二〇一九年の夏、ネット(note)に「松本人志についてのノート」という批評文を公開したところ、当初の想定を超えて、大きな反響がありました。長文であり、内容も生真面目な評論文だったため、反応の大きさが意外でした。それだけ、芸人としての松本人志の影響力が大きいということであり、多くの人にとって「松本人志とはどんな存在なのか?」ということが気になっているのでしょう。
それだけではなく、芸能人やお笑い芸人たちという存在そのものが、現代社会のあり方を象徴しているのかもしれない、とも感じました。
実際に私たちはすでに、様々な社会的・政治的な問題を、メディアやSNSなどを通じて「ワイドショー的」「芸能的」に認知し、解釈し、理解するような社会の中で生きています。関心を集めている人々の行動について「うまいことを言おうとする」、そしてそのことによって注目を集めようとする、マキタスポーツ氏の言う「一億総ツッコミ社会」、すなわち「総芸能人化社会」です。
そして少なからぬ人々は、インスタントでパートタイムな芸人・芸能人のように周囲から承認され、称賛されることを欲望しているように思えます。
山本太郎と『ジョーカー』
思い返してみれば、私が上記の文章を書いた二〇一九年を象徴したのは――現実の政治と虚構の物語の違いを超えて――「階級脱落し零落した芸能者・芸能人が、ポピュリズム(大衆主義)的な政治性に覚醒する」という現象だったのではないでしょうか。
たとえば吉本興業の所属芸人たちの反社会勢力との「闇営業(直営業)」の問題と、それを解決するための松本人志の「後輩芸人達は不安よな。松本動きます」というtwitterでの行動宣言。元芸人・役者である山本太郎の数々のパフォーマンスと、れいわ新選組(二〇一九年四月設立)の躍進。ホアキン・フェニックス主演の映画『ジョーカー』の大ヒット(アーサーは零落した芸人であり、どん底に落ちて、そこから「悪のカリスマ」へと覚醒していきます)。
あるいはそのジョーカーを擬した小梅太夫(!)のちょっとした人気。『アナと雪の女王2』のアナの民主主義に対する絶望と、エコテロリズムへの覚醒……。
『ジョーカー』のアーサーとれいわ新選組の山本太郎は、政治的な意味での「右」にも「左」にもなりうるような、大衆たちの情動と怒りを解き放つ「下」からのポピュリズム性――いわば芸能ポピュリズム的なもの――を体現した存在であるように思えました。
山本太郎はもともと『ビートたけしのスポーツ大賞』のダンス甲子園から出てきて、「メロリンQ」という一発ギャグで人気を獲得しました。ほかの高校生たちが必死に高度なダンスを競ってるのに、それとは全然違うことをしていたのです。それはある種のルール破壊のような一発芸でした。その後、ご存知のとおり、山本太郎は俳優を経て政治家になります。
そして山本は政治家になってからも、国会で牛歩戦術を試みたり、当時の天皇に対して直訴状を足尾鉱毒事件の田中正造のように持っていったり、自分よりも優先して障害者たちを国会に送り込んだりと、政治の中にある種の演劇性、ある種の芸能的な力をあらためて導入しようとしてきました。
トランプ大統領の芸能性
すでに言及した吉本芸人の反社会的勢力との「闇営業」問題に際して「松本動きます」と宣言した松本人志の「ワイドナショー」的な政治的パフォーマンスも、私たち大衆の欲望をうまく吸引し、カリスマ的な力を見せつけるという意味で、そうした芸能ポピュリズム性と共鳴する面がありました。
あるいは時代を象徴する芸能的な存在と言えば、やはり、二〇一七年一月二〇日にアメリカ合衆国大統領に就任したドナルド・トランプだったと言えるでしょう。トランプは、互いのカツラ疑惑を発端として、大富豪同士で代理レスラーにプロレスをさせるなど、メディアをたくみに利用して自己イメージを展開してきました。
そしてトランプの大統領就任のあとに、世界中でジョージ・オーウェル『一九八四年』『動物農場』、オルダス・ハックスリー『すばらしい新世界』、レイ・ブラッドベリ『華氏451度』などの、よく知られた古典的なディストピア(反ユートピア)小説が再びベストセラーになったことも、徴候的だったように思えます。
