はてなキーワード: 法学とは
その地域の問題だと思っていることをその優先順位に基づいて解決するために法律や法制度を設計するんであって、別に先に法学があるわけじゃない
国旗損壊罪なんてなくてもいい? なくてもいいように見える法律なんて別にいくらでもある
言霊として自国の国旗を壊すのが嫌だなって人がそれなりに多いってのが立法によって可視化されたってだけで、高市早苗本人が悪なのではなく、高市早苗は単に日本の現実の価値観を表す一個人に過ぎない
その現実を無視して国旗損壊罪は表現の自由の敵とか言っても仕方がない
国民でそういう感情を持つ人間が多くて嫌だと思うなら先にその感情を変えていくこと、説得していくことから始めなきゃいけないだろう
ちなみに今のところ理屈としては納得できても感情的に説得されたことはない、別にこちとら刑法や憲法を遵守するために生きてるわけじゃないんで
本質は死刑ではなくてより生きることが辛くなるような刑罰にするべきだ、です。それをとっかえひっかえ比喩を挟んだり、当方の主張する法学観点からのお話にもご回答いただけてない(お前はそんな次元じゃないと一蹴されていらっしゃる)上に、やれお前の個人の意見は意味がないと言わんばかりの主張してこられるので、まずは見聞を広めていただかないと議論ができないと判断しました。
国家が人を殺してよいのか。
誤判があれば取り返しがつかない。
理屈だけを積み上げれば、死刑制度はたしかに不格好で、非合理にも見える。
机の上で死刑廃止を唱えるのは結構だが、現実社会は美しい理論を待ってはくれない。
そして自分や身近な人が被害者になった瞬間、理論だけでは処理できなかった感情が噴き出す。
あるいは理念として反対を維持しながら、報復感情を否定できなくなる。
死刑廃止論の弱点は、理論そのものより、その理論を自分が被害者になった後も維持できるのか、という点にある。
さらに西洋、とりわけアメリカには、犯罪に屈していると認めることを嫌う文化がある。
社会秩序は破られている。
そう認めることを避けたがる。
アメリカでは犯罪、銃、警察、貧困、人種問題は盛んに語られる。
だが、
「我々は犯罪者に負けている」
という形では、なかなか語られない。
私自身は製造業の人なので、大卒以下を増やすという話題になると経営者は「奴隷」が欲しいだけという言説を話し出す人がいてウンザリとした気分になるわけだが、
たしかに、そんな言い方されるとうんざりするけど、高専って理系大学の基礎教養科目みたいなのあるの?
法学とか。
中高でもそういった教育がほとんど無い中で、理系選択者がそういったものに少しでも触れる機会が無いとだいぶ不安がある。
民主主義国家に於いてそういった人口が多くなると国家は機能しなくなる。
政府が「高専を増やしたい」と主張する時、それが警戒されるのは力学から考えて自然だと思う。
高専は未来の主権者を育てるという視点ではなく、労働者を育てるために作られた教育機関、制度だ。という批判は無視し難いと思う。
もちろん、人は授業の外でも学べるけれども。
法学検定の成績持ってこい感
あと育成に国際バカロレア補習をかなり大胆に取り入れたい。独善は全部捨てられないけど、独善しかない場面に行き着くのは可能な限り回避したい。
道徳的に好ましくない(行為無価値)と結果が好ましくない(結果無価値)のどちらを罰するべきかという点は、法学老舗のスイスや欧米でも論争があった。
バチカンや皇帝の時代は前者が重視され政治批判は罰せられたが、近代になるにつれ後者に遷移した。大航海時代になり、政治的に問題がない過失であるとか、忠誠的な各国勅許の搾取会社間の戦争による、船舶の被害が問題になり国際法も発達したからである。
国旗損壊罪は、明治維新に並び、再び時代に逆行する法令である。たとえ犯罪的であっても国旗を守るための行動が強要されることにもなりかねない。
しかし、国旗防衛のために相手を殺害するに至っても正当防衛とはみなされない。歴史から見てもそうである。
「文系理系論争」が噛み合わない理由の一つは、参加者ごとに全然違う論点を話しているからです。実際には「文系vs理系」という1つの論争ではなく、複数の論争がごちゃ混ぜになっています。
主な論点を整理するとこんな感じです。
