ジョージ・バンクロフト (歴史家)
ジョージ・バンクロフト(George Bancroft, 1800年10月3日 - 1891年1月17日)は、アメリカ合衆国の歴史家、政治家。マサチューセッツ州ウースターの出身であり、州や合衆国全体における中等教育の振興に貢献した。1845年から1846年までは第17代アメリカ合衆国海軍長官を務め、アナポリスに海軍兵学校を設立するなどの業績を残した。代表的著書に『合衆国の歴史』シリーズがある。
青年時代
[編集]バンクロフトの祖先は、1632年にアメリカ大陸に渡来した。父親のアーロン・バンクロフトはアメリカ独立戦争で活躍した兵士であり、聖職者、作家でもあった。ジョージ・バンクロフトは1800年にマサチューセッツ州ウースターで生まれ、ニューハンプシャー州のフィリップス・エクセター・アカデミーで学んだ。そして13歳でマサチューセッツ州のハーバード大学を入学後、ドイツのハイデルベルク、ゲッティンゲン、ベルリンで留学生活を送った。ドイツのゲッティンゲンでは古代ギリシャの哲学者プラトンについてドイツの歴史家de:Arnold Hermann Ludwig Heerenと共同で研究をし、また新約聖書ギリシャ語についてドイツの神学者de:Johann Gottfried Eichhornと、自然科学についてドイツの人類学者ヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハと研究を行った。バンクロフトは1822年までに広い分野の知識を習得した。
バンクロフトは数年に及ぶヨーロッパの周遊生活を経て、文学、化学、芸術など各分野の第一人者から注目を受けるようになった。バンクロフトと関係を持った人物には、ドイツの文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、ドイツの言語学者ヴィルヘルム・フォン・フンボルト、ドイツの博物学者アレクサンダー・フォン・フンボルト、ドイツの神学者フリードリッヒ・シュライエルマッハー、ドイツの哲学者ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル、イギリスの詩人ジョージ・ゴードン・バイロン、ドイツの歴史家バルトホルト・ゲオルク・ニーブール、ドイツの外交官de:Christian Charles Josias Bunsen、ドイツの法学者フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニ、フランスの哲学者ヴィクトール・クーザン、スイスの思想家バンジャマン・コンスタン、イタリアの詩人アレッサンドロ・マンゾーニらがいる。
政治生活
[編集]1844年、バンクロフトは民主党からマサチューセッツ州知事の候補として選出されたが、本選挙においてホイッグ党のジョージ・ブリッグズに敗北した。1845年3月、バンクロフトはジェームズ・ポーク政権に海軍長官として入り、翌1846年の9月まで同職を務めた。また、およそ1ヶ月間にわたって陸軍長官代行も務めた。海軍長官在任中、バンクロフトはアナポリスに海軍兵学校を設立し、後にカリフォルニア州の合衆国併合へとつながる指揮をとり、テキサス州とメキシコの間の係争地問題解決のため、ザカリー・テイラーを派遣した。また「自由の拡大」を標榜し、テキサス併合を促進した。
1846年、バンクロフトはイギリスのロンドンに合衆国特命全権公使として派遣された。そして1849年に帰国すると、ニューヨーク市に居住し、公職生活から退いた。
1864年4月、バンクロフトはエイブラハム・リンカーン大統領の要請により、ゲティスバーグ演説の原稿を作成した。この原稿は、現在知られている計5部の原稿のうち、第4番目の原稿である。1866年、バンクロフトは合衆国議会から、リンカーン大統領に対する特別功労を伝えるための伝達者に選出された。また1867年には合衆国の駐ベルリン公使として指名を受け、1874年まで同職を務めた。その後、余生をワシントンD.C.とニューポートで過ごし、1891年にワシントンD.C.で死去した。
バンクロフトの死後、その功績が称えられ、アメリカ海軍において複数の艦船にその名が付けられた。
外部リンク
[編集]- Howe, M. A. Dewolfe The Life and Letters of George Bancroft - Vol. 1 (1971 reprint)
- Wish, Harvey. The American Historian: A Social-intellectual History of the Writing of the American Past (1960) ch 5 on Bancroft