経済季評 慶応大学教授・坂井豊貴さん
「こんばんは、宮沢りえです」。厳かにステージに現れた美輪明宏は開口一番、大真面目な顔で、観客にそう言った。客席からは大きな笑いが起こり、美輪は楽しそうに表情を崩して、シャンソンを歌い始めた。
1990年代半ば、渋谷の地下小劇場ジァン・ジァンでのことだ。私は当時、上京したばかりの大学生だった。むろん美輪は大スターで、当代最高の舞台人だったが、ときどき小劇場でライブを開いていたのだ。信じられないような話だが、チケットは一枚わずか2500円。それで圧倒的な歌唱を間近で聴かせてくれた。
その美輪明宏が先月、逝去した。享年91歳、老衰によるものだ。美輪は戦後期の抑圧的な社会において、異端であった中性的な美を貫き、愛を歌い上げた。神武以来の美少年と称され、独自の芸術を築き、偏見と戦い勝ち抜いた。若いとき長寿を予想されるようなタイプではなかったろうし、夭折(ようせつ)していれば伝説になっただろう。
だが彼はそのように分かりやすい美学的伝説になることを拒み、長く生きて、唯一無二の舞台と発言を続けた。
美輪はときどきインタビューで、天人五衰という言葉を用い、老いを語っていた。天人五衰とは仏教の言葉で、天界の天人でさえ、死の間際には身体は腐臭を放ち、朽ち果てるといったものだ。
だがそれが何だというのだ、心が美しければいいじゃない、というのが美輪の持論だった。
* *
三島由紀夫の最後の長編小説「豊饒(ほうじょう)の海」第4部は、題名を「天人五衰」という。美輪は三島と親交が深かったから、おそらく彼を経由して天人五衰の語を知ったのだろう。市ケ谷駐屯地でクーデターの演説をして自決を選んだ三島と、周囲に「ありがとう」と告げ老衰で永眠した美輪は、対照的ではある。
長崎で原爆に遭った美輪は、終生、反戦平和を訴え続けた。戦中と戦後で手のひらを返すように発言を変える者を軽蔑した。自衛隊員にクーデターを促す三島と、それほど考えは近くなかっただろう。だが両者とも節操の概念を重視した。
三島の「文化防衛論」にこんな話がある。あるとき彼はテレビ番組で、非武装平和を主張する若者と話した。その若者は、外敵が侵攻しても一切抵抗せず、皆が殺されようとも、それで世界史に平和憲法の理想が活(い)かされるとよいと語った。
三島はそうした非武装平和主義の思想に、戦時中の一億総玉砕との強い類似性を見いだした。いずれの思想も、何かの価値観のため、皆が犠牲になるべきだという共通の構造をもつのだ。
私なりにこの逸話を解すなら次のようになる。節操なく思想を別のものに変えてみたところで、それが仮面を付け替えるようなことなら、元の思想の難点からは脱せられないのだ。
では節操なく思想を変えるとは、どういうことか。それは信念ではなく、損か得かの判断によって、一貫性なく意見を変えることだ。
* *
例えば米国副大統領のバンスは、かつてトランプを「米国のヒトラー」「文化的な麻薬」とまで酷評していた。だがその後、トランプが有利になると立場を翻し、最側近となった。本人の言によれば考えが変わったのだそうだが、このような変節はもはや世に珍しくもない。
周囲の状況に応じて、自分の有利になるよう意見を変える者を、日和見主義者という。いわゆるポピュリストはその最たるものだ。
日和見主義者は、理念や根拠に基づいて、正しい意思決定をしようとするわけではない。単に自己利益のため忖度(そんたく)をしたり、空気に従ったりしているだけだ。
ではそうした行動は、集団をどう変えていくのか。意思決定の観点から、いくつかの知見を述べたい。
まずは18世紀の古典的な成…
この記事の続きを読むなら今がお得。初回1カ月無料+Visaギフトカードが当たる▶今すぐ登録










