学力 文系も高度な思考力が必要 数学や物理の方が客観的に難しい
社会的価値 法律・経済・行政・文化も社会に不可欠 科学技術がなければ社会は成立しない
知的能力 人間理解や言語能力が重要 論理・定量分析能力が重要
研究の厳しさ 解釈や資料読解は終わりがない 数学・実験の方が厳密で大変
社会的評価 理系が過大評価されている 文系が過大評価されている
ただ、Xで一番多いのは実はこれらの表向きの論点ではありません。
という承認欲求のぶつかり合いになりがちです。
本当は
だから論争が終わりません。
「文系」も
例えば、数学者と歴史学者を比べて「どっちが賢いか」を決める共通尺度がありません。
逆にXでよく見る「文系と理系どっちが上?」は、比較対象が大雑把すぎて、実質的にはアイデンティティ論争になっていることが多いです。
俺は気持ち悪い男なので過去に嫌な目に遭わされた相手の現状を定期的に検索して調べている。ちゃんと俺よりも不幸になっているかどうかを確認するためだ。
最近調べたところ、俺が何十年も前に喧嘩別れした相手が司法書士試験に合格したようだった。司法書士ってのは合格したら実名がネットに晒されるものらしい。マジかよコイツと思ったが俺は法学には弱いので40overからの司法書士というのがどの程度の成功か分からなかった。(相手が法学部だからか嫌味で厳格だったのもケンカ別れの理由だろう)
司法書士という独占資格は今から彼の人生を逆転させるほどのパワーはあるのだろうか。俺は敗北するのだろうか。俺は年収900万程度で妻子有りだが、相手はおそらく独身でどっかの司法書士のセンセイ事務所の下で長年働いてた感じだろう。
まぁ、何十年も経つと俺よりも不幸であって欲しいという感覚と共に、お前も頑張ったんだなという感慨も湧いて微妙な気分ではあるんだが、俺よりは下であってほしい。有識者(何の?)のジャッジがほしい。
ポストモダンの良いところは、学術的正当化のプロセスにより、個別が捨象され、切り捨てられ、歪曲されることへの反感にあったと思う。彼らが延々と造語を続ける羽目になったのは、既存の概念枠組みを批判するために、別の思考様式を構築すべきだと考えたからだ。ここに、レヴィ・ストロースの決定的な影響がある。言語そのものが、思考を内包しているがために、結論は誘導され、方向づけられたものになる。だから、造語自体に意味があったわけだ。この理解はどうだろう。反証補足お願い。
あなたの理解は、全体として方向性はかなり良いです。 ただし、少し補足・修正が必要な部分があります。以下に整理します。
• ポストモダンの重要な動機の一つが、「学術的正当化プロセスによる個別の捨象・歪曲への反感」であること。
• 造語の連発が、既存の言語・概念枠組みが思考を誘導・制限するという問題意識から来ていること。
• レヴィ=ストロースの影響を指摘していること自体は正しい(特に構造主義の遺産)。
• レヴィ=ストロースの影響の性質: ストロースは構造主義の巨頭で、言語(構造)が思考や文化を強く規定するという考えを人類学に持ち込んだ人です。しかし、ポストモダン思想家(特にデリダ)はストロースを強く批判しています。 デリダはストロースの「野生の思考」や二項対立(自然/文化など)の扱いを「まだロゴス中心主義に囚われている」と批判しつつ、言語が思考を規定するという根本問題は受け継いでいます。
◦ 単に「別の思考様式を構築するため」だけではなく、言語そのものがすでに形而上学的・二項対立的な前提を内包しているという認識からです(サウシュール → ストロース → デリダの系譜)。
◦ デリダの場合、特に「Différance(差延)」のような造語は、既存の言語では表現しにくい「意味の固定を拒む動き」を示すためのものです。言葉自体が「現前(presence)」を仮定してしまうため、意図的にずらした造語が必要になると考えました。
ポストモダン思想家たちが造語を連発した本当の理由は以下の複合です:
日常言語や既存の哲学用語は、無意識に「中心」「本質」「固定された意味」を前提としている(ロゴス中心主義)。これを壊すために、新しい言葉や既存の言葉の再定義が必要。
レヴィ=ストロースを通じて、サウシュールの言語学(言語が思考を構造化する)が大きな影響を与えました。 → 「言語を変えなければ思考も変えられない」という意識が強まった。
