日本人のシベリア抑留と海外からの引き揚げの史実を継承してきた京都府舞鶴市の「舞鶴引揚記念館」。前回は、太平洋戦争終結から80年が過ぎようとする中で、多くの課題に直面していることを報告した。後編では、昭和の記憶をいかにとどめるか、その方策を模索する姿をリポートする。(時事通信解説委員 宮坂一平)
去り行く体験者、代わりに伝えてほしい
舞鶴引揚記念館は、来館者が平成21(2009)年にピーク時の半分になり、岐路に立たされた。有識者や抑留体験者、市民らでつくる記念館あり方検討委員会が設置され、検討が行われたが、答申は、平和の大切さを教えてくれる施設は平和が当たり前の世の中だからこそ必要との内容だった。
ただ、運営は従来の指定管理者ではなく、市がしっかり向き合うために、原点に戻って直営化すべきと指摘。時代に逆行する形で民から官に戻したのだという。
所在地も議論になった。市のアンケートで、「駅から歩いて行けない」「中心部に移せばもっと人が来やすい」といった声もあったが、「あの場所にあるから意味がある」との意見もあり、移転は具体化しなかった。
記念館は丘陵地の引揚記念公園内にあり、周囲には「岸壁の母」の歌碑などが点在。展望台の眼下には、静かな平湾の浅瀬に面して引揚桟橋が復元されている。利便性だけを理由に移転していたら、歴史の空間的な一体性は損なわれていただろう。
さらに深刻なのは、市内の引き揚げ体験者も少なくなったことだ。今年1月15日、シベリア抑留を体験した安田重晴さんが103歳で亡くなった。二十歳で舞鶴から出征し、ソ満国境の警備に従事。終戦後は収容所を転々とし、森林伐採の労働を経験していた。
記念館の開館後は、10年近く講演会や語り部活動を行った。安田さんを最後に、舞鶴で自らのシベリア抑留を語る人は他にいなくなってしまったという。
そうした体験者らが70代や80代となり、記念館に通うのが難しくなったころに、市が始めたのが「語り部養成講座」だ。「このままでは語り部が途切れてしまう。自分たちの代わりに歴史を伝えてくれる人を」という切実な願いを受けてのことだった。
第1回は平成16年に開催。講座を修了した人たちが会をつくり、NPO法人化したのが「舞鶴・引揚語りの会」だ。メンバーは現在78人で、平均年齢は66歳という。
講座は一時中断したが、再開後の平成28年度に、初めて市内の中学校の女子生徒3人が応募してきた。それを機に翌年、NPO法人とは別に「学生語り部」が誕生した。次世代への継承を次世代自らが担い、市も育成していくという試みだ。
現在は中学生21人、高校生19人、大学生5人の計45人。館内の案内や説明のほか、平和学習で来館する市外の中高校生らとの交流なども行う。
語り部養成講座、今年度は学生11人
今年度の語り部養成講座には、一般の部と学生の部にそれぞれ11人が応募。1月から3月にかけ、前者は6日間、後者は5日間受講した後、修了書が渡される。講座は市が主催し、NPO法人が実施する。
学生を対象にした第2回の講座が開催されるというので、見学させていただいた。この日は、近代史やシベリア抑留、引き揚げがテーマ。小学6年から中学2年までの11人が四つのテーブルに分かれて座り、そこに先輩の学生語り部がサポート役で入った。
講師は館長補佐の山下美晴さんだ。引き揚げとはどういう意味か、戦争が終わった後に海外のどこから日本人が帰ってきたか、旧満州はどこにあり、どういった職業の日本人がいたのか。スライドを使って説明する。
「旧ソ連軍から『トウキョウ・ダモイ(東京帰る)』と言われて兵隊さんたちは日本に帰れると思っていましたが、どうなりましたか」。山下さんが問い掛けると、「別の所に連れて行かれた」と答えが返ってきた。
「日本に帰らずにソ連に強制的に連れて行かれていろいろなことをさせられる。それをシベリア抑留と言います」
「第2次大戦で一番人が亡くなった国はどこですか」「抑留中にどのような食べ物を食べていましたか」。質問形式で講義は進む。
「約60万人の抑留者のうち1割の6万人が、日本に帰ることなく亡くなったと言われています。皆さんが覚える数字としては60万人と6万人。この数字を記念館として伝えています」
そして、引き揚げ港舞鶴が13年間に66万人を受け入れたこと、ぼろぼろの服を着て帰ってきた人たちに「ご苦労さまでした」と市民が手を振って迎えたことを来館者に伝えてほしいと語った。
この後、受講生は展示室に移動。先輩のアドバイスを受けながら、自分が語るための資料を探して原稿を作り、それぞれ発表を行った。シベリアでの生活や舞鶴のおもてなし、白樺日誌、抑留者の心の支えとなった犬の「クロ」などが取り上げられた。
先輩語り部からは、「最初は(来館者に)声を掛けるのが怖かった。でも、やっているうちに声を掛けたくなる」「自分の思いを伝えることが一番人の心に響く」など、励ましの言葉が掛けられた。
館にとっての「車の両輪」と「希望」
