前回の〈徳川vs.武田の争奪、そして豊臣へ! セットで共存・二俣城と鳥羽山城〉では、二俣城(静岡県浜松市)をめぐる徳川家康と武田信玄・勝頼父子との争奪戦を紹介した。二俣城は、信州と遠江(とおとうみ)南部を結ぶ秋葉街道と、奥三河や東遠江につながる街道とが交差する地にある。遠江北部の戦略的拠点として争奪の必至性はお分かりいただけただろう。
一方、遠江東部で熾烈(しれつ)な争奪戦が繰り広げられたのが〈武田信玄・勝頼VS.徳川家康! 争奪戦の痕跡残る高天神城(2019年8月掲載)〉で紹介した高天神城(たかてんじんじょう、静岡県掛川市)だった。今回は、高天神城奪還のために家康が構築した砦(とりで)群をご紹介しよう。
城と城のネットワーク形成 にじむ戦略
信玄が遠江・三河への同時侵攻を開始したのは、1572(元亀3)年のことだ。今川氏没落後の信玄は駿河の領有権をめぐり北条氏と対立していたが、1571(元亀2)年に北条氏康の死去を機に甲相同盟が復活すると、全軍の矛先を西へ向けた。
信玄率いる本隊は、駿府から田中城(静岡県藤枝市)、小山城(同吉田町)、滝境城、相良城(ともに同牧之原市)を抜け、高天神城を経由し二俣城で別動隊と合流している。二俣城を陥落させると、ついに遠江北部は武田領となった。
二俣城を失い、さらに三方ケ原(みかたがはら)の戦いで大敗を喫した家康。1573(元亀4)年4月に信玄が病死したことで九死に一生を得たが、年が明けると、信玄の後を継いだ勝頼が再び攻め寄せる。1574(天正2)年1月、織田信長領の美濃へ侵攻を開始すると、破竹の勢いで信濃・美濃国境付近の諸城を陥落させて三河侵攻の突破口を切り開いてきた。

遠江の攻略を狙う勝頼の動きで注目しておきたいのは、1573(天正元)年に諏訪原城(静岡県島田市)の築城を命じていることだ(〈武田の城か徳川の城か 教科書的な「丸馬出」が残る名城 諏訪原城=2020年5月掲載=〉)。背後に大井川が流れる、明らかに水運を味方にした兵站(へいたん)拠点である。勝頼は諏訪原城に加えて小山城、滝境城や相良城を整備し、江尻城から物資を補給する大井川の舟運ルートを強化。駿府から通じる東海道筋の進軍ルートと物資補給の兵站ルートを確保した。
このように城と城の連携を細やかにたどっていくと、つくづく戦いとは総力戦であると思い知らされる。包囲戦は、ネットワークの緻密(ちみつ)さが勝敗を分けるのだ。おのずと双方の戦略が浮かび上がり、この頃の勝頼の優勢ぶりもわかる。
1574(天正2)年5月、勝頼はついに高天神城を攻略。地図上で配置を確認すれば、「高天神城を制すれば遠江を制する」とうたわれた理由は一目瞭然だ。前述の〈武田信玄・勝頼VS.徳川家康! 争奪戦の痕跡残る高天神城〉で紹介したように、勝頼は高天神城を改修して強化し、西遠江進出の兵站基地として機能させた。
武田氏が数年後に滅亡するとは、このとき誰が予測しただろうか。形勢逆転の契機になったのは、1575(天正3)年5月の長篠・設楽原の戦いである。特筆すべきは、高天神城を奪還した家康が、すぐさま諏訪原城を攻略して大改修していることだ。諏訪原城がいかに東遠江支配に重要かということを示している。武田方にとっては土崩瓦解(どほうがかい)のはじまりで、舟運ルートや兵站基地を失うことのダメージの大きさがよくわかる。
1581(天正9)年、家康はついに高天神城を奪還。遠江における居場所を失った勝頼は撤退を余儀なくされ、翌年に滅亡した。


