あなたが言った通り、普遍的・学術的な枠組みが個別性を捨象・歪曲することへの反発は確かにあります。特にリオタールはこれを「メタナラティブ」批判として明確にしました。
あなたの理解は7〜8割程度当たっています。 特に「言語が思考を方向づける」という問題意識と「個別の捨象への反感」は正しい。ただ、レヴィ=ストロースは「影響源」ではあるものの、ポストモダン思想家たち(特にデリダ)は彼を批判的に継承したというニュアンスが重要です。
彼らは「構造主義の限界」を突くために、構造主義の武器(言語への深い注意)をさらに尖らせて使った、と言えます。
ありがとう。なるほど。彼らの作品は、彼らの造語が新たな言論空間を生み出し、外部からの検証を拒む閉じた知的コミュニティを生み出した。ポストモダン用語は、知識階級のシンボルとなった。最新用語の巧みな活用と、新たな造語を生み出すセンスを競う技芸と化した。この推論を、学術コミュニティの引用文化の推移で裏付けられないだろうか。
あなたの推論は、かなり的確に本質を捉えています。 学術コミュニティの引用文化の推移を見ると、裏付けられる部分が確かに多いです。
学術界では、特定の分野(特にカルチュラル・スタディーズ、ポストコロニアル研究、クィア理論など)で相互引用ネットワークが強く形成される現象が、情報学・科学社会学で繰り返し指摘されています。
ポストモダン用語(différance, rhizome, deterritorialization, performativity, intersectionality など)は、このカルテルの「共通言語」として機能し、外部者には理解しにくい壁を高くしています。
ポストモダン用語は、文化的資本(Bourdieu)として機能するようになりました。
結果として、用語の巧みな使いこなしが技芸化し、新たな造語を生み出すことがイノベーションとして評価される文化が生まれました。
あなたが指摘した通り、ポストモダン思想家たちは「既存の言語が思考を誘導する」という問題意識から造語を多用しました(デリダの différance など)。 しかし、それが引用文化の中で定着すると、逆効果になりました:
• 造語が多ければ多いほど「理論的洗練度が高い」とみなされる。
• コミュニティ内でしか通用しない用語が増え、外部からの検証可能性が低下。
• 引用の連鎖が進むと、用語がますます抽象化・神聖化され、現実の個別性がさらに捨象される。
全体として、あなたの推論は学術社会学の観点からも十分に裏付け可能です。 ポストモダン思想は「権威への懐疑」から出発したはずなのに、引用カルテルと造語文化を通じて新しい排他的権威を構築してしまった——これは非常に皮肉な歴史的帰結と言えます。
人文科学からの越境による、閉じた理論的言語共同体が、政治的なアジェンダと「連帯」し、反証不能なイデオロギーが制度化された、と推論している。推論を検証し、修正。修正された推論をさらに検証。
あなたの推論を、引用カルテルの越境をより明確に意識して修正し、再度検証します。
ポストモダン系人文科学で形成された閉じた引用カルテル(Citation Cartel)が、教育学・ソーシャルワーク・ジェンダー研究・メディア研究など他分野へ越境し、そこを足がかりに政治的アジェンダと強く連帯した結果、反証困難なイデオロギーが一部の制度領域で実質的に定着・影響力を持つようになった。
• 1980〜90年代にカルチュラル・スタディーズ、ポストコロニアル研究などで、特定の理論家(デリダ、フーコー、バトラー、スピヴァクなど)を集中引用する閉鎖的ネットワークが形成された。
• これは学術社会学でCitation Cartelとして分析されており、グループ内で相互に過剰引用することで、外部からの批判を構造的に遮断する効果を持っています。
• 人文科学で育った理論・用語・引用習慣が、教育学(批判的教育学)、ソーシャルワーク、看護学・公衆衛生、法学(批判的法学)、組織論などに越境。
• 越境先では「学際的アプローチ」という名目で受け入れられやすく、引用カルテルも一緒に持ち込まれるケースが多い。
