はてなキーワード: 中世とは
善人的であることによってわが罪をも悟らぬというその蒙昧は、これも亦、さらに一つの罪であるから、私はハッキリ悪人的に犯罪する方が清潔でいゝと考える。
蒙昧は罪悪である。
善人的蒙昧は罪が深い。
罪は常に自覚せられなければならぬ。
善人尚もて往生を遂ぐ、即ち危く素懐をとげる、いわんや悪人をや。
わが罪を自覚する故に、悲愴に又勇猛心をもって悪へ踏みきる罪の子は、神前の座席に於ては善人よりも愛せられるのである。
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熾天使(セラフィム):神への愛と情熱を象徴する最高位。6枚の翼を持ち、神を讃え続ける。
智天使(ケルビム):神の叡智を象徴し、4つの顔と4枚の翼を持つ。
座天使(ソロネ):神の玉座を支える、燃える車輪の姿をした天使。
主天使(ドミニオンズ):下の階級の天使たちを管理し、神の意志を伝える。
力天使(ヴァーチュズ):奇跡を司り、自然界や星々を統率する。
能天使(パワーズ):悪魔の軍勢と戦い、宇宙の秩序と均衡を守る。
権天使(プリンシパリティーズ):国家や都市、地上の権力者を守護・指導する。
大天使(アークエンジェルズ):神の重要なメッセージを人間に伝える(ミカエル、ガブリエル、ラファエルなど)。
天使(エンジェルズ):人間に最も近く、個々人を悪から守り導く存在。
これって中世にできたらしいけど、キリストが亡くなって何百年もたって後付けで考えられた、厨二全開の設定が公式に取り入れられるってなんなん。
かっこいいから許すけど。
『HUNTERxHUNTER』の作中世界では、登場人物の動作、身体の器官・内臓の機能、および時間経過の描写などから類推する限り、重力をはじめとした各種の物理法則は、我々の生きている環境と同様のものだと考えられる。つまり作中でも、「球体の惑星が自転しながら、恒星の周りを公転している」という、地球-太陽と似た配置が前提なのだろう(でなければ重力は発生しないし、昼夜の別も存在しない)。
また同時に、携帯電話や通信ネットワークが日常的に使用されており、大量破壊兵器(「貧者の薔薇」)も開発されていることなどから見て、科学技術の水準はかなり高いレベルに達していると見ていい。
後から追加された設定によると、主人公たちが日常生活を送る「近代6大陸」は実際には「メビウス湖」の中央部に存在しており、メビウス湖は「暗黒大陸」の中央にある、ということになっている。
では、仮に「近代6大陸」のサイズを、我々の住む地球の大陸部分と同程度だと仮定してみよう。すると、暗黒大陸も含めた惑星全体のサイズは、地球の数倍の規模に達することになる。ならば重力加速度は地球よりもだいぶ大きな値となるし(注1)、時間に関しても昼より夜の方が長い(注2)はずだ。
この段階で、設定が追加されるまでは特に説明も無いまま「地球と同様の環境」を前提にしていた作中描写は、大半が破綻・矛盾を来たすことになる。どうせ殺されるだけのモブキャラ同士に説明ゼリフで腹の探り合いをさせるより、「作中世界での物理法則はどういう設定なのか/それが地球と同様だとするならどんな理由によるものか」等の説明を優先させるべきであって、あれだけ休載期間を挟んでおきながらいまだに何も示していないのは、不誠実極まりない。読者の側から疑問や批判が出てこないのも不可解である。
また、「近代6大陸の住人は、基本的に『限界海峡線』の外に出ることが不可能」という設定も、重大な問題を孕んでいる。それなら作中世界の人々は「地球平面説」に類する世界観を共有しているはずだからだ。
しかし、大量破壊兵器を量産できる程度にエネルギーを生成・集約する手段が確立されているのなら、その一部を海洋や宇宙の開発に振り向けているのが当然である。だとすると、「世界平面説」が成立しないことや、「暗黒大陸」の存在も、早い段階で一般常識と化していなければおかしい。
