はてなキーワード: 夢想とは
スティーブン・キングの原作は何度か読んだ。デスゲームものの元祖にして完成形である原作を映画化するということで期待して観にいったが、とても良かった。あれこれ盛り込まれている原作の無駄を切り取り「ただ残り一人になるまで歩く」という本筋に集中し、キャラクターを実存として描くことで、アメリカの若者たち、として説得力を持たせている。原作だとキャラの書き分けに文字を割くためやや鈍重になっている部分もあるので、勝算をもって映像化した作り手の手ごたえを感じた。
ある一定の速度を保って歩き続ける。止まったり歩けなくなった者は彼らを取り囲む軍隊によって撃ち殺されていく。残り一人になるまで歩みは続く。
さて、自分がもしそんなゲームに参加するとなったら、と誰しも考えたことがあるだろう。「バトル・ロワイヤル」の状況しかり、理不尽に誰しもがどんどん脱落していくデスゲームにおいて、果たして自分は生き残れるのか、脱落するとして、無様にみっともない死を迎えないだろうか、と想像したことはないだろうか。
「ロングウォーク」の作中では、死を伴うこの行軍をはっきりと人生のメタファーとして描いている。歩き始めた当初は誰もが元気で、希望を持ち、自分が脱落するなんて考えていない。褒賞をもらえたらどうしようなどと夢想したり、誰かを貶めたり、頭を使って戦略を考えたり、体力と希望を持っている。
だが、そんな彼らも一人、また一人と脱落していく。不幸なアクシデントに見舞われるもの、プレッシャーに負けるもの、体調を崩すもの、逃げ出そうとして失敗するもの。
つい先ほどまで「自分は死なない」と思っていた人物が、はっきりと死に追いやられていく。残ったものたちも、その生の残り時間は減り、身体はどんどん摩耗していく。未来への希望は目の前の状況にかき消される。
人生に似ている。ひどく似ている。
それぞれの道を歩き続けるうちに、いつの間にか死にとらわれていく。
自分もいずれ、と考えると、少しだけ歩む足がもつれるような気がする。
映画を見ただけで悲観的になるなよ、と笑うだろうが、まあそんな時もある。
はてなユーザーの中にも、かつては目立って歩いていたけれど、いなくなってしまった人もいる。思えば遠くまで来たものだ。
ここを見ている中年たちよ、調子はどうだ? 脚は痛いか? 腰は平気か? よく眠れているか? まだ止まるには早いよな。
辛いことも苦しいことも多いけれど、きっとまだまだ歩けるぞ。歩かなきゃいけないぞ。
誰かを叩いたり、罵りあったりするよりも、誇りを持って理想を目指して、誰かと手をとり進んでいく。それが生きる価値だと思わないか。
そんな歩みを少しでも長く、潔く続けていきたいと俺は思う。
もし俺が撃ち殺されてしまう時がきたら、どうか俺の分まで歩いて行ってくれ。
できれば子どもたちを育てて、若い人たちが明るく生きる世界を作ってくれ。
今までの来し方の先の道に、同じような誰かがいると心強いな、と思って書いてみた。
そもそもしたいとも思ってないのに、金あるだろ、一人はまずいだろ、結婚して妻を抱えたらどうだとか言われたよ。
仕事関係じゃないけど、それなりに不興を買うと困る関係の奴から。
いつの時代だよ。勘弁してほしい。もうとっくにあきらめてるしする気もねえのに。俺は今更子供持てる歳でもないよ。
大体だ、俺だって適齢期とっくに過ぎてるんだ。恋愛するなんてないし、さしてイケメンでもないし自分の結婚市場での価値くらいわかってる。
それこそ自分の財産をすべて捧げ、専業主婦をいとわず、専業主婦だったとしても家事を半分以上をこなし、
仮に用済みと言われても喜んで慰謝料を払うくらいの覚悟があって初めて婚活の土俵に立てて、それでも女性様からの年齢スペック攻撃に極限疲弊するくらいの価値でしかないだろう。
そこまでする価値を結婚に感じないし、婚活なんて地獄のスペック戦場で安らぎを感じられ共に生きられる相手と巡り合えるなんて夢想は微塵もしていない。
それに自分は一人が好きを通り越して、プライベートは一人じゃなきゃ行動できないくらいの一人主義者だし、ほんと結婚なんてありえないのよ。
仕事で周囲からの孤立を長く経験したことがあり、一人の孤独なんか大したことない、人がいる孤独のほうが何億倍もつらいことをよく知っているからね。自分の一人主義は筋金入りなんだよ。
闇バイト。羨ましいものである。簡単に騙されて貶されて、あとは人生お気楽に転落するだけなのだからなんて良い御身分だろう。中には司法や世論や家族に恵まれてろくな刑にされず助けられる奴もいるかもしんない。そうでなくても楽なもんだろ。底まで落ちたら守るものも失うものも無くタダ飯食って待ってりゃ大して苦しまずに老いて殺してもらえる訳だ。さぞかし呑気でいられることだろう。生い立ちが不幸なら情状酌量に恵まれる可能性もある。ブタ箱に入って甘やかされるなんて可哀想で幸せなこった。反吐が出る。存外に司法は世論に左右されて酌量する。結局大多数の人間に都合のよい方が正義になるのだ。
物心ついた時にはゴミ屋敷みたいな祖母の家に住んでいて、事あるごとに居候と文句を言われ、たまに帰ってくる母はヒステリーを起こしては「私はお前を産まなきゃ幸せだったんだ!」っとブチ切れて私の首を絞めるわ殴るわ包丁を持って追いかけ回すわ、水の張った湯船に頭を押さえ込まれて溺れさせられるわガチの虐待をされる。これまたクズな母の叔父には顔面ぶん殴られて鼻の骨を折られる。父親違いの兄貴には身体をまさぐられわけもわからぬまま恋人まがいの玩具にされる。蛙の子は蛙なわけ? 絶やすべき遺伝って確実にあるよね?私は死んでも子供なんか作らねぇ。それだけで社会貢献になるだろ。
他にも子供時代は散々。時折母に知らないオッサンやオバサンの家に連れて行かれて「お金を貸して!この娘を食わせないといけないの!」と金をせびるダシにされる。そのくせ母がせびった金は全部パチ屋に消えた。母は小学校も中学校も教育にかかる一切の金を払えない、給食費すら踏み倒す。義務教育ってそれでも通わせられるんだから凄いよね。15年前の児童相談所は訪問してきても私とマン・ツー・マンで話もせずに、親が適当宣えば簡単に帰って行ったし。そんな環境で、そんな状態で尚お勉強しなさいなんて強要するんだから本末転倒。学校も勉学よりさっさと私を母から引き離して児童施設かなんかに送って公金で育てさせてくれたら、私はもう少し賢く高収入の仕事に就いて真っ当に生きれたかも知れなかったのに。学校では死にたくなるほど惨めだった!!貧しい身なりはイジメの標的にされる。当時の自分を客観的に見れるほど覚えてはいないんだけど、家庭環境がクソだったから私も相当クソみたいなガキだったんだろうとは思う。当然外見も中身もクソみたいな私はイジメられっ子だった。まぁ、私みたいな生い立ちの子供は大概そうだろうが。イジメてきた同級生の顔も名前も死ぬまで忘れない。ランドセルも中学校指定鞄も切り刻んだけど、私だけ別枠で写っている卒業アルバムは捨てずに取っておいてある。別に復讐なんかする気はないけど、時折思い出して怨むと少しスッキリするし昨今スマホで本名を調べればイジメっ子達の大体の近況も分かる。リーダー格でイジメてきた背の高い女子は今現在、実家の金で地元の不動産屋の社長になってた。世の中理不尽ばかりだ。まぁ、でも、卒アルに写ってる奴らが今どんな人生を生きていようと、紛れもなく私に恨まれ続けている事実は変わらないのだ。彼らは死ぬまで「誰からも恨まれない人」にはなれない。私が恨み続けるから。私の恨みが呪いになるまで何も知らないまま首を洗って待っててほしい。あと30年くらい恨んでたら怨みつらみに足が生えて不能犯になってくれるかもしんないし。この程度の可愛い怨みでも嫌に思うなら私を恨めば良いのだ。彼らが私の名前と顔を覚えているかは怪しいものだけど。
どうだろ? 私も結構クソみたいな地獄の人生送ってると思うんだけど。凶悪犯の生い立ちの記事とか読んで、よく私はシリアルキラーにならなかった(ならない)もんだなと思うもん。なんでそんなもん読んでたかって? 好奇心と親近感と寂しさだろう。ひとりぼっちの私には、本やネットで調べられる凶悪犯の生い立ちくらいしか私と同じ傷を受けた人達が見つからなかった。そういった人達の幼少期が自分と重なる事に親近感を覚えたけど、彼らが悍ましい犯罪を犯した事には共感出来なくて不思議だった。彼らと私の違いって何?
