宮沢喜一氏の手紙に漂う寂寥感 岸田首相は教訓生かすのか

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政治部長・松田京平
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 戦後日本を牽引(けんいん)した政治家の一人である故・宮沢喜一元首相の40年間にわたる政治行動記録(日録)が見つかった。首相就任前の1989年から16年間で計5回にわたる手紙のやりとりをした縁で、直接面会した私の名前も日録にはあった。今回の報道にあたり、過去の手紙を改めて読み返してみた。

 2001年5月18日の日付。青いボールペンで草書体。それまでの手紙は筆ペンが多かったが、達筆なのは変わらない。

 「更迭にあたって小生のことを想い出して頂いた様子、御親切を感謝致します」(原文ママ)

 宮沢氏は首相退任後の98年、小渕恵三首相からの「三顧の礼」に応えて蔵相に就任。小渕氏が倒れ、継いだ森政権でも引き続き蔵相、財務相を務めていたが、この年の小泉政権誕生によって閣僚から退いた。そのタイミングで私が出した手紙への返信であった。

 「更迭」とは、役目や職を代わる意味だが、政界で使う時は途中辞任のように、本人は続けたいのに切られた、というニュアンスが強まる。内閣が交代するのにあわせた、いわば通常の大臣退任を宮沢氏があえて「更迭」と表現したところに、私は彼の無念さがにじみ出ているように思う。

 今回見つかった日録は、面会相手と時間を記すことに徹し、時に残るメモ書きにも、感情的な表現はほとんど見られない。宮沢氏のイメージも、「知性派」「冷たい」といった言葉で語られることが多い。政界を渡り歩くうえで、これらの形容はおそらくマイナスに作用したと想像する。

 だが、この01年の手紙には、次のようなくだりもあった。「飯塚におられるとは。麻生太郎のことはよろしく御願いします」

 当時私は福岡県飯塚市にある筑豊支局で記者をしていた。麻生氏の地元である。住所で気付かれたのだろう。「面倒見が悪い」と陰口をたたかれることもあった宮沢氏だが、自らが仕えた吉田茂元首相の孫であり、直前の自民党総裁選小泉純一郎氏に敗れたばかりの麻生氏を気遣い、地元で取材する若い一記者に過ぎぬ私に寄せた一言だった。

 宮沢氏の政治人生は、吉田氏…

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この記事を書いた人
松田京平
政治部長
専門・関心分野
政党政治、選挙、地方自治