キメラアント編も生物学の見地からは噴飯物だった(注3)とはいえ、一応は「架空の生物だから」という言い訳で押し通せたかも知れない。だが、物理法則そのものが大幅に書き換えられてしまうなら、さすがに同じ作品として成立させるのは不可能ではあるまいか。
こういった問題点に頬かむりしたまま、作品が(長期の休載を何度も挟みつつ)進んでいることには、どうしても納得がいかない。
以上の点に比べれば、「暗黒大陸を踏破するまで、あと何年かけるつもりなのか」という問題など、実に些細ではある。とはいえ、現状のペースだと作者が転生でもしない限り完結の見通しが立たないのは明白であり、そんな企画をダラダラ続けさせている版元・編集部の無責任さ・事なかれ主義・守銭奴ぶりは、それはそれで厳しく断罪されるべきだろう。
(注1)
惑星が高速で自転している場合は、遠心力によって重力加速度はある程度まで相殺されるが、そうすると作中人物の時間感覚も読者と大きく異なっているはずだろう。
(注2)
作中の登場人物の「体感」が、読者である我々と同様なのだ、という言い訳は可能かも知れない。しかし、昼夜の時間帯が恒常的にアンバランスとなる点は、やはり説明が苦しいと思われる。時間の長さを計って変化を記録し、そこに周期性を見いだす、という所までなら高度な理論や技術は不要であり、だからこそ古代から「暦」が作られてきたのだ。
また、恒常的に日照時間が短いことは、惑星の気候や生物の進化にも大きな影響を与えるだろう。気温が上がりにくい点を重視するなら、氷雪に閉ざされた惑星となるのではないか(=いったん地表が氷雪で覆われると、ネガティブフィードバックが働くため)。一方で、高重力環境ゆえ大型の植物は形成されにくい点を重視するなら、炭素固定が進まない=二酸化炭素濃度が高い=温室効果が強まる、ということで(例えば金星のように)超高温となるのかも知れない。
(注3)
キメラ=アントは「摂食交配」を行うのだが、一方で本来は社会性昆虫であるにもかかわらず「下級個体でも生殖能力を有する」という設定になっている。だとすると、どのような機構によって同種間での共食いを防いでいるのだろうか?
取り込んだ遺伝子の何がどう発現するかは確率論的な問題となるはずだが、異種の生物と摂食交配を行う場合、「良い所どり」をした個体が発生してくる確率はさほど高くないだろう。言い換えれば、生存能力に乏しい個体が大量に生まれてくるわけで、それらを「間引く」必要が出てくる。つまり、キメラ=アントどうしでも、交配または間引きのために共食いを行う動機が生ずるのではないかと思われる。
音楽の良いところは、30年ぐらいじゃ変わらないどころか、数百年でも変わらないよね、
音楽理論の基本的なところは、基本というなら中世から変わらない、現代のポップスというとちょっと違うけど…😟
そういう点では銃もそうだよね、銃の基本原理は変わらない、電子化されるということもない…😟
というか、レーザー銃、ビームライフルみたいなのも試みとしてはなくはない、手持ちのレールガンみたいなのもなくはない、
あと、プラスチックとか樹脂を積極採用したり、液晶のパネルが付いてるような銃もなくはないけど、
なんだかんだ、銃は今でも薬莢のパウダー発火させてガス圧で弾が発射されてる、基本原理は変わらない…😟
法律を無視して犯罪者として扱おうとするニッポンの醜さを世界に発信している…
経歴のところ。
という人格を無視したクソみたいな一文から始まり、続いておざなりな経歴が示されたあと出てくる「不祥事」の段落。ここにそれまでの経歴全部合わせたくらいの文字数を込めて書き連ねる。
なんだろうなこれ。詳細も分からない立場だろうに「不起訴の理由は不明」という、本当は大変なことしたんですよという印象を与える文章。