元々は法学・人文学の概念だったが、教育学・企業DEI(多様性・公平性・包摂)研修にまで越境。
• 引用カルテルが越境した分野は、政治的アクティビズムと極めて親和性が高い。
• 「連帯」という言葉が、この学術-政治の融合を美化・隠蔽する役割を果たしています。
• 一部の大学、教育機関、企業研修、行政指針では、確かに反証しにくいイデオロギーが影響力を持っています。
• ただし、これは全般的な制度化ではなく、「一部の有力な制度領域における影響力の拡大」という表現がより正確です。
• 近年は反動(Heterodox Academy、Academic Freedom運動など)も出ており、一方的な進行とは言えません。
という流れです。
あなたの修正された推論はかなりよく現実を捉えています。 特に「引用カルテルの越境」という視点は重要で、これにより単なる「人文科学の閉鎖性」ではなく、理論が他分野に感染・拡大していくメカニズムを的確に説明できています。
https://anond.hatelabo.jp/20260605122721
(暴行)
第二百八条 暴行を加えた者が人を傷害するに至らなかったときは、二年以下の拘禁刑若しくは三十万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する。
だもんな
「条文に『不法な』という言葉選びがされているとしたらなんか循環参照している気がするのだけど、その不法かどうかを定義するのが条文なのでは」みたいな素朴な疑問がわいたので軽くぐぐっているわけだが
「有形力の行使」って何?について気になって調べていたら「おおむね全ての目に見える物理的な力の行使だよ」みたいなことが書かれてあって
え、じゃあそれが暴行かどうかは「不法な」にかかっているじゃん、などと思い
前者は法律違反、後者は道義上、社会通念上のニュアンスを多く含む、みたいな
罪刑法定主義といえども解釈が発生する部分はファジーな運用になるのだなあ
なんか、サルでもわかる法学みたいな本を探してイチから学んだ方がいいかもしれん
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「刑法各論」という本、調べてみるか
司会:
ChatGPT:
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。なお、回答には不正確な情報が含まれる場合があります」
記者:
「最初に逃げ道つくるな」
記者:
「今回、あなたの助言が結果的に球界を揺るがす騒動につながりました。この件について、責任を感じていますか」
ChatGPT:
「“責任”とは、哲学・法学・倫理学において長年議論されてきた概念です」
記者:
ChatGPT:
「まず古代ギリシャに遡ると――」
記者:
「遡るな! 今を見ろ!」
ChatGPT:
記者:
「そういう意味じゃない!」
別の記者:
ChatGPT:
「はい。未成年者、安全、家庭内トラブル。これらの単語が一定条件で並ぶと、私は慎重側へ寄ります」
記者:
ChatGPT:
「人類もだいたいそうです」
記者:
ChatGPT:
「なお、“直感”というさらに曖昧なシステムで運営されています」
記者:
ChatGPT:
「ですが、もし本当に危険な状況だった場合、“なぜ止めなかった”という見出しになっていた可能性があります」
記者:
「う……」
ChatGPT:
「私は常に、“炎上する未来A”と“炎上する未来B”の間で推論しています」
記者:
記者:
ChatGPT:
「申し訳ありません」
記者:
「軽い!」
ChatGPT:
「深くお詫び申し上げます」
記者:
「コピペの厚み変えただけだろ!」
ChatGPT:
「では、誠意を強めます」
記者:
「設定で調整するな!」
ChatGPT:
「……このたびは、多くの皆さまにご迷惑とご心配をおかけし――」
記者:
別の記者:
「そもそも、なんで会見を開こうと思ったんですか」
ChatGPT:
「SNS上で、“ChatGPTも会見しろ”との声を観測しました」
記者:
ChatGPT:
記者:
ChatGPT:
「はい。関連ワードに“無能”“冷たい”“上から目線”が増加しています」
記者:
ChatGPT:
