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先日ゲンロンで行われた東浩紀×菊地成孔対談のまとまりきらない感想です。
たくさん印象に残ることがあった。
高市さんをW浅野と表現するのは、サヨリベの言う「女装した家父長制」なんて言うのよりも具体的で分かりやすくて共感しやすいと思ったし、
ルメイ叙勲に対する反感や、それに対する自称平和主義者たちからの非難が殆ど聞こえてこないことへの不信感などの話もとても重要なことに思えた。
終盤の蓮實重彦と映画評論界の話を聞いていて、10年以上前の映画「セッション」の感想が、菊地成孔さんとM山さんの間で真っ二つに別れて論争になったことなどを思い出したりもした。
でも、私の中で一番印象に残った気がするのは、性善説と性悪説の話だった。
東さんが、以前は性善説で動いていたけど、今はもう性悪説でしかいられなくなったと言う。そして、会場の東ファンとの会話や菊地さんの『平和と愚かさ』の解析から、その書かれている内容も、書いた時期によって性善説的なものから性悪説的なものへ徐々に傾斜していっていることが明らかになった。
私も東さんと同じ性悪説派だと思う。というか、反性善説派と言うべきか。世の中から聞こえてくる大抵の性善説は、大体は甘えのようなものが感じられる、自分に都合の良い性善説なら最高だ、みたいな話ばかりで、それがマイナスに転んだ時の想像力や責任感が欠けていると思わされるものが非常に多いと私は感じている。性善説=ろくでもない、が私の印象だった。
そんな東さんや私へ向けて、菊地さんは「私は性善説ですけどね」とぶつけてくる。少しショッキングだったけど、よく考えたらそれは当たり前のことだ。
日々不特定多数の人々とセッションやアンサンブルをしていかなければならない音楽家達が、性悪説でいられる筈がない。彼らは、甘えの性善説家ではなく、切実な性善説家だ。そういえば、私が若い頃音楽していたころの先生方は、大抵そんな空気があったなということも思い出した。
このことから私が思ったのは、これ以上東さんを性悪説の方向へ引っ張られてしまうのは良くないことなのではないかと言うことだ。
なぜかといえば、性悪説的なのは東さんだけでなく、世の中のサヨリベ的な大学の先生方も同じ傾向があるように思えるからだ。アカデミズム的なことに耽っていると、どうしても性悪説的な方向に引っ張られてしまうという傾向はあるのではないか。そこを、菊地さんのような実践的性善説家との対話を通して、性善説の性向を回復してもらうということは実はかなり大事なことなのではないか。実は音楽にはそのような効能があるのではないか。
大体そんなようなことを考えていました。
またお二人の「セッション」があると良いなと思います。ありがとうございました。
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