はてなキーワード: 空気とは
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現時点(2026年7月18日)で確認されている情報では、7月16日にウクライナ軍(またはSBU)によるドローン攻撃で、ロシアのエンゲルス空軍基地が攻撃を受け、火災が発生したことが複数のメディアで報じられています。また、ウクライナ側はTu-95戦略爆撃機1機を破壊したと主張していますが、この損害についてロシア側は公式には認めておらず、第三者による完全な検証も現時点では行われていません。
エンゲルス基地はロシア空軍の戦略航空部隊にとって極めて重要な拠点です。
の主要な運用基地であり、ウクライナへの長距離攻撃の中核を担っています。
Tu-95は現在では生産が終了しており、新造機で補充することはできません。そのため、仮に1機を失った場合でも、
といった影響が考えられます。
ただし、1機の損失だけでロシア全体の長距離攻撃能力が大幅に低下するとは考えにくく、戦略全体への影響は限定的とみられます。
最も可能性が高いのは、戦略爆撃機を複数基地へ分散することです。
近年も
などへ機体を分散させる運用が確認されており、一か所への集中配備を避ける傾向はさらに強まると考えられます。
エンゲルス基地でも防護施設の整備がさらに進む可能性があります。
考えられる措置としては、
などの追加配備です。
エンゲルスだけに依存せず、他基地からの発射が増える可能性があります。
今後は長距離攻撃に占めるドローンの比重がさらに高まる可能性があります。
今回の攻撃が報道どおりであれば、短期的な軍事的損失そのものよりも、
その結果、ロシア軍は今後、
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捉え方がおかしいんだよね
でもXXなら⚪︎⚪︎な目にあっていいってことは無いんだよね
であれば、夜職なんてするんじゃありませんって空気作っておくのが出来ることだよね
年初に37,500円だったタイミングを逃して苛立ってるのでバラす
仮想通貨マイニング専用機器として売られていた「NVIDIA CMP 170HX 8GB」というグラボがある。これのVRAMを全領域アンロックする方法が見つかった
こいつはAmpere世代のNVIDIA A100 PCIe、つまりH200とかGB300とか言われてる奴のRTX30世代のバージョンのうち、NVIDIA社内での品質検査で不可となりマイニング用として安く大口販売された物で、公称ではVRAMが8GBしか搭載されてなく、PCIeもx1でしか接続できない事になってる。また浮動小数点機能も大幅にカットされてる。だがGA100はHBMメモリを搭載していて、有志検証で何らかのチップがフル搭載されていることから、「物理8GB構成は不可能であり、物理的にはフル40GBが搭載→ハードまたはソフトで無効化されている可能性が高い」と言われていた
上に書いたように俺は手をこまねいて37,500円で買えたタイミングで様子見して買えてないから検証できてないが、有志により1) 無効化はセキュリティCPUのプログラムで掛かってること 2) ドライバ改造でセキュリティCPUが落とせること が分かり、そこから高騰が始まると同時にAIを使った再実装チームが走り始め、そのチームの言を信じるならLinux実行中に限りPythonスクリプトを走らせることで64GB全領域がアンロックできることが分かった。ただしPCIeは未改造でx1、改造によりx4までの動作に限られ、x16動作とNVLink端子を使った複数GPUの直結は不可能とされている。NVIDIA CMP 170HXは公称8GBと10GB品が、正規版のNVIDIA A100 PCIeは40GBと80GBが存在するが、有志再現チームのREADMEを読む限りではCMP 170のフル搭載量は8GBでも10GBでも40GBでもなく64GBと判明したということになっている
追記: 64GBアンロック確認できてないらしい。性能アンロックは確認取れたらしい。どっちなんだよ
これを受けてeBayの中古相場は3.5万円 → 5万円 → 10万円まで跳ねている。無制限版A100なら30~50万円だからこれでも安いが、俺は買えないからリスク取れるおまえらは買え。すぐ買え。もしくは見送って後で50万円で買え。3.5万でもう買ったやつは俺の涙でも舐めてろ
なおNVIDIA CMPシリーズは170HX以外にもあるが、そいつらはHBMじゃないから物理低容量の実装は容易で、実はフル搭載でした~という可能性は低い。170HXだけがアンロックできるのはVRAMがチップレットみたいに実装されててNVIDIAの技術力をもっても外したり増設したりできないHBM構成だからで、他のCMPシリーズはそもそもベースが10シリーズや20シリーズばかりだから旨味もないしハックの余地も少ない。170HXを買え。A100の中古価格まで上がる前にすぐ買え。170HXが買えないから代わりのものを提示しろという奴はV100 16GBでも買っとけ。PCIe版はファン付きだしSXM2版は中華のeGPU化やデュオ化アダプターが開発されてる。32GBはまだ高い。Qwen 27Bが載る32GBのGPUは全部高い。ただし俺はそもそも買えてないし裏取ってないし中華業者が本当に送ってくるかなんか知らんし責任取らんからそこだけは留意しろ
冷却はPCIeスロットをカバーで全部塞いでこいつの口だけが露出した状態にしてシロッコファンの円形の側を押し付けて全力で吸い出せば多分冷える。プロペラファンは静圧足りなくなっていくら回してもうるさいだけでヒートシンクの奥から空気が吸えずどんどん熱が溜まるから使うな。俺はまったく別のパッシブ冷却カードだが3Dプリンターでアダプターを作ってそうやってる。うるさいがdT<20度にはなってる
合計32GB以上のVRAMを調達できたがAIのおすすめはないのかという奴は、単体32GB確保できるならQwen 3.6 27B q4、16GBが2枚など分割ならQwen 3.6 35B-A3B q4を使え。VRAM搭載量に応じて最適なサイズのAIを選ぶという考えは意味ないから捨てろ
7月15日(水)曇りのち晴れ
朝起きたら、雨が上がっていた。曇り空だったけど、昨日までの雨に比べたら、だいぶマシだった。梅雨明けが近いのかもしれない。天気予報を見たら、来週あたりから晴れマークが増えていた。そろそろ夏本番だ。
会社では、特に大きな出来事もなく、淡々と1日が過ぎた。こういう「特に何もない日」を日記に書くとき、何を書けばいいのか少し迷う。でも、考えてみたら、人生のほとんどはこういう「特に何もない日」でできているんだと思う。大きな出来事がある日の方が、実は少数派だ。
昼過ぎ、給湯室で、誰かが淹れたコーヒーの匂いが漂ってきて、つられて自分もコーヒーを淹れに行った。コーヒーの匂いというのは、不思議と人を惹きつける力がある。味よりも、香りの方が記憶に強く残るという話をどこかで聞いたことがある。本当かどうか分からないけど、コーヒーの香りを嗅ぐと、いろんな場所や時間を思い出す気がする。
午後、退勤前に、久しぶりに空を見上げたら、雲の切れ間から夕日が差し込んでいて、綺麗だった。オフィスの窓から見える景色は、いつもは特に気にしないけど、たまにこういう瞬間に出会うと、少し得した気分になる。写真を撮ろうかと思ったけど、結局撮らなかった。記憶にだけ残しておくことにした。
夜、家に帰る途中、商店街のパン屋さんでいい匂いがしたので、つい引き寄せられて入ってしまった。焼きたてのメロンパンを買った。家に帰って、まだ温かいメロンパンを食べたら、外はカリッと、中はふわふわで、とても美味しかった。こういう、予定していなかった小さな幸せが、意外と1日の満足度を大きく左右するんだと思う。
7月16日(木)晴れ
久しぶりの快晴だった。梅雨明けが近いことを実感する空模様。朝から気温が高くて、家を出た瞬間に「あ、今日は暑い日だ」と分かった。半袖のシャツにして正解だった。
会社への道すがら、セミの鳴き声を今年初めて聞いた気がする。夏の始まりを告げる音として、セミの声というのは象徴的だと思う。子供の頃は、セミを捕まえるのに夢中だったけど、大人になった今は、ただその声を聞くだけになった。捕まえようとは、もう思わない。
