「経営と編集の分離」の原則、あるいは「編集の独立性」
一般にサラリーマンは自ら所属する会社の利益のために行動する。会社の利益への貢献度を高めることができれば、ボーナスをもらえるし出世もできるだろう。
新聞社に勤める記者も同じだろうか。記者はサラリーマンであると同時にジャーナリストでもある。ジャーナリストであるならば、会社ではなく読者の利益を第一に考えて行動しなければならない。会社の利益を優先したら、中立公正な報道から逸脱してしまいかねない。
だからこそ報道機関にとって「経営と編集の分離」の原則は重要なのだ。「編集の独立性」という表現でもいい。これを徹底しないとジャーナリストがサラリーマン化し、読者ではなく上司の顔色をうかがいながら紙面を作ってしまう。
朝日新聞の従軍慰安婦報道を検証するための第三者委員会(委員長=中込秀樹・元名古屋高裁長官)が12月22日に報告書をまとめた。ここでも経営と編集の分離が焦点の一つになった。報告書は次のように指摘している。
〈 報道機関において「経営と編集の分離」の原則を維持し、記者たちによる自由闊達な言論の場を最大限堅持することの重要さについて、いま一度確認すべきである。 〉
慰安婦報道をめぐって経営幹部が編集内容に過剰に介入することがあったからだ。つまり、経営幹部からの圧力によって報道内容がゆがんでいたというのだ。
たとえば今年8月上旬の検証記事。朝日は焦点の「吉田証言」について虚偽と認めたにもかかわらず、紙面上では謝罪しなかった。報告書によれば、検証チームは当初1面掲載の論文や囲み記事で訂正しておわびする紙面案を作成。しかし、社長だった木村伊量(ただかず)氏から反対され、1面の論文で「反省」の意を表明する方針に決まった。
続いて同月末には、ジャーナリストの池上彰氏が連載していたコラムの不掲載を決めた。木村氏は対外的には、不掲載を決めたのは取締役編集担当を務めていた杉浦信之氏であると説明していた。実際は違った。報告書によれば、編集部門は池上氏の原稿をそのまま掲載する予定であったものの、木村氏から難色を示されてそれに抗しきれなかった。
個々の記者の問題ではなくシステム全体の問題
慰安婦報道をめぐっては、朝日は読売や産経などライバル紙からも激しく追及されている。しかし、経営と編集の分離を徹底できず、読者の利益ではなく会社の利益を優先して紙面を作りがちなのは朝日だけではない。新聞界全体にも当てはまる。
それは個人的な体験からも言える。私が新聞社を辞めるきっかけになったのも朝日と同様に「経営幹部からの圧力」だったからだ。
2006年秋のことだ。日本経団連はいわゆる「三角合併」の解禁に反対するキャンペーンを展開。三角合併を外国企業に対して解禁すると日本企業が巨大外資にどんどんとのみ込まれ、貴重な技術が海外に流出してしまう---こんな論調を掲げていた。三角合併とは、自社株を通貨のように使って企業を買収する株式交換と同義だ。
拙著『不思議の国のM&A』にも詳しく書いたのだが、私は日経新聞編集員として夕刊に「外資脅威論」と題した小さなコラムを書いた。その中で「外資の日本への投資熱は冷え込んでいる。むしろ買収を促す要望を出すタイミングではないのか」と指摘。すると、経団連から「日経にはちゃんと説明しているのになぜこんな記事が出るのか」といったクレームをつけられた。
それでも私は気にせずに、別のコラムを使って「日本企業に対してはすでに三角合併は解禁されている」「国境を越えた企業買収で株式交換を規制している主要国は日本だけ」などと指摘する記事を書いた。すると、今度は「社内的に微妙」という理由で原稿は預かりになり、結局はボツになった。自己責任で書く署名入りコラムなのに、である。
実は、経団連は日経幹部を呼びつけるなどして解禁反対論を説いていた。それが功を奏し、編集局内では解禁賛成論を自粛する雰囲気が蔓延。編集会議でまとめられる経営幹部向けメモも、経団連側の意向に沿って書かれ、私が指摘する論点は無視されていた。私は三角合併問題では誰よりも取材していた自負があったのに、コラムをボツにされた後は事実上何も書けなくなってしまった。
社内には「自分が犠牲になっても現場の記者を守る」という気概で対応する上司はいなかった。言い換えると、ジャーナリストではなくサラリーマンとして行動する人たちが多数派だったのだ。水面下では編集局内部で「経団連を気にする上層部は情けない」という声が多かった点を考えると、これは個々の記者の問題ではなくシステム全体の問題といえる。