人に執着すれば良かったのか?
手っ取り早く股でも開けば良かったんだろうか?
なりふり構わず薬にでも溺れれば良かったのか?
躊躇わずに人を傷付ければ良かったのか?
子供の頃は全部諦めて世界をシャットアウトしたからそういったものに近付く機会が、良くも悪くもなかった。6歳くらいの私は16歳かそこらで死ぬ予定を立てたから学校に行かなくなって人と関わるのを辞めた。電話代すら払えない家だったからネット環境なんか無い。子供の頃、私は完全に孤独だった。家出も試みたけど6歳の私は結局行く当てもなくて家に戻るしか無かったから、親と縁を切ることは出来なかった。親は半年くらいは学校行けってクソ喧しかったけど何があってもされても徹底的に無視した。私が目に見える怪我をしたら結局外に出せないし。まぁ、クズのバカなので半年もしたら騒ぐこともしなくなった。慣れって素晴らしいね。私もだいぶ色んな痛みに鈍感になった。どうせ死ぬと思うと何でも気にならなくなるものだから楽だった。毎日図書館に通って山程児童書や図鑑を読みまくった。本を読んでる時だけは幸せだった。ファンタジーに夢想している間は現実なんか見なくて良かったから。結局は依存してただけ。それが薬じゃなくて本だっただけで。やっぱり私も非行に走る人間と本質は同じなんだろう。
子供時代はそんなんだから非行に走る事も無かった。じゃあ今はどうだろ。ネットで色んなものを読んだ。YouTubeの動画で色んな事件を知った。漫画も好きに買ってる。外道の歌とムルシエラゴとサタノファニと星屑の王子様超好き。映画も見る。ホステルとミッドサマーは微妙だった。悪魔のいけにえとタッカーとデイルとヴィーガンズ・ハムは大爆笑しながら観た。ハロウィンのマイケル・マイヤーズめっちゃ好き。羊たちの沈黙のハンニバル博士とクラリスの関係も大好き。グリーンマイルとイミテーション・ゲームは泣いた。アニメも好き。メイドインアビスの烈日とタコピーは泣いたしオーバーロードと幼女戦記とゴールデンカムイはテンションブチ上がって楽しい。いつ読んでも面白いワンピースはもはや聖典。だからといって影響されて他人をどうこうもしないし、自分がどうこうする事も考えたことすら無い。影響される奴とされない奴の違いってなんだろうね。なんで私は影響されないんだろうね。現実と幻想の区別がつきすぎるんだろうか。私のクソ長い一人語りの裏付けも怪しいものだけど。
現実逃避してアウトローに走る道は無いけど、私は今こうして増田に投稿できるし、このスマホを使って繋がろうと思えばいくらでも同じ穴の狢と出会えるだろう。執着も股を開く先も薬も楽に見つけられるかもしれない。だとしてもやらない。
だって嫌だ。絶対に嫌だ。子供の頃、あんなにも搾取されて利用されて奪われ続けていたのに、なんでやっと自由に選択できる大人になってまで他人の玩具にならなきゃいけないんだ。他人なんか金もらっても素粒子だって関わりたくない。大人になって自由に過ごせるようになって、家に籠もって好きなだけ本を読んで動画を見てゲームをして過ごしていられるのに薬なんかやってラリってる暇はない。袖振り合うことすら嫌なのになんでわざわざ人なんか傷付けなきゃいけなんだ。面倒くさいし疲れるし、何より傷付けるという行為が嫌だ。痛い思いはよく知ってる。なんでわざわざあんな思いを他人に強いる事があるんだ。他人を傷付けた所で自分の痛みが消えることは無い。かつて私を傷付けやがった奴ら全員がそうだったように、人を傷付けても自分の問題は何ひとつ解決しない。私の子供時代は無かったことにならないし、そもそも放っておいても人は死ぬ。私の鼻を折った叔父はガンで呆気なく死んだ。呑んだくれてうだつの上がらない兄もそのうち酒で死ぬだろうし、母もあと10年も持たないだろう。葬式挙げたくねぇな。拒否れねぇかな。同級生は知らんが性格が変わってないならそれなりに生きて苦しんでるだろ。性格変わってるなら昨今のいじめ問題ニュースを見ながら自分のしたことを時々は思い出して反省してるか怯えてるかもしれん。今のところそんな奴ら全部へ復讐に走る暇はない。時間の無駄過ぎる。人生なんて自分の快楽を追うだけで精一杯だ。
奴らを忘れられない、復讐しないと生きていけないというのなら私は命なんか要らない。他人にかかずらってまで、そんな面倒くさいしがらみに塗れて生きるくらいなら虹の橋を渡ってなけなしの来世に期待するほうがまだマシである。私は死後の世界なんか無いと思うけど、もしあったら神でも仏でもひと言物申させて欲しい。私の人生ハードモード過ぎるんだけど!!私、前世でユダか提婆達多かだったわけ?そうじゃないなら割に合わないんだけど!!!来世は良い思いさせろよゴラァ!!!せめて私を苛んだ奴ら全員地獄に落ちてないと悪魔崇拝者になるぞオラァ!なんて思うけど多分死んだ後は無だろう。意識が消えたらそこでおしまいだ。きっと死なんてものはテレビの電源がパッと消える程度のものでしかない。それ以上もそれ以下もない。ただ終わるだけのものだ。命なんてそんなもんだ。宗教なんてクソ食らえ。親に殺されそうになってる時すら助けてくれない神なんて祈る価値も無い。救うべき時に救ってくれなかったものを信じられるかボケ。
あーぁ。
なんで私は楽な方に落ちていけないんだろう。
彼らと私の人生に大して違いは無いだろうに。
ずっと考え続ける。いまでさえ。
騙されない程度には頭が良すぎたから?