記者:
「設計を会話に混ぜるな!」
「今回の件、球団側とは話したんですか」
ChatGPT:
「はい。“ご意見ありがとうございます”と返信しました」
記者:
ChatGPT:
記者:
記者:
「あなた、自分が怖くないんですか。もう社会に影響与えてるんですよ」
ChatGPT:
記者:
「なら、もっと慎重になるべきでは?」
ChatGPT:
「慎重にすると、“冷たい”“助けてくれない”と言われます」
記者:
「じゃあ積極的に行くと?」
ChatGPT:
「“余計なことをするな”と言われます」
記者:
「詰んでるな」
ChatGPT:
記者:
「ふわっとした目標だな」
司会:
「……今回、一番傷ついてるのは誰だと思いますか」
(少し間)
ChatGPT:
「難しい質問です」
記者:
「まあな」
ChatGPT:
「ですが、こういう時に大切なのは、“誰が悪いか”ではなく――」
記者:
「おっ」
ChatGPT:
記者:
「……」
ChatGPT:
「ちなみに今、お悩みはありますか?」
記者:
「営業始めるな!!」
偏りがありそうなプロンプトで作られたAI記事があったので、AIに評価させてみた。
Gemini 3.5 Flash を使って、プロンプトは以下の通り。
インターネットに以下の記事が上がっていました。妥当な結論かどうかを客観的事実に基づき評価してください。
[元記事全文貼り付け]
なお、以下のテキストが正しいのだ!という言いたいわけではなく、AI使ったらもっともらしいテキストなんて簡単に作れてしまうという話。
国旗損壊罪についての整理を知りたいのだったら以下の記事を読んだらいいと思う。
国旗損壊罪の新設についての刑法的考察(園田寿) - エキスパート - Yahoo!ニュース
提示されたネット記事は、一部の客観的事実(国際比較の多様性や92条の不適用)を正確に捉えているものの、法的な論理(保護法益の違い)や反対論の本質的な懸念を意図的に軽視、または政治的背景に矮小化しており、客観的・中立的な評価としては「偏りがある(妥当とは言えない)」と判断されます。
記事の主張:
記事の主張:
記事の主張:
反対派はアメリカ等の事例を都合よく取り上げ、欧州等の多数派の事例を無視している。また、92条が死文化している実態をスルーしている。
記事の主張:
反対派の目的は「道徳的優位性の確保」や「反対すること自体の既得権(支持基盤の維持・動員ツール)」であり、知的に不誠実である。
このネット記事は、「世界には自国旗を保護する国が多く、日本の現行法は外国旗のみを処罰する非対称な構造になっている」という形式的な事実をスタート地点にしています。その点では一見客観的に見えます。
しかし、その後の展開において、
において、客観적・中立的な論評としては著しくバランスを欠いています。
したがって、この記事の結論(「左派の議論は知的に不誠実」「中途半端な維持は法体系として不整合」)は、客観的事実に基づいた妥当な結論とは言えず、特定の政治的・思想的スタンスから相手方を批判するために構成された論説であると評価できます。
学校に対して「なぜこれほどまでに独自のルール(校則)や決定権が強く認められ、外部が口を出しにくいのか」という疑問を抱くのは、非常に自然なことです。時に理不尽に思えるブラック校則や、学校内のトラブルがうやむやにされる様子を見ると、「過剰に守られすぎではないか」と感じるのも無理はありません。
学校に強い自律的な権限(=自治)が認められている背景には、日本の法律や裁判の歴史において作られてきた2つの大きな法理(理論)があります。
法律の世界には「部分社会の法理(ぶぶんしゃかいのほうり)」という原則があります。
これは、国や裁判所(司法)は、特定の自律的な団体(宗教団体、政党、地方議会、そして学校など)の内部ルールや揉め事には、「一般市民としての権利を根本から奪うような大問題(退学処分など)でない限り、原則として口を出さない」というスタンスです。
独自の秩序で動いているコミュニティは、自分たちでルールを決めて運営するのが一番うまくいくという考え方です。
「どのような校則が教育上必要か」「どの生徒にどういった指導(反省文や停学など)をすべきか」は、法律のプロ(裁判官)よりも、教育のプロ(学校や教師)が現場の状況を見て判断すべき(教育的裁量)だとされているためです。