より分かりやすいのはスポーツ報道だ。朝日は高校野球に大きな紙面を割くし、読売は読売ジャイアンツに大きな紙面を割いている。前者は読売ジャイアンツのオーナーとして、後者は甲子園大会の共同主催者として特別な利害関係を持っているからだ。
これについて「スポンサーなんだから大きく扱って当然」と考えたら大間違いである。5月16日公開の当コラムでも書いたように、高校野球紙面もプロ野球紙面も自社広告ではなく報道のためにある。ニュース価値があれば1面で大きく報じるし、ニュース価値がなければ中面で小さく報じる---これが本来の姿だ。
新聞記者が会社の利益を第一に考えるサラリーマンであるとしよう。朝日に所属していれば夏の甲子園、読売に所属していればジャイアンツをできるだけプレイアップして上司を喜ばせようとするだろう。上司から「これは社業なんだからきちんと書けよ」と命じられているのだから。これでは読者目線を保てない。
読者にしてみれば「夏の甲子園が好きだから朝日を読んでいる」「長年のジャイアンツファンだから読売を読んでいる」といった声も聞こえてきそうだ。だが、本来の読者目線とは、経営の意向とは関係なくニュースの価値を判断することだ。
「脱サラリーマン記者」をスローガンに
どうすればいいのか? 「経営と編集の分離」を精神論として唱えるのではなく、仕組みとして導入してみてはどうか。
日本の新聞社では通常、新卒一括採用で入社した記者が社内競争を勝ち抜き、経営幹部に抜擢される。社長を筆頭に副社長や専務、常務ら経営幹部の大半は記者出身だ。要するに成功すると記者から経営者へ転身してしまうのだ。編集委員や論説委員コースに乗るのは少数派であり、脂の乗り切った40代で実質的に"記者卒業"となるケースは多い。
朝日では社長を辞任した木村氏も記者出身だし、後任社長になった渡辺雅隆氏も記者出身だ。池上氏のコラムをめぐって編集責任者として矢面に立たされ、最後は出勤停止・停職2ヵ月の処分を受けた杉浦氏は「取締役編集担当」だった。日本ではこの肩書に違和感を持つマスコミ人は少ないと思われるが、経営幹部が編集責任者である実態を如実に示している。
これだと記者はジャーナリストというよりもサラリーマンとしての立場を優先しかねない。「読者にアピールして著名ジャーナリストになる」のではなく「上司に気に入られて経営者になる」を目標にした場合、読者の利益よりも会社の利益を第一に考えて行動するようになるのではないか。
アメリカでは仕組みのうえで経営と編集は分離されている。記者は「ジャーナリストをやめる」と宣言しない限りは編集部門以外では働かない。編集者として成功すれば「編集主幹」と訳されることが多い「エグゼクティブエディター」や「マネジングエディター」になるし、記者として成功すれば「生涯一記者」になる。50代、60代になっても最前線で活躍している記者は多い。
では誰が社長になるのか。ジャーナリストではなく経営のプロである。そもそもジャーナリストと経営者では求められるスキルが違っていると考えられており、ジャーナリストとして成功したからといって社長の器と見なされることはまずない。「パイロットとして優秀だから航空会社を経営できる」と言われないのと同じである。
もちろん経営者が編集にまったくノータッチでいいわけではない。最も重要な役割は、逆説的に聞こえるが編集の独立性確保だ。巨大権力から攻撃されたとき、経営者が盾となって権力側と対峙し、報道内容がゆがめられることがないように編集部門を守るということである。
これまでも当コラムで何度か取り上げたように、お手本は米ワシントン・ポストの伝説的社主、故キャサリン・グラハム氏だ。ウォーターゲート事件やペンタゴンペーパー(ベトナム戦争に関する国防総省機密文書)事件ではホワイトハウスからの攻撃に屈せずに司法闘争などを続け、編集不介入を貫いたのである。
経営と編集の分離は古くて新しい問題である。朝日の慰安婦報道をめぐる騒動はこの問題を改めて見つめるきっかけになる。とりあえずは経営側と編集部門の人事交流をやめるなどで「脱サラリーマン記者」をスローガンに掲げるのがいいのではないか。
著者:牧野 洋
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