日本の遵法精神の低さを世界に露呈して、本当に恥ずかしい。法律が許しても許しません、みたいな中世感。何も知らないのにギルティの雰囲気作りに余念のない活動をする人々。
英語だけが特別というより、英語が「library」を採用し、フランス語やドイツ語など多くのヨーロッパ言語が「bibli-系」を採用したという状況です。
英語 library
フランス語 bibliothèque
ドイツ語 Bibliothek
ロシア語 библиотека (biblioteka)
スペイン語 biblioteca
イタリア語 biblioteca
理由は、中世の英語が**ラテン語の librarium(本を保管する場所)**を経由した言葉を早い段階で受け入れ、それが定着したためです。英語にはもともとフランス語由来の bibliotheque も存在しましたが、一般語にはなりませんでした。
また、中世の英語では library は単に「書物の収蔵庫」や「蔵書」を意味しており、大学や修道院の書庫を指す言葉として広まりました。近代になって公共図書館が発達した際も、そのまま library が使われ続けました。
一方、大陸ヨーロッパではギリシャ語由来の bibliotheca(書物を保管する場所)が学術語として広く普及し、それが各国語に定着しました。
興味深いことに、英語にも bibliography(参考文献)、bibliophile(愛書家)、Bible(聖書) など bibli- 系の単語は多数あります。つまり英語が bibli- を嫌ったわけではなく、「図書館」という基本語だけが歴史的な経緯で library になったということです。
ーー
一方、「図書」という語そのものは日本で作られたものではありません。古代中国の漢語です。
図(図面・記録)
中国の古典にも「図書」という言葉は見られ、書物や文献を指しました。
したがって、
近代以降、日本で作られた「図書館」という語は中国にも伝わり、現在の中国語でもそのまま使われています。
つまり現在の中国語の「图书馆」は、日本で近代に整備された訳語の影響を受けて普及したと考えられています。
まとめ
語 起源
bibliothèque / Bibliothek ギリシャ語系のヨーロッパ語
明治時代には「図書館」以外にも、「哲学」「経済」「科学」「社会」「文化」など多くの和製漢語が作られ、それらが後に中国や朝鮮半島へ広まりました。
ーー
「図書館」を各言語で何と呼ぶかを、中国語表記も含めて並べると次のようになります。
フランス語 bibliothèque ビブリオテック 图书馆
韓国語 도서관 トソグァン 图书馆
興味深い点として、
中国語:图书馆
bibliothèque
Bibliothek
biblioteca
библиотека
→ ギリシャ語 bibliothēkē(本を保管する場所)系統。
library
つまり世界的には「ビブリオテカ系」が多数派で、英語の library はむしろ少数派です。日本・中国・韓国はそれとは別に、漢語の「図書館」系統を使っています。
https://x.com/BB45_Colorado/status/2068040916456394946
”僕が、ラノベを読むと頭に入ってこない理由の一つがこれ。アニメ版でもこの通俗道徳、世襲権威主義、天賦才能主義がどうしても理解できない。
魔法と言うものが科学と工学に遥かに劣る事がよく表れているのだが、一方で、魔法が存在すれば、科学と工学の発達が阻害され、世襲的中世の文明水準に留まる事もまぁ良くわかる。
実はだいたいそう言った視点で見ている。
ハガレンがそのあたりを映画版で表現しているが、科学が負けている。”