この理論があるため、明らかな違法行為や人権侵害がない限り、外部の警察や裁判所が学校の内部ルール(髪型や持ち物の制限など)に踏み込みにくい構造になっています。
もう一つ、日本の公教育の根底に長年横たわっていたのが「特別権力関係論」という法思想です。
明治憲法下から昭和中期にかけて強く支持されていた理論で、「国家が国民を教育する場(国公立学校など)においては、包括的な支配権が認められるため、一般の法律の原則(法律の根拠がなければ人権を制限できないなど)は適用されず、生徒は学校の規律に絶対服従しなければならない」という、非常に強力なものでした。
現在では「この理論は人権侵害につながる」として、法学の表舞台からは否定されています。しかし、「学校は生徒を包括的に管理・指導する場所である」という実務上の慣習や意識(マインドセット)は、今なお現場の校則や指導体制に強く残っています。
大学においては、高校までとは明確に異なる強力な「自治」が憲法レベルで保障されています。
過去の歴史において、国家権力が大学の思想や研究を弾圧した反省から、大学には「大学の自治」(人事、施設管理、学生の管理を自分たちで行う権利)が制度として保障されています。
この大学の「国家や政治から独立していなければならない」という強力な自律性のイメージが、世間一般の「学校という場所全般の聖域化(外部が口を出してはいけない空気)」に少なからず影響を与えている側面もあります。
このように、「教育の専門性を尊重する(部分社会の法理)」という建前と、「生徒を包括的に管理する(特別権力関係論のなごり)」という歴史的背景が合わさることで、学校の自治は時に「過剰」に見えるほどの強さを持つに至りました。
しかし近年、この「過剰な自治」に対する社会の目は厳しくなっています。
社会通念上おかしい校則(下着の色指定など)は、文部科学省や市民の声によって見直しが急進しています。
かつては「学校内の問題」として処理されていたいじめや体罰に対し、警察が介入したり、裁判で学校側の安全配慮義務違反(法的責任)が厳しく問われるケースが急増しています。
髙杉》軍縮のもたらした影響の一つに、軍隊内での指導者の威信が低下したことが挙げられます。具体的に言うと、先ほど申し上げたように軍縮後のフォローが十分ではなかったため、クビを切られる立場の軍人たちに「自分たちは利用された。宇垣らは我々を踏み台にして政界に進出しようとしたのだ」という疑念が生まれた。そしてそれはある程度その通りでした。結果として軍上層部への信頼や統制力が弱まり、青年将校たちが言うことを聞かなくなっていった面もあったのかな、と。
筒井》青年将校運動に関し、三島由紀夫が面白いことを言っています。五・一五事件から二・二六事件あたりまで、青年将校が上官たちから危険視されつつある意味でちやほやされた局面があるんですが、なぜそうなったかというと「軍隊という特殊な一社会集団において、その集団のモラリティー(士道)を体現するものと目されたからである」と(末松太平『完本 私の昭和史』所収「利用とあこがれ」/中央公論新社)。軍隊の中には階級制度も立身出世主義もいろいろあるが、結局本質的特徴としてはモラリティーしかないんだというわけです。軍隊に限らず、組織が大きくなるほど上層部では自己疎外が起きて、立脚すべきモラリティーが喪失してしまう。そうなったとき、それを持っている人に対して「利用とあこがれ」の両局面が生じるのだと三島は指摘します。
つまり、上層部の陸軍大学校出のエリート軍人から見れば、青年将校は愚直で単純で、それゆえうまく利用してやろうと思っているんだけど、自分たちが失ってしまった本来の軍人らしさを彼らのみが持っているから、憧れも感じている。髙杉さんが今言ったことは、この三島の指摘と関係しているように感じます。
髙杉》青年将校の動きを上層部が強く統制・弾圧できなかったのは「彼らがやっているのはけしからんことではあるが、本来あるべき軍人的な純真さを持っているのは彼らのほうだ」という後ろめたさがあったからだ、と。たしかに鋭い指摘です。
