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鳥山新三郎

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鳥山 新三郎(とりやま しんさぶろう、1819年文政2年2月2日)- 1856年安政3年7月29日)は、江戸時代後期・幕末儒学者思想家は正清。は義所。は確斎、蒼竜軒。贈従五位吉田松陰の師として知られている[1]

生涯

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文政2年2月2日、安房国朝夷郡大川村(七浦村千倉町南房総市)の漁船三隻を所有する網元、宇山孫兵衛正質の二男として生まれる。8歳の時左眼を負傷し、失明寸前のなか学問に目覚める。宇山家が南朝忠臣新田義貞末裔であるとの自覚を高め、後に尊王論を抱くに至った[2]

20歳で江戸に出て、東条一堂儒学加藤環亀兵学を学ぶ。また安中藩士で、千葉周作道場高弟であった浅田五郎作剣術を指南された。なお浅田は小栗上野介を捕え、処刑したとされる人物の一人(もう一人は園部藩士の原保太郎)として知られている。 28歳(または31歳)で京橋桶町に私塾蒼龍軒を開く。1851年嘉永4年)、学友の江帾五郎(後の那珂通高)の紹介で、21歳の吉田松陰が寄宿した。門人には他に長州藩士(土屋矢之助(土屋蕭海)・同弟土屋恭平来原良蔵・桂小五郎(木戸孝允)・中村百合蔵中村九郎白井小助赤川淡水井上壮太郎金子重之助中谷正亮久保清太郎坪井竹槌など)や出羽国庄内村上寛斎熊本藩士(宮部鼎蔵松田重助永鳥三平佐々淳二郎)、薩摩藩胆付七之丞などがいた。

1854年、松陰が下田に停泊していた黒船から密航を企てたが、失敗し伝馬町牢屋敷幽閉された際、下田奉行所から尋問をうけた。 釈放はされたものの、幕府から謹慎を命じられ、新発田藩邸に預けられた。赦免後も藩邸に留まり、藩士への講義を行なった。また、オランダ語辞典『和蘭文典筌』を完成させた。 この頃から頻繁に吐血していたが、獄中にいる松陰のための義援金集めに奔走した。新発田藩士や江帾五郎、筒井明俊などの看病もむなしく、安政3年7月29日病のため没した。享年38歳。

影響 

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確齋の訃報に落胆した松陰は、長州の獄中から土屋矢之助らとともに呼びかけ、江戸にいた江帾や桂小五郎、桜任蔵らも呼応し、新発田藩の菩提寺であった駒込吉祥寺墓碑を建立した。この確斎との交流が、松下村塾で子弟を育てるきっかけとなった。

1892年明治25年)2月26日、木戸孝允の娘婿で当時宮中顧問官を務めていた侯爵木戸孝正の計らいにより、特別に従五位が贈られ、墓碑も新調された[3]

脚注

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  1. ^ 鳥山新三郎とは - コトバンク
  2. ^ 安房のあらまし 鳥山確斎
  3. ^ 吉祥寺(幕末維新)

関連項目

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外部リンク

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