水平社宣言
水平社宣言(すいへいしゃせんげん)は、全国水平社創立に際して、その告文として発された宣言文。日本最初の人権宣言である。
西光万吉を起草者として、1922年(大正11年)3月3日、京都府京都市の岡崎公会堂で開かれた全国水平社創立大会の場において、駒井喜作によって読み上げられ、ここに部落解放運動の勃興が全国に知らしめられた。
本文
全國に散在する吾が特殊部落民よ團結せよ。
長い間
大正十一年三月 — 1922年3月3日、京都市・岡崎公会堂にて宣言虐 ()められて來た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々によつてなされた吾らの爲めの運動が、何等 ()の有難い効果を齎 ()らさなかつた事實は、夫等 ()のすべてが吾々によって、又他の人々によつて毎 ()に人間を冒涜されてゐた罰であつたのだ。そしてこれ等の人間を勦 ()るかの如き運動は、かへつて多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際 ()吾等 ()の中より人間を尊敬する事によつて自ら解放せんとする者の集團運動を起せるは、寧ろ必然である。
兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇仰者 ()であり、實行者であつた。陋劣 ()なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であつたのだ。ケモノの皮剝 ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剝取られ、ケモノの心臓を裂く代價 ()として、暖 ()い人間の心臟を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の惡夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸 ()れずにあつた。そうだ、そして吾々は、この血を享 ()けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印 ()を投げ返す時が來たのだ。殉教者が、その荊冠 ()を祝福される時が來たのだ。
吾々がエタである事を誇り得る時が來たのだ。
吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦 ()なる行爲によつて、祖先を辱しめ、人間を冒瀆してはならぬ。そうして人の世の冷たさが、何 ()んなに冷たいか、人間を勦 はる事が何 んであるかをよく知つてゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃 ()するものである。
水平社は、かくして生れた。
人の世に熱あれ、人間 ()に光あれ。
特徴
- 米騒動後の同情融和思想の本質が人間の冒涜であることを、両義的字句の「勦(いたわる。 旧かな遣い : いたはる)」を二ヶ所用いて表現した。同時に「勦」の送り仮名に「抜け字」(脱字)を用いて「る」とし、もう一つには「はる」と表示した。これは起草者西光万吉が人権宣言の未完を通じて、人権確立の困難性を示唆しようとしたものである。なお、西光は美術家でもあり、当時の外来の芸術思潮として受容された「ドイツ表現主義」の影響を受けて、内面からの表現を重視した。反差別に対して集団運動の必然性を説き、根元的な人間の尊厳を高唱した。
余話
- 米国、ロシア、英国、フランス等においては、『日本で初めての本来民衆による解放運動が起こった』との旨で、トップニュースで伝えられたという。
- 締めの一文である『人の世に熱あれ、人間に光あれ』は、人権標語などにたびたび用いられ、広く認知されている。
- 水平社創立、水平社宣言発表までを描いたドラマ「3月3日の風」がある。
- 締めくくりの言葉にある「人間」を(じんかん)と読むのは仏教由来である。「人に個別に光があたるんじゃなくて、人と人の間の万物すべてに光があたることで、人も物も平等になるという意味」とのこと。初出は『部落解放』1995年390号(解放出版社・1995年6月10日発行)にある永六輔「ぼくが出会った西光さん」というインタビュー記事である。記事では、浄土真宗の家に生まれた永が西光に「『人間』は『にんげん』と読むんじゃなくて、『じんかん』と読むんじゃないんですか」と質問し、西光は「いいんです、『にんげん』で。でも、ほんとうは『じんかん』なんです」と回答している。
- 一方、全国水平社が発行した『水平』第一巻創立大会号(水平出版部・1922年7月発行)の「全國水平社創立大會記」では、水平社宣言が振り仮名つきで掲載されており、本文では「人間(にんげん)」と読んでいる。