会社では、暑さのせいか、みんなどこか気だるそうだった。冷房の効きが悪いフロアで働いている同僚が「今日は特に暑い」とぼやいていた。冷房の効き具合というのは、オフィスによって本当にまちまちだと思う。効きすぎて寒いフロアもあれば、全然効いていないフロアもある。ちょうどいい温度のオフィスというのは、意外と貴重なんじゃないかと思う。
昼休み、暑さに負けて、冷たい蕎麦を食べに行った。ざる蕎麦とかき揚げのセット。冷たい蕎麦をすする瞬間、暑い日にしか味わえない美味しさがあると思う。同じ蕎麦でも、冬に食べる温かい蕎麦とは、また違う魅力がある。
夕方、退勤後、暑さで少しばてていたので、まっすぐ家に帰らず、コンビニでアイスコーヒーを買って、公園のベンチで一休みした。木陰に座って、アイスコーヒーを飲みながら、行き交う人を眺めていた。特に何をするでもない時間だったけど、こういう時間があるからこそ、また明日も頑張れる気がする。
夜、暑さでシャワーを2回浴びた。1回目は帰宅してすぐ、2回目は寝る前。夏はシャワーの回数が増えるけど、それも夏らしい過ごし方の一つだと思う。扇風機をつけながら、なかなか寝付けない夜を過ごした。
7月17日(金)晴れ
今週も金曜日を迎えた。梅雨が明けたようで、朝から強い日差しが照りつけていた。夏本番という感じがする。
朝、天気予報で「梅雨明けが発表されました」というニュースを見た。毎年、このニュースを聞くと、なんとなく気持ちが切り替わる。じめじめした季節が終わって、いよいよ夏本番。暑いのは苦手だけど、夏という季節そのものは、なんだかんだ好きだ。花火大会とか、かき氷とか、夏にしかない楽しみがたくさんある。
会社では、金曜日特有の解放感が朝から漂っていた。みんなどこか少し浮足立っている気がする。仕事自体は普段通りだったけど、心なしか作業のペースが速かった気がする。早く終わらせて、早く週末を迎えたいという気持ちが、みんなの中にあったんだと思う。
昼休み、同僚と「梅雨明けたね」という話をした。これもまた、季節の変わり目に必ず交わされる、テンプレートのような会話だ。でも、こういう会話があるからこそ、季節の移り変わりを実感できるのかもしれない。1人で黙々と過ごしていたら、案外季節の変化に気づかないまま過ぎてしまうこともある気がする。
夕方、退勤後、久しぶりに夕焼けが綺麗だった。オレンジ色の空を見ながら、駅まで歩いた。夏の夕焼けは、なんだか特別に感じる。空気が澄んでいるからなのか、日が長いからなのか、理由は分からないけど、夏の夕方の空は、他の季節とは違う美しさがある気がする。
夜、家に帰ってから、ビールを飲みながら、この1週間を振り返ってみた。特に大きな出来事はなかったけど、細かい小さなことがたくさんあった週だった気がする。歯医者に行ったり、部屋を模様替えしたり、映画を見たり、メロンパンを買ったり。1つ1つは些細なことだけど、こういう些細なことの積み重ねが、結局のところ生活そのものなんだと思う。特に何もない日々を、これからも積み重ねていきたいと思いながら、この日記を締めくくることにする。
7月18日(土)晴れ
土曜日。梅雨明け後、初めての休日だった。朝から日差しが強くて、カーテンの隙間から入る光だけで、目が覚めてしまった。せっかくの休日なのに、こんなに早く起きてしまうのはもったいない気もしたけど、二度寝する気にもなれず、そのまま起き上がった。
朝ご飯を食べながら、今日は何をしようか考えた。特に予定はなかったので、久しぶりにシーツと枕カバーを洗濯することにした。夏場は寝汗をかきやすいので、こまめに洗った方がいいと分かってはいるんだけど、ついつい後回しにしてしまう。今日は天気もいいし、いいタイミングだと思って、洗濯機を回した。
洗濯物を干している間、ベランダから外を見たら、隣のマンションの人がプランターで朝顔を育てているのが見えた。青い花がいくつか咲いていて、涼しげな印象だった。自分も何か育ててみようかなと、ふと思ったけど、植物を枯らしてしまいがちな性格なので、多分やめておいた方がいいと思う。過去に何度か観葉植物を枯らしている実績がある。
昼過ぎ、シーツを洗ってすっきりしたベッドで、少し昼寝をした。夏の昼寝は、扇風機の風にあたりながらするのが気持ちいい。30分くらいのつもりが、気づいたら1時間半くらい寝てしまっていた。休日の昼寝は、時間の感覚がおかしくなる。
夕方、近所のスーパーに買い物に行った。夏野菜のコーナーが充実していて、トマト、きゅうり、なす、ピーマンなどが安く売られていた。夏野菜のカレーを作ろうと思って、一通り買い揃えた。レジに並んでいるとき、前の人がすごい量の氷を買っていて、今日の暑さを物語っているなと思った。
夜、買ってきた野菜で、夏野菜カレーを作った。なす、ズッキーニ、パプリカを炒めて、いつものカレーに混ぜ込んだ。夏野菜のカレーは、彩りも良くて、なんとなく食欲をそそる。作りながら、来週も夏らしい料理を色々作ってみようと思った。
7月19日(日)晴れ
日曜日。今日も朝から暑かった。セミの鳴き声が、昨日よりもさらに元気になっている気がする。夏の日曜日というのは、なんだか特有の解放感がある。学生時代の夏休みの記憶と重なるのかもしれない。
午前中、久しぶりにプールにでも行こうかと思ったけど、準備が面倒になって、結局行かなかった。水着とかタオルとか、色々準備しないといけないのを考えると、腰が重くなる。「行こうかな」と思う気持ちと、「準備が面倒」という気持ちの綱引きに、いつも後者が勝ってしまう。来年こそは行こうと思う。多分来年も同じことを言っている気がする。
代わりに、家で麦茶を大量に作った。やかんで沸かして、麦茶パックを入れて、冷蔵庫で冷やす。夏の間、麦茶を切らさないようにするのは、地味に大事な家事の一つだと思う。冷えた麦茶をコップに注いで飲む瞬間の満足感は、夏ならではのものだ。
午後、実家からミニトマトが送られてきた。先週電話で話した、母が育てているミニトマトだった。段ボール箱いっぱいのミニトマトを見て、思わず笑ってしまった。こんなに食べきれるかなと思ったけど、洗って冷やして、そのままおやつ代わりに食べたら、意外とどんどんなくなっていった。庭で採れた野菜というのは、スーパーで買うものとは、なんとなく味が違う気がする。実際に味が違うのか、気持ちの問題なのかは分からないけど。
夕方、ミニトマトのお礼に、母に電話をかけた。「美味しかったよ、ありがとう」と伝えたら、母は嬉しそうにしていた。今年は水やりを頑張ったから、豊作なのだと言っていた。実家の庭の話を聞きながら、久しぶりに実家に帰りたいなという気持ちになった。次の休みにでも、帰省しようかと考え始めた。
夜、日曜日の憂鬱がまたやってきたけど、ミニトマトのおかげで、いつもより少し気分が良かった。小さな出来事一つで、気分というのは意外と左右されるものだと思う。
7月20日(月)晴れ
月曜日。夏本番の暑さの中での出勤は、なかなか体力を使う。駅まで歩くだけで、シャツがうっすら汗ばんでしまう。会社に着く頃には、涼しい格好で来たはずなのに、なんとなくくたびれた気分になっている。
会社の冷房は、今日はちょうどいい温度だった。先週、暑いとぼやいていた同僚も、今日は「今日はいい感じだね」と言っていた。冷房の設定温度というのは、本当にその日その日で違う気がする。同じ設定にしているはずなのに、なぜか体感が違う。多分、外気温との差が体感に影響しているんだと思う。
仕事は、月初めの締め作業が重なって、少し忙しかった。普段よりも集中して作業をこなした。忙しい日は、逆に時間が早く過ぎる気がする。暇な日はダラダラと長く感じるのに、忙しい日はあっという間に夕方になっている。時間の感じ方というのは、本当に不思議なものだと思う。
昼休み、忙しさのせいで外に出る時間がなく、デスクでコンビニのサンドイッチを食べた。作業をしながら食べるお昼ご飯は、あまり味わえていない気がするけど、忙しいときは仕方ない。
夕方、なんとか締め作業を終わらせて、いつもより少し遅い時間に退勤した。駅までの道、夕方でもまだ蒸し暑かった。電車に乗ったら、冷房が効いていて、生き返る心地がした。夏の電車の冷房ほど、ありがたいものはないと思う。
