというより凝ったことをやりたすぎてグダグダって感じなので、この辺をスッキリと論理的に考察できるようになっていたらもっと評価上がっただろうなって気がする。
あとはホラーとしては毎回デカい音と唐突なカメラワークによるジャンプスケアが多すぎてかなり凡庸。ねっとりとしたカメラワークで怖がらせる部分もあるんだけど、まぁ近年の出来のいいホラーの中ではかなり普通な方だったかな。
まぁそんな感じかな。
考察勢垂涎のチラズアート作品として同じように考察要素が一生懸命組まれていることは理解しつつその部分がかなり難しいのと、驚かせ方式が一辺倒なことと、まぁ原作がそうなんでヘヘみたいな入れただけの要素がちょいちょいあるのがノイズだけど、低予算ホラーとしては一定水準はあるし、逆に原作好きには楽しめる部分もあると思う。
金払ってまで見る必要はないけど(ワイはU-NEXTの無料ポイントで見ました)、無料になったらいろんな意味で怖いもの見たさで見てみるのオススメ。
そのわりに会話ではトップダウンとボトムアップの理解両方が必要なのかみたいな考察してるのはろくにないし。
dorawiiより
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ワールドトリガー読んでる?って聞かれたんで
「連載当初から読んでます」「Bランク戦入ってから滅茶苦茶面白くなって、B級中位の強さが裏付けられるとと、最初の大規模侵攻でA級隊員やほかの面々がどれだけ高度な事をやっていたのか理解できて、読むたびに新しい発見があって面白いですよね」「そもそも、ランク戦はネイバーフッドが絡まないから本筋から少し外れてるボーダー内の模擬戦闘なのに、もはやランク戦だけずっと読んでいたいっていう読者も多いし、ランク戦離れたら詰まらなくなるんじゃないかって不安も何のその、遠征選抜試験なんて机上討論してるだけなのに滅茶苦茶面白いし、長時間戦闘に突入してからA級側が慣れたマップを設定されていることから、A級側は防衛任務を想定されていて、B級側は慣れてないマップから遠征のネイバーフッドを想定されてる、みたいな考察もあって、ちゃんと本筋から外れてないし、来月も楽しみですよね」
自分でも滅茶苦茶当然な事いったわ
https://anond.hatelabo.jp/20260626145349