津田静枝
表示
津田 静枝(つだ しずえ、1883年(明治16年)4月11日 - 1964年(昭和39年)9月13日)は、日本の海軍軍人。海軍の中国専門家。最終階級は海軍中将。福井県福井市出身。
略歴
[編集]旧制福井県立福井中学校より海軍兵学校第31期入校。 津田の履歴の特徴は中国勤務が多いことであるが、これは津田が中国の専門家であったためである。日本海軍は陸軍と比較して中国問題に暗く、対応が後手に回ることが多かったことから、対中国問題の専門家が必要となり、その最初の人物として育成されたのが津田であった。日本海軍はのちに須賀彦次郎、田尻 穣、藤原喜代間、沖野亦男などの対中国の専門家を輩出した。
年譜
[編集]- 1883年(明治16年)4月1日- 福井県福井市生
- 1900年(明治33年)12月17日- 海軍兵学校入校 入校時成績順位196名中第111名
- 1903年(明治36年)12月14日- 海軍兵学校卒業 卒業時成績順位173名中第72位・任 海軍少尉候補生・2等巡洋艦「松島」乗組
- 1904年(明治37年)1月4日- 戦艦「初瀬」乗組
- 1905年(明治38年)8月5日- 任 海軍中尉
- 1906年(明治39年)11月26日- 3等駆逐艦「白雲」乗組
- 1907年(明治40年)3月22日- 2等砲艦「伏見」乗組
- 1908年(明治41年)6月23日- 通報艦「八重山」分隊長心得
- 1909年(明治42年)5月25日- 呉海兵団分隊長
- 1910年(明治43年)2月7日- 3等海防艦「松江」航海長兼分隊長
- 1911年(明治44年)5月23日- 2等巡洋艦「対馬」分隊長
- 1912年(明治45年)4月20日- 兼 砲術長
- 11月13日- 免 分隊長
- 1913年(大正2年)8月10日- 海軍省軍令部出仕
- 1915年(大正4年)12月13日- 任 海軍少佐・巡洋戦艦「鞍馬」分隊長
- 1916年(大正5年)4月11日- 海軍省軍令部出仕
- 1918年(大正7年)4月6日- 1等海防艦「富士」分隊長兼教官
- 1919年(大正8年)3月10日- 軍令部出仕兼参謀
- 12月1日- 任 海軍中佐
- 1920年(大正9年)8月1日- 装甲巡洋艦「常磐」副長
- 12月1日- 第2艦隊司令部参謀
- 1921年(大正10年)12月1日- 戦艦「香取」副長
- 1922年(大正11年)4月15日- 海軍省軍令部出仕参謀
- 12月1日- 兼 第1遣外艦隊司令部附
- 1923年(大正12年)3月1日- 免 第1遣外艦隊司令部附
- 1926年(大正15年)11月1日- 帰朝
- 12月1日- 海軍省軍令部長先任副官
- 1929年(昭和4年)5月15日- 第1遣外艦隊司令部附
- 1930年(昭和5年)5月21日- 第2遣外艦隊司令官
- 1933年(昭和8年)4月20日- 旅順要港部司令官
- 1934年(昭和9年)11月15日- 任 海軍中将・駐満海軍部司令官
- 1935年(昭和10年)11月15日- 海軍軍令部出仕
- 1936年(昭和11年)3月28日- 待命
- 1938年(昭和13年)2月10日- 海軍省事務嘱託
- 1939年(昭和14年)3月10日- 興亜院華中連絡部長官
- 1941年(昭和16年)5月7日- 辞任
- 1947年(昭和22年)11月28日- 公職追放仮指定[1]
- 1964年(昭和39年)9月13日- 死去 享年81
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[3]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『津田静枝さんを偲んで』津田静枝出版世話人会刊・講談社出版サービス。
- 『高木惣吉日記と情報』みすず書房。ISBN 4-622-03506-5。
- 日本近代史料研究会編 編『日本陸海軍の制度・組織・人事』東京大学出版会。
- 『海軍兵学校沿革』 第2巻、海軍兵学校刊。
- 小野崎誠編 編『海軍兵学校出身者名簿』海軍兵学校出身者名簿作成委員会。