コンテンツにスキップ

ルドヴィコ・ザメンホフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ルドヴィコ・ラザーロ・ザメンホフ

Ludwik Lejzer Zamenhof
Ludwik Lejzer Zamenhof, 1908
生誕 ルドヴィコ・ラザーロ・ザメンホフ
1859年12月15日
ロシア帝国 グロドノ県 ビャウィストク
死没 1917年4月14日(1917-04-14)(57歳没)
ポーランドの旗 ポーランド ワルシャワ
国籍 ポーランドの旗 ポーランド
テンプレートを表示

ラザーロ・ルドヴィコ・ザメンホフエスペラント: Lazaro Ludoviko Zamenhofポーランド語: Ludwik Łazarz Zamenhof 1859年12月15日 - 1917年4月14日)は、ユダヤ系ポーランド人で、職業としては眼科医人工言語エスペラントの創案者。

本名はエリエゼル・レヴィ・ザメンホフヘブライ語אֱלִיעֶזֶר לֵוִי זאַמענהאָף 、ドイツ語転写:Eliezer Lewi Samenhof )。ファーストネームは、少年時代はエリエゼルのイディッシュ語形レイゼル(Lejzer)とそのロシア語形ラーザリもしくはラーザリ・マルコヴィチЛазарь (Маркович))を併用し、大学以降はレヴィの欧州語代用名ルードヴィク(Ludwik)とリュードヴィクЛюдвик)、そして1901年にエスペラントでルドヴィーコ(Ludoviko)と名乗り、"Dr. L. L. Zamenhof"と署名するようになった(Lを重ねたのは弟のレオン・ザメンホフエスペラント語版1875年-1934年)も医師であったため)。

弟のフェリクス・ザメンホフエスペラント語版1868年-1933年)もエスペランティストとなり、"FEZ"の筆名で兄を助けた。

各言語による名前の表記

[編集]
言語 表記 カタカナ
エスペラント Ludoviko Lazaro Zamenhof (Zamenhofo) ルドヴィーコ・ラザーロ・ザメンホフ/ザメンホーフォ
イディッシュ語 לודוויג לײזער זאַמענהאָף ルードヴィク・レイゼル・ザメンホフ
ロシア語 Людвик Лазарь Заменгоф リュードヴィク・ラーザリ・ザーメンゴフ
ポーランド語 Ludwik Łazarz Zamenhof [ˈludvʲik ˈwazaʃ zãˈmɛ̃nxɔf] ルードヴィク・ワーザシュ・ザメンホフ
ドイツ語 Ludwig Lazarus Samenhof / Zamenhof [ˈzamɛnxɔf][1]/[zaˈmɛnhɔf] ルートヴィヒ・ラーツァルス・ザメンホフ

来歴

[編集]

言語への強い興味

[編集]

ザメンホフは1859年ポーランド北東部のビャウィストクで生まれた。当時、ポーランドは帝政ロシア領で、町の人々は4つの主な民族(ロシア人ポーランド人ドイツ人イディッシュ語を話す大勢のユダヤ人)のグループに分断されていた。ザメンホフはグループの間に起こる不和に悲嘆し、また憤りを覚えていた。彼は憎しみや偏見の主な原因が、民族的・言語的な基盤の異なる人々の間で中立的なコミュニケーションの道具として働くべき共通の言語がないことから起こる相互の不理解にあると考えた。

国際語を作る試み

[編集]

ワルシャワの中等学校に通いながら、ザメンホフはある種の国際語を作ろうと試みた。それは文法が非常に豊富な一方で、大変複雑なものでもあった。ザメンホフは(ドイツ語フランス語ラテン語ギリシャ語と共に)英語を学んだ際に、国際補助語には動詞人称変化は必要ではなく、比較的簡単な文法を持ちながら、語の新しい形を作るのに接頭辞接尾辞を幅広く用いるようなものでなくてはならない、という構想を固める。

1878年までにザメンホフの「リングヴェ・ウニヴェルサーラ」(普遍語)はほとんど完成しかけていたが、若すぎたために著書を出版することができなかった。卒業後すぐにザメンホフは医学を、最初はモスクワで、次にワルシャワで学び始める。1885年には大学を卒業し、眼科医として開業する。患者を治療する傍ら、ザメンホフは国際語の計画を進める。

エスペラント創案

[編集]

ザメンホフは国際語を述べた著書を出版すべく、2年にわたって基金を設立しようと試みるが、後に妻となる女性クララ・ジルベルニクの父親から経済的な援助を受けることで、その必要はなくなった。1887年には "Doktoro Esperanto. Lingvo internacia. Antaŭparolo kaj plena lernolibro"(「エスペラント(希望する人)博士、国際語、序文と完全なテキスト」)と題された著書が出版されることになる。ザメンホフにとってこの言語は単なるコミュニケーションの道具ではなく、異なる人々や文化の平和的な共存という自らの理念を広げる手段でもあった[要出典]

ザメンホフは1917年にワルシャワで心臓病のために亡くなった。

ザメンホフは妻クララとの間に一男二女(アダム、ゾフィア、リディア)に恵まれたが、いずれもホロコーストのために命を落としている(アダムの息子は死体のふりをしたため無事に生還できた)。特に二女のリディアバハイ教徒として布教活動をする傍らエスペラントの翻訳活動を行った。ザメンホフの家族のその後については、家族の中でただ一人ホロコーストから生き延びた孫(アダム・ザメンホフの息子)のルイ・クリストフ・ザレスキ=ザメンホフ英語版の著書『ザメンホフ通り―エスペラントとホロコースト』(原書房2005年ISBN 4-562-03861-6)に詳しい。

著書

[編集]

ザメンホフの著作全集(PVZ)はいとうかんじ(筆名Ludovikito)らの編集により出版されている。

翻訳

[編集]

ザメンホフは、エスペラントの文学的表現を高めるために積極的に文学作品を翻訳した。

関連項目

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ Duden Aussprachewörterbuch (Duden Band 6), Auflage 6, ISBN 978-3-411-04066-7

外部リンク

[編集]