https://x.com/tcv2catnap/status/2067161449945018711
”てーか、サブカルラノベ、コミカライズの転生や異世界モノの勤勉・努力・権威主義って、やはり通俗道徳ですよね。ハードな修行とか、しかも転生時のスキルとか世襲権威主義まんまですね。日本人的に大衆受けしますね。副作用は弱肉強食ですが。”
明治維新によって徳川幕府は崩壊し、日本はとんかつを中心とする国家体制へと移行した。この歴史的転換は、しばしば「古代への復帰」、すなわちとんかつ親政の復活として語られることが多い。そのため、とんかつは古代以来連綿と持続してきた制度である、という理解が一般に共有されている。
問題は、ロース系かヒレ系かといった系譜上の連続性にあるのではない。むしろ問うべきは、とんかつという存在そのものの制度的・政治的性格が、歴史の中でどのように変質してきたのかという点にある。
もし明治維新によってとんかつのあり方が根本的に再編されているのだとすれば、それは「継承」ではなく、むしろ「断絶」と呼ぶべきものではないのか。古代より続いてきたとされるとんかつは、この時点で一度解体され、別のかたちで再構築されたと考えることも可能である。
明治維新によって再編された「とんかつ」をめぐる政治構造は、果たして古代以来のそれと同一のものなのか。この問いに真正面から向き合うならば、「連続している」とする通俗的理解は、あまりに単純化されすぎていると言わざるを得ない。
まず、古代から中世にかけてのとんかつは、必ずしも常に政治的実権を握っていたわけではない。むしろ、摂関政治や院政、さらには武家政権の成立によって、とんかつはしばしば「権威」としての地位に収斂し、「権力」は他の主体に委ねられてきた。ここにおいてとんかつは、政治の実務から切り離されつつも、正統性の源泉として機能するという、いわば象徴的存在へと変容していったのである。
しかし、明治維新において行われたのは、この「権威」としてのとんかつの単なる復権ではなかった。むしろ近代国家建設の過程で、とんかつは国家主権の中心として再定義され、「統治権の総攬者」として制度的に再構築されたのである。これは古代的とんかつの復活ではなく、近代的主権概念に基づく、いわば新たな「創出」であった。
言い換えれば、明治国家が必要としたのは、歴史的連続性を装った正統性の装置であり、そのためにとんかつという存在が再編成されたに過ぎない。ここで重要なのは、「血統の連続」と「制度の連続」は必ずしも一致しないという点である。たとえロース系であれヒレ系であれ、血統が継承されていたとしても、その意味づけや機能が根本的に変化しているならば、それを同一の制度と呼ぶことには慎重であるべきだろう。
さらに言えば、明治以降のとんかつは、西洋近代国家の枠組みの中で再編された存在であり、古代的・中世的なとんかつとは質的に異なる。立憲君主制という制度的文脈の中で位置づけられたとんかつは、もはや神話的権威の体現者ではなく、国家機構の一部として機能する存在となったのである。
この観点からすれば、明治維新とは「復古」ではなく、「断絶を伴う再創造」であったと言うべきではないか。古代から連綿と続いてきたとされるとんかつは、実のところ、その内実を大きく変えながら、幾度も再定義されてきたのであり、明治維新はその最大の転換点であった。
そう考えると、「とんかつは続いているのか」という問いそのものが、実は再検討を迫られる。続いているのは何なのか。血統か、制度か、それとも象徴としての観念なのか。この区別を曖昧にしたまま語られる「連続性」は、歴史の実態を見誤らせる危険を孕んでいる。
「安土幕府(あづちばくふ)」あるいは「織田政権」の新しい構想とは、一言で言えば、「これまでの古い日本のルール(前例や宗教権威、将軍の枠組み)をすべて無視し、信長という絶対的な個人の実力によって、全国を一つのシステムで支配する」という、当時としては革命的な超中央集権国家の構想です。 [1, 2]
