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第12回宮沢元首相の中国観変えた90年代の台頭 集団的自衛権唱えた舞台裏

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編集委員・藤田直央
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 元首相の宮沢喜一(1919~2007)が残した政治行動記録(日録)からは、宮沢が今世紀に入っても日本の針路を探っていた様子がうかがえる。敗戦から国際社会に復帰する講和会議から半世紀を迎えた01年には、記念講演のため8カ月かけて有識者らと原稿を練り、集団的自衛権の行使提言へと踏みこんだ。

 日録とは別に存在する、この有識者らとの「打ち合わせ」の議事録や生存者の証言と重ね合わせることで、中国の台頭を意識していた宮沢が「最後のメイジャー・スピーチ」に込めた思惑を探る。

 2001年1月30日夜、東京・虎ノ門のホテルオークラ。森喜朗内閣の財務相として1日を終えた宮沢は、旧知の日本国際交流センター理事長の山本正、元駐ロシア大使の渡辺幸治と顔を合わせた。

 宮沢の日録にはこの2人の名とともに、「9月にSFで予定されている講演の件」と記されている。

 この年の9月、50年前に対日講和会議が開かれた米国のサンフランシスコで記念式典が予定され、宮沢は講演を頼まれた。会議に臨んだ数少ない生存者で、90年代前半には首相として対米外交を担った宮沢は依頼を受け、山本、渡辺と原稿を作り始めた。

 日録によると、3人はこれ以降、式典の前月まで計8回、2時間前後ずつ会っている。そうして練り上げた講演で宮沢は、他国を守る集団的自衛権の行使について、「日本の安全保障上のリスクに明確かつ直接にかかわる活動」をしている米軍を守るためであれば、憲法を変えずに「自衛隊を運用できる、運用するべきだ」と述べたのだった。

 宮沢が語った集団的自衛権の行使は、憲法上可能な自衛を超えるとしていた政府の解釈に挑むもので、13年後に安倍晋三内閣が行った憲法解釈の変更とほぼ同じ話だ。

 宮沢は、冷戦終結後の日本の役割が問われていた首相当時、現憲法でできる自衛隊の運用の「極限を明確にすべき」(95年の回顧録)との思いから、国連平和維持活動(PKO)への自衛隊初参加となるカンボジア派遣を実施。10年近くを経てさらに「極限」へ踏みこんだのだった。

 それはなぜだったのか。講演に向けた「打ち合わせ」の前半にあたる1~4回目の議事要旨を、宮沢は残している(「宮沢喜一関係文書」より。九州大学の協力を得て閲覧)。関係者の証言とあわせて探る。

譲らなかった見解

 宮沢は講演当時81歳。最初…

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この記事を書いた人
藤田直央
編集委員|政治・外交・憲法
専門・関心分野
日本の内政・外交、近現代史

連載宮沢喜一日録 戦後政治の軌跡(全43回)

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