心が貧しくなることに、そっと「いいえ」と言う
戦争反対というポーズやキャラ設定は、言ってみれば清廉さの象徴として、これまでの創作物の中で多く消費されてきた。 正直に告白すると、今進行している戦争を自分事として捉えるのは温々生きる私にはかなり難しい。どこか遠い世界の、現実感のない出来事のように思えていた。
しかし、私たちの日常は、すでに静かに、確実に蝕まれ始めている。
最近、パッケージの色彩が失われ、グレースケール(モノクロや色数削減)になったお菓子の袋を現実に目の当たりにすることがある。 かっぱえびせんのパッケージはスーパーのお菓子コーナーで逆の意味で目立っていて実にショッキングだった。
物価高や原材料高騰の波は、ついに僕らの暮らしの末端にまで到達した。末端というかその実、くるぶしくらいまで来ている感覚、濡れた靴下をはき続けているようなフィジカルな居心地の悪さ。
この現象の裏には「ナフサ不足」がある。 ナフサはプラスチックや印刷用インキの絶対的な基礎原料であり、国際情勢の緊迫や戦争によって原油価格が跳ね上がれば、ダイレクトに供給が途絶え、高騰する。風が吹けば桶屋が儲かるの逆パターンである。
遠くの国の戦争というマクロな不条理が、ナフサという1本のパイプを通じて、私たちが手にするお菓子の色彩を奪っている。今はまだ「かっぱえびせん程度」かもしれない。けれど、この先は確実に対岸の火事では済まなくなる。
かつてジョン・レノンとオノ・ヨーコは、1969年に『WAR IS OVER!』という反戦キャンペーンを世界中で展開した。彼らが大都市の巨大ビルボードに掲げたのは、白地に黒のタイポグラフィだけ。あえて色彩を剥ぎ取ったグレースケールの文字で、消費社会の快楽に浸る人々をハッと現実に引き戻すという、自発的で攻めのアートアプローチだった。
しかし、いま目の前にあるモノクロのパッケージは違う。 表現としての選択ではなく、コストカットという不条理な制限に追い込まれた結果だ。
これは、クリエイティビティが戦争に負けている縮図だと言ったら言いすぎか?
世界を楽しく、美しく、豊かに彩るはずのデザインの「ラティテュード(表現の階調)」が、戦争がもたらす冷徹な経済の波に押し潰され、実用主義に強制的に染められていく。
生き延びるためだけなら、お菓子の袋はアルミパックのままでもいいかもしれない。けれど、そんな風に「仕方のないこと」として表現の幅を狭められ、世界の色彩が失われていくのを容認していくうちに、私たちの心は少しずつ、確実に貧しくなっていく。
戦争は、私の生活において割と困ったことになる。時間の問題で。
だからこそ、綺麗事のポーズではなく、一人の生活者として、真面目に戦争を止めるべきだと私は思った。少なくともこのくるぶしまで来ている薄ら怖さをまずは伝えたい。 デザイナーとして、またはクリエーターとして心が貧しくなることには「No」と言いたい。 それこそが、私が今持ちうる、切実な「アティチュード(姿勢)」であり、親としての願いでもある。
文:阿部信太郎 / シンタロヲフレッシュ






