酒井忠囿
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛文10年12月1日(1671年1月11日) |
死没 | 宝永3年9月8日(1706年10月14日) |
改名 | 千熊丸(幼名)→忠囿 |
別名 | 与七郎(通称) |
戒名 | 宝光院殿崑山道琳大居士 |
墓所 | 福井県小浜市男山の空印寺 |
官位 | 従四位下、靭負佐 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉 |
藩 | 若狭小浜藩主 |
氏族 | 雅楽頭酒井家 |
父母 | 父:酒井忠隆、母:島津綱久の娘 |
兄弟 | 忠囿、亀姫(毛利吉就室)、島津惟久室 |
妻 | 正室:土井利益の娘 |
子 | 養子:忠音 |
酒井 忠囿(さかい ただその)は、若狭小浜藩の第4代藩主。小浜藩酒井家5代。
第3代藩主酒井忠隆の長男。貞享3年(1686年)、父の死去により家督を継いだ。元禄10年(1697年)、病気のため辞退した水野勝種に替わって、美作津山藩主森長成が徐封となった津山城の受け取りを、松平直明と共に務める[1]。
元禄14年(1701年)、松之大廊下で吉良義央が刃傷を受けると、見舞いの使者として鈴木団右衛門を派遣している[2]。また、元禄15年12月14日(1703年1月30日)、元禄赤穂事件では鉄砲洲で、引き揚げの赤穂義士を咎め、通行を阻止した[3][4]。
宝永3年(1706年)9月8日、嗣子無くして小浜で死去した。享年37。このため、分家の敦賀藩から忠音を養嗣子に迎えて家督を継がせた。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ “『福井県史 通史編3 近世一』「 第二章 藩制の成立」「第一節 福井藩と小浜藩の成立」「 四 小浜藩の成立」「 幕府軍役と普請役」”. 福井県. 2013年3月18日閲覧。
- ^ 「酒井家編年史料稿本 二百二十六」東大史料編纂所
- ^ 『水野家文書』より「東条守拙見聞記」
- ^ 「江戸名所図会」(築地鉄砲洲)では浜田藩の松平周防守(松平康宦)が通行を阻んだことになっている。