夜、疲れていたので、簡単にそうめんを作った。実家からもらったミニトマトを添えて、彩りよく仕上げた。忙しい日でも、こういう簡単な料理でさっと済ませられるのは、一人暮らしで身についたスキルの一つだと思う。食べ終わってすぐにお風呂に入って、いつもより早めに布団に入った。
今日から7月。特に何も変わらないんだけど、カレンダーが1枚めくれるだけでちょっと気持ちが変わるのは不思議だ。朝起きたら6時58分だった。7時に起きようと思っていたので、2分早く起きられたことに謎の満足感を覚える。別に2分早く起きたところで何がどうなるわけでもないのに。
コンビニでいつものように鮭おにぎりを買おうとしたら、鮭が売り切れていて、仕方なく昆布にした。昆布のおにぎりって、子供の頃は苦手だったのに、大人になってから急に美味しく感じるようになった。舌が変わったのか、それとも塩気の感じ方が変わったのか。多分どっちもだと思う。レジのお姉さんが「温めますか」と聞いてきたけど、おにぎりは温めないので「大丈夫です」と答えたら、なぜか少し気まずい空気になった。おにぎりを温める人もいるのかもしれない。今度試してみようかな。いや、多分試さない。
会社に着いたらパソコンの起動が異常に遅かった。Windows Updateが走っていたらしい。5分くらいぼーっと画面を眺めながら、こういう時間って人生でどれくらい積み重なっているんだろうと考えた。多分合計したら何日分にもなる。何日分もの人生を「読み込み中」の画面に捧げているのかと思うと、少し虚しくなったけど、別にどうしようもないのでコーヒーを淹れに行った。
お昼は同僚と近くの定食屋に行った。日替わり定食が鯖の味噌煮だった。鯖の味噌煮は好きなんだけど、骨が多いイメージがあって身構えてしまう。今日は割と骨が少なくて、安心して食べられた。同僚が「最近暑くなってきたね」と言うので「そうですね」と返した。この会話、多分1年に50回くらいしている気がする。季節の変わり目には必ず誰かが「暑くなってきた」「寒くなってきた」と言い、それに対して「そうですね」と返す。この儀式のようなやりとりに、何か意味があるんだろうか。多分ないけど、ないなりに大事な気もする。
夕方、雨がぱらついてきたので傘を差した。折りたたみ傘を持っていたのは我ながら偉かった。天気予報をちゃんと見ていたからだ。天気予報を見て傘を用意できた日は、なんとなく1日の勝率が上がる気がする。逆に傘を忘れて雨に降られた日は、その後もなんとなく調子が悪い。因果関係はないと思うけど、そういう気がしてしまうのは仕方ない。
夜、お風呂に入りながら、今日1日で自分が何を成し遂げたかを考えてみたけど、特に何も思いつかなかった。メールを何通か返信して、会議に1つ出て、資料を少し直した。それだけと言えばそれだけなんだけど、多分こういう「特に何もない日」の積み重ねが生活というものなんだろうなと思う。湯船に浸かりながらそんなことを考えていたら、のぼせてきたので出た。
7月2日(木)晴れ
昨日ののぼせのせいか、朝からちょっとだるかった。それでも起きて、いつも通り顔を洗って、歯を磨いた。歯磨き粉のチューブがそろそろ終わりそうで、最後の方は絞り出すのに苦労する。あの「もう終わりかけの歯磨き粉を絞る作業」って、地味にストレスが溜まる。新しいチューブに変えたときの、あの気持ちよさといったらない。ニュルッと簡単に出てくる感じ。人生の小さな喜びの一つだと思う。
今日は洗濯物がよく乾く天気だった。ベランダに干した洗濯物が風にはためいているのを見ると、なんとなく気分が良くなる。特に理由はないんだけど、白いシャツが風になびいているのを見ると「いい1日になりそうだ」という謎の予感がする。実際にいい1日になるかどうかは別として。
電車の中で、前に座っていたおじさんがずっとスマホでパズルゲームをしていた。カラフルなブロックを消すやつ。おじさんの指の動きがすごく速くて、なんだかプロフェッショナルな雰囲気があった。世の中には色んな「極める」がある。パズルゲームを極めるおじさんもいれば、将棋を極める人もいるし、たこ焼きの焼き加減を極める人もいる。それぞれの人がそれぞれの世界でそれぞれの熟練度を持っているというのは、考えてみると面白い。
会社では、給湯室でお茶を入れているときに、隣の部署の人と少し話した。「最近、暑いですよね」から始まり、「そうですね、まだ7月なのに」という展開になり、「これから8月とか、どうなっちゃうんでしょうね」で締めくくられた。この会話のテンプレート、本当によくできていると思う。誰でも参加できて、誰も傷つかず、特に何の情報も生まれない。ある意味、完璧なコミュニケーションだ。
昼休みに、スマホで特に見る予定もなかったニュースサイトをだらだら見ていたら、30分くらい経っていた。何を読んだか、あまり覚えていない。多分どうでもいい記事ばかりだったんだと思う。でも、こういう「何も生み出さない30分」も、休憩としては必要なんだと自分に言い聞かせている。
夜ご飯は、冷蔵庫にあるものだけで何とかしようと思って、野菜炒めを作った。もやし、キャベツ、にんじん、あと少しだけ残っていた豚肉。特に美味しくもまずくもない、普通の野菜炒めができた。こういう「普通」の料理ができるようになったのは、一人暮らしを始めてからの成長かもしれない。最初の頃は、何を作っても謎に味が濃かったり薄かったりしたから。
7月3日(金)晴れのち曇り
金曜日は、朝から少しだけテンションが上がる。理由は単純で、明日から休みだからだ。この「金曜日効果」は、社会人になってから何年経っても薄れない。むしろ年々強くなっている気さえする。
朝の電車で、席が1つだけ空いていたので座った。座れるとやっぱり嬉しい。座れた日は、なんとなくその日1日がいい日になる気がする。これも昨日書いた「傘の勝率」と同じ現象かもしれない。人間は、朝のちょっとした運不運に、その日全体の気分を左右されがちなんだと思う。
会社では、午後にどうでもいい会議があった。議題は「来月の飲み会の日程調整」。これのために30分の会議を設定するのは、ちょっとやりすぎな気もするけど、誰も文句を言わないので、そのまま進んだ。結局、候補日を3つ出して、後日アンケートを取ることになった。会議で決めたことは「後で決める」ということだけだった。こういう会議、実は世の中に結構多いんじゃないかと思う。
夕方、退勤時に、エレベーターで一緒になった知らない人と、なんとなく気まずい沈黙を共有した。1階から10階分くらい、無言でエレベーターに乗るのって、地味に緊張する時間だと思う。スマホを見るふりをしながら、階数表示を横目でチラチラ確認する。あの時間だけ特別に時間の流れが遅く感じる。
夜は、久しぶりに友達と電話した。特に用事があったわけじゃなくて、「最近どう?」から始まる、内容のない長電話。1時間くらい話したけど、話した内容を思い出そうとしても、断片的にしか覚えていない。友達の会社の上司が変な人だという話、最近見た映画の話、あと猫の話。それくらいしか覚えていないけど、多分こういう「内容を覚えていない長電話」こそが、いい友達関係の証なんじゃないかと思う。用事がなくても話せる関係というのは、実はそんなに多くない。
7月4日(土)晴れ
休日の朝は、目覚まし時計をかけていないのに、なぜか平日とほぼ同じ時間に目が覚める。体内時計というのは律儀なものだと思う。もっと寝ていたいのに、目が覚めてしまう。二度寝しようとしたけど、結局スマホを見てしまい、そのまま起きることになった。
今日は特に予定がなかったので、部屋の掃除をすることにした。掃除機をかけて、床を拭いて、あと本棚を整理した。本棚の奥から、もう何年も読んでいない本が何冊か出てきた。学生の頃に買った参考書とか、一度読んで満足した小説とか。捨てるかどうか迷ったけど、結局「いつか読むかもしれない」という気持ちに負けて、そのまま棚に戻した。多分このまま一生読まないんだろうけど、捨てる決断をするのも、それはそれでエネルギーがいる。
昼過ぎに、久しぶりに近所の商店街を歩いた。八百屋のおじさんが「今日はきゅうりが安いよ」と声をかけてきたので、特にきゅうりを買う予定はなかったけど、なんとなく買ってしまった。5本で150円だった。安い。家に帰ってから、5本のきゅうりをどう消費するか考えることになったけど、それはそれで悪くない悩みだと思う。