芸能人(的な存在)が政治性に覚醒する一方で、政治の側は不気味な「芸能性」を帯びているように見えます。モリカケ問題をめぐる国会でのやり取り(いわゆる「ご飯論法」))に象徴されるように、もう何年ものあいだ、すっかり、この国の政治家や官僚の答弁やパフォーマンスは、出来の悪いコントや漫才のようであり、ナンセンスなブラックユーモアのようにすら感じられてしまいます。私たちはそれにすっかり慣れ切ったようですらあります。
ダークヒーローたちの登場
零落した芸人・芸能人(それに類する脱落感を抱えた人間)の一部が権力を持った存在になり、人々を動員しようと試みる一方で、別の場所では「脱落した状態」のまま、承認への欲望を肥大化させ、空転させ、暴走し、そのことによって権力とつながろうとするような例も頻繁に見られました。
たとえば相模原の障害者施設で一九人を殺傷した植松聖青年もまた、劇場型犯罪者にして、ポピュリスト的な欲望の持ち主でした。植松は、重度障害者(彼のいう「心失者」)を殺傷することは日本のため、社会のためだと述べました。自分の言動はこの国の政治家や多数派国民のホンネをすくいとってみせたものであり、彼らがやりたくてもできないことを代わりにやってみせたのだ、と。
実際に植松は、そのポピュリズム的な欲望(下々の大衆と最上の権力の直流を信じる想像力)に基づいて、安倍晋三やドナルド・トランプの言動に共感し、彼らなら自分の行為の意味を分かってくれるはずだ、と信じたのです。
私たちはこれらの現象を、グローバルな視野においてとらえ返すべきでしょう。たとえば現代アートの世界でも、世の中からの承認を得るために、あるいは階級上昇するために、炎上や犯罪、暴力の領域へとしばしばインフレしていく、という現象が見られます。そのリミットとして、テロリズムをアート化し、大量殺傷によって自らを芸能人化する、という「ダークヒーロー」の戦略があります。
アクティヴィストのフランコ・ベルラディは、パリの同時多発テロ、コロンバイン高校の銃乱射事件、ヴァージニア工科大学のチョ・スンヒによる銃乱射事件など、近年の世界中の銃乱射や大量殺戮を分析して、彼らの行動は「スペクタクル的な殺戮をともなった自殺」のようなものであり、それは現代的な「絶対資本主義」(金融資本主義)がもたらす絶望に対する痙攣的な反応なのだ、と論じています。大量殺人は「われわれの時代の傾向を、極端な形で体現」するものなのだ、と(『大量殺人のダークヒーロー――なぜ若者たちは、銃乱射や自爆テロに走るのか?』)。
重要なのは、彼らが無差別の大量殺人を、犯行予告やリアルタイムの動画配信を行うことによって、いわば現代アートのように行っていることです。大量殺人は、持たざる者たち(自分たちは持たざる者であると信じ込んだ人々)の芸術活動であり、芸能的なパフォーマンスでもあるのです。
もっとも、こうした事態は、一部の「極端な人々」だけの問題ではありません。現代のSNSなどでは、芸能人の不倫や違法薬物報道だけではなく、様々な政治問題や社会問題まで、何もかもが大喜利になっていきます。人々の生き死にに関わる切実な問題すらも、たんなる「ネタ」として日々タイムラインを流れていきます。
そうした状況は、次第に、我々大衆の中に、享楽的な相対主義、冷笑化、ワイドショー化をもたらしてきたように思えます。その副作用のようにして、無制限の承認欲求や自己肥大感が醸成されてきました。YouTuberなどのネット動画の世界、あるいは現代アートの世界が過激化し、炎上や犯罪まがいの行為へとインフレしてきたのです。
芸能の可能性を見つめる
政治権力によって芸術や芸能が簒奪されていくばかりか、政治権力の中心に出来の悪い芸能者がいるかのようにみえる。そうした現代社会において、芸能の力とはどんなものでありうるのでしょうか。また、私たち大衆が新しい観客になっていくとは、どういうことなのでしょうか?
