何かミスをしたあとで延々と叱られた経験や、何かと説教してくる人が身近にいたことはおそらく誰にでもあるだろう。ところが、長々と叱責されても言われた側の学習にはつながらないことが心理学や行動科学ではわかっている。ほとんど意味がないのに叱る人は減るどころか、SNSを覗くと処罰感情を爆発させている人は山ほど見つかる。
「叱る依存」という言葉でこの問題を捉えた『〈叱る依存〉が止まらない』の著者で臨床心理士・公認心理師の村中直人氏に、私たちが「叱る」とどう付き合っていけばいいのかを訊いた。
叱られても人は学べない
――叱ったところで叱られた側の学習効果は薄いという前提が、世の中では共有されていませんよね。
村中 そうですね。「叱る」、つまり恐怖や苦痛のようなネガティブ感情を利用して相手に変化を起こそうとする関わり方には効果よりもデメリットが多い。これは心理学や行動科学のリテラシーがある研究者や支援者のなかでは反論する人はまずいないくらいの科学的な常識にすでになっています。
「叱ることには効果がない」を少し解説しますと、叱られた人はディフェンス(防御)モードに入ります。神経科学的に表現すれば、叱られるとその人の脳の中で情動などを司る扁桃体を中心とした神経ネットワークが活性化し、身体中に「危険だ」とアラームが出る。
そうなると前頭前野の活動が抑制されて知的能力が下がり、思慮深い行動ができなくなります。しかし、自分の失敗について「どう振る舞えばよかったのか」を検討するには知的能力が必要ですから、叱られてしまった状態で何かを学ぶことは難しいわけです。
「叱る」擁護派の人でも、「弊害がまったくない」と思っている方は少数派でしょう。しかし、効果の方が上回っていると思われている。SNSなどを見ると「『叱る』と『怒る』は違う」とまことしやかに語られています。「怒る」は自分のため、「叱る」は相手のためにするもの、「叱る」と「しつけ」は同じであって叱らないと学べないことは多い、と。この思い込みは間違いです。
「叱る」と「怒る」が違うのは叱る側の感情体験だけで、受け手にとっては叱るも怒るも同じ苦痛であり、学習効果より弊害の方がはるかに大きいのです。
――叱られることで強烈な苦痛を味わった人は、その一時だけでなく、その後の人生に長期にわたる失調を抱えることがあると村中先生は指摘されていました。
村中 頻繁かつ長期間に叱られるような状態とは、前頭前野の活動が妨げられ、いわゆるIQが押し下げられ続けた状態と言えます。それが発達に良い影響があるはずがない。場合によっては心の病になるなど、将来にわたって悪影響を及ぼします。
問題は、そこまで科学的にはわかっているのに、社会に浸透していない。どうして叱ることが有用・有効だと思われてしまうのか。
最初から激しく叱る人はいないんですね。ところが最初はお小言や軽くビビらせるくらいで相手を動かせても、言われた側が慣れてくるとうまくいかなくなる。すると怒声を浴びせるといった、慣れることが不可能なほど強い刺激を用いるようになる。そうなれば叱られた側は、恐怖や苦痛から逃げるために叱った側に従います。その姿を見た叱る側は「やっと学んでくれた。やっぱり強く言わないとわからないんだ」と誤解する。これが「叱る」がエスカレートし、学習効果があると思われてしまうメカニズムの根本です。
叱る側の心が満たされていないことが「叱る依存」を生む
――叱ることには快楽があって、その行為に依存してしまう人も少なくない――そのことを「叱る依存」と村中先生は表現されています。人間が依存症になるプロセスに関する有力な仮説は、「自分の苦痛を和らげてくれるものに依存する」という「自己治療仮説」だそうですね。
村中 「叱る依存」とは「叱らずにはいられず、自分の力でやめられなくなってしまう」という状態です。行為に関する依存は「アディクション」と表現され、薬物依存のような「ディペンデント」とは分けて考えられています。人間が生きていくなかでアディクショナルな状態、言いかえると何かに「ドハマリする」ことは必ず発生します。習慣的に特定の行為をしてしまう、やめようと思ってもしてしまうことがあるのは当たり前のことで、そういう意味で「誰にでも起こりうる」。依存自体が悪なのではなくて、何に依存しているのかが問題です。