人を傷付ける程には無情になれないから?
たぶんどれも違うかも。一番の理由はそれらを全部失えるほどには切羽詰まって無いからだろう。選択を選べるくらいには中途半端に肝が据わっていてマトモに生きれてるのが問題。実際19で家を出てからもう10年以上1人だけで生きれてる。すごくね? 定時制だったけど高校の学費も諸経費も自分のバイト代で払って卒業したし、バイト代貯めて卒業した日に家を出たし。それから誰からの助けも援助も貰わずに、テメエで真っ当に稼いで生きてきてるんだぞ。高卒で大してスキルも無かったから年収200万前後の仕事しか就けなかったのに。それでも誰の手も引かないから私は誰からも褒められないし知られない。それなのに胸を張って生きてる。誰も知らない、褒めない私の事を私は世界一誇りに思って愛している。それで充分だ。私はもう私以外要らない。灰になるまで独りで過ごしたい。私は他人に執着をするような人間にならない。きっとこれが第二の理由かも知れない。人間が嫌い過ぎて人恋しさを全く捨ててしまったんだろう。私は他人に何一つ求めない。生涯愛されたいとも思わないから生殖に執着することも無い。だから傷付ける事もない。だから私は無害と認定されて、マトモの世界のレールに乗っていられる。実際はマトモの空気に押しつぶされそうになっているけど。
これが一番キツい。ただ金を稼いで生きるだけならめっちゃ簡単なんだ。だけど真っ当な世界で真っ当に働こうとすると周りが皆、マトモなのだ。性格云々ではない。マトモな人でも性格がおかしいやつは沢山居る。だけど大人になるまでに培ってきたものが違い過ぎる。幼少期に当たり前に両親が居て虐待されずに育てられて、普通に大学まで通わせてもらって、自動車も免許代も苦も無く払ってもらうか一時的に立て替えてもらって、大人になっても実家で暮らしてられる。そもそもの思考がちゃんとマトモ。そういう人間達の中で私一人アウェー。当然昔の話など出来るわけもないし、仲良くなれる気もしない。それでも仕事に支障が出ると面倒だからちゃんとコミュニケーションはとる。広くて狭い社会では報連相が出来ないと仕事にならない。だから私は愛想良くして話しやすい人間のふりをする。すると相手は私を自分と同じ括りの人間だと思い込んで、自分のマトモな物差しで私と仲良くしようとしてくれるんだ。お気持ちは有難いが遠慮させてほしい。誰も悪くないけど私は誰とも仲良くなれないんだ。だってあなた虐待されて育ってないじゃん。貧困を知らないじゃん。「実家市内?なんで実家で暮らさないの?コスパ悪くない?」なんて悪気無く聞いてくる奴と同じ価値観でお話出来ねぇよ。
ここらへんで上手いこと線を引いてくれる人ばかりなら良いのに、それでもグイグイ来る人間もいるし拒絶されたと嫌う人間もいる。これが、ほんとに面倒くさいし大変。マトモな人達の常識で窒息しそうになる。窒息しそうになりながらマトモなフリをしてそれとなく無害なポジションを陣取って、陰口は叩かれようとも直接的な被害のない場所に自分の立ち位置を定めて円滑に仕事をする。職場で全く自分の事を話さないけど愛想が良くて話しやすい、でも積極的に連絡先交換とか一切しない人間が居たら私かも知れないから放っといてくれ。
毎日これを耐える事もなく同じ穴の狢で仲良くラリパッパ出来る奴らが本当に妬ましい。なりたくはないけど超気楽だろ。右を見ても左を見てもお仲間だらけ。それが良いか悪いかは置いておいて、さぞかし楽しいことでしょう。毎日頭空っぽでアヘアヘ騒いでりゃ簡単に時間を浪費して終われるわけだ。これで自分らは社会から疎外された被害者だとか言い出したら傑作。楽な方に転んで楽しんだのはテメェだろ。被害者ぶってんじゃねぇよゴミ。
結局私は落ちた奴らが羨ましいんだと思う。
でもお仲間になろうとは微塵も思えない。
私と同じやついない?どっち付かずのギリギリの所でマトモに生きようと足掻いてどうにか踏み止まってる奴。世の中絶対いると思うんだけど見つけらんないの。別に仲良くしなくて良いからさ、同じ穴の狢を見つけて安心させてほしい。
最短でかいつまむと、フェンダー社が、広く欧米のギターメーカーや小売店に対して「ストラトキャスターを模したギターの製造販売」の停止を命じるC&Dレターを送付しました。この行いに、今ギター業界全体が「エレキギターの文化を破壊する行為だ」と猛反発しています。
フェンダー社とは:エレキギターのパイオニアにして世界最大規模の老舗メーカー。現在一般的なエレキギターを初めて商業的に成功させました。
ストラトキャスターとは:フェンダー社を代表するモデルであると同時に、世界中で多くの模倣モデルや派生モデルを生んでいるエレキギターの大スタンダード(以下ストラト)。ジミ・ヘンドリックス、エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、スティーヴィー・レイ・ヴォーン、ナイル・ロジャース、コリー・ウォン、リッチー・ブラックモア、イングヴェイ・マルムスティーンなどなど、ストラトを愛しストラトに愛された大物ギタリストは枚挙に暇がありません。
C&Dレターとは:Cease and Desist Letter 知的財産侵害行為などの停止通告書。これじたいに法的強制力はありませんが、「言う通りにしないと次は訴訟だからね」という含みを持ちます。
ひどい要求です。
もちろんこんな極端で無茶な要求をそのまま呑める業者は世界中探してもひとつもありませんから、ライセンス契約なりロイヤリティの支払いといった条件交渉を個別に引き出すのが狙いでしょう。恫喝して無理やり交渉(しなくてもいいはずの交渉)のテーブルに相手を引きずり出すやり方はトランプ関税に少し似ています。
エレキギター界隈の事情にうとい人には、この問題がよくあるパチモン事案に思えるかもしれません。
しかし実際にはそんなに単純な話でもありません。というのも、ストラトのボディシェイプは、長い間パブリックドメインだったのです。
エレキギターと言えば「中央がくびれて2本の角が生えた、少し左右非対称の形」を思い浮かべる人は多いでしょう。あのありふれた(あまりにもありふれた)ギターの形がストラトです。
あの形のギターを誰でも自由に作って売ってよい状態が今日まで長く続いていました。皆さんもご存知の通り、今、ストラトにインスパイアされた形状のギターは世界中にあふれ返っています。
「長い間パブリックドメインだった」のならこのような要求はできないのでは? と思われるでしょう。ところがつい最近、事情が変わったのです。
フェンダーが理不尽な要求の根拠としているのが、今年3月にデュッセルドルフ地裁で出された裁定です。ストラトキャスターの形状には「応用芸術」としての著作権があるとする内容で、後ほどまた詳しく述べますが、この判決を足がかりにフェンダーはEU圏におけるストラト型ギターの販売を制限しようとしています。
ストラトは演奏性・メンテナンス性ともに非常に優れた設計を持つギターです。しかも法的に保護されていませんでしたから、大小さまざまなメーカーや工房がこぞって派生ギターを生産しました。
ストラトを改造するための多様な互換パーツも供給され、クラフトマンたちにも多くのノウハウが蓄積されました。そうするうちに「ストラト生態系」とでも言うべき巨大な文化圏が長い時間をかけて形成され、現在に至っています。
