板倉勝資
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 寛政元年(1789年) |
死没 | 嘉永元年8月17日(1848年9月14日) |
改名 | 勝資、愚山(号) |
戒名 | 督応院殿麒鳳源麟大居士 |
墓所 | 愛知県西尾市貝吹町の長圓寺 |
官位 | 従五下越中守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 備中庭瀬藩主 |
氏族 | 板倉氏 |
父母 |
父:板倉勝喜、母:不詳 養父:板倉勝氐 |
兄弟 | 勝並、勝豊、勝氐、勝資、勝貞、阿部正信正室 |
妻 | 正室:朽木倫綱の娘 |
子 |
勝敬 養子:勝貞 |
板倉 勝資(いたくら かつすけ)は、江戸時代後期の大名。備中国庭瀬藩の第7代藩主。官位は従五下・越中守。重宣系板倉家8代。
略歴
[編集]第5代藩主・板倉勝喜の4男として誕生。
文化2年(1805年)12月8日に先代藩主で兄の勝氐が早世したため、文化3年(1806年)3月19日に跡を継いだ。文化8年11月15日、第11代将軍・徳川家斉に拝謁する。同年12月11日、従五位下越中守に叙任する。有能な人物で殖産興業や民政に尽力し、凶作に備えて義倉を設置した。また、藩校の誠意館を創設して藩士子弟の教育化に努めた。
天保3年(1832年)閏11月21日、弟の勝貞に家督を譲って隠居した。弘化2年(1845年)8月に剃髪して愚山と号した。嘉永元年(1848年)8月17日、60歳で死去した。法号は督応院殿麒鳳源麟大居士。墓所は愛知県西尾市貝吹町の長圓寺。
庭瀬藩の歴代藩主の中では有能な人物で、治績も残したため、中興の英主と言われている。