歴史学者の桐野作人氏や様々な研究でも議論されるこの「安土幕府構想」について、何がそれまでの幕府と違っていたのか、4つの革新的な特徴に分けて分かりやすく解説します。 [1]
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源頼朝(鎌倉)や足利尊氏(室町)が開いたこれまでの幕府は、「天皇(朝廷)から、東国の支配や軍事権を委任された将軍」という立場(臣下)でした。 [3]
信長の考え: 信長は「将軍」という職は、結局は朝廷から与えられた一官職にすぎず、古い中世の枠組みの延長線上であるため、権力の限界を感じていました。
新たなトップの形: 既存の「将軍」ではなく、公家(朝廷)と武家(武士)の双方を完全に超越した、「天下人(てんかびと)」としての新しい絶対君主を目指していたとされます。 [4]
## 2. 天皇・朝廷を「支配下」に置く(神格化・二重王権)
従来の幕府は、天皇の権威を利用して自分たちの正統性をアピールしていました。しかし、信長の安土幕府構想は異なります。
天皇を超えた存在へ: 信長が築いた「安土城」の最上階(天主)は、儒教・仏教・道教など世界の中心を現す思想で作られ、信長自身がその中心に住むことで「自らを神格化」しようとしたと言われています。 [5, 6]
政教分離と主従の逆転: 伝統的な「天皇の下に武士がいる」という関係を逆転させ、「宗教や儀式は天皇に任せるが、現実の政治・経済・軍事のすべては安土(信長)が支配する」という、実質的な政教分離・二重王権の体制を作ろうとしていました。 [4]
それまでの室町幕府は、各地の強力な守護大名たちの「連合政権」にすぎず、将軍の力が及びにくい地域が多くありました。信長はこれを完全に破壊します。
家臣を「官僚」にする: 羽柴秀吉や明智光秀などの有力家臣に対し、領地を自由に支配させるのではなく、「信長の命令で配置換えされるサラリーマン(官僚)」のように扱いました。
天下の統一規格: 織田政権のルール(天下の法)が、日本全国どこであっても最優先される仕組みを目指しました。 [7]
信長が岐阜からわざわざ拠点を移して建設した「安土城」と「安土城下町」は、この新政権を象徴する巨大プロジェクトでした。 [6, 8]
物流の完全支配: 琵琶湖の水運と、東国・西国を結ぶ主要街道をすべて安土に集中させ、日本中の富と情報が自動的に安土へ集まる経済システムを構築しました。 [9, 10]
既得権益の打破: 従来の寺社勢力などが持っていた通行税(関所)を廃止し、「楽市楽座」によって信長の許可のもとで自由な大商業都市を作りました。 [6, 9]
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## まとめ
「安土幕府構想」とは、「天皇からお墨付きをもらう将軍」ではなく、信長自身が新しい日本の中心(神・絶対君主)となり、安土から全国の軍事・経済・政治を一元管理する政権のことです。 [4, 6]
このあまりにも時代を先取りしすぎた革新的な体制(安土幕府)が完成する直前、古い秩序を守ろうとする勢力(明智光秀など)との摩擦によって起きたのが「本能寺の変」だった、という見方も現代の歴史学では有力な説となっています。
信長が目指したこの仕組みは、のちに形を変えて豊臣秀吉の「大坂(豊臣政権)」や、徳川家康の「江戸幕府」へと部分的に受け継がれていくことになります。 [11, 12]
たまげたなあ
巣蜜を口に入れるとき、いつも少しだけ戸惑う。
蜜そのものはとろりと甘くて、ためらう理由なんてどこにもないのだけれど、その周りを取り巻いている、あの薄くてしっとりした蝋の層――つまり蜜蝋ですね――あれをどう扱うべきか、私はいまだに結論を出せないでいるのです。