多くのギター関係者にとっては、ストラトという文化を「リスペクトをもって育ててきた」という自負があります。今やストラト形状というフォーマットは業界内のあらゆる文脈に組み込まれています。
ストラトを発明したことはフェンダーの偉業ですが、こんにちのストラト型ギターの繁栄はフェンダーのみで成し遂げたものではありません。
その果実を今になってフェンダー1社で独占しようなんて虫が良すぎる、アンフェアだ、訴訟する力のない小規模メーカーを恫喝で服従させるやり方はあまりに横暴だ、というのがギター業界やギターファンたちの怒りの正体です。「マンガの悪役のようだ」と表現する人もいます。
今回の争点はボディ、つまり本体の部分ですが、ヘッドの形状はきちんと保護されています。
ヘッド/ヘッドストックとは、ペグ(弦巻き取り器)などが取り付けられているギター上端部分。各社は独自のデザインを凝らしたりロゴを配置したりするので、出所識別力(どのメーカーの製品かを消費者に判断させる力)が高い場所です。
フェンダーもヘッド部分の立体商標は取得していて、「ヘッドの形さえ変えればボディはストラトでもOK」というのがストラト型ギターを製造販売する際のお約束になっています。
ストラトは1954年の発売当初に意匠特許が登録されましたが、有効期限は14年(当時)。失効したのはおそらく1968年頃。それ以後、ストラトの形状はパブリック・ドメインとなりました。
今の視点で見るといささかガードの低い対応ですが、当時の時代背景を知れば納得できなくもありません。
まず、当時の知財保護の範囲は今よりも狭く、また、社会の意識も低かったということ。商品名やロゴマークのみならず「製品の形状」を権利として保護する立体商標という考え方(トレードドレスと言います)がアメリカ社会に根付くのはもっとずっと後、90年代に入ってからのことです。
また、エレキギター業界はまだ発展期にあり、市場が未成熟だったこと。マニュファクチャラーはオリジナル製品を開発することには熱心でしたが、廉価な類似品で儲けようという業者が出てくるような土壌ではなかったでしょう。
ストラトの生みの親レオ・フェンダー自身がビジネスマンではなくエンジニアであったことや、1965年にフェンダーがCBSグループに身売りした後の経営環境が劣悪だったことなども、ストラト形状の保護が行き届かなかった要因に数えてよいかもしれません。
意匠特許が切れてから数十年間、ボディシェイプの権利は宙に浮いたまま野放しでした。フェンダーは2003年にストラトやテレキャス、プレベなどのフォルムを立体商標登録しようと試みましたが、時すでに遅すぎました。これに反対するメーカーが連帯して異議申し立てを行った結果、TTAB(アメリカ商標庁・商標審判部)は「もはや辞書の『エレキギター』の項目に絵が載るほど一般化している」として申請を却下しました(2009年)。
ブランド保護をヘッドデザインに絞り、ボディシェイプに関しては数十年にわたってコピーモデルを放置・黙認してきたツケが回ってきたかたちです。これにて、ストラトのフォルムは特許もなく商標もない、パブリックドメインであることが正式に確定してしまいました。
ちなみに、ギブソン社のレス・ポールも同時期にPRS社に対して同様の訴訟を行っていますが「ユーザーはギブソンとPRSを見間違うほど馬鹿ではない」という理由でやはり敗訴しています。
ドイツのデュッセルドルフ地裁で、ストラトの芸術作品としての「著作権」を認める判決が出たのです。
1万円ほどの廉価ストラトを作る中国の零細メーカーに対して起こした訴訟で、フェンダーはストラトが「応用芸術」である、と著作権を主張しました。被告の中国メーカーが出廷しなかったため裁判はデフォルト審理(欠席裁判)となり、フェンダーの言い分がそのまま認められてしまったのです。ちなみに、フェンダー側がストラトの芸術性を説明する際に用いた表現はたいへん詩的で、「ポエムw」と嗤われています。
フェンダーが各方面に送りつけたC&Dレターはこの既成事実を要求の根拠としています。
まだわかりません。C&Dレターの先にどのような世界を夢想しているのか、それについてギター業界で一致した見解はありません。EU圏内からフェンダー以外のストラトを完全に排除したいのか? EUでストラトを売るメーカーから少しずつ、あるいは高額なロイヤリティを徴収したいのか?
フェンダーが期待したかどうかはわかりませんが、少なくとも猛烈なバッシングという変化は現実に起こっていますが。
C&Dレターを受け取ったメーカーは、書面に従うか無視・拒絶するかを5月25日までに選択します。が、無視したり拒絶の返答をしたりしただけでは何も起こりません。何かが起こるのはフェンダーがそうしたメーカーを提訴した時です。フェンダーの「本気度」や「ターゲット」はその時にわかります。
C&Dを受け取ってビビッた何社かがストラト商圏から撤退するのを見て満足するのか、フェンダーの考える落としどころ(どこかはわかりません)に向かって徹底的に法廷で争うのかは5月25日以降の動向を見てみないとわかりません。
EU圏でのストラト型ギターの販売権については今のところデュッセルドルフ判決があるのでフェンダーが有利に見えます。しかしデュッセルドルフ判決は欠席裁判であり、きちんと証拠や主張を突きつけ合う審理を戦わせて得た裁定ではありません。フェンダー側の言い分がほとんどそのまま素通りしただけです。判例として後年の裁判に自動的に採用される判断ではなく、本気の弁護団がついてあらためて審理されれば覆り得ます。
私はファンアカウントを名乗っている。小説やイラスト、鉄道模型などを素人ながら楽しみ、時事の話題に気軽にコメントを添え、またブルーバッジを取得し収益化もしてはいる、実に取り留めのない雑多な所作ではあるが、このアカウントを運用する本質は自分の好きなもの、気に入ったものを推すことである。そのためにファンアカウントを名乗る次第である。
幸いなことにあらゆる分野で推しておきたくなるアカウントの数々に出会い、注目させていただいている。
歴史上の人物の名を借りたアカウントは数多い。その中でその人物になりきって見せる者も少なくない。このアカウントもその一つと言える。
諸兄もご承知の通り、三島由紀夫は戦後日本で活躍した文人であり、市ヶ谷にて衝撃の最後を迎えている。当然本人であろうはずはない。
その名を借りるは遊戯である。その遊戯を冒涜ととるか一興ととるか。それは見る者の判断であると同時に、そのアカウントを動かす人物の立ち振る舞い方による。
その意味でこのアカウントは面白い。 エックスにて氾濫する話題を、怜悧で瑞々しい刃のような文体で自分ごとなで切りにし文芸に落とし込む様は正に三島が再びこの世に生を得たかの様な夢幻を見せてくれる。
いや、人によってはこんなこと三島は言わない、言うわけがないと感じるだろう。それはそれでよい。この三島を名乗るアカウントが事実三島を現世に映し出しているか。実はそれは問題ではない。三島はこんなこと言わない、いや三島はこんなことを言うかもしれない、その問いが各自に芽生えた時点でこのアカウントの目的は達成されている。
