小池国三
小池 国三(こいけ くにぞう、1866年5月24日(慶応2年4月10日)- 1925年(大正14年)3月1日)は、日本の実業家、投資家である。旧姓、浅川。幼名は国五郎。
経歴・人物
[編集]甲斐の甲府生まれ。小学校卒業後の1878年(明治11年)に12歳で若尾逸平の門に入り、株式取引を師事する。1890年(明治23年)に若尾が貴族院議員に就任したと同時に秘書を務めた。1895年(明治28年)には、若尾と共に生まれ故郷の甲府で綿や絹の商人として活動した。
1896年(明治29年)、小池銀行創立(組織としては株式会社だが、株式のほとんど全てを小池一族が所有しており、実質的には小池の個人銀行。国三没後の1930年に小池証券に改組し、1943年に山一證券と合併)[1]。1897年(明治31年)には東京の兜町に自身の商店「小池国三商店」を設立し、仲買人として証券の取引等を経営した(1907年(明治40年)に合資会社「小池合資会社」へ改組)。
後に渡米し、渋沢栄一率いる「渡米実業団」に参加し、ニューヨークのウォール街を視察した。帰国後の1915年(大正4年)には、日本科学紙料を設立し、投資以外の役職に携わり、樺太(現在のサハリン)の落合(現在のドリンスク)にて工場を建設し、製紙の発展に貢献した。1917年(大正6年)同社を解散し、かねて買収していた銀行の頭取に就く。
解散した証券会社の業務は、新たに設立した元番頭の杉野喜精を社長とする山一合資会社(後の山一證券、1997年(平成9年)廃業)へ引き継いだ。初めは東京のみ事務所を設置したが、1919年(大正8年)に横浜に事務所を設置したのを皮切りに、大阪や名古屋等の主要都市に事務所を設置し、日本における証券の改革に貢献した。後に東京ガスや富士製紙、九州炭鉱等の社長も務め、甲州財閥の重役となった。大正14年3月1日没。墓所は文京区の吉祥寺。
家族
[編集]- 妻てるの弟に、樺太農産興業社長・日本人絹パルプ専務などを務めた塚越卯太郎、越中島木材倉庫社長・東洋レーヨン常務・帝国製麻会長などを務めた塚越丘二郎がいる。丘二郎の岳父に三十銀行頭取・古川源太郎。
- 小池厚之助 - 次男、山一證券社長。
脚注
[編集]出典
[編集]- デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『小池国三』- コトバンク
- 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞出版)『小池国三』- コトバンク
- 20世紀日本人名事典(日外アソシエーツ)『小池 国三』- コトバンク