午後は、テレビをつけっぱなしにして、特に集中して見るわけでもなく、なんとなく画面を眺めながらだらだら過ごした。バラエティ番組で、芸能人が知らない街を歩いて美味しいものを探すという企画をやっていた。こういう番組、内容はほぼ毎回同じなのに、なぜか見てしまう。多分、他人が知らない街を歩いているのを見るのが、単純に楽しいんだと思う。自分は歩かなくていいという安心感もある。
夕方、買ってきたきゅうりを浅漬けにした。塩もみして、しばらく置くだけの簡単なやつ。冷蔵庫で冷やして、夜ご飯のときに食べたら、思ったより美味しくできていて、ちょっと得意な気持ちになった。人間、こういう小さな成功体験の積み重ねで、意外と機嫌よく生きていけるものだと思う。
7月5日(日)曇り
日曜日は、なんとなく1週間の中で一番時間の流れが遅い気がする。朝起きて、特に何もしなくていいという状態が、逆に何をしていいか分からなくさせる。結局、布団の中でスマホを見ながら1時間くらい過ごしてしまった。
昼前に、思い立って近くの公園まで散歩に行った。公園には、子供たちが遊具で遊んでいて、お母さんたちがベンチで話をしていた。犬を連れて散歩している人も何人かいた。柴犬、トイプードル、あと名前が分からない小型犬。犬というのは、種類が違っても、みんな同じくらい楽しそうに歩いているように見える。それがちょっと羨ましい。
公園のベンチに座って、しばらくぼーっとしていた。特に何も考えていなかったと思う。強いて言えば、木の葉っぱが風で揺れる音を聞いていた。ああいう「何も考えない時間」というのは、意外と貴重なんじゃないかと思う。普段は常に何かを考えているから、頭が休まる時間がなかなかない。
夕方、日曜日特有の憂鬱がじわじわとやってきた。いわゆる「サザエさん症候群」というやつだ。特に明日の仕事に大きな問題があるわけではないのに、なんとなく気分が沈む。この現象、多分ほとんどの社会人が経験しているんじゃないかと思う。日曜日の夕方6時くらいから、テレビから国民的アニメの主題歌が流れてくると、条件反射的に憂鬱になる。パブロフの犬みたいなものだ。
夜、明日の準備として、シャツにアイロンをかけた。アイロンをかける作業は、地味だけど、なんとなく心が落ち着く。シワが伸びていく様子を見ているのが、単純に気持ちいい。無心になれる作業の一つだと思う。アイロンをかけながら、来週のことをぼんやり考えた。特に大きな予定はないけど、水曜日に歯医者の予約が入っていることを思い出して、少し憂鬱になった。
7月6日(月)雨
朝から本降りの雨だった。月曜日に雨が降ると、なんとなく1週間の始まりとしてはハードモードだと感じる。傘を差して、濡れた靴下のまま会社に行くのは、地味に不快だ。靴の中に水が入ってくる、あの感覚。防水の靴を買おうかと何年も思っているけど、結局買わないまま今年も梅雨を迎えている。
電車が少し遅延していた。雨の日はいつも電車が遅れる。「弱冠の遅れ」というアナウンスをよく聞くけど、「弱冠」という言葉の使い方として合っているのか、前から気になっている。多分、正確には違う言葉なんだろうけど、鉄道業界の中でそういう言い回しが定着しているんだと思う。今度調べてみようと思いつつ、多分調べない。
会社に着いたら、傘立てがいっぱいで、自分の傘を置く場所に少し困った。こういう「傘の置き場所問題」は、雨の日の地味なストレスの一つだと思う。あと、他人の傘と自分の傘を間違えないか、いつも少し心配になる。同じような黒い折りたたみ傘を持っている人が多いから。
仕事は、特に大きな出来事もなく、淡々と進んだ。資料を作って、メールを返信して、会議に1つ出た。雨の日は、なんとなく仕事の効率が落ちる気がする。気圧のせいなのか、気分のせいなのか分からないけど、集中力が続きにくい。窓の外の雨音を聞きながら、ぼーっとする時間が普段より多かった。
夜、家に帰ってから、濡れた傘を玄関で開いて乾かした。傘立てがないので、床にビニール袋を敷いて、その上に傘を置いている。この応急処置的な傘置き場を、そろそろちゃんとした傘立てに変えようと思いながら、もう2年くらい経っている。多分、この先も変えないまま何年か過ぎるんだろう。
7月7日(火)曇り時々晴れ
七夕だった。特に短冊に願い事を書くわけでもなく、笹を用意するわけでもなく、ただカレンダーを見て「あ、七夕か」と思っただけだった。子供の頃は幼稚園や小学校で短冊を書かされた記憶があるけど、大人になってから七夕を意識することは、ほとんどなくなった。
会社の給湯室に、誰かが折り紙で作った小さな笹の飾りが置いてあった。誰が作ったのか分からないけど、ちょっとした心遣いだなと思って、少し和んだ。短冊には「売上目標達成」と書かれていて、思わず笑ってしまった。会社らしい願い事だと思う。
昼休みに、七夕にちなんで素麺を食べようかと思ったけど、結局コンビニでいつものサンドイッチを買ってしまった。七夕に素麺を食べる風習があるらしいということを、テレビか何かで見た記憶があるけど、実際に実行したことは一度もない。今年も同じだった。
夕方、空を見上げたら、雲が多くて星は見えそうになかった。天の川がどうとか言われても、そもそも都会に住んでいると天の川自体、見たことがない。織姫と彦星が年に一度会えるという話は素敵だけど、天気に左右されるというのは、なんだかロマンチックさに欠ける気もする。晴れの年もあれば、雨の年もある。今年は多分会えていない。
夜、実家の母から「七夕だね」というだけのメッセージが届いた。特に返信を求めているわけでもなさそうだったけど、一応「そうだね、こっちは曇ってて星見えなさそう」と返信した。こういう、内容のない親からのメッセージというのは、なんだかんだ嬉しいものだと思う。用事がなくても連絡してくれるというのは、多分ありがたいことなんだろう。
7月8日(水)晴れ
朝から気持ちのいい晴天だった。梅雨の合間のこういう晴れの日は、なんだか得した気分になる。洗濯物を干して、いつもより少し早足で駅まで歩いた。
今日は歯医者の予約日だった。特に痛いところがあるわけではなく、定期検診だったけど、それでも歯医者に行くのは、なんとなく気が重い。あの独特の消毒液の匂いと、器具のキーンという音。子供の頃から変わらない苦手意識が、大人になった今でも残っている。結果は特に問題なく、「歯石が少し溜まっているので、取っておきましょう」と言われて、歯石取りをしてもらった。歯石を取ってもらった後の、歯がツルツルになる感覚は、地味に気持ちがいい。
会社では、新しいプロジェクトの説明会があった。詳しい内容はここには書かないけど、要するに新しいシステムを導入するという話だった。こういう説明会は、いつも「これで業務が効率化されます」という話で終わるけど、実際に効率化された試しがあまりない気がする。新しいシステムに慣れるまでの間、むしろ一時的に非効率になることの方が多い。それでも、みんな真面目にメモを取っていた。
夜、歯医者帰りで少し口の中に違和感が残っていたので、柔らかいものを食べようと思って、お粥を作った。卵を落として、梅干しを添えた、シンプルなお粥。体調が悪いわけでもないのに、お粥を食べるという行為自体が、なんとなく「今日はゆっくり過ごそう」というメッセージを自分に送っているような気がして、悪くなかった。
夜遅く、ベランダに出て夜風にあたった。梅雨の晴れ間の夜は、湿度が高くて、少し蒸し暑い。でも、星がいくつか見えて、七夕の日には見えなかった星が、1日遅れで見えたことに、少し面白さを感じた。織姫と彦星も、1日遅れで会えたのかもしれない。そんなことを考えながら、部屋に戻った。
7月9日(木)晴れ
朝、久しぶりに早起きできたので、朝ご飯をちゃんと作った。トーストと目玉焼きと、コーヒー。目玉焼きの黄身を、いつも半熟にしようとして、気づいたら固焼きになっていることが多いんだけど、今日は珍しく理想的な半熟にできた。黄身にトーストをつけて食べる瞬間は、朝の小さなご褒美だと思う。
通勤中、電車の中で、隣に座った人が大きなあくびをしていた。あくびというのは伝染すると聞くけど、実際に自分もつられてあくびをしてしまった。科学的にどういう仕組みなのか分からないけど、人間の共感能力みたいなものが関係しているらしい。今度調べてみようと思う。多分調べない。
