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漆間時国

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漆間時国は美作国の人で法然上人の父にあたる。妻は秦氏である。

略歴

法然上人の母は秦氏で、漆間時国は美作国の人である。法然は長承2年(1133年)4月7日に、美作の地に誕生した。名を勢至丸と名づけられた。勢至丸というのは勢至菩薩のように賢い知恵を持った子供という意味で、学問と武芸に秀でていて、ことに弓を射ることにおいては格別のものがあった。ところが、勢至丸が9歳の時、明石源内武者定明が、不意に夜討ちを仕掛けてきた。父漆間時国は、この時重症を負ってしまった。勢至丸が、定明に向かって矢を射つと、矢は定明の顔面に命中、彼は這々の態で逃げ帰った。父は瀕死の床の中で、決して仇を討たないようにと、勢至丸を諭した[1]。父の死後勢至丸は出家し、美作の菩提寺で修行を積んだ。並々ならぬ才能を見抜いた叔父の住職の勧覚は、比叡山での修行を薦めた。彼は比叡山に登り、源光に会い、修行を開始した。熊谷次郎直実[2]は、平敦盛を討ち取った事で知られているが、後年武士の生き様の虚しさに気付き、敦盛の供養のためもあって出家し、「法力房蓮生」と号した。蓮生は各地を行脚した。彼は法然の徳を慕い、真っ先に、建久4年(1193年)美作を訪れ、法然の父である漆間時国の旧宅、すなわち法然生誕の地に寺院を建立した。それが誕生寺である。法然の父は地元の人に、尊敬されるような人だったと言われている[3]

出自

美作国の人で押領使という役職であった。出自については各説あるが詳細は不明である。

脚注

  1. ^ この際法然に対して、「出家するように」と言ったという説もある。
  2. ^ 直実の末裔の熊谷直時は、安芸国三入庄(みいりのしょう、現在の広島市安佐北区可部町周辺)の地頭職を与えられた。
  3. ^ 定明が嫉妬して夜討ちしたという説がある。

参考文献

リンク