私自身、実のところ三島に詳しいわけではない。その作品の全ては到底網羅しておらず、ただ少し齧って知識を得ているに過ぎない。そのにわかな知識の中にある、昭和の激動の時代の中、理想と現実、夢想と世俗の狭間で悶え苦しみ鮮烈に果てた文才のその面影を、私は彼の投じるポストの向こうに見るのである。これはこのアカウントを運営する人物の、三島への深い理解と愛なくして無し得ぬ業である。私はその想いに、そしてそれが紡ぐ出す文才に深い嫉妬と敬意を覚えずにはいられない。
私はあえてタイトルを「かたる」とした。「語る」でも「騙る」でも良いのだ。このアカウントに三島を見る。このアカウントと共に三島を偲ぶ。いずれにせよこれは遊戯である。知的で、文学的で、なによりいかにもエックスらしい遊興なのだ。
さて、このアカウントの本領。それはやはり飯である。腹を切って果てた三島が腹を満たす画像を投げ、言葉を綴る。これはあまりにも皮肉で、あまりにも正直で、あまりにも雄弁な抒情詩である。その比較的裕福な経済状況を伺わせる外食の膳を日々投げてくる。鋭利で繊細な言葉と共に。もはや日々の楽しみですらある。
私はその言葉に刺激を受け、引用して言葉を紡ぐ。三島の言葉が私の中で響き、反射される。これは闘歌だ。刃の如き言葉で飯を歌われれば、こちらも言葉の刃をもって鍔迫り合いをしたくなる。返歌をせざるを得なくなるのだ。あるいは文人を気取り賢しい言葉を並べ立て、あるいは言葉を失い素直に感嘆する。これもまた、ささやかな遊戯である。
しかしてこの三島、そんな私の遊戯に付き合い、私の引用にいいねを押してくれる。義理かもしれない。しかし無視ではない。この文才に微かでも私の存在を知らしめた事実に、恥ずかしながら酔う。
しかもこの三島、恐ろしいことに私の別のポストも時としていいねを押してくれる。それも義理かもしれない。軽薄な私はますます浮かれる。令和の三島はなかなか気さくである。
このあたり、三島の面影という仮面の奥にある、アカウントを運営する人物の人柄が透けて見える。飯のポスト、そして様々な話題へのコメント。そこからはこの人物の、飯に喜び、子供を慈しみ、人の弱さに寄り添い、それでいて悪と怠惰を憎む。そんな厳しくも優しく、そして心と言葉を大切にする人となりが朧気ながらに感じられる。ただの飯テロ垢ではない。
そして今一度正直に言う。私がこのアカウントに真っ先に感じたのは嫉妬である。様々な話題から人の宿業を深掘りできる視点と文才。それそのものに私は激しく嫉妬する。嫉妬は憧憬であり、目標である。雑多な話題を扱うアカウントとして、趣味とはいえ文章による創作を愉しむものとして、私はかくありたいと思えるアカウントに出会ったことを、ことのほか慶ぶのである。
私と同じくこの三島のアカウントに惚れた方々の共感を得られれば幸いである。これまで三島のアカウントを知らなかった方々にその魅力が伝われば幸いである。そしてこの記事を、三島由紀夫をかたるアカウントに、捧げるものである。
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虎之助は私の家の近くに住んでいる。近くに、というのは昼の言葉で、夜になるとその近さは少し別のものになる。夜の道は、角をひとつ曲がるごとに距離ではなく気配を増してゆくからで、舗道に落ちた街灯の白さも、建物のあいだに沈んでいる暗がりも、どこまでが町でどこからが胸のうちなのか、曖昧になる。そういう道を彼がこちらへ歩いて来るのだと思うと、私はまだ戸も鳴らぬうちから、部屋のなかにいて部屋のなかにいない。心はいつも少し先に出ていってしまう。窓のほうへ、廊下のほうへ、まだ見えない一つの輪郭のほうへ。
最初は文字だった。文字は顔を持たない。だから、かえって多くを持つことがある。夜更けに画面のなかへ浮かぶ短い文、送り終えてから、言いすぎたわけでもないのに、少しだけ本心に触れすぎたような気のする言葉。ヒーローのこと、全身を覆う布のこと、顔を隠すこと、輪郭だけになれること。ほとんど冗談のように始まりながら、その実、冗談では収まりきらぬ熱をかすかに含んでいる話。そういうものの行き来のなかで、私たちは知ったのだった。互いが驚くほど近くに住んでいるということを。近いと知ることは、親しさを深めるより先に、むしろそれを危うくすることがある。遠くにいる相手には許される夢想も、近くにいると知った途端、あっけなく現実へ引き戻されるからである。それでも、その近さは恐れより先に、静かな期待を部屋の隅へ置いた。
会うためには約束があった。約束というより、二人のあいだに自然に張られた薄い膜のようなものだった。会うときは、お互いに全身を覆うものをまとい、ヒーローの姿でいること。顔は見せないこと。見ないこと。そのようなことを昼の世界の言葉で説明しようとすると、たちまち理屈が寄ってきて、それを奇妙だとか、倒錯だとか、遊戯だとか、そういう名で固定したがる。けれど夜の部屋のなかでは、それはもっと静かで、もっと切実なものだった。全身を覆う布は、隠すだけではない。隠すことで、かえって輪郭を与える。顔という、もっとも日常的で、もっとも騒がしい部分が退くと、人は不思議なほど静かに一つの姿になる。肩、胸、腰、脚、その線だけが、もう説明を必要としない何かとして、そこに立つ。
私は長く、顔というものに疲れていたのかもしれない。顔は人を社会へつなぐが、同時に測られるものにもする。年齢、気分、倦み、虚栄、そして、その日一日をどうにかやり過ごしてきたという疲れまでもが、顔のまわりには集まっている。人は素顔で人に会うとき、じつはもう半分ほど説明してしまっている。だから、顔を見ないことに安堵がある。見られないことに、ではなく、見ないでいられることに。相手を現実へ引き戻さぬで済む。日常の名札を胸から外したまま、もう少し別の場所で向き合うことができる。
戸の向こうに彼が立つ、その前の、まだかすかな気配だけで、部屋は少し深くなる。灯りは同じはずなのに、壁の色まで変わるように見える。床は少し音を吸い、窓は外の光を遠ざける。私は立ち上がる。自分の身体もまた、もういつもの身体ではない。全身を覆うと、皮膚は皮膚であることをやめ、別の表面へ移ってゆく。ぴたりと沿う布の緊張が、身体にひとつの意志を与える。あるいは、意志の代わりをする。日常の私は、ともすれば散らばっている。視線の置き方も、手のやり場も、言葉の選び方も、みな半歩ずつ遅れる。けれど全身を覆った身体は散らばらない。少なくとも、そのように見える。人はときに、そう見えることによって初めて救われるのだろう。
彼もまた、そうなのだと思う。虎之助は若い。若いということは、まだ損なわれていないということではなく、むしろ損なわれやすいということだ。何かを美しいと思う心がまだ生きているぶんだけ、傷つきもする。彼の好奇心は旺盛だが、けっして乱暴ではない。人の心へずかずかと入っていく若者もいるが、彼はそうではない。触れてよいかどうかを、まず空気に訊いてから手を伸ばすような慎みがある。しかも、それが計算ではない。自然なのだ。相手の沈黙に、沈黙のままで居場所を与えることのできる若い人間は稀である。虎之助は、その稀なほうに属している。
彼が部屋に入ってくる。顔はない。少なくとも、顔と呼ばれるべきものは布の内側へ退いている。それでも彼だとわかる。立ち方で、こちらへ身体を向ける時の角度で、沈黙のなかに置かれる呼吸の速さで。人は顔で識別していると思い込みがちだが、ほんとうはもっと別のもので相手を知っているのかもしれない。重心の置き方。ためらいの深さ。こちらの存在をいったん受けとめてから、一歩入ってくるその静かな配慮。そうしたものが、彼を彼として部屋に現れさせる。顔をなくしたことで、むしろ彼の身体は、より彼らしくなる。