会社では、久しぶりに取引先との打ち合わせがあった。オンラインではなく、実際に来社しての打ち合わせだった。画面越しではなく、実際に人と会って話すというのは、なんだかんだやっぱり情報量が違うなと感じた。相手の些細な表情の変化とか、話すときの間の取り方とか、そういう細かいニュアンスが、画面越しだとどうしても伝わりにくい。
打ち合わせの後、取引先の人と少し雑談した。趣味の話になって、その人が最近キャンプにはまっているという話をしてくれた。キャンプ、興味はあるけど、道具を揃えるのが大変そうで、なかなか手を出せずにいる。でも、話を聞いていたら少し憧れてしまった。焚き火を眺めながらお酒を飲む時間、想像するだけで良さそうだ。今度、道具をレンタルできるキャンプ場を調べてみようと思った。これも多分すぐには行動に移さないと思うけど。
夜、キャンプの話に触発されて、ベランダで小さなろうそくに火をつけて、それを眺めながらビールを飲んでみた。焚き火とは程遠い、ささやかすぎる代替行為だけど、それでも炎を眺めるという行為自体には、なんとなく心を落ち着ける効果があるように感じた。人類は火を発見してから、ずっとこうやって炎を眺めてきたのかもしれない。そんな大げさなことを考えながら、ビールを飲み終えた。
金曜日。今週も無事に終わりそうだ。朝から、なんとなく体が軽い気がする。1週間頑張った後の金曜日特有の解放感が、朝から漂っている。
会社では、午前中に細かいタスクをいくつも片付けた。メールの返信、資料の修正、経費精算。どれも大きな仕事ではないけど、こういう細々としたタスクが溜まると、地味にストレスになる。全部片付けた後の、受信箱が空になった瞬間の爽快感は、なかなかのものだと思う。ただ、この爽快感は長くは続かない。だいたい30分後には新しいメールが届いて、また受信箱が埋まっていく。賽の河原の石積みみたいなものだ。
昼休みに、同僚と「今年の夏、どこか行く?」という話になった。特に旅行の計画があるわけではなかったけど、話しているうちになんとなく気分が盛り上がった。海がいいか、山がいいか、それとも近場の温泉でのんびりするのがいいか。結局、結論は出ないまま昼休みが終わった。でも、こういう「実現するかどうか分からない旅行の話」をするだけでも、なんだか楽しい気分になれる。
夕方、退勤後に、久しぶりに1人で居酒屋に寄った。カウンター席に座って、生ビールと、焼き鳥の盛り合わせを頼んだ。1人で飲む酒というのは、誰かと飲むのとはまた違った良さがある。誰にも気を使わず、自分のペースで飲める。隣に座っていた知らないおじさんが、店員さんと常連らしい会話をしていて、その様子を眺めているのも、なんだか楽しかった。
家に帰る道すがら、コンビニに寄って、アイスを買った。金曜日の夜に食べるアイスは、なんだか特別に美味しく感じる。1週間頑張った自分への、ささやかなご褒美という感じがする。家に帰って、シャワーを浴
最近「弱者男性が求めてるのは彼女じゃなくてママの代替品」って話、ちょいちょい見かける。
最初見たときは「さすがに言い過ぎだろ」と思った。でも自分の周りとか、増田とかで似たような愚痴を読んでるうちに、これ結構的を射てるんじゃないかと思うようになってきた。全員がそうだとは言わない。ただ「彼女欲しい」って言ってる人の中身をよく見ると、求めてるのが恋愛じゃなくて無償のケアになってるケース、たしかにある。
恋愛って基本的に対等な大人同士の関係のはずなんだよな。お互い一人の人間として向き合って、理解しようとするし、理解されようともする。支え合うし、傷つくこともあるし我慢もする。要するにコストがかかる。
でも心身ともに疲れ切って、孤立して、自己肯定感も底をついて、生きるだけで精一杯って人には、そのコストを払う余力がない。そうなると「恋愛したい」の中身がすり替わる。欲しいのは恋人じゃなくて、無条件で自分を肯定してくれて、生活を立て直してくれて、精神を支えてくれる存在になる。不機嫌でも受け止めてくれて、コミュ力低くても見捨てなくて、料理も掃除も手伝ってくれて、落ち込んだら励ましてくれて、孤独なら寄り添ってくれる相手。
それ、恋人か? って話で。むしろ親が子にやるケアそのものじゃないか。「彼女欲しい」の裏に、実は「安心して甘えられるママ」が欲しいって欲求が隠れてる。この二つが混ざった時点で、恋愛はもう対等な関係じゃなくなる。
たぶんこの違和感を一番先に察知するのは女性側だと思う。「この人、私自身を見てるんじゃなくて、私に何をしてもらえるかを見てる」という感覚。人格じゃなくて機能を求められてる、回復装置として期待されてる感じ。最近よく言われる感情労働とか無償ケアの話も、結局ここに繋がってる気がする。恋人の肩書きを渡した瞬間にカウンセラーと母親と家政婦と生活指導員とセラピストと介護者を全部兼任させられるかもしれない、っていう警戒。だから「恋人候補」じゃなくて「メンタルケア要員募集」に見えてしまう。
さらにタチが悪いのが依存で、「君しかいない」「君だけが理解者」「君がいないと生きられない」って、本人は愛情のつもりでも言われた側には全然違う響き方をする。逃げられない、断れない、距離を置こうとしただけで相手が壊れるかもしれないというプレッシャーを最初から背負わされる感じ。期待通りにケアできなかった瞬間「裏切られた」って逆恨みされるパターンもゼロじゃない。もちろん大半はそんなことにならないけど、ストーカーやDVの事件が繰り返し報道されてきた以上、「この人大丈夫かな」って警戒が先に立つのは仕方ない部分もある。女性向けのコミュニティでこの手の男性が「エネルギーバンパイア」なんて呼ばれてるのも、単なる悪口というより自衛の側面が大きいんだろうなと思う。
とはいえ、じゃあ「弱者男性が加害者」で片付けるのも違う気がする。なんでここまで恋人にケアを集中させる男性が出てくるかって言うと、そもそも育ち方の問題がでかい。男は子供の頃から「泣くな」「弱音吐くな」って言われて育つし、感情を言語化する練習をほとんどしないまま大人になる。男同士の付き合いも仕事や趣味や競争が軸になりがちで、「今日しんどい」「助けて」って言い合える空気がまだあんまりない。結果、安心して弱さを見せられる相手が恋人しかいなくなる。恋人が唯一のセーフティネットになって、「彼女ができれば人生全部解決する」みたいな発想が生まれる。でもそれって、恋人に人生そのものを背負わせてるのと同じなんだよな。
恋愛にケアの要素があるのは間違いない。家族にもある。でも恋愛そのものを福祉制度として運用し始めたら、絶対どっかで誰かが潰れる。恋人はカウンセラーでも母親でもケースワーカーでもない。ATMでも家政婦でもない。男は「ATM扱いされたくない」ってよく言うけど、それと同じくらい「無料のケア労働者になりたくない」って女性側の言い分もある。突き詰めると構造は割と似てるんじゃないかと思う。
男性の生きづらさとか孤独とか社会的孤立とか、ケア不足の問題自体は現実にあると思うし、そこを軽く扱うつもりはない。ただその解決策を恋人一人に丸投げする形にすると、結局また別の誰かがすり減るだけなんだよな。恋愛以外にもケアを分散できる場所、男同士で弱音を吐ける関係、友人との支え合い、自分で自分をある程度ケアする技術、そういうのが増えていかない限り、「彼女が欲しい」の中に「ママになってほしい」がずっと紛れ込み続けるし、女性側もその違和感を察知し続けるんだろうなと思う。
まず、全てのソロDD界隈、DD界隈、そしてDDそのものがダメ、と白黒つけるわけではない。
・DDを「DD?ピルグリムとかだっけ?」ぐらいの認識の人たちには関係のない話だし
・そうでない人はこの界隈の闇を既に知っているだろうからだ。
その上で、なぜダメなのか。それは特定のソロDD界隈自体、そこが個性的な人の煮凝りになりやすい性質を持っているからであると思う。
考えてもみてほしい。
一般の人が、特定のゲームをソロでクリアしたり、スコアを高める、あえて過酷なジョブでソロクリアする。縛りを設けてPTを組みDDに潜る。という誰も求めていない目的のために、同じゲームや要素を何百時間・何千時間とやり込むだろうか?