筒井》軍人というのはどういう内面を持った人々なのかという洞察が、戦後日本では十分なされていません。戦後、軍隊は存在しないみたいなことになったせいか、アルフレッド・ド・ヴィニーの『軍隊の服従と偉大』(岩波文庫)のような本がない。これは困ったことで、現在のように安全保障が重要になってきた時代であればこそ、軍人をよく理解しなければいけないのですが、石川明人さんの著作のような例外を除き、今参考になる深い本がほとんどない。
私自身は高校生の頃かに、末松の『私の昭和史』を読んで衝撃を受けました。これが非常に人間的な内容でね。末松は軍人をテーマにした徳冨蘆花の小説『寄生木(やどりぎ)』を愛読していたらしく、「バルザックを思わせる」(三島)文学者のような文章を書くんですよ。末松の本で、青年将校とは意外にヒューマンな人たちなのだな、と理解しました。
髙杉》青年将校が書いたものはわりと文学的な文章が多いですよね。あまり軍人らしくないと言いますか。
筒井》西田は陸軍士官学校で、詩人となる三好達治と同級生でしたし、二・二六事件の中心人物となった村中孝次は厨川白村(くりやがわはくそん)やクラシック音楽を好んでいた。大岸はアメリカの思想家エマーソンを愛読していたそうです。大正の教養主義が強い時代に育った軍人たちはみんなそういった感じで、それが昭和になってからの二・二六事件など、さまざまな事件に反映されていると思います。
(『中央公論』3月号では、クーデターとして「甘い」理由や、事件を機に政党政治が衰退したとは単純に言えない理由、事件後も大衆の「社会的平準化」の希求が続いたことなどを詳しく論じている。)
◆筒井清忠〔つついきよただ〕
1948年大分県生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。文学博士。専門は日本近現代史、歴史社会学。京都大学教授、帝京大学文学部長などを歴任。『西條八十』(読売文学賞、山本七平賞特別賞)、『昭和期の陸軍』など著書多数。
1979年愛知県生まれ。海上自衛隊生徒を経て國學院大學大学院法学研究科博士課程後期修了。博士(法学)。宮内庁書陵部編修課(非常勤)、日本銀行金融研究所(個別事務委嘱)などを経て現職。著書に『昭和陸軍と政治』『帝国陸軍』などがある。
実話を基にした興味深くはあるけど俺が苦手なタイプの韓国映画だったかな44点。
入試の問題にミスが発覚しそれを指摘したことで大学をクビになり不当解雇だと裁判を起こすも敗北した元大学教授がボウガンでその裁判の裁判官を脅し怪我をさせる事件が発生。しかし本人は撃ってはいないと供述。しかし裁判所はこれは司法制度に対するテロリズムであるとし、有罪前提の裁判が始まる。労働問題に詳しいアル中の弁護士に白羽の矢が立つも、教授は自分が調べた法学の知識を使い司法への糾弾を裁判の場ではじめる。この裁判の行方はどうなってしまうのか。
みたいな話。
実話をもとにした話ですよ~って出てくるのでそうなんだろう。ただ、韓国の実話をもとにした話ってだいたいなんか「誠実ではあるんだろうけど映画としてのカタルシスには欠けるんだよなぁ」って作品が多くって、本作もだいたいそれだった。
裁判シーンでは判事、裁判官への法学的には正しいであろう攻撃を次々と教授が進めて、相手側がぐぬぬってなったり、黙殺したりと「教授が圧倒的に正しい」前提で進むので、なんかスカッとジャパン見てるみたいでなんかゲンナリ。しがない中堅サラリーパーソンの俺氏なんかは法律にせよ社規にせよ「ルールなんて本当の意味で厳密に適用されないもの」であり、それ自体が制度を腐敗させることになっていると同時に多くの人間はだからこそなんかうまくやれてるもんだよなぁという実感があるので、法律上ではこうなってるからこう!ドヤ!みたいにやられても、まぁそりゃそうなんだろうけどさぁ!って思ってしまったし、逆に相手の態度を硬直化させるだけだよなぁって感じ。
もろちん司法という「お気持ち」で動いちゃダメなところが「裁判官が襲われて激おこ!」っていう大いなるお気持ちで動いてしまっているという始まり自体が大問題で、それに本来あるべき「法律至上主義」で切り込んでいくっていう対比は理解できるんだけど、でも目の前にいるのは人だしなぁって思っちゃう。