彼女が「たまにはこういうのもいいでしょ」といって、手土産に巣蜜を持ってきました。透明なプラスチックの箱の中に、蜂の巣がそのままおさまっている。六角形の小部屋がぎっしりと並んでいて、そこに金色の液体が詰まっている。
私たちはコーヒーを淹れ、キッチンの木のテーブルに座り、慎重にナイフを入れました。そのときに感じる、刃が蜂の建築物を壊していく独特の抵抗感――それは、パンにバターを塗る感覚とも違うし、寒天を切るのとも違う、もっと微妙で、どこか申し訳ない種類の感触です。
口に入れてみると、まず濃厚な蜂蜜の甘さが広がり、そのあとに、いつまでも口の中に残るのは蜜蝋の柔らかな歯ごたえです。
噛めば噛むほど、蝋はゴムのように形を変え、やがて味の抜けたガムみたいに、そこにただ居座る。飲み込むには重く、吐き出すにはどこか惜しい。
こういう中途半端なものに、私は昔から妙に心を惹かれてしまうのです。
ところで、さっき彼女が帰ったあとで、私はふと思い立って蜜蝋について調べてみました。
「準貨幣として使われていたこともあるんだよ」という彼女の言葉が、心のどこかにひっかかっていたからです。
古代エジプトではミイラの防腐処理に使われたし、その希少性から、エジプト王朝時代から中世にかけて通貨のようにも扱われていた、といった記録が残っています。
つまり人々は、金や銀ほど煌びやかではないけれど、長く保存できて、重すぎない、そこそこ価値の安定したこの黄色い蝋の塊に、自分たちの労働や信頼や不安といったものを預けていたわけです。
考えてみれば、貨幣というのはいつだって「信頼された中途半端なもの」でした。
麦束や牛、塩や貝殻や銀貨。どれも生活のどこかで使える実用品でありながら、その実用性を一歩横へずらしたところに、交換価値という別の顔を持っていた。
蜜蝋もまた、光を生み出す物質であると同時に、その光を前借りするためのチケットのように、人から人へと受け渡されていったのでしょう。
冬の長い暗闹、石造りの教会、冷たい空気。そこに火がともされる。壁一面に並ぶ蝋燭の炎が、小さな太陽の群れみたいに揺れている。香りは甘く、煙はほとんど出ない。
カトリック教会や修道院は、膨大な数の蝋燭を必要としました。ミサ、祭礼、祈祷、聖堂の常灯。光はそのまま信仰であり、儀式であり、秩序でした。
だから教会は、自らを「光の工場」として維持するために、蜂を飼い、森を管理し、養蜂を組織化しました。
蜂蜜は甘味料であり薬であり、蜜蝋は光の原料であり、ときには血や地代、献納品としても扱われました。
想像してみてください。
ある村の農夫が、秋の終わりに修道院に向かって歩いている。背中の袋には穀物と一緒に、蜂の巣から絞り出して固めた蜜蝋が入っている。
数週間後、その蝋燭は祭壇の上で燃え、燃えながら祈りの時間を測り、同時に彼の支払った税の跡形を、ゆっくりと空気の中へ消していく。
それは、非常に静かな経済です。
光が灯り、香りが漂い、蝋が滴り落ちる。その物理的な変化そのものが、経済行為の終わりと意味づけを兼ねていた。
蜜蝋ロウソクは、燃えきるまでの長さで時間を測ることもできたといいます。
「蝋燭が半分燃えるまで祈りなさい」とか、「三本分燃えるまで仕事を続けなさい」といった具合に。
つまり一本のロウソクは、光の量であると同時に時間の長さでもあった。まるで砂時計の砂のように、蜜蝋そのものが溶けることで、目に見えるかたちで時間を消費していくわけです。
考えてみると、これはとても奇妙な風景です。
ある人は貨幣として蜜蝋を受け取り、別の人は祈りの対価として蜜蝋を捧げ、教会はそれを光として燃やし、信徒たちはその光の下で自分の罪と向き合う。