そう、やらないのだ。普通は一度クリアして満足する。もし、これが普通だと感じられないのであれば、あなたは異常者である可能性がある。
重ねて言うが、ソロDD勢の方全員、ましてやDDの界隈全体がそうだ、とまでは主語を広げるつもりはない。ただ明らかに、他の人にはない感性が無いと到底やっていられないような作業を延々とこなせるような人間が集まる界隈であることに疑いはないだろう。
となれば、話は早い。そういった方々は程度の差こそあれど、場の空気を読む力に乏しい。相手を気遣うことも、言葉の綾を理解することも、彼らにとってはソロDDを踏破することの何倍も難しいことなのだ。
さらに悪いことに、私が関わった一部の人はそういった社会で当たり前に求められるスキル、コミュニケーション能力よりも、自分がこだわりを持ってやっているDDが上手くなる方が優先度が高くなってしまっていることが往々にしてあり「上手ければ他人に高圧的でも、例え陰口でも悪口を言っていい」と本気で思い込んでいる人も存在し、「ソロDD踏破していることはすごい事で偉く、上から物を言っていいのだ」というナルシシズムも蔓延していた。
私が肌身で体験したことだが、彼らはどこかコミュニケーションの難易度が高い。「日本語は通じるが話が通じず、人間関係における朗らかな空気感を悉く軽視しており、その一部の人等だけが楽しいと感じるノリがあり、どこで地雷を踏むかわからない」
といった雰囲気が多々あり、
パーティに初参加した人に対しての愚痴や陰口を攻略中に永遠と聞かされたことも少なくなかったし、ミスをしたら大きなため息をつかれたり、陰口で初心者のことを「障◯者」と発言している人も存在していたし、初心者のミスが原因で嫌になった。というような発言も見かけた。これらは全て私が実際に遭遇した話である。
そうなれば、もはや他人と衝突しないでいるという方が無理な話であろう。
これが14歳〜17歳の学生などであれば、100歩譲ってギリわからなくもないだろう。
もう一度言う。彼らは若くて20代半ばなのだ。人によっては30を超えているのだ。
当然だが、社会人として、それ以前に人としての品性、性格、コミュニケーションの課題をある程度解決していて、「ゲームはゲーム。人は人。それ以上でもそれ以下でもなく、守るべきラインと礼儀がある」ということを知っているべき年齢である。
スプラトゥーンやapex、フォートナイト。それらのゲームのプレイヤー層がそのまま歳だけを食い、お酒を飲めるようになり、タバコを吸えるようになった「何か」になっているという感覚を、彼らと接していて抱いた。彼らはDDが上手い事、特にソロDDを踏破した事自体が人としてのステータスと無自覚に思い込んでいる節がある。接していると、それらから生まれる態度や発言、価値観が往々にして出てくる。
更に言えば、ソロDD、DDの攻略法というのは零式や絶などの他コンテンツと違い基本的に情報不足で、
そもそも情報を発信している人自体とても少なく、ググって出てくる1番新しい攻略法が数年前で、重要な情報なのにも関わらず詳しいことは現在進行形でやってる人に聞かないと不明なこともあり、それらを聞こうにもここでまた一部の人とのコミュニケーションの難しさ、こちらが必要な感情的コストが異常に高いことを知らされる。藁の山から針一本探すような作業を続け、Youtubeで再生数が2〜3桁単位の動画を見つけてようやく知れる情報も結構ある。
それだけならまだマシなのだが、こういったことが「自転車に乗れる」というレベルで「知っていて、かつ出来て当たり前」と思い込んでいて、それをDD初心者にも求める人がそれなりにいる。
そうなると、いわゆる"身内ノリ"が自然と生まれてくる。そしてこの"身内ノリ"こそが、またもや悪い方向に働くのは想像に難くないだろう。
つまり、界隈の自浄作用が失われる。例えば、初心者の方が、PTに入りDDに挑むとする。
そこで上手い人がミスをしたとして、その人はソロDDを踏破しているから、実力があるから、という空気感でなあなあで済まされ、
そうでない人がミスをした時はまるで陰鬱とした職場のような空気を味わうこともある。
DDを遊んだ事があり、ソロでもクリアしたことがある身から言われてもらうが、DDの全ての情報を事前に網羅しミスをしないなんていうのは非現実的な話であるし、DDの攻略ミスを即座に修正していくなんてのはDD初心者からすればかなりハードルが高いことである。
極論だが例を挙げるならそれは、「勉強をすれば誰だって東大に行ける」とか「野球を始めれば甲子園に出れる」と言われるようなことと似ている。
だが、普段から似通った人、身内ノリで集まっているDD勢は「この〇〇という要素は、もしかしたら初心者の人にとってハードルが高いのかもしれない。いや、そもそも知らないのかも?」そういった疑いを持つ事自体出来なくなっているのだ。
一部のコミュニティにとってPTで一緒に攻略し、ミスをしないことは当たり前になっていく。なぜなら彼らはそれらを毎日やっていて慣れているからだ。
自分たちが当たり前に知っている情報、攻略法が初心者にとっては攻略することはおろか知ることもハードルが高いものであり、内容によっては求められたりするといくらPTプレイであれ神経を擦り減らすほどの難易度でもあるという事を認識していない。
初心者側からしてみれば精一杯頑張っていても彼等にとっては「出来て当たり前」であり、ミスをされる事自体とてもではないが受け入れられないもので、少しずつ神経を逆撫でされることらしい。
そうなれば必然的に、ミスをしない事自体が当たり前という感覚になっていく。
そして、ミスが多い人は当たり前だがその界隈に来てから日が浅い人が多い。
DDは、零式や絶、ストーリーでの戦闘で求められることと大きく違ったプレイスキルや知識を要求されるのも関係するだろう。
そんな初心者が先述したような「自転車に乗る」レベルで出来て当たり前という空間にいたらどうなるだろうか。答えは明白で、そのユーザーは嫌な気持ちになり早々にそのグループから静かに離れることになる。
私が所属していた一部の界隈では、いつも同じ人が募集をしていて似た人たちが集まっており、新規の方が増えて定着しているのを観測したことがなかった。数週間前に入ってきて活動していた新規は、皆気がついたら居なくなっている。を繰り返していた。
似た者同士のコミュニティと身内ノリは歪に肥大化していき、コミュニティの中心となる人たちは自分たちの言動や価値観を客観視できなくなっていく。
新規や初心者はそのコミュニティに辟易して定着せず、静かに離れていく。
要は初心者に優しくないのである。その界隈の中心の人達と初心者との「これは優しい」と感じるラインが大きく乖離していることも少なくなく、
彼らにとって「DDが上手い事>初心者に優しくする」という感覚なのである。
その割には、私が所属していた中心的存在の人たちは皆口を揃えて「新規が欲しい」「同じレベルの人が欲しい」と言っていたが。
また、FF14なんてものは無限に楽しめるコンテンツが腐るほどあり、その中でもDDというのはかなり限定的にも関わらずそんな中「財宝欲しいな」「アチーブメントほしいな」という軽い気持ちでDDに興味を持った初心者が、その界隈の陰鬱な荒波に揉まれ「もっと楽しいこと他にあるし、こんな空気を味わってまでやりたくない」と感じるのは容易に想像できる。
構造的に、一部のDD界隈というのは、界隈というものに留まらず「組織」すらダメになっていく特徴をこれでもかと持ち合わせているのである。
このままでは、新しいDDの実装はおろか、DDという界隈そのものが衰退していくのではないかと思うし、近日配信されるSwitch版で仮に10代のユーザーがこの空気感に挟まれたらどうなるのだろうと憂いている。なぜ憂いているのかというと、これを書いている私自身DDが好きで、もっと盛り上がって欲しいと考えているからだ。
私は死者の宮殿とアメノミハシラをソロ踏破しているほどDDが好きだし、他の方とやるDDは楽しいと感じている。異常であると書いた私もDDが好きでやっているので、私も異常なのかもしれない。だが、異常な人が異常なりに、とある一部のDDコミュニティで経験したことを通じ、これは良くないのではないかと思い書くに至った。
この日記を誰が書いたとか、そういう詮索はしない方がいいと思います。十分にわかることだからです。
それに、「あいつが書いたんじゃないか」という猜疑心を抱きながら行動しなければならないとしたら、それ自体があなたの界隈のいづらさを表しているのではないだろうか?