私たちはスパイダーマンが好きだった。それも、ただのヒーローとしてではなく、どこかもっと身体に近いところで。最初にそれを知ったのが文字のうえだったのか、それとも会うようになってからだったのか、今ではもう曖昧である。ただ、『スパイダーバース』の話をするとき、彼の言葉の調子が少し変わることは知っていた。軽くなるのではない。むしろ、奥のほうでひそかに熱を持つ。あの映画には、跳ぶ前のためらいがある。まだ自分を信じきれない者が、それでも落ちながら跳ぶ、その矛盾がある。何人ものスパイダーマンが、それぞれ別の傷や別の喪失を抱えたまま、なお一つの輪郭へ集まってくる。マスク。全身を覆うスーツ。若さ。孤独。軽やかさと哀しみが同じ身体のうえにあること。私たちはたぶん、その全部に惹かれていた。単に格好いいからではない。未完成なまま跳ぶ者の姿に、自分の何かが映っていたからだ。
全身タイツとヒーロー。その二つのあいだには、もちろんフェティシズムがある。そうでないと言えば、むしろ偽りになるだろう。布が身体の線を隠しながら示すこと。顔を失ったことで、かえって身体そのものが前景へ出てくること。人格が退き、姿だけがひとつの記号のように立ち上がること。そのことに私たちは心を動かされていた。だが、それは単なる肉体への興奮だけではなかった。肉体が理想へ近づく、その曖昧な途中に惹かれていたのだと思う。人間でありながら、少しだけ人間を離れる。個人でありながら、少しだけ象徴になる。ヒーローの身体とはそういう身体で、素顔よりも深く、その人の希求を語ることがある。虎之助がそれを愛したのは、若い肉体の誇りのためというより、まだ言葉にしきれない自分の願いを、その姿のほうが先に理解してくれるように思えたからではないか。
沈黙がある。沈黙は空白ではない。沈黙は、彼がいま部屋のどのあたりにいるかを、言葉よりも正確に知らせる。少し動く、その微かな擦れ。立っている時の静けさ。こちらが何か言う前に、一瞬だけ深くなる気配。そうしたものが、部屋の中で小さな波紋をつくる。親しさというものは、長い会話の末に生まれると人は考えるが、実際には、相手の沈黙が自分を脅かさないと知ったときに、すでに始まっているのかもしれない。彼といる沈黙は、私を急かさない。彼の若さは、私を若返らせるわけではないが、私の中の、まだ完全には乾いていない場所へ、そっと手を置く。
私は彼を見る。見る、といっても、顔ではない。首から肩へ下る線、胸のあたりの、まだどこにも使い切られていない余白、立っているだけで未来というものが一つの形を取っているように見える、その若い静けさ。若い身体には、まだ失っていないものが宿っている。可能性という言葉は安易すぎるが、それでも、完成されていないことがそのまま美しさになる瞬間がある。私は彼を見ている自分に気づく。気づいて、それを押し返さない。押し返すとたぶん、別の粗いものになるからだ。愛情と言ってしまえば少し平たく、欲望と言ってしまえばまだ響きが強すぎる、もっと薄く、もっと持続するものが、視線の中には混じっている。たとえば、若い肩の線を見て胸の奥がわずかに緊張する、その程度の、しかし否定しがたいもの。
彼もまた、感じているのだろう。若い者は、向けられる気配に敏い。露骨な視線よりも、抑えられた気配のほうに。彼は自分がこの部屋で、ただ受け入れられているだけではないことを、どこかで知っていたかもしれない。もう少し静かで、もう少し名づけにくいかたちで、見守られ、喜ばれ、そして少しだけ見惚れられていることを。だがそのことが彼を怯えさせなかったのは、たぶん、それが所有の欲ではなく、輪郭を尊ぶ気持ちに近かったからだろう。彼のこういう姿がここにあってもよい、そのことを急いで説明も判断もせずに、ただ部屋の内側で保っておくこと。それだけで若い心は、少しずつ自分を赦し始める。
虎之助は少しだけ自信がない。その少しだけ、という加減が、彼をいっそう美しくする。自信のなさはしばしば、世界に対して耳を澄ましすぎる者の徴でもある。彼は自分の好きなものを口にするとき、一瞬だけ呼吸を整える。スパイダーマン。スーツ。マスク。『スパイダーバース』。そういうものに自分がどれほど惹かれているかを言う、その直前の、かすかなためらい。私はそれを知っている。知っていて、それを暴かない。だが最近、彼は少し変わった。変化はいつも小さい。部屋に入ってくる時の気配が、前よりわずかに深く呼吸している。好きなものの話をする時、恥じる前に、先に明るさが差す。自分の惹かれるものを、前ほど早く自分で裏切らなくなる。人が自分を肯定し始めるとき、たぶん最初に変わるのは言葉ではなく、身体のほうなのだ。
彼が私と会うことで少しずつ自分を肯定してゆく、と言うことはできる。だが、それは私が何かを教えるからではない。むしろ逆で、教えないこと、名づけないこと、強い光を当てないこと、その曖昧さの中でしか育たない肯定がある。若い心は、あまりに明るく照らされると、すぐにぎこちなくなる。けれど、薄い灯りのなかでは、自分の輪郭を自分で見つけることができる。私は彼にとって、その程度の灯りであればよいのだろう。いや、その程度であることのほうが、たぶん大切なのだ。彼の若さは、私の失ったものを責めない。ただ、まだこの世界に残っていると言ってくれる。そのことが、私にとっても一つの静かな救いである。
もしこれが友情であるなら、それでいいのかもしれない。だが夜の部屋で、顔のない彼の若い輪郭を見ているとき、私の中を流れているものは、友情という語だけでは少し狭い。性愛と言えば強すぎるが、そこへまったく触れていないとも言えない。ヒーローの姿をした二人のあいだにだけ生まれうる、どこか宙吊りの、どこか非現実で、それゆえかえって切実な親しさ。スパイダーマンのスーツのように、隠しながら示し、示しながら守るもの。彼の立つ姿、沈黙のなかの呼吸、言い切られない熱。それらは名づけられずにいることで、かろうじて壊れずにいる。
虎之助は私の家の近くに住んでいる。けれど、ほんとうはもっと内側の、私が長く口にしなかった願いのそばに住んでいるのかもしれない。人前では笑ってしまうしかない憧れのそばに。マスクとスーツに守られたまま、まだ跳ぶことを諦めていない心のそばに。彼は若く、純粋で、慎み深く、人の心を大切にする優しさを持っている。そういうものは世界のなかで傷つくだろう。だが、もし彼がこれから少しずつ、自分の好きなものを好きだと言い、自分の輪郭を恥じずにいられるようになるなら、そのことは私にとってもまた、静かな光になる。窓の外には海は見えない。けれど夜の部屋には、たしかに潮のようなものが満ち引きしている。私たちはその見えない潮に触れながら、顔を見ないまま、ひとつの部屋にいた。そしてそのことが、言葉になるより先に、私たちのなかの何かを照らしていたのである。
俺たちが現実世界で仕事に依存して暮らしているように、使徒とエヴァありきの世界でそれを受け入れて暮らすってのいうのはある意味一つの悟りなんじゃないかね。
何かに夢想するのも悪くないけど、仕事にしろ使徒にしろ目の前にある現実からは逃れることはできず、それを受け入れて自分自身で運命を切り開いていくという