閉会後、受講生に感想を聞いてみた。小学6年の池田莉奈さんは、秋祭りで地域の歴史を知る機会があり、引き揚げの歴史も勉強したいと思って応募したという。「全然知らないこともあるし、勉強しないといけないなと思いました」。同学年の宵田斗貴君は、「ふるさと学習で記念館に来て興味を持った。シベリアの過酷さを伝えたい」と話した。
莉奈さんの姉で高校1年の実奈さんは、学生語り部3年目だ。「来館者の方から質問をいただいたり、感謝の言葉をいただいたりした時が一番楽しい。大人の語り部さんからはアドバイスをもらっています」
斗貴君の姉で中学2年の紗良さんは語り部1年目で、入ったきっかけは兄が既に活動していたからだという。兄の琉偉さんは高校1年。中学の時、先生の勧めで友人と男子の学生語り部第1号になった。「地元の特色ある活動ができることは誇りです」と話した。
もともと歴史が好きな高校3年の平野星那さんは3年目。館内展示の中では、引き揚げ者に対する舞鶴のおもてなしの説明が最も得意で、こだわりを持って話しているという。
「体験者の方から実際に話を聞かないと、自分の語りにリアリティーが出ない。市内に住む抑留体験者の自宅にうかがい、お話を聞かせていただいたことがありますが、そういう機会は本当に少なくなってきています」
この春、青森県の弘前大学に入学し、博物館学を学ぶことになっている。博物館が地域にどう関われば社会的な役割を果たせるかを研究するのが目的で、語り部活動の帰着点でもあるという。
「大人の語り部さんも高齢になり、後継者もあまりいないようです。体験者から話を聞いたのは私の世代が最後かなと思っており、将来は舞鶴に帰って関わり続けたいです」
語り部とは何か、改めて山下さんに尋ねてみた。「大人の語り部さんは記念館にとって車の両輪です。展示資料だけでは関心が高まらない。そこをフォローしてくださっている。その二つがあって、継承がより効果的にできると思っています」
では、学生語り部はというと、「希望です。昭和は遠くなり、令和の時代ですが、少し先で光ってくれているので、私たちも走って行ける原動力というか。活動を継続していける希望じゃないかと思います」と話してくれた。
受講生は3月末に最終確認を経て、記念館の学生語り部として登録されることになる。
史実を絶対に風化させない
取材の最後に、鴨田秋津市長(43)にインタビューした。
―引揚記念館はどのような位置付けですか。
戦争が終わった後も悲惨さや苦しさは続くものであって、平和を希求する象徴です。引き揚げの史実を学び、平和の尊さを発信する拠点であると同時に、(日本に帰還した)皆さんを温かくお迎えしたおもてなしの思いを学べる場所でもあります。
―もしなくなったら。
大きく衰退します。衰退という表現がいいか分かりませんが。このまちが持っている大きな資産であり、世界に向けての使命でもありますから。
―引き揚げ経験者も少なくなってきていると思います。学生語り部に期待することは。
一番大事なのは史実をしっかり引き継ぐこと。今、記念館で良いサイクルが生まれています。体験者の声を聞いたベテランの語り部さんが、戦争を知らない世代に語りをして、さらにその子たちがこれから生まれてくる子どもたちに語りをしていくという循環ができるのが大切だと思っています。
子どもたちには、自分にとって平和とは何か、それを訴えていくためにどんなことが必要かを考えてほしい。例えばデジタルなど、語り継ぐために可能な手法を自ら発想してほしいと思います。
―抑留体験者に直接話を聞くのも難しくなってきています。
本当にぎりぎりです。これからの若い語り部は、実体験を直接聞くこともできない時代に入っていくので、私たちは「体験者なき戦後の始まり」と表現しています。今までの「次世代への継承」も「次世代による継承」に。戦後80年の現実です。
―今年、特別な催しなどは。
大阪・関西万博の関西パビリオンで、命をテーマに引き揚げの資料を展示する予定です。他にもさまざま考えています。
◇ ◇ ◇
鴨田市長は「抑留の史実を絶対に風化させない」と強調した。そのためにはまちの特色ある魅力を高め、より多くの人に知ってもらい、足を運んでもらう必要がある。
市役所に隣接する旧海軍の赤れんが倉庫群は、「舞鶴赤れんがパーク」として整備。世界のれんがを紹介する博物館や地元の特産品ショップ、海軍カレーを提供するカフェなどに活用され、観光客の姿も多く、にぎわいを見せている。
海上自衛隊との協力関係も密接で、10月開催の「舞鶴赤れんがハーフマラソン」はコースの一部が海自基地の敷地内になっている。岸壁に停泊する護衛艦を間近で見ながら走れることから、「募集開始後あっと言う間に埋まってしまう。去年は北海道から石垣島まで全国から来ていただいた」と、市長もうれしそうだった。
今回の語り部養成講座には、東京から夜行バスで駆け付けた先輩語り部の大学生もいた。体験者の後ろ姿は足早に去りつつあるが、人々の思いに支えられ、継承の灯が確かにともり続けているのを感じた。
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