城塞の中にあった本能寺 ここで注意したいのは、京都の惣構は町全体を一つの城壁で囲ったものではなかった、という点である。当時の京都は、御所や幕府関連の施設が集まる「上京」と、商工業者の町である「下京」という、二つの市街地に分かれていた。両者は室町小路一本でつながってはいるものの、間には田畑が広がる、いわば二つの都市である。 惣構も、上京と下京それぞれが別個に構えていた。とりわけ下京の惣構が鍛えられたのが、天文年間である。1532年からの数年間、京都の町政は法華宗の門徒たち、いわゆる法華一揆が主導していた。一向一揆や周辺勢力との緊張の中で、町人たちは自らの手で堀をつくり、土塁を築き、町を固めていく。 そして1536年、延暦寺の大軍が京都に攻め寄せた天文法華の乱で、この惣構は実戦を経験することになる。結果は法華宗側の敗北。下京は戦火を免れたものの、上京の大半と洛中の法華寺院21カ寺はことごとく焼

