源生
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時代 | 平安時代初期 - 前期 |
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生誕 | 弘仁12年(821年) |
死没 | 貞観14年8月2日(872年9月8日) |
官位 | 正四位下、参議 |
主君 | 仁明天皇→文徳天皇→清和天皇 |
氏族 | 嵯峨源氏 |
父母 |
父:嵯峨天皇 母:笠継子(笠縫または笠仲守の娘) |
兄弟 | 有智子内親王、潔姫、正良親王、正子内親王、信、貞姫、弘、常、全姫、寛、明、善姫、定、秀良親王、忠良親王、生、安、融、鎮、勤、啓、業良親王、基良親王、業子内親王、秀子内親王、俊子内親王、芳子内親王、繁子内親王、基子内親王、仁子内親王、宗子内親王、純子内親王、斉子内親王、淳王、清、澄、勝、賢、継、若姫、密姫、端姫、盈姫、更姫、神姫、容姫、吾姫、声姫、年姫、良姫 |
妻 | 不詳 |
子 | 加、見 |
源 生(みなもと の いける/なる)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。嵯峨天皇の皇子(第九源氏)。官位は正四位下・参議。
経歴
承和5年(838年)无位から従四位上に直叙される。承和10年(843年)加賀守任ぜられると、承和12年(845年)備後守、嘉祥3年(850年)山城守と仁明朝後半に地方官を歴任する。文徳朝では、嘉祥4年(851年)左京大夫、斉衡2年(855年)治部卿と京官を歴任し、この間に美作守も兼ねている。
天安2年(858年)清和天皇の即位に伴って正四位下に昇る。貞観2年(860年)大蔵卿を経て、貞観6年(864年)参議に任ぜられて公卿に列す。議政官として引き続き大蔵卿を兼ね、貞観11年(869年)には兼職が右衛門督に遷った。
貞観14年(872年)数ヶ月に亘って病に伏し(一説では眼病[1])て遂には落髪して僧侶となり[2]、8月2日に卒去。享年52。最終官位は参議正四位下。
官歴
注記のないものは『六国史』による。
- 承和5年(838年) 11月29日:従四位上(直叙)
- 承和10年(843年) 正月12日:加賀守
- 承和12年(845年) 正月11日:備後守
- 嘉祥3年(850年) 日付不詳:山城守[1]
- 嘉祥4年(851年) 2月8日:左京大夫。4月1日:出居侍従
- 仁寿4年(854年) 正月16日:兼美作守
- 斉衡2年(855年) 2月:治部卿[1]
- 天安2年(858年) 11月7日:正四位下
- 貞観2年(860年) 2月14日:大蔵卿
- 貞観3年(861年) 正月13日:兼筑前権守
- 貞観4年(862年) 正月13日:兼讃岐権守
- 貞観6年(864年) 正月16日:参議、大蔵卿讃岐権守如元
- 貞観9年(867年) 正月12日:兼相模守
- 貞観10年(868年) 正月16日:兼讃岐権守
- 貞観11年(869年) 2月16日:右衛門督、讃岐守如元
- 貞観14年(872年) 7月24日:罷右衛門督(抗表)。8月2日:薨去(参議正四位下)
系譜
『尊卑分脈』による。