大草原で繰り広げられる命がけの「ヌーの川渡り」 「境界から」㊴ケニア・タンザニア 待ち受けるワニ

果てしない大草原に無数の黒い点がうごめく。川の岸辺に、長いたてがみとウシに似た角を持つ大型動物「ヌー」の群れが近づく。しばらく様子見した後で、覚悟を決めた1頭が水に飛び込む。次々に仲間が続き、激しい水煙を上げながら川を渡っていく―。
東アフリカのケニアとタンザニアの国境付近では毎年7月ごろ、100万頭以上のヌーが餌となる草を求めて北に向けて大移動する。ワニが待ち受ける川に入り、多くの犠牲を出しながらも止まることはない。「グレート・マイグレーション」と呼ばれ、観光客に人気の風物詩だ。
ただ国境を自由に行き来する動物と違い、人間たちは人為的な境界線にとらわれている。両国では観光客の奪い合いから検問所が閉鎖されて移動が不自由になった。ある住民は「国境はそもそも植民地支配の産物。アフリカは一つであるべきだ」と語る。
▽自然の障壁
雨期が一段落した7月下旬。新たな草の匂いに誘われて、ケニアのマサイマラ国立保護区にヌーの群れがやってきた。近づくと大地を蹴る低い足音が「ドドド、ドドド」と響き渡る。
ヌーはウシ科のレイヨウの仲間。見た目は勇ましいがおとなしい草食動物だ。大きなものは体重300キロ近い。のんびり草を食んでいたと思ったら、何かに気づいたように1頭が駆け出して残りが後を追う。「今年も観光客に楽しんでほしい」。幼い頃から野生動物に親しみ、マサイマラで約40年間レンジャーを務めたマクスウェル・ナイショ(62)は誇らしげだ。
群れはタンザニアのセレンゲティ国立公園から国境を越えて北上してきた。マサイマラに来ると草原を回るように移動し、翌年にかけてセレンゲティに戻る。フェンスもなく白い礎石が並べられただけの国境は、動物には何の意味も持たない。
だがそんなヌーたちも恐れをなす自然の障壁がある。保護区内を流れるいくつもの川だ。
▽バランス
川にはどう猛なナイルワニが生息する。体長数メートルに達し、強力なあごで目の前の獲物を襲う。臆病なヌーは川岸に近づき、ワニがいないかどうか確かめてはまた引き返すことを繰り返す。見ている人間がしびれを切らすほど慎重だ。
川に入れば襲われる。それでも渡るのは一部が犠牲になっても群れの残りが生き残れるからだ。陸上ではライオンやチーターも狙っている。命を落とすヌーは年間数千頭。雨で川の水位が上がった年には1万頭を超えた。
レンジャーは観光客が近づきすぎないように注意を払いながら、そうした営みをひたすら見守る。「ヌーがある程度死ぬことで自然のバランスが保たれている」とナイショ。敬虔(けいけん)なキリスト教徒でもある彼は「神のなせるわざだ」と形容する。

▽開かずの検問所
ケニアとタンザニアの国境はほぼ直線だ。英国とドイツの統治の影響で、独立後に人為的な線が引かれた。
マサイマラとセレンゲティが接する場所に「サンドリバー検問所」がある。植民地時代を思わせるレトロな建物に鉄製の門。だが出入国管理事務所に人の気配はなく、中は荒れ果てたままだ。
かつては観光客が行き来していたが、2010年ごろからタンザニアが越境を許可しなくなった。宿泊施設が充実し、動物との遭遇率が高いマサイマラに観光客が流出するのを懸念したためだ。両国の往来には保護区外の別の検問所を通る必要がある。車で移動しても丸1日かかる。
国境のタンザニア側には「セレンゲティは決して死なない」と刻まれた案内碑がある。マサイマラへのライバル意識が見て取れる。
ナイショは「セレンゲティのレンジャーは大移動が近づくと草原を燃やして煙を上げるようになった」と明かす。ヌーを混乱させてマサイマラに行くのを邪魔する狙いらしい。だが「ヌーは頭がいいのであまり効果はない」と笑う。
これに対し、タンザニア北部の都市アルーシャで観光業を営むポール・マティスン(69)は「マサイマラではライオン2頭にサファリの車100台が群がる。オーバーツーリズムだ」と批判する。
ナイショもこれを認める。気球に乗って空から日の出を見るツアーが人気だが「敏感なクロサイがセレンゲティに逃げ出した」という。「どれもこれも人間のエゴによるものだ」と嘆く。
セレンゲティに近いヌゴロンゴロ自然保護区では初期人類の化石が発掘され「人類の発祥の地」とも呼ばれる。約360万年前の二足歩行の足跡も見つかった。
「人間はアフリカから世界に広がり、行き来はかつて自由だった」とヌゴロンゴロのレンジャーとして長く保護活動に携わったゴッドフリー・オレモイタ(63)。「それが今や国を越えた移動に多くの手続きが必要になっている。なんと皮肉なことだろう」と自嘲する。
【取材メモ/同情しながら応援】

ヌーの川渡りを見るには根気が必要だ。早朝に車で宿を出て川に近い群れを探す。見つけてもそこからが長い。数時間待ちは当たり前。先頭のヌーが水面にあと一歩というところまで迫りながら「やっぱりやめた」と引き返す姿に何度も肩すかしを食わされた。「おなかをすかせたワニは怖いよなあ」と同情しながら見ていたが、渡ってもらわないとはるばる取材に来たかいがない。「頑張れ」と応援する気持ちが届いたのか、ようやく渡りが始まった。見届けると大きな安堵(あんど)感に包まれた。
(敬称略、文は共同通信ナイロビ支局長・森脇江介、写真は共同通信契約カメラマン・中野智明=年齢や肩書は2024年10月2日に新聞用に出稿した当時のものです)
