(ここまで読んで、気がついた人も多いだろうがこれはとある記事の文や言葉を多く引用させていただいている。自分がコミュニティに抱えていたモヤモヤをキレイに言語化してくれていている上、共通事項が多かったからだ。非常に申し訳ない。)
先に書いておくと、かなり面倒なタイプの人間だと思います。気にしすぎるし、同じことを何度も考えるし、追い詰められると余裕がなくなる。
で、余裕がなくなると、ろくでもない言い方をしてしまうことがある。あとから思い返して、ああまたモラハラパワハラをやったな、と思う。そういうのを何度も繰り返してきました。
だから、今回の佐藤二朗と橋本愛の報道を見たとき、ただの芸能ニュースとして流せなかったんです。
細かい事実関係が外から見えるわけじゃないのは分かっている。分かっているんだけど、それでも、あの空気を見た瞬間に、自分の中の嫌な部分が反応した。
もちろん、自分と佐藤二朗を同一視するつもりはないです。どもりを演技に高めてる彼と違って正真正銘のどもりですし。
でも、相手を追い込むような言葉の選び方とか、後から振り返ったときに「自分は悪くない」という顔で逃げる感じとか、
そういうものに心当たりがある人間からすると、ああいう報道は直視できません。
たぶん、外から見たら「考えすぎ」と言われるんだと思う。
でも、当事者として生きていると、こういう場面って妙に引っかかるんです。
世間では単なる騒動の一つでも、自分には、自分の中にある乱暴さとか未熟さとか、そういうものを暴露されているようで恥ずかしくなります。
彼だけが逃げているように見えて、どうしても憤りを抑えきれません。
でも、そこで怒りをそのままぶつけてしまえば、ただ憎しみを増やすだけなのも分かっています。
じゃあ、私はどうしたらいいんだろう、今もそれを考えています。
コンプライアンスの名の下に、正義の在りかが「大衆の世論」によって左右されるSNS社会において、ハラスメントの嫌疑をかけられた個人が社会的私刑を回避し、社会的生命を防衛することは極めて困難だ。
しかし、今回のハラスメントの告発事例では、佐藤サイドが一定の防衛に成功するという偉業を達成した。最終的に「職務に忠実な表現者」という同情的な世論へ着地させた佐藤サイドの対応から学んだ点を、社会的私刑に対する防衛術として後世に残したい。
炎上初期における沈黙は、疑惑の肯定として受け取られる。しかし、単なる弁明は逆効果となる。
佐藤サイドは報道直後に「これ以上は我慢できない」と苦悩を表明し、自身が降板を申し出ていた事実を明かした。大衆が同調できる「誠実な労働者がシステムの不備によって追い詰められる」という文脈を提示し、自身を「被害者」に位置づける初動が極めて重要となった。
※俳優は"労働者"ではない(と思われる)が、そう見えるというのが重要
自身の主張を外形的事実と完全に一致させることで、言説の正当性を担保する。事実関係に整合が取れていれば、大衆は自然と「問題は組織的・構造的なものである」という結論を導き出す。
最も犯しやすい過ちは、敵対している当事者(今回は橋本サイド)に対して直接的な反論や批判を試みることである。
直接的な対立は、大衆にとって断罪価値の高い「当事者同士の泥仕合」を提供することになる。佐藤サイドは相手を非難せず、自身の認識のみを語っている。敵対者を黙殺することで、対立当事者ではなく「不慮の事故に巻き込まれた主体」というポジションを守ることができる。
自身の主張に対し客観的信憑性がなければ、大衆を味方につけることができない。
本件では、所属事務所が早期に「専門家のリーガルチェックを経てハラスメントには当たらない」と公表している。また、後のフジテレビの発表とも主張は矛盾はしておらず、不利な内容であるにも関わらず信憑性の補強に繋げている。
私刑が成立するには、善悪二元論が必要である。防御側の目標は、単純な構図を崩して議論をグラデーションへ持ち込むことである。
「アドリブ行為の演出上の妥当性」や「事前のトラウマ共有における不備の有無」、「そもそもハラスメント認定された行為は何か」など、論点を複数の因果関係へと分散させる。議論の解釈が複雑化するにつれ、最終的に「双方のコミュニケーションギャップが原因」という曖昧な評価が定着する。
世論が「双方に過失がある、あるいは不運すれ違いが招いた事象」という空気へと移行し、議論の発散を確認した時点で、一切の追加発信を停止すべきである。
実際、佐藤サイドは一部投稿の訂正後は静観を維持している。この段階で自己の正当性を再主張する、あるいは相手への反撃を試みることは、再び「加害者」のイメージを喚起する。議論の収束後における沈黙こそが、社会的私刑を完全に終息させる。
情緒的な反論や、根拠なき静観は、現代の生存戦略においていずれも下策である。
AI による概要 オモコロ(株式会社バーグハンバーグバーグ) が持つ「大人の悪ふざけ」と「知的好奇心(あるいは無駄な探求心)」のバランスを活かしつつ、まだ手を出していないであろう新規性のある企画案を提案します。1. 脳内音声のリアル再現「幻聴プレゼンテーション」メンバーの一人があらかじめ作成した「日常の妄想」や「特定の状況で脳内に響く声」の音声データを、本人は事前に聞かずに動画内でイヤホンで強制的に聴かされます。何を言われているか分からないまま、その幻聴に必死でリアクションしながら即興でトークやプレゼンを展開する企画です。2. 「それっぽいだけの架空専門用語」でディベート対決架空の分野(例:存在しない資格「超一級・空気清浄士」など)をでっち上げ、それっぽい専門用語や権威主義的な態度だけを武器にしてディベートを行う企画です。中身は完全にデタラメでありながら、いかに堂々と、かつインテリジェンスに相手を論破できるかを競い合います。3. 未知の言語「逆再生縛り」のデスゲーム言葉を逆再生で話したり、特定の単語を逆から発音したりする縛りを設け、それだけで会話やゲーム(ワードウルフやババ抜きなど)を進行する企画です。頭の回転の速さと、逆再生で言葉を組み立てる言語感覚が問われ、独特の奇妙な笑いが生まれます。4. アナログRPG「リアル・マインスイーパー」会議室の床一面にマス目を引き、地雷(不正解の床)と安全なマスを設定します。メンバーは他のメンバーのヒントを頼りに、安全だと思うマスを踏みながら進んでいきます。間違えた場合は、その場でオモコロ恒例の「罰ゲーム」や「理不尽な洗礼」を受けるという、スリルと推理を組み合わせた巨大ボードゲームです。過去に公開されたアーカイブ映像などを参考に、さらにオモコロらしい笑いの文脈を深掘りしたい場合はこちらをチェックしてみてください。もしこれらの企画の中で深掘りしたいテーマや、「オモコロらしい別の切り口(例えば食系、工作系など)で考えてほしい」といったご希望がありましたら、お知らせください!
だって社会総出で「働いたら負け」キャンペーンやってるんだもんな
働かないで金もらうライフハック(笑)を褒めたたえるばかりだし
政府は働かない人に金配ってばっかりだし
昔ブクマしてた、食べログの「ポエムレビュアー」たちを久々に巡回した。
「その夜、新宿はひどい雨だった。彼女の冷めた視線のような――」とか書き出す、あのイタくて愛すべき奇行種たち。
あの息苦しいディストピアが、彼らの「自意識を拗らせたロマンチシズム」を徹底的に殺したのだ。
かつてあれほど熱苦しく、痛々しく、ネットの片隅で輝いていた彼らの自意識。
飽きたとか、そんな安い理由じゃないと信じたい。
ただ、あの狂ったように浮ついた「前コロナの空気」の中でしか生きられない妖精だったのだ、彼らは。
あの痛いおじさんたちが、今では少し愛おしい。
お前ら、お前ら今どこで、どんな顔してメシ食ってんの。
ほんまに今回は腹が立ったわ
ふざけんなよ、ほんまオタクを手のひらで転がしやがって!!!!マジで腹立ってる!!!!!