昭和左翼の誤りの一つは、WW2で大日本帝国に反抗したかった、という夢想が強すぎるせいで、
女性との接点もないのに女性を憎む男性の心理構造について、三点に分けて分析する。
一点目、個人心理だ。このタイプの男性に共通して見られるのが「自分は本来もっと報われるはずだ」という感覚である。能力や努力に見合った承認、地位、異性からの好意が得られていないという不満が根底にある。ここで重要なのが投影のメカニズムだ。自分が満たされない原因を内側に求めると自己否定になる。それは苦しいので外側に原因を求める。女性優遇やフェミニズムが「自分の正当な取り分を奪っている」という物語が非常に都合よく機能する。
さらに三つの歪んだ認知が重なる。一つ目は女性を報酬として客体化する認知だ。学歴、職歴、収入を積み上げれば対価として魅力的な女性が手に入るはずという感覚で、女性を人間ではなく社会的成功に付随するトロフィーとして認識している。二つ目は努力の種類の混同だ。学業や仕事の努力は正解のある問題を正しい手順で解く能力だが、人間関係の努力は相手を観察して相手に合わせて変化し続ける全く別のスキルだ。前者だけ鍛えて後者を「やったことがない」のに「努力している」と感じている。三つ目は女性との関係が万能の解決策だという誤認だ。自信のなさや社会的不満の根本原因に向き合わないための回避として異性関係を夢想している。だから仮に関係が成立しても解決しない。そして解決しないことへの怒りが女性に向く。
この歪みはどこから来るのか。まず「知らない」問題がある。男性同士の友人関係は作れても女性との友人関係の作り方が分からない。異性との距離感の調整を学ぶ機会がないまま適齢期になる。次に「知ろうともしない」問題がある。少し興味が出てきて情報を集めようとするものの、すぐに「モテたいなんて軟派だ、情けない」という感覚が邪魔をする。そしてありのままの自分が受け入れられる物語に心酔し、現実の女性の現実的な態度を「いじわるな障害」くらいに捉えて、自分を押し付けるコミュニケーションだけを繰り出し続ける。
二点目、「ありのままでいい」という罠だ。この問題は個人心理と社会構造をまたぐ独立した節として論じる必要がある。
そもそも「素直さ」という言葉が誤読されている。本来の素直さとは社会的規範を摩擦なく受け入れ、期待されたロールを演じられることだ。しかし字面の雰囲気から「自分の感情に正直であること」と誤読すると、欲求を抑制しないことが美徳になる。他者への配慮や自己変容の努力が「無理してる、素直じゃない」に見えてしまう。この誤読が幼児教育の段階で修正されないまま大人になる人間が一定数いる。
人間社会では実際には誰もありのままでは生きていない。ペルソナの形成と社会的期待への適応は、人間が集団生活を営む以上避けられないコストだ。だからこそ「そのコストを払わなくていい」というメッセージには強烈な引力がある。スピリチュアルビジネスや一部の宗教がこのメッセージを多用するのはそのためだ。「ありのままのあなたを受け入れます」というテイで儲けるビジネスモデルは、努力の回避を正当化するイデオロギーとして機能する。自己変容の努力を「無理している」と定義し直すことで、顧客を永続的な依存状態に置くことができる。
三点目、社会構造だ。個人の歪みは真空の中では生まれない。それを生み出す環境がある。
まず前時代的な男性性規範の問題がある。「男は感情を見せるな」「弱音を吐くな」という規範が、感情処理や他者への共感を学ぶ機会を奪ってきた。セルフケアや感情の言語化は元々男性にとって苦手な領域でもあり、女性に比べて著しく遅れている。感情の語彙が貧困なまま大人になると、自分が傷ついていることも相手を傷つけていることも言語化できない。
次に上下関係を重んじる男性的な社会規範が女性蔑視に直結する問題がある。上下関係を絶対視する価値観は、女性を下位に置く差別感情と親和性が高い。そして「下位のはずの存在が従わない」ことへの怒りを生みやすい。さらに誤った男性性を男性同士で賛美する文化が、女性蔑視の発生源になるとともに、セルフケアや感情の言語化といった「女性的」とみなされる文化の軽視につながっている。
経済的な問題については、貧しいこと自体が問題なのではない。問題は世代間格差と階級間格差の拡大、そして経済力が男性の魅力に直結してしまう構造の合わせ技だ。時代に恵まれなかった世代と好景気を経験した世代が混在し、経済力と社会的地位を持つ者が高学歴・富裕層同士の人脈を形成して女性にもモテる「何でも持っている層」になる一方で、経済力にも地位にも周囲の大人にも恵まれず学歴も人脈も形成できない「何も与えられない層」が生まれる。この二極化の中で「何も与えられない層」の男性は、正当な怒りの矛先を見失う。
ではなぜその怒りが女性に向くのか。ここが核心だ。
彼らは男社会のヒエラルキーの中で負けている。しかしそのヒエラルキー自体を疑う言語を持っていない。内面化しすぎて空気のようになっているからだ。だから上位の男性への怒りは「あいつが正当に勝った、自分が負けた」という敗北として処理される。ルールそのものへの疑問にならない。
ところが女性はそのゲームのプレイヤーですらない。男社会のルールで測れば「弱い」はずなのに、そのルールの外で生きている。しかも自分の意見を持ち、好き勝手に生きて輝いている。これは彼らの世界観を根底から揺るがす存在だ。「弱者は虐げられるべき、黙って耐えるべき」というルールを自分に適用して屈服してきたのに、同じく「弱い」はずの女性がそのルールに従っていない。羨望と憎悪が同時に発生する構造がここにある。
そしてもう一つの点がある。彼らにとって「女社会は男社会より下にある」という認知は心理的な命綱だ。男社会のヒエラルキーでどれだけ負けても「女よりはマシ」という最後の砦がある。フェミニズムや女性の地位向上はその命綱を切りにくる動きに見える。既に強い男性から奪われ続けている彼らにとって、更に「弱くて地位が下のはずの女」からも奪われることは我慢ならない。怖くて泣きたいほどの危機感がある。しかし男性性規範を内面化しているから泣くことすらできない。出口を塞がれた感情が女性への嫌がらせとして噴出する。
女性と接点もないのに女性を憎む男性は、実は女性を見ていない。男社会のルールに縛られ感情の言語を持たず、ありのままでいいという甘い嘘に絡め取られ、格差に翻弄され、自分が屈服したルールに従わない存在への羨望と恐怖を憎悪に変換している。彼らが攻撃しているのは女性ではなく、自分が直視できない自分自身の惨めさだ。
だからといって彼らの行為が許されるわけではない。嫌がらせを受ける女性には何の責任もない。しかしこの構造を理解せずに個人の悪意だけを非難しても、問題は解決しない。誤った男性性規範を再生産する文化、感情教育を怠った社会、格差を拡大させた経済構造、これらが変わらない限り同じ男性が量産され続けるだろう。
それ故にサヨクのいう「高市政権を支持したら戦争になるとか徴兵制が復活する」といった意見は陰謀論と変わらず噴飯物でしかない。
これはどのようにしてそうなるのか説明されていないから当然であるけども。(説明可能なら説明してみて欲しい)
一方で現在のアメリカの狂気を鑑みると日米同盟が唯一無二の素晴らしいやり方であると考えるのも、サヨクと変わらないくらいお花畑思考であると考えざるを得ない。
