加藤泰武
表示
加藤泰武像(如法寺蔵) | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 延享2年7月13日(1745年8月10日) |
死没 | 明和5年5月22日(1768年7月6日) |
改名 | 富之助、泰武 |
戒名 | 広善院殿頴鋒義俊大居士 |
墓所 | 愛媛県大洲市柚木の如法寺 |
官位 | 従五位下遠江守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治 |
藩 | 伊予大洲藩主 |
氏族 | 加藤氏(光泰系) |
父母 | 父:加藤泰温、母:円性院 |
兄弟 | 泰武、岩城隆恭継室、津礼 |
妻 | 正室:酒井忠用の娘・香樹院 |
子 |
隼姫(松平定信継室) 養子:泰行 |
加藤 泰武(かとう やすたけ)は、江戸時代中期の大名。伊予国大洲藩の第7代藩主。官位は従五位下・遠江守。
略歴
[編集]第5代藩主・加藤泰温の長男として誕生。幼名は富之助。
父の泰温は延享2年(1745年)6月上旬に死去しており、泰武はその1カ月後に生まれた息子である。宝暦12年(1762年)2月1日、先代藩主の加藤泰衑が隠居したため、その養嗣子として跡を継いだ。藩財政再建のために、家臣団の知行削減などを行なったが、幕府の公役による出費に苦しんだと言われている。
明和5年(1768年)5月22日に脚気腫のため24歳で死去した。子は娘しかいなかったため、跡を先代泰衑の実子で養嗣子の泰行が継いだ。法号は広善院殿頴鋒義俊大居士。墓所は愛媛県大洲市柚木の冨士山如法寺。