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藤原春津

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藤原 春津
藤原春津/菊池容斎画『前賢故実』より
時代 平安時代初期 - 前期
生誕 大同3年(808年
死没 貞観元年7月13日859年8月14日
官位 従四位上刑部卿
主君 淳和天皇仁明天皇文徳天皇
氏族 藤原式家
父母 父:藤原緒嗣
母:蔵垣人山(または企)の娘
兄弟 家緒春津本雄忠宗、正子、藤原常嗣
紀御依の娘
常氏、常仁、常数、在数、枝良、藤原文弘または藤原興邦
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藤原 春津(ふじわら の はるつ)は、平安時代初期から前期にかけての貴族藤原式家左大臣藤原緒嗣の次男。官位従四位上刑部卿

経歴

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天長年間初頭に抜擢されて左近将監に任官。天長7年(830年皇太后宮大進(皇太后は橘嘉智子)に転任、翌天長8年(831年)2月に淳和天皇が後宮で曲宴を開いた際に昇叙され、従五位下叙爵する。同年近江権介に任ぜられる。

仁明朝に入り、天長10年(833年)従五位上に昇叙されるが、翌承和元年(834年備中権守に遷る。承和5年12月(839年1月)に侍従に任じられ京官に復す。承和9年(842年正五位下右馬頭に叙任。また同年3月には渤海使に勅を伝えるために鴻臚館へ派遣されている[1]。翌承和10年(843年左大臣であった父・緒嗣の致仕表提出時に特に従四位下に叙せられた。

嘉祥2年(849年)渤海使に勅書と太政官牒を渡すために、参議小野篁らと共に鴻臚館へ派遣されている[2]文徳朝前半は右兵衛督刑部卿を歴任し、仁寿元年(851年)には従四位上に叙せられている。天安元年(857年但馬守に転じると、貞観元年(859年備前守と文徳朝末から清和朝初頭にかけて地方官を務めたが、いずれも現地に赴任しなかった。貞観元年(859年)7月13日卒去享年52。最終官位は従四位上行備前守。

人物

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姿形が美しく、心がけも上品であった。名門福貴の家柄に生まれ、兄・家緒の死によって父・緒嗣の後継者となったが、出世や物欲に無関心で、蒐集した馬の観賞のみを楽しみとして、出仕しようとしなかった。文徳天皇は彼の隠遁ぶりを「南山の玄豹」と評した[3][4]。『尊卑分脉』には彼を「日本第一富人名人也」と記している。また、父が建立していた観音寺を完成させたことでも知られている。

官歴

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六国史』による。

系譜

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尊卑分脈』による。

  • 父:藤原緒嗣
  • 母:蔵垣人山(または企)の娘
  • 妻:紀御依の娘
  • 生母不明の子女
    • 男子:藤原常氏
    • 男子:藤原常仁
    • 男子:藤原常数
    • 男子:藤原在数
    • 女子:藤原文弘または藤原興邦

脚注

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  1. ^ 『続日本後紀』承和9年3月29日条
  2. ^ 『続日本後紀』嘉祥2年5月12日条
  3. ^ 『日本三代実録』貞観元年7月13日条
  4. ^ 「南山に玄豹有り、霧雨すること七日、食を下さざるは何ぞや」「玄豹は毛を吝みて穢れを憎む」という劉向の『列女伝』の逸話より。

出典

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