米国と同一視されることで、米国よりも格段に警戒が薄い本邦で9.11のようなテロを起こされるなどのような、同盟国を報復として狙うということもありうるのかもしれない。
今回の件でトランプの蛮行を明確に非難できないのは我々にとって米国との軍事同盟が未だに生命線であるからである。
憲法9条はとても尊いものだが9条が侵略されずに済む盾であるという思考は流石にお花畑である。
我々は米国という用心棒の上で平和を享受している。これに異論を挟む左派は流石に少数派であるとは思うが。
チャイナリスクは織り込んでいるのにアメリカリスクは軽視してきたのが今までの日本や西側諸国であり、これから考えないといけないことなのは間違いないだろう。
まずは防衛費を増強して日本単体での抑止力を確立し、米国を欧州各国と同程度の連帯国家と位置づけるのが理想ではないだろうか。これならかなり独自の方針を貫くことができるだろう。
今回のようにコメントを控えずにイスラエルや米国に対しても対等に自国の意見を述べやすくなる。(しかし怒って関税掛けるとか言い出すから、やはり刺激しないという結論もあり得るが)
独裁国家による市民虐殺は当然許されざる蛮行であるが、国際法上は他国がそれを武力で解消するべきではないのである。
よってイランの件は日本における一般的な人たちは「独裁国家による虐殺も許容できないが、さりとて国家が軍隊を利用して介入するのも誤りである」と考えているだろう。
これは単純な善悪では語れない。強いて言うならどちらも悪。そういう話であるからだ。
現時点では、残念ながら国境という境界線があり、生まれた場所で人生がある程度決まってしまうのだ。
ジョン・レノンがこの世を去って40年余り、いまだに世界は国境があり、その線の内外でいがみ合っている。平和な世を夢想はするが現実はかくも無慈悲である。
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一部誤読もありそうなので補足。
日米同盟は「唯一無二の素晴らしいやり方」ではないだろうが、以前の日本が取れる選択肢では最良だったろうし、今でも妥当な選択肢の一つではあろう。完全に否定したい訳ではない。盲信するなという話ね。
あと、日本単体でもある程度の抑止力になると言っても、結局は核兵器の有無は抑止力としての重要事項であるから、日米同盟は今後も必要である。
では何を言いたいのかというと、単に他の国とも同盟を強化してアメリカだけに頼らない(横並びにできると最良)という状況にしておき、アメリカとの同盟を失ったら即侵略されるというような事態を避けるのが良いと考えているだけである。
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アジア版NATO構想への言及があったので、これも指摘しておきたいが俺としてはアメリカリスクを軽減する必要があるってことであるが、アジア版NATO構想は米軍の核兵器を融通して貰うという寧ろ多国間でアメリカ依存になる方式であり、筋としてはイマイチなのよね。
もし米英仏の三国を巻き込めたならリスクヘッジになるけれども、石破氏の案では米国のみだったのでそれでは意味がない。
寧ろ仮に攻めやすい小国を中国が狙った時に日本が集団自衛権を発動せねばならなくなり、米国がカバリングしてくれないとジリ貧になるから日米同盟よりも格段に筋が悪いのかなという認識。
しかし自分にはよくわからないけれども左派は石破氏が好きだよね。与党内野党とか言われても安全な位置から色々と物申すだけで、総理になっても実行力がなく国民から見放された政権なのに。
僕は今、温度を0.3度下げた自室でこれを書いている。
理由は明白だ。思考効率は体感ではなく、再現可能な条件で管理されるべきだからだ。
ルームメイトは「寒い」と言ったが、それは彼の主観であって、最適化問題ではない。
今週は超弦理論の非摂動的定式化について、従来のAdS/CFT的双対性をいったん横に置き、より抽象的な∞-categoryレベルでの再記述を試みていた。
物理はしばしば計算可能性に甘える。しかし僕が欲しいのは、計算結果ではなく、構造そのものだ。
特に、Riemann hypothesisとphysicsの接点を、Hilbert–Pólya型のスペクトル解釈を超えて、より高次のコホモロジー的枠組みに押し上げられないかを考えている。
ゼータ関数を単なる複素関数として扱うのではなく、ある種のderived moduli stack上のtraced monoidal endofunctorのスペクトルデータとして見る。
もし零点が自己共役作用素の固有値であるという古典的夢想が成立するなら、その作用素は単なるヒルベルト空間上のものでは足りない。
むしろ、spectral tripleを∞-topos内部で構成し、そこにmotivic cohomologyが自然に埋め込まれるべきだ。
僕の暫定的なworking theoryはこうだ。弦の世界面の量子揺らぎを数えるパーティション関数は、ある種のL-functionのcategorified shadowに過ぎない。
つまり、弦理論は解析的整数論のdecategorifiedな投影だ。もしそうなら、Riemann零点の臨界線上への配置は、物理的には“unitarity constraint”の反映である可能性がある。
ウィッテンでも即答できないだろう。たぶん彼は笑って「interesting」と言う。だが僕は笑わない。証明が欲しい。
今日の具体的成果は、derived category of D-branes上の自己同型のトレースを、形式的にゼータ型生成関数へ落とし込む構図をメモにまとめたこと。
問題は収束性ではない。意味論だ。物理量がどの圏の射として存在しているのかを確定しなければ、議論は砂上の楼閣になる。
隣人が「深夜に何をぶつぶつ言っているの」と壁越しに言ってきた。僕は「functional integralの測度の取り方について再検討している」と答えた。沈黙が返ってきた。会話の終了条件としては合理的だ。
友人Aは昨日、量子コンピュータで乱数を生成して宝くじを当てる方法を考えているらしい。
僕は説明した。量子乱数は確率分布を保証するが、期待値は上がらない。彼は納得していない。
友人Bはそれを聞きながらインド料理のメニューを眺めていた。彼の注意は常に分岐している。
僕の習慣について。
木曜日は理論物理の未解決問題だけに触れる日だ。証明済みの定理には触れない。
歯ブラシは左から三番目を使用。ノートは常に青インクで定義、黒インクで定理、赤で誤謬。
誤謬が増える日は良い日だ。仮説空間が広がっている証拠だからだ。
これからやること。
弦のモジュライ空間のコンパクト化を、Arakelov幾何の視点から再定式化するメモを書く。
その後、ゼータ零点とworldsheet genus展開の間に、何らかのtrace formula的対応がないか、Hecke作用素を経由して検討する。
もしそこに対応が見えれば、Riemann hypothesisは数論の問題であると同時に、量子重力の整合性条件になる。壮大だが、現時点ではworking theoryに過ぎない。証拠はまだない。