先週末にさ、大きいイベントがあったのさ。半野外会場で、アイドルの集大成を飾るライブがあったのさ。
電車で向かうと地獄を見るから、車ではるばる走って向かったのさ
もう蝉が鳴いてたよな
今年の夏は涼しいカモ???なんて言説を吹っ飛ばすような照りと暑さでさ、青空が憎かったね。道中は快適だったけど、やっぱり車を降りたら地獄だったのさ
当日までに、色んな用意をしてその日を迎えた訳よ
チケットを握るために連番のオタクとCDを積んでさ、シリアルを何枚も応募したさ。同じCDが何枚も溜まると、虚しくなってくるんだ。だから、シリアルを抜いたCDは棚の奥に置いて忘れておくんだ。これが肝要だよ。棚は忘れるためのソリューションなんだ。
当日までの、これまでをドキュメンタリーにまとめた映像付きCDをわざわざ買って、正座して見てさ。数年間の月日に思いを寄せたりもしたな。空っぽの会場で名前付きビブスを着て、ひとりリハーサルに努める姿を、ユニットの仲間たちとロケやラジオやライブで少しずつ打ち解けていく姿を振り返ったりしたさ。ほんとに皆成長してて、すげぇと思うよ。
俺はキャラクターが好きで追ってきて、中の人はキャラクターの一番の理解者、同志のような立ち位置で見てるんだよ。だから思い入れが強いわけでもないし、個人イベントに行くこともないよ。それでも演じるキャラクターに向かって日々問い続けては自らを磨いていく様には圧倒されたし、その集大成を見届けるのがせめての努めのような気持ちになってたんだよね。
書きながら思ったけど、きしょすぎてわろた。オタクの終わってる所はさ、勝手に解釈をして信心深くなって、勝手に裏切られたと思ってキレてる所なんだよね。何なん?しょうもなくて泣けてくるわ
でも、しょうもないことでも書き殴っていいのが増田なんだ。だから増田はすき。誰も読まなくていいもん!とか思ってる癖にチラシの裏じゃなくてネットの海に放流したくなるような、みみっちい感性の人間には、これが丁度いいんだ。カスがよ。
閑話休題。
まぁそんなこんなで、不快指数MAXの会場でライブを観て、大いに盛り上がって、泣いて、汗かいて、アクエリを2L枯らして、その日を過ごしたよ。後半では卒業生の3名がそれぞれ思いの詰まったソロ曲を披露しててさ、もう遠い目で、見届けるような気持ちだった。暑さのせいか、少しゆっくりに聴こえた気もする。
全て見届けて、やりきった彼女らの顔は晴れやかだった。目に涙を浮かべては溢れないように上を向き、後ろを向き、これまで描いてた夢を、今日の夢を話してくれた。
最低の会場だった。岩盤浴みたいな蒸し暑さで、溶けた脂と、ミントアイスのような強制的な納涼の匂いが辺りに充満していて、心拍は常に140代を下回ることはなかった。床はスポーツドリンクの結露で水たまりが出来ており、前の席から落ちたパーカーが水気を吸っていた。あれは可哀想だった。
それでも、最高の時間だった。全員が待ち望んでいた夢の空間が、その高揚感が不快さを包みこんでいたと言えよう。オタクが、スタッフが、演者が一体となって夢の実現に全力で走った。明確だった。
何が言いたいんや、ワレ。文章書いて気持ちよくなっとんとちゃうぞ。そんなん言いたいんやない。問題はその後やんね。
アンコールが終わり、エンドルフィンとアドレナリンの魔法が解けたあたり。ここで会場のスクリーンが様変わりした!告知の時間だ!
えっと、、、?卒業公演を……ぶ、武道館でやるんか!!!えっ武道館!?!?凄えや!!!!!晴れ舞台やんね!!!!!!
あれ?今日のこれ何?
半野外のカスみたいな会場で…見届けた今日の夢物語は何のイベントやったん???なんだよ!!!!!!!今日卒業しないじゃん!!!!!!じゃぁこんな蒸し暑い所に呼ぶなよ!!!!!!!
その終わりに激アツな卒業公演の告知されたってさ!!!!!素直に喜べるわけないだろ!!!!卒業じゃないならこんな所来ねえよ!!!!!!!そうだ!!!!俺はこれに怒っている!!!!!
ていうかこの前見たドキュメンタリーはあれ何????パンフレットでみんな答えてた「今度のライブはこれまでの集大成で……」みたいな空気あれ何?????
俺が岩盤浴みたいなライブ会場に持ってきた覚悟は何だったの????勘違いなの???散々集大成煽った後に、、、「もう一回あるから来てね!😋」はさ、、、あんたそれは無いだろ……
はぁ………………………
嫌いだよ……………オタクに筋通さない運営しといて、金払わせといて…………それで武道館用意して黙らせるなんて…………嫌いだよ…………
そんなん不満言えないに決まってるじゃん……………武道館用意したのが一番偉いんだから、文句垂れてる場合じゃないんだよ、知ってるよ…………でも、もうちょ〜〜っとさ、騙し討ちみたいにしないで欲しかったよ……
卒業公演が別にあるならベルーナドームとか来てないよ……来たくなかったよ……配信で良いよそんなん……
素直に喜べねえよ……
これを単なる「放課後のスポーツや文化活動」と解釈しているうちは、日本社会の本質を捉えることはできない。部活とは、教育という美名の下に偽装された、日本独自の「空気」の醸成機関であり、極めて強固な「小宇宙」としての共同体なのである。
西洋的なスポーツの概念では、それはあくまで個人の「楽しみ」であり「技術の向上」を目的とする「遊び(Game)」である。しかし、日本の部活においては、それが「野球道」や「剣道」といった具合に、容易に「道」へと転化してしまう。
ここで言う「道」とは、論理的なルールを超越した絶対的な規範である。そこには、外部の人間には到底理解しがたい、以下のような特質が見て取れる。
儀礼の絶対化: 挨拶の角度から、道具の手入れ、グラウンドへの一礼に至るまで、機能性とは無関係な儀礼が最優先される。
「連帯責任」という戒律: 一人の部員の不始末が部全体の活動停止に繋がる。これは近代的な法治主義(個人責任)ではなく、村社会の「縁座」の論理である。
山本七平が喝破した「空気」の支配が、最も純粋な形で現れるのがこの部活という空間だ。
例えば、真夏に水を飲まずに練習を続ける(かつての常識)、あるいは怪我を押して出場するといった行為が「美談」とされる背景には、生理学的な合理性など存在しない。そこにあるのは、「ここで水を飲んではいけない」「休んではいけない」という、その場を支配する「空気」への絶対服従である。
この空気(臨在感的把握)に抗う者は、非国民ならぬ「非部員」として、共同体から事実上の追放(シカトや疎外)を余儀なくされる。ここでは「個」の意志は、共同体の維持という至上命題の前に、完全に抹殺されるのである。
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このシステムを維持する「司祭」の役割を担うのが、教師(顧問)である。
彼らは本来の職務である教科指導を二の次にしても、部活動の指導に没頭することを「徳」とされる。土日を返上し、無給に近い状態で奉仕するその姿は、近代的な労働者のそれではなく、一種の宗教的情熱に突き動かされた修道者のそれである。
生徒もまた、その「自己犠牲の精神」を空気として吸い込み、「先生がこれだけやってくれているのだから」という情緒的な絆によって、さらなる規律へと縛り付けられていく。
それは、日本社会という巨大な「空気の組織」に適合するための、高度な精神的訓練所なのである。理不尽な上下関係を、論理ではなく「身体的感覚」として受け入れ、組織の論理を個人の論理に優先させる――この「日本教」の洗礼を、彼らは多感な思春期に徹底的に叩き込まれるのだ。
この「珍妙な制度」が温存されている限り、日本人が真の意味で「個」として自立し、論理的な組織運営を行うことは、おそらく今後も至難の業であろう。