行為への依存は、余裕がなかったり、イライラしていたり、自分の人生に不全感を抱いているほど起こりやすい。ですから「叱る依存」も、叱る側が元気で健康でハッピーだとしたら、叱る行為に快楽があってもそこまでハマるとは考えにくい。叱る依存の典型的なパターンは、権力を行使して叱ることによって得られる快楽で自分をなんとか保っている、というものです。
――以前、盗撮行為の依存症(クレプトマニア)の治療に携わっている先生にお話をうかがったことがあります。撮った写真を見て性欲を満たすために盗撮していると世間では思われているけれども、実は盗撮常習者は撮る行為自体によってストレス発散などをしていて、撮ったものをろくに見ていないことがままある、と。ただ一度ハマってしまうと、手近にあるスマホなどの撮影できる機器がトリガーになって「よくない」と思いつつまた手を出してしまう、と。叱ることに依存してしまった場合、デバイスすら不要なので克服が難しそうだなと思いましたが……。
村中 目の前に叱る側がよくないと思うことをしている相手がいれば、声を出すだけで叱ることができるというトリガーの多さに関してはその通りだと思います。
私が「叱ることには快楽がある。だからハマってしまう」と言うと「いや、叱ることは気持ちよくなんかない。苦しいんです」とおっしゃる方もいます。それはいま例に出していただいた盗撮依存や買い物依存の人におそらく近い。盗撮依存者が撮ったものを見ない、買い物依存の人が買ったものを使わないということが、なぜ起こるのか。
神経科学的に言うと、人間の脳では「好き」と「ほしい」の回路は別なんですね。「ほしい」の回路が暴走していて「好き」の回路が働いていないから、盗撮したり買い物することには執着するのに、そのあとのことはどうでもよくなっている。健全な社会生活を毀損するほど「ほしい」だけが暴走していれば、本当の意味でのポジティブな感情は得られません。
叱る依存の人も同じで、叱った瞬間は「ほしい」のほうは満たされる。ところが叱ったところで「好き」の回路は付いてきていない。つまり充足感も満足感も得られないんです。加えて先ほども言った通り、相手の行動変容を起こすような学習効果もない。だから繰り返してしまう。その状態がむなしく、苦しいと語るのは偽らざる真情だと思います。
「叱る」とのうまい付き合い方はあるのか
――「まったく叱らないなんてムリだ、現実的じゃない」と思う方も多いと思いますが、有効なやり方はありますか。
村中 まず大事なのは、私は「叱っちゃだめ」と主張しているわけではないんです。効果は限定的ですが使い方はある。基本的には「抑止」として使う。何かが起こったあとで叱るのではなく、「こういうことをしたら、こんな危ないことがあるんだよ」といった予告を通じて特定の行動をしないように働きかける。言われた側が防御モードにならずに自分の行動を考えられる状況を作る、という点が重要です。
もうひとつの使い方は「危機介入」です。抑止だけではうまくいかなかった場合に、緊急的に状況を変える。たとえば子どもが高いところにのぼっていて危ない、というときに「叱っちゃだめだから放置する」べきではない。「降りなさい!」と強く叱ることが必要でしょう。するとネガティブ感情に包まれて子どもは降りるはずです。
ただし「危機介入」が終わったらすぐ叱ることをやめないといけない。「降りてくれたね、ありがとう」と言って子どものディフェンスモードを解除する。そのあとでなぜダメだったのか、どう振る舞うべきだったのかをお互い落ち着いた状態で話す。これが常識になるとだいぶ生きやすい社会になるはずです。
――つい言ってしまった、言いすぎたと気付いたあとの有効なケアのやりかたはありますか。