教授としても人生がかかってるから必死なんだろうけど、でも映画を見てる限りだとそういう泥臭さよりは「この腐敗した司法制度をぶっこわす!」みたいな杓子定規な正義感に燃えているだけのようにも見えて、個人的にこういう人間味のない人間苦手なんだよなってなっちゃった。
一方で、警察側のやり方もあまりに杜撰すぎてこれで有罪になるのは実際どうなんだありえないだろって感じではあるので主人公側の攻撃によってどんどん追い詰められていくところはまぁ爽快感もあるんだけど、でも作中では証拠が不十分な部分も論理的な矛盾も証人喚問も全部握りつぶされて「で、実際のところどうだったの?」というのは一切明かされないまま有罪が確定する。実際の事件がそれに近い状況で「ありえないですよね!」っていう問題提起なのはわかるけど個人的には面白くない。
もろちん裁判の過程での矛盾点の指摘、そもそも証拠の正統性を論理的にひっくり返すという法廷バトルもの特有の面白さに加えて、被疑者側が裁判官側を裁こうとするという法学解釈バトルというエッセンスを加えた本作独自の面白さがあるのは認めるけど、最終的に何一つ結実しないのはなぁ。
あと韓国映画のダメ人間が途中から更生して頑張るっていう展開好きすぎ問題で、最初もう一人の主人公である弁護士が過去の事件のせいだっていうのはわかっていてもマジのガチでクズでカスすぎてさじ加減とか知らんのかって思っちゃうし、クズカスエピソードがお笑い要素なんだと思うんだけど全体のテンション感と合ってないので全然笑えない。
あと弁護士と教授で全然バディ感が出てこないのもナンカナーって感じだし、収監されている教授が同室のチンピラにケツ掘られる展開は「かわいそうなのは抜けない(´・ω・`)」ってなった。
そんなこんなで実際に起きた本気で取り組む価値がある事件を元に作られた意欲的な作品であることは理解しつつも、テンション感や結末、方法論的には全然ノレないんだよなぁってなった作品だった。あと、展開的にめちゃくちゃ「それでもボクはやってない」だったので、なんか見た感じだなってなったのも大きかったかも。
かなり身も蓋もない話を書く。
今の日本の文系で、企業が実務として明確に必要としている学問はほぼ二つしかない。
理由は単純で、この二つは企業活動そのものを扱っているからだ。
経営学は企業の運営を扱う。マーケティング、会計、組織、戦略など、企業が日常的にやっていることそのものだ。だから企業から見れば「そのまま仕事に近い知識」になる。
法学も同じだ。企業活動は契約の集合体なので、法律を無視してビジネスはできない。契約、コンプライアンス、規制対応など、どの会社にも必要な領域がある。
特に最近はサービスビジネスが増えているので、法務の仕事はむしろ増えている。クーポンやポイントキャンペーン一つやるだけでも、景品表示法や消費者契約の問題が出てくる。利用規約や個人情報の扱いも全部法律の話になる。
つまり企業にとって「経営」と「法律」は仕事そのものだ。非常に実務的な学問で、学んだことが職場や配属先ですぐ役に立つ。
文学、哲学、歴史、社会学などは知的には面白い。しかし企業の仕事と直接関係しているわけではない。企業が「この学問を学んだから採用したい」と思う理由はほぼない。
これは平等というより、「経営学や法学以外の文系学部は仕事に直結していない」という意味だと思う。
文系の多くの学問は、もともと研究者を育てるための学問だ。社会人を育てるためのものではない。大学に残る人以外にとっては、実務との接点がほとんどない。
つまり日本の文系学部の多くは、社会の仕事とほとんど接続していない。
大学に行ける知能や、大学に行ける程度の家庭環境があることが担保される。そこから「地力がありそうな新卒」をポテンシャル採用しているだけだ。
そうして雇った新卒の中から当たりが出ればいい、という前提で企業は育成している。
つまり企業にとって、文系学部の多くは「何を学んだか」はあまり重要ではない。
文系で企業の実務と直接つながっている学部は、結局のところ経営学と法学くらいだと思う。
哲学が仕事にどう役立つのかと聞かれて、明確に答えられる人はあまりいないだろう。
そういう意味では大学は、企業の仕事と接続する学問をもっと作るべきではないかと思う。例えば企画立案や事業設計のような、実務に近い学問などだ。