そのようなことを新刊『人志とたけし――芸能にとって「笑い」とは何か』(晶文社)では考えてみました。今回の本の中では、松本人志とビートたけし(北野武)の二人に焦点を当てています。いずれも長い間カリスマ的な力を持ってきたお笑い芸人であり、文化人です。彼らの存在を通して、現代社会の芸能の可能性を見つめてみようと思いました。
松本人志の笑いには、どこか、不気味な空虚さを感じてきました。上も下も、善も悪もかき混ぜて、一瞬でダイナシにして、すべてを「うんこ」ですらない「うんこちゃん」にしてしまうような笑い。何もかもを相対化し、糞味噌にしながら、「私は神だ」(byモンスターエンジン)と自らを神格化するような笑い。松本の笑いには悲しみや哀愁がある、としばしば言われますが、そうした人間的感情よりも、怪物性を私は感じてきました。
他方で、ビートたけし/北野武の存在に対しては、ずっと畏怖の念を感じてきました。たけし/武の「くだらねー」という非人間的な笑い。そこでは、笑わせることと暴力的にふるまうこと、自滅することと遊ぶことがフラットになってしまうかのようです。何もかもが平等に「くだらねー」のだとしても、そんな虚無の彼方から、ふっと漏れ出るものがある。それこそが芸能的な笑いである……そのような畏怖の念です。
とはいえ私は――この本の中でも何度か述べているように――現代的なお笑い芸人や芸能界の専門家ではありません。あくまでもただの素人として、個人的な批評文を書いてみた、という感じです。
そのため、芸能と現代社会の関係をより複眼的に考えてみるために、九龍ジョー氏、マキタスポーツ氏、矢野利裕氏、西森路代氏との対談・座談を行い、収録しました。いずれも芸能の最前線について、あるいはその歴史について、豊富な経験や知識をもった方々です。この本のメインはむしろこの対談・座談にあるとも言えます。
それらの対談・座談の中では、各論者の考え方の違いや争点もところどころに露呈しており、そのポリフォニー性(多声的な音楽性)もまた、たいへん興味深いものになっています。ある意味でこの本は、「雑誌」のような一冊だと思っています。
まっとうな観客になるために
依然として新型コロナウィルスが深刻な猛威を振るう中、日本政府の対策やアナウンスは、漫才やコントやブラックユーモアよりもさらにバカバカしく、想像を超えてくだらないものであり、絶望的に苦笑いするしかない。どうしてもそう感じられてしまいます。
しかしそれを他人事として考えることもできません。私たちが「まっとうな観客」になっていくためには、特定のカリスマ的芸人の言動に心酔するのではなく、あるいは次々と若手芸人たちを消費するのでもなく、芸能者・芸能人たちとの生産的な緊張関係を保てるようになっていく、ということが必要でしょう。
それはすべてが大喜利になり、ネタ化し、総芸能人化していく社会の中で、私たちがまっとうな「政治の観客」(政治との緊張関係のある大衆)になっていくにはどうすればいいのか、という問いとも結びついています。
歴史を振り返れば、芸能的な笑いというものは、いつでも、けっして笑うに笑えないような状況の中で、それでも民衆/大衆とともに人間的な自由の喜びを見出してきたのではないでしょうか。そのような笑いが、来年以降も無数にこの世界を満たしてくれることを、ひとりの観客として、いち大衆として、大いに待ち望んでいる次第です。