「これがラストチャンスです」
そう言って政府に金を求める企業がある。だが不思議なことに、この手の企業にとってラストチャンスは一度では終わらない。
毎年ラストチャンス。決算ごとにラストチャンス。選挙前にもラストチャンス。気づけばラストチャンスが定期購読になっている。
人類はサブスク地獄だけでは飽き足らず、企業救済までサブスク化したらしい。
市場経済では、利益と損失が情報を伝える。利益は「資源をここに使え」という信号であり、損失は「その使い方はやめろ」という信号である。
価格、金利、賃金、倒産、失業、再配置。これらは冷酷に見えるが、資源配分のための情報システムだ。
ところが政府が「かわいそうだから」「雇用があるから」「地域経済が死ぬから」と言ってゾンビ企業に金を流すと、この信号が壊れる。
企業は本来、自分のビジネスモデルが間違っているなら、自分で損失を受け入れるべきだ。
なのに「市場ではもう評価されないので、政府から金をください」と言い出す。これは企業側の自己放尿である。
さらに政府が「よし、国民の税金か国債か金融緩和で助けよう」と言い出す。これが政府側の自己放尿である。
企業の自己放尿と政府の自己放尿が合体し、ここにめでたくダブル放尿が完成する。まったく、文明の到達点がこれか。
問題は、ゾンビ企業を救うことが「優しさ」ではなく、経済全体への罰になることだ。
ゾンビ企業に資金、人材、土地、設備、信用を残すということは、それらの資源を成長企業や新規参入企業から奪うということである。
政府が金を配ると、何もないところから価値が発生したように見える。しかし実際には、誰かが使えたはずの資源を、死にかけた企業の延命装置に回しているだけだ。
マネタリスト的に重要なのは、貨幣を増やしても実物資源は増えないという点だ。
政府が支出を増やしても、中央銀行が国債を買っても、名目上の金額は増やせる。
しかし、労働者の能力、設備の生産性、技術革新、経営能力、消費者が本当に欲しがる財やサービスは、紙幣を刷っただけでは増えない。
短期的には、政府支出や金融緩和で需要を支えたように見えるかもしれない。
だが、長期的には貨幣量の乱用は物価水準に跳ね返る。インフレはいつでもどこでも貨幣的現象である。
政府が「雇用を守る」「産業を守る」「最後の支援だ」と言いながら、実質的には通貨価値を薄め、資源配分を歪め、失敗した企業を延命するなら、それはただの介入放尿だ。
経営者は学習する。「失敗しても政府が助ける」と。銀行も学習する。「危ない企業に貸しても、最後は公的支援がある」と。
労働組合も業界団体も政治家も学習する。「泣きつけば金が出る」と。こうして市場規律は死に、政治的な声の大きさが資源配分を決める。
競争ではなく陳情。生産性ではなくロビー活動。経営改革ではなく記者会見での涙。
企業が自己放尿し、政府が介入放尿し、中央銀行が尻拭い金融をやり、国民がインフレ税や将来負担で処理する。
これを「産業政策」と呼ぶのは、焼け野原を「都市計画」と呼ぶくらい図々しい。
本来、政府がやるべきことは、特定企業を救うことではない。市場が機能するルールを守ることだ。
契約の執行、財産権の保護、競争環境の整備、参入障壁の撤廃、過度な規制の削減、安定した貨幣供給。つまり、個別企業に水を撒くのではなく、土壌を整えることだ。
金融政策も裁量的に振り回すべきではない。景気が悪いから大量緩和、物価が上がったから急ブレーキ、企業が苦しいから特別支援、選挙が近いから追加対策。
こういう場当たり政策は、民間の予測可能性を破壊する。企業は長期投資をしにくくなり、家計は将来不安で消費を抑え、金融市場は中央銀行の顔色だけを見るようになる。
政策当局が「市場を安定させる」と言いながら、市場参加者の予想を自分で不安定化させる。火を消すためにガソリンを持って走り回る消防士みたいなものだ。人間社会はなぜここまで寓話に忠実なのか。
本当に価値のある企業なら、民間資金が入る。事業再生の見込みがあるなら、債権者が条件変更し、投資家が資本を入れ、経営者が資産売却や事業整理を行う。
市場が資金を出さないということは、その企業の将来キャッシュフローが信用されていないということだ。
そこで政府が介入するとは、要するに「市場が価値なしと判断したものを、政治が国民負担で価値ありと偽装する」ということに近い。
倒産は失敗ではあるが、経済全体にとっては浄化でもある。労働者は別の企業へ移る。設備は売却される。技術は引き継がれる。土地は別用途に使われる。
もちろん移行には痛みがある。そこに対して政府が支援するなら、企業本体ではなく、労働者の再訓練、移動支援、失業時の一時的な生活保障に限定すべきだ。
守るべきは企業の看板ではない。人間の生活と、市場の機能である。
ゾンビ企業を救う政策は、一見すると人道的に見える。だが実際には、古い経営者、既得権益、政治的に保護された産業を温存し、新しい企業と若い労働者から機会を奪う。これは優しさではない。未来から現在への略奪である。
ラストチャンスとは、本来一度きりだから意味がある。だが、ゾンビ企業のラストチャンスは、次の補助金申請書の前書きにすぎない。
そこに政府が付き合うなら、企業の自己放尿と政府の自己放尿が合流し、経済全体にダブル放尿の湿地帯が広がる。
「ラストチャンスだ」と主張し、金を欲しがるだけのゾンビ企業に、政府が介入放尿すべきではない。
貨幣を刷っても生産性は生まれない。補助金を出しても経営能力は生まれない。政治が市場の損失シグナルを消せば、資源配分は腐る。
失敗を失敗として処理できない経済は、成長ではなく延命を選ぶ。そして延命を選び続けた経済は、最後には自分自身がゾンビになる。
必要なのは、安定した貨幣ルール、明確な市場規律、参入しやすい競争環境、そして失敗した企業をきちんと退場させる制度である。
市場に任せるとは、冷酷になることではない。損失という情報を破壊しないということだ。
失敗企業を救わず、人の再出発を支えるということだ。企業の延命ではなく、資源の再配置を促すということだ。
南無