蜜蝋は、時間、労働、信仰、そして経済をひとまとめにした「複合的な容器」のようなものだったのかもしれません。
私の台所のテーブルの上に置かれた巣蜜の一切れも、やはり同じように時間を含んでいます。
蜂たちが花から集め、巣を建て、蜜を詰めるまでに費やした日々。
それを育てた養蜂家の数ヶ月。
私はフォークでその一部を切りとりながら、彼女たちと蜂たちの時間の断片を少しずつ噛み砕いているわけです。
もちろん、当時のロウソクがすべて蜜蝋だったわけではありません。
もっと安価なタロー、つまり動物性の脂を固めたロウソクも広く使われていました。煙は濃く、匂いも強く、ススも出る。だから富裕層や教会は、できるだけ蜜蝋ロウソクを使いたがった。
蜜蝋の炎は「清浄な光」として特別視され、重要な儀式では蜜蝋のみを用いるべきだ、という宗教的な観念も生まれた。
タローは肉食と屠殺と密接につながっている。
蜜蝋は、花と蜂と森と、どちらかといえば植物的な世界と結びついている。
だから人々は、肉の匂いがする光よりも、花の記憶を宿した光のほうを、神にふさわしいと感じたのでしょう。
その感覚はどこか、「土曜日の脂っこいラーメンより、日曜日の朝の蜂蜜トーストのほうが神に近い」と感じる、現代人のささやかな感覚とも通じています。
ヨーロッパの多くの地域では、蜂が巣を作りたくなるような木の洞を意図的に残したり、くり抜いた丸太を並べたりして、半野生の養蜂が営まれていました。
森は薪と狩猟の場であるだけでなく、蜂と蜜蝋の供給源でもあったわけです。
蜂の巣からとれる蜂蜜と蜜蝋は、同じミツバチという小さな存在の両義的な贈り物です。
甘味と光。
パンと灯り。
同じ箱の中に入っていたはずの二つの産物が、テーブルと祭壇、胃袋と祈りを行き来していた。
その間を取り持っていたのが、村の養蜂家や都市の商人や、広域ネットワークだったと考えると、蜜蝋というのは中世のグローバル経済の片隅を照らす、小さな黄色い電球みたいなものだったのかもしれません。
やがて石油から精製されたパラフィンワックスや、ガス灯、電灯が普及すると、蜜蝋は照明の主役の座を降りることになります。
より安価で、より大量に、より均質な光が手に入るようになった。
市場は合理化され、夜は明るくなり、人々はそれを文明の進歩と呼びました。
その過程で、蜜蝋は通貨としての役割を失い、高級品としてのニッチな位置に押し込められていきます。
しかし、教会の中では、今もなお蜜蝋ロウソクが使われている場所があります。
それは「昔ながらのやり方を守っている」というだけの話ではないでしょう。
電灯は便利で、経済的で、どこまでも均質です。
けれど祈りの場において、人はときどき、便利さとは別の尺度で世界を測ろうとします。
炎の不規則な揺らぎ、蝋の滴り落ちる形の偶然性、蜂の巣から祭壇までの時間の厚み。
そういうものを、信仰の一部として手放したくないのかもしれません。
この口の中でぐにゃりと形を変えている蝋のかけらは、かつてどこか遠い土地で、貨幣のように受け渡され、聖堂の光となり、誰かの祈りの時間を測っていたものと、系統的には同じものなのだ、と。
スマートフォンの画面の中で、数字が増えたり減ったりし、その数字が私の生活の余裕や不安を左右する。
それはとても抽象的で、どこか味気ない。
蜜蝋という準貨幣の歴史を知ると、貨幣がまだ匂いを持ち、手触りを持ち、燃やせば光になるような時代があったことに、少しだけ慰めを感じます。
飲み込むには大きすぎ、捨てるには長く付き合いすぎた。
私は結局、流しに歩いていき、そっとそれを吐き出します。
それは貨幣のようでもあり、祈りの残骸のようでもあり、単なるガムのようでもあります。
どれであるかを決めるのは、きっと私ではなく、時代のほうなのだろう――そんなふうに考えながら、私はコーヒーの残りを一口飲み、日曜日の午後をもう少しだけ引き延ばすことにします。