村中 叱る側が反省して「言いすぎてごめんね」とフォローすること自体はもちろん良いことだと思いますが、そこは本質ではない。
私の言い方でいえば、「叱る」に頼った接し方を反省した人間が取り組むべきは、相手の「ディフェンスモード」の時間をなるべく減らして「冒険モード 」――本人が主体者として意思決定し、がんばるんだと思って学べる状態――になれる部分や時間を増やすように関わることです。
権力を持つ側が「私が理想とする状態のあなたであってください」「思いどおりに人を動かしたい」という発想から脱却し、相手に自分の理想や願望を押しつけているのだという自覚がまず必要です。「従ってくれない」ことへの苛立ちが、声を荒げることにつながるわけですから。
よく「理不尽に耐えてこそ人は成長する」などと言う人がいますが、他人から強制された忍耐と自発的に選択した苦労はまったくの別物です。後者の内発的な動機に基づく行動は人を成長させますが、前者は「学習性無力感」と呼ばれる「何をやっても無意味だ」と思う状態に人を陥らせてしまいます。
処罰感情が暴走した「叱る依存社会」日本
――犯罪の厳罰化は再犯率低下に寄与しないのに罰したい気持ちを満たすために厳罰化に向かうなど、日本社会は「叱る」に依存している、という指摘もありました。
村中 日本社会は禁止と罰で相手をコントロールすることに安易に頼ろうとする傾向があると思います。たとえば悪名高き香川県のネット・ゲーム依存症対策条例がわかりやすい失敗例です。
一方で、失敗をしたり過ちを犯したりした人に対する立ち直りや支援に関するシステムは整備されていません。「罰が学びや成長に資する」と思っていると、選択肢として立ち直りや支援は浮かび上がってこないんですね。警察や司法、行政が自ら「刑務所に更生機能がない」とは言えないですから、ここは外から働きかける、もしくは外にそういう場を用意することで変えていくしかないと思います。
――人は「相手のため」「社会のため」と思いながら攻撃的になり、SNS上でバッシングが過剰に起こったりするけれども、そういう処罰感情をどううまく処理するのかに関する議論や取り組みがされてこなかったとも村中先生は書かれています。社会規模の「叱る依存」に対して、どんなことしていけばいいでしょうか。
村中 よくないことをした人自身の罪と、過剰な人格攻撃や事実無根ないし憶測に基づく書き込みなどとは、分けて考える必要があります。その上で「不正義に対して声をあげることは間違っていないかもしれない。けれどもそれは相手や社会をよくすることに貢献していない、ただ攻撃によって快楽を得るための行為だ」ということを社会通念にする。これが行動の自制につながると思います。
――私たちが「叱る」を手放していくには、どんなことをしていけばいいでしょうか。
村中 ミクロとマクロ、それぞれにあります。マクロ視点から言うと、科学的なエビデンスに基づき社会常識をアップデートし、叱り続けることへの抑止力を高める。とはいえどれだけ社会常識が変わっても、叱る依存にハマる人はゼロにはならないし、叱ることの難しさで悩む人は必ず出てきます。叱る人や叱られた人に対する支援、体制づくりも同時に重要です。
ミクロ視点、ひとりひとりの生き方に関していえば、「叱るを我慢する、禁止する」という発想では解決になりにくい。うまく叱る依存から脱出できた場合には「気が付いたら減っていた」という状態になっています。「叱っちゃダメ」ではなく「叱るを手放す」。叱る依存を克服するには、こうしたゴール設定の仕方が重要です。薬と違って「叱る」には身体依存は発生しませんから、状況や捉え方が変わっていけば脱出できるはずです。
「叱る依存」という言葉で私が提起したいのは「叱る否定論」ではありません。「一切叱るな」ではない。抑止と危機介入に限れば叱る側、叱られる側双方に問題ないかたちもありえます。どんなものにも効果と限界があります。バランス感覚を持って、うまく付き合っていきましょう、ということです。